第9話 酔い、覚めましたか
律さんから送られてきた店の位置情報を頼りに、息が上がるくらいの速さで、私の身体は夜風を切って結衣さんの元へ向かう。
あの後、席に戻ってすぐ早川くんには謝って、用事ができたからもう行かないと、と告げた。
食べるだけ食べておいて申し訳ないなと思いつつも、律さんから送られてきた写真が頭から離れなくて、胸の奥がざらついてどうしようもなかった。
そういう人だと、最初から知っていた。彼女には、私が知らない一面がある。私に隠している顔がある。
それは同性愛者であるとか、異性愛者であるとか関係なく、私と結衣さんを隔たる壁のようなものだった。
私が今日家を出てから、結衣さんに何があったのかは知らない。バイト終わりに迎えに行こうかと聞いてくれたぐらいだから、少なくとも、朝の時点では予定はなかったはずだ。
憂さ晴らししようとして飲みに出かけたのかもしれないし、その流れで女性を口説いていたのだと想像もできる。
それとももっと前に、飲みすぎるほど嫌なことがあったのだろうか。言ってくれたら、私だって、家を空けたりしなかった。
抱きしめられていた女性は、嬉しそうに笑っていた。
その表情を見て、一瞬、ほんの一瞬だけ。考えてはいけないことを考えた。
そこは私の場所だ、なんて。
寂しい時は抱きしめてあげると言ってくれたのに。結衣さんにとって、寂しい時に抱きしめたいと思うのは私ではないのだと、思い知らされた気がした。
バーは、飲み屋街の一角にあった。二十歳以上しか入れないから、入り口の前で律さんに電話する。彼女はすぐに電話に出てくれた。
『あ、かなたちゃん、ついた?』
「はい、お店の外にいます」
『オッケー、今連れてくから。……ほら、結衣、もう帰りな』
電話の向こうで、音楽に混じって、えー、もう帰っちゃうんですか、なんて声が聞こえてくる。さっきの子だろうか。
『かなたちゃん、一旦切るね』
「……はい」
そわそわしながら二人が来るのを待つ。一分一秒がすごく長く感じた。
「結衣、ほら、真っ直ぐ歩いて」
「真っ直ぐ歩いてるよ〜」
律さんに担がれるようにして、結衣さんがバーから出てくる。一目見て、泥酔しているとわかった。
色々と言いたいことはあったけど、それを押し留めて飲み込んで、軽く手を上げる。
「律さん!」
「あー、かなたちゃん、ごめんねぇ、この馬鹿のせいで」
「あれ、なんでかなたがいるの?」
今気付いたのか、結衣さんがアルコールで据わった瞳で私を見つめる。
「あんたを迎えに来てくれたのよ」
「だめだよかなた、ひとりで来たの? こんなとこふらついてちゃ、あぶないよ」
私より結衣さんの方が心配なんですけど、と思ったけど飲み込んだ。酔っ払いを相手にしている場合ではない。
「……なんでこんなになるまで飲んだんですか?」
家でもよく映画を見ながらお酒を飲んでるのを見かけるけど、ここまで酔った姿を見るのは初めてだった。
結衣さんは、アルコールにはかなり強い方だと思う。いつも顔色ひとつ変えないから。
「さあ、わかんない。止めたんだけどガンガン飲むからさぁ……」
律さんも困ってるようだった。とにかく引き取って何とかしてくれってことなんだろう。
そうですか、と頷いて、道路に向かって手を上げる。幸運にもタクシーはすぐに止まってくれた。
「あ、結衣、これさっきの子から。渡してって頼まれた。連絡してだって」
律さんは紙切れを結衣さんのポケットに突っ込んで、開いたドアに結衣さんを押し込める。続けて私もタクシーに乗り込んだ。
「かなたちゃん、ありがと。助かったわ。今度なんか奢るね」
タクシーの窓越しにバチンとウインクをして律さんはバーに戻って行ってしまった。
ドライバーさんに行き先を告げると、緩やかに車は夜の街を走り出す。
結衣さんに触れた肩が熱を持っているように熱い。
二十歳になってもいないのにバーに来るなんて危ないとか、一人で飲み屋街を歩いちゃダメだとか、酔っ払いのお説教を聞き流しながら、心の奥に燻る感情を整理するのに精一杯だった。
***
「転ばないでくださいね」
「大丈夫だよ〜、そんなに酔ってないから」
結衣さんの腕を引いてなんとかリビングまで辿り着くことができて、ほっと胸を撫で下ろす。
結衣さんは華奢だけど、身長は私より十センチぐらい高いから、本気でもたれかかってきたら支え切れる自信はなかった。
「座っててくださいね、今水用意しますから」
