殺人の当日  (九月十五日) 


二百  朝の地下鉄 


 カプセルホテルに冷たい音(トーン)が響いていた。それが現実だと気がつくまで、かなりの時間がかかった。前向きと後ろ向きの精神が、半々くらい。アルコールはまだ気分良くわたしを浸している。目が覚めてしまったのは確かだった。さっきまでバーにいたままの格好で、わたしは目を覚ました。本当は眠ったままの方が良かったと思いながら、わたしはカプセルホテルを出た。汗がひどかった。

 六本木駅へは西麻布赤のれんの前の坂を上がるだけだ。寝たままの身なりで起きて、何も考えずに歩く。

 念のため石原がいるかもしれない喫茶店の前は通らず、駅にじかに向かった。朝の六時半過ぎに太刀川が地下鉄に降りる入口は知っている。視界を確かめながら、六本木通りを渡ったみずほ銀行の角でタバコに火をつけた。わたしが目的とする人間が通ったところで、ゆっくり駅に降りるつもりだった。

 ジャックダニエルの残る喉にタバコを当てる。眠気の中、太刀川ではなく別の人間を探している自分が分かる。それゆえか、六本木ヒルズの方から、太刀川が姿を現したのを遠目に見ても何も興奮はなかった。むしろその周辺を凝視した。歩いていればわかるはずだ。あいつの身長だけは、誰にも隠せたものではない。

 太刀川は端然と日比谷線の入り口へと降りていった。わたしは合わせて六本木通りを挟んで反対側の入り口を降りた。階下で太刀川は自動改札に吸い込まれるところだった。わたしは目立たぬように周りを見回した。しかし、二メートルの男は視界にはなかった。朝六時の地下鉄の入り口は閑散としていて、人はまばらだった。


 もはやわたしは太刀川に存在を確認されても構わないと思っていた。日比谷線が滑り込んできたので太刀川の方角に近づきながら、隣の車両にちょうど乗った。まだ朝も早く、乗降客はまばらだった。ふと、昨夜尾行参加を宣言していた石原がいない気がしたが、変装して尾行しているのだと思い、探すことは辞めた。 

 列車が走り、次の神谷町に向かうところでわたしは太刀川のいる車両へと歩いた。車両の連結部の扉を開ける時に少し目立つ音がした。わたしを視界に入れた太刀川は、さほど驚かずに「またか」という顔をした。

「嘘の隠居はもうやめにしたらいいぞ。」

その朝、わたしの声は滑らかで自然だった。まだ余韻を残す酒の力を借りられたようだった。

「嘘と言うのはどう言う意味ですか?」

「ああ。連絡先を捨てたとか、ネットから身を引いたとか、などいう虚言で、引退を演出してる、と言うことだよ。」

「ほう。これは、随分新しいものの見方ですね。古いとも言うけど。」

太刀川は、わたしを見てもまったく驚きもないようだった。もしかすると、こちらの手の内をすべて知っているのか、とさえ思った。

「銭谷警部補。あなたも面白い人ですね。どうですか?最近の警視庁の方針には合わなそうですが。」

「どういう意味だ。」

「言葉通りの、個人的な意見です。まあいい。繰り返しますが、我々、国民としては、税金の費用対効果もあり、他の捜査を優先することをお願いしたいですね。世の中にはたくさん、人々の目に見えもしない犯罪がありますよ。もっとも、あなたは、単に、担当を外された過去の犯罪が許せないから、私を追っているのかも知れないですが。」

「珍しい。罪を自分で認めたようなものだな。過去の犯罪か。」

「違いますよ。あなたの物の考えの、論理構造を指摘申し上げているのです。組織の、隠蔽された悪。そういうものを、あなたは暴きたい。ホームランを打ちたい。ずいぶん古いバットで。そういうことでしょう。」

「隠蔽された犯罪に関わったかのような言葉選びだ。それを指摘しているのだが、伝わらないか?」

「伝わっています。その上で、問題はあなたの性格だと言ってるんですよ。あなたは組織のつまらない問題を気にしてしまう。理想が高いのでしょう。」

「組織だろうがなんだろうが、悪いものは逮捕するまでだ。」

「まあ貴方の性格なのでしょうね。こうやって、組織が解決済みにした過去を、いまだに上司にも内緒で捜査している。五年も経ち、部下もついてこない季節になってもね。誰が見ても明確なことを、私は真っ直ぐに言ってるだけですよ。あなたは、大丈夫ですかと。」

「なんとでもいえばいい。」

「で、今日は何の用ですか?」

太刀川はそこだけ、しっかりと聞くぞと言う目で、わたしを見上げた。

「ただの偶然さ。」

わたしはそう言って睨んだ。睨みながら、わたしの両眼は何ひとつ太刀川のことを見ていなかった。黒目の見つめる外側で、身の丈二メートルの人間がこの空間にやってくることだけを待っていた。

「そんな訳無いでしょう。あなたの住居は霞が関より東側です。この路線にこの時間に乗るのは無理がある。別宅でもあれば別です。」

「おれの住所をなぜわかる?」

「しつこいからですよ。」

「まあ、インターネットに載ってはいないがな。大金を持ってるといろいろ、やれることがあるようだな?どう言う人間を雇っている?」

「繰り返しですが引退していますから。」

「売却した現金は家に置いているのか?」

「……。」

電車は次の神谷町に止まった。誰も乗ってこなかった。やはり今日は金石らしき人影はこの車両にはなかった。

 私は金石のことを聞かなかった。万が一、金石とこの男(太刀川)がつながっていてもいなくても、重大な迷惑を金石本人にかける恐れがあるからだ。

 想像をしたくはないが、例えば整形手術などをして顔を変えて、どこかへの潜入を試みているかもしれない。もし顔を変えたなら、それは奴も命がけだ、と言うことでもある。わたしは話題を変えた。

「では、要望に答えて、質問をするとしよう。槇村又兵衛という刑事を訪ねたことがあるようだな。」

「……。」

太刀川は一瞬聞こえない様子をした。

「とぼけるのは構わない。一方的に言っておこう。何か、槇村又兵衛という刑事に聞きたい情報があったのではないのか?」

「はて。誰のことでしょう。」

太刀川の表情は夜の湖のように暗く冷たかった。

「A署の刑事さんだよ。わたしより、ひと回りは齢をとっている。あんたが尋ねたはずだがな。」

「日々、いろいろな人間と話していますのでね。なかなかお顔とお名前を一致させるのは難しいのです。」

「そうだろうか?記憶力は随分良いと聞いているが。」

わたしは太刀川の顔面を凝視した。何を考えて何を目指しているのか。分かりずらい顔だ。

「すっとぼけてるようだな。」

「どうでしょうかね。」

「まあいい。こちらにも考えはある。」

わたしは、さほど自信のない自分を悟られないように、ゆっくりと間合いをとった。

「六本木の事件の話をしてもいいか。」

「あれは、事件ではなく、事故ですよね。」

「我々は、事件と呼んでいるんでね。あの事件で、あなたはとある組織に関わった」

「ほう。心当たりはありませんね。」

「とぼけるのは構わない。ただ、ある組織が動いた。そのせいで、なぜかいくつか不思議な変化があった。それは認めてもいいだろう。」

「変化の意味がわからないです。」

「あまりに事実を認めないと、そこに急所があるのが逆に露わになるがな。まあいい。誰がどう動いたかは知らない。しかし、事実として、あの8月、夏の終わりから警察の方針と、NHK以下、民放全ての報道の方針が変化した。明確にだ。」

「警察の方針は知りません。それはあなたたち身内の話ですよね。報道の方針は各社が決める物でしょう。ジャーナリズムですからね」

「ほほう。既存の横一線のジャーナリズムに不満があったから、メディアの株を買ったりしたんではなかったのかな?パラダイム社は。」

「覚えていません。」

「とぼけるところは、気をつけた方がいい。明らかに知っている事を知らないと言えば、警察は逆を想定するぞ。」

「過去を思い出しても、現実に縛られるだけなんですよ。わからないと思いますが思考する場所を変えていくのですよ。未来を変えたい人間にとってはね。」

「面白いな。未来を変えたいくらい、強い願望があるらしい。そして、過去は嫌いらしい。」

「ぼんやり生きていないんですよ。いろいろやっていましてね。銭谷さん。繰り返すようですが慈善事業に興味ありませんか?あなたみたいな人は、ちゃんと実際に未来を変える物事を考え、経験した方がいい。こんなことよりよほど、未来を変えれますよ。薄汚く歩愛した組織はね、中から変えるなんて無理なんですよ。外から象徴的な事件や劇を設計しないと、人間の群れは方向さえ変えられない。いや、変わりたくても何もできないんです。」

「未来や綺麗事の理屈の前に、そもそも犯罪者は、犯した事件の被害者を救うことから始めるべきだろう。わたしにある言葉はそれだけだ。人の命を失わせた人間をわたしは許さない。単純なことだ。」

「事件ではなく、事故です。それよりーー。」

「被害者は常なる過去と向き合わざるを得ない。いいか。未来を勝手に語るな。」

「被害者を軽んじる気持ちはありません。ただ過去だけでは生きられないという事です。」

「話を逸らしたいようだな。」

「言いたいことが最初からあっただけです。」

「あの夏の終わりに、各社の報道が変化したんだ。スポンサーや代理店程度の力では動かない。警察やメディアの頂点に向けた、話が必要だ。」

わたしは、酒に乗せて

「そういう力に、お前はすがった。その端緒が見つかりつつある。そろそろ覚悟をしておくがいい。」

考えようによっては、手の内を見せる言葉だった。いやはっきりと勢いに任せた失言だった。必要なのは完全なる証拠であり、証拠を掴む可能性があるという予告は、ただ、相手を逃げやすくするだけなのだ。だが、わたしはそれでいいと思った。太刀川が逃げ出すなら、むしろ好機がやってきたと思えばいい。

「まあ、任せますよ。捜査令状かなんかを持参いただいた時にその話はまたしましょう。」

太刀川はそれでも余裕だと言う態度は変えずに、微笑さえ湛えていた。





二百一 悪い夢 🔵メモ 後半をリライト。90(リライト済み、最終チェックまだ)


 わたくしは、大勢の男に監禁をされていて、部屋から出入りさえできないようにされています。そうして、全身を縛られていて身動きは取れませぬ。相手の男どもは、風間や守谷のような、凍てついた恐怖ある目だけを、目出し帽の中から覗かせています。無言で人格の見えざる複数でした。若く、まだ体力に溢れているのは体つきでも判りました。

 目出し帽の男たちは、やがて、私刑をはじめます。

 わたくしは叫びます。

 辞めてくれ、辞めてくれ。

 凄まじい力で、わたくしの身体は押さえられ身動きは取れないばかりか、不都合に動いた場所には容赦のない鉄パイプなどでの殴打が入ります。骨を打つ音と、激烈な痛みが夢でありながら全身に伝わります。吐き気がきます。ああ、もう駄目だ、意識が消えていく、というような。

 それらの悪魔の時間が続いていくうちにだんだんと最初は夢か何か冗談だと思っていた自分が、ほとんど現実にこれを行われているのだと言うふうに変換していくのか分かりました。殴られ犯されるひとつひとつそれぞれが、現実の信憑性を高めていくのでございます

 そこで、おかしいと思うのです。

 夢であるということ以上に、この場面を何故か、わたくしは何処かで見聞きして知っているのです。知っていてそれでいて何か蓋をした記憶のように脳のどこかの抽斗に片付けてあるのを知っていて閉じている。身体中を縛られ、目隠しをされると大勢の不気味な男が代わる代わる、わたくしに、タバコを押し付け、棒で殴り、服を破り、言葉では書けぬようなことをして、わたくしを凌辱していきます。

 夜が訪れ、また朝がくる。日中がくる。そしてまた夜が来る。

 食える物を食えず衰弱します。

 幾度も朝と夜が繰り返されます。

 そうして、ふと自分のことを鏡で見れることに気がつきます。

 自分が何かの力学でそちらに抜け、脱出できるような妄想を持ちます。

 窓の近くに鏡があり、うまく体を捻ればそこに、抜け出せるようなのです。まるで自分の体を置き去りにして、幽体離脱して部屋から抜け出るような感覚とも言いましょうか。

 そうして、元いた自分の身体を見つめ直し、わたくしは唖然とするのです。

 リンチを受けている人間の姿は、恐ろしいことに私では無いのでございます!

