第3話 虹の彩

 大通り裏の路地に逃げ込むように入ると、食べたもの全てを無に返した。

 元々この辺りはよく酔っ払いが吐いているのか、何かが飛び散った跡が沢山ある。


 何度目かの嘔吐きを経て、冷静さを取り戻すと右足の痛覚が戻ってきた。


 申し訳程度に地面の砂をかけると、そそくさとその場を後にする。後方でカラスが鳴いていた。


 誰の目にもつかないようにしばらく歩き続け、丁度良い場所にあった比較的綺麗な木箱に浅く座ると、巻いていた包帯を外していく。

 生暖かい血が手に付き、胸の辺りで詰まった何かを吐き出そうと胃がうねり始める。しかし、先程全て吐き出したせいで何も出ず、数回波が来た後にゆっくりと落ち着いた。


 包帯を取りきると、痛々しい傷口が顕になる。牙が刺さった場所が抉れ、魔獣由来の魔力を帯びて全体が青紫色になっている。昨日の記憶をなぞるかのように心臓が暴れ始めた。

 これ以上見ていると内蔵まで吐き出してしまいそうだ。


 その辺に転がっている錆びたゴミ箱らしきものに、びちゃびちゃの汚い包帯を投げ捨て、ポケットから取り出した用済みのメモ用紙で手を拭く。

 汚れたメモもゴミ箱に捨てようとした瞬間、ピカッと辺りが光る。

 地面を揺らす大きな音が鳴り、遠くで甲高い悲鳴が聞こえた。


 ポツポツと雨が降り始め、慌てて新しい包帯を取り出そうと袋を漁る。


 包帯を取り出した後は、中身が濡れないように袋の口を結ぶ。雨が本降りになる前に、包帯で傷口を閉じなければいけない。慌てているからか、上手く巻けずにモタモタしていると、それを追い立てるようにどんどん雨脚が強まる。

