第24話 ずっと追いつけないままの方が幸せだよ
思えば、こんなに真剣に誰かの誕生日を祝いたいと思ったのは初めてかもしれない。
恋人でもない。友達——とも違う。結衣さんと私の関係は、とてもひとことでは言い表せない。
父親が友人同士で。同じ大学で同じ学部の先輩後輩。傍目からみれば、一つ屋根の下で生活しているだけの関係。
私が大学を卒業するまでの四年の間に、日本に私の家族が戻って来たりでもしないかぎり、この同居生活は続いて行く。
今、結衣さんは大学三年生で、卒業までは一年とちょっとしかない。そう考えると、少しだけ寂しく感じたりもする。
キッチンに立ったまま、グラスの中でマドラーと氷がぶつかる音を聴きながら、その透き通った金色を見つめていた。
卒業したら、結衣さんはお父さんが経営する会社に入社することが決まっている。
就活はしなくていいにしたって、入社してからは忙しくなるだろうし、今みたいに構ってもらえる時間も減るかもしれない。
ぼーっとしていたら突然、ハイボールを混ぜる手を上から被せるように掴まれて、はっと我に返る。
「……かなた、そんなに掻き混ぜたら炭酸抜けちゃうよ」
いつの間にかキッチンに来ていた結衣さんが、半分笑いながら言う。慌てて壁掛け時計に視線を向けると、時計の針はもうちょっとで、てっぺんを指すところだった。
今日は九日の夜。明日は結衣さんの誕生日。誕生日のお祝いはもちろん明日の夜にする予定だけど、日付が変わるまでリビングにいて欲しいとお願いしたのは私だった。
誰よりも先に、結衣さんにおめでとうと言いたかったから。
「考え事してました、すみません」
ここに居て欲しいと言ったのは自分なのに、この体たらく。時間も忘れて考え込んでしまったこと、少し反省する。
「どうしたの、何かあった?」
優しく問われて、彼女の指先がそっと、私の髪を耳にかけてくれる。
掻き混ぜすぎて美味しくなくなってしまったハイボールに文句も言わずに「作ってくれてありがとう」と言ってくれるから、その優しい瞳がずっと私だけに向けられていることを願わずにはいられない。
「何でもないんです、ただ……」
「うん?」
「結衣さんが、二十一歳になっちゃうのが寂しくて」
結衣さんが年上の女性と付き合っていたこと、正直に言うと私は少し気にしている。
私を特別だの好きだの言っておいて、過去に付き合っていたのが結衣さんよりも年上の女性だったなんて想定外だった。
自惚れかもしれないけど、てっきり、結衣さんは年下が好きなのだとばかり思っていた。
「歳の差って厄介ですよね。ずっと追いつけないから」
「そう? ……追いついちゃうのも、寂しいよ。ずっと追いつけないままの方が幸せだよ」
結衣さんが、ふっと寂しそうに笑う。何を言おうとしているのか、すぐにはその言葉の意味がわからなかった。
そのどこまでも深い、夜の海みたいな瞳を見つめ返して、遅れてその言葉の本当の意味に気づく。
まもなく、時計の長い針と短い針が、重なろうとしていた。
そっか。結衣さんはお母さんを若くして亡くしているから。亡くなった人は歳を取らない。歳の差はずっと、縮まる一方だ。
そう遠くない将来、彼女は自分の母親の年齢に追いつくだろう。その時、結衣さんはどう感じるだろうか。
もし結衣さんがそれを寂しく思うなら、その時、他の誰でもなく私が、彼女のそばにいたいと思った。
カチ、という時計の針の音と同時に、結衣さんの肩口に擦り寄るように身を寄せる。
「……結衣さん、お誕生日おめでとうございます」
少し遅れて、コーヒーテーブルに置きっぱなしだったのであろう結衣さんのスマートフォンが何度も震える音がする。
相変わらずのモテっぷりだな、と思わず苦笑いする。
一緒に住んでいてよかった。誰よりも早く伝えられたことにちょっぴり優越感。
今、私だけが結衣さんをひとりじめしている。
「ありがと」
腕がそっと腰に回って、抱きしめられる。ぴったり身体が密着すると、結衣さんがふふっと笑ったのがわかった。
「あーあ、かなたの誕生日も、お祝いしてあげたかったな」
「もうすぐですよ、四月なんて」
そう、四月なんてきっとあっという間だ。