「紗千!何でお前が??」

恐ろしいものをわたくしは見させられるので御座います。この陵辱され、私刑され続けるこの身体がよく見ると美しい少女で、さらによく見るとなにか、その遠く窓ガラスにうっすらと映るのです。窓ガラスの外には誰か、陵辱されているこの少女自身を愛して止まない誰かがいて、その人が、人間とは思えぬ形相、顔面でこちらを見ています。まるで分断した国境線の金網の向こうで、自分の娘の処刑されるのを慟哭にしがみつく、人間の父親、それが、なんと、このわたくしの顔面ではありませんか?凌辱されてたはずのわたくしの側が外にいて、わたくしの娘の紗千が私刑を受けているのです。そしてその紗千の父親であるわたくしは何も出来ずに叫んでいるのです。その阿鼻叫喚の苦悶の表情の、恐ろしさと言ったら……。

 わたくしは、あのように恐ろしい人間の顔面を見たことはございません。

 それが他ならぬこの自分自身の顔面と知りながら、恐ろしくて見ることもできないのです。

「殺すなら、この俺を殺せ!彼女を解放しろ!早くしろ、殺すなら俺を殺せ!!」

その鬼の形相をしたわたくしは、怒鳴り続けます。夢の中のはずですが、自分でもわからない。わたくしは何もできません。ばかりか、逆に犯罪者たちは囁くのです。

「この手順にお前は覚えがあるだろう?」

目出し帽の男達は嗤いながらそう言うのです。わたくしの過去の失策を指摘するように声をはっきりと大にして、

「こう言う事件があったのをあんたは知っていただろう?」

「……。」

「知らぬ存ぜぬではなく、第三者ではない当事者になる。そのことで、本当の理解が叶うんだよ。」

その目出し帽の声は、わたくしにそう語るのです。黒いフェルトの中の目玉がこっちをみて、

「そうだろう?テレビで見てどこかで聞いて理解でもした気になっていたのだろう。」

「……。」

「娘を殺されたりする気持ちを取材だと?ふざけるな。お前の心の中のどうしようもない部分をおれはしっているぞ。」

「……。」

「恐ろしい人間だ。おまえは。ならば実際に、自分の娘を本当に殺されてみるのがいい。そうして初めて、貴様は理解できるだろう。この世のおかしなことを、実際に被害者になり遺族になって、毎朝の地獄がはじまってから、もう一度自分の意見を言うがいい。


二百二 朝の本郷


 太刀川は、御茶ノ水を過ぎ次の本郷三丁目駅で丸の内線を降りた。

 酒臭い銭谷警部補のことは、驚くほど脳裏になかった。

 組織に苦しむ人間は酒に頼り、そしてああいう姿勢になる。それは太刀川自身にはありがちな組織人たる人間の通常の現象でしかない。多くの優秀な組織人が、組織の都合に耐えられず酒で自分を癒している。それがこの世だと思っている。あえていうなら、泥酔でもしてる人間の方がまともだということだ。

 銭谷警部補にはもっと別の物事を追いかけて欲しい。太刀川はある程度素直な気持ちでそう言ったのである。ほとんどの人間にそういうことは思わないが。

 改札を出ると、いつものように本郷文庫を眺めた。

 いつものように活字を背負った背表紙たちが、並んでいる。

 作家が命を込めて並べた文字列である。

 地下鉄の多くの駅にこういう青空文庫があった時代は遠く去りつつある。全ての物事はネット中心になった。文庫本を誰でも名前も書かずに借りられる事よりも、手荷物にならない電子書籍のほうが良いらしい。

 紙で見る文字は湿り気を持って脳に入っていく気がする。

 地下鉄の路線図や地図図面を味わうことと同じように、背表紙の並んだ書架を眺めたりする記憶はその日の陽射しや匂いのような体感とも重なる。いやむしろ何かを覚えると言うのは人生の貴重な体験の一つだ。画面を通してばかりの記憶は、果たして体験といえる価値があるのだろうか。

 駅舎を出ると、初秋の日差しが美しかった。赤門を入った辺りの法文関連から図書館や講堂などを散策しよう、と太刀川は思った。銀杏の緑がまだ最後のつよさで並木を彩っている季節が太刀川は好きだった。


二百三 本棚写真


 六本木駅でいきなりの登場をした銭谷警部補に石原は驚いた。無論、中年の主婦に変装している自分から話しかけることはできなかった。銭谷警部補は太刀川の車両に乗り込み、何やら自分から話しかけている様子があった。何の目的だったかはわからないが、しばらく会話を続けていた。霞ヶ関も過ぎ、日比谷を越え銀座まで行ってやっと太刀川が車両を降りたので会話がようやく終わったようだった。石原は太刀川に合わせて車両を降りた。

 車内に銭谷警部補の背中を乗せたままの日比谷線は、ドアを閉めると築地方面に流れていった。

 石原は中年主婦の姿勢のまま太刀川を追った。丸の内線の池袋方面に乗り換えた太刀川は、最初の日の尾行と同じ本郷方面に向かっている。石原は気づかれてはいない自信をもって、隣の車両に乗り、鞄の穴から覗くカメラだけを向け、自分は何もないように席に座った。淡路町、御茶ノ水、と過ぎる間、太刀川は戸袋にもたれたまま、考え事をしている様子だった。

 初日と同じ本郷三丁目駅で、再び太刀川は降りた。

 細々としたホームは大手町とは違って、東大の大学職員風情のする幾人かが歩いていた。まだ朝の一限には早いと思われた。階段を上がって改札を通るときに、太刀川の背中が改札の外で立ち止まっているのが見えた。石原は咄嗟に力む体を悟られまいと、そのまま真っ直ぐ商店街の方へ歩き抜けた。太刀川は改札の横の例の<本郷文庫>の本置き場の辺りにいた。

 駅から本郷通りに出る商店街の途中にタバコ場があった。石原はそこで太刀川を待った。四、五分待ったところで太刀川がここを歩くのだと思った。が、不思議なことにタバコを三本吸っても通らなかった。駅の方に戻ってみると太刀川は既にいなかった。どうやら狭い反対側の出口から出たらしい。

 ふと石原の視界の先にさっき太刀川が立ち止まっていた文庫置き場があった。達筆の毛筆で「本郷文庫」という紙が貼られていた。駅の改札を出たすぐ横だが、学生含め誰も立ち止まったりはしない。東京大学の最寄駅とはいえ昨今、本を読んだり古本を手に掴む人間はもう多くないのかも知れない。

 石原は、太刀川の視線の先にあったその本棚の写真を一枚撮った。

 地下鉄の映像だけでなく、彼の見た眼差しも集めておくほうが良いと思った。

 乗降客が過ぎたあと、ひんやりとした初秋の朝の風が頬を撫でた。

 


二百四 産廃の山 


 …毎度繰り返すいつもの悪夢から目を覚ましました。

 寝落ちしたのは一瞬だと信じたかったのですが、時計を見ると朝の七時を指しています。すでに三時間ほど過ぎていました。わたくしの隣では同じように眠りに落ちたらしい赤い髪の女性が小さく寝息を立てていました。 

 昨夜わたくしは、助手席の赤い髪の女性と一緒にこの社用車(キャロル)でGPSの青い点を追いかけました。恐らく守谷であろう青い光点は東京を北上し埼玉に入りました。GPSが動きをようやく止めたのは、埼玉の秩父山系の山道に入ったあとのかなり奥地でした。周囲は山しかない一本道の国道に青い点がとまりました。我々はそこまで急ぎました。ようやく恐らく青い点滅と思われる場所にたどり着き、確認すると、恐らく、闇の中に車があります。赤い髪の女性と相談し、減速せずその停止した車を通り過ぎました。その刹那に運転席を盗み見ましたが一瞬でそれが守谷であることがわかりました。闇の中で守谷はどうやら仮眠を取っているようでした。こんな山奥で何をしようとしているのか、ゾッとしながらもわたくしとしてはとにかく夢中でそこに起きている現実を把握しようとしておりました。

 守谷の車は軽トラックでした。車上灯も消して道端に停まっておりました。我々は念の為、守谷の視界を外せるところまで車を出し、停車しました。そうしてしばらく守谷の車の周辺で動きが始まるのを待ちました。しかし車で追い越した時に見た通り運転席に守谷は眠っていたのです。そうすぐには動きはないだろうという空気が赤い髪の女性とわたくしとの間に漂いました。

 おそらく、そこがその日の限界だったのだと思います。闇に動きのない軽トラックをバックミラーで見つめながら、朝まで少し待とうと話すなかでわたくしは寝落ちしてしまい、そのまま失神いたしました。そうしていつもの悪夢を繰り返したのです。

 木々の間から輝く朝陽が強制的に夢を寸断してくれなければ、またいつものように昼過ぎまで布団から出れない苦しみが続いていたのかもしれません。

 嫌な寝汗が身体中を覆うのを手で拭うようにして、目覚めたわたくしは車を守谷のいたはずの方角に向けて切り返しました。

 闇の中で正確に思い出せませんでしたが守谷の車の停まっていたあたりには既に何もありませんでした。

 わたくしは焦る気持ちでようやく反対向きにキャロルを直すと山道を下る方向にアクセルを踏みました。

 車窓から外を見やりますと、青空を遮るように深い緑の木々が鬱蒼としておりましたが、窓を開けたとたん、大自然の景色からは想像のできない異臭が激しくいたしました。少し先の守谷がトラックを止めていた場所のあたりに巨大なゴミの山があるのがわかりました。それも自然の山ではない。銀色や白、灰色のいかにも人間じみた廃棄物のゴミが、堆(うずたか)く積み上げられ、おりからの朝陽に矛盾した銀光を返しておりました。人間がこの地球を汚すその廃棄場が目の前にありました。ちょっとやそっとの山ではありません。粗大ゴミから工場の金属部品までごちゃ混ぜにして、随分と広大に広がっているのです。

 産廃物が廃墟のように積み重なっているその手前に入り口らしき門があり、おそらく守谷が昨夜軽トラックを停めていたのはまさにその場所でした。すでに守谷のトラックはありません。トラックが停まっていたあたりをよく見るとその入口の門が廃棄物の積み重ねで竜の如く背を伸ばしておりました。あたかも、錆びた銀の龍が病みながら踠き苦しみ天に向かう地獄絵図のようでした。

 異臭は朝陽を受けてさらに酷く、人間さえいなければこの森はどれだけ美しくあったのかと思いつつ、わたくしは車の窓を厳密に閉めました。赤い髪の女性は薬物で嗅覚を悪くしているのか、異臭には頓着なく助手席で寝たままのようでした。

 その時になってようやくわたくしは例のGPSを急いで開き、守谷の車の位置を探しました。

 この付近には既にいないようでした。しまった、と思いましたが、地図画面を指で広範囲にするとすぐに青い点がみつかりました。おそらく、少し前に出たのだと思います。青い点は元きた山道を降り埼玉県内の平野部に向けて東南に向かっているのがわかりました。

 わたくしは追跡を開始すべく車をアクセル全開にしました。

 その頃ようやく、赤い髪の女性の寝息が止まりました。

 女性は目を覚ましたようでした。


二百五 密室 (人物不詳)


