【書籍化決定】アフタヌーンティーは如何ですか?
桃田ロウ
大学一年生、春。
第1話 一ノ瀬結衣という人
部屋着のTシャツの襟元から覗く肩についた赤い傷痕は、白い肌に浮かび上がるようによく目立つ。
その傷痕が誰かの歯型だと、気付くのに数分かからなかった。
ソファの背もたれに体を預けて、大きなスクリーンに映る映画に夢中になっている結衣さんに忍び寄って、ソファ越しにその傷を覗き込む。
うわあ、痛そう。昨日、彼女が家を出た時は、多分ついてなかった。
だからこの傷はきっと、昨晩のものだ。だって結衣さん、昨日は帰ってこなかった。
『噛みつきたくなるほど気持ちがいいセックス』って、一体どういう感じなんだろう。
誰かと彼女の夜を想像してみても、想像の域を出ない。でも、確かに昨夜、誰かが彼女の腕の中で、この白い肩に痕が残るほど強く歯を立てたのだという事実だけが、ここに残されている。
「痛くないんですか、これ」
「え?」
ちょん、と赤く腫れた傷痕を指先で突くと、ぱっとその手で隠されてしまう。
「……痛いから、触らないで」
ちょっとだけ嫌そうに寄せられた眉。長い黒髪がさらりと肩から滑り落ちて、非難するように見つめてくるその端正な顔を真っ直ぐに見つめ返した。
「だってすごく腫れてるから。目立ちますよ、その傷」
「二、三日経てば消えるでしょ」
「痛そう。よく怒りませんね?」
「血が出るほどじゃないし、いちいち怒ったりしないよ。でも、すっごく痛かったから次はないかも」
そう言って彼女はいたずらに笑う。
結衣さんは女性で、女性が好きな、いわゆる同性愛者だ。
でも、結衣さんに噛み付いたであろう女性は、彼女の恋人ではない。
居候生活を始めて、気付くまでに一ヶ月かからなかった。
結衣さんが家に帰ってこない日は、いつもどこかの女性の家に転がり込んでいて、明け方、家を出た時はしていたはずの彼女の香水の匂いが消えている。
最初は恋人がいるのかと思った。私が突然居候することになったせいで、家に彼氏を呼べないから外泊しているのだとばかり思っていた。
同じ学部の交流会と称した飲み会で、彼女が女性とキスしてるところを見るまでは。
同性愛者だと言うことを隠していないことも原因の一つだけど、彼女は大学でも有名な、女たらしの先輩だった。
「いつか刺されますよ、本当に」
「まぁまぁ、私の話はもういいじゃん。ほら、こっちにおいで。一緒に映画観ようよ」
いつもこう。踏み入った話をしようとするとうまい具合にはぐらかされる。
ちょいちょいと手招きされて、くるりとソファに回って結衣さんの隣に腰を落とすと、ブランケットをさっと私の膝にかけてくれるところが、やっぱり女慣れしてるなぁと思う。
コーヒーテーブルの上のリモコンを取って、結衣さんが映画を止める。
「あれ、映画観るんじゃなかったんですか?」
「うん、かなたが観たいの選んでいいよ。飲み物用意してくるから」
はい、とリモコンを渡される。途中だっただろうに、さして物語の続きを気にもせずに結衣さんは鼻歌を歌ってキッチンへ向かう。
家電屋さんに展示してあるような本格的なサラウンドシステムとプロジェクターがこの家には備わっていて、そしてそれは、一人で暮らすにはあまりにも広く無機質なこの家の中で唯一、結衣さんの「好きなこと」を感じられる。
結衣さんが映画好き、ということは彼女について知っている数少ないことの中の一つだ。
その他に彼女について知っていることは本当に少ない。
同じ大学の三年生。だから年齢は二つ上。左利き。
紅茶よりコーヒーが好きで、好きなお酒はハイボール。
料理はしないけど家事はできるし、家はさっぱりとしていて無駄なものは一切ない。
都内のこんな立派な平屋建て一軒家に一人暮らしをしているのは、彼女が日本でも有数な財閥企業のお嬢様だからだ。
結衣さんのお父さんは現社長で、驚くことに私の父の大学時代の友人でもある。
そんな縁あって、今回の居候の話に繋がったわけなんだけど。
思いつくことをぱっと並べてみても、私は彼女のことを、まだこれっぽっちしか知らない。
コト、と目の前のテーブルに置かれたホットミルクにはっとして現実に引き戻される。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
マグカップに口をつけると、はちみつのほのかな香りと甘みが広がる。
居候したての三月、家族がいるイギリスから進学のために単身帰国した私に、毎晩ホットミルクを作ってくれた。
あの時は、優しい頼れるお姉さんって感じだったのにな。
同性愛者で、その上恋愛観がぶっ壊れてる人だったなんて、正直、思いもしなかった。そう思いながら横目で結衣さんを見る。
「観たいの、決まった?」
「……この、犬のやつ」
薄暗い室内のスクリーンに映る犬を指差す。結衣さんはこういうの、好きじゃないかもしれないと思ったけど。
居候生活が始まってから二ヶ月。この人が、どれだけ女性に甘いのか身に染みて理解してきた。多少のわがままは、いつも聞いてくれる。
「犬好きなの? いいよ、今日はこれにしよ」
結衣さんがリモコンを受け取って、再生ボタンを押した。
それと同時にブランケットを少しだけ引っ張って肩までかける。
「どしたの、寒い?」
そんな私に気付いて、結衣さんの手が私の肩を抱き寄せた。密着したところから伝わる体温が心地いい。人肌の温もりは、寂しさを払拭してくれる。
相手が彼女だったらきっと、もっともっと優しいんだろうな、と思う。
曰く「恋人は作らない主義」の、本人にその気がないだけで。もったいない。これだけ綺麗な人だから、相手が尽きないのは当たり前だけど。
彼女にとって、一人に絞る方が「もったいない」のだろうか。
女性に恋する気持ちは、私にはわからない。想像もしたことないし。
肩を抱き寄せたその手が、優しく私の髪を撫でて、毛先で遊んでいる。
多分、こういうのをナチュラルに誰にでもやるから、色んな女性が引っかかるんだろうと思う。
「……結衣さんって、こんなに不誠実な人なのに、どうしてモテるんですか?」
あはは、と結衣さんが笑う。本当は、この人がモテる理由なんてとっくに気づいている。
私が、どうしたって一途になれないこの人を責めたくて責めたくて仕方ないだけだ。
「さあ、どこがいいんだろうね?」
責めるように言ったのに、それをさして気にもとめずニコニコと笑って言うから、わからなくなる。
そういうのって普通なの?
