ゴブリン転生

 男は病室でぼんやりと天井を見上げていた。


 もう数日前から、それしかすることがない。というよりも、それしかできなかった。

 なぜなら、男の腰から下は完全に麻痺して動かなくなっていたからだ。いわゆる下半身不随である。


(あの弱虫野郎が、ナイフなんて持ち出しやがって)


 男は声にこそ出さなかったものの、内心で激しく毒づく。男がこのような境遇に至った原因は、職場の後輩にナイフで刺されたことだった。凶悪な悪意の刃は、男の腰骨を貫き、一命こそ取り留めたもののの、脳と肢を繋ぐ重要な神経を著しく棄損させたのだ。


 後輩は入社当初から弱々しい性格の男だった。

 それはすなわち男にとって絶好の獲物であることと同義だった。


 男にとって世の中とは弱肉強食の場である。

 強い者が弱い者を食らうのは当然のことだ。だから、男は後輩をさんざんにいたぶり、搾取し、あらゆるものを奪った。

 後輩が抗うつ剤を飲み過ぎて病院に運ばれたと聞いた時など、腹がよじれるほどに笑ったものだ。


 ところが、あの後輩は弱くはあっても狡知であった。


 男の所業を逆恨みした末に、男が酔い潰れた帰りの夜道で奇襲を仕掛けてきたのだ。


 後輩はすぐさま警察に逮捕されたが、支払った代償は、男の方がより大きかっただろう。

 

――回復する見込みはない。


 それが医者の見立てで、男は残りの生涯を半身不随のまま生きていくこととなったのだ。


(あの弱虫野郎が憎い)


 男の脳裏にあるのは、自分がしたことへの後悔はなく、後輩への怒りばかりである。

 下半身不随ということは、これからの人生において、男は弱者の側として生きていかねばならないということだ。


 男がこれまで収奪の対象としてきた獲物たちも、それを知れば、今度は収奪する側へと回ろうとするかもしれない。そんな屈辱には絶対に耐えられない。男は暗澹とする未来に想いを馳せ、ひとつの決心を固めた。


――もうこんな人生に未練はない。


 下半身と異なり、腰から上はまだいくらか自由が利く。男はベッドの脇に置かれたタオルを手に取ると、ベッドの手すりに結わい付け、それを首にかけた。

 それからどうにか身体全体をベッドの外へと移動させていくと、あとは一瞬の出来事だった。


 感覚のない腰から下が重力で落下したかと思うと、男の首に布が食い込み、すぐさま意識が失われていった。


 男の脳裏にふと「これで本当に死ぬのだ」という恐怖がよぎったが、それすらも刹那の後には、どこかへと飛び散っていった。


 〇


 目覚めると、男は固いごつごつしたベッドの上に寝かされていた。

 あたりは薄暗く、どこからか血腥い臭気が漂う。


(まさか死に損ねたのか)

 

