第3話 音羽リュウジと帰宅風景

 シサに傘を返せなかった。



 ーー湯浅シサの校内における立ち位置というものは理解できる。僕も昔は有名人だったからわかる。


 シサのように特別な才能があるクラスメイトというものは(とびっきりの美人であることを才能と呼んでしまえばだが)、周囲の生徒たちにとって高価なアクセサリーのようなものなのだ。


 容姿の優れたクラスメイトに近づくことが許され、気軽に会話ができる関係を維持するだけで、自分のステータスが上がったと錯覚できる。そんな幸福なシステムが頭の中で形成されているらしい。


 シサの取り巻きは女子生徒が三人。彼女たちは教室内でも移動中の廊下でもまるで要人警護SPのようにシサを囲んでいる。


 そういう事情があったので、残念ながらコミュニケーション強者じゃない僕のからシサに話しかけることなんてできなかった。彼女に借りた傘はこの数日間昇降口の傘立てに置きっぱなしになっている。



 放課後、演劇部の活動を終え電車で帰宅する。同じ車両に乗っているのは僕と部長と副部長の三人だった。近衛さんと嵯峨さんは女子。どちらも僕と同じ二年生だ。


「それってナンパじゃん」と嵯峨さん。

「スゴいのねリュウジ君。モテるんだ」と近衛さん。

「真に受けちゃダメだよ近衛。どうせそんな女実在しないよ。妄想だよ。なにかキメてるんでしょ?」

「現実に同級生に声をかけられたんです」


 もう午後九時を回っている。人目を引く学校の制服姿ではない。僕たちはみんなラフな私服に着替えていた。


 僕は電車内を見渡す。うん、とりあえずこの場所にシサはいない。彼女は電車で通学しているのか、それともあの車で送り迎えされているのか。


「名前は湯浅シサという名前の転校生です。僕たちと同学年なんですけど、知ってますか?」

「……知らんな」ぶっきらぼうに答える嵯峨さん。

「知らないわ」丁寧に答えてくれる近衛さん。

「うちの学校生徒多いからな。九〇〇人くらいだっけ?」

 僕たちが通う都立姫川高校は大規模校なのだ。敷地も校舎も規格外に大きい。同学年に限っても生徒数が多すぎる。二人が知らなくても仕方がないか。


 なにか思いついた目つきになった嵯峨さんが続ける。

「転校生? あの茶かがったの髪の?」

「知ってるんですか!?」

「いやツラがいいから目立ってるってぇだけだ。美人だよなぁもちろんリュウジ君はOKだよな? 健全な男子高校生がスエゼン食わないとかないよな?」


「スエゼンってなに? どういう意味?」

 据え膳食わぬは男の恥(ーー女性から誘惑された男性がそれを受けいれないのは恥だという意味)。


 近衛さんは顔を斜めにして嵯峨さんを見ている。

 僕は困惑していた。

 嵯峨さんはニヤニヤと笑う。


「リュウジ君は知ってるの?」

「知りません。僕は傘を返したらもう湯浅さんと話をするつもりはありません。今は演劇部のことで忙しいですし交際している時間はありません」

「演劇楽しい?」

「楽しくなかったらやってませんよ」


 僕が高校で所属している部活動は演劇部だ。

 部員数わずか六人(二年生四人、一年生二人)の小所帯だが僕が今担っている仕事は役者ではなく制作であるとか音響照明であるとか小道具製作であるとか……そういう雑務全般、裏方の仕事だ。地味な役割を精一杯こなしている。


