第2話 結衣さんの、すけべ


「ねえかなた、どっちがいいかな」


 レースのカーテン越しに春の日差しが差し込む朝。トーストにかぶりつきながら、声の方に視線を向ける。


 それぞれ違うデザインのピアスを眼前に差し出されて、それを交互に見つめる。


「んー、右ですかね、青いの可愛いです」


「じゃあこっちにしよ」


 今日は何か用事があるらしい。結衣さんが用意してくれた朝食を食べながら、彼女を目だけで追う。


 いつもは一緒に朝食を食べるのに、今日はもう支度はほぼ済んでいるようだ。


「今日、早いですね」


「父親に呼ばれてるんだよね。始業前に来いって言うから」


「会社に行くんですか?」


「うん。寄ってから一回大学行って……、夜は食事会があるから遅くなる」


 手首に時計を通しながら、小さくため息をついて言うから首を傾げる。珍しくちょっと嫌そうに見えたから。


 今日は帰ってこないかもな、と思いながらサラダの中の半分にカットされたミニトマトにフォークを突き刺す。


 私だったら、面倒がってミニトマトは切らずに丸ごと入れちゃうんだけど、結衣さんって、普段料理しないのになんだかこういうところはきっちりしてる。


「食事会って……」


 そこまで聞きかけて、あ、踏み込みすぎたかもなんて思う。その証拠に、結衣さんの黒い瞳とばっちり視線が合ってしまった。


「父親と、会社の人だよ」


「……まだ、何も聞いてないです」


 思考を先読みされたみたいで、居心地が悪い。結衣さんは、卒業したら当然お父さんが経営している会社に入社するだろうから、こういう食事会は頻繁にあるんだろうか。


「男の人だから、安心して」


 私の椅子の背もたれに手を置いて顔を覗き込んだ結衣さんが揶揄うように笑うから、ムッとしてその肩を押し返す。


「別に、そういうことが聞きたかったわけじゃないです……」


「なんだ、嫉妬してくれてるのかと思ったのに」


 残念、なんて思ってもないくせに、よくもこうすらすらと軽口を叩けるものだと感心する。


「私も今日、バイトなので遅くなります」


「そうなんだ。何時まで?」


「今日は閉店までなので、九時です」


「じゃあ、同じぐらいの時間帯かも。早く終わったら迎えに行くね」


 コートを羽織った結衣さんは今日も完璧で、文句のつけどころがない。


「朝ごはん、ご馳走様でした。気を付けて」


「ん、行ってきます」


 結衣さんを見送った後、トーストの最後のひとかけらを口の中に放り込んで、食器を持って立ち上がる。


 一緒に洗おうと思ったのに、結衣さんが使った食器はすでに水切りカゴの上にあった。


 スポンジに洗剤を染みこませて、泡立てる。


「……食器くらい、洗わせてくれてもいいのに」


 家主のいないリビングで呟く。大抵のことは一人でなんでもできるけど、その分隙がない人だ。


 恋愛面では色々と問題がある人なのは確かだけど、居候させてもらって、結果的にはすごくよかったと思っている。


 行ってきます、いってらっしゃいを言える人がそばにいるのは安心感がある。


 同居人が同性愛者だからって、何も変わらない。だって、そもそも私のことは「対象外」なのだから。


 濯いだ泡が排水溝に吸い込まれていく。女性として不完全な自分を、見抜かれているような気がした。






***






 大学生になったらやりたかったことがある。


 アルバイト。


 なんとなく、バイトするなら喫茶店がいいと思った。


 アフタヌーンティーが好きだ。角砂糖を二つ落とした甘めのミルクティーと、それを引き立てるお菓子が大好き。


 イギリスに住んでいたたった四年間で染みついた習慣だけど、帰国してからも馴染んだ習慣は消えてくれない。


 大学の近くにあるレトロでこぢんまりした喫茶店で、何気なく頼んだミルクティーが美味しかったから、カウンター越しにマスターにアルバイト募集のチラシを指差して尋ねたらあっさり採用してくれたのが、ここで働くことになったきっかけ。


