第25話 あれ、お呼びじゃなかった?

「結衣さんは今日、お父さんとお食事に行ってて……もうちょっとで帰ってくると思います。よかったら、中でコーヒーでも如何ですか?」


 思わずそう声をかけて、家の中に招いたはいいけれど、私は先日結衣さんが、お兄さんには絶対に会わせないとぶーぶー言っていたことを思い出していた。


 あのあと、損ねてしまった機嫌を取り戻すのは本当に大変だった。


 私を抱きしめたまま離してくれなくなってしまった結衣さんは、いかに雪哉さんが女性にモテるのか、ライバルも多いし好きなっても絶対に苦労する、やめておいた方がいい、などネガティブな情報ばかりを私にこんこんと説明した。


 それ、そっくりそのまま結衣さんのことじゃないですか——と言いかけたけど、早いところ機嫌を直して欲しかった私はそれを受け流して黙って聞いていた。


 そんな、悪名高い結衣さんのお兄さんが今、目の前にいる。





 リビングに入ると、雪哉さんはダイニングテーブルの椅子に腰掛けた。曰く、「ソファは結衣の特等席だから、座ると嫌がる」らしい。


 そうなんだ、知らなかった。私は気にせず結衣さんの特等席にいつも座っているけど、特に何も言われたことはない。


「雪哉さん。ブラックでいいですか?」


 キッチンから顔を出して尋ねると、彼は、うん、ありがとう、とにこにこ笑って頷いた。


 結衣さんお気に入りのブレンドコーヒーを淹れる。時計の針をチラリとみると、そろそろ九時になりそうだ。


 もう、結衣さんがいつ帰ってきても、おかしくはない。


 コーヒーを淹れつつ雪哉さんを盗み見る。染めていないのだろう黒髪は結衣さんと同じ色をしている。見た目の印象はさわやかそのもので、清潔感のかたまりって感じだ。


 おまけに身長も高い。結衣さんが高身長だから、お兄さんもそうかなとは思っていたけど。


 結衣さんがあそこまで言うだけある。確かに雪哉さんは恐ろしくモテるだろうな、と思った。


「どうぞ」


 コーヒーを、雪哉さんの前に置く。


「ありがとう。待たせてもらってごめんね、僕も結衣のスケジュールをちゃんと聞いておけばよかったんだけど」


「いえ、雪哉さんのお話は結衣さんからよく聞いていたので、お会いできて嬉しいです」


「僕も会えて嬉しいよ。結衣の言う通り、本当にかわいいね。どう、結衣とは楽しくやれてる?」


 出た、一ノ瀬の血筋。女たらしの血。


 いきなり目を見つめてかわいいと言われて、どう反応していいのかわからなくて視線を彷徨わせると、雪哉さんがふふっと笑った。


「はい、おかげさまで……結衣さんには本当にいつもよくしていただいてます」


 一回喧嘩したけど、とは言わないでおく。すると雪哉さんがコーヒーに口をつけて嬉しそうに笑った。


「仲良くやれてるんだったら、よかったよ。そういえば……父さんと結衣ってそんなに頻繁に会ってるの?」


「月に一回は食事しているみたいです。あと、会社の人も一緒、って言ってましたけど」


「会社の人……? あー、慎二か」


 ——慎二?