 男はその一室の鍵を開けた。誰ひとりたりとも知らせてはいないが、念のため<この部屋も今日で最後にする>のである。今日のこの「荷物」がそこにあり、またこの部屋の特殊なパソコン機材などを整理しなければならない。地味で意味のないゴミは全てこれから東京湾にもっていき、錘をつけて沈める。まあ数十年は浮かんでは来れないだろう。一部の世の中向けの設計以外は見えなくすればいいのだ。

 ネット環境に繋げれば、今の警察は全てを把握する。

 たとえば情報を抜かれた反社会集団のような組織は全て警察の奴隷だ。サーバーを通過した過去の会話や資料を辿れば、全ての人間は丸裸だ。だれでも逮捕できるし組織ごと潰すこともできる。

 だからこそ、この部屋が大事だった。

 この部屋は最新のネット環境には接続がない。過去にIPアドレスもない頃に作られた回線が亡霊のように残っているだけだ。そのせいで特殊な環境が存在することができた。個人情報を使わず、IPアドレスが不確定のまま作業をすることができる。特殊なVPNを海外経由で設置するこの形は、警察では把握ができない。中国大陸でGoogleを使うのと同じように権力に無記名(アノニマス)で把握されない、無免許のラジオ短波無線のようなものだからだ。

 多くの人たちは知らないーー。iPhoneのメモだろうがGoogleのDocumentだろうが、全て警察が監視ができていることを。すべてのインターネット企業は警察に情報を収めていることも、知らない。知ろうともしない。すべての世の中の組織は警察の管理下にあり、何をしても全て丸裸なのだ。

(だからこそ)

 男が使ってきたDocumentは安全だった。

 過去もっとも古いテキストアプリであり、文字を書くことくらいしかできない。最新の機能はないが、誰にも察知されない、メンテナンスもされない、年代物のパソコンだった。ネット情報を繋がず、アップデートも行わずサーバーも経由せず、大昔のワードプロセッサーのような存在ともいえる。男の計画は全てこのDocumentの中で更新されてきた。何度も書き換えて来たが、その内容も時間軸も、警察を含めてほかの誰にも把握はされていない。

 男は文書の後半を見直した。

 計画を大幅に修正した後半、である。

 そこにはこのあと、警察とメディアがどうどう動くのかを中心に整理してある。

 自分には経験があるーー。

 すでに、わかっているーー。

 世の中がこの「事件」にどう対応するのか。

 男の考えた「犯罪劇」をどうとらえるのか。

 つまるところ、世の中はどうなるのか。

 わかりきっている、と男は思っている。

 群衆はわかりやすい悪魔を求めている。

 悪魔退治をしたいだけなのだ。

 実際に自分の手には関係ないのに、悪魔退治に参加した気分にな彫りたいだけなのだ。

 そして悪魔はわかりやすく単純な悪でなければならない。

 見た目も歴史も態度も、大衆が嫌悪するものであるべきだ。

 そういう劇を求める人間はたくさんいる。

 悪魔退治ほど楽しいものはない。

 そんな物語をご用意するのだ。世の中にとってこの上ない、楽しみがやってくる。テレビは全体の視聴率があがるだろう。目の前の退屈で平凡な毎日にない悪魔退治が目の前で起こるのだから。

 ネット上では正論反論含めてさまざまな言葉が踊るだろう。

 正義に飢えた大勢が、自信満々の言葉を並べ、悪魔を罵倒する。

 はっきりと言っておくが、そんな正義の輩がまともとも思えない。

 どっちが本当の気狂いか?などわからないはずだ。

 男には自信があった。

 書き溜めた計画を<今夜実行する>。

 同時に、この年代物で愛おしいパソコンも、海の底へと消える。

 男にとって、長い一日が始まろうとしていた。



二百六 矛盾考 


 石原は改札を抜け、丸の内線本郷三丁目のホームでスマホを久々に見た。

 まだ午前九時の地下鉄は大手町に向かう通勤ラッシュだった。人々は押蔵饅頭の中でも懸命に顎近くにスマホを置いて各々の時間を過ごしている。まるで蜂の巣の幼虫かサナギのように地下鉄の車両に並んで詰まっていた。その中に石原は身を預けるようにして乗り込んだ。

 その時であるーー。

 それは、ふとした間合いだった。

 石原は焦った。空気が強く全身を打ちつけたような感覚に襲われた。

 なぜこれまでそのことに気が付かなかったのかーー。

 自分を責めることはしなかった。が、よく考えれば、わかることではなかったか。

「取り止めのないメールが、くる。」

 それは銭谷警部補の言葉だった。

 しかし、である。

 それではおかしくないか?

 つまりーーー。

 情報の管理が命取りだと、事件のあった五年前の捜査で繰り返したのは金石警部補だ。それが口癖だったような人が、警視庁のメール宛に、「取り止めのないメール」を送ることがあるだろうか?

 情報の貴重さを誰より知っていて、周囲に与えるリスクを最も慎重に考えていた、その当事者である。メッセージを送ることも送られることもリスクがある。ましてや相手は自分が毎晩あの事件の捜査本部で最後まで組んでいた人間、かつ、まだ警視庁にいる銭谷警部補である。メールは全て監視されてる可能性が高い。

 石原は満員の丸の内線の中で唾を飲んだ。

 金石元警部補は、ある情報を持って警察を辞めた可能性が高い、警察や権力には不都合な情報を含んだからこそ不自然に警察を辞めたはずだというのが先日の銭谷警部補の長い説明だった。そして銭谷警部補の言葉を信じるなら、彼はまだその捜査を継続している。所属はわからない。組織かどうかもわからない。しかし銭谷警部補曰く、金石元警部補と言う人間は簡単に諦めたりはしない、物事を途中で済ますことなど絶対にない人間だという。そんな人間が命をかけて掴んだ、警察に不都合な情報を持ったまま行方をくらましたのである。

 果たしてそんな人間が「取り止めのないメール」を送ったりするだろうかーー。



二百七 セメント (軽井澤新太) 


 我々より二キロほど先の守谷を指し示す青い点が埼玉南部の、国道十六号沿いで一度止まりました。

「朝食か、何か休憩でしょうか?」

わたくしは、信号待ちの合間にそう話しかけました。赤い髪の女性は、

「食堂やコンビニではなさそうですね。スマホのGoogleマップでも調べてみますね。」

と答えました。体調は戻っている様子でした。

「ありがとうございます。」

「少し地図を拡大してみますね。」

運転してる間は目を覚ました赤い髪の女性に、守谷の追跡を手伝ってもらっていました。思えば不思議な状況でした。昨日までわたくしを尾行していた人間がいま守谷を追跡する手助けしているのです。女性は、昨夜の癲癇は何もなかったかのように静かに目覚め、一旦は落ち着いていました。

「ホームセンターですね。なんだろう。でも上手くいけばここで追いつけそう、ですね。」

GPSの青い点が停止していた場所は国道沿いにありがちな巨大なホームセンターだとのことです。

「こんな早朝から営業をしているのですね。」

我々はしばらくしてGPS上の青い点滅に追いつきました。国道から地図で想定していたホームセンターの入り口に滑り込みました。視界の遙か先にまだ早朝、車のない駐車場にポツンと昨夜暗闇で見た守谷の軽トラックが停まっていました。

「ん?あれはなんですかね。」

少し近づいていくと、守谷の軽トラックには、昨夜と違い後部の荷台に青いシートが掛かってます。軽トラックの小さな荷台に青いシートで縛られて何かの物体らしき塊が設置されているのです。昨夜からの明確な変化にわたくしは強く違和感を覚えました。

「なんだろう。」

わたくしは軽トラックに向けてマツダのキャロルをさらに近づけました。運転席に人がいないのを確認し、守谷が遠くホームセンターの建物の方まで見当たらないのを目視しながら更にゆっくりと車をすすめました。ゾッとしたのはそのときでした。青いシートで覆われた隙間に、とあるものが見えたのです。

「なんですかね?」

「ドラム缶、ですね。」

わたくしが青いシートで覆われている物を正しく確認できたのと、赤い髪の女性が呟いたのは同時だったと思います。

「ドラム缶?」

今度はわたくしが呟きました。そうして車をもう一度出口の近くに戻してから、重いため息をつきました。

(軽トラックの荷台に、ドラム缶ーー。)

このドラム缶という存在には恐ろしい来歴があるのです。ドラム缶と守谷という象徴的な組み合わせをどこかで覚悟していたものが現実に浮き出て、そのまま脳の中の冷たい恐怖がわたくしを断続的に襲っているのが判りました。

 どれくらい時間がたったか判りません。

 今度はホームセンターの入り口から車へと戻る守谷が歩いてくるのが見えました。腕がないのを目立たせないように何やら服を嵩張るように着せているのが判ります。その残された右腕の方で、何か袋のようなものを乗せた台車を転がしてきます。

「あれは何ですかね?」

「何かの袋に見えます。」

「なんだろう。」

守谷は軽トラックの青いシートをまくると、その台車から持ち上げた袋を次々と片腕で荷台に載せていきました。

「セメントですね。コンクリートかなにかを作る粉ですね。」

赤い髪の女性がそういう前後から、わたくしは言葉を失っていました。それはそのまま唇が冷たく凍りつくかのような恐怖でした。顔面が引き攣るのがわかりました。

「いったい何をしてるのですかね?」

赤い髪の女性の声の横で、わたくしは、その時、十四枚の葉書のことを思っていました。そして、その葉書が、わたくしの脳裏に二つの言葉になって並んだのが判りました。八月六日分が八文字。九日分が六文字。です。


OCCEETRN  ・・・六日消印

AAUKSW    ・・・九日消印


その言葉は、どこかでわたくしは想定していた。でもどこかで全部を否定して自分で見えないようにしていた、そういう記憶とも絡みました。想像したくない現実がひとつの結実としてわたくしの目の前で、堂々と真実なのだと暴れます。


 そこで女性の電話が鳴りました。 

 電話でも鳴らなければ、わたくしはその場で違う行動を起こしていたかもしれませんでした。。。




二百八 別れ  (赤髪女)


 赤髪女が電話を終えても、軽井澤探偵は無言だった。

 ホームセンターで軽トラック車両に再びおいつき、その積荷を見てから明らかに軽井澤の表情が変わった。何か守谷とは別のものを恐怖しはじめたように赤髪女には思えた。何かの真実を見つけてしまったような表情にも思えた。

 守谷は軽トラックの積荷にコンクリートの粉らしきものを載せ終え運転席に戻った。国道へと戻りしばらく走った。追跡しながらも軽井澤氏は無言だった。ただ明らかに積荷ーー風に吹かれ青いシートがはためき、合間からドラム缶が見えるたびに顔面が引き攣るような気配があった。明らかに不自然な変化だったのが赤髪女にも伝わった。

 トラックが突然信号を左に曲がったのは東京に向かう国道17号に入ってからしばらくした交差点だった。てっきりまっすぐ東京へと戻ると思っていたが意外な左折だった。守谷が車を止めたのは埼京線の与野本町という駅だった。

 駅前には何もない車のロータリーがあるだけだった。

「なんだろう。電車に乗り換えるわけもないだろうけど」

軽井澤氏はそう言った。特に電車に乗ろうと言うのでもなく、しばらく守谷が動かないので駅前ロータリーを回りながら遠目にトラックを見ると、守谷は運転席で眠っているようだった。

