第20話 今日は……行かないで

「青澤、彼氏いるって本当!?」


 閉店後の喫茶店。カウンターを拭いていると、突然早川くんが顔を真っ青にして私のもとに詰め寄ってくる。


 何を急に。そんな根も葉もない噂が、一体どこから流れたんだろう。やけに近い距離に驚いてたじろぐと、店の奥から今日シフトに入っていた天崎さんまでひょっこりと顔を出した。


「え、なになに? 詳しく聞きたーい!」


 小柄な彼女がぴょこぴょこと駆け寄ってくる。私は閉店業務を終わらせて早く帰りたいのに、これは嫌な流れになってしまった。


「マスターが、青澤さんの恋人はお金持ちなんだねって言ってたんだけど、たまに店の近くに停まってるLSって、青澤の彼氏のだったの?」


「えるえす……って、なんですか?」


「黒のレクサス!」


 そんなに強く詰め寄らなくても。でも、そう言われてやっとピンと来た。どうやら、早川くんが言っているのは結衣さんの車のことらしい。


「……あれは、結衣さんの車ですよ。彼氏なんていません」


「え……あの人そんなに金持ちなの?」


 動物園に行った帰りに早川くんが家まで送ってくれた時、ガレージのシャッターは降りていた。だから彼は結衣さんが何の車に乗っているのか、知らなかったのか。


「でも、そ、そっか……よかった」


 ほっとしたように早川くんが胸を撫で下ろす。夏休み期間中私はイギリスに帰っていたし、いろいろあったからすっかり忘れていたけど、早川くんってまだ私のことを好きだったのか。


 マスターは、私が彼女の車に乗り込んだのを見ていたんだろう。両親は海外にいると知っているから、迎えに来たのが彼氏だと勘違いしたに違いない。


 でも、あの車ってそんなに高い車だったのか。高級車だと言う事は知っていたけど、国産車だって言ってたから、ひと目見ただけでお金持ちとわかるような車だとは思っていなかった。


 そもそも、あれは結衣さんのお兄さんが買った車だし。


「結衣さんって、前に来てた、超美人の先輩のこと? そんなにお金持ちの人だったんだね」


「天崎も会ったことあるんだ」


「うん。前に一回お店に来てた。青澤さんが次は直接話しかけていいって言うからさ、お店に来てくれるのずっと待ってたのに、全然来てくれないんだもん」


「基本的には車で迎えに来てもらうから、お店の中に入らないだけですよ」


 ここには駐車場なんてないし。別に意図的に店内に入れたくなかったわけではない。

 むしろあの時が特別だっただけだ。結衣さんが食事会に行った帰りだったから、車じゃなかっただけ。


「もしかして、今日も来てる?」


「……今日は予定があるって言ってたから、迎えは頼んでません」


「じゃあ今度また連れてきてよ。私もお友達になりたい」


 天崎さんが猫みたいな目をニンマリと細める。その顔を見て、はっとした。


 天崎さんは、猫に似てる。小柄で、目がまん丸くて、八重歯がそれっぽい。


 そういえば、律さんが——結衣さんは、みたいな子が好きだって言ってたっけ。


 もしかしてこの子、結衣さんのタイプなんじゃ……。


「……そうですね、また今度」


 にっこり笑ってそうは言ったものの、天崎さんのシフトの日には、絶対にかぶらないようにしようと固く胸に誓ったのだった。


 私の友達にはさすがに手を出さないと言っていたけど、本当かどうかはわからない。私にキスまでしたくせに、目の前で別の子を口説かれた日には、彼女の頬を思い切り張り飛ばす自信しかなかった。









