第4話 名前もつけられない感情
目の前を行く、広く大きな背中を見つめる。飾り気のない白いTシャツとジーンズを着た彼が、私を振り返ってパンダを見に行こうと嬉しそうに笑う。
眩しいほどの笑顔を私に向ける彼とは対照的に、私の心はこの曇り空のように重くどんよりとしていた。
愛想笑いを浮かべつつ、他愛無い相槌を繰り返してその後ろをついて歩く。なんでこんなことになったんだっけ、とさっきからずっとやるせない。
早川くんには悪いけど、今日は本当に乗り気じゃなかった。予報通り、早く雨が降ればいいのに。
深く息を吸い込む。それと同時に嗅ぎ慣れた甘い香りがして、あぁ、結衣さんの匂いだ、と思った。
でも、彼女が今ここにいるわけじゃない。これは結衣さんの、香水の匂いだ。
土曜の昼下がり。本当だったら紅茶を楽しんでいるはずの時間帯。
なのに私は今、バイト先の同僚と、なぜか二人で動物園に来ている。
そもそもどうしてこうなったのかと言うと……事件は一昨日の夜に遡る。
「あのさ……青澤って、動物好き?」
閉店間際の喫茶店。最近よくシフトが被る早川くんから突拍子もない質問が飛んできて、世界が切り取られたように止まる。
え、動物が、好きか?
それは今聞く必要がある質問なのだろうか。
動物って……一口に言ってもいろんな種類があるわけで。犬が好きでも鳥はだめとか、いい出したらキリがないと思うのだけど。
「好き、ですね。犬とかは」
何か話がしたくて声をかけてきたんだろうし、手持ち無沙汰にソーサーを布巾で拭いながら適当に返事をする。
最後のお客さんを見送ったばかりで、あとお店を閉めるだけだけど、閉店まであと十分はある。
生返事をしたのにも関わらず、早川くんはカウンターの向こうから身を乗り出すように手をついた。
「青澤、動物好きなんだ、よかった……」
いや、だから犬は好きだけど、動物全般が好きかと言われたら違う。
それに何が「よかった」んだろう。不思議に思って首を傾げる。
「青澤、さっき土曜日予定ないって言ってたよね」
「え?」
「チケット二枚あるんだけど、一緒に行かない? 動物園」
突然のことで目を見開く。確かにさっき、土曜の予定を聞かれた。でもその時は、バイトのシフトを変わって欲しいとか、そういう類の確認だと思ったのに。……嘘でも、何かあると言えばよかった。
期待のこもった瞳に見つめられて、息を呑む。
動物を好きだと言ってしまった手前、ここで断ったらあなたとは行きたくないです、と言っているようなものだ。
それは避けたい。このお店を気に入っているから、人間関係にヒビが入るようなことはしたくなかった。
渋々頷いた私に、早川くんは嬉しそうに微笑んだ。
それが、木曜の夜のこと。
朝、確認した予報によると、今日の天気は、夕方から雨だった。
珍しく土曜に出かける準備をしている私に気付いたらしい結衣さんが、キッチンでコーヒーを入れながら不思議そうに私を見るから、なんだかとても気まずい。
別に聞かれてまずいこと、しようとしてるわけじゃないのに。
「かなた。今日、バイトって言ってたっけ」
「いえ、バイト先の人と、動物園に行くことになって……」
「動物園? ふーん……。デート?」
「違います、デートじゃないです。チケットがあるからって、誘われただけで……」
食い気味に否定すると、結衣さんが目を細めて微笑んだ。ちょいちょいと手招きされる。
「かなた、こっちきて」
「……なんですか。もう遅れちゃうんですけど」
「いいから」
結衣さんの目の前まで歩み寄ると、真っ直ぐに手が伸びてくる。え、なに、と思った瞬間、首筋に押し付けられた手首が、ぐいっと擦るような動きをする。
甘い。結衣さんの匂いがする。香水をつけられたのだと気付いて見上げると、結衣さんはにっこり微笑んだ。
困惑する。なんで急にこんなことするんだろう。
「あの……結衣さん?」
「デートがうまく行くおまじない。楽しんできてね」
「……だから、違うって言ってるのに」
遅れちゃう、と慌てて出かけるふりをして、傘を置いて家を出た。
今日は雨が降るって、もちろん知っていたけれど。
***
動物園を後にした頃には夕方になっていて、どうやら今日の天気予報は外れたらしい。
行列に並んで一瞬だけ見れたパンダは思いの外可愛かったし、動物園なんて来たのは小学生ぶりだったから、思っていたよりは素直に楽しめたような気がしてる。
「パンダ可愛かったね。この後、どうする? カフェでも行く?」
動物園に行く約束はしたけれど、カフェに行くとは言ってない。目的は果たした。今日の私は本当によく頑張った。
わざとらしいかもしれないけど今にも雨が降り出しそうな空を見上げる。
「傘忘れちゃったので、本降りになる前にもう帰りますね。今日はありがとうございました」
本音を言えば。なんとなく早川くんが私とどうなりたいのか、何を期待しているのか、最初から気付いてた。
でも、私はせっかく居心地のいいバイト先を見つけたのに、変な人間関係のせいで気まずい関係になるのは嫌だと思っている。
「……そっか、わかった」
しょんぼりと肩を落とした早川くんには悪いけど、これで気付いてくれるといいな、なんて思いながら踵を返そうとしたら、腕を掴まれて止められた。節ばった、男性の手だった。
