スキル『鑑定眼』

 エヌ氏は駆け出しの美術商だった。

 昨年急死した父親からこの仕事を受け継いだのだ。


 しかし、海千山千の美術の世界では、まだ審美眼の確立していない若いエヌ氏は都合のいいカモでしかなかった。

 贋作や、一銭の価値もない無名作家の作品を高値で売りつけられては、大損をかく始末。彼の事業はみるみるうちに左前となっていった。


 エヌ氏の前に、男が現れたのは、そんな時のことだった。


 暗い夜道に突如として現れた男は、黒いスーツを着込んでいた。不思議なことに、後になって思い出そうとしても、帽子のつばの奥で、男がどういう顔をしていたか、まったく覚えていなかった。


 男は言った。


「随分とお困りのようですね」


「君は誰だ?」


「私はあなたのようなお困りの方を手助けするのが趣味の者です」


 いきなり、そんなことを言われて、エヌ氏は酒の酔いもあり、不機嫌になった。


「私は困ってなんかない」


「嘘おっしゃい。事業が上手くいかなくて、かなりまいっているのでしょう。今日だって、こんな遅くまでやけ酒を飲んで鬱憤晴らしをしていたのではありませんか?」


「う、うーむ。どうしてそれを……」


 エヌ氏は気味が悪くなってしまった。

 この男は一体何者なのか。


「あなたはお父上から美術商の仕事を引き継いだものの、二束三文の品を掴まされて損ばかりしている」


「う、うむ。確かに君の言う通りだ。しかし、それをどうやって助けてくれるというんだ?」


「それなら、こういうのはどうでしょう。あなたが損をするのは、美術品を見る目がないからです。そこで、あなたにはレアスキルとして、美術品の美しさを正しく判断できる審美眼か、もしくは美術品の値段を正しく判断できる鑑定眼か、そのどちらかを差し上げましょう」

 

 男の申し出に、エヌ氏は迷った。

 美術商であれば、優れた審美眼が必要である。しかし、美しい美術品が、必ずしもその価値に見合った値段がつくとは限らない。結局のところ、美術品の価値は値段で決まるのだから、より必要とされるのは鑑定眼ではないか。


「鑑定眼だ。鑑定眼をくれ」


「かしこまりました。それでは、レアスキル鑑定眼を差し上げましょう。ご健闘をお祈りしますよ」


 男はそう言ったかと思うと、次の瞬間にはどこにもいなくなっていた。


 〇


 それからというものエヌ氏の運勢は上昇期に入ったらしい。


 もちろん、それはあの不思議な男のおかげだった。男のくれた鑑定眼は素晴らしいものだった。エヌ氏が美術品を目にすると、彼にだけみえるパラメータ画面が現れ「価格」の項目に美術品が持つ潜在的な値段が表示されるのである。

 

 実際の売値がパラーメータの価格より安いようであれば購入し、それを懇意の収集家のところに持っていくと、必ず鑑定眼で表示された通りの値段で売れた。


 こうなると美術商などは、いい商売である。

 エヌ氏は画商を回って次々と掘り出し物の美術品を発掘し、着実に資産を増やしていった。


 そんな、ある日、業界にちょっとしたニュースが流れた。

 人を食ったような態度で一部に人気のテレビタレントが、趣味の絵画で個展を開き、それが好評だったので、ネットオークションで作品を販売することにしたというのだ。


 それも「YEAR」と題した十二枚の連作で、「1月」から始めて、毎月一枚ずつ新作を発表して売り出すという仰々しさである。


 エヌ氏も商売柄、「1月」が売りに出された時にチェックしてみた。確かに素人にしてはセンスは悪くないが、かといってプロの水準には及ばない、つまらない絵に思えた。少なくとも鑑賞者としてのエヌ氏は、その絵に一円たりとも出す気はしない。

