第18話 じゃあ、花火終わったら、する?

 私の記憶が正しければ、週末に結衣さんと「花火を見に行く」と約束したはずだった。


 それなのに、今、私たちはラグジュアリーホテルのロータリーにいる。


 入り口に「一ノ瀬」という文字があったから、ここが結衣さんのお父さんが経営しているホテルの一つだとすぐに気が付いた。


 出迎えてくれたホテルマンに車の鍵を渡して、結衣さんがちょいちょいと私を手招く。駐車場を使うだけなのかなと思っていたら、早く行こう、と促された。


「花火、見るんですよね? なんでホテル……?」


「お腹空いたでしょ? ご飯食べたあとに、花火見よう」


「ここから?」


「うん、よく見えるよ」


 腰に回った腕に押されるがままに足を進める。オレンジ色の豪勢な照明をつるつるの床が反射して、天井を見上げればどこまでも高い。


 歩くたびにコツコツとヒールの音が響いて、まるでお城みたいだなと思った。


 ちょっと待ってて、と言われて大人しく高級そうなソファに腰掛ける。


 結衣さんがフロントで、奥から出てきたテカテカに髪を固めた偉そうな男性と話した後、また戻ってきた。


「さ、行こう」


「普通のワンピースで来ちゃったんですけど……ドレスコードとか大丈夫ですか?」


「個室だから、気にしなくて平気だよ」


「個室……?」


 手を引かれて、中央の大きなエレベーターに乗る。迷いなく四十階のボタンを押して、ぐんぐんと空へと吸い込まれるように登っていく。


「普段、使ってない席があるんだよね。接待用の個室が」


 エレベーターが早くも四十階に到達して、私は肩の力を抜けぬまま結衣さんについて行くと、圧巻の夜景が見える窓際の二人がけのテーブルに案内されて、思わず息を飲んだ。


 ウェイターさんに椅子を引かれて腰掛ける。


「佐藤さん、久しぶりですね」


「お久しぶりです。最近来てくださらなかったから、お会いできるのを楽しみにしていましたよ」


 結衣さんが、にっこりと笑ってウェイターの女性に声をかける。三十代半ば、くらいだろうか。綺麗な人だ。


 彼女はテーブルの前にしゃんと立つと、ぴしりと一礼をした。正直、こういうの慣れてなくてちょっとどきどきする。


「本日担当させていただきます、佐藤と申します。青澤さま、今後ともどうぞよろしくお願いしますね」


「よ、よろしくお願いいたします……」


 こういう場に連れてこられると、改めて結衣さんって本当にお嬢様なんだな、と思い知らされる。普段家にいるときは普通のお姉さんって感じに見えるんだけど、場慣れしているというか、何というか。


 飲み物を注文して、佐藤さんが個室から出たタイミングで、ちょっとだけ肩の力を抜いて椅子に背を預けると、結衣さんが笑った。


「そんなに緊張しなくていいのに」


「結衣さんは、慣れてるんですね、こういうの」


「月一で食事会があるからね」


 なるほど、いつも結衣さんが行っている「食事会」は、こういうホテルのレストランでやっているのか。


「花火が打ち上がるのは七時半だから、あと二時間あるし、ゆっくり食べよ」


「花火を見るっていうから、普通に地面から見上げるんだと思ってました」


「私も本当はそうしたかったんだけど、観覧席のチケット売り切れてたんだ、ごめんね。来年はもっと近くで見れるところ予約しておくから、今年はここで我慢して」


 我慢……っていうか、むしろ思いっきりランクアップしてる気がするんですけど。こんな風にゆっくりとした環境で花火を見ることなんて一生に一度あるかないか、だと思うけどこの人にとってはこれが当たり前なんだろうか。


「寧ろ、嬉しいです。初めてのことだから……」


 ならよかった、と正面で結衣さんが優しく微笑んだ。


「ここのレストラン、結構好きなんだよね。料理長、怖い人だけど。昔、雪にぃと厨房に潜り込もうとして、首根っこ掴まれてめちゃくちゃ怒られたことある。でも、本当にすごく美味しいよ」