結衣さんと暮らしてから、もう半年の月日が経った。それは結衣さんとの同居生活の八分の一の期間が過ぎたことを意味する。
結衣さんは恋人を作らない。もしもその主義を貫いてくれるなら、少なくとも残り三回の誕生日の一番乗りは私だけのものだ。
それでいい。関係に名前をつけなくたって、今彼女は確かに、私のそばにいる。
それ以上、私は結衣さんに何を求めたらいいんだろう。私の心はずっと、迷ってばかりいる。
明日は行きつけのケーキ屋さんでショートケーキを二つ買って、結衣さんを待とう。
お腹いっぱいの結衣さんがそれを食べれるかどうかはわからないけど、私は口下手だから、できる限り、形として彼女に気持ちを伝えたいと思った。
***
翌日。大学は休みなので、結衣さんは午後から出かける用意を始めた。
お父さんとの食事会のはずなのにどこか気乗りしなさそうな顔をしていたのが少しだけ気がかりだったけど、深くは追求しなかった。
「じゃあ、九時には帰ってくるから」
腕時計をしながら結衣さんが言うので、ソファの上でシャチを抱きしめながら黙って頷くと、結衣さんが笑って私の顔を覗き込む。
「もしかして……拗ねてる?」
結衣さんが面白そうにそう指摘してくるから、それが私は面白くない。
「別に、拗ねてなんか……」
「出来るだけ早く帰ってくるね」
私の意地っ張りなところなんてお見通しだと言うみたいに私の頭を優しく撫でたあと、結衣さんは行ってしまった。
そこはキスするんじゃないんだ、と家主がいないソファで、拗ねたようにブラブラと足を遊ばせる。
静まり返った広い家。結衣さんは、こんな広い家で暮らしてきたんだ——ずっとひとりで。
結衣さんが映画を好む理由が、なんとなくわかった気がした。
夕方、律さんが約束通りシャンパンを持って現れた。ありがたく受け取ったのはいいけど、肝心のお代は受け取ってくれなくて。
どうやらプレゼントは鮭とばだけじゃなかったらしい。昨日私もちょっとだけご馳走になったけど、すごく美味しかったから本気で結衣さんへのプレゼントはそれだけなのかと思ってた。
もう少しお話ししたかったのに、用事があるからって律さんはさっさと帰ってしまったから、また一人ぼっちで夜を待つ。
まだかな。早く帰って来ないかな。
考えれば考えるほど待ち遠しい。行きつけのケーキ屋で買った二つのショートケーキは今か今かとその時を待っている。
家の中をうろうろしたり、普段ならしない家の掃除をしてみたり、家中のグラスを片っ端から磨いたりして時間を潰した。
夕飯は、配達アプリで簡単なものを頼んだ。一人で食べる食事なんてこんなものだ。食後にソファでごろごろしていたら、気付けば私は眠りに落ちてしまっていた。
ピンポーン、とインターフォンを鳴らす音で目が覚める。思わず時計を見る。まだ九時にはなっていなかった。約束どおり、本当に早く帰ってきてくれたらしい。
眠たい目を擦って起き上がる。結衣さん、鍵忘れたのかな。しっかりした人なのに珍しいこともあるものだ。そういえば、いつもとは違うバッグを持って行ったことを思い出す。
ソファの下に脱ぎ捨てているであろうスリッパも履かずに、ペタペタと廊下を走った。
はやる気持ちを押し殺しながらも、慌てて鍵を回して勢いよくドアを開ける。
「結衣さん、お帰りなさ……」
ドアの目の前に立っていた、長身の男性と目が合った。手には大きな花束を抱えている。
勢いよくドアが開いたせいか驚いた顔をしたその人の、瞳の色を私は知っている。
深い深い、夜の海みたいな、優しいその黒い瞳。整った顔に、よく知る面影が重なる。
この人、まさか——。
「あれ、もしかして……結衣、出かけてる?」
突然そう言われて、自己紹介をする前に反射で頷く。
「予定聞いとけばよかった、失敗したなぁ。あ、君がかなたちゃん……だよね?」
「……あ、えっと、はい、初めまして……」
「初めまして。結衣の兄の、一ノ瀬雪哉です」
にっこり笑うその表情に、既視感を感じる。あぁ、やっぱり、と思った。
勘違いなわけがない。
その笑顔が、とてもよく似ている。
本物の、結衣さんのお兄さんがそこに立っていた。
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