 男は恐怖のあまり声をあげようとした。しかし、おかしなことに上手く声が出せなかった。喉の奥からキーキーと音がするばかりである。

 それにさっきから腰から上の動きも鈍い。ひょっとすると、自殺に失敗した後遺症で、上半身の機能までおかしくなったしまったのだろうか。


 すると誰かが男のそばにやってくる気配があった。てっきり医者か看護師かと思ったのだが、男の顔をのぞきこんできた、その姿に、驚愕して息をすることも忘れてしまった。


 ぶ厚いまぶたと真赤な瞳。醜悪に垂れ下がった鼻。牙の生えた口。緑色の皮膚。骨ばった細い体は、まるで枯れた老木を思わせる。

 その姿は、ゲームやアニメに出てくるゴブリンそのものだった。


 男は悲鳴をあげようとしたが、やはり喉からはキーキーという不快な音がするだけである。

 ゴブリンはやはりキーキーと声をあげたが、不思議なことに、男にはそれがどういう意味か、すぐに了解できた。


 五月蠅い、と言っているのだ。

 ゴブリンは男をひょいと持ち上げる。一瞬、相手はよほどの巨人かと錯覚したが、それよりむしろ男の身体が小さくなっているらしい。


 ゴブリンは男の顔をじっと睨むと、泣き止まなきゃ食い殺すぞ、と瞳に狂気じみた光を宿して脅した。

 男はびっくりして、それ以上の音が漏れないように慌てて口を閉じる。


 すると、ゴブリンは男を乱雑に地面に投げ捨て、どこかに去って行った。

 それで気付いたが、男が寝かされていたのは、ベッドではなく苔むした岩であった。薄暗闇に目が慣れてくると、天井や壁も暗色の岩で囲まれているのがわかる。

 どうやら、ここは洞窟の中のようだ。


 そして男はようやく事態を理解し始めた。おそらく彼はゴブリンの赤子に生まれ変わっているのだ。


――異世界転生。


 すぐに、その言葉が脳裏に浮かんだ。

 男はアニメ鑑賞の趣味もあったから、そういったことに関する基礎的な知識はあった。


 そうなると、やはり男は死んで、それを機に異世界に生まれ変わったということだろうか。


 しかし、どうしてよりにもよってゴブリンに――


 そんなことを考えていると急激な眠気が襲ってきた。やはり赤子の身体だけに、体力が不充分なのだろう。男は必死で睡魔に抗おうとしたが果たせず、すぐに再び意識を失った。


 〇


 ゴブリンの成長は早い。

 三カ月もする頃には、男は自力で立ち上がり、歩けるまでになっていた。


 その頃になると、男はようやく事態を正確に理解し始めていた。

 受け入れ難いことながら、やはり男はゴブリンに転生してしまっているらしい。

 しかも、この三カ月間、男が観察したところでは、この世界のゴブリンは相当に醜悪で卑しい生き物である。


 まず、彼らに親子という概念はない。

 ゴブリンのメスは赤子を孕むと、そのまま産み棄ててしまい、決して育てようとはしない。

 だが、しぶとい生命力が特徴のゴブリンは、それでひとりでに成長してしまう。男もゴブリンに転生してからというもの、冷たい岩の上に放置されていたにも関わらず、誰の力も借りることなく生き抜くことができた。

 なにしろ、この三カ月というもの、食事はおろか水分さえ一滴も口にした記憶はないのだ。


 とはいえ、それはゴブリンの生態にも関係している。元々、生命を維持するために栄養を摂取する必要のない身体の作りをしているのだ。飲み食いはできるものの、あくまでそれは嗜癖というべきもので、生きるためではなく、ただの楽しみのためになされる行為なのである。


 また、その食欲というのが問題で、彼らは、それが嗜好であるが故に食べることが生き甲斐で、しかも限りなく悪食で底なしなのだ。


 ねずみ、虫、こうもり、そして人間。さらには同類であるゴブリンの肉まで。しばしば彼らは相争ってお互いの肉を食みあうことさえ珍しくないのだ。


 男は悲しくなってしまった。なんの因果でこんな醜い化け物に生まれ変わらねばならないのか。どうして生まれ変わるなら、もっと恵まれた生を得ることができなかったのか。

 

 それでも自分の足で歩けるまでに成長した時、男は感動を抑えきることができなかった。このようなモンスターの身体になってしまったとはいえ、あの後輩に理不尽に奪われた健康な自由を、再び取り戻すことができたのだ。


 そう考えると、このゴブリンの身体もそう悲観したものではないかもしれない。

 男は軽やかに動く足で一時の散歩を楽しみ、それから思い立って自分のステータス画面を確認することにした。

 

 男の知っているアニメには、一般的なイメージでは雑魚キャラのモンスターに転生した主人公が、視聴者の予想に反した大活躍をするパターンもある。


 もしかしたら自分にも、そういったギフトというべき特別な能力が与えられているかもしれない。男は期待に胸を弾ませて、恐る恐るステータス画面をのぞく。


※※※

種族:ゴブリン

LV3(MAX)

体 力 12

魔 力  0

攻撃力  3

防御力 11

敏捷性  2

固有スキル:凌辱(Lv4)、生肉食(Lv39)

※※※


 震えるしかなかった。

 

 まず、レベル。ろくに戦闘をしたこともないのだから低レベルなのは仕方ないとして、それがMAXとはどういうことか。

 まさか、本当にこれでカンストしているのか。この貧弱なステータスで? すでに上限? 最大値? ここからの上積みはもうない?

