2-4

 プルカロゼットの花咲く草原をラケルタの足が進んでいく。風に乗って、花々の甘い匂いが漂う。幾重にも重なる丘のような起伏が、野の波を作っているようだった。


 時折、小動物たちがその姿を見せる。野兎は凍てついた空気の中、毛皮を膨らませて、草むらに身を隠す。草地を縫うように、リス科の小動物の群れが駆けていった。その数の多さに、セリカが思わず身を乗り出す。毛皮の色は灰褐色から、銀色がかったものまでさまざま。恐らく、年を重ねるごとに毛色が変わっていくのだろう。


「この先、丘陵地に差し掛かる」


 風向きが変わり、プルカロゼットの香りに新たな匂いが混じる。ラケルタが首を上げ、鼻を鳴らした。


「これは……麦の香り!」


 ロバートの呟きに、セリカが振り返る。翡翠色の瞳には、好奇心が輝いていた。


「もう少しで見えるはずだ」


 ラケルタの足が丘を登り始める。なだらかな坂を上りつめると、視界が開けた。


「あっ──!」


 セリカの息を呑む声が風に乗る。


 丘の向こうには黄金の海原のような麦畑が広がっていた。風に靡く麦穂は波のように揺れ、蒼星の光を受けて輝いていた。まるで天空の乙女の織りなす錦のようだ。畑と畑の境には、風除けの樹木が整然と並び、その合間を石畳の道が通っている。かつて帝国が敷いた古の街道だ。道は大地の果てまで一直線に伸び、その両脇には背の高い防風林が整然と並んでいる。


「見えるだろうか。あの街道に沿って、三つの集落が点在している」


 ロバートの言葉に、セリカは首を傾けながら目を凝らした。遠くに見える煙突からは白い煙が立ち上り、蒼穹へと消えていく。麦畑の端には家畜の姿も見える。羊の群れが草を食み、牛が穏やかに反芻はんすうしている。厚い毛皮で身を包み、寒さに抗っているのだ。


「随分と豊かな土地ね」


 セリカの声には驚きが滲んでいた。ロバートは軽く頷く。


「ここは『実りの谷ヴィリャ』と呼ばれる大穀倉地帯さ。寒冷化が進んでも、まだ星の息吹が残る数少ない恵地けいぢの一つだ」


 ラケルタは丘を下り始めた。風に乗って、成熟した麦の香りが漂ってくる。街道に出ると、両側に並ぶ防風林の影が道を覆い、まるで緑の天蓋をくぐるかのようだった。街道の石畳は古びて凹凸が目立つものの、いまだに往時の堅牢さを保っている。


 程なくして、一つ目の集落が見えてきた。街道から外れた場所に、まばらに家々が建ち並んでいる。


「ちょっと待ってくれ」


 ロバートは突然、ラケルタの手綱を引いて足を止めさせた。振り返ると、セリカの頭巾が風で後ろに流れかけていた。ロバートはその端を掴み、今度は目元まで深く被せた。


「あら? どうして?」


 セリカの声には戸惑いが混じっていた。ロバートは慎重に言葉を選びながら答える。


「君の瞳は、人目につかない方がいい」


翡翠色わたしの瞳のなにがいけないの?」


 セリカの問いは純粋な好奇心に満ちていた。


「ああ。この世界で翡翠色の瞳を持つ者は──」

「あっ! 見て!」


 セリカの声が、ロバートの言葉を遮った。広場の向こうで、小さな群れを成した羊たちが草を食んでいた。その傍らには数匹の子羊が、まるで追いかけっこでもするように駆け回っている。


