口内 炎上記

 生暖かく、やわらかく、それでいてざらついているようだった。

 口の中はどろりと熱を帯びて、溶けている。

 舌の境界はすでにあいまいで、さわっている感覚とさわられている感覚が同時に脳に流れ込む。悠の舌は丁寧に私の舌を溶け合っていたかと思えば、気ままに矛先を変えて八重歯を撫で始める。

 歯ですら、いつも以上にやわらかな感触を受け止めていた。

 悠に抑えられている目と、悠に触れられている舌が、熱にうかされる。呼吸が思うようにできなくって、血管を伝うリズムが狂ったように耳を鳴らす。それすら、もはや自分自身のリズムなのかもわからない。

 永遠にも近い溶け合いのあと、悠が口を離す。

 改めて空気を通した鼻孔に、さっき食べたラーメンの匂いが流れ込む。口腔には夜のしんとした冷たい空気が流れ込む。

 眼前の悠は、上気した肌でリズムを乱した息をしていた。

 満足そうに微笑んでいる悠は、どこまでも無邪気だった。

「やっぱり、好き」

 悠が口を離して、口で話し始めて、本当に境界ができてしまった。二人で一つだったのに、独りで一つにならなくてはいけなくなった。

 口の中の温かみは残り香となって、まだとどまっているのに。それはもう遠い存在になっていた。

「好きじゃない?」

 不安げに悠が口を動かす。悠が好きと口にするのは、好きと言ってほしい時なのだと、今ではわかっている。本当に好きだと思っているときだって、悠はそう口にするけれど、でも、おおよそ、確かな形が欲しい時に悠はそれを口にするのだ。

 それすら愛おしくて。

「好きだよ」

 と問題なくこたえられる。この言葉が体温を持つようで、この言葉が口から零れ落ちていくのがたまらなく快い。

 冷静な思考をする自分を、そっと隅に追いやる。じぶんはきっと悠みたいに人に甘えられないし、悠を甘えさせ続けるだけの力量もないから、好きというべきなんかじゃあないけれど。すべてを投げ出して、思考を止めて「好き」という言葉の暴力に浸る瞬間のことを好ましいと思ってしまっている。

 好きで全部を塗りつぶして、体ごとあけ渡してしまうことは甘美だ。きっと期限付きの、甘味だ。あまいことは、いいことだ。

「また難しいこと考えてる。しわ、よってるよ」

 難しく考えていたつもりもないけれど、にへらと笑って悠が言うものだから、つられて笑ってしまう。悠といると、筋肉が緊張を忘れるようで、悠の空気にすべて身をゆだねてしまう。何よりも、それが心地いいのだ。恐ろしいほどに。

 きっと、悠は私をすべて支配するすべを持っている。

 そのための鍵をずっと心のうちに隠していて、放してくれないままなのだ。

 そして、それが悪いと思えなくて、ずっと悠に飼われているのだ。

 これが、盲目であっても、拒みたいとはまだ言えない。

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