「待って青澤、家まで送ってく」


 裏口から出たところで、早川くんに呼び止められて振り向く。


 家までは二駅だし、駅からは歩いてすぐだし、送ってもらうような距離じゃない。それに。


「……早川くんの家、反対方向ですよね?」


 そう言うと、気まずそうに彼はガシガシと頭を掻いた。


「そういうの、わかってても言うなよ。カッコつかないだろ」


「一人で帰れますから、大丈夫ですよ」


 結衣さんが来れない日は、いつもそうしてるし。


「そうじゃなくて……。もっと話がしたいの、俺は」


 結衣さんに言われた言葉が脳裏に蘇る。


——かなたは、押しに弱すぎ。


 そんなのわかってる。でも、こんな風に言われて断るのってすごく難しくないだろうか。


 だってこれを断ってしまったら、「私はあなたとは話したくないです」って言うことと同義だ。


 付き合ってと言われたらごめんなさいと言えるのに、こういう変化球は本当に苦手だ。


 まあ、たった二駅だし、わかりましたと頷くと、早川くんが嬉しそうに笑った。








 駅から、家までを二人並んで歩く。前に男性は歩くのが速いなと思ってたのに、今日はびっくりするほどゆっくり歩くから調子が狂う。


 テンポが合わないんだよな、と思う。今までの彼には多分、私が合わせてたはずなのに。合わせることが苦痛になってきた。


 結衣さんを知れば知るほど他の人では満足できなくなる。これも全部結衣さんに甘やかされた結果だ。


「青澤っていつも、週末何してる?」


「週末ですか? えっと、友達と遊んだり、映画みたり……あ、この間は花火を見に行きましたね」


「だ、誰と?」


「結衣さんとですけど……」


「なんだ、そっか。俺も誘えばよかったな。青澤、帰省しちゃってたから全然会えなかったし」


 誘われなくてよかったかも、とちょっとだけ安堵する。


 この微妙な関係性を早く終わらせたい。早川くんはいい人だ。優しいし、真面目で素直で、人がいい。


 でも、きっと私はあなたのことを好きになることはない。


 このままずるずると曖昧な関係を続けて行ってもお互いの時間を消耗していくだけだと思う。



 玄関のドアの前まで辿り着く。ここから彼はまた家まで引き返すのか、大変だなとひとごとみたいに思った。


 彼を振り向く。私とそんなに一緒にいたいんだろうか。どうして? そこまでする価値が自分にあるとは思えない。


「……早川くんは、私の何が好きなんですか?」


 聞けば、途端にみるみる顔が赤くなるから、あれ、聞いちゃいけないこと聞いたかなと思った。


 口の上手い結衣さんだったら、こんな初心な反応はしない。早川くんってわかりやすい。


「……何って……」


「返事はいらないって言ってましたけど、好きなら、付き合いたいとは、思わないんですか?」


 結衣さんに聞きたいことを、早川くんに聞いたって仕方ないのに。別の人間に聞いたところでそこに答えがあるわけじゃない。


 結衣さんのことは結衣さんに聞かなきゃわからないって、わかってる。


 でも、少しでも答えに近づきたかった。


「そりゃ、思うよ。……でも、青澤の気持ちが俺に向いてないのもちゃんとわかってる。フラれたらそこで終わりだろ? 青澤のこと、諦めたくないから」


 私が男性とセックスするのが苦手だって知っても、早川くんは私と付き合いたいと思うだろうか?