 それでも値段は30万円と表示されている。おそらく、これは絵の価値というよりも、作者であるタレントの知名度に応じたものなのだろう。


 一週間後、「1月」はオークション最終日に、きっかり30万円で落札された。


 ところが、その翌月、目をみはる事態が起きた。

 テレビタレントが発表したシリーズ2作目となる「2月」の値段が、300万円となっていたのだ。

 絵の構成や技術に特段の進歩がみられるわけではないのに、第一作目と比べて10倍に値上がりしていることになる。


 こんなことはエヌ氏が鑑定眼を手に入れてから初めてのことだった。


 もっとも絵画の世界には、時々こんなことが起こる。

 あのゴッホが生前たったの一枚しか絵が売れなかったのは有名な話である。


 もしかしたらタレントの絵も、業界に強い影響力を持つ評論家に絶賛されたり、富裕層に気に入られたりすることで、値上がりしたのかもしれない。

 あるいは、やはりエヌ氏には美術品を見る目がないだけで、つまらない絵にみえて、それだけの価値があるのだと考えることもできる。


 もっとも、その理由がなんであろうと、一作目が30万円で落札されたことを思えば、かなり破格の値段で、上手く手に入れられれば、かなりの利鞘が稼げそうである。


 エヌ氏は「2月」のオークションに参加して、いきなり30万円の値段をつけた。


 翌日、誰かが40万円で値段を更新した。エヌ氏はすぐさま50万円で上書きする。


 さらにその翌日、60万円が提示されている。エヌ氏は70万円で再更新する。


 その翌日は、さらに値上がりして80万円。エヌ氏90万円。100万円。110万円……


 オークションの最終日。結局値段は290万円まで吊り上がってしまった。これがエヌ氏の出せる最大価格である。300万円の絵を買うために、300万円を超えて支払ってしまっては儲けにならない。


 しかし、オークションが締め切られる寸前に、他の参加者から300万円が提示され、「2月」はその最高額をつけた誰かにさらわれてしまった。


 エヌ氏は大いに悔しがった。「YEAR」には自分がいち早く目をつけたと思っていたのに、さすがに生き馬の目を抜く世界だけあって、誰もが目ざとくアンテナを張り巡らしているらしい。


 だが、翌月、「3月」が発表されると、エヌ氏の後悔はさらに大きくなった。相変わらずのアマチュア絵画にもかかわらず、表示されている価格は3000万円となっていたのだ。


 またしても「2月」から10倍の値段に値上がりしている。


 もし300万円で落札できたら大儲けである。今度こそ競り勝ちたい。


 オークションが始まると、エヌ氏はやはり300万円の値段をつけた。


 翌日、400万円。エヌ氏は500万円で再プッシュ。


 さらに翌日、600万円。700万円。翌日、800万円。900万円、1000万円……。


 とうとうオークション最終日には、2900万円まで値上がりしてしまった。それでも、これで落札できれば100万円の儲けである。エヌ氏は祈るような気持ちでオークション画面をみていたが、しばらくすると誰かが3000万円の値段を提示した。


 今度もまたエヌ氏はトンビに油揚げをさらわれたのだ。

 そのまま時間が終了するまで動きはなく、「3月」は3000万円で落札された。


 エヌ氏はあまりに上手くいかないので、腹を立ててしまった。

 もうこんなことなら「YEAR」シリーズなどいらない。どうせ落札できないなら、労力をかける分だけ骨折り損のくたびれ儲けというものである。


 それでも人間の欲の皮というのはぶ厚いもので、翌月になるとエヌ氏は「のぞいてみるだけ」と自分に言い訳をしながら、発表されたばかりの「4月」を確認した。


 エヌ氏は驚愕した。


 なんと、「4月」の値段は3億円となっているのだ。

 明らかに異常な上昇率である。「1月」から始まって、ずっと10倍ずつ値上がりしてるのである。

 こうなってくると、旧作の「1月」「2月」「3月」だって元のままの値段というわけにはいかないだろう。そう考えれば、あの時「3月」を3000万円で落札していたとしても十分に利益が出たかもしれないのだ。


