第10話 どうしたら許してくれる?

 世の中には、やっていいことと、悪いことがある。


 一般的に、付き合ってない相手に許可も得ずキスをすることは、悪いことだ。


 昨日の結衣さんは今まで見たことがないくらい泥酔していたし、情状酌量の余地が完全にないわけではない、と思う。


 たかがキス一回ぐらい、別に初めてでもあるまいし。頭から水をぶっかけたのは少しやり過ぎだったかもしれないと、朝になってやけにスッキリした頭で考える。


 いつもよりずっと早く目覚めた朝。今もまだ唇に残された感触が消えてくれない。


 結衣さんは、いつものように何もなかったみたいにおはよう、と声をかけてくるだろうか。わからない。想像もできない。


 のろのろとベッドから這い出て、シャワーに向かう。結衣さんが起きてくる前に、一刻もこの家から逃げ出したかった。








 家主の部屋のドアが開いたのは、私がボストンバッグに荷造りを終えて、家から出る準備が整ったころだった。


「……おはよう、かな、た……」


 二日酔いでしんどそうな顔をして額を抑えながらリビングに現れた結衣さんが、きょとんと目を丸める。まずは私を見て、それから手に持っているボストンバッグに視線を移す。


 昨日と比べてやけにさっぱりしているから、あの後シャワーを浴びたらしい。それもそうか、だって頭から水をぶっかけられたんだからそのまま寝られるわけがない。


「……どしたの、その荷物」


「しばらく友達の家に泊まります。心配しないでくださいね、それじゃあ」


「えっ……ちょっと待って、かなた!」


 追いかけてくる足音から逃げるように真っ直ぐに玄関に向かうも、廊下で追いつかれてぱっと手を掴まれる。

 振り返ると、結衣さんは少し困ったような顔をしていた。


 本当に、憎たらしいほど綺麗な顔だ。きっとこの顔がいけない。世の女性たちがこの人を甘やかしたから、結衣さんはこうなった。


「……結衣さん。昨日、私に何したか、覚えてますか」


 酔っていて覚えてない、なんて言った日にはその頬を張り飛ばしてやる。そんなつもりで彼女を見つめた。


 結衣さんは観念したように、大きく呼吸した後、覚えてる、と呟くように言った。消え入りそうな声だった。


「……怒ってる、よね」


「……怒っていないように見えますか」


 なんで怒ってるのか、なんて聞かれたら今はまだうまく理由が説明できない。時間が必要だと思った。ちゃんと思考を整理するための時間が。


 それよりも前に結衣さんと向き合ってしまったら、思ってもいない言葉を投げつけてしまう気がして、とにかく今は距離を置きたいと思った。お互いのためにも。


「ごめん、昨日はすごく酔ってて……」


「もう行きます。遅れちゃうので」


 ぱっと手を振り払って、逃げるように玄関を飛び出す。ちょっと待って、と言われた気がしたけど全部無視した。


 その言葉の続きは、聞きたくなかった。


 酔っていたから、誰でもよかった。


 そう言われたら今度こそ、その頬を思い切り張り倒してしまいそうだったから。





***






 申し訳ないんだけど今日家に泊めて、なんてお願いできる友人なんて、私には一人しか心当たりがない。


 期待して頼み込んだ友人は、想像していた以上にあっさりと快諾してくれた。


 肩まである金髪をひとまとめにしている彼女の名前は、阿澄悠里。大学でできた初めての友達。


 地方出身の悠里は一人暮らしをしていて、学生向けのワンルームアパートの二階に住んでいる。


 なんでもロックが大好きで、お世辞にも広いとは言えない部屋の壁には所狭しとよくわからないバンドのポスターがペタペタ貼ってある。


 大学終わりに押しかけた私に文句一つ言わずに、ベッドの脇のギターを避けて、来客用だという布団を敷いてくれた。その上にちょこんと体育座りする。


「悠里が泊めてくれて、助かった。本当にありがとう」


「別にいつまで居てくれたっていいけどさ、家出するなんて先輩と喧嘩でもしたの?」


 私のボストンバッグをつつきながらにんまりと面白そうに聞いてくるから、居心地が悪い。言えるわけない。結衣さんにキスされて、怒って家出したなんて。


「……まぁ、だいたいそんな感じ」


「一ノ瀬先輩って優しいって聞いてたけど、そうでもないんだ? かなたとは合わないタイプ?」


 いや、あの人は噂以上に優しい。合うかどうか……は正直自分では判断がつかない。私は結衣さんとの生活は居心地がいいと思ってるけど、結衣さんがどう思ってるのかはわからない。


