第19話 私のこと、一体どうしたいんですか

 暗闇の中、じっと私を見下ろす黒い瞳。彼女が私にのしかかるから、ぎしりと高級なベッドのスプリングが鳴いた。


 押し倒されて両腕の中に閉じ込められているのに、こんな状況でも私は彼女から目を離せない。


 目の前に一粒ダイヤのネックレスが揺れて、あぁ、白い鎖骨が綺麗だな、と思った。


「……かなた」


 私を呼ぶ、結衣さんの声がする。


 いっそ身を任せてしまえたら楽なのに、あれこれ考え込む私の性格が邪魔をする。


 やっぱり、怖い。男性とセックスするのも苦手だって言うのに、同性となんて、もっと怖い。


 結衣さんの馬鹿。なんでこんなことするの? キス以上のことはしないって、言ったじゃないですか。嘘つき。


 そう言いたいのに、なぜか言葉が出てこない。彼女の深い色の瞳に見つめられると私は、蛇に睨まれた蛙みたいに、動けなくなる。


 そっと顔が近づいて、観念して目を閉じた。それから彼女の唇が私の——。










「うわぁあっ!!!」


 ガバッと、慌てて飛び起きた、朝。


 とんでもない夢を見てしまった。やけにリアルで、生々しくて、手のひらを胸に当てるとまだ心臓がバクバクと脈打っている。


 背中にじんわりと汗をかいていて、目を覚ますように慌てて左右に首を振った。


 思わず隣に視線を向ける。私にこんな夢を見させた張本人は、すやすやと寝息を立てて眠っていた。


 真っ白い肌に長いまつ毛。寝顔すら綺麗で、本当に憎たらしい。

 かさつきなんて一切ない、艶があるその唇を見つめる。


 こんな夢を見てしまったのは、間違いなく結衣さんが昨日、私にあんなことをしたせいだ。


 なんで受け入れてしまったんだろう。キスした後の、結衣さんのあまりにも優しく嬉しそうな笑顔が心臓をキュンと締め付けた。


 あの時はどうなっちゃうのかなと思ったけど、結衣さんは「キス以上のことはしない」という約束を意外にもきちんと守ってくれた。


 あれ以上私に手を出してくることはなかったけれど、上手いこと口車に乗せられて、一緒のベッドに寝る羽目にはなってしまった。


 キングサイズの大きなベッドだから、渋々承諾したけれど、多分それが良くなかった。夢を見たのはそのせいだと思う。


 どんなに広いベットでも、やっぱり同じベッドで眠るのは緊張したし、すぐには寝付けなかった。


「……結衣さんの、馬鹿」


 綺麗な寝顔に向かって、そう呟く。布団、思い切りはいでやろうかななんて思っていると、視線に気付いたのか長いまつ毛が震えて、ぱちぱち、とその黒い瞳が瞬きを繰り返した。


「おはようございます」


「……おはよ……かなた、起きるの早いね」


 まだ眠たげな彼女が、ふかふかの羽枕に、うーんと唸りながら顔を埋める。


 私だって普段は、別に早くはない。


 複雑な気持ちで朝を迎えることになったのは全部全部、結衣さんのせい。


 そんな私に比べて女遊びが趣味のこの人は、女性と迎える朝なんて茶飯事のようで全然いつもと態度が変わらない。


 私だけが意識しているみたいで悔しいけど、それに文句を言うのはもっともっと悔しい。






 時計を見ると朝の六時だった。もう外は既に明るいだろう。結衣さんはまだ眠たいだろうけど、せっかくだから高層階から眺める朝の景色を楽しみたくて、電動カーテンのリモコンを探そうと身体を起こす。


