医者の本分
前世においてエヌ氏は医者だった。
わざわざ前世といったのは、エヌ氏がここ「ファンタジア」の世界に転生する前は、日本という国で平凡な一市民として暮らしていたからだ。
エヌ氏がファンタジアに転生したのは、不慮の事故で命を落としたことがきっかけだった。その際、エヌ氏は転生者の通則に従い、ファンタジアで最高レベルのアビリティを付与されていた。だから、エヌ氏が冒険者であることを望むなら、すぐにでもトップランカーに登り詰めていたに違いない。
しかし、エヌ氏は、その能力を積極的に活用しようとはしなかった。
彼は医者という自らの仕事に、強い使命感と誇りを持っていたからだ。
エヌ氏はファンタジアで冒険者より医者という仕事を選んだ。ファンタジアの医療レベルは、彼がかつていた日本に比べて、数世紀は遅れている。
エヌ氏には、ファンタジアにおいても人の命を救うことが自分の天命だという信念があったのだ。
彼の持つ医療技術は、それまで治療不可能とされてきたファンタジアの患者を救うことができた。しかもエヌ氏は、医は仁術なりの倫理規定に従って、貧しい患者からは報酬を一切受け取らなかったから、神様のような名医としてファンタジアの住人から崇められるようになった。
手の施しようがないと医者に見捨てられた患者やその近親者が、藁をもすがるに思いでエヌ氏の病院を訪れる。そして、この世界の水準ではありえない高度な水準の治療によって、どうにか一命をとりとめた後、患者たちが涙ながらに感謝を述べるのを目の当たりにする瞬間、エヌ氏は言い知れない喜びを覚えるのだ。
そんな、ある日のことである。
エヌ氏は、彼の病院の地下に設けられた研究室で、「おうっ!」と声をあげた。
彼は、ファンタジア世界における、さらなる医学の発展に貢献するため、診療のない時は、研究に勤しむのが常だった。その日は、ファンタジア世界に特有の植物であるハナツキ草の成分を魔導顕微鏡で分析していたのだが、そこで、とある特徴的な分子構造を発見したのだ。
それはエヌ氏がまだ日本にいた頃、世界中で猖獗を極めた新型感染症の特効薬になりうる有機分子だった。
もちろん、それは理論上のものであったけれど、分子構造そのものは、分子工学的に理想的とされる形状と、完全に一致したものなのだ。
(なんということだ。このハナツキ草が日本にあれば、恐ろしい新型感染症から多くの人を救うことができたのに!)
エヌ氏は臍を噛んだ。これだけ有用な分子構造を持つ植物を発見したというのに、このファンタジア世界には、同様の感染症は存在しない。つまり、元の世界であればノーベル医学賞間違いなしの「世紀の発見」も、ここでは宝の持ち腐れなのだ。
かといって元の世界には、ハナツキ草のような植物は存在しなかったのも事実である。
いわば、医学史に燦然と名を刻むドアがすぐ目の前にあるのに、鍵穴がある時には鍵がなく、鍵がある時には鍵穴そのものがないという、まさにジレンマ的な状況にあったのだ。
エヌ氏でなくとも忸怩たる思いを抱くのは当然だっただろう。
エヌ氏が呆然としたまま、どれほどの時が流れただろうか。彼はようやく決心したように立ち上がると、部屋の隅にある戸棚の奥から、あるものを取り出した。
それはエヌ氏が、ファンタジアに来てからというもの、ずっとしまいこんでいた冒険者ギルドの登録証だった。
〇
それから数ヶ月後、衝撃的な情報が各地の冒険者たちの話題をさらった。
奇跡の名医として数多の病者を救済してきたエヌ氏が、新米冒険者としてデビューしたというのだ。しかも、冒険者としてのキャリアをスタートさせるや、たちまち頭角を現し、Sランクパーティでも手こずるような難関ダンジョンを次々と攻略しているという。
さらに、この話には怪しげな噂が、まことしやかに尾鰭のように付随している。エヌ氏はダンジョンに潜ると、普通のパーティーなら、まず行かないような最深部まで入り込み、そこで必ずといっていいほどコウモリタイプのモンスターを大量に捕獲して帰るというのだ。
冒険者ギルドではコウモリタイプのモンスターは換金対象にならないだけに、それがどんな意味を持つのか正確に理解できる者は、ファンタジアにおいては一人もいなかった……
〇
「先生、お願いです。どうか助けてください」
もはや野戦病棟もかくやと言わんばかりに患者がひしめく病院の待合室で、若い女がエヌ氏にすがりつくように言った。
エヌ氏は力強くうなずく。
「もちろんです。この薬をどうぞ」
――あれから5年後が過ぎていた。
ファンタジアの世界に、ある疫病が蔓延した。その新しいタイプの病気は、人から人へと次々に感染する性質を持ち、ファンタジアの住人を恐怖に突き落すことになった。あるいは、エヌ氏と同じ転生者であれば、その特徴的な病理からピンとくるものがあったかもしれない。とはいえ、絶望の中にも希望はあるもので、未曾有の災厄にもすぐさま光は差した。世界的に名の知れた優秀な医者が、この恐ろしい病気の特効薬を開発することに成功したのだ。
その医者とは、もちろん、冒険者として数々の偉業を打ち立てた後、あっさりと引退宣言をして、本業である医療行為に立ち戻っていたエヌ氏その人だった。
その特効薬を今しがたエヌ氏から押し頂いた患者が、感動のあまり言葉を震わせて、感謝の言葉を述べる。
「ああ、ありがとうございます。先生。先生は私達の命の恩人です」
「なに、かまいませんよ。私は医者として当然のことをしたまでです」
エヌ氏は涼しい顔でそう言いながら、胸の奥底で良心がチクリと痛むのを感じた。
エヌ氏にとっての医者の本分。
どうやら、それは患者の命を救うことそのものではなく、己が天職と信じる医師としての職能を如何なく発揮して、他者から称賛を浴びることにあったらしい。
それはエヌ氏にとって不愉快な事実であったが、かといって自分の本性は変えようとして、変えられるものではない。
エヌ氏は、さっと立ち上がると声をあげる。
「さあ一人でも多くの人を救うためには時間が少しでも惜しい。まだ薬を貰ってない者は、早く私に診せなさい!」
その瞬間、エヌ氏の顔は、なるほど確かに――患者たちが尊敬の表現として形容するように――神様のように光輝な充実感に満ち溢れていた。
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