 すっかり忘れていたはずなのにその名前を聞いた瞬間、脳裏に蘇った記憶。


 水族館の帰りの車の中で結衣さんに着信があった。ナビに表示されたその名前は確か——北上慎二きたかみしんじ


 誰なんだろう、その人。不安そうな顔をしている私に気付いたのか、雪哉さんが笑った。


「あ、もしかして結衣から聞いてるの? 僕と父さんが仲悪いって」


「えっと……はい」


 恐ろしく察する能力が高いのも、結衣さんに似てる。兄妹ってすごいな、と思う。雪哉さんは本当に結衣さんにそっくりだ。


「……やっぱり結衣、気にしてる?」


 どうしよう。はっきりと「気にしています」と言った方が良いのか、わからずに思わず視線を泳がせてしまう。


 気にしてない、と言ったら嘘になる。お父さんとお兄さんが仲が悪いと大変だって言ってた。仲良くしてくれた方が結衣さんにとってもいいに決まってる。


 でも、結衣さんが、今まで和解をお兄さんにもお父さんにも求めてこなかった、ということは何かしらの理由があるわけで。


「……どう、ですかね。結衣さんに直接聞いてみないと、なんとも……」


 結局あいまいな返事になってしまう。これでは「気にしています」と言っているようなものだ。

 我ながら、口下手すぎる。呆れてものも言えない。


「ふふ、そっか。そうだよね。困らせちゃってごめんね」


 雪哉さんが、そう言って笑う。困らせるとわかっているなら、最初から聞かないで欲しいのに。結衣さんに、そういうところもそっくり。


 本当に、どこもかしこも似てる。


 でも——雪哉さんに見つめられても、かわいいと言われても、結衣さんに言われた時のような、心臓がキュッとなるような感覚はなかった。


 それは彼が、私に対してその気がないから、なのか。


「……結衣は昔から物分かりがよくて、全然わがままを言わない子だったんだよね。今も大して変わってないみたいだけど」


 何となくそれは想像がつく、と思った。最近の結衣さんは嫉妬したり拗ねたり、少しは感情を素直に伝えてくれるようになったけれど、今だに何を考えているのかわからないことの方が圧倒的に多い。


「あまり不満を言わないから、いつも心配なんだよ。僕は、結衣にもっともっと自由に生きて欲しいんだけど」


 に。それは、どういう意味だろう。父親に縛られなくていいという意味か。それとも。


 じっと彼の瞳を見つめ返す。その深い色の瞳からはどんな感情も読み取れなくて、こんなところまで結衣さんとそっくりだなと思った。


 雪哉さんは、知っているのだろうか。結衣さんが同性愛者だってこと。


 いくら結衣さんが大学では隠していないからと言って、家族にもそうだとは限らない。

 現に多分、結衣さんのお父さんはそれを知らないはずだし。


 なんて言葉を返したらいいかな。少しだけ迷っていると、突然、玄関から物音がして私はびくりと背筋を伸ばした。


「かなた? 誰か来てるの?」


 結衣さんが、帰ってきた。玄関にある雪哉さんの靴に気付いたらしい結衣さんの、不満そうな声がする。


 慌てて立ち上がって、廊下とリビング繋ぐドアに向かう。でも、私が開けるより早く、ドアが勢いよく開いた。


「結衣、おかえり」


 結衣さんが、びっくりしたような顔をして、中途半端な位置で突っ立っている私と雪哉さんを交互に見つめる。


「お、おかえりなさい、結衣さん……」


 状況を飲み込んだらしい結衣さんが、少しの間を置いて少しだけ不満そうな顔をする。


「……なんで、雪にぃがいるの」


「誕生日のお祝いに来たんだけど……あれ、お呼びじゃなかった?」


 雪哉さんは、テーブルの上に置いた花束を、立ち上がってそっと結衣さんに手渡す。


「二十一歳の誕生日、おめでとう」


「……ありがとう。でも、次から来る時は連絡してね」


「ごめんごめん、驚かせたかったんだよ」


 ふう、とため息をついて、それから結衣さんが安心したように笑った。よかった、一瞬結衣さんが不満そうな顔をしていたから、喧嘩が始まるかと勘繰ってしまったけど、杞憂だったようだ。


