第18話
狒々は人形の慈雨にその獣毛に覆われた腕を伸ばそうとしたその時。
狒々の横っ面を衝撃が襲った。顔面の右側面から巨大な金槌で殴られたような衝撃に、狒々は吹っ飛んだ。
ブロック塀に強かに全身を打ち付け、何が起きたのか分からず狒々が混乱しているとその眼前に現れたのは祇鏖であった。
雨に濡れ、その身に纏ったTシャツがぴったりと張り付いていた。何時でも動けるように、外でずっと待機していたのでその巌の如く盛り上がった両肩の筋肉の、血管すら浮かび上がらせるのではないかと言うくらいにびっしょりと濡れていた。
しかしそのお陰で、人形であれ慈雨の髪の毛一筋でも触れさせずに済んだのだが。
「・・・どうした猿。もう終わりか」
祇鏖が挑発すると、狒々はむくりと起き上がった。狒々は自分に攻撃して来たのはコイツか、と本能的に察した瞬間、まっ黄色の牙を剥いて威嚇の吠え声をあげた。
鼻血を垂れ流し、口の端からも血の筋が滴り落ちても狒々は目の前に居る“敵”を倒さねばならない事を察したが、しかし目の前に居るのはただの大男ではない事も狒々は理解していた。
しかし狒々とて引き下がれないのは、慈雨を喰らう為であった。食って全盛期の力を取り戻すのだ。
あの餓鬼には、それだけの価値がある。ちらちらと、隙あらば慈雨に襲い掛かってやろうと目線だけを其方に向けていたが、その隙を祇鏖が見逃すはずも無く、見た目からわかる程の堅牢そうな特注のワークブーツの靴底で、コンクリートの地面を蹴った。
祇鏖の重い巨躯が、信じられないような軽やかさで狒々に迫る。獰猛な笑みを浮かべ、強烈な回し蹴りをお見舞いした。
圧倒的な、力任せの一撃だ。ぐしゃりと嫌な音と感触を硬い革のつま先を通して感じて、それは確かな手ごたえと同時に祇鏖はコイツは────狒々は思いの外弱っているなと感じた。
成程、村で社に祀られていたのではなく、神格化させないように時間を掛けて弱らせる為に封印されていたのだろう。
見た目の割に、随分と弱っていたようだ。
勿論、油断は出来ない。何せ、祇鏖の蹴りをまともに受けて右腕の骨を完全に粉砕され、狒々は腕をだらりとさせていたがしかし、目の前の鬼に対する殺意は未だ失っていない。
「どうした、来いよ」
凶悪な笑みを浮かべて、狒々を睨む。
狒々は耳をつんざくような咆哮を上げ、その場で飛び上がった。とんでもない跳躍力だ。
しかし祇鏖は片腕の使えぬ狒々なぞ物ともせず懐に潜り込み、右腕で首に掴み掛り、その喉笛を思いきり握り潰した。
「ゴゲァ────ッ」
首に指が食い込んで、そこから狒々の皮膚が裂けて血飛沫が祇鏖の顔にかかる。狒々は噛みついてやろうと牙を剥くが祇鏖の膂力がそれを上回り、首をへし折った。
ずるりと祇鏖の手から、狒々の身体が崩れ落ちた。まだびくりびくりと身体が痙攣しているが、それもそのうち止まるだろう。
「・・・・・・」
祇鏖は溜息を吐いて、顔にかかった血を腕で乱暴に拭った。そして振り返ると、慈雨が今にも泣きそうな顔で、此方に向かって走り出していた。
「祇鏖さんっ!」
祇鏖は屈んで彼の腕の中に飛び込んできた慈雨を抱き留めると、慈雨は返り血に汚れる事も厭わず、祇鏖の首に腕を回しぎゅっ、と縋り付いた。
「祇鏖さん・・・祇鏖さん・・・・・・っ」
「ああ、もう大丈夫だ・・・・・・」
ふたりが雨の中抱き合う最中に、ナカヨシヤの奥で同じく待機していた艶鵺が何処かに電話を掛けていた。
「もしもし・・・ええ、"掃除"をお願いします。場所は・・・・・・」
艶鵺の電話の相手は、妖専門の『掃除屋』であった。
妖は死ねば自然消滅してしまうものと、つい先ほど死んだ狒々のように躯を残すものも居る。しかし問題は死骸がその場に残る事では無く、呪いであったり怨念であったりを残す事が困るのである。
そう言った呪いや怨念で場が穢れるのは後々困った事になるので躯を秘密裏に処理し、穢れを浄化するのを専門とする業者が居るのだ。
「さて、業者も呼んだし・・・・・・ああ、おふたりさんお疲れ様です」
戻ってナカヨシヤに入って来たふたりに、艶鵺は労う言葉を掛けた。
「もー、ほらッ! 祇鏖さんは早く上を脱いで!」
ヨシコがタオルを差し出しながら叫ぶ。雨のせいで血が流れる、と言うよりもシャツにシミのように広がり斑になっていた。
「む、済まん」
そう言いながら慈雨を下ろすと無造作にシャツを脱ぎ、タオルで身体を拭いた。
「早くお風呂屋さん行った方が良いよ、慈雨もカゼひいちゃう」
「此処はもう大丈夫だと思うので、後の事は任せて下さい」
艶鵺がそう言うので任せる事にして、桃瑠にも促されたので祇鏖は慈雨を連れて宵闇町に戻る事にした。
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