第6話 拒否、しなくていいの?

 人間の本性は、弱った時や追い詰められた時に出るというけど、それは本当だと思う。


 昨晩、熱のせいでとんでもない事を口走っていた気がする。


 朝、目が覚めた時にはもう結衣さんはいなくて、熱はすっかり平熱に戻っていた。


 あれだけ熱を出したせいで寝汗で身体はべとべとで、すっきりさせたくて、シャワーを浴びにバスルームへ向かう。


 結衣さんは、まだ起きていないようだった。


 昨日のことを思い返すと、ちょっとどころか、かなり気まずい。


 水栓を捻って、熱いシャワーを頭から浴びる。そろそろ結衣さんが起きてくる時間だ。言い訳を考えないと、何か言い訳を……。


 そんなこと考えてたら、浴室のドアがコンコンとノックされたのに気付いて、心臓がギュッとなる。


 結衣さんが起きた。顔を洗いに来たに違いない。


 水栓をきゅっと捻って水を止め振り返ると、磨りガラス越しに結衣さんのシルエットが見えた。


「風邪引いてるのに朝からシャワー浴びてるの?」


 呆れたように言うけど、汗で気持ち悪かったんだから仕方ない。


「熱、下がったんで、もう、大丈夫です」


 浴室に響く自分の声はやけに弱々しい。昨晩のことを負い目に感じてるから尚更だ。ありがとうございましたとごめんなさいを言わなきゃいけないのに、気恥ずかしくて言葉に詰まる。


「そっか、それならいいけど」


 もう一度、水栓を捻る。シャワーを浴び終わったら、顔を見てちゃんと感謝を伝えよう。


 そしてできれば、どうか昨日の失態を、忘れてくれますように。







 浴室を出て、タオルで髪の水気を切っていると、あることに気づいた。


 ない。ドライヤーが、いつもあるところにない。


 この家には私と結衣さんしかいないんだから、イタズラをするとすれば犯人は一人しかいない。


「……もー、結衣さんってば……」


 昨日、わがまま言いすぎて怒っちゃったのかな。もしかしてその仕返し?


