第14話 あんまり可愛いこと言わないで
「羽田から直行便出ててよかったね。成田だったら前泊しないと無理だったかも」
早朝。私のスーツケースを車のトランクに詰め込みながら、結衣さんが笑う。
荷物は着替え数枚とシャチのぬいぐるみ。「それ持っていくの? 嵩張らない?」と結衣さんに言われたけど、無視してスーツケースにぎゅうぎゅうに詰め込んだ。
シャチはいる。恋しくなった時に抱きしめる何かがないと寂しくなりそうだから。
あっという間に八月になってしまって、気付けば出発の日。
日本の夏、この蝉の声とも、しばしのお別れになる。
荷物を積み終わったあと、結衣さんが助手席のドアを開けてくれたから、彼女の愛車に乗り込んだ。
いつ洗ってるのかわからないけど、結衣さんの車はいつもピカピカだ。ガレージがあるおかげなのかもしれないけど。
お兄さんからのお下がりらしいその車は、大学生が乗るにはすこしハードルが高いけど、結衣さんだから似合ってしまう。
曰く、「雪にぃは車好きだから、三年おきに買い替えてる」らしい。
車はゆるやかに空港に向かって走り出す。大荷物になると電車の移動は大変だ。
まだ会ったことがない結衣さんのお兄さんに、心の中で感謝した。
日本に帰ってきたばかりの時はホームシックで寂しくて寂しくて堪らなかったのに、今は少しでも長くここに留まりたいと思ってる。
そう思うようになったのは、間違いなく右隣のこの人のせいだ。
朝日に照らされる結衣さんの横顔を見つめる。
車を運転している時の彼女の横顔と、ハンドルを持つ手が好きだなと思ったのは、この間水族館に連れて行ってもらった時だった。
日本にいれたら、もっと色んなところに連れて行ってもらえたはずなのに。
刻一刻と時は迫る。お父さんもお母さんも弟も大好きだけど、でも今は……。
「……帰りたくないなぁ」
ぽつりとそう呟くと、結衣さんが笑った。
「なんで? ロンドンって日本より涼しいんでしょ。夏はこっちよりも過ごしやすいんじゃない」
「そういう問題じゃないんです。久しぶりの日本の夏なのに、花火も見れなかった」
「八月下旬にやってる花火大会もあるから、帰ってきたら一緒に行く?」
「……いいんですか?」
「うん、約束」
大学生の夏休みは長い。バイトをそんなに長く休めないからと理由をつけて、両親には三週間だけ戻ると告げた。
航空券だって安くない。わかっているけど、私だって大学生の夏休みを満喫したい。
色んなところに行ってみたい。結衣さんと、二人で。この間の水族館みたいに。
離れるのを私は寂しく思うけど、結衣さんはどうかな。久しぶりの一人暮らしでゆっくりできて嬉しいかな。
何を考えているのか全然わからないその綺麗な横顔を、ずっと見つめていた。
もう少しわかりやすかったらいいのに。頭のいいこの人は、感情を隠すのも本当に上手だから、まるで間違い探しみたいに神経を集中しないと真意に辿り着けない。
考え込んで黙ってしまった私に気づいた結衣さんが、どうしたの?と優しい声でたずねるから、慌てて思考を振り払った。
「……お土産、何が良いですか?」
「んー、ロンドンって何が有名?」
「紅茶……は家にいっぱいあるし……」
「確かに、いっぱいあるよね。なんでも良いよ?」
アフタヌーンティー用に私が集めてる紅茶はキッチンに常備している。そもそも結衣さんはコーヒー派だから、紅茶貰っても嬉しくないだろうな。
時間はたっぷりあるだろうし、帰ってから結衣さんが、気に入りそうなものをゆっくり探そうと決めた。
羽田空港は思ったより近くて、心の整理がつかないまますぐに着いてしまう。あまりにも名残惜しくて、成田にすればよかったと少しだけ思った。
駐車場に着くと結衣さんがトランクからスーツケースを取り出してくれた。いよいよお別れの時間が近づいてくる。
「ロンドンまで、何時間かかるの?」
「大体、半日位ですね……」
今年の三月、初めて結衣さんに会った時も、羽田空港だった。