(いや、それよりも――)


 エヌ氏はさらに怖ろしいことに気が付いた。

 このままのペースで値上がりを続けるなら「5月」は30億円の値がつくということになる。そこまではさすがに大袈裟だったとしても、タレント氏の絵画を3億円で手に入れられるチャンスはこれが最後かもしれないのだ。


 いくらエヌ氏の事業が順調だったとはいえ、3億円は容易ならぬ大金である。

 エヌ氏は事業用の資金を確認したものの、その半分程度しかない。そこで定期を解約し、換金性の高い資産を現金にして資金を用意した。それでも3億円には数千万円及ばない。エヌ氏は保有する不動産を担保にし、銀行に頭を下げて回り、最後にはサラ金にまで借金することで、どうにか2億9000万円を用意することができた。


 そこまでしても目標とする3億円には、1000万円足りなかった。これがエヌ氏の資金力の限界だったのだ。

 

 そこでエヌ氏は賭けに出ることにした。


 オークションがはじまると、いきなりエヌ氏が提示できる最大金額である2億9000万円を提示したのだ。


(これで他の参加者が戦意喪失してくれるといいんだが……)


 翌日、2億9000万円を超える値段を提示してくる者はいなかった。

 エヌ氏は期待に胸を弾ませる。

 

 その翌日も、値段はそのまま。

 さらにその翌日も、その翌日も、エヌ氏の提示額に挑戦してくる者はいない。

 結局、オークション最終日まで値段が上がることはなく、ついにエヌ氏は「4月」を落札することができたのである。


 〇


 一週間後、エヌ氏は「4月」が届くのを心待ちにしていた。

 落札するのに借金を抱えてしまったが、なにしろ驚異的な値上がりを続ける「YEAR」の最新作である。


 できれば値上がりをするのを、じっくりと待ってから売りたい。

 もし思ったような値上がりをしなくても3億円の価値がある絵である。すぐに売っても1000万円の利益がでるのだから、利子を差し引いても、大儲けだろう。


 エヌ氏がそんなバラ色の未来を思い描いていると、一人の男がエヌ氏の画商を尋ねてきた。

 眼鏡をかけて口髭を生やした老紳士である。

 老紳士はこう自己紹介した。


「突然、ご訪問して申し訳ありません。私は隣町で美術商をしております」


 どうやらエヌ氏にとって同業者らしい。

 しかし、その同業者氏がなんの用で、わざわざ訪ねてきたのだろうか。

 エヌ氏が怪訝そうな表情を浮かべていると、同業者氏は言った。


「失礼ながら人を使って調べさせて頂いたのですが、あなたは先週、『4月』を落札しましたね」

「え、ええ。それがどうかしましたか?」


 エヌ氏はちょっと警戒しながら答えた。なにしろ3億円のお宝である。同業者氏がどんな行動をしてくるかわかったものじゃない。


「実は、あの『YEAR』シリーズの『2月』と『3月』は私が落札したのです」


「えっ!」


 エヌ氏は驚いてしまった。

 「YEAR」シリーズがここまで高騰する前に、絵を手に入れることができた幸運な人間は、目の前の同業者氏だったのだ。

 エヌ氏は感心して言った。


「それはお目が高いですね」


「いえいえ、私の力ではないのです」


 同業者氏はあながち謙遜ともいえない様子で答えた。


「それというのも、私は数年前までまったく美術品を見る目がなくて、騙されてばかりいたのです。そんな時、黒いスーツに身を包んだ不思議な男が私の前に現れたのです」


「もしかして、それは――」


「おや、やはりご存知でしたか。不思議な男は、困窮していた私に審美眼か鑑定眼のレアスキルをくれると申し出たのです。私は、こんなに有難い話はないと鑑定眼を貰いました」