「どんな女なんだ?」と嵯峨さん。

「湯浅さんを送り迎えする執事みたいな男の人がいて、車も高級車っぽくて、傘も調べたら高いブランドでしたし、いいとこのお嬢様なんじゃ」

「逆玉じゃん」

「それも知らない言葉! 教えてよ愛子ちゃん」と近衛さん。

「あとでね近衛。その傘売ったらいいこづかいになるじゃん」


「面白いこと言いますね」と僕。

「怒るなよリュウジくーん。冗談だってぇ」

 嵯峨さんが言うと冗談にきこえないんだよなぁ。

「しかしリュウジもさ、元有名人って自覚が足らないんじゃないの? おまえに限っては知らない奴から急に名前呼ばれても不思議じゃねぇよ」


 嵯峨さんのこの言葉に力強くうなずく近衛さん。

 やっぱりそうか。顔は割れてるよね。

 自分が『音羽リュウジ』なだけで異性が近づいてくるだなんて思いもしていなかった。


「テレビでたまにやるじゃんサッカーの代表戦。そのチームの一員でーー」

「元世代別の代表です。フル代表でプレーしていたわけではないです」

 まだ一五だぞ。

「ワールドカップとやらで活躍してたんだろ?」

「それもアンダー17セヴンティーンの大会です」


「なんか知らんけどそこでゴールをお決めになった音羽リュウジくんの勇姿を目撃したシサさんが『素敵!! あのお方にお会いしたら是非自分の想いを伝えて』」

 嵯峨さんが僕にだけ見えるように卑猥な仕草をして見せた。


「どういうこと?」と近衛さん。

「男女の仲になりたいってことでしょ。良かったねリュウジ君。昔すごい選手だってことで役得じゃん。棚ぼたじゃん。良かった良かった」


 まぁあんなきれいな女の子に声をかけられ正直悪い気はしないのだけれど、それはそれとして僕にはずっと思っている人がいる。今僕の横に立っている演劇部部長、近衛おわりさんだ。


 近衛焉さんはゆるくウェーヴのかかった長い黒髪にすらりと伸びた長い手足、そして彼女が思っていることをそのまま伝えてくる大きく強い眼が特徴だ。こちらの思っていることをすべて見透かしてしまうような澄んだ眼。僕のクラスメイトだ。僕は去年、あるときふと立ち寄った演劇部の定期公演で主演をしていた彼女の魅力にとり憑かれ(舞台上の彼女はまさに支配者だった)、演劇部に入部することを思い立ったのだ。不思議なことに彼氏無。


 嵯峨愛子あやしさんは一七五センチの僕と同じくらい長身の女性、金に染めた長いまっすぐな髪。ちゃんと眠っているのか心配になるくらい目元のクマが濃い。ヤンキーみたいな外見にヤンキーみたいな言動がともなった人だが、あなたも嵯峨さんと話をしてみればきっとわかるだろう。彼女が実際に不良そのままのキャラクターをしているということが。齢一七にして稀代のクズだ。特に僕に対して。不思議なことに彼氏有。


 近衛さんと嵯峨さんは同じ中学校出身だ。

 この二人が中学で演劇部を立ち上げ、指導者なしかつ少人数、近衛さん曰く「劣悪な環境下」で練習を続け、それでも観客にウケる舞台を成立させコンテストで好成績を残したというのだから褒めるしかない。


 フィクションを体験して感動するということは、結局それをつくった人間に感動することなのだ。彼女たちは僕を感動させた。それだけでこの人たちについていく理由として充分にすぎる。たとえどれだけ僕が無力な存在でも。


 僕はただ彼女たちを見守るしかできない脇役だ。

 ピッチに出れば毎試合主役を張ることができたあの頃とは真逆の立場になっている。


 ーーんで。

 嵯峨さんは非難の眼を僕にむけながら言った。

「大体よぉ、部員六人の演劇部で男子リュウジ一人だけだろ? 地雷原の上で踊ってられる性格してるおまえが女一人なんかにビビってるんじゃねぇよ!」


「確かに」

 それはそう。

 女子ばかりの演劇部に飛びこむ男子イズなに? しかも僕は演劇なんて未経験なのに。周囲の生徒たちからどう思われていることやら。


 我ながら思い切った決断をしたものだ。それとも選手時代に過酷なトレーニングを続けた結果頭のネジが外れてしまったのかもしれない。


「リュウジ君ひょっとして演劇部嫌い!? 周りが女の子ばっかりで嫌だった?」

「そんなことないですよ」

 近衛さんは優しいなぁ。

「そんなことねぇって。いつも女に囲まれて楽しい楽しいって言ってるよ。いつもあたしのことヤラシい眼で見てるし」

 嵯峨さんは厳しいなぁ。


「やっぱり相談しなきゃ良かった」

「リュウジ君……愛子ちゃんのことそんな風に見てたの? 不潔だわ」

 僕にドン引きする近衛さん。


「真に受けないでください。女の子が苦手って言うよりそのシサさんって子が苦手なだけです。誰だって急に話しかけられたら困りますよ」

「じゃあきっぱり拒否するのか?」

「そうします」




「そうするんですか?」

 二人が電車から降りた瞬間、僕の背後に立っていた湯浅シサが話しかけてきた。彼女を喜ばせたくないので驚いていないフリをした。実際には血の気が引いていたのだが。

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