第3話 結衣さんが、悪い

分厚い灰色の雲から、ポツポツと雨粒が降り注いでコンクリートにシミを作る。


 六月。


 世の中がすでに梅雨入りしたっていうのに間抜けにも家に傘を忘れてしまった。


 あとは家に帰るだけなのだけど、キャンパス内のコンビニで傘を買うか迷って、結局図書館で時間を潰すことにした。


 買っても良いんだけど、モノが少ないシンプルな結衣さんの家に何本も傘を置いておくのはあまり気乗りがしない。天気予報では一時間で雨は止むと言っているし。


 さてどうしようかと、広い館内を歩いていると、机に向かう見知った姿を見つけた。


 ピンクアッシュのゆる巻の長い髪。


 あの人、前に、会ったことがある。彼女がぱっと顔を上げた瞬間、垂れ目気味なその瞳とばっちり目が合ってしまった。


「あ」


 確か、彼女の名前は、中原律さん。結衣さんのお友達。結衣さんが同性愛者だと知るきっかけになった飲み会で、友人だと紹介してもらったことを覚えてる。


「かなたちゃん、久しぶり。何してるの?」


「こんにちは」


 イヤホンを外して笑った律さんは、どうやら勉強していたようで机の上には分厚い本がいくつも並んでいる。


 派手な見た目とのギャップがすごい。結衣さんなんて、勉強してるとこ見たことないのに。


「傘を忘れちゃったので、止むまで時間潰そうかと思って」


「あ、そうなんだ。結衣に迎えにきてもらったらいいのに。今日大学きてないし、家にいるんじゃないの?」


 さっと隣の椅子を引いて、座ることを促してくれたのでそれに甘えて隣に腰を落とす。


「昨日、結衣さん帰ってこなかったので、家にいるかどうか」


 昨晩、飲みに行ってくると言ったきり、朝も帰って来なかった。どこで何をしているのかなんて聞けるような関係でもないから、いつだって私は彼女を黙って送り出して、その帰りを待っている。


「あいつも好きよねぇ。またどっかの女の家に転がり込んでんでしょ、どーせ」


「……結衣さんの女癖の悪さって、昔からなんですか?」


「大学より前は知らないけど、少なくとも一年の時からあんな感じ。無駄に顔がいいから、モテるのよ。やってることは結構なクズなんだけどね。かなたちゃん、あんな性欲まみれの野蛮人と一緒に暮らしてて大丈夫? 何かされてない?」


 思わず笑ってしまった。あの結衣さんをここまで悪意を持って評することができる関係性が少しだけ羨ましい。私はまだ到底踏み込む勇気がなかった。


 誰と、どこで、何しているのか、なんて訊くのも、怖い。


「私は大丈夫です。結衣さんのタイプじゃないらしいので」


「へー……。結衣がそう言ったの?」


 興味深そうに顔を覗き込んでくる、優しい垂れ目。焦茶色の瞳の中にイタズラな色が見え隠れしている。


 そうです、と素直に頷くと、律さんが面白そうにニッと白い歯を見せて笑った。


「ふーん。まあ、そういうことにしとこっか」


「律さんは知ってるんですか? 結衣さんの好みのタイプ」


「“可愛くて、めんどくさくない子”でしょ」


 曰く、飲みの席で結衣さんが好みのタイプを聞かれる時にいつもそう答える、らしい。


 なるほど、先手を打てば確かに「めんどうな子」は寄ってこないかもしれない。遊びの関係しか受け付けませんって言っているようなものだ。


「かなたちゃんは、今恋人いないの?」


「いませんね……」


「作る気もない感じ?」


「よく言われるんですけど、そういう風に見えますか?」


 恋愛に興味がないように見えるのだろうか。だとすれば、半分正解で半分ハズレだ。


 過去の恋愛を引きずっている、というわけではないけれど、消極的であるということは確かだ。


「だって、可愛いから彼氏なんてすぐできそうに見えるけど」


「いい人ができたらいいなぁとは思ってますけど……出会いもないし」


「そう? それなら、連絡先教えて。飲み会とか色んな集まり誘うから。友達連れてきてもいいし」


「私まだ二十歳になってないんですけど……」


「オレンジジュースでいいのよ。ちゃんと保護者にも許可取るから、ね?」


 保護者、とは結衣さんのことだろうか。積極的に出会いを求めたいとは今は思ってないけれど、確かに色んな出会いがあった方が大学生活は楽しくなりそうだ。

 律さんは結衣さんのお友達だから安心できるし。


 求められるまま、連絡先を交換する。チャットアプリに可愛らしいアイコンがひとつ増えた。

 高校の友人が日本にいない私は、一から人間関係を構築しないといけないから、チャンスがあるなら大事にしたいと思っている。



 律さんと他愛無い話をしている間に、天気予報のとおり、気付けばすっかり雨は止んでいた。

 もう少し勉強していくから、なんて見かけによらず律さんは真面目な大学生活を送っているらしい。


 結衣さんよりも律さんの方が目指すべき大学生の姿って感じがする……。




 駅近のケーキ屋さんに寄り、アフタヌーンティーにぴったりのタルトを二つ買って帰ると、まだ結衣さんは帰っていないみたいで、静まり返った室内は朝私が家を出た時のままだった。