この店はマスターの趣味の水槽が店の至る所に飾られていて、夜は店内の照明を落としてアクアリウムにスポットを当てる。

 雰囲気がいいこの店を、私はとても気に入っている。





 約束通り、食事会を終えたらしい結衣さんは私の退勤三十分前に現れた。カウンター席に通して、テーブル越しに黒い冊子のメニュー表を手渡す。


「何飲みますか?」


「おすすめは?」


「ブレンドですかね。マスターのオリジナルで、評判いいんですよ。結衣さん、コーヒー好きだからきっと気に入ると思います」


「じゃ、それで」


「かしこまりました」


 閉店間際でもお客さんはちらほらいて、ずっとゆったり流れている店内BGMが会話をかき消してくれる。


 席に座った結衣さんがにこにこして私を見つめているから、少しだけ緊張する。


 マスターに何度も特訓させられて今や特技になりつつあるハンドドリップ。お客さんに出すことを許されるまで二週間かかった。


「どうぞ」


「ありがと」


 今日の食事会はどうだったんですか、って、聞いてもいいのかな。私が選んだ青いピアスがさらさらの黒髪の隙間から覗いて揺れて、正面からじーっと見つめると、なあに、と優しく尋ねられる。


「……あの、お味はどうですか?」


 聞きたいことと全然違う言葉が唇から滑り落ちた。そんなことを心配しているわけではないのに、どうしてかここで聞いたら負けな気がして。


「うん、美味しいよ」


 彼女なら、きっと口に合わなくても、にっこり笑ってそう言ってくれるんだろうけど。


 それからの三十分なんてあっという間で。


 閉店業務をさっさと終わらせて、更衣室に慌てて駆け込む。いくら春先だって言っても夜は冷えるし、結衣さんを店の前のベンチで待たせているから早くしないと。


 急いでエプロンを外していると、後ろからねえ、と声をかけられて振り返った。


 同じ黒いエプロンをした姿が視界に入って、すぐに今日同じシフトに入ってる天崎さんだとわかった。ひとまとめにした茶髪をうざったそうに解きながら、猫みたいに丸い瞳が私を捉える。