「なるほど、休憩のようですね。」

「休憩?」

「あの片腕で、参拝の山からドラム缶を拾うのを一人でやってきた。つまり疲れたんだと思います。」

なるほど、たしかに、軽井澤氏のいう通り流石に徹夜の作業の疲れなのかもしれない。次の作業に向けて眠ろうとしているようにも見える。

「つかれて、眠る、か。」

軽井澤氏はそう呟いたまま、こちらも軽自動車のキャロルをロータリーの端に停車させしばらく沈黙しました。


 幾分かの時間の後、軽井澤氏が

「ここでお別れするのがちょうどキリがいいかもしれませんね。」

と突然言った。それは随分唐突で赤髪女は少し焦った。焦ったのを悟られまいとするように

「ここで、ですか。」

と言って運転席に座る軽井澤氏を見つめ返した。

「この駅なら東京までもすぐです。この後守谷がどう言う動きをするか読めません。昨夜のように山奥に向かうかもしれない。そういう意味ではこのGPSを引き続き使わせてもらえるのであれば、もう大丈夫です。もしこれがどうしても必要なら後日、事務所に来ていただければお返しいたします。昨夜のことでわかる通り、わたくしは警察には行きませんので。」

「でも」

「あなたは、わたくしを尾行していたと思います。でもあなたはわたくしを知りもしない他人です。誰かから頼まれたのだと思います。頼まれただけなら、いつまでもわたくしと一緒にいるのは危ないと思います。わたくしと何らかの接点を持ち指示をする人間の思惑の反対に動く可能性もあると思うのが普通でしょう。いちおう車を運転しながらずっと後ろも気にしてきましたがこの車への尾行はなさそうです。もっともGPSで位置は把握されているかもしれませんが。」

「……。」

「このままお別れして、もう二度と尾行はしないでください。そうですね、もし今度尾行をすれば違う対応をしますので、どうか辞めていただきたい。」

「……。」

「昨夜の痙攣も含め、あなたは何かの薬物、つまり覚醒剤などの問題があるのかもしれませんが、そのことはわたくしがとやかく言うことではないと思います。ただ、まだ若いのですから、ぜひ人生を無駄にしないで大切に使ってほしいです。」

「……。」

「これ以上一緒にいるのはやはり、あなたのために良くないですから。」

軽井沢は淡々とそう言った。

「ちなみに。」

「はい。」

「あなたはおいくつですか?」

「に、二十六歳です」

「ああ、そうですか。」

その言葉が赤髪女は、突発的になぜか切ないものを感じた。例えるなら

「自分の娘も生きていたらそれくらいの年齢だったんです。」

という言葉を軽井澤が言ったように聞こえた。いや確実にそんな言葉は聞いてはいないのだが、なぜか軽井澤が目でそう伝えたように感じたのだ。だから、大事に生きて欲しい、というような意味合いで。

「ではここで、お別れしましょう。」

「はい。」

いろいろすいませんでした、という言葉が今度は赤髪女の心の中で集まって声になろうとしていた。けれどもその言葉も出ずに終わった。

 それらの無言は、何秒間くらいだっただろう。会話にはならず言葉も適切に出てはいかないけども、赤髪女には何か暖かい風が脊髄に吹くような不思議な感覚があった。それでいて昔の社長さんのように去りゆくものの優しさや悲しみを含んでいた。この世界から去っていく時間がきた誰かの気持ちを何故か思った。赤髪女を見て別れを告げている軽井沢の表情は、幻でも見てるかのように微笑んでいた。

 


二百九 重体 同僚からの電話


 地下鉄車両での太刀川との口論の間ずっとわたしは目の淵で金石を探していた。太刀川が降りた後もその車両に金石がいるかもしれないと思って探した。しかしわたしより身長の高い人間でさえいなかった。

 どこをどう歩いたのか思い出せない。気がつくと日比谷公園と皇居の間の道を歩いていた。夏を名残る、紅葉前の充実した街路の緑が、奇跡のような風にゆっくり旗めいている。

 警視庁のビルが見えてきたのと、わたしの私用の携帯電話が鳴ったのは同時だった。朝から何の説明もなく尾行を混乱させた石原だと思って、詫びる気持ちで出ると、違った。わたしは、私用の携帯電話の番号を教えたもう一人を忘れていた。

「銭谷か。たいへんなことになった。」

いつも朗らかな是永の声が、冷静ではなかった。

「いいか。落ち着いて聞けよ。槇村又兵衛刑事に事件があった様子だ。」

繰り返しだが、是永は警察学校の同級で、別々の配属だったが、又兵衛刑事のいるA署にいる関係で、いくつかの調査を頼んでいる。

「事件?」

わたしは、はっとした。昨日のK組との記憶を辿る。危険を感じていたことだが、まさか、と思った。

「情報は、表に出さないことになってる。」

「表に出さない?」

「警察として発表しないってことだ。」

「どういうことだ。」

「又兵衛刑事は、顔面を切られ、舌を切られ、手足、特に指をやられているらしい。」

「……。」

「意識がない。いわゆる重体だ。」

「まさか、酔っ払って、転んで自業自得だっていう話ではないだろうな」

「勘がいいな。」

「……。」

「おおよそ、そういうことだ。でなきゃ、メディア集めて犯人を探す記者会見をするはずだ。警察官が何者かにやられてるならば。」

「なぜそうしない?」

「発見した警官がいち早く本人の警察手帳を確認し、すぐに署内で検討をしたようだ。それは交番経由で聞いた。」

「……。」

「強めの緘口令が敷かれている。要するに一見、何者かに襲撃された様子があるのだが、無理やり自殺未遂のように整理したんだ。」

「自殺未遂?どうして顔面を切られ舌や手足を自殺でやるんだ?A署はそれでいいのか?」

「わからんーー。ただあの人は特殊だ。絶妙なタイミングでもある。」

「絶妙?」

「例の処分だよ。懲戒解雇の。」

「……。」

「そのことついては前回話した通りだ。警察組織には上意下達がある。とにかく、そのせいであの人はすでに、現役の刑事でもなくなっている。」

「すごい屁理屈だな。」

「そうだな。」

「そもそも、警察に命を捧げてきた人間だろうが。」

「……。」

是永に突き付ける台詞ではないのはわかっていた。でもわたしはそういう言葉を言わずにはいられなかった。

「是永は、舌を切られてるのを何故知ったんだ」

「噂は回るんだよ。少しの良心を心の奥に持ちながら、本当の意見を言えない人間が溢れているってことだ。みんなちゃんと見て知って、そして見てない振りをしてるんだ。」

「で、今どこにいる。」

「病院の名前だけは完全に伏せられている。又兵衛さん、独り身だからな。」

まるで、独り身だから、こういうやり方もありだった、という響きだった。わたしは自分の思ったことを言葉にしなかった。

「あの人、反社周りを捜査していただろう。まさか虎の尾を踏んだのかもしれん。舌を切り付けるって、常識ではない。通りすがりの通り魔ができる芸当を超えている。つまり、脅しとも取れる。」

「脅し。」

「口は災いの元、だということだろう。問題は誰が誰を脅しているのか、ということだけどもな。」

わたしはK組の周りの自分の知っていることを言わなかった。金石が言っていたように、情報は相手に責任を渡してしまうからだ。是永にそこまでさせたくない。

 又兵衛刑事との最後の会話を思い出しながら、いくつかの後悔の気持ちが自分を襲った。それは間違いなく、金石との連絡を取れなくなったあの日と同じ焦燥だった。

「まずは、病院を調べてくれないか。できればでいい。是永にも迷惑をかけられない。」

「重体は確からしいぞ。意識を出させては困ると言うことなのかもしれんが。本来は、殺したはずが、奇跡的に生きてしまったのかもしれない。」

「そうかもな。」

又兵衛刑事は、昨日わたしとK組の作業を進めた。なぜ、あそこまでヤクザに対して、結論を迫るような確信的な態度で望んだのかはわからない。もしかしたら懲戒解雇で焦ったのもあったのかもしれない。今となっては昨日別れずに全てを会話しておけばよかった。いつかは話す、と言いながら大切な情報は保存されることが少ない。悪魔が口封じをするとすれば、尚更だ。

 わたしは金石の時と同じ、全体が真っ白になっていく感覚を再び味わった。

 二度と味わいたくはない記憶だったはずなのに、なんでこんなことをーー。



二百十 発見 (石原)


「すまん。大事な電話中だった。」

銭谷警部補は珍しく電話を取らずにいたが、三度目の着信になってようやく、電話に出た。めずらしく幾度も電話をかけていた。

「すいません。」

石原さとみはしつこさを詫びた。

「いや。丁度、わたしからも連絡をしようとしていたところだった。」

「すいません。先に私からでもよろしいでしょうか。」

「ああ。申し訳ない。何度も着信をもらっていた。先に話してくれ。どうした?」

「すいません。先日、金石元警部補から、いや元警部補と思われる人物からのメールの話をしていただいたと思います。本郷からお茶の水を歩きながらだったと思います。」

「ああ。もちろん覚えている。」

「いくつか、文面も見せていただいたと思います。その、本を読め、とかで始まっているのものを少し写真で撮らせて頂きました。今勿論、この手元にあるのですが。」

「ああ。」

「メールは、厳密にはいつころから来るようになったのでしょうか。」

「いつころ?」

「はい。」

「すまん。少し質問の趣旨を知りたい。」

石原さとみは銭谷の切り返しに言葉を凝縮させた。

「失礼いたしました、仮に、金石警部補が送ってるならば、いや、銭谷警部補が金石氏のメールだとそう確信があるなら、ひとつ仮説が成立しうると思ったのです。」

「どういうことだろう?」

「銭谷警部補が、取り止めもなくメールが来るとおっしゃった点についてです。そもそも、金石元警部補は、捜査の重要段階で突然音信不通になった。現在に至るまで連絡方法はないし、もちろん具体的な接触も何もない。これは事実ですよね?」

「……。」

「いかがでしょうか。」

「…その通りだ。」

「警察を嫌になって辞めて、金石警部補が引き篭もっているだけ、ということが考えられますか?引きこもって、あのようなメールを送付しているだけということです。」

「うむ。」

銭谷警部補は言葉を詰まらせた様子があった。

「……。文面だけを見て、どこかでそんな風に思い込んでいたが、実際にそんなことは考えにくいかもな。」

「そう思ったんです。私も銭谷警部補からお聞きしただけですが、金石さんは警察の中での肩書きやポストを気にするよりずっと、捜査の中での真実の追求に積極的だった印象があります。」

「それは、その通りだと思う。」

「だとしたら、刑事を辞めたくらいで作業を停止するでしょうか?むしろ違う形で追いかけ続けているのではないか。銭谷警部補。生意気ですいません。僭越ながら私にはそう思えてなりません。」

「……。」

「仮にそう言う状況で、警察の後ろ盾を捨てて潜入捜査を続けるのは相当なリスクです。例えば誰かと本名で会ったりしてもそれでさえ金石さんが生きているという新情報になる。重要な情報を持って消えたならば、生きている情報というだけでリスクですよね?」

「……。そうだ。」

「伝えたいことがあっても、連絡手段がない、という状況かもしれない。」

「仮説を最後まで聞こう。」

「はい。ありがとうございます。つまりです。金石さんが、もし通常ではない危険な環境下にあるとすれば、連絡は非常に重要で危険な行為になります。なぜなら連絡をしたということが存在証明そのものだからです。」

「……。」

「むしろメールは最もありえない。言わずもがな、メールは双方に多大なリスクがあります。当然銭谷警部補への警視庁のメールは監視されている。それなのにメールを送ってくる。その状況で暇な遊びや、過去の同僚への戯言を送るでしょうか?つまり、これらのメールが、ぼんやりとした感情で送られてるとは、思えないんです。」

「……。」

「先日お見せいただいたなかで、少し気になることがあったんです。銭谷警部補。お手数をおかけして申し訳ございません。もう一度、受診のメールを、日付を順番でならべて、時系列で、読み上げてもらえませんか?日付順です。内容はメモしてあるのですが、順番を伺いたいのです。」

