第11話 湯浅シサとデート③

       □ □ □ □ □ □ □


 いや昨日の帰り嵯峨さんとした会話は関係ない。財布のなかに押しこまれているとは。なにか忘れているような……。演劇部のことではない。学校のことでもない。


 通行人がきたので僕たちは離れた。僕のまえにいるのは頬を染めキスの余韻に浸っているシサで、自分がいるのは近所の大学のキャンパスで。


 大学ーー

 僕は立ち上がる。

 スマホを見て時間を確かめる。

「ヤバい! 間にあわない……」

「どうしました? 急にーー」

 三ヶ月に一度ーー今日が予定の日だ。大学病院であのカウンセラーに会わなければいけない。あと四五分後に。

「病院の予約してたんだ! 悪いけどここで解散させてくれ」



 そういうわけにはいかなかった。予定の時間に間にあわせるため僕には他に選択肢がなかったからだ。


 僕とシサは監視対象にあった。キャンパスの外で待機していた湯浅家の国産の高級車に乗りこみ(僕「全然気づかなかった」、シサ「○○大学病院です! すぐに出発して!」執事「かしこまりました」)、


 最速ルートをナヴィゲートし、(シサ「もっと飛ばして!」執事「安全運転は守らせていただきます」僕「この先道が狭いから気をつけてください」)、


 予約していた時間の六分前に病院の正面入口に無事到着した(執事「ここでよろしかったですね。お気をつけて」僕「ありがとうございます。シサさんは降りなくていいよ」シサ「そういうわけにはいきません」)。


 シサは待合室まで僕を早歩きで追いかけてきた。

「プライヴェートだから!」

「一緒にいたいだけです」

 カウンセリングルームには入り口が一カ所しかなかった。彼女から逃れることはできないだろう。



「ーーそういうわけで僕を追いかけていた女の子が演劇部にはいることになったんです。昨日デートをもちかけられて、家でも動転してて、ここの予定があることを忘れてたんです。遅れるところでした」

「なるほどぉ」

「先生、信じてませんよね? その女の子今外で待ってるんですよ」

 カウンセラーの戸沢さんは笑った。


「疑ってなんていないよ。アメリカで君のプレーを観て惚れこんだのかぁ」

「たった一試合で」

 地獄と天国を続けざまに見ることになったあのゲームで。

「ずいぶん熱心なファンなんだね」

「本人の証言によればそうです。でもおかしいですよね」

「そうかな? 君は素晴らしいプレイヤーだったわけでーー」


「足りないですよ。僕は容姿端麗なわけじゃないし、性格だって良くないんですよ。ファッションに気をつかっているわけでもない」

「そうやって自分を下げる必要はないよ」

「なのにどうして僕を好きになったんでしょうね。アメリカから日本に帰って僕のかよってる学校に入学するくらいですよ」


 シサが僕を好きなことはもう疑いようのない事実だ。あれは演技ではなく本心からでた言葉なのだ。僕をなにかの罠にかけたいという意図は感じられない。


 カウンセリングといっても、戸沢さんは僕の精神分析をしているわけではない(サッカーを辞めるきっかけになった出来事について語ったりはしない)。


 やっていることはほぼ世間話だ。僕は学校や家庭で起こったことを戸沢さんに訥々と話す。三ヶ月に一回のカウンセリングをただそれだけのことで消費していた。僕は自分の深層を語る気にはならない。正直時間とお金の無駄な気がするが仕方ないだろう。僕がきちんと病院に通っていることに価値があるのだ。


 僕は病で人生の大きな目標を失ったばかりの子供だった。カウンセリングの対象にもなるだろう。通院することを勧めたのは僕が所属していたクラブの指導者だった。


 戸沢さんは四〇代のメガネをかけた男性だ。落ち着いた様子で、相手が口を開くのをじっと待っているタイプの。こちらの領域に好き勝手に侵入してくることは決してない。話をしていて心地が良い人だ。