 不安になりながらも、肩にバスタオルをかけて、リビングに向かう。


「結衣さん、あの、ドライヤー……」


 そこまで言うと、ソファに座っていた結衣さんが、私に気付いてちょいちょいと手招きした。


 反対の手には私が探していたドライヤーを持っている。


「おいで、髪乾かしてあげる」


「えっ?」


 昨日のこと、怒ってるわけじゃないのかな? 恐る恐る歩み寄ると、ソファをぽんぽんと叩くから、促されるまま腰を落とす。


「あの、結衣さん……」


「後ろ向いて」


 昨日のことを話題に出せないまま、言われるがままに後ろを向いた。


 キュポンと何かのキャップを取った音がする。


「ヘアオイル、私のでいい? 嫌いな匂いじゃなければ」


 そう言って、少しだけオイルをつけた手の甲が後ろから伸びてくる。甘く優しい香り。


 あ、これ、香水に混じってする結衣さんの髪の匂いだ。いい匂い、といつも思っていた。


「嫌じゃないです」


「よかった。じゃあつけるね」


 オイルを馴染ませた手が、優しく髪を梳いていく。ここまでしてくれるの、となんだかくすぐったい気持ちになる。


 もしかしてお姉ちゃんがいたらこんな感じなのかもしれない、と思ったけど、すぐに思い直した。やっぱりしっくりこない。


 じゃあ……彼女、だったら。そう考えると、やけにしっくりくる。


「……結衣さん、美容師向いてるかも」


「ん? なんで?」


 髪を乾かす手付きは慣れていて、柔らかくて気持ちがいい。


「髪、乾かすの上手だから」


「そう? ご希望とあれば毎日乾かしてあげるよ」


 今まで何人の女性の髪をこうして乾かしてきたのか。経験が透けて見える特技だけど、悪い気はしない。


「……毎日、家にいないじゃないですか」


「そうかなぁ」


 後ろから聞こえる声はいつもよりどこか機嫌がいい気がする。


 私の髪も結衣さんに劣らず結構長いから、乾かすの、大変なはずなのに。


「はい、終わり」


 気持ちがいい指が離れていく。名残惜しい気持ちを押し留めながら振り返ると、結衣さんが優しく微笑んで私の頭を撫でた。


「……ありがとうございました」


「うん。体調はどう?」


「もう大丈夫です」


「そう? それならよかった」


 ドライヤーのコードをくるくるまとめている結衣さんの、手を掴む。すう、と大きく息を吸って、真っ直ぐにその夜の海みたいに真っ黒な瞳を見つめる。


「あの……いっぱいわがまま言って、すみませんでした。自分でも、何であんな事言ったのか……よくわかんなくて」


 じっと見つめ返されてやっぱり耐えきれなくて視線を泳がせる。真剣に見つめられると直視できない。


「あぁ……昨日のこと?」


 結衣さんの手が私の頬に伸びて、髪を耳にかけられる。


「正直、ちょっとびっくりした」


 めんどくさいことを嫌うこの人のことだから、いくら優しいと言えど、めんどくさいタイプの私のわがままはあまり好まないのではないかと不安になる。


「……ごめんなさい」


 謝ると、ふふっと結衣さんが笑った。


「なんで笑うんですか、本気で謝ってるのに」


「かなたが可愛くて」


「可愛いって、何が……」


 言葉の意味を確かめるように繰り返すと、ぐいと距離を詰められて思わず後ろに手をついた。


 整った彼女の顔が近づく。キスできそうなくらい近い。心臓が急にどくどくと鼓動を早める。


 えっ、なに、何がおきてるの。


 伸びてきた手が顎に添えられて、親指が唇に触れた。断られるなんて微塵も思っていないような自信満々な瞳に、圧倒されそうになる。


「……かなたの弱点、一つ見つけた」


「あ、の……結衣さん……?」


 黒い瞳が、私の唇を見つめる。優しく唇をなぞる親指に、呼吸が浅く、速くなる。

 近い。どうしよう。どうしたらいいの。


「ねえ……拒否、しなくていいの?」


 本当にキスしちゃうよ、と、殊更甘い声で囁かれて、はっと我に返って思い切り結衣さんの肩を押すと、拍子抜けするほどあっさりと身体が離れる。


「……ふふ」


 見上げた結衣さんが、堪えきれずに笑ったところで、やっと揶揄われたのだと言う事実に気付いた。


「ゆ、結衣さんっ!」


「あはは」


 さっきの、熱のこもった視線が嘘のようにいつも通りに戻っていて、身体中の力が抜ける。


 本当にびっくりした。胸に手を当てると、まだ心臓がどっくんどっくんと脈打っている。


「かなたってさ、本当、押しに弱すぎ」


「弱点って、それですか……?」


「この子、押せば行けるって思われたら終わりだよ。気をつけてね」


 それはあなたの経験則ですか、とちくりと言いたくなったけどぐっと飲み込む。


「もう、揶揄わないでくださいよ……」


「ごめんごめん。でも、可愛いなって思ったのは本当。かなたって、いつも彼氏にあんな感じなの?」


 違う。今まで、誰かに甘えたことなんてない。


 でも、それを言ってしまうのはあまりにも恥ずかしすぎる。あなただから甘えてしまうんです、なんてそれじゃまるで告白だ。


「……ひみつです」


「こんなに可愛い彼女がいるのに浮気するような男と付き合ってたなんて、かなたって、絶対男見る目ない」


 結衣さんの考察は正直、半分は当たってる。前の彼も、私を好きだと言うから押し負けて付き合ったという経緯がある。


 でも、別れたのは別の理由だ。


「……浮気されたのは、本当は私に原因があるんです」


「原因?」


「上手にセックスができなくてフラれたんです。男の人に触れられると身体が萎縮してしまって、どうしても無理で」


 結衣さんの手が、そっと私の手を握る。優しくてあったかい。

 どうしてか、結衣さんになら言ってもいいと思った。私が恋愛に二の足を踏む、本当の理由。

 男性にとって、セックスに応えられない私は、きっと価値がない。


「ずっと、我慢してたの?」


「だって、付き合ってたらそれが普通なんですよね?」


「……普通、じゃないと思う。好きな人に苦痛を与えてまですることじゃないでしょ」


 結衣さんの口からそんな台詞が出てくると思わなくて、びっくりして結衣さんを見つめる。


「……好きって感情、結衣さんにわかるんですか? だって、色んな人といっぱい遊んでるのに」


 言ってから、辛辣な言葉をかけてしまったと気付いた。


「わかるよ。好きな人、いたことあるから」


 喧嘩腰で言ってしまったのに、落ち着き払った声で言われて息が詰まった。

 心臓がギュッと縮まるように締め付けられる。


「なあに、その顔」


「恋人は作らないって言ってませんでした?」


「いたことないとは言ってないよね」


「……どうして別れたんですか。浮気したんですか?」


「まさか。付き合ったら大事にするタイプだよ。浮気なんか絶対しない。めちゃくちゃ尽くすもん」


 めちゃくちゃ尽くす、と言うのは確かにわかる。想像できる。でも……。


「……結衣さんが一途になるなんて想像できない。それなら、どうしてこうなっちゃったんですか」


「振られたのは私だし、別れたのは私に原因があることは確かだけど、今話したいのは私のことじゃなくて……」


 結衣さんの手に力が籠ったのがわかった。真剣な瞳が私を射抜く。


「自分の気持ちを殺してまで相手の欲求に応える必要はないと思う。かなたはそのままでいいんだよ」


「ほんとうにそう思います?」


「もちろん。好き合って付き合うんなら我慢して合わせる必要ないし、それを嫌がる人なら付き合う価値ない」


 胸の奥底にずっと刺さっていた棘が、やっと抜けたような気がした。今気付いた、ずっと誰かにそう言って欲しいと願っていた。


「……ふふ。結衣さんにそう言ってもらえると思わなかった」


「かなたは断るってことを覚えた方がいいよ、絶対。もっと自分のこと大事にして」


 腕を引かれて、ギュッと抱きしめられる。心地よくて、目を瞑ってその胸元に擦り寄った。


 女性特有の柔らかさが気持ちいい。隙間なくピッタリ身体が密着すると、力が抜けていくようにリラックスできる。


 この人がモテる本当の理由を、正しく理解できた気がした。


 それと同時に、降って湧いた疑問。


 こんなに大事にしてくれて、一途に思っていたはずのこの人を、振った元カノの存在。


 律さんが前に、結衣さんは大学一年の頃からこんな感じだったと言っていた。だとすれば高校生の時?

 結衣さんが「恋人を作らない」と決めたのも、元カノとの恋愛がきっかけなんだろうか。


 贅沢な人もいるものだ。


 私だったら、この優しい人を独り占めできる権利を得たなら、自分から手放せる気がしない。

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