第22話 自分の舌なのに、どうやって舐めるの?

 自分の部屋に結衣さんを入れたことはあるけれど、結衣さんの部屋に私が入るのは、初めてだ。


 少しだけ緊張しつつ、彼女の高い背を追う。


「卒アル開くのなんて、卒業以来かも」


 ドアの向こうに踏み入れると、柔らかな彼女の匂いがして、胸一杯吸い込んだ。


 部屋の中には大きなベッドがひとつと机があって、想像と違わずシンプルに整頓されている部屋だ。


 クローゼットを開けて、結衣さんが手を伸ばす。青くて分厚い表紙のそれを手に取ると、座って良いよ、と私をベッドに座るように促した。その隣に結衣さんも腰をかける。


 その青い表紙には、有名なお嬢様大学の、附属高校の名前が金文字で印字されている。


 内部進学することを想定して入学しているはずなのに、なぜ国立大学を受け直したんだろう。地頭がいい人だけど、勉強熱心なタイプとは思えないのに。


 固い表紙を開く。


「……卒アルなんかみて、楽しい?」


「楽しいですよ。結衣さん、何組だったんですか?」


「えーっと、三年生の時は、二組だったかな」


 該当のページを探してめくる。四十人ほどいる女の子の顔写真の中で、結衣さんはすぐに見つかった。


「わぁ、可愛い! でもやっぱりちょっとやんちゃそう……」


 お嬢様学校なはずなのに、一人だけピアスをしている美少女が写っている。顔立ちの整い方や垢抜け方が周りから突出していたからすぐにわかった。


「成績は悪くなかったから、特に何も言われなかったけどな」


 結衣さんの他の女の子たちを一人ずつ見る。結衣さんが好きそうな、猫顔の、かわいい子を探していく。


 さすがに育ちのいい子たちが通う学校なだけあって、清楚でみんな可愛い。視線を滑らせて行くたびに、少しずつ自信がなくなっていく。


「……なにをそんな熱心に見てるの?」


「結衣さん、この中に、好きだった子いますか?」


 隣に座る結衣さんの目をじっと見つめる。教えてくれるかはわからないし、誤魔化されるかもしれないと思ったけれど、聞かずにはいられなかった。


「……いないけど」


「じゃあ、元カノって何組だったんですか……?」


 そこまで聞くと、結衣さんが私の真意に気付いたのかふっと、おかしそうに笑った。


「本当の目的はそれ? 私の元カノが見たかったの?」


 顔を覗き込んでそう聞かれて、少しだけ気まずくなって視線をそらす。


「もったいぶらないで、教えてくださいよ」


「残念だけど、この中にはいないよ」


「ふーん……。じゃあ、同級生じゃないんだ。先輩ですか? 後輩ですか? 結衣さんの元カノって、どんな人……?」


 目的の人がいないのならと、卒業アルバムをぱたんと閉じる。結衣さんが、困ったように笑った。話したくないのはわかってる。だから、ただ黙ってじっと、その答えを待った。


「うーん……それ、言わなきゃダメ?」


「じゃあ、私の元彼の話もしますから、教えてくださいよ」


「え、やだよ。私、かなたの元彼の話なんて聞きたくないんだけど」


 結衣さんが即答したから、思わず笑う。そっと手を伸ばして、結衣さんの手を握った。こういうときに、役立つ術を私は知っている。


「ねえ結衣さん、おねがい。教えてください」


 結衣さんは優しいから、女性のおねだりに弱い。あざといかもしれないけれど、どうしても知りたかった。


「えぇ……。そんなこと聞いてどうするの?」


「知りたいんですよ、ね、結衣さん」


 そう言えば、結衣さんは仕方ないなぁ、とため息をつく。


「大学生だったんだよ。四つ上で、高一から高三まで、付き合ってた」


 大学生? 四つ上? ってことは、十六歳の結衣さんが付き合ってたのは、二十歳の女性?


