大学一年生、夏。
第11話 いつか、役に立つ時がくるかもしれないし
「……ね、結衣さん、やっぱり違うの観ません?」
「えー? まだ始まって二十分しか経ってないよ」
特大のプロジェクターと、サラウンドスピーカーから響く音響はさながら映画館のようで、恐怖に拍車をかける。
試験が目前に迫る、七月の夜。
エアコンをガンガンに効かせた薄暗いリビングで、ブランケットにくるまりながら、夏と言えばホラーだと言ってきかない結衣さんに押し負けて、何故か二人でホラー映画を観ていた。
結衣さんの足の間がすっかり定位置となっていた私は、お腹に緩く回った手をギュッと強く握りしめる。
「もっとちゃんとギュッてしてください」
「甘えん坊だね、かわいい」
「甘えてるんじゃなくて怖いんです。寝る時とか、思い出しちゃいそう」
「じゃあ、一緒に寝る?」
「……結衣さんが床に布団ひいて寝てくれるなら」
「なんで? 同じベッドで寝ようよ」
「……やだ。やらしいことされる」
「しないよ、もう水かけられたくないもん」
ぎゅっと手をつねると、結衣さんが笑って、私を抱きしめる力を少しだけ強めてくれる。
週末に二人で映画を観ることが習慣になりつつある。と言うか、結衣さんの趣味に私が便乗しているだけなんだけど。試験前だって言うのに全然勉強する気がなさそうな彼女につられて、今日もこうして足の間に潜り込んでしまったけど、たったの二時間ぐらい許される気がしてる。
「結衣さんって、いつ勉強してるんですか?」
「うん? ちゃんと大学行ってるよ?」
「そうじゃなくて、試験勉強の話」
「あー、寝る前にテキスト読んでる。三十分ぐらい」
「読むだけ?」
「うん」
なるほど、結衣さんは要領がいいタイプか。一緒にフラフラ遊んでたら地獄見るやつだ。だから律さんは図書館で一人勉強していたのかと何となく合点がいった。
私も一緒になって映画を見ている場合ではないかもしれない。この映画を最後に、やっぱりちゃんと勉強しないとと固く胸に誓う。
「試験終わって夏休みになったら、約束通り水族館行こうね」
「早めに連れて行ってくださいね。両親に、夏休み期間中イギリスに戻ってくるように言われてるので」
大学生になって初の長期休暇だって言うのに、両親は心配性だ。その間バイトだって行けなくなるし、久しぶりの日本のイベントを楽しめないのは残念だったけど、仕送りしてもらっている以上親の言うことは聞かないと。
マスターに言ったら快諾してくれたけど、シフトに穴を開けることになるのは心苦しかった。早川くんや天崎さんにも、今のうちに謝っておかないといけない。
「いつから帰る予定?」
「八月になったらすぐです。……だから早く連れてって」
ねだるようにそういうと、手を取られてそっと繋がれた。左手の長い指が絡まる。つるりと丸い結衣さんの爪にはボルドーが乗っていて、一体この人マニキュア何色持ってるんだろうと疑問に思う。
話しながらも映画を観ているだろうと思っていたのに、そっと後ろに首を向けるとかちりと音を立てたように目が合った。
思ったよりも近くて簡単にキスできそうな距離に、息を呑む。
「……映画、ちゃんと観てます?」
「観てるよ」
「……じゃあなんでこっち見てるの……」
「一カ月もかなたと離れるの、寂しいなと思って」
直球でそう言われて映画の内容が全然頭に入ってこない。そんなの、私だって思ってる。
顔が赤くなっていないか心配で俯くと、ちゅ、と音を立てて耳に柔らかな感触がした。
「ひゃっ!」
キスされた、と気付いて、驚きと生理反応でびくりと身体がこわばる。慌てて耳を押さえて振り向くと、結衣さんがやっちゃった、と言うような顔で苦笑いした。
「ごめん、嫌だった? 赤くなってたから可愛くて、つい」
困ったような結衣さんに、この間のキスのこと、まだ気にしているらしいと気付く。
結局、結衣さんには何で怒ったのか、言わなかった。言えるわけがない。他の女性の移り香が残った身体でキスされたから怒った、なんて。
