第31話 湯浅シサとマンション②

「簡単に俳優になれたんだね。なにかトレーニングとか?」

 シサは首を横に振る。

「演技をすることに資格や免許は不要です。誰にだってなれる。素人にだってなれます。コメディアンにだって小説家にだってミュージシャンにだってなること自体は可能です。そうでしょう?」

「僕にだってなれる?」

「なれます。ここからダメでここからはOKなんて明確な基準が用意されているわけではありません。制作側が認めれば誰だってなれるんです」

「君はなれた。ノーコストでまったく苦労せずに」

「だからこそ次の仕事を見つけるのは大変でした。私の最初の仕事は……ちゃんとお金がもらえたプロの仕事だったというのに……今見返しても本当にどうしようもない演技で……」

「誰でもできる仕事だったんじゃないの?」

 僕はちょっと苦笑してしまう。

 彼女は真剣なままだ。

「だからこそ他者の評価を気にしないといけないわけです。私の顔を見て『あなたが芳川勇さんの娘さん?』と言ってくる大人の数を減らさないといけなかった」

「『あなたがシサさん?』、『頼むからシサさんを使わせてくれ』って言われないといけなかった?」

「まさしくそうです。俳優業はコメディアンやアイドルといった他の業界からの参入者に優しいですが、俳優で。成果を残さなければ次の仕事はこない」

「君の代わりなんて何十人もいたわけだ」

 たとえスーパースターの一人娘だったとしても。

「ライヴァルは何百人もいましたよ。子役っていうのは需要に対し過剰な供給があるんですから。私も何度かオーディションに落ちたことがあります」

「そうなんだ」

 そりゃそうだろと僕としては思ってしまうが。

「最初の二年くらいはそうでしたね。最後の二年は自分で仕事が選べるくらいの立場に

「成り上がるなんて君らしくない表現だね」

 お金持ちのボンボンがよく言ったものだ(誤用)。

「私にはそうとしか表現できません。ゼロからキャリアを積み上げたんですからそう言うしかないのでは?」

「そうだね……」

「私は最初からエリートだったわけではありません」

「君は天才だったと思うけれど?」

「仮に私が天才だったとしてもーー努力する天才だったんです。父のように天衣無縫に演技をしていれば絶賛されるような、そんな特別な存在じゃなかった」

 僕も芳川勇の作品を観てシサと同じ感想を抱いていた。

 あの『個性』は努力した末にそなわるものではない。

 あの俳優は蓋世不抜の存在で、今後同じような俳優がまた生まれてくるとは思えなかった。

 シサは芳川勇の代替ではない。同じスターで親子だというのに、二人のキャラクターはまるで違う。

「浜尾とは一緒に地獄を見た仲でした。子役をしていたころ私のマネージャーだったんです。演技について一緒に学んだのも浜尾です。ちょっと! こっちにきなさい! 浜尾!」

 お嬢様は座ったまま老執事を呼びつけたが、きこえているはずの彼はこなかった。僕たちに気を利かせているつもりなのだろう。

 それにしてもシサ、敬語を解除するとギャップで萌えるな。こっちのほうが本音でしゃべっている感がでてくる。

 おかしなきっかけでシサへの好意が増した。

「夕食の準備をしているんじゃなかった?」

「浜尾が私の演技の教師なんですよ」

「経験があるの?」

 正直とてもそうだとは思えない人だったが。

「浜尾は若いころから湯浅家で働いています。浜尾は私の演技を評価してくれて……客観性を担保してくれた。今のは良かった、今のは良くなかったと。それって大事なことでしょう?」

「とっても大事だね」

「あとは必要な教材をあたえてくれた。英語圏ーーイギリスの文献を翻訳して読ませてもらいました。演劇の本場と言えばイギリスですから。ノウハウの蓄積は世界一だと思います。いつかむこうの演劇学校で学びたいと思っていたくらいです。

 現場で指導を受けることはありましたが、レッスンを受けたり誰かに師事して演技を学んだ経験はありません」

「ほとんど独学で?」

「ええ。あとはひたすら努力ですね」

「苦しくなかった?」

「苦しーーそんなことはなかったですね。自分の実力が世界に認められていくんですから。リュウジ君にはわかりますよね? 練習して、上達して、結果を残して、そして知名度が上がる。自分の名前が国中に知れ渡るんです」

 本当に共感しかできない女の子だ。

 子役時代のシサは、選手時代の僕とまったく同じ世界観を生きている。

「プレッシャーはなかったの?」

「カメラのまえでそれを感じたことはありません。俳優にとって演じているキャラクターこそが現実ですから」

「至言だね」

「ただ……」

「ただーーなに?」

「家に帰れば母がいました。母は口先では私を褒めてくれても……心の底から私を賞賛してくれることはなかった……そんな気がします」

「比較対象が父親だから?」

 僕は当てずっぽうで答えてみた。

「そう」

 当たっちゃったよ。嫌な母親だ。

「どんな夫婦だったの?」

「母は放埒な父を憎み、同時に愛していました」

「失礼だけれど……芳川勇さんが亡くなったときはどうだったの?」

「……仕事がなかったら潰れていたかもしれません。仕事に熱中することで忘れられた。それでなければ倒れていたかもしれない。それくらいあの人は父を愛していた。《私ではなく》」

「それは君の思いこみじゃない?」

 シサは僕のほうに肩を寄せ、そして僕の耳元に少し高い声でーー子供のような甘やかな声でーーささやいた。

「私は子供らしい子供を演じていたの。こんな風に。……私はあのころから大人だったんです。わかってましたよ」

 僕はドキリとしながら問いかけた。

「君の母親は……」

「きっと私を憎んですらいたと思います。自分の最愛の男と同じ世界で生きていた私を」


 彼女は両親からの愛情が不足していたのだろうか……。

 その点は僕とまるで違う。僕はすごく恵まれていた。

 両親からは才能に見合った投資をしっかりさせてもらっていたし、試合はよく観戦してくれていたし。かといってのアドヴァイスを将来のプロ選手に押しつけることもなかった。実に理想的な父と母だ。子供のときは薄情にも『感謝』なんて言葉は脳裏に浮かばなかったのだが……。

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