 傷口に雨が染み込む。巻き方が悪いのか少しずつ隙間ができ、立ち上がるとゆっくりずり落ちてくる。最早、この包帯に何の意味があるのか分からない状態になっている。


 包帯を綺麗に巻くことを早々に諦め、とにかく一刻も早く帰ることを優先する。



 地面を叩く雨が砕けて跳ね上がり、辺りが霞んで先が見えなくなっている。

 靴の中は水槽のようになっていて、重り付きの足枷を付けられているのかと、歩く度に錯覚する。もう包帯は完全にずり落ちて機能していない。


 備品の入った袋を抱えて歩く私に、後ろから来た荷馬車が泥水を被せて去っていく。これがもう何度目かも分からない。

 新品の備品が無ければ、私は道の端で大の字に倒れていただろう。


 ふと、前方に影が見えた。

 さっき通り過ぎた荷馬車のようだった。

 ぬかるんだ地面に車輪がはまり、抜けなくなってしまったらしい。


 キョロキョロと辺りを見渡しているが、ただでさえ右足を負傷していて力の弱い私では、残念ながら何の役にも立てない。


 近付いてみると、荷馬車は大きめの木材を運んでいたらしく、綺麗に切られた板が雨でダメになっている。

 小太りのおじさんが必死に後ろから馬車を押してみるが、余計に沈んでしまった。


 おじさんに声をかけられないよう身を縮ませながら、横を通り過ぎていく。


 横目で荷馬車を見ると、薄い木の板が目に入った。

 あの程度の薄さの木なら、地面に敷いて後ろから押せば簡単に車輪が乗りそうだ。


 チラリとおじさんの方を見てみる。かなり苛立っているのか、無言で通り過ぎた私を睨みつけている。


 雨に濡れた板はまた乾かせば売れるのだろうか。どうせダメになる商品なら試しに敷いてみても良いが、商品としてまだ終わってないなら、きっと私の案は躊躇われるだろう。

 それに、私の見立てが甘くて車輪の重さで板が割れてしまった場合、商品をダメにした上でぬかるみから出られない最悪の結末を迎えることになる。

 そうなると私の責任も問われ、結局一緒に後ろから馬車を押す以外に選択肢が無くなるだろう。


 それならもう後ろから荷馬車が来たら、その人に手伝ってもらった方が良い。きっと私よりも力があるだろうし、道を通りたいという利害も一致してる。


 そもそも私は何も関係無い。

 足を引きずる様子をちゃんと見ていれば、猫の手にすらならないことはすぐ分かるだろう。


 これ以上考えが変わらないように、私は振り返らず真っ直ぐ歩き続けた。



 朦朧とした意識のまま、宿舎の自室へと戻ってきた。

 部屋に入ってすぐ、靴を脱いで服を脱ぎ捨てる。シャワールームに行き、何よりも先に傷口を洗う。

 痛覚は完全に無くなり、体も冷え切っておかしくなっている。


 意識が少しマシになってきたので、浴槽にお湯を張る。痛覚が旅立っている間に全身を洗い、お湯に浸かる。


 ある程度体温が戻り意識もはっきりとし始めたので、お風呂を出て新しい制服に着替える。

 棚から包帯を出し、今度は落ち着いて丁寧に綺麗に巻く。


 ハッとして玄関に置いたままの袋に近づき、慌てて中を覗き込むと、買ってきた備品たちは包装がぐちゃぐちゃになってはいるものの、雨に濡れてはいなかった。


 これは自分用にして、また明日買いに行けば良い。


 靴の替えがないため、中敷きを取り出して絞り、大量の布を使って靴内の水分を取ってみるが、中々乾かない。

 今日は何一つ仕事が出来ていない。せめて何か一つでもやらなくては、本当に税金泥棒になってしまう。

 覚悟を決め、濡れたままの靴に片足を突っ込む。

 グジュリという音と共に靴下が濡れていく。力の入った眉間に指を置き、ゆっくりと解して元の顔に戻す。

 もう片方の足も靴を履いて、重い足取りでギルド本館へと向かった。



 本館に入ると、ゴテゴテの化粧顔が鬼の形相で近付いてきた。私の怪我などお構い無しに腕を引っ張って、最上階へ向かってズンズン進んでいく。


 方向的に、ギルド長の執務室に向かっているようだ。

 恐らく、ギルド長から私を呼んでくるよう頼まれたのに、何処を探しても誰に聞いても全く行方が分からず怒っていた、というところだろう。



「ギルド長、ミストを連れてきました。入っても宜しいでしょうか」

 先程まで嫌な感情丸出しでブツブツ言っていたのに、人が変わった様に猫なで声を発する。

 後ろ姿しか見えないのが残念だ。


 部屋のドアが開き、ギルド長が余所行きの顔でニコリと笑う。

「ありがとう。ミスト、お前はこっちへ来い」

 暗に入るなと言われたゴテゴテさんは綺麗に一礼すると、こちらを振り返って般若の形相で去っていく。やはりゴテゴテさんの顔芸は面白い。

 あれだけ感情を表に出すのに、直接的な嫌がらせは一切してこないので、むしろ好感を覚えている。


「呼び出しておいて悪いが、今タイミングが悪くてな。その辺に座って待っててくれ」

 ギルド長はそう言って返事も聞かずに、紙の山の奥へと消えていった。


 この部屋はいつ来ても乱雑に散らかっているようでいて、そこそこ分類されて書類が置かれている。書類の内容自体に纏まりはないが、優先度の高さはきっちり分けられている。


 ひとまず身体の疲労が限界に近いので、ギルド長の言葉に甘えてソファに座る。ここは来客用の部屋では無いので、そんなに高級なソファでは無い。しかし、私を夢の世界へと誘うには十分すぎるほどの柔らかさがある。



 ハッとして目を開けると、世界が90度傾いていた。

 慌てて起き上がり、ギルド長の姿を探す。


「起きたか。まだ寝ててもいいぞ」

「いえ、すみません。もう大丈夫です」


 口周りと髪に異常が無いか、素早く確認する。

 異常あり。口の端が濡れている。


「悪いがまたタイミングが悪くてな。もう早く終わらせたいから、入口に置いてある資料を良い感じにまとめて置いといてくれないか」


 入口を見ると、追加と書かれたカゴに辞書三冊分程の紙が積み重なっていた。部屋に入ってきた時は空だった。

 つまり他に私の寝ている姿を見た人がいるということ。


 カゴに近づき、パラパラと捲る。一応、種類別に纏められているようだ。

 報告書などの目を通しておくべきもの、今後対応が必要なもの、迅速な判断が必要なもの、どんどん内容に軽く目を通し、分けて置いていく。


 チラリとギルド長を見るとまだ時間がかかりそうだったので、分け終えた紙の山を関連性や時系列順に並び替えていく。


 ふと、魔の森に関する調査資料が目についた。冒険者達の報告によると、年々魔物の数が増え、更に強くなってきているという。

 少し前までは魔の森から絶対に出てこなかったのに、最近は人里まで降りてくるという異常行動に、かなり手を焼いているようだった。


 ここ最近は冒険者の数も増えておらず、慢性的な人手不足が続いている。

 ちなみに能力未申告者達の犯罪被害も減ってきている。そもそも特殊な異能に目覚める人が減っているのだろう。


 ある程度終わったので、これ以上踏み込む必要は無いと思いソファに座る。



「はぁ……やっぱりお前に書類整理してもらった方が早いわ」

 ギルド長が後頭部をガシガシと掻きながらやってきて、ドカリと隣に座り込む。

 ギルド長はそのまま何も言わずにこちらを見ているので、私はそっと口の端を指で撫でてみる。特に異常は無さそうだ。

「この前の金融部の現金過不足報告書、原因だった出納日報を報告書の下に置いたのお前だろ。」

 低い声にビクッと肩が動く。

 私が差異の元凶だと思われただろうか。ちょっとおかしい計算だったので、置いておいただけなんだけど。


「それに、児童養護施設の帳簿が今月からまともに読めるものになっていた。お前が教えたんだろ」

「いいえ。私は何も教えていません。」

「はぁ……どうしてお前は自分の能力を隠そうとする。何がそんなに嫌なんだ」

 教えてないのは本当だ。

 ちょっとヒントになりそうな図を書いて、シスターの見える場所に置いただけ。図の内容も全く関係ないことだったし、見やすい帳簿になったのならそれはシスターの能力だ。


「あー、お前が早く秘書になってくれたら、俺は楽が出来るのになぁ」

 そう言って天を仰いだまま停止し、こちらをチラチラと見てくる。


 何も言わない私に痺れを切らしたのか、ギルド長は大きな溜息をついた。


「明日も今日と同じくらいの時間に来てくれ。どうせその足だったらやれる仕事は少ないだろ」

 全くもってその通りだ。

 明日こそ、ちゃんと仕事をしなくては。


「分かりました」

 私は短く答えると、ソファから立ち上がって出口へ向かう。気持ちの籠っていないお辞儀を披露すると、さっさと部屋を出る。


 ふと見上げた窓の外は、雲の隙間から差し込んだ光でキラキラと輝いていた。

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