「時間がかかっても、振り向いてくれるまで頑張らせて」



 そう彼が言った瞬間、タイミング悪く玄関のドアが開いた。


 私が開けたわけじゃないとすれば、このドアを内側から開けることができる人は一人しかいない。


「……あれ、かなた……と、早川くん?」


 心臓がぎゅうっと縮まる。


 結衣さん、用事があるって言ってたけど、今から出かけるってことは飲みに行くってことだったのかな。


 早川くんには家まで送ってもらっただけで、別に何か隠さないといけないようなやましいことは何もない。


 それでも、なぜだろう。彼と二人でいるところを、見られたくなかった。


 結衣さんがにっこり笑う。


「早川くん、久しぶり。上がっていくの?」


 何てこと言うんだ、家で二人きりにする気!? 慌てて結衣さんを振り向くと、早川くんが先に口を開いた。


「い、いえ! 青澤のこと送ってきただけなので、もう帰ります。それじゃ失礼します」


 お礼を言う暇も与えずにそそくさと立ち去ってしまった早川くんの背を見つめる。


 ああ、誠実な人でよかった、と胸を撫で下ろした。


「……かなた、バイトだって言ってなかったっけ? デートだったの?」


 するりと大きな玄関に身体を滑らせて、一度パタンとドアを閉めた。結衣さんの横を通り過ぎて靴を脱いで家に上がる。


「バイトですよ。送るって言われて、仕方なく……」


「ふーん……」


 ドアに背を預けて、結衣さんはじっと私を見つめる。


「結衣さん、早川くんにああいうこと言わないでくださいよ。本当に上がって行くって言われたら……」


「……その気がないなら、早く断ればいいのに。可哀想だよ」


 あっさり言うけど、そんな簡単な話ではない。私だって早く断りたい。でもあんな言い方されてしまったら、私には早川くんを傷付けずに断る方法なんて思い浮かばない。


「……結衣さんには言われたくない。それに今日、飲みに行くなんて聞いてないんですけど」


「え? いや、今日は……」


 突然彼女のスマホが鳴る。ポケットから引っ張り出したその着信画面に女性の名前が浮かんでいるのを見てしまった。


 すぐに電話には出ず、消音ボタンを押したところを見ると、飲みに行くわけじゃなくて女の子に誘われているんだと気が付いた。


「もう行かなきゃ」


 誤魔化すようにそう言うから、面白くない。


「……今日、泊まるんですか?」


 こんな夜は何回もあった。その度に黙って彼女を見送った。


 日に日にそれが、耐えられなくなりつつある。


 わかってる。たかがキスを何回かしたぐらいの女に、こんなことを言われるのなんて面倒だってことぐらい。


 そんな女性を彼女は、好まないってこともわかってる。


「……どうしたの? もしかして早川くんと何かあった?」


 機嫌の悪い私に気付いたのか、結衣さんが突如心配したように私に歩み寄る。

 俯いてしまった頬を撫でて、優しく顔を覗き込んでくる。


 早川くんとは、何もない。逃げるように顔を逸らすと、結衣さんが困ったように小さくふうとため息をついた。


「別になにもないです。それにもう、行かなきゃいけないんじゃないんですか……」


「そうなんだけど……。早川くんじゃないとしたら、私が原因?」


 いつだって結衣さんは私の機嫌を取ってくれる。


 ふと、思う。


 私のこと、特別なんですよね。じゃあそれってどれくらい特別なの。


 例えばあなたが今夜、愛を囁いて抱きしめるつもりのその子と私を天秤にかけた時、私を選んでくれないなら、それは「特別」とは言えないんじゃないですか。


 腕が彼女に伸びるのを、止められなかった。揺れ動く気持ちが指先に現れるみたいに、不安げにきゅっと彼女の服をひっぱる。


「今日は……行かないで」


「……………………」


 俯いてしまったから、結衣さんがどんな顔をしているかはわからない。ただ、いつもだったら揶揄ってくるはずの結衣さんが、何も言わなかった。しばしの、沈黙。


 結衣さんが深く呼吸をしたのがわかった。


「かなたは……私が他の子と遊ぶのが、いやってこと?」


「だって、行ったら、結衣さん帰ってこないでしょ」


 また、結衣さんのスマホが鳴る。その向こうで、誰かが結衣さんを待ってる。


 渡したくない、と思った。


「……かなたは、私のこと好きなの?」


 直接的に聞かれたのは、初めてだった。

 