そんなこと言ったら、頭の良いこの人のことだ。揶揄うように言ってくるに違いない。
じゃあ、他の女性の匂いがしなければ、キスしても怒らないの? って。
「別に、嫌ってわけじゃ、ないです」
「……そっか、よかった」
急に恥ずかしくなってきて、前を向く。体重をぐっと後ろにかけると、ホッとしたように結衣さんの腕が私のお腹に再び回った。
「……かなたって耳、敏感なんだね。覚えとく」
恥ずかしくて身体が熱くなっていくのがわかる。そういうの、人に指摘されたことないし自分では何もわからないのに。
「そんなどうでもいいこと、覚えなくていいですよ……」
「えー、どうでもよくないよ」
そっと、耳元に押し付けられる唇。やっぱり、なんか背筋がぞわぞわする。さっき嫌じゃないと言ってしまった手前、拒否することもできずにきゅっと目を瞑る。
逃げそうになる身体をギュッと抱きしめて固定して、結衣さんが揶揄うような声色で、ささやいた。
「……いつか、役に立つ時がくるかもしれないし」
「役にって、なんの……?」
そこまで言って、結衣さんの言わんとしていることを理解してしまって、慌ててその手から逃れる。
呆気なく腕は外れたから立ち上がって距離を取ると、あはは、と笑う結衣さんの声がした。また揶揄われたのだと気付く。
「ほんっとに、もう、結衣さんってえっちなことしか頭にないんですか!?」
「顔真っ赤だよ、かわいい」
「映画だって、全然観てないし!」
「怖がるかなたが見たかったの。十分満足したからもういいや」
あれだけ視聴停止を要請したのに聞き入れてくれなかった結衣さんは、あっさりと映画を止める。
「ほら、おいで。あと一カ月したら離れ離れになっちゃうんだから、もうちょっとかなたを堪能させてよ」
そう言ってソファの上で両手を広げて笑う結衣さんに折れて、その腕の中に吸い込まれるように収まりに行ってしまう。
腰に腕が回って、身体が密着するとやっぱり気持ちがいい。
優しさは、甘さだ。この甘さには依存性がある。一度知ってしまったら簡単には手放せない。本当に、ずるい人。
二人きりになれば、相手がどんな女性だってこういう態度を取るのだろう。私だけが特別じゃない。
想像してみる。結衣さんが本気だったとしたら、きっとあのまま、雪崩れ込むように女性を組み敷いてしまうんだろう。
こんなに綺麗な人が女性に欲情すると知れば、同性愛者じゃなくたって抱かれてみたいと思う人がいてもおかしくはないと思う。
私のことは「タイプじゃない」から。キスも、ハグも、全部彼女の戯れで、本気で口説こうとしているわけじゃないとわかる。
別に、それでも良いはずだ。だって私は、同性愛者じゃない。優しい結衣さんが好きだけど、それは恋愛感情じゃない。
私が女性を好きになるなんて、そんなこと……あるわけない。
「どうしたの、難しい顔して」
眉間に皺が寄っていたのか、優しく指で押されて首を振る。
「試験のこと考えてたんです。ね、結衣さん勉強教えてくれませんか。せっかく同じ学部にいるんだから」
「……テキスト読めばいいだけじゃん?」
「普通はそれだけで理解できないから、机に向かって勉強するんですよ。ね、お願いします。試験まで毎日、教えてください」
「え? 毎日勉強するの?」
「わからないところ答えてくれるだけで良いですから」
結衣さんは、おねだりに弱い。仕方ないなぁ、と渋々受け入れてくれたことに安心した。
これで試験期間までは、結衣さんは家にいてくれる。朝帰りすることも、他の女性の移り香に心をかき乱されることもない。
「あ、でも明日は食事会があるから遅くなるかも」
「お父さんですか?」
「んー、うん、そう。お父さんと、会社の人」
前も、思ったけど。なんだかちょっと嫌そうだ。お父さんのことは普段の口ぶりから嫌いじゃなさそうだし、とすると。
「会社の人、嫌なんですか?」
何気なく聞いたつもりだったのに、結衣さんは目を丸めた。
「……そう見える?」
「違うんですか?」
