第15話 私より可愛くない子を抱く必要ありますか?

 時差ぼけが治り、朝日と共に目覚めることができるようになったのは、帰省してから数日後の事だった。


 暮らし慣れた自室のはずなのに、なんだかしっくりこない朝。


 目が覚めて真っ先にベッドサイドのスマホをとると、メッセージが一件入っていた。


 私の「おやすみなさい」は、結衣さんにとっての「おはよう」になる。


 すれ違いながらも、毎日メッセージのやり取りは続いていた。


 おはようございます、とメッセージを返すけど、日本の時間はこっちより進んでいるから、あっちはもう夕方か。


 気を紛らすために枕元にいたシャチのぬいぐるみをギュッと抱きしめる。あぁ、この子を連れてきて本当によかったと思った。









 起きてからしばらくして朝食も食べずにゴロゴロしていると、コンコン、と自室のドアをノックする音と共に、ひょっこりお父さんが顔を出した。

 いつもオールバックにセットしている髪が、今日は違う。どうやら今日は休みだったらしい。

 夏休みに入ってから、曜日感覚がすっかり狂ってしまった。


「お昼ご飯、一緒に食べよう」


 にこにこと嬉しそうなお父さんに少しだけ笑って、ベッドから起き上がる。


 そうだ、時差ぼけに苦しんでいてすっかり忘れていたけど、色々とお父さんに聞きたいことがあったんだった。








「結衣ちゃんとはしばらく会えてないけど、もう二十一歳になるんだね。最後に会った時はあんなにちっちゃかったのになぁ」


 食後の紅茶を楽しみながら、お父さんは懐かしむように目を細めた。


「お父さん、結衣さんに会ったことあるの?」


 びっくりして聞き返す。


「最後に会ったのは、冬人フユトの奥さんのお葬式の時だから、もう十年以上前になるけどね」


 冬人、というのは結衣さんのお父さんのことだ。結衣さんは、シングルファザーの家庭で育ったと言っていた。薄々気付いてはいたけど、死別だったのかと胸の奥がちくりと痛む。


「……十年以上前って、いつ?」


雪哉ユキヤくんが小学六年生で、結衣ちゃんが一年生の時だから……」


「十四年前……?」


「もう、そんなに経つのか」


 雪哉くん……っていうのは、結衣さんに車を譲ってくれたお兄さん、「雪にぃ」のことだろう。バラバラだったピースが一つずつ、つながっていく。


「綺麗になっただろう、結衣ちゃんは」


「……見てないのに、なんでわかるの?」


「冬人の奥さんは本当に綺麗な人だったからね」


 確かに、結衣さんのあの顔の元となった人だから、それはそれは綺麗な人だったに違いない。


「……結衣さんのお父さんって、どんな人?」


「写真あるよ、若い頃のだけどね、見る?」


 そう言って、お父さんは棚から手帳を取り出して、挟んでいた一枚の写真を手渡してくれた。


 少しだけ時代を感じるその写真に映るお父さんは、二十代ぐらいだろうか。


 その脇に男女が肩を寄せ合って写っていた。これがきっと結衣さんのお父さんとお母さん。


「大学生の時だよ」


「結衣さんに、そっくり……」


 写っていた女性に目を奪われる。この人が結衣さんのお母さん。微笑んだ時の優しい目元なんか、生き写しのようだ。


「……ふたりは親同士が決めた結婚だったけど、冬人の方が一方的にベタ惚れだったんだ。乗り気じゃない彼女をあの手この手で口説き落として……僕も、随分手伝わされた」


 結衣さんのお父さんも、精悍な顔立ちをしている。


 私のお父さんがゴールデンレトリバーなら、結衣さんのお父さんはドーベルマンみたいな凛々しさがある。


 この人が、風邪を引いた幼い頃の結衣さんのために激マズなお粥を作ったのかと思うと、クスッと笑いが込み上げてきた。


「三十代で彼女を失って、男一人で子供二人抱えて生きていくなんて無謀だって、みんな再婚を勧めたんだけど……結局、恋人すら作らなかった。一途で不器用な男なんだよ。そのせいで、雪哉くんも結衣ちゃんも苦労したと思うけど……」