 やんちゃそうな兄妹が目に浮かんで、思わず私も笑みがこぼれる。結衣さんにも、そんな無邪気な時期があったんだ。


「……コース料理って緊張します」


「そう? 出てきたもの、順番に食べたら良いんだよ。テーブルマナーなんて適当でいいし。今は、二人しかいないから」


 そうは良いながらも、結衣さんにはばっちりと所作が身についているあたり、育ちの良さが窺えた。お嬢様なんだよなぁ、やっぱり。


 料理長にお任せで頼んだというフレンチのコースは、出てくる全てが何もかも美味しくて、本気でほっぺが落ちるかと思った。デザートと、食後の紅茶も最高だった。


 一体、このディナーはいくらするんだろう、財布の中にどのくらいお金入ってたっけかな、とちょっとだけ不安になるレベルだった。








「さ、ちょうど良い時間だし、行こっか」


「……あれ、ここで見るんじゃないんですか?」


 食事を終えたところでそういうから、移動するのかと疑問に思ってたずねると、結衣さんがぴっとカードキーを取り出した。


「部屋、取ってある」


「へ……? 部屋? ホテルの?」


「そう、ロイヤルスイートルーム。最上階だよ」


 さっき、フロントで、テカテカに髪を固めた偉そうな人から受け取っていたのは、ルームキーだったのか、と合点がいく。


 え、でも、ちょっと待って。ここはホテルだ。部屋を取っているということは、つまり、泊まるってこと?


 顔が熱くなっていくのを自覚する。目の前の結衣さんは涼しい顔でにこにこしてる。これってどういうつもりなんだろう。全然わかんない。


「……あの」


 質問しようとしたところで、結衣さんが腕時計を見て席を立った。


「ほら早く行かないと始まっちゃう」


「あ、お会計は?」


「会計? そんなのいらないから」


 そう言われて手を引かれる。佐藤さんに、ごちそうさまでしたと声をかけるとにっこりと笑って一礼された。本当に、お会計もせずにレストランを出て、エレベーターの上ボタンを押す。


「花火、すごく綺麗に見えるよ」


 ルームキーを翳すと、ロイヤルスイート、と書かれたエレベーターのボタンを押して、また上昇していく鉄の箱。


「あの、結衣さん」


「ん?」


「今日、泊まるんですか?」


「帰っても良いよ、と言いたいところだけど……さっき、お酒飲んじゃった。車運転できないから、帰れないね」


 いたずらに彼女が笑う。これは確信犯でしょ、ぜったい。ぎゅうっと手をつねると、結衣さんが、痛いとまた笑った。


「それって……」


「なあに」


 その腕を掴んで、少しだけかがむように促す。内緒話するように、そのピアスが煌めく耳元に唇を寄せた。

 エレベーターの中だって、セキュリティはあるはずだし……まぁ、音声が聴かれているかどうかはわからないけど。できる限り小声で囁く。


「えっちなことしたいって、ことですか……?」


 ホテルに連れ込まれるってそういうことしか考えられなくて。結衣さんが、吹き出すように笑ったところで、エレベーターが最上階にたどり着いた。


「なにそれ、私のこと、誘ってる?」


「ち、違います。そんなつもりじゃなくて……」


 笑いを堪えながら、結衣さんが顔を赤くした私の背をそっとエスコートして、エレベーターを降りるように促してくれる。



 カードキーをさらに翳して、たどり着いた先。豪勢なその扉の向こう。部屋に入った途端に、感嘆の息がこぼれた。リビング一面ガラス張りで、その夜景が私の心を捕らえて放さない。