「……犯罪」


「絶対そう言うと思った。だから言いたくなかったのに」


「そんな人と、一体どこで知り合うんですか?」


「いや、家庭教師だったから……」


「結衣さん、先生に手を出したってことですか?」


「……そこは、相手が生徒に手を出した、って言うべきじゃない?」


「だって、どうせ結衣さんから迫ったんでしょ?」


「もう何とでも言ってよ……」


 結衣さんが、気まずそうに視線をそらす。余程言いたくなかったのか、はぁ、と肩を落としてため息をついた。


「結衣さんって、年上が好きだったんですか……」


 年齢は、どう足掻いても越えられない壁。私は彼女より二つも下だし、結衣さんの元カノと比べたら六つも下だ。


「年齢は別に気にしたことないけど」


「そうですか……」


 でも、女子高生が同性の家庭教師と付き合ってた、なんて中々聞かない話だ。結衣さんがここまで言い渋っていたということは、今まで誰にも言ってなかったんだろう。彼女に迷惑をかけないように。


「今、何してるんですか、元カノは」


「辞めてなければ、学校の先生じゃないかな。別れたの卒業の直前だったし、それ以降は連絡取ってないしわかんないよ」


 以前、結衣さんは「自分がフラれた」と言っていた。原因は自分にある、とも。


 高校を卒業して、晴れて大学生になれば、秘められた関係から解放されるはずだったにも関わらず、なぜ別れたんだろう。


 聞けば聞くほど、本当にわからない。


 今まで結衣さんと一緒に暮らしてきたからわかるけど、結衣さんは恋人にするなら完璧な人だと思うのに。……女癖の悪さは、さておき。


「……まだ、気になったりします?」


「まさか。もう何年も前の話だよ」


「どうして、別れたんですか?」


「んー……知りたい?」


「知りたい、です。もっと、結衣さんのこと」


 そう言えば、結衣さんが優しく笑った。突然、彼女の腕が伸びて、私の頬に触れる。


「……そのうち、話してあげる。今日はこの話はおしまい」


 深い黒の瞳が私を窘める。これ以上は、踏み込まないでと言われた気がした。


 引かれた線の向こう側に、今すぐに飛び込みたいのにそれを彼女は許さない。


 私のこと好きって言うくせに。可愛いって言うくせに。不満で、少しだけ唇をとがらせて俯く。


「……じゃあ、最後にひとつだけ質問。私より、可愛かったですか、その子」


 ふふっ、と結衣さんが笑う声がした。なんで笑うんですか、と文句を言おうと顔をあげる。私を見つめるその瞳は穏やかで、凪いでいるはずなのに、私の心をかき乱して仕方ない。


