第13話 今日は、これで我慢してあげる
試験から解放された最初の週末は願った通り清々しいほどの快晴で、絶好のお出かけ日和になった。
約束の土曜日。
車を走らせること一時間半。東京湾のど真ん中を突っ切って、初めて踏み入った房総半島。待望の水族館に心が躍る。
チケットと一緒に渡されたパンフレットを片手にショーの時間を確認して、早く早くと結衣さんの手を引っ張りながら進む。
「結衣さん、早くシャチ見に行きましょ」
「え? 最初にショー観に行くの?」
「だって九時半からって書いてますよ。せっかくだから最初に観たいです」
「……かなたって、たい焼き頭から食べるタイプ?」
そう聞いてくるってことは、結衣さんは尻尾から食べるタイプらしい。私は我慢できなくて何でも一番好きなものから食べちゃうけど。
「……だめですか?」
「だめじゃないよ。じゃあ、最初に観に行こっか」
引っ張っていた手がそっと繋ぎ直されて、真っ先にスタジアムへ向かう。
ショーの開始時間よりずっと早く来たつもりだったのに、既に場所取りの人がちらほらいたけれど、なんとか最前列を確保することができた。
事前に二つ買って用意しておいたレインコートを結衣さんに手渡す。
「え、これ着るの? 暑くない?」
「聞いた話だと、すっごく濡れるらしいんですよ」
「ふーん、そんなに?」
半信半疑って顔してるけど、私は事前に調べてあるから抜かりはない。
「疑ってます? なら、結衣さんは着なくてもいいですよ。困るのは私じゃないですから」
そう言って渡したレインコートを取り上げようと手を伸ばしたけれど、結衣さんがひょいとそれを躱した。
「……着る。念の為」
他の前列のお客さんもレインコートを着出したのに気付いたのか、結衣さんは大人しく袖を通してくれた。
「あ、靴も気をつけてくださいね」
そういうと、結衣さんがそのシャチみたいなツートンカラーのスニーカーに視線を落とす。
「え……そんなにすごいの? かなたみたいにサンダルでくればよかったかな」
ちょっとだけ弱気になって来た結衣さんに笑って、ピッタリと肩をくっつけた。
今日の結衣さんは運転が楽なようにとラフなコーデで新鮮だ。
どんな服装をしていても、スタイルが良いからいつも綺麗だけど。
艶やかな黒髪の隙間から覗くピアスが太陽光を反射して輝いて、素敵だな、と思った。
今日をずっとずっと楽しみにしていたから、試験勉強だって頑張れた。
結衣さんと過ごす初めての夏休み。とは言っても来週からイギリスに帰ることが決まっている私は、夏らしいイベントなんて多分これっきりになるだろうけど。
八月の終わりに帰ってくると言ったら、まだ花火大会とかやるところもあるよと結衣さんは教えてくれた。
隣の彼女を盗み見る。
モテてモテて仕方がないこの人は、きっとデートの予定でいっぱいに違いない。
みんな彼女を欲しがってやまない。誰のものにもならないとわかっていても手を伸ばしたくなる気持ち、今ならわからなくもないと思った。
こんなに魅力的な人、結衣さんの他に私は知らない。
生まれて初めて見たシャチは、想像以上にずっと大きかった。
白と黒の巨体が、深くから急浮上して歓声と共に軽やかに飛び上がる。
高く飛び上がったと思ったら、今度は思い切り水面に身体を打ちつけるから、大きな音と共に想像以上の水の塊が、容赦なく頭上から降り注いだ。
青空に水飛沫が上がって、太陽を反射してきらきらしてる。
あぁ、久しぶりの日本の夏だ、と思った。
歓声、というよりはもはや悲鳴に近い観客の声が落ち着いた頃。レインコートを着ていたのに、二人ともすっかりずぶ濡れになっていた。
「こんなにすごいんだね、びっくりしたぁ」
結衣さんが無邪気に笑って、濡れた前髪をかきあげる。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫。水かけられるのは、慣れてるから」
意地悪く笑って私の顔を覗き込む結衣さんの腕を肘でつく。
日差しがあるから、あっという間に乾いてしまいそうだけど。