 遠くに、闇に包まれた海が見える。結衣さんのイメージに、どことなく似ていた。


 あまりの景色にリビングで立ち止まってしまった私を、そっと後ろから抱きしめてくる優しい腕。結衣さんの甘い香りがして、胸の奥がくすぐられたようにむずむずする。


「ねえ、本当にしていいんだったら、私、もう花火どころじゃないんだけど」


 柔らかく耳朶を噛まれて、吐息と共に伝わる結衣さんの声。顔をそらして、違う、と抵抗する。


「ち、違いますって。本当にどういうつもりなのかなって、思っただけで」


「えー酷い、その気にさせておいて」


「結衣さん、花火は? ほら、あと十分ですよ」


 時計を付けた左腕を持ち上げて、結衣さんの眼前にさらす。あと十分で、打ち上げの時間が迫っている。


「じゃあ、花火終わったら、する?」


「……花火が終わっても、だめ。付き合っていない人と、そういうことはしません」


 はっきりそう告げると、結衣さんはがっかりしたように大人しく私から離れた。この人の考えることってよくわからない。

 抱けるか抱けないか、で言えばどっちなのかとと迫ったときは、上手い具合にはぐらかしたくせに。


「……残念。わかった、大人しく花火見るよ」


 夜景が見えるように配置されたソファに結衣さんが腰を落として、コーヒーテーブルに置いてあったルームサービスのメニュー表を手渡してくれた。


「十時までだったら届けてくれるから、食べたいものとか飲みたいもの、好きなの選んで良いよ」


「本当にいいんですか?」


「もちろん。だってお父さんの奢りだもん」


 そう言って結衣さんがにっと笑う。


「かなたと花火みたいから、スイートルーム貸してってお願いしたの。だからこれは全部お父さんからかなたへのプレゼント」


「な、なんか申し訳ないです、こんなにしてもらって」


「かなたのお父さんには、若い頃本当にお世話になったって言ってた」


「帰省したとき、結衣さんのお父さんがお母さんを口説くのを手伝ったって言ってましたよ」


「そうなの? 確かにお父さんって、女性を口説くの得意じゃなさそうだもんなぁ」


 不思議だな、と思う。結衣さんは女性を口説く天才なのに。もしかして魔性の遺伝子はお母さん譲りなんだろうか。


「……花火、綺麗に見えるといいね」


「そうですね……」


 私もソファに腰を落として、じっと夜景を見つめる。これだけでもこんなに綺麗なのに。あと数分で始まると思うと、自然ととくとくと期待に心臓が高鳴った。


「……ねぇ、かなた。なんでそんな離れて座るの?」


 だって、あまりにも広いソファだから、と言いかけてやめる。結衣さんの家にあるリビングのソファも同じくらいの大きさだから、その言い訳は通用しない。


 二人分空けたスペースを疑問に思ったのか、結衣さんが端っこに腰を落ち着けた私のことをじっと見つめている。


「……だって、なんか……」


 こんなに素敵な部屋で身体を密着させて座ったら、なんか、それって恋人同士みたいだなと思ってしまったから。


 顔を見られたくなくて俯くと、結衣さんがくすっと笑ったのがわかった。


「照れてるの? かわいいね。何もしないから、こっちにおいで」


 優しい声で私を呼ぶ彼女に、距離を詰める。そっとその腕が、私の肩を抱き寄せた。結衣さんが、リモコンで部屋の電気を暗く落とす。


「なんですか、この腕」


「いつもしてることでしょ? 別に照れなくても良いのに」


 静寂を切り裂いて、夜空の真っ黒なキャンバスに、一筋の光が打ち上がる。思わず息を飲んだ。空中に大輪が咲く。少し遅れて、ドン、と音が鳴り響いた。


 想像以上に綺麗なそれに、息をするのも忘れそうになる。


「……すごい」


 日本の夏の風物詩。花火って、すごい。こんなにも素敵な夜は初めてだ、と思った。


 立て続けに何発も打ち上げられるそれに、時間も忘れてずっと、見とれていた。


「花火、すごく綺麗……」


「そうだね」


 夏の終わりの花火はどこか切なく、胸を締め付ける。八月が終われば、秋はもうすぐそこだった。


 来年は、手持ち花火もやってみたい。今年は線香花火、できなかったから。日本に帰ってきて、本当によかった。心からそう思う。


 感謝の気持ちを伝えたくて、結衣さんの方を向いた。


「結衣さん、来年も……」


 一緒に見たいです、と、告げようとした言葉が、途切れる。遠くに、ドン、と花火の音がする。その光が結衣さんの、長いまつげと白い頬を照らした。


 優しい唇の感触がして、キスされてると少し遅れて理解した。


 最後の花火、見れなかったなと思ったけど、私は彼女の肩を押し返すこともできなかった。


 微かなリップ音を立てて、離れる唇。じっと見つめてくるその眼差しに、怒った方がいいってわかってるのに、そんな感情は一切沸いてこなかった。


「あの……結衣さん……?」


「嫌だった?」


「……してから聞くのは、ずるいと思います。何もしないって、さっき……」


「ごめん、我慢できなかった。かなたがかわいくて」


 申し訳なさそうに、結衣さんが眉尻を下げて言う。そんな顔をされたら、私は何も言えなくなる。

 肩に回った腕はそのままに、反対の指で優しく唇を拭われた。押し倒されたらどうしよう、そんな不安を見抜くように、結衣さんが優しく微笑む。


「私、恋人以外と、こういうことは……」


「うん、わかってる。これ以上のことはしない。でも、キスぐらいは許して。お願い」


 そう言って、彼女が私に顔を近づける。拒否しないといけないって、わかっているのに。


 押し返さないといけないはずの腕が言うことを聞かない。


 至近距離で目が合って、私が拒否しないと知ってか結衣さんがふっと笑った。


 その瞳の色は初めてみた。優しさの中に、肉食獣みたいな欲求が見え隠れしている。


 たまらずそっと目を瞑ると、優しく唇が重なった。



 私を抱き寄せる腕も、私の首筋を撫でるその艶やかな黒髪も、その全てが今、女性とキスしているのだと強く私に認識させる。



 知らなかった。女の人の唇って、こんなに柔らかくて、気持ちいいんだ。



 角度を変えて何度も触れる唇に、甘えるように縋り付いてしまう腕は自分の意志ではもうどうにもならない。


 私の中で、何かがガラガラと崩れ落ちて行く音が、聴こえた気がした。

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