 ケトルでお湯を沸かしながらティーポットを用意していると、玄関からゴソゴソと音がする。いいタイミングで結衣さんが帰ってきた。


 せっかく二つ買ったタルトが無駄にならずに済みそうだ。


「ただいま」


 お帰りなさい、と振り向くと、昨日と同じパーカーを着ているのに、緩く巻いていたはずの長い黒髪がストレートに戻っている。


 私の視線には気付かないまま、結衣さんは被っていた黒いキャップを、ぽいとラックに引っ掛けた。


 メイクはしてるけど昨日と違う。やっぱりどこかで入浴してきてる。


 ポットを温めていると、ペタペタとスリッパの音。


 近づいた結衣さんからいつもとは違う香水の強い香りがして、驚いて、バッと勢いよく振り向いた。


「えっ、なに?」


「結衣さん、香水変えましたか?」


「いや、今日はしてないんだけど……んー?」


 香りの出所を確かめようと近づく。胸元らへんに顔を近づけると、甘ったるく強い香りが鼻についた。


 まるで自分のものだとマーキングするような、欲の乗った女性の香り。


「……結衣さん、服、香水かけられてません?」


「え、嘘、全然気付かなかった。鼻が麻痺してんのかな」


 この香りを纏った女性と一晩一緒にいたら、そりゃあ匂いなんてわからなくなるだろうなと思う。


 このパーカー高かったのに、なんて言いながら肩を落とす結衣さんに、ため息が出そうになる。


「……結衣さんって、一体何人セフレいるんですか?」


「え?」


 恨めしい気持ちで彼女を見上げると、結衣さんは拍子抜けするくらい目を丸めてきょとんとする。


「セフレを作ってるつもりはないんだけど……」


「うわ、自覚ない感じですか……」


「だってこーいうめんどくさいの、好きじゃないし」


 香水をかけられたであろう胸元を引っ張って、心底嫌そうな顔をしているところを見ると結衣さんの思考パターンが読めてきた。


 その日だけの関係を結ぶのがよくて、特定の人を作るのは嫌だと。それが セフレであっても結衣さんにとっては「めんどくさい」の枠に入るのか。


 それじゃあ絶対、彼女なんてできるわけないような……。


 うん、考えるのはやめよう、理解できるわけがない。


「……アフタヌーンティー、結衣さんも如何ですか? タルト、駅前で買ってきたんですけど」


 見上げて尋ねると、不機嫌そうだった結衣さんの顔がぱっと明るくなる。


 せっせとコーヒーテーブルにタルトを用意して、並べた二つのティーカップ。


 結衣さんがコーヒー派だっていうのは知ってるけど、アフタヌーンティーには絶対ミルクティーが合うと思ってる。


 タルトを頬張りながら、隣の結衣さんに視線を向ける。


「あの、言いたくなかったら答えなくていいんですけど、結衣さんって、性的欲求はあるけど恋愛感情がないタイプの人なんですか?」


 結衣さんが同性愛者だと知った日、今まで気に留めたこともなかった人のセクシャリティについて慌てて調べた。


 異性愛者、同性愛者、両性愛者、その他にも色々あるらしい。


 他者に恋愛感情を抱かない性っていうのもあって……。


「いや? 普通に女の子に恋するけど……」


「えっ……恋、するんですか?」


 あっさりと否定されて驚いた。お世辞にも結衣さんの素行は恋愛をしているようには見えないのだけど。


 フルーツタルトを口に運びながら、結衣さんが不満げに目を細める。


「かなたは一体私のことなんだと思ってるわけ?」


 性欲まみれの野蛮人。


 律さんの言葉が一瞬過ぎったけどぐっと飲み込む。別に喧嘩をしたいわけではなくて、ただ結衣さんのことが知りたいだけだ。


「今、恋愛する気はないから、私のことを好きな子とは関係を持たないようにしてるだけだよ。どうせ、気持ちに答えてあげられないし」


「恋愛する気ないのに、セックスはしたいんですか?」


「かなたは素敵な異性がいたら、そういうことしたいとか思ったことない?」


 質問を跳ね返されて、うっと答えにつまる。素敵な異性と、そういうこと、したいと思ったこと……。


「……ない、ですね。恋人だったら、求められたら応じる必要があるとは思いますけど。でも、自分からしたいと思ったことはないです」


 過去の恋愛を思い出してみる。正直、セックスに関してはいい思い出はない。


「……かなたこそ、本当は恋人欲しいとか思ってないでしょ」


