第16話 私がいない間、何人とキスしたんですか?

 次に帰ってくるのは、年末になるだろうか。長かった三週間の帰省を終え、私は今、羽田行きの飛行機の中にいた。


 日本に着くのは明日の夕方になる。長いフライトは相変わらず慣れないけれど、五か月前と違って気持ちは晴れやかだった。


 闇夜に浮かぶ街の明かりを見下ろしながら、空港でお母さんにそっと耳打ちされた言葉を思い出す。


——そんなに急いで帰りたがるなんて、もしかして、新しい彼氏でもできた?


 慌てて違うと首を左右に振ったけれど、お母さんはにこにこ笑って「お父さんには言わないでおくね」と、取り合ってくれなかった。


 本当に違うのに、そんなに浮かれているように見えたんだろうか。


 自分のことなのに、自分でも良くわからない。


 結衣さんは、女の人なのに。なんでこんなに恋しく思うんだろう。なんでこんなに、会いたいと思うんだろう。


 優しいから? 綺麗だから? 甘やかしてくれるから?


 全部が当てはまっている気もするし、全部が違うような気もする。彼女が私を特別だというように、私にとっても結衣さんは、確かに「特別」な人になっていた。


 でも、私の思う「特別」と、結衣さんの思う「特別」は、同じなんだろうか。


 いくら考えたところで一人で答えなんて出せるはずもなく、ただ雲の上を行く飛行機に身を任せながら、目を閉じる。


 誰かに相談できたらいいけど、言葉にしてしまったらそれこそ本当に、何かが変わってしまう気がしていた。







 夕日が差し込む滑走路に着陸するころには、すっかりくたくたになっていた。十二時間以上座りっぱなしは、さすがに長い。

 通信機器の利用制限が解除されたところで機内モードをオフにすると、メッセージを受信した。


 時計台の前で待ってる、というシンプルなメッセージに、自然と口角が上がる。


 スーツケースを受け取って、急ぎ足で結衣さんの元へと向かう。


 待ち合わせは五か月前と同じ場所。だけど気持ちは、何もかもが違う。


 時計台が見えて、手を振る結衣さんを視界に捉えた。はやる気持ちが私の背を押して、自然と小走りになる。


「おかえり、かなた」


 スーツケースを手離して、両手を広げた結衣さんに駆け寄るように抱きついた。


 首筋に擦り寄ると柔らかくて甘い結衣さんの匂いがして、胸の奥がきゅっとなる。


 あぁ、いい匂い。


 第三ターミナルは国際線だし。ハグなんて、別に誰も気に留めやしない。


 躊躇いもせず、ぎゅうっと苦しいくらいに抱きしめられて空いた隙間がぴったり埋まると、からっぽだった心が急速に満たされていくのを感じた。


「会いたかった」


 耳元で、嬉しそうな結衣さんの声がする。


 私のほうがたぶん、ずっとずっと会いたかった。悔しいから絶対に、言わないけど。


 そっと腕が緩んだから身体を離して結衣さんを見上げると、優しい瞳が私を見ていた。


「お腹空いたでしょ、ご飯食べて帰ろっか」


 うん、と頷くと、結衣さんは私が放り出したスーツケースの取っ手を掴んだあと、空いた方の手で私の手を絡め取ったから、私もギュッと強く握り返した。










 行きは成田にすればよかったと思ったけど、帰りは羽田にしてよかったと思った、そんな夜。


 三週間ぶりに結衣さんの家に帰って早々に、リビングにも辿り着けないままに腕を引かれて抱きしめられた。


 背中が廊下の壁に押し付けられて少し痛む。


 寂しいと思っていたのは私だけじゃなかったのかな。そっと腕を回して、その背中を撫でてみる。


「ふふ……結衣さんの方が、今日は甘えん坊ですね」


 いつもは、私が彼女の腕の中に潜り込んでハグを求めることの方が多い。結衣さんが私を抱きしめる腕はいつもこんなに強くはなかったし、もっと優しく、包み込むような温かさがあった。