グラスをカウンターに置いて、冷蔵庫を開けてミネラルウォーターを取り出す。
まず優先しないといけないのは酔っ払ってる結衣さんの介抱だ。正直、心の中はめちゃくちゃだけど。
なんで自分がこんなに、やるせない気持ちになっているのかわからない。
結衣さんが他の女性を抱きしめていた写真がずっと頭から離れない。
胸の奥がムカムカする。当たり散らしてやりたくなる。
なんで? 今は私が誰よりも近くにいるのに、結衣さんが何か困ったり傷付いたりした時に、他の女に慰めてもらうというのが納得できない。
だから腹が立ってる。こんな時にも選ばれない、頼り甲斐がないのであろう私自身のどうしようもなさに。
そんなことを考えながらグラスに水を注いでいると、突然、後ろから抱き付かれて身体が揺れた。
グラスから逸れた水がカウンターに溢れる。
「……結衣さん?」
結衣さんの手がお腹に回る。その手が思いの外強くて、ぴったりと密着した背中越しに温もりを感じる。
「……かなたはさ、今日、デートどうだった?」
アルコールのせいでいつもより柔らかくて甘い声で囁かれて、ぞくりと背が震えた。
なんで今、そんなこと聞くんだろう。それにこの体勢は、何。思い出されるあの写真。ちょうどこんな感じであの子を抱きしめてた。
「……結衣さん、ちょっと酔いすぎじゃないですか? 離してください」
「いーじゃん、ねぇ、教えてよ」
ぎゅう、と腕の力が強くなる。心のささくれだったところを逆撫でされている気分だった。
デートがどうだったか? そんなの聞いてどうするんですか。私にはぜんぜん興味ないくせに。どうでもいいくせに。
結衣さんの元へ向かう少し前。早川くんに好きだと言われた。返事はまだいらない、気持ちを伝えたかっただけだと。
断るチャンスすらくれない早川くんは、思ったよりいい人じゃなかったのかもしれない。
恋愛って駆け引きが大事って言うけど、私にはそういうのって難しい。もういいや、よくわかんない。誰か私のこの気持ちをシンプルに、言語化してくれないだろうか。
「……楽しかったですよ。告白されました。早川くん、私のこと好きだって。返事はまだ、してないですけど」
ぴくり、と結衣さんの手に力が入ったのがわかった。
「ふーん……そう。付き合うの?」
結衣さんが肩にぐりぐりと額を押し付けたせいか、声が少しだけくぐもって聞こえた。
「……結衣さんには、関係ないです」
あなたがそういうつもりなら、私だって何も言わない。どうせ私のことなんか、ただのめんどくさい後輩だとしか思ってないくせに。
精一杯の強がりを言い放った瞬間、私を抱きしめていた腕が解かれた。
と思ったら、肩を掴まれて突然ドン、と壁に背中を押しつけられる。
一瞬のことで何が起こったかわからなくて、結衣さんを見上げた瞬間、想像以上に近い距離に息を呑んだ。
ぐい、と顎を持ち上げられて、あ、と思った瞬間、整った結衣さんの顔がすぐそこにあった。
唇に押し当てられた、柔らかな感触。微かな、グレープフルーツのフレーバー。
頭の中に詰め込んでいたあれこれが一気に弾け飛んで、真っ白になる。
何が起こったのか、理解できなくて固まっていた。それはほんの数秒だったと思うけれど、結衣さんの香水に混じる別の女性の香りが私を現実に引き摺り戻す。神経を逆撫でする。
一度弾け飛ばしたはずの思考が一気に戻ってきて、思い切り、結衣さんの肩を突き飛ばす。
後ろに尻餅をついた結衣さんに、感情に任せて気付けばグラスの水を頭からぶっかけていた。
「……つめ、た……」
濡れた前髪をかき上げて、ちょっと怒ったみたいに眉根を寄せて気怠そうに見上げてくる結衣さんを睨みつける。結衣さんも、こういう表情するんだ。
「……酔い、覚めましたか」
手の甲で唇を拭うと、なぜかじわりと涙が滲み出してくる。
「最低……」
ぽろり、と涙が溢れて落ちたと同時に一瞬、結衣さんが目を見開いて狼狽えた。
この人、誰かにキスして嫌がられた経験ないんだな、とすぐにわかった。
むかつく、腹立つ、そういうところが、本気で許せない。
「……ご、ごめん」
引き止めようとする結衣さんの脇を通り過ぎて、自室に立て篭もる。ガチャリ、と鍵を閉めた後、結衣さんがドアの向こうで何か言ってたけれど全部無視してベッドに潜り込んだ。
もう決めた。今日は絶対、このドアは開かない。
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