第17話 女性同士だって、真剣に恋愛すべきですよ
日本に帰ってきてから、習慣と化していた週末の映画鑑賞を再開して、久しぶりにその足の間に潜り込んだ夜のこと。
「今日は何観るんですか?」
「んー、何観たい?」
お腹に回った腕がぎゅうぎゅうに抱きしめてくるからちょっとだけ苦しくて、抗議するようにその手をつねると、より強く抱きしめ直されてしまう。
文句を言おうとした瞬間、Tシャツから覗く首筋に唇が押し当てられたのがわかって、言葉を紡ごうとしたはずの喉がひゅっと音を立てた。
確かに、彼女にハグしてもらうためにその腕の中に潜り込んだのは、私だった。
でも、ここまでして欲しいとは一言も言っていない。
「結衣さん、ちょっと……くすぐったいです。ねぇ……!」
「へー、かなたって、首も弱いんだ」
この間キスを断った腹いせなのか、抗議の言葉を無視して耳の後ろにもキスをされて、ぶるりと身体が震える。
これはもう、明らかに先輩後輩のスキンシップの域を超えている。恋人のそれだ。
「結衣さんってば……!」
「なぁに」
「くすぐったい、です」
「唇じゃないんだし、これぐらい許してくれてもいいじゃん」
ちょっとだけ、不満そうな声が後ろから聞こえてくる。予想通り、彼女はキスを拒んだことを根に持っているらしい。
私の長い髪をそっと片側にかき分けて、うなじに唇を押し当てられたときには、もう泣きそうだった。
普段触られることも滅多にないようなところに触れてくるから、過剰に反応してしまうことが、恥ずかしくてたまらない。
「ずっとこんな悪戯するつもりなら、もう、映画観なくていいです……」
「それはだめ。一緒に映画観るの、ずっと楽しみにしてたんだから」
お腹に回った手を外そうともがく私に気付いて、結衣さんは呆気ないほどあっさりとその悪戯をやめる。
肩に顎を乗せられたのがわかって、ようやく落ち着いて後ろに体重を預けることができた。
「じゃあなんで、こんなことするんですか……」
「かなたが可愛くてたまらないの」
そう言われてしまったら、なんて言い返せばいいのかわからなくなる。
可愛い、という言葉には色々な意味がある。
「……結衣さん、そんなに私のこと好きなんですか?」
本当に、そうだと思って聞いたわけじゃない。でも、あまりにも結衣さんの気持ちが読めないから、思わず口をついて出てしまった。
別の誰かと二人きりの時にも同じような態度を取っているのかなんて、結衣さんと関係のある女性に聞いてみるでもしないかぎり、一生知り得ない話だ。
嫌われているとは思えない。でも、自分だけが特別好かれている、と自惚れることもできない。
少しでも、彼女の感情の機微を感じ取りたくて、首を後ろに向ける。
不思議そうに目を丸める結衣さんと目が合った。
「うん、好きだよ」
当然だというように、あっさりと言ってのけた彼女に、心臓が止まりそうになる。
そうだ、この人は、そういう人だった。頭を抱えたくなる。
言葉で確認することに意味なんてない。知っていたはずだったのに。
「かなたは特別だよって、いつも言ってるでしょ」
確かに、ことあるごとに特別だと、甘やかすように言われ続けてきた。
この人の言葉は耳に心地いいことばかりで、本当のところがどうかなんて結衣さんにしかわからない。
誰にでも同じことを言っている可能性も拭いきれないのが、この一ノ瀬結衣という人の、厄介なところだった。
「……恋人は作らない、とも言ってますよね」
おかしな話だと思う。好きなら、恋人になりたいと願うものではないんだろうか。
過去に告白された時の記憶を呼び起こして考える。「好き」という言葉の次には高確率で「付き合ってください」が続いていた。
記憶に新しい早川くんの告白はそうではなかったけど、彼の言葉の真っすぐさと比べても、結衣さんの言葉はまるで羽根のように軽い。
結衣さんの「好き」には、その先に続く言葉も、関係性もありはしない。
それがloveなのか、 likeなのか、はたまたそのどちらでもないのか、わからない。
投げられた愛の言葉はもはや、一方的で無責任な、暴力に近かった。心を乱すだけ乱しておいて、責任を取る気は一切ないらしい。
「かなたはストレートなんだし、別にそこは気にしなくてもよくない? 女同士なんだから、いいじゃん」
つまり結衣さんの言い分は、こうだ。
——私がストレート……つまり異性愛者だから、同性の結衣さんと付き合いたいとか恋愛関係になりたいと思うことはないという前提で、この人は、私のことを特別だとか可愛いとか好きだとかキスしたいとか、気兼ねなく言ってくるわけだ。
「……性別関係あります? 女性同士だって、真剣に恋愛すべきですよ」
その真っ黒な瞳を見据えてはっきりとそう告げると、結衣さんが驚いた顔をした。
