第10話 湯浅シサとデート②

 土曜日。

 家から最寄りの駅前。


 待ち合わせの時間にシサは電車一本分遅れてやってきた。そちらから約束しておいて遅刻かましてくれるとは……いや、待たせることで僕に気を揉ませる作戦なのだろう。


「ーーおまたせしましたリュウジ君。支度するのに時間がかかってしまいまして」

 シサは白い長袖のシャツに黒いスカート、長い足は黒いストッキングで覆われ足下はブーツ。それに髪を下ろしている。いつにも増して人形のような雰囲気がある。今までの大人しめのファッションを知っている身としては、コスプレっぽさを感じてしまわなくもない(二重否定)。


 彼女は僕にバスケットを持たせた。大して重くはない。

「これは?」

「食べるものを準備してきて良かったですか? 外で食べようと思って」

「カレーうどんが食べたくなったよ」

 僕は彼女の白いシャツを見ながら言った。

「……そんなに口悪かったでしたっけ?」

「今のはごめん。取り消すよ。悪かったね」

 嵯峨さんの悪質なユーモアが移ったのだ(責任転嫁)。


「そういうところが気に入りました。男性が女性のファッションを褒めるなんてありがちですもの」

「人に優しくないんだ。部活中だけサーヴィスしてやってるの」

「演劇部が大事だから」

「演劇部の成功がすべてだから。それくらい今の役割にハマってる」

 うなずくシサ。

 僕たちは歩き始めた。

 目的地はすぐそこだ。

 シサは上機嫌だった。まぁそれはそうだろう。歳の近い男女がくっついて道を歩いている。誰がどう見てもデートだ。誰も僕たちのことなんて見てないのだが。

「ーー私は大事ですか?」

「認めているよ。うん、そうだね。昨日のアレ見ただけで、まぁ演技力って意味じゃ部内でも二番手かもね」


 役者それぞれの演技力なんてものは単純に比べられないし、あたえられた脚本や役によって向き不向きが発生するはずだ。

 それでも断言できる。

 シサの役者としての能力はアマチュアというカテゴリーにおいて卓越している(その実力を一体どこで身につけたかは不明だが)。

 だがしかし、

「一番手は近衛さん?」

「そこはゆずれないね」

「私はまだ自分の上限をあなたに見せてません」

「自信があるの?」

 近衛越えに。

「君はまだ舞台を観てないでしょ? 近衛さんのことも他の人のことも」


「私は自信があります」

「君はどこで演技を学んだの?」

「それはですね……」シサは下をむいて続けた。「子役です」

「子役……」

「ーーだったんです。演技の経験はそこで。今は辞めてしまったんですけれど」

 というと、子供を対象にした劇団みたいなものに参加していたわけか。年代は小学生くらいのころか。


 シサは話題を今に戻した。

「近衛さんをずいぶん上に置くんですね。私も見ていてすごい人だとは思いましたけれど……」

「悪い?」

 あれは本物だ。

 子供のころずいぶんがんばっていたらしいシサがどうあがいても、あれには敵わない。敵しない。


「もし次の稽古で、私の演技が近衛さんを超えたら、私のことを好きになってくれますか?」

「言ってくれるな……。

「あなたが今近衛さんを好きな以上に、私のことを好きになってくれますか?」

「それはないよ。君は部長を知らないでしょ」


 デート中の男女の会話としては熱を帯びすぎていると思われる。

 歩いて数分。

 僕の目的地は某私大のキャンパスだ。広い敷地内は木々や芝生が多く見かけは公園とそう変わらない。犬の散歩道やランニングコースに使っている住民もよくいる。珍しい外見の施設も多く好奇心で子供のころ足を踏み入れたこともあったっけ。なにせ近い。家から一〇分くらいの距離だ。炎上しそうだから言わないでもらいたいが、友達とよく芝生でボールを蹴っていた。


 こんな場所に女の子を連れてくるなんてつくづく常識がない奴だと思う。シサは不満そうな顔を見せることはなかった。むしろ喜んでいる様子だった。

 土曜日なので建物の外に人影はほとんどなかった。勝手に入って怒られた経験はない。

「リュウジ君はこの大学への進学を希望してるんですか?」

 シサは建物を興味深そうに観察しながら言った。


 僕は笑った。ここは誰もがきいたことがあるような超有名で超難関な大学だ。ほとんどのキャンパスは都内にある。彼女にとって選択肢になりえるかもしれないが、僕にとってはそうでもない。

