指輪

 その日、勇者は最愛の恋人の遺体を火葬に付した。

 

 不慮の死ではない。

 魔王討伐の旅から数十年が過ぎ、老いを重ねた末の、ごく自然な病による死だった。


 病気の進行が早かったことから、彼女の苦しみの時間が短く終わったことは、勇者にとって救いであった。

 彼女は勇者にとって恋人であると同時に、かつての旅の仲間でもあった。冒険の日々においては優秀な魔法使いとして勇者をサポートし、魔王討伐の後には、人生のパートナーとして勇者の傍らにあり続けた。


 勇者は彼女を愛し、彼女もまた勇者を深く愛していた。それにもかかわらず、二人が結婚しないままだったのには理由がある。

 勇者には還るべき故郷ふるさとがあったのだ。


 異世界――と勇者は魔法使いに打ち明けた。

 彼はこの世界にとって異世界となる場所からやってきたのだと。


 そもそも彼が魔王の討伐を志したのからして、魔王城にあるという、破壊することで次元の裂け目を生み出す「帰還の指輪」を手に入れることが目的だったのだ。


 ところが魔王を倒した後、魔王城をくまなく探したものの、ついに指輪は見つからなかった。


 勇者は故郷ふるさとへ還る術を失ったが、それでも諦めようとはしなかった。いつか、どこかで「帰還の指輪」がみつかるものと信じていた。


 世界に平穏が訪れ、旅の間に心を通い合わせた魔法使いと共に暮らすようになっても、それは変わらなかった。

 勇者にとって、彼女と恋人の関係であり続けることを選んだのは、彼なりのけじめだった。


 結局のところ、彼はいつの日か元の世界に帰る人間なのである。

 いくら彼女を愛していても、彼自身が決めた一線の向こう側に足を踏みだすわけにはいかない。


 しかし勇者の懸命な捜索にもかかわらず、「帰還の指輪」をみつけることはできなかった。そうして無為の日々を過ごすうち、いつしか勇者と魔法使いも老い、ついに彼女は天国へと旅立ってしまった。


 一晩中、夜の闇を照らし続けた火が消え、勇者が眠りから目覚めた時、魔法使いの肉体は煙となって天に昇り、そこには骨だけが残されていた。

 勇者は恋人の残骸をかき集めようと立ち上がり、そこで息を飲んだ。


 白く乾いて崩れかけた遺骨に混じって、強大な魔力を発する指輪があるのをみつけたのだ。

 それこそが長年探し求めてきた「帰還の指輪」だった。


――どうして、これが?


 勇者は愕然として言葉を失ったが、次の瞬間には、全てを理解した。


 幾多の困難を乗り越え、ついに魔王との死闘に勝利したあの日、勇者は激しい戦闘で重傷を負い、一時的に意識を失った。

 魔法使いの回復魔法のおかげで命に別状はなかったもののの、彼が意識を取り戻すまでに何があったかは、あの日の記憶から白紙のまま抜け落ちている。

 おそらく、その間に、彼女は「帰還の指輪」を見つけていたのだ。

 

 そして彼女は探知魔法に見つからないよう、高密度の魔力体である自分の身体の中に指輪を埋め込んだ。


 なんのために――?


 決まっている。愛する勇者を失いたくなかったからだ。異世界からの大切な来訪者が、再び手の届かない存在になってしまうことを避けるためだ。


 勇者はゆっくり細く息を吐いた。

 不思議と、欺かれたことへの怒りは湧いてこなかった。


 それよりも、そんな無茶な真似をしてでも勇者と離れまいとした彼女のいじらしさに、胸が締め付けられる思いがした。

 

 どうして自分はそれほどまでに元の世界に帰ることにこだわっていたのだろうか。


 もはや元の世界より遥かに多くの時間を彼女と過ごした今となっては、その理由を、はっきりと思い出すことはできない。

 

 彼女は勇者の気持ちを慮ってか、自分から結婚という言葉を口にすることはなかった。そのため、てっきり彼女も納得しているものとばかり思っていたが、それがどれだけ彼女を傷付けていたことか。

 勇者は自分の鈍さに初めて後悔の念を抱いた。


 勇者は恋人の骨の間から、壊れないよう大切に指輪を拾い上げる。


 彼の人生に残された時間も、きっと、そう多くないだろう。

 そのわずかな時間は、最愛の人が眠る墓のそばで終わろうと思った。

 彼が還る場所はここだ。彼女と暮らし、共に生き、そして彼女の魂が眠るこの場所にあるのだ。


 勇者は指輪を左手の薬指にはめると、天国にいるであろう彼女からもよくみえるよう、その手を空に高くかざした。

 朝の陽の光を反射して、まるで勇者の誓いを祝福するかのように、指輪はキラキラと輝いた。

 死はふたりの肉体を分かつた。しかし、ふたりの魂を繋ぎ止めたのも、また死であった。


 勇者の左手に輝くそれは、長い年月を超え、ようやく交わすことができたふたりの結婚指輪だった。

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