第30話 湯浅シサとマンション

 僕はもっとシサのことを知らなければならない。シサが有している僕に対する情報量に比べ、僕が有しているシサの情報量は圧倒的に乏しいからだ。

 僕とシサが対等な関係を築けているとは間違っても言えない。

 僕が天才子役の出演作品をすべて眼にしたからといって、それはなんの解決にもなっていない。彼女個人の物語をまだ消費していないからだ。誰も知らないシサのプライヴェートを教えてもらう権利が今の僕にはある……気がする。なんとなく。

 僕はこの二年間常になんとなくで生きている。人生から『成功』という縛りをなくしてしまった結果がこれだ。



 菓子折をもってシサのマンションに足を運んだのは翌週の月曜日のことだった。学校の帰り。例によって湯浅家の車に乗りこんで。

 シサの住んでいる区画にはてっぺんを見ようとすると首を痛めるくらい高いビルが建ち並んでいた。そのなかでもおそらく一番高いタワーマンションの最上階にシサは住んでいた。少なく見積もってもサッカーのフィールドの四分の一程度の広さはある。これでプールでもついていれば海外の最上階区画ペントハウスと遜色しないだろう。子役時代の給与で買ったわけではない。購入の資金源は間違いなく母親の預金だ。

「受けとってもらえなかったらどうしようかと」

 僕から包装紙につつまれた菓子折を受けとってシサは、ため息をついた。

「いただくに決まっているじゃないですか。大切に食べさせてもらいます」

「きっと君の舌にはあわないよ」

 この品をもたせた親に対して失礼な発言をしてしまることくらいわかっている。だがシサの生活レヴェルを目の当たりにすると不足しているように思えてならない。だから思ったことを口にしてしまった。

「リュウジ君のご家族が購入されたものでしょう?」

 僕は大人になりきれない。

 早く大人とやらになりたいものだ。

「グズグズ言って悪かったね」

「私にとって勲章のようなものですよ。やっとリュウジ君を助ける側に回れたんですから」

 ……逆にいうと、シサは僕に助けられたと思っていたわけか。

 二年まえのあの試合で、僕は彼女のヒーローになってしまった。意図せずに。

 浜尾さんが僕の手土産をもって部屋の外へ引き下がった。かといって完全に二人きりの空間になったわけではない。高齢の執事は死角になった位置で待機しているだろう。一般的な男子高校生として僕が令嬢に》(僕はそんな動機を有していなかったが)。

「シサのお母さんは?」

「お母様は勤務先の近辺で寝泊まりしております。公務員用の宿舎ですね。週末くらいしかここには帰ってきません……普段住んでいるのは私と浜尾のみです」

 こんな広い空間にたった二人で暮らしているのか。モンゴルくらい人口密度が低くそう(過剰表現)。

 シサの家は浜尾さんがしっかり管理しているためか、人が生活している匂いがあまりしなかった。モデルハウスのような、あるいは家具付きの家に昨日引っ越してきたばかりのような印象がある。

 シサの私室(勉強部屋と寝室)には足を踏み入れていない。その点について自分の部屋に立ち入られた僕はまだビハインドを負っている。

 大きな窓から外を眺めた。都心の夜景を見下ろす。

「どうです?」

「ごちゃごちゃしているしビルや車の光がうざったいね。こんな景色をありがたがるやつがいるなんて信じられないよ」

「……率直なご意見ありがとうございます。やっぱり変わってますね」

「本当は高所恐怖症だから怖くてちゃんと見れないんだ」

 高いところが苦手なのはジョークではなく本当だ。飛行機で移動するたびにビクビクしていた。ベルカンプじゃないんだから……。

 視線を窓の外から室内に退避させる。

航空便フライトなんて何度も代表の遠征でしてますよね? 私が知っている限りではアメリカにスペイン、それからシンガポール、アルジェリアーー」

「なんで知ってるの?」

「そこまで調べるのは簡単でしたよ。クラブと代表のHPに遠征先が載ってましたから」

 シサは僕のためにカーテンを閉め、外の景観を感じにくくしてくれた。

「ーー少し話していきましょうか?」

「君の話ならしてもいいよ。俺の話はつまらないから」

「……変わらないんですね、あんなことがあっても」

「一線なんて引かれないから」

 劇的に変化はない。

 僕たちは言葉でなにか約束をしたわけではない。ただ肉体的な接触を許し、学校の外で友達以上の関係を続けているだけだ。

 シサは宣言通り、学校内で僕との接触することを意図的に避けるようになった。僕のことを変な眼をして見つめることなんてない。意味深に微笑むこともない。ただの友人らしくふるまっている。

 ただ学校の外で二人きりになれば話は別らしい。今もソファに並んで座り、気がつけば手を重ねてくる。僕の手は汗で濡れ、シサの手は冷たい。

「最初から話して欲しい。君がどうして俳優になったのか?」

「芳川勇の娘にとってそれは当然の選択肢ですよ」

「父親の影響で?」

「そうです。当たり前の家庭環境じゃなかったですから。父が私に紹介する仕事仲間は各界のスターなんですよ。芸能人に俳優にミュージシャン、芸術家……」

「そういう環境で育てば意識も変わってくるのね」

「私が父のようになれると思ってしまったわけです。あとは父と同じ大手芸能事務所に所属して、あとはコネでデビューできた」

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