 ずるい人だ。自分は好きという言葉にいろんな意味を含ませて言うくせに。

 結衣さんは私に、「恋愛対象として好きかどうか」を平然と聞いてくる。


 そんなこと、聞かれたって困る。


「……わかりません。でも、行ってほしくない」


 俯いたまま、苦し紛れにそう言った。事実だった。だってあなたが私をおかしくした。


 結衣さんに出会わなければ、私は、きっと一生女の人の唇の柔らかさなんて知らなかった。


「わかんない……。わかんないかぁ」


 結衣さんが、ため息と同時にそう言った。一度履いた靴を脱ぎ捨てて、距離を詰めてくる。


 どうしよう、怒っちゃったかな。


 身長の高い彼女は、私が俯いてしまうと表情が見えない。


「……素直に好きって言いなよ」


 そっと、彼女の手が俯いた私の顎を持ち上げた。真っ直ぐに私を見つめるその瞳は、今まで見たことないような切羽詰まった色をしていた。


「……言って」


「私は——」


 言えと、迫ったのは結衣さんなのに、その言葉を遮るように唇を押し付けられる。


 驚いて身を固めて、逃げ出そうと身体を引くも、腰に腕を回されてさらに強く引き寄せられる。


「んん……!」


 花火を見た日にしたみたいな、触れ合うような優しいキスじゃない。

 息をしようと薄く開いた唇の隙間から、ぬるりと何かが口の中に入ってくる。


 私の舌と柔らかく擦れ合った瞬間、それが彼女の舌だと遅れて理解した。


 身体中に電気が走ったように震えて、腰が抜けそうになる。


 頭が、真っ白になって、そして——。


「い、った……!!!」


 弾けるように顔を離した結衣さんが、私の身体を急に離すから思わずよろけた。


 自分でも今、彼女に何をしたのか、わからなかった。


 窺い見ると、結衣さんが、口を手のひらで押さえている。

 非難するようにじとりと私を見つめる瞳はちょっとだけ涙目になっていた。


「噛むことないじゃん……!」


「だ、だって結衣さんがっ」


 噛み付かれるとは思っていなかったのか、結衣さんは綺麗な眉を寄せて複雑そうな顔をしている。相当痛かったのだろう。


 びっくりして、思わず噛んでしまった。申し訳ないという気持ちがじわじわと込み上げてくる。


「……血の味がする」


「あの……大丈夫ですか?」


「大丈夫そうに見える?」


 結衣さんが、べ、と舌を出す。私は思わずうわぁと眉を寄せた。


「……怪我させちゃったことは、ごめんなさい。でも、今のは結衣さんが悪い」


「……口、ゆすいでくる」


 血の味が嫌なのか眉を寄せたまま、結衣さんが私の横を通り過ぎる。


「ゆすいだら、行っちゃうんですか、やっぱり」


 呟くそうにそういうと、結衣さんがふう、とため息をついた。


「……行かないよ」


「本当に?」


「行かないでって言ったの、かなたでしょ」


 洗面所に向かう彼女の背を見送って、リビングのソファに座る。クッションを抱きしめると、じわりと涙が溢れてきた。


 何がしたいんだろう、わたしは。


 わがままなのは自覚しているし、結衣さんを引き留める権利なんてないってこと、自分が一番わかってる。

 

 めんどくさいのも知ってる。それを彼女が嫌うってことだってもちろん理解してる。


 ぐす、と鼻を啜ったところで、結衣さんがリビングに戻ってきた。


 そんな私を見るなり、結衣さんはまた小さくため息をついて、私とソファの間に入り込んで後ろからぎゅっと私を抱きしめた。


「泣かないで、かなた」


「……怒ってますか?」


「怒ってないよ」


 そっと耳元で優しい声がする。


「……今日は一緒に映画でも見る?」


 こくりと頷くと、結衣さんはリモコンを手に取ってNetflixのボタンを押した。





 もう間もなく夏が終わる。時が経つにつれ結衣さんに対する気持ちは大きく膨らんでいくばかりだ。


 私だって馬鹿じゃない。自分が彼女に惹かれてるってことぐらい、もうとっくにわかってる。


 心がそう叫んでも、理性が邪魔をしてすんなりそれを受け入れることができない。



 だって結衣さんを好きだと認めてしまったら、きっとそれはどうしようもないほどに苦しい恋になると、わかっているから。

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