付き合ってないのに、夜を共にするとか、そういうの。大学生ってそういうもの?
「かなたは、恋人いるの?」
今更の質問で、驚いて結衣さんを見る。居候を初めてから、外泊したことなんて一度もない。気付いているはずだと思っていた。
「いません。生活見てたら、わかるじゃないですか……」
「そうなんだ。甘え上手だから、いるのかと思った。遠距離なのかなーって」
「……あっちではいましたけど、浮気された挙句に、フラれたので」
今思い出しても、心臓のあたりがチクチクと軋むように痛む。未練なんて一切ないけど、かなり心を抉るような深い傷を、彼にはもらった。
その出来事が、日本の大学を選んだきっかけの一つだったりするんだけど、今はまだこのことを誰かに愚痴る勇気はない。
「浮気? 別れて正解じゃん」
「浮気性の結衣さんがそれを言います?」
思わず笑って指摘する。それこそ結衣さんだって、色んな女性と関係を持っているくせに。
「私の場合は、浮気とは言わないでしょ。彼女いないし」
「違いがわからないです。一途に、真っ直ぐに、一人だけを愛し続けることができる人って、この世界にはいないんですかね?」
今日はほのぼのとした動物映画にして良かった。ささくれ立った心を癒してくれる。
犬はいいよね、まっすぐに飼い主を愛してくれる。こんな一途な愛が欲しいと思うのは、私が欲張りなんだろうか。
別に、犬みたいな恋人が欲しいってわけじゃないけど。
「かなたは可愛いから、恋人なんてすぐできそうだけど」
「可愛いなんて、思ってないくせに……。私のことは、タイプじゃないんでしょ」
「……そんなこと言ったっけ?」
「それに近いこと、言われました。同居したての頃」
結衣さんが同性愛者だと知って、狼狽えてしまった私に、結衣さんが、申し訳なさそうに、眉尻を下げて諭すように言った言葉を今も覚えてる。
——女性だったら誰彼構わず手を出すってわけじゃないから、安心して。黙っててごめんね。
私を安心させるために言ってくれた言葉だとは思うけど。でも、それはつまり私のことは対象外だという意味でもある。
別にいいけど、だって私は同性愛者じゃないし、大学在学中は結衣さんの家に居候することが決まっているんだから、そういうのはない方がいい。
そうは思うけど、でもなんか……あんまりいい気はしない。
「同居したての頃か。かなた、人慣れしてない猫みたいだったよね」
突拍子もなく突然言われて、頭の上にクエスチョンマークが浮かぶ。
「猫?」
「二ヶ月経ってやっと、触るの許してくれたでしょ? 最初、警戒しまくってたじゃん」
「……別に、今は寒いから、くっついてるだけです」
「じゃあもっとエアコンの温度上げる?」
黒い瞳にじっと見つめられて、なんと答えていいかわからずに視線が泳ぐ。
離れたらいいのはわかってる。でも、この体温を手放したくないと思っている自分も確かにいる。
わかっているくせに。ホームシックになって寂しいって。
「……結衣さんって、意地悪ですね」
「そう?」
「自覚ないのって一番最悪です……」
「ごめんごめん。冗談だよ。かなたが懐いてくれたのがうれしいの」
喉のあたりをくすぐられて、揶揄われてると知ってその手を引き剥がして睨みつけると、結衣さんが笑った。
雲のような人。掴みどころがなくて、ふわふわしてて、気付いたらどこかに行ってしまいそう。
でも、甘くてほっとするホットミルクにすっかり絆されて、触れる肩に寄りかかってしまうくらいには、今の私は、こんな夜を結構気に入っていたりする。
そんなささやかなリラックスタイムを遮るように突然、コーヒーテーブルの上に置かれていた結衣さんのスマートフォンが鳴った。
見知らぬ女性の名前。結衣さんはチラリとそれに視線を向けて、すぐに消音ボタンをタップする。
「いいんですか? 出なくて」
「んー、うん。今はいいかな。後で気が向いたら折り返す」
興味なさそうにそう言ってスマホをひっくり返すから、なんだか面白くなくて、さっきの仕返しも兼ねて少しだけ、意地悪したくなる。
「もしかして、結衣さんに噛み付いた人?」
「さあ、忘れちゃった」
嘘つき、と肩に回っているその手をぎゅっとつねる。
五月の夜。親元を離れて不安だらけの大学生活のはじまり。
優しくて、意地悪で、嘘つきな結衣さんとの出会いが、そのすべての始まりだった。
この時は、こんな他愛もない日々が、きっと卒業まで続いていくのだと、何の疑いもなく思っていた。
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