第8話 一人で帰れないかも
今日、早川くんが、結衣さんが貸した傘を返しに来る。それだけならいいけど、彼はわざわざ私の退勤時間にバイト先に赴いて、夕飯をご馳走してくれるという。
男性に好意を向けられるのは、別に初めてじゃない。一般的な学生が経験するような異性間のあれこれは、ひと通り経験がある。
悪い人じゃない、と思う。出会った時からいい人だと思ったし、同僚として話をするのは嫌いではない。
でも……できれば店の外では会いたくないという気持ちは変わらない。
どうせならはっきり言ってくれれば、断ることができるのに……と思ったけれど、すぐに考え直した。
バイト先で揉めて居づらくなるのは、嫌だから。
憂鬱な朝。キッチンでコーヒーを淹れながら、ため息をつく。すぐに、コーヒーにしたのは失敗だったと思った。立ち昇るいい香りは、バイトを強く意識させる。
「おはよ、かなた」
「……おはようございます」
あんな出来事のあとで、全く気にしていないらしい結衣さんが呑気に自室から顔を出した。うーんと伸びをするからTシャツから引き締まった腹部が覗いて、慌てて目線を逸らす。
結衣さんが昨日、あんなこと言うから妙に意識してしまう。
「……なんかバイト帰りのかなたの匂いがする」
「あ……よくわかりましたね。うちの店の豆、マスターに貰ったんです。結衣さんも、飲みますか?」
「うん、ありがとう。先に顔洗ってくる」
様々な出来事に対して尾を引くタイプの私と違って、結衣さんって、基本的にはいつもさっぱりしてる。
あれこれ考え込む私とは対照的で、結衣さんの性格を考えれば、そりゃあめんどくさい子は選ばないだろうと思った。
結衣さんが顔を洗いに行っている間に、サラダを用意することにする。
結衣さんが朝食を用意してくれる時、いつだってサラダのミニトマトは半分にカットされているし、トーストにはバターを塗って出してくれる。
一方で私は、ミニトマトは切らずに添えるだけだし、バターはテーブルの上に置くだけだけど、特に何か言われたことはない。
思い返せば、結衣さんに不満を言われたことは、暮らし始めてから一度もない。
最初はただ優しい人なんだと思っていた。でも、最近わかってきたことがある。
結衣さんは、多分、初めから他人に過度に期待していない。
自分でなんでもできるから、余裕があって他人にも優しくできるのだと思う。
欠陥だらけの私とは、大違いだと思った。
「かなた、今日バイトなんだっけ」
ダイニングテーブルの向かい側に座った結衣さんがなんでもないような様子で聞いてくる。
平静を装おうとしているけれどどうしても結衣さんを直視することができなくて、俯いたままトマトにフォークを突き刺そうとして、つるんと逃げられた。
「はい。今日は、遅くなります」
「そうなんだ。迎えに行こうか?」
「いえ、今日は大丈夫です。バイトの後、予定があるので……夕飯、食べて帰ります」
本当は乗り気じゃなかったけど。結衣さんと二人きりになるのがなんだか気まずくて、少し時間と余裕を持ちたかった。
一旦自分の心の中を整理したい。結衣さんと一緒にいると、心が揺れ動いてばかりいる。
「ふーん……」
なんだか含みがある返事に、思わず顔を上げた。目が合うと、結衣さんがにっこり微笑む。
「早川くんとデート?」
「え」
早川くんと夕食に行くなんて言ってないのになんで彼と出かけるとわかったんだろう。びっくりしたのが顔に出たのか、結衣さんがすっと目を細めた。
「かなたって、わかりやすくて可愛いね」
「……何言ってるんですか、違いますよ。デートじゃないです」
私がわかりやすいんじゃなくて、結衣さんが察しがいいだけだ、と思う。彼女は人の欲求を掬い上げるのが本当に得意な人だと思う。
寒いと言わなくても膝にブランケットをかけてくれるし、喉が渇いたと言わなくても当たり前のように飲み物が出てくる。
「一途そうだし、いいんじゃない?」
本当にそうだろうか。結衣さんに初めて会った時、顔を赤らめていた早川くんを思い出す。
結衣さんがあまりにも興味なさそうに言うから、ちょっと面白くなかった。
私のこと可愛いとかなんとか言っておいて、冗談だったとしても夜のお誘いまでしておいて、あっさり他の男性を勧めるなんて。
「……本当にそう思います? 付き合ってもいいって」