 結衣さんのお父さんは、本当に一途な人らしい。どうしてそこは結衣さんに遺伝しなかったのだろうと悔やまれる。


「そうだ、雪哉くんにはもう会った?」


「ううん、まだ会ったことない。そう言えば結衣さん、お兄さんはお父さんと仲が悪いって言ってたよ。自分で会社を立ち上げて、独立しちゃったって」


「そうか、まだ和解してないのか。まぁ、雪哉くんの頑固なところも、冬人の血なんだろうけどなぁ……」


「ねえ、お父さん。ってことは、会社は結衣さんが継ぐってことなのかな?」


 お兄さんがお父さんと不仲で独立してしまっているということは、必然的に後継者は結衣さんしかいない。


 だから毎月食事会と称して、会社の人と会っているんだろうか。入社する前から。


 誰にでも優しくて人当たりのいい結衣さんが、珍しく会うのを嫌がっていたから強く印象に残っている。


 お父さんの会社に入社するのが、嫌なのかな? 本当はやりたいことが別にあるとか?


 全然わからない。想像もできない。結衣さんは、肝心なところはいつもはぐらかして、教えてくれないから。


「さあ、冬人とはそういう話はあまりしないからなぁ。あ、そうそう。今回の同居の話だって、冬人のおかげなんだよ。僕の娘も結衣ちゃんと同じ大学に行くからって言ったら、それなら一緒に住んだらいいって言ってくれたんだ」


 てっきりお父さんから打診したのだとばかり思っていたのに、結衣さんのお父さんのおかげだったとは。


 でも、そこでふと思う。


 自分の娘が同性愛者だと知っていたとしたら、同性の私と同居させようなんて申し出たりはしないだろう。


 結衣さん、大学では自分のセクシャリティを一切隠していないから、家族に対してはどうなのかなとちょっと疑問に思っていたけど、やっぱり、お父さんには言ってないんだ。


 


「かなたと結衣ちゃんが仲良くやってるみたいでよかったよ」


 お父さんは嬉しそうに笑うから、本当に仲が良いんだなと思う。


 あのドーベルマンみたいな人と、ほんわかしたタイプの私のお父さんが親友になるなんて不思議な感じもするけど。


「うん。一緒に暮らすのが結衣さんでよかった」


 心から、そう思う。もし他の人だったら、ずっとイギリスに帰りたいと泣いていたかもしれない。







***







 お父さんと結衣さんの話をしたら、なんだか無性に声が聴きたくなった。


 メッセージのやりとりだけじゃ物足りない。つい一週間前はすぐそばにいて、顔を見て話ができて、触れることができたのに。


 自室に戻ってベッドに腰を下ろすとスマホを握りしめる。


 出てくれるかな、そう期待して鳴らした電話は、数コールであっさり繋がった。


 風の音が聴こえる。遠くで微かに音楽が鳴っているのがわかった。


『かなた?』


 ずっと聴きたかった、私を呼ぶ優しい声。胸の奥がくすぐられるような気持ちになる。


「結衣さん、外にいるんですか?」


『うん、飲みにきてた。うるさいかなと思って、今外出たとこ』


「ふーん……」


 あのバーだろうか。前に結衣さんを迎えに行った記憶が蘇る。


『かなたは、何してたの?』


「家にいました。こっちはまだ、二時なので」


『そっか。時差ってすごいね。こっちは夜の十時だよ』


 土曜の夜だから、結衣さんは家で映画を観てるとばかり思っていた。


 最近はいつもそうだったから。結衣さんの足の間に潜り込んで、ぎゅっと抱きしめてもらいながら映画を観るのが楽しみだった。


「……今日は、映画観ないんですね」


『んー、うん。かなたがいないと集中できなくて』


 普通、逆じゃないだろうかと首を傾げる。


『……抱きしめてないと、落ち着かない』


 それは、わかると思った。そうか、この家に帰ってきた時にやけにしっくり来なかった理由がやっとわかった。


 電話しながら、シャチのぬいぐるみを抱きしめる。


 朝までは連れてきてよかったと思っていたけれど、この子は結衣さんに預けるべきだった。


 私の代わりにしてくださいと言ったところで、結衣さんが夜遊びもせず健気にぬいぐるみを抱きしめて待っていてくれるかどうかは、正直ちょっとわからないけど。


 女の子とセックスするのが趣味みたいなこの人を縛り付けておくなんて、それこそ手錠でもないと絶対に無理。


 もやもやとした感情が、胸の奥にぐるぐると渦巻いていく。


『あっこんなところにいた! 結衣さん、何してるんですか? 早く戻ってきてくださいよ』


 突然、酒に酔ったような女性の声が電話口に聞こえて思わず押し黙る。近づく声の距離感的に、ずいぶん密着してると気付いて眉間に深く皺がよる。


『……大事な人と電話してるから、またあとでね』


 大事な人。


 結衣さんがそう言い切ったことに驚いたけど、その子が少しの間を置いて「わかりました、待ってますから絶対戻ってきてくださいね」と、簡単に引き下がったことの方にもっと驚いた。