「わかった。この間見せたもの、つまり今月に入ってからのものでいいか。この迷惑メールに振り分けられたものは、半年単位で消えてしまうのだ。誠に恥ずかしい話だが、保存をしていない。」

銭谷警部補は面倒だという空気を微塵もさせずに、むしろ情報を保存しなかったことを詫びた。石原の指示のままに本庁の携帯のメールボックスを探し直している。メールが見つかると、一つ一つを時系列に読んだ。

「これだ。まず一つ目だろう。いいか」

「はい。」

「本を読め。本には答えが書いてある。というのが7月15日 4時15分。朝のだ。」

「ありがとうございます。」

「次がええと。」

銭谷警部補はどこかで歩きながらなのか、車の通る音や、通行人がすれ違う時の声が漏れた。

「今はどちらですか。」

「日比谷から新橋方面だ。考え事と電話で今日はこの辺りを歩いている。次のメールは」

「はい。ありがとうございます。」

「郷に入っては郷に従え、というのが九月十日 二時二十五分。」

石原は、それを聞いて、自分の予想があたったかもしれないと思った。

「その次もお願いします。もしかすると、次のメールは、」

「同日三時三十九分。文学的に言えば、うんぬん。」

「わかりました。その次が、『今度からは、』で始まるメールですね?先日見せていただいたのはこの四つでした。」

「そうだな。」

「銭谷警部補、一旦電話を切ってよろしいでしょうか。今から丸の内線に乗りますので、電話ができるところですぐに折り返します」

石原は霞ヶ関で本庁に戻るつもりがそのまま地下鉄の入り口に戻ることにした。心臓が高く鳴っている。

「仮説が成り立つような気がしています。メールは画面を撮影させていただいたものもあるので、もう一度、よく読んでみます。」

「進みそうか。」

「わかりません。でも、少し待ってください。すぐに、かけ直せると思います。」

興奮しながら電話を切った。

 電話を切った後に石原は、銭谷警部補が最初に話し出そうとした会話を自分が遮ったままだったことを思い出した。



二百十 秘書室 (レイナ)


 二重橋の江戸島会長秘書室の電話が鳴った。

「佐島恭平と申します」

​​江戸島会長担当の秘書は嫌な顔をした。また会社名を名乗らぬ人間である。秘書室でもベテランの女性秘書は、先日の探偵を繋いだことを後悔しているのである。よくわからぬ訪問客を素直に繋いだことで、重要な面会の時間を圧迫してしまった。ただでさえ、会長は日中忙しいのである。

「失礼ですが、既に江戸島の方でご挨拶させていただいておりますでしょうか?」

女性秘書は「言葉」を設計した。こういう基本的な言葉を駆使して壁を作るのである。上場企業の会長ともあれば、面会の拒絶も丁寧に、賛同を得ねばならない。

 案の定電話の向こう側で、言葉が詰まる様子があった。また、あれこれと捻じ込みの設計が言われるのも困るので、秘書はそのまま電話を切りにかかる。録音されどこかに持って行かれないように言葉を慎重に使い回しながら。

 ところが、電話口の佐島という人物は想定もしないことを言ったーー。

 ベテランの女性秘書はその内容に心当たりがあった。古くから江戸島会長はこの秘書を変えずに使っている。そのため秘書は江戸島の私的な環境について熟知していた。

 この点は先日の探偵の二人とは違っている。探偵は明らかに、脅迫的に釣った言葉があった。殺人事件の週刊誌沙汰に巻き込まれる可能性を、自分達と話すことで払拭したいと言う説明である。女性秘書はその通り江戸島会長に繋がざるを得なかった。会長はそれでも無視して良かったはずなのだが、即応で早々に時間を作ったのである

 今電話口で佐島と名乗る人間はその「やり口」ではなかった。全く別の言葉を言った。

「なるほど、つまり佐島様は、失礼ですが、江戸島とは古いお付き合いになると言うことですね?」

「はい。まあ、直接とは言いづらいですが、そうなります。佐島という名前で、つながるかわかりません。ただ、これまで、面会をお願いしてはきませんでした。もしできれば、急ぎ、お会いすることは可能でしょうか。」

「佐島さまが、当会長室に来られるということでしょうか?」

「いえ。お仕事とは関係のない小生が会長のお部屋には申し訳ございません。できれば、別の場所がいいのです。そのほうが江戸島会長もよろしいかと存じ上げます。」

「場所はどちらで。」

「はい。今から申し上げます。そちらは江戸島会長もご存じの場所ですので、今から申し上げる住所をお伝えいただければ、意味は伝わるはずです。よろしいでしょうか。港区南青山の、」

秘書はメモを用意した。佐島が伝え始めたのは、秘書もすぐ認識できる、細かい説明はいらない場所だった。



二百十一 私用電話 (銭谷慎太郎)    メモ 全体として弱い(完成優先)


「リスクのある中、最も記録の残りやすいメールをぼんやり送付するはずはないと思います。」

石原は電話口で、このわたしにそう言った。その通りだ。言われてみればなんの反論もない。むしろ自分は金石のことでは感傷的になりすぎ、客観行為が出来ないのだろう。石原の言う通り、あの金石がリスクを気にせずにぼんやりと幾度も感傷語句を送るはずはないのだ。何かあるはずだ、と思ってメールに向き合ってくるべきだった。

 金石を捜査の相方として失ったことに執着しすぎていた。散々早乙女を馬鹿にしながら、独断に執着したのは自分であった。わたしは握り拳で、頬と顎を幾度か殴って、改めてメールを見つめ直した。迷惑メールは今回だけではない。もう五年も前からきているのである。保存さえして来なかった自分が恨めしかった。手書きで残すこともできたのである。殴った自分の顎が想定より痛んだ。頭が少し脳震盪を起こしているそのときに電話が鳴った。

 わたしは私用の方の電話を耳に充てた。

「石原か?」

「すまん、違う。その名前は私ではない。」

その声は女性警官ではなく、同期の警察官だった。

「是永か。すまん。別の電話を先ほど切られたところで、勘違いをした。」

「忙しそうだな。」

「申し訳ない。今、A署からか?」

わたしは心からの感謝を言葉に込めたが、声は普段の声とさほど変わり映えしなかった。

「A署の外だよ。まさか中からは電話ができない。」

「すまんな。」

「気にするな。俺も気になってるんだ。で、病院はわからんのだが、襲撃現場は目星がついた。」

「どうやって?」

「上層部は、交番勤務の若手に緘口令を敷いたのだが、そこから漏れ聞きさせた。交番ってのはご存じ交代制だからな。」

「なるほど。」

「もうアスファルトの血痕は、洗い流してるらしいが、又兵衛は柴又の帝釈天近くの河川敷を降りる階段で見つかった。早朝だ。夜の河川敷でやられ、朝方まで放置されていたのだと思う。」

是永は又兵衛の今朝の状況をいの一番に伝えてくれた。そうして続報までを得てこうやって同期を心配して連絡をくれている。

「河川敷でやられた?何故そんなところに?」

「わからん。誰かと会おうとしたのかもしれん。」

「殺し切らずに、生かしたつもりか。」

「どうだろうか。重体は確からしい。この後死ぬかもしれない。」

「暴力団の仕事か?」

わたしは、思わず犯行は反社会の人間だという言い方をした。

「まさか。銭谷は何か知ってるのか?ヤクザなのか。」

「又兵衛刑事は、K組といろいろあったはずだ。」

「例の捜査の件か。最近はあの人は、横領の話でしか話題がなかったが。まあ冷静に考えればそういう線もあるのか。」

「……。」

「拳銃の摘発の伝説を思い出したよ。昔マル暴だった頃だ。だいぶ内部に入り込んでいたはずだ。担当も離れて随分経つというのにな。なんで今さら。」

わたしは是永に、又兵衛が独自に追っていたK組の作業のことを言わなかった。今回の私刑の周りの一過性のものではなく、彼の刑事人生に近いものがそこに賭かっていたことも、その事務所を直接脅すために昨日一日かけてこのわたしと歩いたことも、言葉にしなかった。わたしは、あの覚悟をしたような又兵衛刑事の横顔を思い出していた。今思えば、それは後悔のない仕事を尽くした人間の姿だったのだーー。

「川に、つまり河川敷でやられたのか。」

「そうだろうな。帝釈天の裏から上がったとこだ。」

「それで、なぜ自殺になるのか。いや、自殺という設計を所轄は選ぶ?」

「わからん。交番の人間は、病院に届けたと同時に、身分照会で意識のない又兵衛さんを触ったところ、警察手帳を見つけて驚いたらしい。若手で、彼のことを知りもしなかった、と言うのは残念だが。」

ふと是永の言い方には、刑事人生の後半の寂しさのようなものを叙景する響きがあった。

「それで、何も知らない若手が署の上に上げて、いろいろな指示がきた。」

「わからんが、そこは何かがあるのならば、上層部は慎重な手順をとるだろうな」

「ヤクザと警察の上層部が直接ではないまでも、利害一致をしていたりしたら、大変なことだからな。」

「銭谷。警察の上層部が反社会の人間と絡むのか?」

わたしはその声を聞こえないふりをしたまま、

「帝釈天、であれば、病院は限られそうだ。片っ端から当たってみた方が早いかもな」

と言った。今から動けばまだ間に合うかもしれない。ところが、

「銭谷、ちょっと待て。」

「どうした。」

「やめておいた方がいいぞ。」

と、是永は突如強く言葉を吐いた。

「なぜだ。このままじゃ、重体と言って殺されるのを待つようなものだろう」

「そうだ。だが本当に殺したいなら既に殺されてるはずともいえる。もっと他のやり方があるはずだ。」

「しかし。」

わたしは反論を試みた。是永のいうことも一理あるが、わたしは当事者として責任を感じていた。その沈黙に、是永は息巻いた。

「銭谷。いいか、いま、お前はどこにいるんだ?」

「日比谷だ。」

「場所じゃない。警察の中での地位だよ。お前がいるのは警視庁の六階だろう?」

「……。」

「刑事の生活には、精神的に難しい場面とかどうみても不自然なことなど腐るほどあるんだ。その六階だって多かれ少なかれそういうがあるはずだ。こんなところで関わっていれば、上層部にマイナスをつけられるぞ。」

「しかし。」

「いいか。エースで捜査一課っていう仕事場は大切にした方がいい。場所を失えば、刑事人生でやれることは限られる。」

「……。」

「俺を見ればわかるだろう。刑事の仕事をしたくてもできない部署など<ごまん>とあるんだ。銭谷。これ以上言わせるな。」


 嫌な汗というのは、このことを言うのだろう。

 是永の電話を終えた後、わたしは呆然と皇居の周辺を歩いていた。  

 老刑事の槇村又兵衛が突然死に瀕している。

 その事実に打たれたまま、わたしは警視庁のビルに入る気にもなれず、かと言ってどこにいくこともできず、立ち止まることもできないまま、呆然と歩いていた。

 火をつけることもできないタバコを改めて空虚に口に当てた時、浅草で酒を酌み交わした時の又兵衛の言葉をなぜか思い出した。


…罪は川を上流から下流へと、水と共に。そうしてやがて海へと降るのです。ゴミは海へと。大勢の人間と塵を集めてやがて流れていく。いくら浄水場を使っても汚水やゴミ、見たくないものは人から毛嫌いされながら目に付かない場所へ遠ざけられていく…。


何度も語ってきた言葉なのだと感じた。語らずとも脳の中で繰り返された時間を感じた。又兵衛が河川敷でやられた、という是永の言葉がその場面に重なるように追ってきた

 帝釈天と金町は歩いて十数分の距離である。わたしは自宅近い金町周辺の病院について、いくつか想像ができた。そのどれかに又兵衛はいるはずだ。A署が重要参考人などと言い訳をつけて、面会を謝絶させてるくらいなら警視庁だと言えば突破もできる。もちろん後先のことを考えれば謹慎中の身でそれをするのは非常に良くないのだがーー。