「青澤、家まで送らせてよ。せっかく今日付き合ってくれたんだし」
「そこまでしてくれなくていいですよ、私も今日、楽しかったので」
想像してたよりパンダは可愛いってことを知れたし、別に悪いことばかりじゃなかったとは思ってる。早川くんのこと嫌いなわけじゃないし……。
「それじゃ俺の気が済まないから、頼むよ」
この時、頼み込んでくる彼に折れて家までなら近いしと、了承したのがよくなかった。
ずっと待ち侘びていたはずの本降りの雨が降ったのは、家まであと数十メートルの距離に差し掛かった時だった。
慌てて家まで走ったものの、着いた頃には二人ともすっかり雨に濡れていた。
「……え、青澤んち、ここなの……?」
「正確には居候してる先輩の家です。ごめんなさい。タオルと傘貸すので、ちょっと玄関で待ってて貰えますか」
「えぇ……すげえ、ガレージまである……」
ぽかんとしている早川くんを差し置いて、インターフォンを押す。数秒経ったあと、がちゃりとドアが開いた。
「おかえり、鍵忘れたの……って、どしたの? びしょ濡れじゃん」
いきなりの土砂降りで濡れ鼠になった私を見て、結衣さんは目を丸める。
「傘、忘れちゃって……。すみません、早川くんにタオル貸してあげたいんですけど」
「は、初めまして、早川永太です……」
「あー、初めまして。タオル、ちょっと待ってて」
あっさりとした挨拶もそこそこに、結衣さんは二つタオルを持ってきてくれて、一枚を早川くんに差し出した。
「早川くんだっけ、家どこなの? 雨降ってるし、送って行こうか」
「えっ? い、いえ、大丈夫です。電車で帰れますんで」
心なしか頬を赤く染めて、首を振る彼に思わず苦笑いする。
「そう? じゃあ傘貸すよ。後でかなたに返してくれればいいから」
気にも止めずにそう言って、結衣さんは躊躇いなく傘立てに二本しかないうちの自分の傘を早川くんに手渡した。
「結衣さん、いいですよ、私の貸しますから」
「え、かなたが貸すの? このピンクの傘?」
そう言われてうっと言葉を飲む。男性が持つには少し……というよりかなりガーリーなそれ。
「……ごめんなさい、次のバイトの時に傘、持ってきてもらっていいですか?」
「あ、うん、わかった。すみません、傘まで借りちゃって……。青澤、それじゃ……今日はありがとう。また」
「はい。送ってくれてありがとうございました」
早川くんを見送って、玄関のドアを閉めるとどっと疲れが増した気がしてため息をつく。雨に濡れて肌に張り付くブラウスが気持ち悪いし寒い。
早く帰るための言い訳にするつもりだったけど、流石にここまで降られたのは予想外だった。
「……かなた、大丈夫? ずぶ濡れじゃん」
分厚いタオルで結衣さんにわしゃわしゃと髪の毛を拭かれて、犬になった気分。
「……結衣さんって」
「ん?」
「男の人にも優しいんですね、ちょっと意外でした」
てっきり、優しいのは女性限定だと思ってた。まさか送って行こうか、なんて言うと思ってなかったから。ちょっとだけびっくりした。
「それ、偏見。女性が好きだからって別に男の人が嫌いなわけじゃないよ」
そりゃそうか、と思う。異性愛者だって、同性が嫌いだから異性が好きなわけじゃないし、当たり前のことなのに、自分の浅はかさを反省する。
「そうですよね、すみません」
「そんなことより、風邪ひいちゃうからお風呂入ってきたら? さっきタオル取りに行く時、お湯溜めてきたから」
「……ありがとうございます」
身体の芯まで冷え切っていて寒気がしていたから結衣さんの気遣いが本当にありがたい。
玄関に上がろうとしたところで、結衣さんの手が私に伸びた。
黒いマニキュアが乗った指先が、私のブラウスのボタンに触れる。ボタンを外されて外気に晒される首筋。
最初は、何が起こってるのか、わからなかった。
「……ちょっ、結衣さん!?」
「え?」
指先がボタンの二つ目を外したところで、慌てて胸元をぎゅっと寄せて、結衣さんから距離を取る。
きょとんと目を丸めて私を見る結衣さんを、信じられないという目で睨みつける。
「な、なんで脱がすんですか……?」
「え、あ、ごめん。濡れてて寒そうだったから、つい癖で……」
つい、癖で。
女の人を脱がす癖って、一体どんなの。呆れて見上げると、結衣さんが苦笑いした。本当に無意識だったらしい。
ムッとして結衣さんの肩を押し除けて、濡れた靴下のままずかずかと家に上がる。
「ごめん、怒んないで」
「私がお風呂入ってる間、廊下、結衣さんが拭いてくださいね」
「わざとじゃないよ、本当に」
「結衣さんの、バカ」
無意識だから頭にくるんですよ、と言いたい気持ちを堪えて、無視して浴室に逃げ込んだ。
冷え切った身体がぶるりと震える。
そっと首筋に触れてみる。雨で流れ落ちてしまったのか甘い香りはもう消えていて、今はそれが少しだけ、名残惜しい。
そんなつもりはないとわかってる。
早川くんといたときは一度もトクリともしなかった心臓が、今は困惑するほどにドクドクと脈打っている。
「……なんで……」
鼓動は一向に大人しくなってくれない。名前もつけられない感情に押しつぶされそうで、思わずしゃがみ込んで、膝を抱えた。
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