 エヌ氏は言葉も出ないほど驚いてしまった。自分の境遇とまったく同じである。そういえば「困った人を助けるのが趣味」と言っていた。あの男は、エヌ氏の他にも同じようなことをしていたのだ。 

 同業者氏は話を続ける。


「鑑定眼のおかげで、私の商売も軌道に乗るようになりました。そんな時、あのタレント氏が連作シリーズ「YEAR」を発表したのです。とはいえ、最初の『1月』を私は黙殺していました。私にはつまらない絵に思えましたし、鑑定眼による価格も30万円と大したことありませんでしたから食指が動かなかったのです。ところが、その翌日になると『2月』は300万円になっていたのです。私はその異様な値上がりに驚きました。そこでオークションに参加することにしたのですが、他の参加者も目をつけていたらしく、すぐに値上げ競争となりました。結局、私は『2月』を300万円で落札しました。儲けが出ないことはわかっていましたが、驚異的な価格上昇が気になっていたので、場合によっては手元に置いておいておくために買ってもいいと思ったのです。さらに、その翌月、同じように『3月』を3000万円で落札しました」


「なるほど。しかし『4月』は私が落札した。どうやら、いきなり2億9000万円を提示した私の賭けが功を奏したようですね」


 エヌ氏は自慢気に言った。「2月」「3月」では出し抜かれたものの、「4月」は1000万円も安く手に入れることができたのである。いわば、同業者氏に一矢報いたといっていい。

 しかし、同業者氏は申し訳なさそうに首を振った。


「いえいえ、違うのです。あの時、私は3億円までなら落札するつもりで、軍資金も用意していました。ところが、いきなり2億9000万円もの高額入札がついたことで、さすがにおかしいと虫の知らせが働いたのです。私は自重して落札を見送ることにしました。そして、その翌日のことです。大事に保管していた「2月」と「3月」を取り出して、鑑定眼で価値を確認してみると、両作とも30万円に値下がりしていたのです」


「えっ――?」


 と言ったきり、エヌ氏は言葉が続かなくなってしまった。

 同業者氏は一体何を言っているのか?


「これは私の推測ですが、あなたも鑑定眼のスキルをお持ちではないですか? つまり、私たちに起きたのは、こういうことです。私たち鑑定眼を持つ者が、同じ美術品に目をつけた。私たちは、鑑定眼でその美術品の正確な価値を知っており、それが利益になると分かっていたからこそ、お互いに値段を吊り上げた。もはや確信をもって申し上げるのですが、オークションに参加していたのは、きっと途中から、私とあなたの二人だけだったはずですよ」


 エヌ氏はようやく事態を理解し始めて、ぶるぶると震え出した。

 同業者氏はなおも説明を続ける。


「確かに鑑定眼は正確でした。私は鑑定眼でみた価格通りに300万円と3000万円で落札したのですから、あの絵の値段は間違いなく300万円と3000万円の価値があるのです。しかし、その正しい値段とは、あの絵が300万円と3000万円であると、私たちが知っていたからこそ実現した値段だったのです。ところが、私は最後の最後で、「4月」の値段を吊り上げるのをやめた。3億円で落札せずに勝負を降りた。すると、その瞬間に「YEAR」シリーズにかけられた魔法は解けた。あの絵は、鑑定眼を持った人間同士が利益目的で張り合うのでもない限り、30万円というのが正しい価格だったのです」


「そ、そんな馬鹿な……」


 エヌ氏はなおも信じられなかった。

 同業者氏はいかにも諦めきったような表情で、やれやれと首を振った。


「やはり、美術品を扱うなら、いくら金銭的な価値がわかっても、美術的な価値がわからなくては話になりませんよ。たとえ、楽な儲けができなくても、あの時、審美眼のスキルを選択するべきでした。いや、今回はそのために高い勉強料につきましたよ――」

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