あの時は不安でいっぱいで、本当に家族から離れてよかったのか、日本の大学を選んで良かったのかと飛行機に乗る直前までうじうじしていた。
後悔したところで、決めてしまったことを覆せるわけでもないのに。
結衣さんともうまくやれるか、最初はすごく不安だった。
お父さんは、「僕の親友の娘だから絶対に気が合うはずだよ」と自信満々に言っていたけど、家族以外と一緒に暮らすなんて初めてのことだったから。
今思えば、杞憂だったけど。
最初、かの有名な一ノ瀬ホールディングスの社長令嬢だと聞いていたから、ステレオタイプのお嬢様を勝手に想像していた。
だけど空港に現れた彼女は、そんな私の想像を色んな意味で大きく裏切った。
お金持ちのお嬢様だから、ワンピースとか着て、お連れの人とかもいるのかな? なんて思っていたけど、いくら空港を見渡してもそんな人はどこにもいなくて。
電話すると黒いキャップを被った女性が私に向かって手を振ったから、心底驚いたのを覚えてる。
そう、確かこの間水族館に行った時も同じスニーカーを履いてたっけ。白と、黒の、ナイキのやつ。
ラフな格好をしていたのに、艶のある長い黒髪と目鼻立ちがはっきりした顔立ちがあまりにも整いすぎていて、こんな美人、見たことないと思った。
運転手もつけずに、兄のお下がりだと言う黒い高級車で現れた彼女は、当初予想していたイメージとは全く違い、はっきり言って、やんちゃそうに見えた。
そのとき、ネイルも真っ黒だったし。
第一印象とは結構当たるものだなと、今になれば思う。
でも、女性が好きだということは、正直最初は全然見抜けなかった。
チェックインを済ませていよいよ身軽になると、急にそわそわしてくる。
結衣さんといると時間が進むのが、ものすごく早く感じた。
もう行かないと。でも、離れたくない。
保安検査場の前で立ち止まって、結衣さんを振り返る。
見送りはここまでだ。結衣さんはこの向こうには行けない。
そっとその手を取って、彼女を見上げる。ひたすらに優しいその黒い瞳が私を見ていた。
なぜだろう、いま、無性に抱きしめて欲しい。
そんなこと、人前ではできないってわかってるのに。
「……電話、しますね」
「うん」
「絶対に、無視しないで出てください」
「そんなことしないよ」
「女の子と居ても、ですよ? 私の電話、優先してくれますか?」
「当たり前でしょ」
「……結衣さんからも、たまには連絡ください」
「もちろん、連絡するよ」
「………………やっぱり帰りたくない」
困らせるようなことを言っていることはわかってる。結衣さんが笑って、繋いでない方の手で私の頬を優しく撫でた。
「……かなた、あんまり可愛いこと言わないで。本当に帰したくなくなっちゃう」
離れたくなくて手を離せないでいる私を諭すように、ぎゅっと手を握られる。
「……日本に帰ってきたら、また迎えにくるから。気を付けて行ってきてね」
こくんと頷くと同時に離れる手。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
名残惜しくて、振り返りながら何度も手を振った。
時差があるから、日本が夜なら、あっちは昼だ。それでも電話する。絶対に。
私がいない間、どうか他の子と遊ばないで。そんなこと言う権利なんかないけど、そう願わずにいられなかった。
日本を離れて飛行機が飛び立つ。高度を上げて雲を突き抜けたところで、どうしようもないほど結衣さんを恋しく思った。
へんなの。離れたばかりなのに、もう会いたい。
飛行機の窓にコツンと頭をぶつける。
最近の私は絶対におかしい、どうかしちゃったかもしれない。
理由なんて知らない。わからない。
だってこの気持ちをなんと呼べば良いのか、誰も教えてくれないから。
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