「いや、嫌いではないんだけど……気が進まないんだよね。お父さんだけならいいんだけど。色々気使うし、疲れるから」
色々と事情はあるんだろう。結衣さんはまだ学生だけど、これから入社する会社だし、お父さんが社長だと大変なんだなと思う。
「大変ですね」
「……かなたって、よく私のこと見てるね」
「えっ」
ぎく、と背筋が伸びる。どう言う意味だろうか。深入りしすぎたかなとちょっとだけ不安になる。
「顔に出してないつもりだったのに、嫌がってるってバレちゃった」
「……結衣さんって、わかりづらいですもんね。何考えてるのか、よくわかんない」
「かなたはわかりやすいよね。ちょっと複雑な時もあるけど」
ムッとする。複雑ってそれってつまり。
「……どうせ私は、結衣さんが嫌いなめんどくさい女ですよ」
「嫌いなんて言ってないでしょ? むしろ彼女にするなら、かなたくらい感情がわかりやすい方が、可愛いと思うけど」
目を見つめられてストレートに言われて、面食らう。
「……彼女、作る気ないくせに」
「そうなんだけどね。だから、遊ぶなら『めんどくさくない』子がいいの。それだけの話」
なんで、そんなこと言うの。心臓がドクドクと跳ねる。訊いてみたくなる。
「じゃあ、結衣さんは……」
「うん?」
「冗談じゃなくって、私のこと、抱けますか?」
結構な覚悟を持って言った言葉だったのに、質問には答えずにぐっと腰に回った腕が身体を抱き寄せる。顔が近付いて、結衣さんが目を伏せるから、キスされそうだと気付いて慌てて掌で押し留めた。
「……なに、この手」
掌越しに恨めしそうな顔で見つめられて、顔から火が吹き出しそうになる。
確かに嫌じゃないって言ったし、今は結衣さんの匂いしかしない。拒否する理由なんてどこにもないのに、頭の中で警鐘が鳴っている。今流されたら、やばいと。
口元を押し留めていた手を外すと、結衣さんはどことなく不服そうな顔をしていた。
「だ、だって急にキスしようとするから……」
「今のは誘われたと思った。違うの?」
「誘ってませんっ! 確認しただけです!」
「えぇ? ひどいよ、弄ぶなんて」
「……それで、どうなんですか?」
答えが訊きたくて、じっとその瞳を見つめる。自分にちゃんと魅力があるのか知りたい。
前の彼とはセックスが原因で別れていると結衣さんにはもう知られているし、気持ちよくなれないって伝えてる。
それでも、抱けるんだろうか、不感症の、つまらない女でも。
不安を見透かすように、ふっと結衣さんが柔らかく微笑んだ。
「さあ、どうだろう。やってみないとわかんないなあ。試していい?」
その黒い瞳の奥が——笑っていて。あぁ、また揶揄われていると理解した。
「……結衣さん、私のこと揶揄ってばっかり」
「じゃあ、抱けるよって言ったら抱かせてくれるの? かなたって、付き合ってない人と気安く寝るタイプには見えないんだけど」
それはあたりだ、と思う。そもそも異性と付き合う上で、セックスしたいなんて自分からは思ったことないんだからわざわざ身体だけの関係を結ぶ必要性を感じない。
付き合ってるならまだしもそうじゃない人のために苦痛を我慢するなんて無理だ。
黙りこくってしまった私に、結衣さんが笑って言った。
「ほらね、揶揄ってるのはどっち?」
私は結衣さんに、抱けると言って欲しかったのだと思う。でも、言って欲しかっただけで、今、結衣さんとそういうことをする覚悟はない。
やっぱり怖い。性別とか関係なしに、がっかりされるだけだと思うから。自信が、ない。失望されたくないと思う気持ちの方がずっと強い。
多分、全部それをわかっている結衣さんの答えは——私のことは抱けない、ってことなのかなって、思った。
いたずらな瞳が私を見つめる。きっと夏のせいだ、と思う。夏の暑さで、頭がばかになって
いる。
夏はまだ、始まったばかりなのに。
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