「…………………」
しばし、無言で見つめ合う。私、そんなに変なこと、言っただろうか。
「あの……おかしいですか、私の考え方」
「えっ? あ、いや、そういうわけじゃないけど」
結衣さんにしては珍しく歯切れが悪くて、ちょっとキツく言いすぎたかもしれない、と思った。
確かに今の私の言い分は、遊んでばかりの結衣さんを責めるような言葉だ。
何か理由があって、止むに止まれぬ事情があって、こんな女遊びの激しい人になったかもしれないのに。
でも——昔、彼女がいたんでしょ。その人のことは、好きだったんでしょ。一途に、尽くしてたんでしょ。
だったらなんで。なんで私とは「付き合いたい」とは思わないんですか。
私が特別だというけれど、結衣さんにもっと特別な女性がいたという事実に、腹が立って仕方ない。負けた気がして、悔しい。
仮に求められたとして、実際に自分が女性と交際できるかどうかは、まだわからないけど。
高校生だった結衣さんの、価値観を180度変えた人。過去の人に腹を立てたって仕方がないとわかってはいるけど。
それなら、大学生の結衣さんにしかできないことを、私だけにして特別だと証明して欲しい。
「……結衣さん」
「うん?」
「花火大会、恋人と行ったことありますか?」
遊び相手じゃなくて、恋人と、高校生のあなたがどういう風に過ごしていたのか知りたい。
少し唇を尖らせて、拗ねるようにお腹に緩く回った手の指先をつねる。
「……ないよ、そういうのは、全然」
ちょっと困ったように笑う結衣さんに、あぁ、聞かれたくないんだな、と直感でわかった。
「ふーん……。私のこと連れてってくれるって約束したのは、もう忘れちゃいました?」
「まさか。忘れてないよ。来週の土曜、一緒に花火見に行こう」
「……土曜日は夕方までバイトなので、迎えに来てくださいね」
「うん、もちろん」
夏が終わってしまう前に、やっておきたいことは山ほどあった。
毎年、夏は確かにやってくるけど、今この瞬間の、二人で過ごす夏は二度と来ない。
リモコンを手に取って、結衣さんに意見も聞かずに私が観たい映画を選ぶ。
ブランケットに包まりながらくっついて、あーでもないこーでもないって感想を言い合いながら、まったり過ごすこの時間が私は好きだ。
「さっきの話だけど……かなたはさ」
「なんですか?」
「私に恋人がいても、平気?」
爆弾みたいな質問が飛んできて、あぁ、私、死ぬのかな、って思った。
それぐらい心臓が締め付けられるように痛かったし、そんなことを訊くなんて、本当にこの人は意地が悪いと思った。
真剣に恋愛すべきだ、と言っておきながら、私は、別の誰かに彼女の気持ちが傾くことを恐れている。
矛盾してるってことぐらいわかってる。
恋人がいたらやだ、なんて、そんなの、どの口が言えた台詞だ。
振り向いて、結衣さんに正面から向き直る。私を抱き寄せていた手が解けたのがわかったけど、構わずにじっとその瞳を見つめた。
夜の海みたいな、凪いだ優しい黒い瞳が私を見つめ返す。
結衣さんに恋人がいたって、別にいいはずだ。だって、私は同性愛者じゃないし、女性に恋した経験なんてないし、この先も彼女とそういう関係になる事なんてあり得ない。
だから、ここではっきり言うべきなのかもしれない、と思った。関係性を正しく見直す絶好の機会だ。深く息を吸う。
整理すべきだ。私とあなたは先輩後輩。それ以外のなにものでもない。
結衣さんに恋人がいたら、だって? そんなの——。
「絶対に、イヤ」
真っ直ぐに結衣さんを見つめて、唇をついて出た言葉は、思考より先に心から飛び出していったかのように滑り落ちた。
あれ、私、今なんて言った……?
吐き出した言葉を反芻するより先に、ふはっ、と結衣さんが吹き出すように笑う。
「んー、そうだよね、大丈夫。絶対恋人なんて作らないから安心して」
ぎゅう、と腰を抱き寄せるようにされて、慌ててその肩を押す。
「違います、誤解です、今のはっ」
「ほんっと、かわいい。そういうとこ、たまんない」
ぎゅうぎゅうに抱きしめられて、くるしい。言ってしまった言葉をなかったことにできなくて、顔が赤くなっていくのがわかる。
結衣さんが本当に嬉しそうに笑うから、毒気を抜かれてしまって身体の力が抜けて行く。
「……花火、楽しみだね」
優しく耳元で囁く声に絆されて、あぁ、もうどうにでもなれ、と心の中でつぶやいた。
もっと単純ならよかった。
例えばあなたが、こんなに複雑なパズルみたいな人じゃなくて。
私のことをただ真っ直ぐに好きだと言ってくれる人だったら。
私だってもっと簡単に、あなたが好きだと言えたかもしれない。
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