第5話 雨の代償

 土砂降りの雨に打たれて身体を冷やしたのが多分、よくなかった。


 悪い予感はしていた。背筋がゾクゾクするような悪寒が、入浴してからも続いていたから。

 気のせいだと思いたかったけど、夜になるにつれて増す身体の違和感。


 ついに私は、ベッドから動けなくなった。


「38.5度……」


 体温計を受け取った結衣さんが、形の良い眉を寄せる。ベッドサイドに立ち尽くす彼女の、何か言いたげな視線から逃げるように、ぐいと布団を口元まで被る。


「……かなた、夕飯食べてないでしょ。何食べたい? 買ってくるよ」


「いいです、食欲ない……」


「少しでも食べなきゃだめだよ。夜になったらもっと熱上がるかもしれないし、そうなったら解熱剤飲まなきゃ」


 頭上から降ってくる声は思いの外優しい。結衣さんがそっとベッドに腰を落として、私の顔を覗き込んでくる。


 心配そうな視線にホッとする。よかった、怒られるかと思って、構えてしまった。


「……何なら食べれる? お粥?」


「お粥きらい、味しないから……」


「じゃあ、 雑炊は?」


「ん、それなら……」


「わかった」


 それだけ言って、結衣さんは立ち上がってしまう。ぎしりとベッドのスプリングが鳴いた。


「……結衣さん……」


 思わず名前を呼んだ声は自分でもびっくりするくらい弱々しくて、ドアノブに手をかけた彼女が振り返る。


 さみしい、なんて視線だけで伝わるわけないのに。


 なぜか期待してしまう。


 心細いなんて言えない私の強がりに、いつだって気付いてくれるような気がして。


「……すぐ戻るから、大丈夫だよ」


 私がこくりと頷いたのを確認して、パタンと静かに閉められたドア。カチカチと壁掛け時計の音だけが室内に鳴り響いている。もう二ヶ月も暮らしているいつもの自分の部屋のはずなのにどこか、物寂しく感じる。


 熱に浮かされてぼうっとする思考回路であれこれと考える。


 結衣さんと暮らし始めてから、風邪を引いたのは初めてだ。お互い部屋は別々だから、気をつけていれば風邪を移す心配はないとは思うけど、幸か不幸か今日は土曜日で、明日も病院は閉まってる。


 いつもだったら夕飯を食べてるような時間帯なのに、お腹は空いてるんだか空いてないんだか、わからない。


 結衣さんが戻ってくるまでの数十分は、本当に長く感じた。


「かなた、入るよー?」


 ドアが開いた音と共に、音の方に向き直る。日本人っていうのは不思議なもので、鰹出汁のいい香りを感知した瞬間、減ってないはずのお腹がきゅうと鳴った。


 おいしそうないいにおい。


 ベッドボードを背もたれにして起き上がると、結衣さんがサイドテーブルにお盆を置いてベッドに腰掛けた。


 美味しそうな卵雑炊。レトルトなんかじゃないってことは一目見てすぐにわかった。


「……結衣さんって、料理できたんですね……」


 正直、びっくりした。夕飯は外食や出前が多いから、自炊するイメージなんてほとんどなかったから。


「やらないだけで、できないとは言ってないでしょ」


 あっさりと言ってのける結衣さんはさして気にもせず、レンゲで雑炊を掬って私の口元へ寄せてくれる。


「はい、口開けて」


「いただきます……」


 口の中に広がる出汁の風味に、本気で美味しい、と思った。食べさせてくれるのは少しだけ恥ずかしいけど、熱でぼーっとしているせいか夢の中にいるみたいで、促されるまま大人しくもぐもぐと口を動かす。