 今日でそれを言われたのは二回目だ。私はよっぽど恋愛に無関心に見えるらしい。


「そんなことないです。寂しいって思う時、ありますよ。誰かに抱きしめて欲しいって、思うことだって……」


「そういう時、どうするの?」


 どうするって言われても。相手がいないのにどうすることもできない。結衣さんみたいに不特定多数と関係を持ちたいとも思えない。デメリットが大きすぎる。


「どうもしないです。ただ、寂しいだけなので」


「ふーん……。じゃあ、そういう時は私が抱きしめてあげる」


 ぐっと腕を引かれたと思ったら、気づいたら彼女の腕の中にスッポリと収まっていた。


 ……違う女性の香水を纏った身体で、躊躇いなく他の女性を抱きしめるなんて、罪な人。


 抱き寄せる腕も、柔らかな身体も、紛れもなく女性のものなのに、なぜだろう。心地よく感じる。


 この鼻につく、香りを除けば。


「結衣さん、私……この匂いすきじゃないです」


 そう言って肩を押し返す。緩んだ腕の中で見上げれば、結衣さんが笑って、パーカーの裾を掴んで一息に捲り上げた。


「よいしょ」


 呆気にとられていると、ばさっとパーカーをソファの下に放り投げて、Tシャツ一枚になった結衣さんの腕が私の首に回ってぐいと引き寄せる。スローモーションみたいに、距離が縮まる。


 白い胸元に、一粒ダイヤのネックレスが揺れる。


 抱き寄せられて、ぴったりと身体が密着しただけで、水の中にいるみたいに呼吸が苦しくなった。


「これでいい?」


「……そのパーカー、高かったんじゃないんですか?」


 躊躇いもなく足元に放り投げたパーカーに視線を向ける。可哀想に、香水をぶっかけられたり、放り投げられたり、今日の一番の被害者はこの子かもしれない。


「だって、嫌なんでしょ?」


「……結衣さんって、誰にでもこういうことするんですか」


「しないよ」


「嘘つき」


「本当だよ。かなただけ、特別だよ」


 耳元から脳に響く悪魔の囁き。何も知らなければ、これは絶対に騙される。


 私のこと、タイプじゃないらしいこの人は、一体どんなつもりでこんなことしてるんだろう。


 もうよくわかんない。目を瞑って身体の力を抜いてみる。


 結衣さんと暮らし始めて、初めて知った自分の一面。こんなふうに甘やかされるのは、嫌いじゃない。


 キュッとTシャツの袖を握ってみる。とんとんと背中を撫でられて、あぁ、心地いいなと思った。


 結衣さんが私に触れる時、びっくりするほど欲を感じない。触れたところから伝わるのは優しさだけで、そこに下心なんてないのは明白だ。


 それを喜んでいいのか、悲しんだ方がいいのか、まだわからない。


 魅力が、ないのかもしれない。だって、私を可愛い可愛いと言ってくれていた彼だって、最後は私から離れていった。


 私は女性として不完全だから。ちゃんと上手にセックス、できないから。


「……結衣さん」


「ん?」


「今日、律さんに会ったんですけど、今度集まりに誘うから来てって」


「えっ」


 


 胸元にぴったりと耳を当てているからか、少しだけ響く結衣さんの柔らかい声が強張った気がした。


「……やめた方がいいですか?」


「うーん、ちょっと心配だな……」


「心配?」


「行ってもいいけど、絶対にお酒は飲まないこと。悪い人もいるからね。約束できる?」


「悪い人って、結衣さんみたいな人?」


「そーだよ、お持ち帰りされちゃったら大変でしょ」


「ふふ……自分が悪い人って自覚あるんですね」


 


  優しく頭を撫でられて、少しだけくすぐったくて目を瞑った。


 この砂糖みたいに甘ったるい優しさに溶けてしまいそう。


 だって結衣さんは、私がして欲しいことや、欲しい言葉を、まるで全て最初から知ってたみたいに、くれるから。


 こんなに優しくされてしまったら。こんなに甘やかされてしまったら。ダメになっちゃいそう。


 知りたくなかった。自分のことなのに、今までずっと、気付けなかった。


 弟もいるし、お姉ちゃんだし、しっかりしないといけないってずっとずっと思って生きてきたのに。


 生まれて初めて自分の「甘やかされたい」って欲求を、自覚してしまった。


 それもこれも全部、結衣さんが、悪い。

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