 やがて家々の近くまでやってきた。それぞれの前には細い木が立ち並び、八重の花弁を花を咲かせている。その甘い香りが、麦の匂いに混じって漂ってきた。

 風雨に耐えるため、壁は厚く作られ、地面との接合部は泥で念入りに塗り固められている。茅葺きの屋根からは煙突が突き出し、のんびりと白い煙を吐き出していた。


「わあ! 紫丁香花スルヤンルオスだわ!」


 セリカは思わず身を乗り出した。外衣の頭巾が後ろへずり落ち、金糸色の髪が風にたなびく。


「ほう、知っているのか?」


 ロバートはセリカの頭巾をかぶせ直した。


「ええ。家を守護する花よ。でも……」


 セリカは言葉を切った。その声音には、かすかな違和感が滲んでいる。


「昔は、もっと大きな木だったような……」


 ロバートは黙って聞いていた。セリカの言葉の端々から、遠い過去の記憶が少しずつ浮かび上がってくるのを感じていた。


 集落の外れ、畑で作業をする人の姿は見当たらない。煙突から立ち上る煙に目を留めたロバートは、時刻を悟った。


「そうか。もう夕刻なのか」


 ロバートの独り言に、セリカはどう反応していいのか分からず、首を傾げた。


「ああ、いやな。ここまで畑仕事をしている人に出くわさなかっただろう? それに、ほら、煙突から煙が出ている。食事の準備をしているってことさ」


 ロバートの説明に、セリカはますます疑問が深まったようだった。


「そういえば、ずっと明るさが変わらないわね。いつ『夜』になるの?」


 ロバートはしばらくどう返事するか迷い、「夜はさ。なんなら朝もな」と答えた。その声には憂いがにじみ出ていた。


 少し間を置いてから「そう」と少し悲しそうに言った。

 セリカは黙ったまま、集落の様子を見つめていた。その目は、いまだ生き物たちの姿を追っているようだ。


「穏やかな風景ね。まるで、ここだけ時が止まっているみたい」


 セリカの言葉には、どこか遠い記憶を辿るような響きがあった。


「生き物たちがこんなにたくさんいるなんて……」


 セリカは前に座っているので顔は見えない。けれど、その消え入りそうな声色から、もの悲しい気配を漂わせていた。


 ロバートは返す言葉を探したが、結局何も言えなかった。セリカの言葉の意味するところは、彼女が想像以上に遠い過去を知っているということなのだから。


 しばらくの間、二人の間には重たい沈黙が流れた。それを打ち消すように、ラケルタの足音が石畳を叩く。家々の間を歩んでいくと、集落の中心らしき広場が見えてきた。そこには古い井戸が佇み、その周りに数軒の店が立ち並んでいる。歳月を重ねた木の看板が、かすかに軋む音を立てて揺れていた。


「この先、どうするの?」


 セリカが振り返って尋ねた。


「ああ、この村に大きな宿屋はないんだが、知り合いがいるんだ。その人に頼んでみよう」


 ロバートが広場を見渡していると、一人の老婆が店の前で箒を持って立ち止まった。厚手の毛織物を幾重にも重ね着し、腰に革帯を巻いている。この土地特有の装いだ。


 老婆は走竜種の背に乗る二人を見上げ、しばし目を細めた。セリカの深く被った頭巾に一瞬目を留めたものの、やがて箒を脇に抱え、深いしわの刻まれた顔に温かな笑みを浮かべる。