「偏差値が足りないから無理だよ。デートするにもお金ないからこういう選択肢しかないの」

 財力という意味でシサに太刀打ちすることはできない。


「プロだったのに」

「大した額じゃないよ。なんたって中学生だったし。……将来のために手をつけるなって親父も言ってた」


 街中とは思えないほど緑に囲まれた空間である。そして静かだ。キャンパスの隣にある公園から子供たちが遊ぶ声がきこえてくる。

「高校生らしいデートになりそうですね」

「それって皮肉?」

「! 誤解を生んでしまいましたら謝ります。私は素敵だなってーー」


 シサは人に対して純粋ではあると思う。僕はそう評価している。

『シサは僕が欲しい』。その点について彼女はブレていない。ただその信念を貫かれると僕は困ってしまうことになるのだが。


 僕たちは正門からキャンパス内を横断し、外縁にある広い芝生の上に腰を下ろした。離れたところで大学の馬術部部員が馬に乗って練習しているところが見える。

 シサがつくってくれたサンドイッチを食べた。ローストビーフにマッシュポテト、それに新鮮なレタス。僕は手放しで褒めた。


「ありがとうございます」とシサ。

「『恋人の胃袋をつかむ』って表現よくきくけどさ、食道とか腸とかつかまないでいいのってならない?」

「食事中に内臓の話はやめてください」


「どうして演劇部にきたの?」

「最初はあなたの気を引きたかったからですけれど、今は違います。現役に復帰したかったんですよ。役者として」

「……そんなに楽しいの? 演じることって」

 僕は役者の仕事なんてやるつもりはない。


「リュウジ君もしてみたらわかりますよ。あの緊張感……あの達成感。一度味わったら忘れられませんよ。大勢の人の前で演じ、そして喜ばれるんです」

「俺には理解できないね。苦しそうで」


「サッカーをしていて同じことを思わなかったんですか?」

「サッカーはゲームで、演劇はアートだ」

「違います?」

「サッカーは勝負事だから、選手の立場において内容は問われない。それがどんなに最悪の試合でも、勝ちさえすれば納得はできる」

「ボールを支配され続けようと、相手のとんでもないミスからゴールが生まれようとーー」


「納得はできる。納得はすべてだ。練習して、先発を勝ちとって、応援してくれる人が見守るなかでなにが大事かってそりゃ結果だよ。ゲームなんだから結果以外に目的を設定しちゃダメだ。内容の良さは結果がともなってこそだから。まず眼の前のゲームを全力で勝ちにいって、そこから試行錯誤すること覚えないと」


「『まず勝て』ですか」

「だけどアートは違う。アートは対戦相手がいない。文学も演劇も音楽も美術もそうだと俺は思う。観賞する人は敵じゃないでしょ?」

「それでも優劣は存在します」


「明確な指標があるわけじゃない。何十億も稼いでる俳優の演技がつまらないと思う人だっているさ。ゲームなら実力がスコアに現れるけれど……いや、芸術もお金に換算することはできるわけか」

 作品の優劣は数値で現れる……のか?


 シサは僕をフォローしてくれた。

「商業としては成功したほうがよろしいでしょうけれど、芸術の価値は売れた売れないだけでは決まりません。芸術というものは作り手の情動の発散ですよ。ある人にとって傑作でも別のある人にとっては駄作にもなってしまう。何百億円もする絵画の価値を全人類が認めているわけではありません」


「そうそれ! だからさ、シサと近衛さんの演技の優劣なんて簡単にはできないと思うよ」

 それが僕が導き出した結論だ。

 近衛さんの演技もシサの演技も、優劣雌雄甲乙左右を決めるのはその人の感性だ。絶対的で客観的な基準が用意されているわけではない。


 あくまで僕の中の基準において現環境最強は近衛さんというだけのこと。近衛さんの感性にあわせて僕の芝居に対する感覚が養われた部分もある。だからシサに勝ち目はない。

『シサが近衛さんを演技で圧倒し僕の気持ちを独占する』だなんてわかりやすい展開が用意されているわけがない。


 シサが自分の才能で僕の気を惹きたい気持ちは(辛うじて)わかるけれど、そんなことをしても無駄だ。僕の気持ちは近衛さんから離れない。

「今私のことなんておっしゃいました?」

「シ……シサって」


「私のこと呼び捨てにするんですね!」

 そっちかよ。

 惚れた弱みにつけこみシサのことをずっと軽んじてきたという負い目はある。呼びなおそう。

 シサは白い歯を見せて笑った。

「呼び捨てにしてもらってもかまいませんよ」


「秒速でひるがえったな。……どう思った?」

「あなたはいつも私を困らせますね」

「なら相手しなくてよくない?」

「だからこそあなたは最高の男性です。私にとって」


 もっとチャラい男を演じていたらシサは僕に対し関心を失っていたかもしれない。初めて会ったあの日アドレスをききだすべきだったのかも。


「ーー今なら誰も見ていませんよ」

 シサは腰を浮かせわずかに距離を縮めてきた。

 いきなりくるのか。人目のない無人の空間に男女が二人きり、理想的なシチュエーションではあるが……。


 僕は『初心で安全な異性』としてこの少女から評価されているわけではない。こちらから能動的に求めてもかまわないと思われている。だとしたらどうすべきか?

 僕も並の男だった。別に想っている人がいるくせに、シサから離れようとしなかったのだ。

 演劇部にいたおかげで異性の身体に対する耐性はあった。 

 だから肩を優しくつかみ引き寄せることだってできる。やわらかな髪の下にある首に手を当て支え、キスすることだってできる。


 まぶたを開ける。

 シサは驚きのためか、眼を大きく広げていた。

「ん! ……す、素直なんですね。ためらうのかと思っていたのに。すごくうれしい……」


 その言葉をききながら僕は別なことを考えていた。思い出したのは昨日の部活の帰り道で嵯峨さんとした会話のことだーー


       □ □ □ □ □ □ □


「これってひょっとして……」

「コンドームだよガキじゃねぇんだからわかるだろ」

「なんでんなもん渡すんですか」

「だっておまえシサとつきあうんだろ」

「そんな関係じゃないです」

「あんなぁおまえら高校生だぞ。んなの関係なしに性交すっかもしれんだろ。可能性だよ、可能性」

「楽しくない想像……」

「たかがセックスぐれーのことで感情的になるんじゃねえよ。男ならしてーに決まってんだろ」

「嵯峨さんとは住んでる世界が違いますから」

「先達者としてそれくらいの贈り物はさせてくれ」

「嵯峨さんの彼氏って菩薩みたいな人でしたよね」

「ヒトの男を仏にたとえるな」

「そうじゃなきゃ耐えられないでしょう、精神的に」

「わかったから本番ではちゃんと使えよ。サイズあってるかは知んねぇから確かめとけ」

「はぁ……」

「あー穴空いてないか確かめんな! そんなに信用置けねぇのかよ!」

「狼少年って知ってます?」

「知らん」


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