 是永はそう言うわたしの態度に対し、強い言葉を使った。

 長い付き合いの中で、初めてと言っていい。

「銭谷、上層部からマイナスをつけられるぞ。いいか。エースで捜査一課っていう場所は大切にした方がいい。失えば、やれることは限られるだろう?」

是永の言葉は真っ直ぐに自分に刺さった。その配慮ある言葉に対し、まさかとっくにわたしの警視庁六階での立場自体がすでに失われようとしている、とまでは言えなかったがーー。

 昨夜。

 槇村又兵衛刑事の仕事にはある達成へ向けた流れが確かにあった。わたしには詳細の説明は無かったが、明らかに又兵衛は何かを進捗させていた。その進捗のために彼自身は警察官としての立場を差し出していた。自分という体を剥き出しにして暴力団の指のない男たちに裸で晒していた。ある意味命懸けだという意味合いでも、それは彼の長い捜査の最終章にふさわしいものだったはずだ。どういう設計があるのかは知らないが大胆にも暴力団の複数の事務所に、危険を承知で、脅迫行為に出たのである。放っておけばA署だけのことでは済まないぞ、と。何か動かないとまずいぞと。そしてA署か、K組が動くことを唆し、彼らの失策を引き出そうとしていた。

 その又兵衛が、今、意識不明で瀕死だという。

 自殺のわけがない、と思うのは、金石が逃げたわけがないと感じたのと同じだ。五年前と一緒だった。又兵衛も金石も、非常に重要な独自の捜査をしながら、ある一定の成果が見えてきたところで、作業が止められたのだ。金石は音信不通だ。又兵衛は重体だという。

 金石は、いつも言っていた。全てを一斉に暴かない限り、潰されると。だから情報は完全でなければならない。その開示方法も警視庁の幹部に逐一報告していれば、逆に権力の側に把握され潰されてしまう。無論警視総監が誰にも、支配されておらず首都権力の正義だけを行っていれば問題はないが、これだけの人間がいる中で、全員が正義でいられることなどありえない、と。

 又兵衛も、金石と同じような警察の暗部を捜査していた。

 その暗部ーー恐らく警察署と反社会性力の直接の接点ーーで決定的な何かを掴んだ。

 それを小出しにはできない。やるならば全体がひっくり返るように全て証拠をまとめてできるなら、それをもみ消しに入った警察や暴力団の焦った失策も混ぜ込んで開示しようとした。もみ消しのされることのない信用のできるメディアを使ってーー。

 恐らくその計画が何らかの形でA署の中で漏れたのだろう。

 でなければ、上層部が彼を懲戒解雇をする理由がない。

「もうすぐだ。もうすぐ全部が繋がるんだ。」

金石はバーでいつも同じことを言った。そしてその内容を誰かに話すのは今は銭谷に対しても危険だとも繰り返した。明確な証拠を掴むまで自分の独自捜査を開示せずにいることが、わたしの目の前を通り過ぎた二人とも共通していた。

 又兵衛は襲撃された。

 わたしは、胸が圧迫された。

 タバコをつかんだ自分の手のひらを寒々と見つめた。その手を握りしめてそのまままた、自分の顎を殴った。目の周りに星が出て、脳がふらふらと揺れた。

 なんとブザマな話だろうか。同じじゃないか。全く同じ話を、繰り返しているじゃないか。せっかく自分の周りの人間が最高の仕事を仕上げようという場面にいながら、なんてざまだ。

 金石はリスクをとって、メッセージを送っていた。そのメールさえ、わたしは下手な詩でもバカにするように、ただのセンチメンタリズムで片付けてきた。迷惑なメールだときめつけ半分目を逸らしながら。 

 最悪極まる気分だった。

 このわたしにもう少し何かの能力があれば、違う結果が訪れていたはずなのだーー。

 わたしはいても立ってもいられず、一番近い地下鉄への降り口を探していた。日比谷公園と皇居の間の東京メトロのマークの階段を降りるとそこにはこの辺りにありがちな広大な地下の空間だった。少し歩けば何らかの地下鉄に乗り込むことができる。その中に緑色のロゴを掲げた千代田線のシンボルが見つかるのには時間はかからなかった。わたしは金町方面行きを確かめて、千代田線の車両に飛び乗った。



二百十二 追跡 (御園生)


 翌日僕は墨田区のタクシー会社にいた。

 タクシー会社に電話を入れ、昨日夕方から夜にかけて、青山墓地から東京湾を回った客だという話をして、運転手を調べてもらい会いに行ったのだ。会ってみて、本人と違うので運転手は驚いた。

「なんか、あったんですか?」

「いえ、警察ではないですよ。こちらつまらないものですが」

僕がお金の入った封筒を提示すると、浜島と名乗った運転手は表情を変えた。

「いや、そんな、そういうつもりではないですけどね。」

朝から僕はX重工に行った。江戸島は面会謝絶で何度頼んでも駄目で、しつこくすれば警察を呼ぶような話になりかねず、次の策としてこのタクシー会社にきた。

「何かわからんのだけど。」

浜島という運転手はサングラスをかけた東北弁で、

「あの方って、つまり、その年配の役員風情の方だべ。ナンデモ知り合いが、道路さ汚しちまったのを、掃除しなくちゃいけないと。それで、わざわざ知り合いの工場があるからと、羽田を回ったんで。へえ、何だか偉い方のようには感じましたが、そんなケーダンレンの方とは露しらず。」

「あの工場ではなにをしてたんですか?」

「工場?ああ、品川のですかね。」

「はい。そうです。」

僕が明確にそう言ったので、浜島運転手は捜査か何かだと感じ始めていた。東北弁が標準語に変化した。

「何かトランクに積んだと思います。手伝おうかと言ったら手が汚れて悪いから、運転席にいていいと言われました。私はてっきり、糞尿みたいなものを洗ったりするのかと思いました。はい。そのかたは、ちょっと汚いからごめんと繰り返していました。」

「なるほど。」

僕はそこで追加の封筒を差し出した。

「浜島さん。運転手さんにひとつお願いがありまして、今日このあとお付き合い頂けないですかね?」

僕はそこで昨日の道のりをもう一度、走ってもらうお願いをした。景気の悪いであろう運転手は目を輝かせた。

「私もできることはいたしますよ。ちょっと会社に話してきますね。捜査関係って言っていいですよね。」

「任せます。」

浜島ドライバーは昨日江戸島の乗っていたタクシーに僕を乗せ、墨田区から首都高に乗り大田区の方面へ向かった。

「湾岸高速で良いですかね?それとも、青山墓地からなぞりますか?」 

「いや、工場からにしましょう。」

僕は、尾行していたとまでは言わず、浜島ドライバーの運転で、江戸島がタクシーを降りた最初の工場へと向かった。

 工場の担当者は年配の男で、

「X重工の関連の方からの依頼だったのですが、特に何かを喋るなとも言われませんでしたがね。」

と、むしろ開けっぴろげだった。江戸島は、自分の会長という立場を言わなかったのだろうか。この程度の町工場にそんなことを言えば、社長の対応になるだろうし、何かを喋るのも気を使うだろう。

「いや、除光薬が欲しいって言うので、用意しておいて欲しいと昼に電話があったんです。X重工で、以前お世話になったものだと。勤務中に伺うから、名前はすいません、とのことでした。どんな方が来るかって思ってたんですが、多分ご本人だと思います。まあまあお歳の方だったので少し驚きましてね。除光薬品は、あんな感じの缶缶ですよ。」

「これは何か塗料みたいに塗るものですか?」

「塗料じゃないです。まあ、消しゴムというか、その薄め液ですよ。」

「薄め液。」

「よく、落書きとか、あるでしょ。スプレーとかで壁に。ああいうのを消す薬品です。ああ、それと、手ぶらだから、そのブラシも使いかけでいいので買い取らせてくれというんで、あげましたよ。」

「ああ。」

「それが、結構なお金を渡されたので逆に驚いちゃって。」

「そうなんですね。」

工場の担当の中年男は、そこで嫌な笑い方をした。

「まあ、話としてはそれくらいです」

昨日江戸島に渡された大金のせいか、工場の男は特にこちらに礼金を求めもしなかった。サングラスの浜島運転手は僕が戻ると、スマホでゲームをしているようだった。

「何か、わかりましたか?」

「いえ、特に。ただ、タクシーに乗り直した時、ブラシのようなものを持ってましたか?」

「今思い出しました。何だかフクロのようなもの持っててね。そこにブラシが入っていましたよ。ちょっと汚しちゃったんでね、と聞いてもないのにおっしゃったんです。」

「なるほど、ですね。」

僕は工場の担当者とタクシーの運転手の言葉が一致したのを確かめると、タクシーに乗り直し、昨日江戸島と辿った道をそのまま再走してもらった。沿岸の工場の並ぶ羽田界隈を抜け、一旦内陸に戻っていく。そして切り返すようにして名前もよくわからないトンネルに入った。昨日は夜で気が付かなかったが、東京港臨海道路と書いてある。トンネルの坂道を下って海の底のさらに下へと入っていくトンネルは、さほど長くもなく、すぐ地上に上がった。今度は埋立て途中の更地に道が一本まっすぐ、例のゴールデンゲートブリッジ(金門橋)へと続いていて、橋へと登っていくにつれて道路からの視界が開けた。左にお台場越しの都心のビル群、右に東京湾ごしの太平洋が広大に広がった。

 ふと昨夜は気が付かなかったが、東京湾の沖合側に向けて巨大な生簀(いけす)のような区画がずいぶんな範囲に広がっている。一眼見てもお台場や有明などのどころではない面積に生簀が広がっている。

「あれは何ですかね」

「ああ、あれね。」

運転手は少しうんちく風に、

「たまにこの道を羽田へのお客さんで通るから聞かれるんだが、あれは処分場ですよ」

「処分?」

僕は耳慣れない言葉を聞き返した。

「地図なんかじゃあ海面処分と書くんだけどね。意味がわからんまま、そう呼んでるんだが、ようするに東京で出るゴミを処分して、あそこに埋めてるんです。」

「ゴミを?」

「そうです。まあ、何年か後に、立派なお台場みたいなビルが立つんですよ。」

恐ろしく広大な敷地が海に、外枠だけ防波堤のように伸びて、台形の生簀に区切られている。その中の「海面」は、海水と違い少し緑を帯びていて、何か濁っている。確かに外枠近くのあたりから少しずつ土が見えて、埋め始めているのが判った。

「どこかの山を削って土を持ってくるのではなく、人間の出したゴミで埋め立てるのですね。」

「まあね。人間が出すゴミが多すぎるんでしょう。山奥でも産業廃棄物とか問題だっていうけど、海も同じで。東京都が随分勝手なことをやってるんで、都会のゴミは、海とか山の遠いところに、とりあえず処分する。とりあえず、行き当たりばったりでね。遠い未来のことなんかお構いなしなんで。」

浜島運転手は東北弁のイントネーションを所々に戻しながら、叙情的な言い方をした。それはさほど僕には嫌味には伝わらず、若干詩的な気分のまま車は橋を渡り終えた。

「その角ですね。あの信号から入って左の海側の道です。そういえば、明確にどの道を曲がるかもご指示されてましたよ。」

「江戸島が行き先を細かく指示してたんですね。」

「もちろんそうですよ。私はこんな埋立地に詳しくないです。タクシーはみんな幹線道路を通っても空港の送り迎えですから埋立地で右折や左折はしません。曲がった先の埋立地そのものの土地には詳しくない。この信号の先を若洲っていうんですが、殆ど住んでる人がいない。飲み屋もないから日が暮れたら無人ですよ。」