 すると当然、ぐらりと視界が揺れた。


 彼女に腕を引っ張られたと理解する前に、私の身体はベッドシーツの中に引きずり込まれてしまっていた。


 背中がマットレスに倒れ込んで、高級ベッドのスプリングが軋む大きな音が響く。


「びっ、くりした……!」


「まだ起きなくていいじゃん。日曜日なんだし、もう少しゆっくりしようよ」


 寝転がりながら結衣さんの方に向き直って、じっと彼女を見つめる。


 ルームウェアから覗く胸元には、夢で見たあのネックレスはなくて——よかった、やっぱり夢だった、と安堵する。


「……起きようとしたんじゃなくて、カーテンを開けたかったんです」


「ここにスイッチあるから、起き上がらなくていいよ」


 そう言って、結衣さんは少しだけ上体を起こして私の頭上に手を伸ばす。


 寝癖もつかないストレートの黒髪が、私の目の前でさらさらと揺れた。綺麗な髪で、羨ましい。


 カチ、という音の後に、電動カーテンが開いた隙間から、光が差し込んでくる。


 近くなった距離にどきりとしたのを悟られないように、結衣さんに背を向ける。


 ガラス張りの窓から覗く景色に、思わず溜息が溢れた。清々しいほどの晴天だった。


「うわ……眩しい」


 結衣さんの不満の声は無視する。日差しが瞳の奥をつんとさせるけれど、高層階から覗く景色はまるで空に浮かんでいるみたいで気持ちが良かった。


 するすると、いたずらな白い腕が私と枕の隙間に忍び込んで、後ろからぎゅっと私を抱きしめる。


 背中にぬくもりを感じて、その気持ちよさに目を閉じた。


 朝起きて、誰かが隣にいたのは、初めてかもしれない。誰かと迎える朝がこんなに心地いいなんて、知らなかった。


「……チェックアウトって、何時なんですか?」


「何時でもいいけど、朝食食べてから帰ろうよ」


「レストランで?」


「ううん。ルームサービス、頼めるから。でも今はもうちょっと寝たい……」


 朝ごはんまで持ってきてくれるんだ。サービスの行き届いたホテルってすごい。


 結衣さんが、ぎゅーっと私を抱き枕みたいに抱きしめる。同じシャンプーとボディソープを使ってるはずなのに、結衣さんはいつだっていい匂いがする。


 眠くてたまらないらしい彼女と違って私はすっかり目が覚めてしまったから、手持ち無沙汰になって、背中から回ったその左手を取って指を絡ませて遊ぶ。


 左手の中指と薬指を順に辿って爪の先を撫でてみる。つるつるに整えられた爪は、彼女が今も女遊びをやめていない証拠だ。


 そもそもやめるつもりなんて、ないと思うけど。


 性欲なんて全然なさそうな顔してるくせに。涼しい顔して、女の子のことばっかり考えてる彼女を本当に腹立たしく思う。


「かなた」


「なんですか?」


「……私のこと、からかって遊んでるの?」


 後ろから眠たげな声がして、きゅっと、私がいたずらしていた指が私の手を捕まえる。


「……そういうの、本当に誘ってるとしか思えないんだけど……」


 この指が、彼女が女性を愛するために使う指だと知っていたけれど、私は彼女を誘うつもりで意識して触っていたわけじゃない。


 でも、結衣さんがこの行為をそう捉えるってことは。


「ふーん……結衣さんは、他の子にこんな風に誘われたこと、あるんですね」


 ぴくり、と指先が震える。あ、図星なんだ。結衣さんと同じ、女性が恋愛対象になり得る人たちは、彼女のこの長い指に欲情するのか、と思うと内心複雑だった。


「……さあ、どうだろ。忘れちゃった」


 そうやって、すぐに誤魔化すんだから。


 結衣さんは、軽口を叩く割には本気で私を押し倒したことなんてない。


 私が押しに弱いとわかっていても最後まで追い詰めたことなんてないし、結局いつだって逃げ道を用意してくれている。


 なんだかんだあっさりと引くくせに、そんなに私を欲しいと思っているとはどうしても思えなかった。


 それは私が不感症だから、なんだろうか。それとも単純に性的な魅力がないだけなのか。


 男性と違って私の身体に触れたところで、結衣さんが気持ちよくなるわけではないんだから、セックスしても気持ちよくなれない私を抱きたいなんて、そりゃあ思うわけないとも思う。


 私が彼女に、他の子と同じように「私を抱いて欲しい」と本気でねだったら、結衣さんはどうするんだろう。


 優しい彼女は、応えてくれるんだろうか。それともいつもみたいに、笑ってうまく誤魔化すんだろうか。



 試してみる勇気もないくせに、最近の私はずっと、こんなことばかり考えている。









 ルームサービスの朝食は最高に美味しかったし、目の前に座る彼女が私を見つめる瞳は今日も優しい。


「……私のこと、一体どうしたいんですか、結衣さんは」


 食後のコーヒーを飲みながら責めるようにそう言うと、結衣さんが笑った。


「別にどうもしないよ。ただ、かなたのことが好きなだけ」


 さらりと言われて、ため息をつく。


「本当、結衣さんって……」


「なぁに?」


「……なんでもない」


 優しく思いやりのある女神のようでいて、知れば知るほど悪魔のような人だ、と思う。


 どうにもするつもりがないのが問題なんだって、なんでわからないんだろう。


 結衣さんはきっと、私に何も期待していない。

 彼女が私に対してする全てのことに、何かが返ってくることなんてきっと一ミリも期待していない。



 彼女は、きっとまだ知らないだろう。


 底なしの沼に足を絡め取られてしまったみたいに、私はもう、ここから一歩も動けなくなっているってこと。

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