2-3

 ロバートはその後しばらくの間、少女が乗れるように鞍を調整していた。少女は草地に点在する岩の一つに腰を下ろし、どこか遠くを見つめていた。少女の周りには星の息吹が緩やかに漂い、まるで光の糸を紡ぐかのように揺らめいている。


 ロバートは鞍の調整を終えると、ゆっくりと少女のもとへ歩み寄った。足音を聞いたのだろうか、翡翠色の瞳がロバートへと向けられる。少女に呼びかけようとして、今更ながら彼女の名前を知らないことに気づいた。


 ロバート自身も名乗っていなかった。そもそも、互いの自己紹介がまだだったのだ。


「ところで、ラケルタを先に紹介しちまったが、俺自身の紹介がまだだったな。俺はロバート・S・ウェンロック。探索士シーカーを生業にしている」


 ロバートは少女へ振り返り、手を差し出したが、同時に握手の習慣が伝わっているだろうかと、手を差し出してから思い至った。


「わたしは……」


 少女は自然にロバートの手を握り返したものの、そのまま「あれ?」と固まってしまった。透明なせせらぎのようにやわらかい声音が、まだ言葉にならずに途切れる。その手を握りながら、はて、と空いているもう片方の手を顎に当て、思案にふけってしまった。


 やはり、大星晶の中で長い眠りについていた少女の記憶は、まだ深い霧の中にあるのだろう。


 蒼光を受けた金糸色の髪が肩からこぼれ落ち、翡翠色の瞳は必死に記憶を探るように揺れ、白桃色の唇は言葉を紡げずに半開きになっていた。


「思い出せないのか?」


 少女はで眠っていた。現代の技術を以てしても、小さな星晶石ですら満足に加工することができない。高等級の魔道具が必要になり、魔道士の専売特許でもあった。

 それが大星晶ともなると、どうやって少女は秘められていたのか。


 返答に困ったのか、翡翠色の瞳がロバートの戦いで傷ついた左腕と裂けた胸元へと移っていく。


「ああ、悪いな。少し待ってくれ」


 ロバートはラケルタの元へ戻り、荷袋から予備の外套を取り出した。普段は白砂から身を守るために使うものだが、今は見苦しい格好を取り繕うのに使うしかない。


「いくつか言葉は浮かんでくるのだけれど、どれもわたしの名前ではない気がするの」


 少女の声がロバートの背中に届く。外套を羽織りながら、少女が目覚めた直後に口にしていた言葉を投げかけた。


「『賢者ヴィーサス』という言葉に、聞き覚えはあるか?」


 あえて少女に伝わるよう、古い言葉で。


「ある──」


 即答だった。だが、そこから先の雲行きは怪しかった。


「──けど……一瞬だれかが思い浮かんだ気がしたのだけど」


 少女は両手を膝の上で組み、首を傾げた。


 うーん、と小さく唸り、


「わからなくなっちゃった」


 と、あの空間で見せた虚空を望む眼。その仕草は、まるで大切な物をなくしてしまった子供のようだった。


 少女は御伽話、いや創星紀の頃の人物なのかもしれない。そうであるならば、少なくとも千年、いや千五百年は大星晶の中で眠っていたことになるだろう。思い出せないのも無理は無かった。


「無理に思い出そうとしなくていい」


 ロバートは少女の頭に軽く手を置いた。金糸色の髪は。それはまるで星晶石そのもののようだった。そしてそれはを示している。


「ここでいつまでも留まるわけにもいかないし、とりあえず近場の村まで移動しよう」


 ロバートはいくつもの魔道具を消費している。補給が必要だった。


 東の村を抜けると、さらに走竜種の足で半日ほどの距離にリッドプールという城郭都市がある。東の村で宿を借りて、そこから、とぶつぶつと算段を立てていると、ふと、浮かんだ。


という名前はどうだ?」


 少女は知っているだろうか。その古い言葉が指す意味を。ロバートは少し後ろめたい気持ちで試すように問いかけた。


「ふふ、それはを指す言葉よ」


 星の囁きのような柔らかな声が返ってきた。今を生きる者にとって、星晶石は『クヴァルツ』という呼び名で通っている。よほど教養を積んでいる者か、ロバートのような探索士でなければ、セリカという言葉を星晶石に結びつける者はいないだろう。少女の見た目は十七か十八くらいで、とても若い。なおさらだった。


 大星晶の中で眠る姿を見つけた時から、這竜種との戦いで見せた、おそらくは『魔法』。蒼く輝く月を不思議がる様子。現代ではほとんど忘れ去られた『セリカ』という言葉の意味を即座に理解する少女。