「優しいよ。優しいんだけど……たまに何考えてるのか全然わかんない時があるんだよね」


「ふーん。で、今回の喧嘩は、どっちが悪いの?」


 そう問われて言葉に詰まる。原因を作ったのは結衣さんだ。でも、水を掛けたのは私もやり過ぎだった。だから、どちらが悪いのかと言われると……。


「微妙……」


「あはは、何それ」


 悠里があっけらかんと笑う。深くまで根掘り葉掘り聞いてこないのに、しっかり話を聞いてくれる悠里のことを、私は結構好きだったりする。


「もう一緒に暮らしたくないってくらい、先輩のこと嫌になった?」


「そういうわけじゃないよ、ただ今は顔を合わせる余裕がないっていうか」


「でも時間が経つと気まずさって増す一方だよ、マジで」


「わかってるけど……」


 わかってる。わかっているけどどんな顔をしたらいいかわからなくて困ってる。


 あの後結衣さんから、話がしたいから帰ってきてとメッセージが来ていたけど、無視してスマホの電源を切った。


 向き合うのが怖い。時間が経てば経つほど怒りの波が引いて、浮き彫りになっていく私が怒っていた理由。腹が立ったのは確かだ。でも、それはキスをされたからじゃない。


 他の女性の匂いを纏わせたまま、私に触れる無神経さに腹が立った。


 そう理解してしまったら、もうキスしたこと自体を責められる気がしなかった。


 だって、嫌じゃなかった。自分でもびっくりするけど。


「先輩と仲直り、したくないの?」


「したいよ……。仲直りしたい」


 ぎゅう、と膝を抱える。完全に駄々をこねる子供みたいになっている自覚はある。


 ピコン、と悠里のスマホが鳴った。メッセージが誰かから来たらしく、すいすいとスマホの画面に指を滑らせている。


「そっか。まあ、色々思うところはあるよね。あ、かなた、先にお風呂入ってきなよ」


「え、いいの?」


「ゆっくりしてきな。ちょうど沸いたし」


 ひらひらと手を振って言うから、言葉に甘えて先にお風呂をいただくことにした。







 悠里のアパートは学生用だから、バスタブはあまり大きくない。


 あの家に暮らしてしばらく経つから慣れてしまっていたけど、改めて結衣さんは本当にお金持ちなんだなと思う。


 普通の家にはジェットバスなんてそうそうないし、学生の家ってこれが普通だと思う。


 膝を抱えて口元まで沈む。家出をしたのは私なのに、なぜだろう。


 今すごく、結衣さんに会いたいと思っている。


 へんなの。私、怒っていたはずなのに。


「……可愛くて、めんどくさくない子、かぁ」


 浴室に響く自分の声。そりゃあ、私のことはタイプじゃないわけだ、と思った。








 髪を乾かして脱衣所から出ると、悠里が誰かと電話している声が聞こえた。廊下と部屋を遮るドアを開く。


「あ、上がった?」


「ごめん、電話してたの?」


「今着いたってよ、一ノ瀬先輩」


「えっ?」


 なんのこと、と首を傾げる。すると悠里は電話に向き直って、二◯三号室です、と言って電話を切った。


「一ノ瀬先輩から今、電話があって」


「なんで悠里が結衣さんの電話番号知ってるの?」


 え、まさか関係持ったことあるなんて言わないよね。そう疑問に思った私を見抜いたように悠里が笑う。


「中原律さんって知ってる?」


「知ってる。結衣さんのお友達だけど……」


「さっきサークルの先輩経由でメッセージが来てね、一ノ瀬先輩とルームシェアしてる子の、一番仲が良い友達教えてって探し回ってたみたいで、それで私に」


 律さん、交友関係広すぎない? 察するに、困り果てた結衣さんが律さんを頼ったのだろう。事情をどこまで話したのかはわからないけど、こういう時に律さんは私に直接連絡をしてこないあたり、いつも悪態をついていてもやっぱり二人は親友なのだな、と思う。


 結衣さんが来てると聞いて固まっていると、悠里が私の背にアウターを掛けた。


「湯冷めしないようにね。こんなに必死にかなたのこと探してるなんて、よっぽど仲直りしたいんだと思ってさ、住所教えちゃった。帰りたくないならこのままうちに泊まってもいいけど、どうする?」