「……すごく会いたかった」


 耳元で囁くようにそう言われて、ほんの少しぞくりと背筋が震える。壁に押し付けられて、閉じ込められるように抱きしめられていて、その腕は強く私を捕らえて離さない。


「結衣さ……、っ!」


 名前を呼ぼうとした声が思わず震えたのは、耳のふちに唇を押し当てられたのがわかったからだ。


 頭で理解する前に身体が反応して、肩を押し返そうとした腕を、呆気なく捕まえられて壁に押し付けられる。

 耳朶を柔く噛まれた瞬間、ぞくぞくと言葉にできない痺れが走った。


 やめて、と言おうとして、たまらずに甘えた声が出てしまいそうになってきゅっと下唇を噛んで目を瞑る。


「……ねえ、かなた」


 過剰に反応した身体がぴくりと震える。そんなに耳元で、囁かないで。そうされるのが弱いって、知っててやってる結衣さんは意地悪だ。


「こっち、向いてよ」


 甘く柔らかい声が、鼓膜から響いて思考を鈍らせる。こんな近距離でそっちを向いたら、目が合ってしまう。

 そうしたら、何もかもなし崩しに受け入れてしまう気がした。私が思い悩むあれこれに、簡単に名前を付けられてしまいそうで怖かった。


 声が震えないように、大きく息を吸う。


「結衣さん、なに、する気ですか?」


 そっと彼女の左手が私の頬を撫でた。おかげで拘束されていた腕は解放されたけど、彼女の唇が私の首筋にやさしく押し当てられて、よくわからない熱が私の身体を支配する。


 お腹の奥に熱が灯るようだった。


 密着しているせいで反応してしまうのがバレてしまうことがどうしても恥ずかしくて、唇を噛みながら弱々しく肩を押す。今度は少しだけ距離ができて、結衣さんの黒い瞳とばっちりと目が合ってしまった。


「……キスしたい。だめ?」


 ストレートにそう言われて、がんと殴られたような衝撃だった。頭の中にぐるぐると巡る疑問。


 私のことは、タイプじゃないんでしょ?


 だから、私のことは、抱けないんじゃないんですか?


 わからない。結衣さんにとって、キスってどういう意味を持つのか。どのぐらいの「愛情表現」なのか。


 少なくとも私は、恋人としかそういうことはしないし、したことがない。


 でも、結衣さんは違う。そこには明確な意識の違いがある。勢いに流されて素直に受け入れてしまったら、地獄を見ると思った。


 この人に生半可な気持ちで触れてしまったら、本当に、やけどじゃすまない。


「そう、いわれても……」


「ね、いいじゃん。もう一回してるんだし、それに嫌じゃないんでしょ?」


 答えを待たずに顔を近づけてきたから、慌てて手のひらでその唇を押しとどめる。

 じとりと不服そうな視線が刺さるけど、私は結衣さんと違って、その場のノリと勢いでキスできるほど遊び慣れていなかった。


「……かなた」


「“この子押せばいけるって思われたら終わり”……なんですよね?」


 いつだったか結衣さんに忠告された言葉を思い出す。私が押しに弱いって、この人はもう知っている。だからこんなにぐいぐい来るんだ、絶対そう。


 結衣さんが形の良い眉を寄せてむっとした。不満そうな顔をしてもやっぱり綺麗だな、とその場に似合わぬことを思う。


「……キスされたのが嫌だったんじゃないって言ってたのに、嘘じゃん……」


「嘘じゃないですよ、それは本当です」


 じゃあなんでと言われそうだったから、そう言われるまえに、私より少し身長が高い結衣さんの首に甘えるように腕を回した。

 結衣さんは、私が押しに弱いって知っているかもしれないけれど、私だって、結衣さんの弱点を知っている。


 この人は、甘えられることに弱い。


「……結衣さんって、誰にでもこんなことしてるんでしょ? それがムカつく」


「いや、誰にでもってわけじゃ……」


「じゃあ、私がいない間、何人とキスしたんですか? 教えてください」


 訊けば、一瞬結衣さんの目が泳いだ。ああ、やっぱりだ。この人の悪癖を抑えつけるには、それこそ本当に手錠が必要かもしれない。


「ほら、やっぱり。誰でもいいんじゃないですか、すけべ」


 突かれたくないところを突かれて、怯んだ結衣さんの腕から逃れる。正直心臓がばくばくしていたし、もう少し押されていたらやばかったかもしれないと思ったけど。


 壁に手をついて、肩を落としてため息をつく結衣さんを横目に、リビングへ向かう。


 この際、女性とか男性とか、私が彼女を好きかどうかは置いておいて。


 私は、私を「一番」に想ってくれるだけじゃ足りない。


 二番や三番なんていらない。


 私だけを想ってくれる人じゃなきゃ、そう簡単にこの身を差し出したりはしない。


 今のところは……そのつもり。


 結衣さんだって知っていると思うけど、私は結構わがままだ。


 そんな私に触れたいと思うなら、あなただって。


 それなりの誠意を、見せるべきだ。


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