 かつて創星紀の時代、あるいはそれに近い時代を確かに生きていた者だという確信が、一つ一つの出来事を経て揺るぎないものとなっていった。


「嫌かい? それならそれで他の名前を一緒に考えよう」


 少女は、うーん、と夜明けの風のような優しい声を漏らし、か細い腕を組んで考え込んだ。その仕草には子どもめいた無邪気さと遠い時代の気品が混ざっていた。


 そうしてたっぷりと時間をかけて。


「ふふ、なんだか不思議ね」


 立ち上がった少女は外衣についた草を払うと、「セリカ」と一言。

 まるで大事なものをもらった子どものように少し、はにかんで。一瞬の躊躇ためらいの後、翡翠色の瞳がロバートを見上げる。


「わたし、セリカでいいかしら?」


 問いかけるような瞳。


「もちろん」


 少女の不安げな表情を打ち消すように、柔らかな笑みを浮かべて頷いた。


 そして少女は両手で外衣の裾を軽く持ち上げ、貴族のように愛らしい仕草で膝を曲げた。


「わたしが名前を思い出すまでの、わたしの名前」


 少女──セリカはそう言って、もう一度ロバートに手を差し出し、微笑んだ。ロバートもつられて軽い笑みをこぼしながらその手を握り返した。


「そら、行こう」


 ロバートに促されて、セリカはラケルタの鞍を掴んだ。ラケルタが上手に身をかがめて、あぶみに足をかけやすい高さまで下げてくれている。しかし、セリカは鐙に足をかけた後、なかなか反対側へ足が思うように持ち上がらなかった。ラケルタの背中を越えられないのだ。


「む、むう……」


 か細い声が漏れる。外衣の裾が風をはらみ、鞍の横で揺らめく。


「ぷっ、はは! 身体かったいな!」


 ロバートが吹き出すように笑うと、セリカは翡翠色の瞳に冷たい光を宿らせて振り返った。


「うっ」


 その視線に思わずロバートは言葉を飲み込む。だが、セリカの耳まで染まる紅潮を見て、再び笑みがこぼれそうになった。咳払いで誤魔化しながら、「すまない。手を貸そう」とセリカの腰に手を添えた。


「え? ちょっと──」


 セリカの言葉が宙に消える前に、ロバートはその華奢きゃしゃな身体を軽々と持ち上げ、鞍の上へと滑らせた。


「あいにく大きめとはいえ、一人用の鞍だからな。少し窮屈になるが」


 ロバートが続けようとした言葉を、セリカの厳しい視線が遮った。ロバートは思わず口をつぐむ。


「……」

「……」


 沈黙が流れた後、セリカが小さく呟いた。


「お尻、さわった」


 そんなことで、という言葉と、押し上げたのは腰だ、という言葉が一瞬発しかけた。第一、これだけ防寒具を身に纏えば、肌の感触など分かるわけがない。しかし、と思い直した。


 ロバートは深くため息をついて「すまなかった」と素直に謝罪すると、セリカは小さく息を吐き、肩の力も少しだけ抜けた。


 それ以上の言葉を交わすことなく、セリカが何かを言う前にロバートも素早く鞍に飛び乗った。セリカを振り落とさないよう、前後の配置は自然と決まっていた。手綱を握ると、どうしてもセリカを抱き込むような体勢になる。蒼星の光を浴びた金糸色の髪が、ロバートの胸元でかすかに揺れた。セリカの耳が、紅く染まり始めた。


「寒いだろう。頭巾をかぶるといい」


 ロバートは後ろから外衣の頭巾を持ち上げ、セリカの頭にかぶせた。セリカはその端を掴むと、顔を隠すように引き下ろす。


「……恥ずかしい」


 セリカはあまりに素直に言うものだから、どうせこちらには表情が見えないというのに。


「あっ、はは! いや、笑うつもりはないんだが──いてっ!」


 セリカの肘が、容赦なくロバートの脇腹を突いた。


「悪かった! 本当に悪かったって!」


 そんな二人にあきれるように、ラケルタはフンと息を吐くと、静かに歩き出した。突然の動きに、セリカは後ろへ引っ張られ、思わずロバートの胸に納まる形になる。


 赤面したセリカは、咄嗟に振り返ると、ロバートの頬を小さな手のひらで叩いていた。


「いったた! なんの仕返しだよ!」


「だ、だって!」


 セリカの抗議の声に、ロバートは思わず吹き出してしまう。その笑い声に、セリカはますます頬を染めた。


 二人の騒がしさに呆れたのか、ラケルタは首を小さく振って、鉤爪で地を掴みながら東の村へと歩みを進めた。蒼星の光を浴びた平原を、セリカの金糸色の髪が風にたなびき、星の息吹のように翡翠色の光を放つ野花の香りが、二人の間を通り過ぎていった。

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