 すっかり心が折れてしまった。怒っていたはずなのに、迎えに来てくれて嬉しい、なんて、自分でも矛盾していると思う。


「…………帰る。ありがとう、悠里」


「ちゃんと仲直りしなよ?」


「……うん」


 こういうところが私のだめなところ。めんどくさいと言われても仕方がない。


 ピンポーン、とインターフォンが鳴って、悠里がドアを開ける。結衣さんが、ドアの前に立っていた。


 二日酔いのはずなのに、他所行きの彼女はいつだってしゃんとしてる。疲れも、動揺も、おくびにも出さず、にっこりと笑った。


「遅くにごめんね、初めまして、一ノ瀬結衣です」


「かなたの友達の阿澄悠里です、初めまして」


 挨拶もそこそこに、結衣さんがアウターを羽織ってじっとしてる私に視線を向ける。一歩が踏み出せなくて様子を窺っていると、悠里が私の背をぐいと玄関に押しやった。


「……かなた、帰ろ」


 優しく言われて、渋々と言った風に頷くと、結衣さんが安心したように笑った。


「悠里、遅くまでごめんね」


「いいよー。また、大学でね」


「うん」


 悠里に手を振って別れると、アパートの脇に停められている結衣さんの車が見えた。黒くてピカピカした高級車だからすぐにわかる。


「かなた、荷物貸して」


 そう言って私のボストンバックを持ってくれた結衣さんの後ろをついていく。助手席のドアを開けてくれた結衣さんに中に入るように促されて、大人しく車に乗り込んだ。


 結衣さんと二人きりになる車内。はい、と暖かいミルクティーを手渡されて驚く。


「さっきコンビニで買ってきた」


「ありがとうございます……」


 結衣さんの良いところでありダメなとこ。こういうとこなんだよなあ、と思う。好きな人以外にこんなに優しくしちゃいけないって、どうして誰もこの人に教えなかったんだろう。


 そんな私の思いをよそに、車は家に向かって走り出す。


 それっきり車内で、結衣さんは一切喋らなかった。私も何と話を切り出したらいいかわからずに黙っていた。


 横顔を盗み見る。落ち着いていて、二つしか違わないのに私よりもずっとずっと大人に感じる。


 家までの道のりは、すごく長く感じた。







「おかえり」


 リビングに入るとそう言われて、なんて返したらいいかわからなくなって俯いた。


 朝、威勢良く家を飛び出したくせに、今は借りてきた猫のようだと言われても仕方ないかも、と思う。


 座ってよ、とソファに座るように促されて、大人しく腰を落ち着けると、結衣さんが床に両膝をついて膝の上の私の手を握った。


 逃げ出したりしないのに、私を真正面から真剣な瞳が真っ直ぐに見据えてくる。


「かなた。昨日のこと、ちゃんと謝らせて」


 暖かい手を握り返す。私も結衣さんに謝らなきゃいけないと思っていたのに、俯いてしまうのはきっと私が結衣さんに甘えているからだ。


「キスして、ごめんね。同性にこんなことされて、気持ち悪かったよね」


 え、どうしてそうなるの。ぱっと顔を上げると、結衣さんが少しだけ寂しそうに笑った。ちがう、そうじゃない。


「もし許してくれるなら、これからも一緒に暮らしていきたいと私は思ってるんだけど」


「……結衣さん」


 遮るように名前を呼ぶ。勘違い、しないで。ぎゅう、と手を握る。


「キスが嫌だったんじゃないんです。気持ち悪いなんて、思ってない」


 結衣さんが、え、と少しだけ驚いたように目を見開いた。


「……じゃあ、何が嫌だった?」


 柔らかく優しい声。この声に名前を呼ばれるだけで、自分の心の柔らかいところを引きずり出されるような気さえする。


 何が嫌だったか、なんて。そんなの。


「……言いたくありません」


「えぇ? 言ってくれないとわかんないのに。謝ることもできないよ」


 困ったように結衣さんが言う。


「いいです、謝らなくて。結衣さんこそ、水かけたの、怒ってないんですか」


「水? 怒ってないよ。私が悪かったから」


「……めんどくさいって、思ってるでしょ」


「思ってない思ってない」


 優しい笑顔に、凍りついていた心が溶かされていく。最初から逃げずに、話をすればよかった。


「ねえ、かなた。どうしたら許してくれる?」


 本当はとっくに許している。でも、せっかく結衣さんがこう言ってくれてるんだから、甘やかしてくれるこの人に、素直に甘えてしまえばいい。


「……寂しかったです、ちょっと離れてるだけだったのに。結衣さんのせいで、家出しちゃったから」


 言えば、結衣さんが笑って立ち上がった。そのまま隣に座って、ぎゅっと私を抱きしめてくれる。


 胸元に擦り寄ると、混じり気のない結衣さんだけの、匂いがする。この匂いがたまらなく好きだ。


 独り占めなんでできないってわかっていても、この腕の中は私だけの場所であって欲しいと、思ってしまう。


「本当にごめんね。お詫びに何でもするよ」


「……なんでも? ほんとに?」


「本当だよ。なんでも」


「……じゃあ、夏になったら水族館に連れてって。シャチがみたい」


 そう呟くと、結衣さんが私をぎゅうっと抱きしめながら笑った。


「水族館? 早川くんと行かなくていいの?」


 なんでここで早川くんを出すんだろう。意地悪な人。


「いいの。結衣さんが、連れて行ってくれるって約束して」


「わかった、いいよ。約束する」


 そっと手を取られて、小指を絡める。笑ってられるのも今のうちだ。房総半島って結構、遠いんだから。


 これから、本格的な夏が来る。私たちの関係性も少しだけ、変わるような気がしていた。

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