ハンカチで顔を拭われてくすぐったい。
「……しょっぱい」
「大丈夫?」
顔に飛んだ水滴を舐めてしまって塩辛い。あまりの塩っぱさに思わず、うぇと舌を出すと結衣さんが笑った。
「イルカとアシカのショーもあるから、すぐに移動しないと」
「イルカとアシカも水かけてくる?」
「それはシャチだけです。しかも夏限定。だから来たかったんです」
結衣さんの手を取って、早く、と引っ張ると、立ち上がった結衣さんが私を見て柔らかく笑った。
「……ほんっと、かわいいね」
「な、なにがですか?」
「何でもない。行こ、次はイルカだっけ?」
繋いだ手を引かれるように歩き出す。
顔が火照るように暑いのは、きっと日差しのせいに、違いない。
イルカ、アシカとショーを観て、たっぷり満足した後、ゆっくりと館内を観て回る。
館内は薄暗いしはぐれてしまったら大変だからと、緩く絡んだ指先が解けてしまわないようにきゅっと握ると、結衣さんが優しく微笑んだ。
結衣さんの、この笑顔に私は弱い。なんでこんなに優しい瞳で私を見るんだろう。
心臓がキュッと締め付けられるような感じがする。
大きなクラゲの水槽の前で、二人並んで椅子に座る。ふよふよ浮かぶその姿はずっと見ていられる。
「水族館ってあんまり来たことなかったんだけど、楽しいね。ハマっちゃいそう」
「デートとかで行かないんですか? 普段」
「デートする相手がいないもん」
ぎゅう、と爪が刺さるくらいに繋いだままだった手を強く握る。
「痛い痛い」
「相手なんていっぱいいるじゃないですか」
「そんなことない。かなただけだよ、デートするのは」
砂糖みたいに甘い言葉を、耳元でそっと囁くから思わず睨みつける。
わかってるんだから。この人は誰にでも、同じことを言っているに違いないってこと。
「デートなんですか、これ」
「私はそのつもりだったけど、かなたは違った?」
そう言って意地悪く繋いだ手に視線をやるから、急に恥ずかしくなって手を引くと、呆気ないくらい簡単に繋いだ手が解かれる。
「恥ずかしがらなくていいのに」
「……結衣さん、デートなんて言ってない。『お詫び』に連れてってくれるって言ってませんでした?」
「そうだっけ?」
「……ほんと、調子がいいんだから」
立ち上がって歩き出すと、私の後ろを結衣さんが続いた。
この人と一緒にいて居心地がいいのは、歩くペースも、何もかも、全部私に合わせてくれているからだ。
早川くんと出かけたときに、初めて気付いた。男性は歩くのが速いのかなと思ったけど、そうじゃない。結衣さんが、私に合わせてくれていたんだって。
「そろそろお腹すいた? レストラン行く?」
隣に追いついた結衣さんが、そっと私の右手を取った。指先が絡む。
ねぇ、どうしてわかるんですかって、聞いてみたくなる。結衣さんって、本当は私の心が読めたりするんだろうか。
まるで魔法でも使ってるみたいだと思った。
丸一日水族館を見て回れたし、お詫びにとシャチのぬいぐるみまで買ってもらって大満足の一日だった。
車に乗り込むと、ぬいぐるみを膝に乗せる。エンジンが掛かると同時に吹き出してきた冷たいエアコンの風が気持ちが良い。
「今日、すっごく楽しかったです」
「よかった。言ってくれたらどこでも連れてってあげるよ。水族館でも、動物園でも、遊園地でも」
「……迷惑じゃないですか?」
「そんなことないよ」
きゅっと、結衣さんの手が私の手を握る。今日一日中繋ぎっぱなしだったのに、車内で、二人きりで、手を繋がれると何だか恥ずかしくなってくる。
「これで……許してくれた?」
結衣さんは私の表情を窺うようにこっちを見ていた。キスしたことを謝らなくて良い、とは言ったけど、そういえばまだ許すとは言っていなかったっけ。
もうとっくに許していたからすっかり忘れてしまっていたけど。
もしかして気にしてたのかな、ずっと。
「もう怒ってませんよ。……むしろ、これだけしてもらって逆に申し訳ないくらいです。今日、本当に楽しかったから」