思ってもいないことを口にした。付き合うなんて考えたこともない。
こんなことを結衣さんに言って、私は、彼女に、なんて言って欲しいんだろう。
どこまでも深い夜の海のような瞳が、真っ直ぐに私を捉える。
結衣さんって本当に何を考えているのかわからない。
近付いたと思ったら突き放したり、距離感がどうしたって掴めなくて、底が知れない深い海に沈んでいくような気持ちになる。
「んー……。かなたが好きなら、いいんじゃない?」
ほら、そうやってまた、遠く遠くに、逃げていく。
いつだって欲しい言葉をくれるはずのこの人は、肝心な言葉だけは絶対に言ってくれない。
***
早川くんがバイト先に現れたのは、私の退勤時間ぴったりだった。
手に結衣さんの傘を持って、はにかむ彼の笑顔が眩しい。
「青澤、久しぶり」
「お疲れ様です」
天気が崩れる前に傘を回収できてよかった。週間天気では明後日が雨の予報だったから、しばらくシフトが被っていなかった早川くんはわざわざ今日にしてくれたんだろう。
「お疲れ様。じゃ、行こう。お店予約してるから。今日は俺の奢り」
「あの、本当にいいんですか? ご馳走になっちゃって」
本当に奢ってもらっていいんだろうか。じっと早川くんを見つめると、彼は嬉しそうに笑って胸をどんと叩いた。
「バイト代、もらったばっかだから大丈夫」
ずきりと胸が少しだけ痛む。早川くんは、いい人だ。そんないい人の気持ちを今、私は利用している。
昨日のことがあって結衣さんを意識してしまうからって。ちょっと望んだ言葉を言ってくれなかったからって。……これじゃ、子供だ。
早川くんの少し後ろを歩く。やっぱり男の人は歩くスピードが速いな、なんて思いながら。
連れて行かれた店は、ちょっと……というよりかなり気合が入った個室のお店だった。メニューに並ぶ値段も、大学一年生が行くには勇気がいる価格帯だ。
てっきりバイト先の近くの定食屋さんぐらいだと思ってた。
お互い十九歳でお酒も飲めないから、飲みに誘われる心配もないしとたかを括っていたが、どうやらこれは結構本気のやつっぽい。
「好きなの、食べて」
「えっと、大丈夫ですか? バイト代なくなっちゃうんじゃ……」
お礼ってレベルじゃない。これは流石にデートで行くような店だ。早川くんの思惑をわかっていて、了承した私も私だけど。
大丈夫、とにかっと笑う早川くんに、苦笑いをする。それなら、とできるだけ安いメニューを頼んだ。
早川くんと話す時、結衣さんと話している時のような、探り合うような空気感は一切ない。他愛のない話が繰り返されるだけでただ時間が過ぎていく。
時計の針が一周と少しして食事も食べ終えた頃、急に早川くんがそわそわし出した。口数も少なくなってくる。
そろそろ、かな。二件目に誘われる前に帰らないと。もう十分、思考の整理はできた。
「青澤、あのさ……!」
早川くんが意を決して口を開いた時、私のスマホがテーブルの上で震えた。二人の視線が集中する。通知を見ると、律さんからだった。
「すみません」
話し始めようとした早川くんを遮って、スマホを手に取った。律さんがこんな夜に連絡してくるなんて珍しい。
チャットアプリをタップする。
『今日めっちゃ荒れてるんだけど、結衣と何かあった?』
メッセージと一緒に送られてきた写真が眼前に飛び込んでくる。
写真には、酔っ払ってるのか、薄暗いバーで、女の子を後ろからぎゅうぎゅうに抱き抱えて離さない結衣さんの姿が映っていた。
「………………」
ポンッと音と同時に追撃のメッセージ。
『結衣、飲みすぎて一人で帰れないかも。かなたちゃん、お迎え来れる? それとも今日は誰かにお持ち帰りさせちゃった方がいい?』
ミシッと音が立つほど強く携帯を握りしめる。無意識だった。額に青筋が立つのがわかる。
「あ、青澤……? 顔怖いけど……だ、大丈夫?」
「……ごめんなさい、少し席を外します」
携帯を握りしめたまま、まっすぐにお手洗いに向かう。この気持ちが何かなんて知らない。わからない。
ただ、今やらなきゃいけないことが何かはわかっている。
数コールで、律さんが電話に出たと同時に大きな声で叫ぶように言った。
「律さん、今、どこで飲んでるんですか? 迎えにいくので、場所教えてください」
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