「美味しい……」


「そう? よかった。残してもいいからね」


 結衣さんの家は、確かに自炊しない割には調理器具が揃いすぎているような気がしていたけど。


「結衣さんって、普段料理しないのに……なんで、料理出来るんですか……?」


 女の子の家に遊びに行ったりしてる時に、作ってあげたりするんだろうか。そういう姿もなんだか想像できると思った。


 でも、表情ひとつ変えずに結衣さんが放った言葉は、全く想像とは違っていた。


「シングルファザーの家庭で育ったから、家のことはある程度自分でできるんだよね。お父さんも忙しくて、子供の頃からほとんど家にいなかったし」


 そういえば、と思った。お父さんの話、お兄さんの話は聞いたことあるけど、お母さんの話は結衣さんから聞いたことがない。


「子供の頃、風邪引いた時に、お父さんがお粥作ってくれたことがあったんだけど……びっくりするくらいマズくて。それ以来、自分のことは自分でやろうって決めたんだよね」


 結衣さんがおかしそうに笑うから、釣られて笑う。


 日本を代表する大企業の社長が、子供を前にして懸命に看病しようとする様を想像して、笑みが溢れる。


 お父さんは忙しくて家にあまりいなかったのかもしれない。でも、結衣さんが、愛されて育ったんだなということだけはわかる。


 そうじゃなかったら、こんなに優しい人にはならないだろうから。


 食欲がないと言っておきながら、結局、作ってもらった雑炊は見事に平らげた。


 布団を肩まですっぽりと掛け直してくれて、ベッドサイドのランプをつけるとシーリングの明かりを消した結衣さんに、慌てて手を伸ばす。


 持ち上げた腕はいつもよりも重かったけど、立ちあがろうとした結衣さんの部屋着のTシャツに辛うじて指先が引っかかった。


「……もう、行っちゃうんですか」


 結衣さんが何度か瞬きをする。驚いてるんだろうけど、そんなの構っていられなかった。


「食器、下げてくるだけだよ」


「やだ、そんなのあとでいい。ここにいて」


 振り絞るように伝える。ただ、ここにいてほしかった。理由なんてわからない。

 捨てられた子猫のような気持ちだった。この部屋に一人でいるのはあまりにも心細すぎる。


 結衣さんは呆れたようにふっと笑って、もう一度ベッドの上に腰を落とした。


 ほら、やっぱり。こうしてお願いすれば、たいていのわがままは笑って聞いてくれる。


 手を握って欲しくて差し出すと、意を汲んでくれた結衣さんの指先がそっと絡んだ。


「結衣さん、眠るまで、ずっと、手、繋いでて」


「……いいよ」


 


 この人はきっと、誰にでも優しい。私にだけじゃない。そんなことはわかってる。


 わかっているのに、一度この優しさを知ってしまったら、気づいたときにはもう戻れないところまで来てしまっていた。


 ずるずると本性を引き摺り出されるみたいに、唇からこぼれ落ちていくのは甘えた言葉ばかり。


「熱、出すと、いつも、怖い夢見るんです……」


「……ずぶ濡れで帰ってくるから風邪引くんだよ。呼んでくれたら、迎えに行ったのに」


「だって、早川くんが、送っていくって、いうから」


「押しに弱いよね、かなたは。こんなにチョロいとちょっと心配になっちゃう」


「ちょろくないです……」


「じゃあなんで、早川くんとデートに行ったの?」


 一人暮らしだったらあのまま家に上られてもおかしくなかったよ、と追い討ちをかけられて、確かにそうかも、と思い至る。


 バイト先でも勤務態度も知っているから気が抜けていたところもあったのは否めない。


「デートじゃないんです……ほんとに……」


「ふーん……」


 デートじゃない。それは本当。だって、手一つ繋いでないんだから。


 一緒に動物園に行って、パンダを見ただけ。ただそれだけだ。特別なことなんて何一つなかったし、そんなものあっても困る。


 唯一、雨のせいで結衣さんの傘を彼に貸してしまったことは誤算だった。

 次に繋がる何かしらのきっかけが生まれてしまったことを私はよく思ってなかった。


 でも、返してもらわないと。結衣さんの、バーバリーの傘。


 絡み合った指に視線を向ける。マットな単色の黒いマニキュア。切り揃えられた、短い爪。


 ささくれひとつない、手入れが行き届いている指先。繋いでいるのは紛れもない女性の手なのに、とくとくと心臓が脈打つのはなぜなんだろう。


 やっぱり思っていたより疲れていたらしい。体調不良も相まって、目を瞑るととろとろと眠気がやってくる。


 繋いだ手をギュッと抱き込むように胸元に寄せる。このまま寝てしまおう。


 この手があればきっと、怖い夢はみない。


「……おやすみ、かなた」


 私の名前を呼ぶ柔らかい声が聞こえる。


 おやすみなさい、と返す間もなく、ベッドに沈み込んでいくように、気付けば眠りに落ちていた。

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