 これが結衣さんの好きな「めんどくさくない子」というやつか。もし、私だったら絶対に引き下がらなかった。……なんだか、負けた気がする。


「……邪魔してすみません。もう切りますね」


『え、なんで? 切らないでよ。かなたの声、もっと聴かせて』


「……今日は、さっきの子の家、泊まるんですか? 結衣さんのバカ。すけべ。女好き」


『えぇ? なんでそうなるの』


「……だってさっきの子、絶対結衣さんの好きなタイプでしょ」


 拗ねるように言ってしまうのをやめたくてもどうしても気持ちが落ち着かない。


 責めたくなってしまう。なんで一途に恋愛しないの? この人は。


『見てもいないのに、どうしてそう思うの?』


「めんどくさいタイプじゃなさそうだった。私と違って」


『あー、それは確かに。めんどくさくないし、可愛い子だったから、一晩くらい寝ても良いかも』


 電話越しに結衣さんが笑う。


「……もう切ります」


『ごめんごめん、冗談だよ。……かなたに妬いてほしかっただけ』


 だとしたら、その企みは見事に成功だ。顔が見えもしないその女の子と結衣さんが抱き合う姿を勝手に想像して、今、心から憤っている。


『かなたがいないと寂しい。ずっと一人で暮らしてきたのに、おかしいよね。家に帰るの嫌だなぁ……』


「寂しいからって、今日はあの子と一晩過ごすんですか?」


『んー、どうしよう。……かなたはどうして欲しい?』


「なんで私に聞くんですか……意地悪」


 そんなの、聞かずとも答えは一つに決まってる。わかっているくせに。そういうところが結衣さんの悪いところ。


 ふふふ、と電話越しに笑う声が聞こえる。やっぱり、結構酔ってるみたい。どのぐらい飲んだのやら、意外と結衣さんも寂しがりなんだなとちょっとだけ可愛く思った。


「……ねぇ、結衣さん」


『なあに』


「私より、可愛かったですか、さっきの子」


『んーん、そんなことない。かなたが一番可愛いよ』


「本当に?」


『嘘ついて、どうするの』


 アルコールにあてられていつもより柔らかい結衣さんの声が耳元から囁かれるように聞こえてくる。


 この人はこういう人だ。目の前の女の子に一番に優しい、嘘つきな人。


 こんな風に聞けば、真意はさておき「あなたが一番」と言ってくるに違いないと、わかっていて聞いた。


「……じゃあ、だめ。私より可愛くない子を抱く必要ありますか? 今日は真っ直ぐ家に帰ってください」


 苦し紛れに絞り出すように言えば、あはは、と結衣さんが電話越しに笑ったのがわかった。


 抱くという言葉の意味は、ただ抱きしめるだけじゃ終わらないってわかってる。家に行ったら、そういうことするんだって。


 結衣さんが女性に向ける「好き」は、そういう「好き」だ。


 あの優しい唇が、整った指先が、別の誰かの柔肌の上を滑るところを想像するだけで、胸を掻きむしりたくなるほど嫌な気持ちになる。


『……わかった、今日はもう帰る。かなたの声も聴けたし、満足した』


 やけに上機嫌な結衣さんの声がして、ホッと胸を撫で下ろす。


「私は電話じゃ満足できません。……早く、結衣さんに会いたい」


 思わず唇から本音が溢れる。まだ一週間しか経ってないのにって笑われるかと思ったのに、電話の向こうから聞こえたのは優しい優しい声だった。


『……私も、会いたいよ』


 誰にでも、優しく、甘く、愛を囁くその唇が恨めしい。


『……かなたって、悪い子だね。あんまり思わせぶりなことばかり言わないで』


「どの口が言うんですか……」


 私は至って真面目に気持ちを伝えているだけなのに。


 あんなに清楚で誠実そうなご両親から、よくもまあこんな稀代の女たらしが生まれたものだ。


「……結衣さんって、突然変異としか思えない」


『なにそれ、どういう意味?』


「なんでもないです」


 不思議そうな彼女の様子に笑って、おやすみなさい、とありったけの気持ちを込めて囁いた。


 どうか明日も明後日も、あなたが私だけを想って眠りについてくれますように。

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