車を出してくれて、チケットを買ってくれて、ぬいぐるみまでプレゼントしてくれた。
私の唇にここまでの価値があるかと言われると正直、もらい過ぎかなとも思う。
そっと、繋いでいた指が解ける。その手がすっと伸びてきて、優しく私の頬を撫でた。
夜の海みたいな深い色の瞳が、私を捉えて離さない。
「私も、楽しかった」
そっと親指が唇を撫でる。ぐわっと急に心臓に血が集まってきてどっくんどっくんと脈打った。
その眼差しに見つめられると、呼吸も忘れそうになる。
あまりにも綺麗で。溺れてしまったみたいに、息も、できない。
「……かなた」
名前を呼ばれた。鼓膜に響くその声は、いつもよりもずっとずっと甘く、優しい色をしていた。
お願いだからそんなに優しい声で呼ばないで。
まるで愛おしくてたまらない、みたいな、そんな目で、私を見ないで。
手が、首の後ろに回って、引き寄せられる。結衣さんが身を乗り出して、距離が近づいた。
キスされる、と直感でわかった。
なんで、とか。そんなの考える暇も与えてくれないくらい、こうすることが当たり前みたいに。
自然と目を瞑りそうになったその時だった。あと数センチで唇が触れるという距離で、急に着信音が鳴る。
ピタリ、と結衣さんが止まった。
その音は、私のスマホからじゃない。車のナビに名前が浮かぶ。結衣さんへの着信。
北上慎二。初めて見る男性の名前だった。
その名前を見た瞬間、結衣さんはげんなりしたようにため息をつく。
手を伸ばして、ピッとナビの「切」ボタンをタップする。
結衣さんがまた距離を詰めようとするから、少しだけ冷静になった私は、膝の上のシャチを結衣さんの顔に押し付けてそれを阻んでいた。
「……かなた」
シャチごしに聞こえた不満そうな声に少しだけ笑う。
「電話、出なくていいんですか?」
「さっきのは会社の人。今日土曜日だし、出る必要ない。後から掛け直すからいいの」
「それにしたって……一回目のデートでキスしようとするなんて、結衣さん、手早すぎ」
さっき、雰囲気に流されそうになった自分を棚に上げて、彼女を責めるように見つめる。
正直、本当に危なかった。まだ心臓がどきどきしてる。
「……じゃあ、何回目ならいいの?」
「そういう問題ですか? もー、全然懲りてないじゃないですか……。本当に謝る気あるんですか?」
窓から差し込む夕陽が、どうか赤くなった頬を誤魔化してくれますように。
「……本当に、だめ?」
「……だめです」
今、キスを許してしまったら。たぶん私はもう彼女を拒否できない。
少しだけ怖かった。自分でも知らない扉をこじ開けられてしまいそうで、怖気付いている。
じーっと私を見ていた結衣さんだったけど、諦めたのかふーと小さくため息をついた。そんなにがっかりしなくても、とちょっとだけくすぐったい気持ちになる。
色んな女の子とキスどころかそれ以上のことだってしてるくせに。
私のことが特別だと言うけれど、結衣さんにとってその『特別』が何人いるのかはわからない。
「そう……わかった」
そっと手を取られたと思ったら、ちゅ、と手の甲にキスをされる。
呆気に取られてぽかんとその様子を見ていたら、結衣さんがくすりと笑って。
「……今日は、これで我慢してあげる」
なんて言うから、いよいよ顔が真っ赤に染まった。これはもう夕陽なんかでは隠しきれないと悟って、慌ててそっぽを向く。
「さ、帰ろっか」
結衣さんは、何事もなかったかのようにハンドルを握った。
私の鼓動はずっと鳴り止まないまま、車は、家に向かって走り出す。
来週、私は家族のいるイギリスに帰らなきゃいけない。
たったの三週間だ。だけど、その間にこの人は何人の女性とキスをして、夜を共に過ごすんだろう。
考えるだけで、どろどろとした感情が胸の奥に澱むのがわかった。
結衣さんと出会う前の自分がどうやって暮らしていたのかすらもう思い出せない。
少しだって離れたくないと思うなんて、今の私はきっと、どうかしている。
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