 そのうえ魔力が0ということは、魔法も使えない。いくらなんでも、ここから成り上がり英雄譚が始まるとは思えない。


 さらに男の目を惹いたのが固有スキル。凌辱って、なんだ?

 確かにアニメでも、ゴブリンが人間の女性を凌辱する展開は珍しくないが、それが固有スキルって、どういうことだ。しかもレベル4って、戦闘レベルより高いじゃないか。そんな最低なスキルで、どこまで高みを目指すつもりなのか。


 そして生肉食のレベル39。

 もうどこから突っ込んでいいかわからない。レベル39という、他のパラメータに比べてありえないほど高い数値だけでも頭がくらくらしてくるのに、『生肉食』とはいかに。せめて『肉食』でいいじゃないか。なぜわざわざ生肉に限定する。まったく理解ができない。


 だめだ、すべてが気持ち悪すぎる。


 これには、さすがの男も意気消沈せずにはいられなかった。

 みたところ、ゴブリンは群れで暮らしていても、知能は高くない。おそらく有効な組織的戦闘もできないだろう。そうなってくると、弱い個体がいくら集まったところで、いずれ人間たちに討伐されることは時間の問題に過ぎない。


(そうだ――!)


 男は、ふとあることを思い出した。彼があまり観たことのないジャンルではあるものの、転生ファンタジーには、破滅的な運命が決定づけられたキャラクターに転生した主人公が、バッドエンドを回避して幸せになっていくタイプの物語も存在する。


 もしかすると、今回はそういったパターンなのかもしれない。


 そうなると、人間たちと敵対するルートは回避すべきだ。人間にゴブリンが友好的な種族だと印象づけることができれば、あるいは平和に共存する道が開けるかもしれない。


 そうと決まれば、早速、行動あるしかない。


 男は洞窟のなかで最も高い岩にしがみつくと、その頂上へと向かった。

 そこは、ひときわ巨大なゴブリンが居座る岩であった。彼はその強大な力で群れを支配しており、ゴブリンキングと呼ばれている。


 男は岩を登り切ると、あの特徴的なキーキー声で、へりくだりながらゴブリンキングに話しかけた。


「おお、偉大なる我らがゴブリンキング様。少しだけよろしいでしょうか?」


 ゴブリンキングは手頃な石に腰かけ、人間の髑髏を加工した盃で酒を飲みながら、男をじろりと見下した。


「なんじゃ?」


 その目はとろんとして、かなり酩酊していることが一目でわかった

 ゴブリンキングの吐く生臭い息が、男の頬を撫でた。男は吐き気を抑えながら言った。


「恐れながら申し上げたいことがあります。私たちゴブリンは、これからは人間を襲うのをやめるべきだと思うのです。それというのも……」


 そう言いかけて、男は固まってしまった。

 ゴブリンキングは足元からなにかを取り出したのだ。それはゴブリンの生首であった。ゴブリンキングが指先に力をこめる。パキンと音がして、生首の頭蓋骨が割れた。ゴブリンキングは器用に骨の欠片を取り除くと、人差し指で中身の脳味噌を掬いとり、派手な音を立てて旨そうに舐りだしたのだ。


「んん~。なんじゃあ……? なにか言ったかぁ?」


 男の足が恐怖でガタガタと震え出した。


「あ、あの……。それは……?」


「これか? これはワシに逆らって生意気な口を利いた愚か者の末路よ。ちぃと知恵の回らん奴じゃったが、どうしてはなかなかに詰まっておる。これはこれで酒のには乙な味がするものじゃのう」