「青澤さんがさっき話してた人って、友達?」


「友達っていうか、大学の先輩ですけど……」


「へえ! 青澤さんと同じ大学なんだぁ、ってことは頭いいんだね」


 天崎さんが二つ隣のロッカーを開ける。


 彼女は私とは違う大学だけど、同い年の大学一年生だ。


 本当は気付いていた。さっきも、テーブルを拭きながら、天崎さんが結衣さんを見ていたこと。


 嫌な予感というのは大抵当たる。彼女が結衣さんを見つめる瞳に浮かぶ憧れ以外の感情を掬い取ってしまって、ちょっと複雑だった。


 話をこれ以上広げても碌なことにならないと踏んで、腕時計を確かめるふりをしつつ、バッグを掴んでロッカーを閉める。


 乱暴に閉めたせいで鍵につけたキーホルダーがガシャリと嫌な音を立てた。


「ね、さっきの先輩、今度紹介してよ」


 ほらきた。ふぅ、と気付かれないように小さく息を吐く。


 大学で結衣さんと同居していると知れた時も、こんなふうに何人かにパイプになってくれと言われたことがある。


 バカ正直に結衣さんに伝えても、答えはいつだってノーだった。結衣さんはめんどくさいことを嫌うから。


「天崎さんって女性が好きなんですか?」


「えっ?」


 まんまるの瞳が揺れた。驚いたところを見ると、予想外の質問だったのか。


「いや、そういうわけじゃないけど……」


 そういうわけじゃないなら、やめたほうがいいですよ。あの人に関わったら、きっとヤケドじゃ済まないから。


 そう忠告できたらいいけど、いくら結衣さんが隠していないとは言え、勝手にひとのセクシャリティを誰かにバラらすのはルール違反だ。


 本当に、罪な人。


「そうですか。多分、また来る機会あると思うので、仲良くなりたいなら直接話しかけたほうがいいと思いますよ。紹介とか好む人じゃないので。それじゃ、お疲れ様でした」


 下手に紹介なんかして、遊ばれてフラれたって泣きつかれるのはごめんだし。


 一息に言い切って、逃げるように店の裏口から出た。


 表に回ると、入り口のベンチに足を組んで座っている結衣さんの姿を見つける。


「お待たせしてすみません」


「ううん、じゃあ帰ろっか」


 やっぱり少し肌寒かった。待たせてしまって悪いなと思っていたら、立ち上がった結衣さんがじっと私を見つめる。


 身長が違うから私より目線が高い彼女を見つめ返すと、優しく微笑まれてどうしたらいいかわからなくなる。


「さっきもずっと思ってたけど、ポニーテール、可愛い」


 慌てて来たから、仕事中は結い上げている髪を解くのを忘れてた。少し高めに結んだ髪をそっと撫でられて、胸の奥がむずむずする。


「……酔ってます?」


「お酒飲んでないよ」


 この人は、女の子が喜ぶ言葉をよく理解してる。その気がなくてもヘラヘラと誰にでもそういうことを言う人だ。


 いつもは一人で歩く夜道を二人並んで歩く。春の夜風はまだまだ冷たく感じて、コートの襟を寄せた。


「車で迎えに来れなくてごめんね」


「……いいです、そこまでしてくれなくても」


 来てくれただけで、じゅうぶんです。そう喉の奥まで出かかった言葉を懸命に飲み込む。


 そんなことを言ったらどうせまた揶揄われるに決まっている。最近やっと結衣さんがどういう人なのか、わかってきた気がする。


「食事会って……毎月あるんですか?」


「んー、そうだね。だいたい月一くらいかな。こういう機会もないと、父親と顔合わせたりしないしね」


 大企業の社長だし、それもそうか。ましてや一緒に暮らしているわけでもないから、食事会は大切な場なのかもしれない。


 そう考えながらも、私は今朝結衣さんが嫌そうにしていたことを思い出していた。


「結衣さんって、お兄さんいましたよね? ほら、車譲ってくれたって言ってたじゃないですか」


「うん、いるよー。でも、雪にぃはお父さんと仲悪いからなぁ。一緒に食事はしないね。独立しちゃったし」


 雪にぃ、と呼んでいるだけあって、結衣さんはお兄さんとは仲は悪くないんだろう。何せ結衣さんの今の車もお兄さんのお下がりだっていうし。


 最初はびっくりしたけど。だって大学生が黒くてピカピカの高級車に乗ってるんだもん。


「かなたは、弟がいるんだっけ」


「はい。中学三年生です」


「なーんか、お姉ちゃんって感じしないよね、かなたって」


「結衣さんの方こそ、妹って感じしないですよ。なんでもできるし、しっかりしてるし、お姉さんって感じ」


「そうかな?」


 駅までの距離が近づいていく。結衣さんの家までは二駅だ。


 人には二面性があって当たり前だと思う。関係性によって見せる顔が違うのは別におかしいことじゃない。


 そう思うのに、知れば知るほどますます気になる。


 こんなに優しい人がなぜ、恋人を作らないのか、という疑問が湧いてくる。


 何か、理由があるんじゃないか。


 電車に揺られ他愛のない話をしながら、整ったその横顔を見つめる。


 シミ一つない白い肌。くっきりした目鼻立ち。長いまつ毛。身長も高くて手足もすらっとしてる。加えておしゃれだし、容姿は非の打ち所がない。


 家柄も完璧だし、性格も、女癖の悪さを除けば優しくて気遣いができて、素敵な人だと思う。


「なぁに。そんなにじーっと見詰められると照れちゃうよ」


「……綺麗な顔だなと思って」


 あ、思わず口をついて本音が出た。結衣さんが驚いたように少しだけ目を見開く。


 へんなの。そんな言葉、言われ慣れてるくせに。


「そう? ありがとう」


「……私の他にもう一人スタッフの子、居たじゃないですか。結衣さんのこと紹介してくれって、さっき、更衣室で」


 車内アナウンスがなる。最寄り駅までもう直ぐだ。


「ふーん……。それで、なんて言ったの?」


「仲良くなりたいなら自分から話しかけてくださいって。だって、後から遊ばれたってクレーム受けても困るから……」


 結衣さんがおかしそうに笑う。電車のドアが開くと、降りよ、と私の手を取って引いた。


「さすがにかなたの友達には手を出さないよ」


 握られた手が暖かくて、振り解く理由もないからそのまま手を引かれて歩き出す。


「いくら可愛くて魅力的でも?」


「その子のこと、口説いて欲しいの?」


「そういう意味じゃないです」


「じゃあいいじゃん?」


「……結衣さんが女性を口説く基準ってよくわかんない」


「んー、知りたい?」


 振り返った結衣さんが、いたずらに笑う。頷くと、繋いだ手をきゅっと引かれて、距離が縮まる。


 耳元に寄せられる唇。


「……この子はセックスする時どんな顔するんだろ、って知りたくなったらかな」


 吐息がかかるくらいの距離で、誰にも聞こえないくらい小さな声で囁かれて、慌てて繋いでいた手を振り解きその肩を強く押し返す。


 頬が一気に熱くなる。何言ってるの、この人。


「……結衣さんの、すけべ」


「今更じゃん? 自分から聞いてきたくせに〜」


 おかしそうに笑う結衣さんに、またからかわれたのだと気付いて、ムッとして結衣さんを置いて歩き出す。


「待ってよ、かなた」


「もう、知らない」


 真剣に考えて損した。たぶん、この人あんまり何も考えてない。


 次に結衣さんを紹介してって言われたら、チャットアプリのアカウントから電話番号まで全部流出させてやる、と固く胸に誓って、改札に定期を叩きつけた。

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