月のウサギと僕の嘘
「あのね、月のウサギがね、いなくなっちゃったんだ」
就活の合間を縫って帰省するなり、母親にこき使われ、くたくたになって縁側で月を見上げていた僕に、従弟はそう言った。後ろ手に手を組んで、すこし泣きはらしたような目で。
そんな声を聴いて、懐かしさを覚えてしまう。昔は僕もこんなことを言っていたものだった。だから、無下になんてできなくて「月のウサギ?」と聞き返した。
「うん」
「そう。ムク君は、月のウサギが見えるの?」
「見えたの。ずっと、前から。でも、半年前から見えなくなっちゃった」
「そう」
「ウサギさんがね、大人には話しちゃダメだっていうんだ」
「うん」
「……僕はそれを守ってたのに、勝手にいなくなっちゃったんだ」
「そっか、僕が聞いてよかったの?」
「カササ兄はまだおとなじゃあないでしょ」
今年で21になるけれど、まだ大人として見られていないらしい。まあ、その線引きはきっとムク君自身のものだろう。
「もっと、話したかったんだけどな……」
「そう、今まではどんな話をしたの?」
月への行き方。ウサギがなぜ喋れるのか。他にも人間の友達はいるか。カメとは仲良しか。丸餅と角餅どちらが好みか。
そんな話を続けているうちに、疲れてムク君は寝てしまった。ふわふわのくせっ毛
が膝を撫でる。懐かしくも驚きに満ちた時間だった。
「だ、そうですよ」
誰にでもなく、つぶやくと。
「お久しぶりでございます。カササさま。私とお話しなさってよろしいので」
柱の陰から声が聞こえた。白い耳に赤い目、両手にぎりぎり乗りそうなくらいの小動物。そこにはウサギの姿があった。
「もちろん。ひさしぶり。東京じゃあ見ないから」
「なかなか東京の空気にはなじめないものですから」
そういうと、ぴょん、と僕の膝の上に乗ってくる。右膝にはコウ君のぬくもりが、左膝には月のウサギのぬくもりが重なった。
「そうだね、僕も東京はちょっと苦手だ」
全部が全部苦手なわけじゃない。交差点ですべてが赤信号に変わる瞬間なんかは、誰も傷つけないためのやさしさが働いているようで、好感を持てる。でも、ごった返していて時々、息が詰まりそうになる。
「これからはずっとこちらに?」
「お仕事しだい、かな。まだちょっとわからなくて」
これからの道はいくつか考えているけれど、正直なところどれが一番いいかなんてわからない。
「そうですか」
ちょっとばかり陰ったような声だった。
「それで、君がムク君の前から姿を消したって聞いたけれど」
「耳が早いですな、私より素敵な耳が生えているようだ」
「君の目ほどじゃないよ、なんだっけ、月から全部見通せるんでしょう?」
「おや、良くおぼえていらっしゃいますな」
「そりゃあね、ずいぶんと楽しかったから」
「それはそれは。光栄でございます」
「君の方がずうっと長く生きているのに、そんなに恭しくしないでよ」
「性分なもので。そして、我々の社会に年功序列という言葉は残念ながらないのですよ」
「そうだったね」
「えぇ」
心地よすぎてこのままではだらだらと目的のない会話を繰り広げてしまいかねない。
「そう、で。ムク君の前から、どうして姿を消したの?君はそう簡単に人を傷つけるひとじゃないでしょう」
「私は人じゃあありませんよ。そして、ウサギに勝手な理想をかぶせるのはウサギとしてはタブーでございます」
ウサギは茶目っ気あるしぐさで、腕でバツを描いていた。
「理想、ってほどじゃないよ。君っぽくないから、君が何を思って、ムク君を遠ざけたのかがわからないから、できればわかりたいと思うだけだよ」
僕の言葉ながら、ちょっと苦しいかもしれないと思いつつ、尋ねてみたけれど、案外好感触だった。
「聞かれたら答えを濁せないの私なことをわかっていて、それをたずねますか?」
「どんな大人よりも、僕は、君のそのまっすぐなところがこのましかったんだよ」
「かないませんなあ」
まるでもとから話すつもりだったかのように。
「カササ様のご様子を見ておりまして、少し感じいるところがあった、といいますか」
「そう?」
別に、普通だ。それほど無理をした生き方をしているわけでも、ウサギから何かをされたわけでもない。多分、自然体で生きているのだと思う。でも、少しだけ月のウサギが何を言いたいのかがわかった気がした。
「私と話すと、嘘のつき方を忘れてしまうでしょう?」
特殊能力なんてかっこいいものじゃなくて。純然たる事実として、月のウサギと話すことは、嘘のつき方を忘れさせる。あまりの居心地の良さがきっとそうさせる。本音ばかりで話しても居心地が悪くならないから、本音を吐く回路がいつのまにか強靭になって、どうしようもないほどに嘘を吐きだす回路が弱っていくのだ。
僕の沈黙をどう受け取ったのか、月のウサギは続けた。
「いえ、私もこれが悪いことと思っているわけではございません。ただ、人間の中で生きるにあたっては、きっと都合の悪いことなのでしょう。
なんとおっしゃいましたか……そう、就職活動、というんでしたかな。そこでは、きっと、本音以外も少しばかり求められる。月からカササ様のご様子をすこしばかり見ておりまして、そんなところでご苦労をおかけしているのが少しばかり気がかりでしてな」
そんなこと、君が気にすることじゃないんだよ、と言いかけて、口をつぐんだ。
僕は僕が楽しくて君と遊んでいたし、その結果ちょっとだけ苦労はしているけれど、総合的にみて幸せのほうがいっぱいあった。
でも、それは僕の話でしかない。これは月のウサギとムク君の話なのだ。僕の感情は、この際に踏み込むだけの理由になるだろうか。
「ムク様に本音の弊害を負わせるのは酷でございましょう。
これは想像力と責任の問題でございます。カササ様の際には想像しきれなかったことであり、申し訳なく思っているのでございますが、もう想像できるようになってしまいました。
ムク様が今後、ご本人の本音がでてしまうことゆえに苦悩することがあるようであれば、私はそれを良しとは思いません。
せめて、ムク様がその弊害を理解したうえで私と交流なさってくださる判断がつくまでは」
なに、私の寿命は長いですから、月のウサギは言った。
「それじゃあ、僕と話すのはいいの?」
「おや、今更ではありませんか。それに、私はちゃんと確認をとりましたよ」
そういわれると、話してもいいか、と聞かれた気もする。
「確認不足だよ、もちろん話さないわけなんてないんだけれど」
「おやおや、また申し訳ないことをしてしまいましたな」
「じゃあ、その申し訳なさに付け込んで、お願いをひとつ。いい?」
「無理のない範囲であれば」
予定調和のように、一つだけ、僕は月のウサギにお願いをした。
「ちょっとだけ、世界を変えてみない?」
月のウサギは、ふしぎそうに、でも、たのしそうに、うなずいた。
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