 ゴブリンキングは口から涎を垂らしながらグフフと笑った。


「さ、左様でございますか……」


「それでなんじゃ? お主は申し上げたいことと言って、わざわざそんなことを聞きにきたのか?」


「い、いえ! なんでもありません」


 男はそう言うと、岩を転げ落ちるようにして、這う這うの体で退散した。

 絶対に無理だ。あんな野蛮な化け物を説得できる気がしない。なにか別の手を考えなくては。


 すると洞窟の入口の方で、ゴブリンの集団が騒ぐ声が聞こえた。

 どうやら数匹のゴブリンが、近くの村から若い娘たちをさらってきたらしい。その魅力的な獲物に、仲間たちが歓声をあげて迎えているのだ。


 男はじゅるりと舌なめずりした。

 人間と友好を結ぶための方策はそのうちにまた考えるとして、今はゴブリンに許された享楽を満喫するのも悪くない。


 どれ、せっかくだから、ご相伴にあずからせてもらおうか。


 そう思って、男が村娘のところへ向かおうとした時、今度は獣のような咆哮が聞こえた。続いて、怒声と、叫び声と、パニックの声。声。声……

 なにが起きたかはすぐにわかった。

 村娘を助けるため、人間たちが攻めてきたのだ。


 時すでに遅し。

 男が恐れていた破滅的な瞬間が早くも訪れてしまった。


 この突然の侵入者にゴブリンはその凶悪な本性を剥き出しにして襲い掛かるが、次々と返り討ちにあって殺されていく。

 人間たちは四人組のパーティーであったが、いずれも熟練者らしく、それぞれが一騎当千の強者たちだった。


 断末魔が積み重なるようにして、ゴブリンの骸が屍山血河を築き上げていく。

 そして侵入者を撃退するため、満を持して立ちはだかったあの怖ろしいゴブリンキングが、剣士のソードでいとも簡単に膾切りにされた時、男の精神は完全に恐慌をきたした。


(い、嫌だ……! 死にたくない!)


 男は脇目もふらず洞窟の奥へと走り出した。


 すでに戦闘は生き残りの殲滅戦へと移っている。もう群れの全滅は免れないだろう。

 それでも男は、ただ一匹で、洞窟の奥へと、逃げて、逃げて、逃げ続けた。

 ゴブリンの身体とはいえ、せっかく生き返ったのだから、こんなところで命を落としたくなかった。


 足がもつれて転げ、息が切れ、光の届かない洞窟の奥底まできても、男は腕と足で岩肌を舐めるようにして、さらに奥へとひたすらに進んだ。


 やがて有史以来、どのような生物も到達したことのないであろう洞窟の最深奥まで到達した時、男はようやく後ろを振り返った。


 人間たちの姿はおろか、果てしない暗闇が、ずっと向こうまで続いている。

 さすがに、ここまで来れば安全だろう。


 男は一息入れると、疲れ切った身体にしばしの休息を与えるため、足元の岩に腰を下ろそうとした。

 しんと静まり返った洞窟に「キキー!」という甲高い悲鳴が反響して消えた。


 男が尻の下敷きにした岩が崩れ、そのそばに隠れていた深い穴へと身体が落下していったのだ。


(うっ……うう……)

 

 男は痛みのあまり呻き声をあげた。

 不幸中の幸いか、どうやら一命は取り留めたらしい。


(くそっ、なんて不幸続きなんだ!)


 男はどうにか立ち上がろうとしたが、すぐにある違和感に気付いた。

 下半身にまったく力が入らない。いや、そもそも足の感覚がないのだ。


 ああ、なんということであろうか!

 

 ありうべからざることに、男の下半身は一緒に落ちてきた岩の下敷きになって押し潰されてしまっていたのだ。


 そのために男は、そこから一歩たりとも動けなくなってしまった。

 男は助けを求めて泣き叫んだ。それこそ喉が張り裂け、血が出んばかりに必死に叫んだが、なにしろここは生物の気配すら感じさせない地の底にある。男の声は虚しく闇に吸い込まれていくばかりで、誰かが現れる気配はいつまで経っても一向になかった。


……あれから、どれくらいの時間が過ぎただろう。

 

 穴に落ちてからというもの、水も食べ物も口にすることはできなかったが、それでもゴブリンの身体のおかげで、男はしぶとく生き続けていた。

 いや、何度も死のうとしたのに、死ぬことができなかったというのが正しいだろう。


 この苦しみはいつまで続くのだろうか?


 いっそ人間の討伐隊がやってきて、一思いに殺してくれたらと夢想するものの、そんなささやかな願いすら叶う見込みはなさそうである。


 時々、男は、まだ人間だった時に見上げた病院の天井を懐かしく思い出すことがある。

 このあらゆるものを拒絶する地底においては、それすらも今は許されない贅沢な娯楽となってしまったのだから――

 

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