「そんなことないよ、かなたの方がかわいい」


 頬に触れた手が、首の後ろに滑る。逃げないように固定されてしまったことに気付いたけど、そのまま顔が近づいて、自然と唇が重なった。


 軽く、触れるだけのそれは一瞬で、至近距離で目が合うと、結衣さんは目を細めて笑った。


「……なんで、キスするんですか?」


「かわいいなって思ったら、キスしたくなるのって当たり前の感情じゃない?」


 そう、なのかな。わからない。でも、結衣さんの部屋で、彼女のベッドの上で、こんなことをされてしまったら少しだけ意識してしまう。


「……その理屈で言ったら、いつもは私のこと、かわいいと思ってないってことになりません?」


 ここ最近なんか、特に。結衣さんに噛み付いてしまってから、もう半月は立つ。でも、あれから一度もキスされなかった。

 めんどくさいことを言ってしまった自覚はある。


「いつもキスしたいって思ってるよ。我慢してるだけ。最近は、誰かさんに噛まれた舌が痛くて」


 まっすぐに私を見つめてくる黒い瞳には意地の悪い色が浮かんでいる。結衣さんは、優しいんだけどたまにすごく意地悪だ。


「……ちょっと切れただけじゃないですか。あんな傷、たいしたことないです。口の中の傷なんて、舐めてればすぐに治りますよ」


 本当は、すごく悪いと思ってる。だからこれは照れ隠しだ。怪我させてしまったことに関しては、ちゃんと謝ったし、多少の口答えぐらい許して欲しい。


「自分の舌なのに、どうやって舐めるの? そこまで言うなら、かなたが舐めてよ」


 舐めるって、何を? 結衣さんの、舌を? とんでもないことを言われて、唖然とする。


「……とっくに治ってますよね?」


「ううん、まだ痛い」


 私の肩に、触れた手に力が入る。体重をかけられた身体はあっさりと倒れ、彼女の匂いがするベッドに呆気なく沈む。


「ちょ、っと、結衣さん……!」


 半月前の傷が治ってないわけないでしょう、と言いかけて、想像以上に近い距離に思わずごくりと生唾を飲んだ。


 心臓が、ドクドクと急速に鼓動を速める。押し倒されて、目の前に、彼女のネックレスが揺れた。あの夢と同じだ。なんでこんなときに思い出してしまったんだろう。


 途端に顔が熱くなってくる。


 触れた手が、頬を優しくなぞって、親指が私の唇に触れる。静まりかえった室内で、布ずれの音だけが響いた。


 呼吸が早くなって、私の胸が上下する。緊張していることにどうか気付かないで、と結衣さんを見上げると、愛おしそうな瞳が私を見つめていた。そう感じてしまうのは、私の勘違い、なんだろうか。


 こんな眼差しで見つめられると、拒否することができなくなる。


「……噛まないでね」


 親指が、少しだけ私の唇を割って口の中に入る。それから、顔が近づいた。


 付き合ってないのに、こんなことしちゃいけない。また心がめちゃくちゃになるってわかってる。


 拒否しなきゃいけないのに、私の手は彼女のニットを掴むことしかできない。これでは縋り付いているのと何も変わらない。


 空いた口の隙間から、親指が抜けた代わりに彼女の甘い舌がぬるりと忍び込んでくる。


「ん、ん……」


 柔らかな舌が絡んで擦れ合った瞬間、意識せずに腰が浮いた。頭がぼうっとしてくる。なんでだろう、キスは初めてじゃないのに、言葉にできない感情が次から次へと波のように押し寄せてくる。


 濡れた音が、静まりかえった部屋に響く。苦しくて押し返そうとした舌を吸われて、もうだめだ、と思った。


 息が苦しい。どうにかなりそうだ。なけなしの理性で彼女の肩を押す。すると、彼女は最後に私の唇を舐めたあと、あっさりと離れた。


「……な、ながい、です。死ぬかと……思った」


 肩で息をして、必死に肺に空気を送り込む。結衣さんは親指で私の濡れた唇を拭って、満足そうに笑った。


「ありがと、かなたのお陰で傷、治ったみたい」


 そう言って、傷ひとつないその舌を出して見せた結衣さんの肩を、思い切り叩いた。


 またキスされないように、腕で口元を隠してじっと結衣さんを見上げる。


「……キスしたかっただけのくせに」


 そう言い返すと、結衣さんが笑う。彼女はこれ以上する気がないみたいだったから、少しだけ安心して、上体を起こした。


 なんだか、上手く誤魔化された気がする。結衣さんって、いつもこうだ。はぁ、とため息をつく。


「……もういいです。元カノのことも、終わった話だし……」


「そうそう。それに今は、かなたのことが一番好きだよ。それじゃだめ?」


 そんなのだめです、と言いかけた口を噤む。言い返したってきりがない。結衣さんに、口では絶対に勝てないってもう、わかっているから。


「……誕生日プレゼントだけ、何欲しいか考えていてくださいね?」


「あー、うん、欲しいもの決まったよ」


「え、なんですか?」


「当日の夜に言うから、何も用意しなくていいよ」


「なんで当日……?」


 当日に言われてしまったら、その日のうちにプレゼントできないじゃないか、と思う。不思議に思って首を傾げると、いいから、と結衣さんが諭すように言うから渋々頷く。


「その日食事会があるから、帰りは九時くらいになると思う。だから、家で待っててよ」


「わかりました……」


 いまいち何を企んでるのかよくわからないな、と思う。さ、戻ろっか、と結衣さんが立ち上がるから、私も続けて立ち上がった。


 ああ、もうちょっと結衣さんの部屋でくっついていたかったな、なんて気持ちを押し殺してリビングへ向かう。


 まあでも、ソファの上だってくっつけるし、別にいいか。


 結衣さんがそこにいるなら、場所なんてどこでも構わない。

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