金門橋を渡り、降り立つのが若洲という島だった。真っ平で、工場のような建物以外なにも見えない埋立地だった。

 タクシーが進むと。駐車場と言うには広すぎる広大なアスファルトの平面に、ミキサー車や数トントラックが一定の整列をしている。人間が機械に何かを預けた後の時代のような、冷たい虚しさがあった。

「この辺りだったと思います。この辺りで、その江戸島さんは、タクシーを止めさせてね。その薬品かなにかとブラシを持って降りたんです。で、すぐ終わるから向こうで待ってておくれと。ただ、この後代々木まで帰るから、待っててほしいともおっしゃってね。まあ、代々木まで新木場からはまあまあ有難いので、当然お待ちした次第です。」

「では、彼が何をしてたかは、見ていない?」

「それが、その時はなぜか、ゲームの気にならなかったんで。遠目にですが見ています」

「ほう」

「なんだか、多分、一生懸命、アスファルトを擦っていました」

「アスファルトを?」

「多分ですよ。遠くだったからアレですがね。わざわざ距離を置いて降りたので、多分見せたくないんだろうと思って近づいたりもしませんでしたから。」

「夜にでしたよね?」

「はい。この辺りは、夜は真っ暗なんです。だからちょっと変な気はしましたよ。まあご立派な老紳士さんですからね。真っ暗闇で一体何をしてるんだろうって。人もいない。あの先の道路だったと思います。」

僕は、一昨日、会長室での江戸島の表情を思い出していた。僕の目には判らなかったが、軽井澤さんは表情が変わったことを指摘していた。そういう変化は、この場所での奇妙な行動と何かつながる気もした。

 浜島運転手のいうアスファルトのあたりを僕は歩いた。

 夏の終わりの日差しが夕焼けに差し掛かっていた。西の空は美しく都心のビル群に切り取られ、その手前に東京湾が狭かった。僕がいたのは若洲という島の海沿いの西端だった。

 東京の都心部とはずいぶん目と鼻の先なのだが、寂しい場所だった。この場所が陸の終わりだと判る行き止まりがあった。電信柱と電線がそこで終わりだった。信号もない行き止まりに横断歩道が地面に白く書かれていた。駐車場なのか、空き地なのかわからない場所をフェンスが延々と囲んでいた。フェンスには雑草が溢れていていかにも放置された土地だった。

 そのとき、ふと、その道の行き止まりに、小さな、観音像が置かれていた。聖母なのか何か宗派かはわからないが、石でできた観音像が雑草の中でひとつ顔を出していて、じっと海の沖合の方角を見つめていた。その観音像の見つめる先のアスファルトあたりがまさに、浜島運転手が指摘した江戸島が何かをしていた場所だった。

「ああ、これですよ多分」

「……。」

「その一通り終えてからだったと思うんですが、そのこの辺で、何か合掌してたような気がしたんだな。」

「手を合わせてたのですか?江戸島会長がですか?」

「まあ、なんか、あくまでそんな気がしただけだけど。観音様があったのなら、そうだったのかもしれないな。でも夜で見えたんですかね。真っ暗だったけども。」

僕はその観音像を見つめた。

 小さな、子供向けとまではいかないが、観音像はこの工業地帯の埋立地の先に寂しげに佇んでいた。普通に歩いても存在に気がつかないくらい草むらの中に佇んでいた。観音像の見つめる先は西向きでちょうど、アスファルトが行き止まる場所だった。

 明らかにこの場所に不自然だった。僕は学生時代に読んだ詩の一節、


 石は消えない

 人間より遥か遠い未来に向け

 旅を続ける


をなぜか思い出した。山々に神が眠るこの列島で、埋立地の神はどういう歴史があるのか、ふと考えさせられた。


「あ。ほら」

と、運転手が僕を呼んだ

「ほら、やっぱりここに落書きがあったんだ。これを消していたんだと思います」

「落書きを?」

アスファルトを見つめた。文字はほとんど消えていて、何が書かれているかはわからなかった。ただし、何かが書かれていたことはわかった。

「どういうことだろう。わざわざこの場所の文字を消しにきたのですか?彼が。」

「何か見られたくない文言が書いてあったのですかね。」これを消したくて、タクシーで回ったんだな」

 文字は確かに書かれていたようだった。

 二、三行の詩のような文字列に思えた。

 そして、その文字が何かわからなくなるまで、江戸島会長はそれを消そうとした。でも時間をかけるわけにもいかず、急いでタクシーで戻ったのだと思った。いくつか残る、文字の後がその忙しなさを感じさせた。



二百十三 再千代田線 (銭谷慎太郎)


 又兵衛と二人でA署の所轄へと向かった昨日と同じ千代田線だった。

 隣にいた老刑事が今はどこかの病院で死に瀕していることは大きく違っていたが、地下鉄は何も変わらず東京の地下を北東の方角へ走り続けた。

(自分にもっと能力があったなら、こうなっていなかった。)

その言葉に繰り返し頭を打たれるのはきつかった。ても何も動かさずにいると吐き気がしそうで、わたしは無理に手を動かしたくなった。混み合った車内でカバンからノート類を開くわけにもいかず、わたしはスマホを取り出して指でいじった。興奮したまま電話を切った石原の着信が最後にある。

 メールフォルダをもう一度開くと、やはり半年以上も前のものは全て消えていた。この数日で送付されたものだけをとにかく見つめ直した。石原はああは言ったが、まだ全てを確証できたわけではないはずだ。人任せにせず自分でも頭で考える必要がある。又兵衛の発見された河川敷ーーA署の所轄でも最も千葉よりの河川敷である江戸川ーーまではまだ少し時間がある。せめて自分なりの仮説もまとめたかった。

「理由もなくメールをする訳はない、と思ったのです。もし仰る通り警察組織と関係がある犯罪の捜査を続けているならば、それは危険な連絡になる。銭谷警部補にも危険だし、金石元警部補にも危険です。そんなことを<理由もなくする>でしょうか。」

石原の言葉が戻ってきた。

 メールをいくつも見直した。

 何よりぼんやりとこれらの文字列を見過ごしてきた自分のことが許せなかった。

 


ToZ


文学的に言えば、

百の事件には

百を被害者がある


一つとして同じ事件はない


また、

加害者にはまだ未来があるが

殺人被害者には、永遠に未来はない。


言ったはずだ。




ToZ


本末の転倒。

飲みすぎは、やめておけ。

若者に迷惑をかけないようにしろ。 




ToZ


孤独。

被害者の孤独。

そのとなりに自分がいるのか?

ましてや、被害者と加害者の、その対立構造などを作っている奴らに加担してはならない。

     



ToZ


段々とわかってきただろう。 

海の先に、人間は、ゴミを集めて大地を作る。

嘘の大地を作る。




メールを見つめ、そして地下鉄の走る窓の闇を見つめ、目を閉じるのを繰り返した。これまでの何年間と同じく、言葉を並べただけでは、何も気がつくことはなかった。恥ずかしながら、やはり毎回と同じく、この文言を書いたであろう金石の横顔だけが脳裏に来てしまう。彼がいつものように左手でウィスキーグラスを掴んでタバコを吸っている姿が言葉の手前に消えない。なんならその時の会話の方が思い出せるくらいである。

 そうやって地下鉄はお茶の水、湯島を過ぎた。都心を離れ、川の多い所轄に向かいつつある。

 何一つ前に進む発想が出ないまま千代田線はJRの常磐線に直通する地上へと登り始めた。

 列車が地上に出たとほとんど同時に石原からの電話が鳴った。流石に人の多い車中で電話を取れず、次の綾瀬駅の扉が開くところでわたしは電話を取った。

「銭谷警部補。説明をさせてください。」

珍しい。声が強い。

「ああ。頼む。」

「はい。メールは文面だけを読むと、金石警部補が銭谷警部補にアドバイスや、当時の漠然とした意見を繰り返しているように思えます」

石原は前置きをした。その前置きは語気を強めながらも、彼女らしい優しさを含んでいるように思われた。

「そのせいで、内容に常に目が行きがちなのですが、実は内容は関係がないと、すると腑におちる仮説がある気がしたのです。」

「メールの内容が関係がない?」

わたしは形式だけ反論をした。メールの内容だけを何度も見てきた自分としては、そう言うしかなかったのかもしれない。

「はい。内容は最初から一切伝えるものではなかった。」

「伝えたい内容がない?」

「はい。」

「しかし、では危険を冒してメールを送る意味は?」

「メールの内容ではなく、メールが金石元警部補から銭谷警部補に宛てたものだということだけが、わかれば良かった。僭越ながらメールの文章は、お二人にしか判らない、捜査の周辺で感じた言葉などを並べてあると思います。もしくはバーで話していた言葉など、第三者的にはよくわかりずらい曖昧なものですが、一つだけ明確なことがあります。それは金石元警部補が銭谷警部補に宛てて送付している、という外側の事実です。本人の認証、だけはなされている。」

「う、うむ。」

「その上で、内容は一切関係ない。言葉の内容を読んでしまうと、壮大な迷路に入ってしまう。しかし、内容に関係のないところにその伝達物がある。」

「内容に関係のないところにーー。」

「頭文字です。」

「頭文字?」

「メールの頭文字を並べる。この本文の頭文字だけを拾うと、文章になると思ったのです。」

「頭文字だけを並べて?偶然ではないのか?」

「わかりません。それで、今、本郷の駅に着いたところです。」

「本郷?」

「はい。」

「本郷とだけ読めるのか?」

「いえ、<本郷文庫>、まで読めると思います」

石原はそう言ってToZのメールのいくつかの冒頭だけをそらんじた。

「本郷文庫?それが何かの暗号になると言うのか?すまん。わたしにはそもそも本郷文庫というのは唐突に思える。」

「普通はそうだと思います。ただ、関係が全くないとも言えないんです。太刀川は実は今日も本郷三丁目、つまり東大のある駅で降りました。先日に続き、二回目です。」

「本郷の、駅?」

「先日ご一緒させていただいた、本郷三丁目駅です。」

「もちろん覚えている。あの駅か」

「そうです。あの駅の改札を出たところに、学生向けの無料古本貸し出しがあるのを一度お話させていただいたと思います。その名前が、本郷文庫、というのです。」

「……。」

「実は太刀川が今日も、その文庫の前で立ち止まって暫く見ていたのです。」

「太刀川が?」

わたしは少し声を荒げた。

「まだわかりません。ただ金石さんのメッセージと、太刀川が何か繋がるかもしれない。そう思ったのです。さらには、携帯電話やインターネットを排除している太刀川という人間にとって、ああいう場所は連絡を行いやすいかもしれません。」