「おや、まあ。随分と早く戻ってきたねぇ」


 老婆の声には親しみが滲んでいた。


「今度はこんなかわいいお嬢さんと一緒かい?」


 からかうような老婆の口調に、頭巾の陰から、小さな声と共に淡い桃色の唇が震えた。


「は、はじめまして」


「まあ、なんて良い声なんだね」


 老婆は目を細めて続けた。


「お嬢さん、お茶でも淹れましょうかね」


 それに対してセリカは「あ、いえ」と慌てたように両手を振った。慌ただしい仕草に、頭巾の縁から零れた金糸の光が風に舞う。


「お気遣いなく、です」


 セリカの声が風に乗って消えていく。


「まあ、髪の毛まで綺麗ね──」


「まあまあ」


 ロバートは軽くため息をつきながら「勘弁してやってくれ」と老婆を止めた。


 そしてラケルタからゆっくりと降りると、セリカの手を取って下ろした。


「いろいろありまして──また、世話になってもいいでしょうか」


 ロバートは落ち着いた声で切り出した。


「ああ、いいともさ。旦那が生きていた頃から、うちは探索士さんたちの定宿じょうやどみたいなものだからね」


 老婆はゆっくりと両手を打ち合わせ、二人を手招きした。ラケルタの手綱を引きながら、老婆の後について歩き出す。


「みんなは『ばあや』って呼んでるよ」


 老婆はわざとらしく大きな声でセリカの方を振り返った。


「ば、ばあや……」


 小さな唇が柔らかく動いた。


「ほう!」と老婆は両手を合わせ、満面の笑みを浮かべる。


「なんて可愛らしい声。もう一度聞かせておくれ」


「ば、ばあや……!」


 今度は少し勇気を得たように声が弾み、その瞬間、頭巾の隙間から覗く金糸色の髪が星屑のように煌めいた。


「あんたみたいな可愛い子に呼ばれるのは久しぶりでねぇ」


 老婆は嬉しそうに頷いた。


「最近はあんたみたいなむさくるしい探索士しか来やしないんでね」


 老婆はロバートの方を見やって肩をすくめた。


「こんな可愛らしいお嬢さんと一緒だなんて、ああ、眼福眼福」


 ロバートは「むさくるしいってのは余計だろ」と呟いたが、老婆の上機嫌な様子に思わず苦笑いがこぼれた。


 老婆は相変わらずセリカの方を気にかけながら、麦畑の脇を歩いていく。セリカは頭巾を両手で引っ張りながら小さな足取りで進んでいく。その様子があまりにも一生懸命で、ロバートは思わず手を伸ばし、頭巾越しにセリカの頭を撫でた。


 セリカはその手を払いのけた。頭巾の下から覗く唇が、かすかに尖っている。老婆はそんな二人のやり取りを見て、さらに嬉しそうな表情を浮かべた。


「前の時と同じように、離れを借りられますか」


 ロバートは老婆に向き直った。


「ああ、もちろんさ」


 老婆の目尻に笑みが集まる。そこで老婆は口許に人差し指を立て、


「でも、その前に──」


 ロバートの外套を指さした。かつて多くの探索士達を見送ってきた経験は、見逃さなかったようだ。


「あんた、随分と手荒な目に遭ったみたいだねぇ」


 そう言うや否や、老婆はロバートの外套の端を素早く引っ張った。


 ロバートが抵抗する間もなく、外套が開かれる。乾いてはいるものの血で染まり、所々が焼け焦げ、無残に引き裂かれた衣服の惨状が露わになった。


 老婆は大穴があき、直肌の見えている胸に手を置いた。


「これはひどい。よく息があるねえ」


「はは、頑丈なのが取り柄ですから」


 ロバートは苦笑しながら外套を直した。


「もう、相変わらずだね」


 老婆は呆れたように首を振りながら、「すぐには無理だけど、明日までには何とかみつくろっておくよ」と約束した。そして深く頷くと二人を手招きし、麦畑の脇を歩き始めた。


 畦道あぜみちには村人たちの暮らしの跡が散らばっていた。赤土で作られた水甕みずかめの傍では、羊の群れが昼寝をしている。遠くから鶏の鳴き声が聞こえ、柵の向こうでは牛が悠然と草を食んでいた。どの家の軒下にも、乾し草や薪が丁寧に積まれている。より厳しい寒さへの備えだ。茅葺き屋根からは白い煙が立ち上り、夕餉ゆうげの支度が始まっているのだろう。


 麦畑の端に寄り添うように佇む一軒の小屋。寄せ集めのような板壁は、幾年にもわたる風雨に耐え、その表面には無数の傷跡が刻まれている。まるで街道に並ぶ古木のように、時を重ねた存在感を放っていた。


 扉には錆びの回った鉄の金具が取り付けられており、老婆は少し手間取りながらも、大きな音を立てて開いてみせた。ロバートは感謝の意を込めて、この地域で流通するラントン金貨を老婆の手に載せた。


「今晩はゆっくり休めそうです。ありがとうございます」


 そう言って、ロバートは老婆の手のひらに載せた金貨の上から、もう一枚を重ねた。この時期、物資は決して余っていないのだ。


「お嬢さんのことも気にかけておくんだよ」


 老婆はセリカの方を見やり、柔らかに微笑んだ。


「中の食材は遠慮せずに使うといいよ。棚の上の方にスモークハムも吊るしてあるからね」


 老婆の言葉に、セリカは小さく頭を下げた。


「それと、このお嬢さん、随分痩せてるから、しっかり食べさせておやり」


 そう言いながら老婆はセリカの背中をぽんぽんと叩いた。セリカは思わず前のめりになる。


「はは、相変わらず面倒見がいいですね」


 ロバートは思わず肩を揺らして笑いながら、頭を掻いた。老婆の豪快な物腰は、いつ来ても変わらない。


「ちゃんと温かいもの作って食べさせます」


 老婆は満足げに頷くと、もう一度セリカの方へ視線を向けた。


「なにか必要なものがあったら、遠慮なく言っておくれよ」


「ありがとう、ございます」


 セリカの声は小さく、しかしもう慣れたのか確かな温かみを帯びていた。


 老婆は最後にもう一度二人を見渡すと、「あまり無理はしないでおくれ」と言い残して、ゆっくりと歩み去っていった。麦畑の向こうから、夕餉を知らせる鐘の音が響いてくる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る