第1話 湯浅シサと京急線②
今でもときどき、こんな夢を見ることがある。
自分がまだ最強で、大勢の人間から尊敬され、畏怖されるに値する存在であるという夢を。もちろん現実はそうではないのだが。
かつての『特別なプレイヤー』はとっくに死んでしまっているのだ。改めて自分にそう言いきかせる。
京急線、乗客の数はまばらだった。学校から帰宅中の僕は座席で眼を閉じていた。
疲れて眠ってしまっていた僕を起こしたのは女の子の声だった。
「あなたは音羽リュウジさんですね? 音に羽でオトワさん。ね、そうでしょう?」
その少女を見たのは初めてではない。今は制服を着ていないが僕が通っている学校の生徒だ。僕と同じ高二。四月に転校してきたばかりなので印象に残っていた。
印象に残っているのは耳が隠れるくらいまで伸ばした亜麻色の髪もだった。人形のように整った容姿、そして無邪気な笑顔。眼の形はタレ目気味だ。
謎の美少女が座席を一つ空け僕の左隣に座っていた。いつの間にか。
「だ、誰ですか?」
そう僕がたずねると、彼女は指を口元に立て、
「秘密です」
そう言って一笑した。
こんなにきれいに笑える人間がいるとは知らなかった。
細められた眼も、開かれた口も。
まるで二次元の存在だ。
「中学時代は自宅のある川崎市内の中学校に通っていらっしゃいましたね。現在は都立姫川高校に通っていらっしゃる。帰宅は一〇時前後。電車内では本や参考書を読んでいらっしゃいますが今日のように眠ってしまうこともしばしばーー」
僕は眼をこすった。
確かにこの少女とは初対面のはずだ。この涼しい声色に馴染みはない。
「ストーカーって知ってる?」
僕がそう言うとシサは笑いながら早口でこう返事をした。
「そう言われるかと思ってました。カードにそう書いて『その発言は予言していましたよ』って驚かせることもできたのに」
「つまらない」
「でしたね。単刀直入に言うとあなたのことを追いかけてたんです」
「学校から?」
「いえ、駅で待ち伏せしていました。一度家に帰って着替えてきたんです」
彼女のファッションは水色のシャツにロングスカート、それにバレエシューズという至って
「目的は?」
「あなたとお友達になりたくてーー」
「胡散臭い」
「初対面ですもの、そう思われても仕方ありません。もっと別の出逢い方を演出しても良かったんですけれど、こういうときはシンプルが良い」
「青天の霹靂すぎるんですけど」
というのがこちらの率直な感想だ。
「私はあなたのことを二年前から知っているんです。ずっと逢いたいと思っていました。あの学校に転校して一週間……話しかけるタイミングをずっとうかがっていたんですよ。情報収集に手間取って今になってしまいましたが」
「はぁ……」
「流石に夏休みまでは待てませんでした。ちなみになにかご予定は?」
部活動でずっと忙しいと答えそうになった。だが他人に打ち明ける義理はない。
「あなたは?」
「質問に質問で返されてしまいましたね。私は音羽君のことでずっと忙しいですよ! 今は勉強も遊びも二の次です」
彼女は楽しそうにそう言ったが僕のほうはうれしくない。怖い。
あれだろ、なにか裏があるやつだ。誰かがこの情景を笑って見ているに違いない。きれいどころの女が僕に好意をもって話しかけてくるとか。
「
「残念ながらその言葉の意味は存じませんけれど、あなたが言いたいことはわかります」
「罰ゲーム?」
彼女は自分の胸元に手を当て、僕のほうに顔を近づける。眼をあわせてこう言った。
「……信じてくれませんか? 私が嘘をついてないことを」
超プレッシャー。
「信じるから元の位置に戻ってくれる?」
ほのかに相手の匂いが漂った。
彼女は自分の陣地に引っこんでくれる。
「名前くらいは教えてくれる?」
見知らぬ少女はわずかに間を空けて、こう答える。
「……湯浅シサです。お湯が浅いにカタカナでシサです。ファーストネームがカタカナなのが一緒ですね」
「そうだね、すごく親近感がある。僕たち同族だね」
湯浅シサ。寡聞にして存じない名前だ。
「皮肉が上手いんですね、本物の音羽さんは」
「本物ってなに?」
シサの声は上品かつ明瞭で聴きとりやすい。育ちの良さを感じる。女優かアナウンサーでも目指して訓練しているのかってくらいに発声がいい。
「私は二年前アメリカであなたと逢ったことがある。とはいえ私は三万人の観衆の一人にすぎませんでした。リュウジさん、あなたはスターだった。あのころから髪型を変えたんですね。撫でつけてないし、少し長くなっています」
僕は自分の髪に触れながら思い立った。
「そうなんだ」
シサは僕の絶頂期を知っている。
