2-2
二人は同時に振り返った。
そこには這竜種の姿も、洞窟も存在しなかった。代わりに広がるのは、穏やかな風に揺れる草花の絨毯。色とりどりの野花が風に
ただ、一点だけ空気が歪み、翡翠色の
「この香り……プルカロゼットの花か」
ロバートは辺りを見回し、なにかを確かめるように視線を巡らせた。
「まさか、ここはモドノ平野の近郊なのか」
「モドノ平野?」
少女の問いに、ロバートは眉をひそめた。
「さっきまでいた白砂漠からだと、走竜種の足で優に十日はかかる場所だな」
天穹の蒼星の青い輝きが強まったかと思うと、一際強い風が吹き付けてきた。生命の香りを混ぜ込んだ風が、二人の前方から襲いかかる。ロバートは右手で目元を覆い、目を細めた。
「意味がわからねぇ──」
そう呟いた時、前に座る少女の身体が小刻みに震えるのを感じた。風に煽られた金糸色の髪が、ロバートの胸元でゆらめく。
「さ、さむい……」
儚げな声が風に紛れる。少女は両腕で身体を抱きしめ、小さく縮こまった。薄い一枚の
「悪い、待ってくれ」
ロバートはラケルタの手綱を引き、その足を止めさせた。まず自身が地に降り、それから少女に手を差し伸べる。
「降りられるか?」
少女は戸惑いながらも、その手に自分の指を重ねた。白く細い指が、ロバートの手の中でかすかに震えている。まるで一枚の羽毛のような軽やかさだった。
「ありがとう──わっ」
その時、ラケルタが意図ありげにその腰を下ろした。少女の足が地面に届くまで高さを調節するように。
「ふん、お前が優しくするなんて珍しいな」
ロバートは呆れたように言ったが、その口元には自然と笑みが浮かんでいた。ラケルタは得意げに「クルルン」と喉を鳴らす。
少女の足が地面に触れると、風が吹き抜け、白い衣装と金糸色の髪が舞い上がった。両手で髪を抑えながら周囲を見渡す姿は、まるで初めてこの世界を見るかのようだった。
ロバートはラケルタの背負う麻袋から毛皮の
「とりあえず、これを」
少女は両手を揃えて受け取ると、まず外衣をさっと羽織り、その上から首巻きを首元にさっと巻き付けた。着衣の直後、風にわずかに揺らめいた布地が落ち着くまでの一瞬の
さらにロバートは予備の
「これは、立ち寄った集落で衣類を分けてもらうしかないな……」
ロバートが心配げに呟く横で、少女は装備が整ったのを確かめると、その場で嬉しそうに一回転した。
「あったかい! それに、とっても柔らかい!」
外衣の裾がふわりと舞い上がる。その仕草に誘われるように、足元の野花が風を巻き込んで宙を舞った。白やピンクの花びらが、まるで少女を祝福するかのように、輪を描きながら優雅に舞い落ちていく。
不思議なことに、
その無邪気なはしゃぎっぷりに、思わずもう一度見とれてしまう。翡翠色の瞳が楽しそうに輝いていた。
「ほら、これも付けるんだ。指先が凍える前にな」
ロバートは細かい作業には向かないものの、防寒には申し分のない、親指だけ分かれた厚手の革手袋を取り出した。桃色に染まり始めていた少女の両手に、手袋を付けさせる。これでようやく白砂の寒さを凌げそうな出で立ちとなった。
少女は両手を胸元で組み、柔らかな笑みと共に「ありがとう」と言った。
ロバートは照れくさそうに肩をすくめ、それを返事の代わりとした。
「ここから半日ほど東に村がある。まずはそこを目指そうか」
ロバートが少女をラケルタへ導こうとした時、彼女の足が止まっていることに気がついた。金糸色の髪が風にそよぎ、外衣の裾がかすかに揺れる。少女は顔を上げ、まるで永遠を見つめるかのように動かない。
「どうした?」
少女は革手袋に包まれた指先を、ゆっくりと天空へ向けた。その先には深い蒼が輝いていた。
「あれは……なに?」
その問いに困惑の色が滲んでいた。ロバートは当たり前のことを言うように答える。
「ああ、月だよ」
少女の翡翠色の瞳が大きく見開かれた。革手袋に包まれた手が震え、唇が震えるように開く。
「月は……白いものでしょう?」
その声には確かな戸惑いが滲んでいた。ロバートは思わず少女の横顔を見つめた。蒼星の光を浴びて輝く頬には、混乱の色が浮かんでいる。それは冗談めいた言葉とは明らかに異なる、純粋な困惑だった。
ロバートの胸に、言いようのない違和感が広がる。喉が乾く感覚。
「君にとって、月は白いものなのか?」
その問いに、少女はゆっくりとロバートの方へ顔を向けた。翡翠色の瞳が、琥珀色の瞳と重なる。二つの色が交差した瞬間、まるで時が止まったかのような静寂が流れた。
「ええ、そうよ。紅く染まることはあっても、あんな蒼色はみたことがないわ」
ロバートの脳裏に、幾度となく読んだ御伽話の一節が浮かび上がる。それは創星紀のその後の物語。天空教の経典、そして乙女信仰のもとになった逸話。それらは皆、同じ出来事を語っている。『太陽』と『月』の消失、そして賢者とその弟子の少女による
この少女は、やはり──。
背後でラケルタが低く「キュルル」と鳴いた。
二人を促すように首を傾げた。
「あっ」
その鳴き声に少女が振り返り、興味深そうに瞳を輝かせた。先ほどまでの雰囲気とはうってかわり、少女は弾むような足取りでラケルタへと近づいていく。その頭はロバートの肩口にも届かない。金糸色の髪が風になびき、頭一つ分の身長差が際立つ。
「この子はラケルタというのね」
白磁のような頬がほころぶ。
「そうさ。だいぶ数を減らしてしまったが、走竜種の仲間さ」
少女は『レプティ』という言葉に首を傾げたものの、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「よろしくね、ラケルタ」
少女は革手袋に包まれた手を伸ばし、ためらいもなくラケルタの頬に触れた。
走竜種は見知らぬ者に対して警戒心が強い生き物だ。ロバートですら、最初の頃は何度も噛みつかれそうになったものだった。しかし、ラケルタは少女の手に全く警戒の色を見せない。むしろ瞬膜を閉じ、うっとりとした様子で撫でられるがままだった。
「ほう、珍しいな、ラケルタが嫌がらないなんて」
「そうなの? あはは! もう、やめてよ!」
図に乗ったラケルタが大きな舌を出し、少女の頬をぺろりと舐めだした。
そんな平和な光景に、まるで絵画のようだな、と脳裏に浮かびかけた情景を、ロバートは首を軽く振って払いのけた。長く伸びた舌で少女の顔を舐め回すラケルタを止めようと、大股で歩み寄った。
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