「恋愛感情なんて人に上手く説明できるものじゃないからねぇ。君もその子を本気で好きになるかもしれない。なにかのきっかけでさ」

「そういうものですか?」

「僕も経験豊富ってわけじゃないけれど……」


「うーん……なんか怖いんですよね」

「なにが怖いの?」

「彼女が僕になにかするのが怖いんじゃなくて、僕が彼女になにかしてしまいそうなのが怖い。いつか取り返しのつかないことをするんじゃないかって」

「リュウジ君は優しいね」

「ときどき自分がなにをしたいのかよくわからなくなることがあるんですよ」

「みんなそうだと思うよ」



 シサは一人待合室でファッション雑誌を読んで待っていてくれた。僕の顔を見ると立ち上がった。

「お帰りなさい」

「ただいま?」

「カウンセラーの方とはどういったやりとりをなされているんですか?」

「速攻だね」


「あなたのことはなんでも知りたい」

「ストーカーが復活したの?」

「違います……これからどうされますか?」

「会計を済ませて家に帰るよ」


「車で帰りますよね?」

「さっきは助かったけれど、自分の足で帰るよ。また学校で」

 僕はシサの前をとおりすぎようとした。

 彼女は僕の腕をつかんだ。

 付近に人の気配はない。精神科は他の科からは離れた位置にある。


「マスク……」

 シサは病院内ということもあってマスクをかけていた。黒系で統一したファッションがますます地雷系それっぽく見えてしまう。見た感じメイクはしてないのだが(素肌そのものが輝いて見える)。


「ここそんな人いないのに風邪とか気にしなくても良くない?」

「病院内ではマスクをかけるのが家のルールなので」

「親の言うこと素直にきくいい子だったんだね」


「私はいい子なんかじゃありません」

 そう言って、彼女は僕のほうに手を伸ばした。

 僕の心臓に。シャツ越しに触れた。

 僕は身じろぎもできない。

 どういうつもりだ?


「動いてますね。私と同じです」

「ちゃんと治ってるよ。早死になんてしないさ」

 僕はシサの手首をつかみ引き離した。

「……初めて心臓の病気についてお医者様に伝えられたとき、どう思いました?」

「どう思いましたって……話さないと帰してくれないパターン?」

「それだけ教えてくださいましたら、今日はもう解放してあげますよ」

 そう、ならここは偽らずに語ろう。



「……殺されたと思ったよ」



 シサは僕の言葉をきいたその瞬間、呼吸を止めた。

「人生が終わったと思いました?」

「嘘だと思ったし、きっとすぐに事態が改善して、すぐにプレーできるようになると思った。でもね、それ以来病院に通うだけで、一向に練習は再開できない。

 クラブの連中はみんな俺によそよそしくなって、両親は泣いて、学校のクラスメイトたちは暇になった俺を遊びに誘うようになった。ちょうど春休みだった。自分からではなくて、周囲の人の反応で実感したんだ。もう俺はプレーできないんだって」


「少しずつ理解できたんですね……」

「高校は特例で受験させてもらうことになったんだ」

「それで県外の姫川高校を選んだのは……」

「なにもかもキャンセルしたかった。自分の人生をね。自分を消したかった。自分の優れた経歴なんて捨て去りたかったんだと思う。サッカーの試合はね、一年くらい観られなかったかな……」


「諦める選択肢しかありませんでしたよね」

 僕は首を横に振る。

「名前を変えれば、国籍を変えればサッカーを続けることはできた。検診なんてごまかしてしまえばプレーできる。プロのピッチに立つことができると思った」


「……どういうことですか?」

「だから、俺が俺だって知られてない国のリーグでプレーすることを考えたんだよ。顔や髪の色を変えればいい。無名の若手選手としてさ。きっとトップリーグに辿り着ける。いやその途中で死んでたかな?」


「そうですよ! 激しい運動をしたら心臓が耐えられないんでしょう?」

「サッカーで死ねたらそれは本望だよ」


 僕にとっては本懐だ。

 今そのときプレーしているゲームで勝つこと以外に価値など認めない。

 上手くなるとか、お金がもらえるとかそういうのは副産物にすぎない。

 僕にとってサッカーの試合とは自分の全存在を賭したギャンブルで、

 他に生きられる場所なんて用意していなかった。

 自分からサッカーをとったらそれは死体だ。

 チームメイトにも、家族にも、そしてカウンセラーにも言えなかった感情をシサにぶつけてしまっている。

 本当は這ってでも戻りたかったのだ、誰もが僕を認めてくれていたあの場所に。渇望していた。

 シサは眼を大きく見開いている。

「冗談……ですよね?」


「頭のなかでちょっと検討しただけ。そういう妄想だよ……。だって他の人の迷惑になる。家族や僕を育ててくれたクラブへの」

「それじゃまるでじーー」

「自殺なんてするわけないよ」

 そんなことは考えもしていない。単に僕に意気地がなかっただけだ。

 心臓の病気は治った。ならばわざわざ死ぬような選択はできなかった。

「そうでしょうね……」


 気がつけばシサの手首を強く握っていた。

 シサの眉が痛みに歪んでいることにやっと気づいた。

 僕が謝る前にシサは、素早く手首を返し、離れた僕の右手をつかみ返すと、自分の胸に押しつけた。

 僕は数秒間、あっけにとられていた。

 布の奥に果物ほどの大きさのなにかがあった気がする。

「リュウジ君は感じますか、私の鼓動」

「え?」

「心臓がドキドキしていますか?」

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