「私はあなたのことを調べ尽くしています」
「迷惑なんだけれど……」
「住所は私立探偵を雇って調べてもらいました」
「冗談だよね?」
シサは平然と続ける。
「苦労しましたよ……川崎から東京まで通っていらっしゃるのは、ご自分の過去を知っている人が地元に多いからですか?」
僕は笑った。
「そうだよ。昔は有名人だったからね。だから逃げだしたんだ」
僕はただ、周囲の人間から同情されたくなかった。だから県境をまたいでまで自分を知らない人が大半を占める高校に進学なんてしたわけで。
「東京の学校に通えば人間関係をリセットできると思ったんですね」
「その事実を指摘しにきたの? 僕に嫌われたいの?」
「わ、私はあなたに気に入られるようベストを尽くしているつもりです」
「そうかな……そうかも」
初対面の女の子に好意を伝えられてしまった。戸惑うしかない。
僕のクラス内における人間関係の構築が上手くいってないせいもあって、彼女に関する個人情報は入手できていない。
なのでシサがどこの学校から転校してきたか? とか、どんな理由でこの時期に転居してきたの? みたいな謎が残っているわけで。
「君のことも教えてくれない? 名前しか知らないし」
「同じ学校にかよっていることくらい覚えてくれてましたよね。それで充分では?」
充分じゃないんだよなぁ。
「ほら、女性は秘密があったほうが魅力が増すでしょう?」
「情報量が非対称すぎない?」
シサは僕のことをなにもかも知っている様子なのに、僕はシサのことをなにも知らない。
「何メートルも離れた位置から僕を観て理解していると思いこめるんだ。奇跡だね」
「私は人の評価を第一印象で決めるんです。私はあなたのことを気に入りました」
「買う服を決めるように人を見定めるんだ」
シサの顔がくもった。やったぜ。
「これからも僕と会いたいの? ひょっとして」
「ええもちろん」
「自分が逢いたくもない人につきまとわれたらどんな対応をする? 警察に突きださない?」
「……それは」
「それともなに? 今日のうちにラインの交換ができるくらい仲が良くなると思ってたの? 共通の話題もなしにさ……」
「それはあります」
あるんか? 僕と彼女が打ち解けるような話題が。
だが時間がない。電車が降りる駅に到着した。
僕は降りた。彼女もついてくる。
少し考えてみよう。君がもし外で『100%の女の子』と出会い、その女の子が自分に好意を寄せ、そして自分にまつわる過去を語り出したとしたらどうする?
どうやらこれは夢ではなく現実らしい。
これが手のこんだ冗談なのか? 罠なのか? それはわからない。
シサが本当に僕を好きだとしてもそれはそれは怖い。どういう感情をもって僕なんかを好きになるのだ。今まで一言も口を利いたことのない異性を。
彼女が僕と話をするようになったとしても、こちらに好印象を抱くようになるなんてありえない。だって
ところで僕はシサとの会話に夢中になっていて滝のように雨が降っていることを忘れてしまっていた。雨音がうるさくて他の音が一切きこえないくらいだ。ここから家まで歩いて10分くらいか。今日は家に両親がいない。コンビニで傘を買う金銭的余裕もない。駆け足で帰るしかないか。
シサには迎えにくる人がいた。あまりに執事然とした初老の男性が傘をさし少女を待っている。執事って本当にいるんだ。道路には黒塗りの高級車が待機している。
シサはそのオレンジ色の傘を手にとると僕に握らせ、自分は衣服が濡れることを気にせず雨のなかを静かに歩み、車に入った。
「これで貸しができましたね!」
慌てて彼女に傘を閉じ返そうとする。
雨粒が滴るシサの胸元に眼がいってしまった。よりにもよって首元が空いた服を着ている。うん、これは仕方ない。本当に仕方ない。僕の眼に入ったあの白い生地は下着ではなくてインナーだ。
「いや」
「使ってください。いつでも良いので学校で返してくださればけっこうです。これでまた会ってもらう理由ができましたね……」
「いやいや」
シサを乗せた車は走り去った……と思いきやすぐに停まる。家まで乗せてくれるとかそういうわけではなく、最後に一言たずねたかったのだろう。彼女にとっては肝心なことだ。窓ガラスを開け顔を出しこう叫んだ。
「リュウジさん! もうボールは蹴ってないんですか!?」
答えてやることにした。『自分を応援してくれるファンは大切にしろ』という歴代コーチの教えが骨身に染みていたためだ。
「蹴ってないよ! 全部あきらめたんだ……」
僕はもう選手ではない。
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