「お、ずいぶんいいものもらったね」


 雪哉さんが、結衣さんが手に下げていた淡いブルーの紙袋に気が付いて、揶揄うように言う。


 それが高級ジュエリーブランドの袋だと、私もすぐに気が付いた。


「それ父さんから……な、わけないか。慎二から?」


「誰からでもいいでしょ、雪にぃには関係ないよ」


 また、「慎二」だ。一体誰なんだろう、胸の奥がざわざわする。今日はお誕生日なのに、お父さんとの食事に、どうして会社の人がくるんだろう。


「つれないな、せっかく僕も結衣にプレゼント持ってきたのに」


「この花じゃないの?」


 結衣さんが、手に持った花束に視線を落として首を傾げる。すると、雪哉さんがジャケットの内ポケットに手を忍ばせた。


「まさか。本命はこっち」


 そう言って取り出したのはリボンがかけられた真っ白な分厚い封筒。


「じゃーん、旅行券。せっかくだから、かなたちゃんと一緒にどこか行ってきなよ」


 その厚さから察するに、かなりの枚数が入っていそうなその封筒を、結衣さんはあっさりと受け取って笑った。


「本当? 嬉しい。雪にぃ、ありがとう」


「どういたしまして。大学生活って長いようで短いから、目一杯楽しんで。じゃあ、僕はもう帰るよ。かなたちゃんも、これから改めて結衣の誕生日お祝いしてあげて」


 そう言って雪哉さんが私を見てにっこりと笑うから、こくりと頷いた。結衣さんのお誕生日を祝う準備をしていたこと、雪哉さんはまるで気付いているみたいだ。


「あ、そうそう。それと……かなたちゃん、連絡先教えてよ。万が一、今後何かあった時のために」


 そう言われて、雪哉さんがスマホを出すから釣られて私もポケットから引っ張り出す。


 チャットアプリのQRコードを表示させて、雪哉さんに見せようとした瞬間、ドサッという音と同時に、私のスマートフォンの画面を結衣さんが手のひらで掴んで止めた。


「えっ……?」


 雪哉さんと私は、二人揃って音がした足元へ視線を向ける。


 放り投げられた淡いブルーの紙袋が、足元に転がっていた。音の正体は、これが落ちた音か。


 花束と紙袋で両手が塞がっていた結衣さんが、紙袋を手放して、私のスマホを掴んだらしかった。


 雪哉さんからの花束と高級ブランドのアクセサリー、どちらかを手離す、という選択を迫られた時に、迷いなくアクセサリーを放り投げるところが、いかにも結衣さんらしい。


 にっこりと、私のスマホの画面を手のひらで隠したまま、結衣さんが笑った。


「雪にぃ、心配しなくても大丈夫。何かあったら、私から連絡するから」


 有無を言わさぬような圧のある笑顔に息を呑む。雪哉さんが、私の顔と結衣さんの顔を交互に見つめると、それからふっと優しく笑った。


「そう? じゃあ……いいか」


 結衣さんが放り投げた紙袋を、雪哉さんが拾って、ソファの端っこにそっとおく。


「プレゼントに罪はないんだからさ、大事にしてあげなよ。高かっただろうに、あんまり冷たくすると、慎二が泣くよ?」


 不安げにそわそわしていた私に気付いてか、雪哉さんが私を振り向く。


「あぁ、かなたちゃんは会ったことないかな? 慎二っていうのは……」


「雪にぃの幼馴染で、お父さんの会社の、専務の息子」


 雪哉さんの言葉を遮るように、結衣さんがため息と共にそう言った。


「もういいでしょ……誕生日まで、慎二の話したくない」


 嫌そうに結衣さんが吐き捨てると、雪哉さんが、確かに僕も嫌だ、と笑った。兄妹そろって、その「北上慎二」という男性とは相性が悪いみたいだ。


「じゃあ、本当にもう帰るよ。またね、結衣、かなたちゃん」


 コーヒーを一杯飲んだだけで特に長居もせず、雪哉さんは行ってしまった。


 忙しい合間を縫って来てくれたのだろうし、結衣さんはちょっと不満そうな顔も見せたけど、やっぱりどこか嬉しそうだった。

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