「本郷の文庫がか?」

「はい。あの本郷文庫は、自分が読んだ本を無料で誰かに貸せるんです。誰でもそこにおいてある本を回し読みできる。本を回覧しているともいえる。」

「……。」

「今、本郷三丁目の古本貸し出し、本郷文庫の前につきました。とりあえず端から順に何か仕掛けがないか調べさせてください。」

わたしは何一つ反論がなかった。

「そうか。頼む。」

「あと」

「なんだ。なんでも言ってくれ。」

「金石元警部補の写真はございますか?」

「写真?」

「私は、金石元警部補の顔を知らないのです。」

「ああそうか」

わたしは金石の写真は持っていなかった。表彰でもなければ刑事が二人で写真を撮るようなことは少ない。むしろ金石は写真を避けていたかもしれない。

「すまん。写真は、撮ったことがなかった。ただ、奴の特徴は明確かもしれない。」

「特徴?」

「身長が二メートルある。いや正確には測ったことはないが。」

「身長が二メートル、ですか。わかりました。顔写真はなしですね。」

「ああ。」

「それと、先ほどはすいません。」

「なんだろう?」

「お話を遮ってしまって。」

石原は覚えていた。まだ気を遣われているのだと思った。

「金石さんの仮説に焦っていて、随分強引に話を止めてしまったので。失礼しました。」

「いいや。会話は重要なものの順で構わない。」

「すいません。」

「謝ることではない。しかしこちらも、少し重いので頭出しをしておく。とある老刑事が濡れ衣をかけられている。」

「ご年配の刑事の方ですか?」

「ああ。」

「その方が、A署の老刑事であれば、噂で存じております。横領で懲戒があった。」

唐突に石原はそういった。

「謹慎中の某警部補が、何故か会っているA署の刑事がいると。その刑事は懲戒免職の疑惑のある方だと。」

わたしは素直に驚いて、

「ふむ、ずいぶん詳しいな。」

「先日小板橋巡査部長の主催する懇親会がありまして。話題になっていました。小板橋さんが元A署で詳しいみたいです。」

「ああ、そういう偶然か。」

「……。すいません。そんな話があったことはすぐに言えばよかったかもしれないです。」

「噂などはいちいち報告は不要だ。捜査に関係があるものだけでいい。」

わたしは自分に否定的な噂が出ることにまるで興味もなく悔しくもなかった。それよりも、又兵衛という素晴らしい刑事と邂逅し分かり合えた時間の方が愛おしかった。たった二、三日の話なのだが、わたしにはそれが自然な感情だった。ただその老刑事との時間が激しく瓦解しようとしている。そのことが問題だった。

「わたしの噂話を報告しないことなど、何も問題はない。」

「承知しました。」

「わたしからの頭出しは、その老刑事が昨夜自殺未遂をした、となっていることについてだ。」

「自殺、となっている?」

「噂話はある程度正しい。事実、わたしは老刑事と昨日ずっと一緒にいた。」

「……。」

「刑事の勘で申し訳ないが自殺はありえない。事件に巻き込まれた可能性が高い。もっと言えば、横領についても不自然だ。冤罪かもしれない。」

「本当ですか?」

「万が一亡くなれば、死人に口なしとなる。」

「まさか。この令和の時代にそんなことが。」

「昭和の時代でも平成の時代でも、犯罪を隠したい大人は消えたりはしない。思い込みが一番闇に飲まれやすい。」

「……。」

「ただ、この件について石原に何かやってもらおうとは思ってはいない。幾つかあるのだが、一点だけこのチームでの共有がある。」

「はい。」

「この又兵衛刑事に、太刀川が五年前にコンタクトを取っている。」

「太刀川がですか?」

「ああ。加えてこの又兵衛刑事は、金石とA署で上下だった。」

「ほんとうですか?」

「ああ。だからわたしと、会うことになった。本庁に来たのはそのためだ。」

「……。」

「今から時間を見て、A署に、いや正確には槇村又兵衛警察官のいる病院を探しに向かうつもりだ。」

「なるほど。」

「それともうひとつ。金石の写真だが、今朝もらった動画に、一度だけそういう身長の男が乗っている。昨夜見たのだが、確信が持てず石原には伝えないままだった。」

「えっ。太刀川の地下鉄にですか?」

「わたしが混乱したためだ。すまん。ただ体格が似ているだけで、顔は確認できない。」

「それは、何かがつながりますね。」

「身長は整形手術はできないだろう。」

「そう思います。」

「実は、これに驚いて、今朝の太刀川の地下鉄に飛び乗ってしまった。そのことも謝る。」

「ありがとうございます。私は今からこの文庫本を全部調べてみます。一旦お時間をください。あと一点だけ。」

「何点でもいい。」

「迷惑メールは此の四つ以降にもありませんか?」

「四つ以外?」

「はい。」

「数えたことはなかったが、もう少しあると思う。」

わたしは、電話のために無理やり降りた駅のホームで追い込まれた勤め人のように電話をやっと切った。そしてもう一度、又兵衛の見つかった河川敷ーー綾瀬の次の亀有、金町の方面へと向かう列車を待った。









実験結果#2329 


僕の大学の受験は面白かった。僕が母と家族を喜ばせることができたのはそれだった。けども、実は勉強は最初は、負けん気でやっていた。けども、途中から面白さに変わっていく。物理と化学の選択問題ではない論述は私の受験した理科一類には必須でしたから、ごまかしは聞かないのです。そうして、二つの方程式が私の中で物理と科学という一見別の論理を重ねます。ひとつはEアインシュタイン博士の開発した相対性理論なのですが、これにはさまざまな革命があるけども、ぼくは、原子爆弾という方向に向かったことは忘れてはならない。E=Mccという方程式が、こんな短い方程式が、原子力爆弾の設計の基礎なのですから。つまり重さを、エネルギーに変えられるなら「光の速さを二回も掛け合わせた」数のレベルで、エネルギーになる。つまり、爆発が起こるということです。実際に原子爆弾の材料は、普通の火薬とは全く違う量なのですから。。。

 これが物理の教科書を読み進んでいくと、どんどん教えられていく事実なのです。宇宙のコペルニクス展開、パラダイムシフトを初めて、ニュートの万有引力と、マクスウェルの方程式からアインシュタインの相対性理論までは、僕にはまるで探偵小説のような、仕掛けにも見えました。

 そうして、このことを知っていくと同時に、物理だけではなく、化学というのも同じように面白かったのです。一番はこのすいへいりーべぼくの、、、でした。水がH2O。二酸化炭素がCO2 になるのは、このすいへいりーべで始まる、物語が全て入っているのです。こちらのほうも探偵小説そっくり!こちらは野球かサッカーの背番号を絡めます。水素が背番号一番です。酸素は八番。・・・マイナスイオンの電子とプラスの陽子が、一つずつ、あるから、水素。8個ずつあるから、酸素。は八番だと。

 そんな単純な背番号で、物質が全部できているなんてことを想像できますでしょうか?目の前の机もパソコンも、テレビも空も、太陽も、地球も、全部、その背番号の選手がつくっている。それも種類はさほど多くない。18番までで、もう99.9%が表現されている。。。そうしてその背番号がたとえば109番が、108番になることが、自然界で起こることがわかり始めます。これが、、、

 わたしは、この物語も、頭の中で妄想をいたしました、受験勉強は興奮した探偵小説の殺人犯探しのような、追跡にもなりました。学んで前に進むことは快楽でしかない。そうならないと、受験は苦役 (愛は、そうではない。答えが見つからない。最初に答えがあり、感動がある。)でしょう。


ストロンチウム 二十世紀初めに夜光塗料が発明された当初は、毒性の強い放射性物質ラジウムが使われていた。 1960年代ごろから放射線量が少なく、より安全なプロメチウムやトリチウムに代わった



二百十四 再本郷(石原)


 本郷文庫の前で石原は立ち尽くしてしばらく並んだ古本の背表紙の列を身任せにしていた。

 金石元警部補が銭谷警部補に送ったメールの頭文字を時系列に並べると

「本をよめ

「郷に入っては

「文学

「孤独

となる。そしてこの場所で、太刀川はいくつかの古本を手にとっていた。少なくとも数分間の時間をかけて、今石原が見つめている文庫書架を同じように見つめていたーー

 ここで一体何をしていたのか。ここが太刀川龍一どその協力者との連絡の場所なのか?インターネットを使わないアナログの伝言板としてこの場所を使っているのか?金石元警部補のメールと太刀川龍一がなぜここで重なるのか?銭谷警部補が今電話で言った、自殺未遂?している老刑事が双方に関連しているというのはどういうことなのか?

 小さな震えがきた。

 銭谷からメッセージが来ていた。

 石原は画面を見て少し驚いた。

 銭谷はスクリーンショットを使ってメッセージを送ってきている。いや、よく見ると、本庁のスマホの迷惑メールの画面を、私用のスマホで撮影したものをわざわざ送ってくれていた。

(今確認した。すでに見てもらった四つのメールの他のものは以下。)

(はい。)

(メールは順番はこの通りで、四つのメールの後に三本ある。)

とメッセージが入っている。

(驚きました。)

とメッセージを思わず返した。

(おどろき?)

(はい。メッセージアプリと、スクリーンショットを使いこなしている。)

(そうか。ありがとう。)

石原は少し助かった。もちろん、会って話したり電話で話す方が早いことも多い。しかし情報という意味ではメッセージとスクショの方が助かる時もある。特に何度も見直したい場合はスクショが助かる。

 石原は本郷文庫の前で、改めて追加された3本のメールのスクリーンショットを一枚ずつ見直した。それらは時系列順には、



ToZ

ニヒリズムとかではなく、しっかりと実現をしてくれ。

ニーチェを読んでみるのもお勧めする。




ToZ

段々とわかってきただろう。 

海の先に、人間は、ゴミを集めて大地を作る。

嘘の大地を作る。




ToZ

滅多なことを言うものではない。ご遺族の毎朝は地獄なのだ。




思わず、メールの本文の内容のほうに何かを見てしまう。しかしそれこそが金石氏が弾幕のように設計した誤謬への誘導のはずだ。石原が見つめたのは、本郷文庫の四文字のさらに延長での頭文字の流れだった。  


ニヒリズム

段々と

滅多な



だん 

め 


(本郷文庫二段目)


石原は小さく、唖然とした。そうしてスマホから視線を上げて、目の前の本郷文庫を見つめた。本を幾段にもして並べているではないか。

(この一段目、二段目を指しているというなら、意味がつながる。)

本郷文庫は、元々駅の壁を窓のように繰り抜いた本棚だ。木の枠で、上から、一段、二段、と並んで合計三段の古本が並ぶ。石原は、その真ん中の二段目を見つめた。古本の背表紙が隙間なく並んでいる。

 二段目の文庫本を、一つ一つ手にとって、元に戻す。中に何か挟まっていると思って見てみる。石原は一冊ずつすべて見ていった。いくつかの本には、各々の読者の書き込みのようなものもあるが、特にメッセージや関連性は感じなかった。この二段目全ての本のどこかにメッセージがあるとなると、かなり時間がかかるが、一旦警視庁に持ち帰るのが良いだろうか?と悩んだ。しかしこれらをまとめて持ち帰ればここでの「連絡」は今後絶たれるだろう。

 石原は改めて並んでいる本の背表紙を二段目から見つめ直した。「今昔物語」「柳生忍法帖」「レ・ミゼラブル」「硫黄島に死す」「Yの悲劇」「自由からの逃走」…。特徴の言いずらい、ありがちな本の列だった。古本の並びらしく、ジャンルも何もなかった。幾つかの本をもう一度手に取ってみる。紙切れでも挟まれているとかあるのかもしれない、と一冊ずつはじからゆっくりと順に開いたが、何もなかった。古本特有の湿気った香りが広がるだけだった。

 石原は二段目を諦めるように、一段目や三段目に目をやった。


一段目は、


「ドグラマグラ」夢野久作

「刺青」谷崎潤一郎

「ムーンパレス」ポールオースター

「獄門島」横溝正史

「銀河鉄道の夜」宮沢賢治

「地獄変」芥川龍之介

「芽むしり仔撃ち」大江健三郎


・・・


という本が並んでいる。三段目は、


「ヴィヨンの妻」太宰治

「砂の女」安部公房

「こころ」夏目漱石

「ゼロの焦点」松本清張

「用心棒日月抄」藤沢周平

「雪国」川端康成

「はだしのゲン」中沢啓治

「ブエノスアイレスの熱狂」ホルヘ・ルイス・ボルケス

・・・


と本が並んでいた。肝心の二段目は、


「今昔物語」岩波文庫 

「柳生忍法帖」山田風太郎

「レ、ミゼラブル」ヴィクトル・ユゴー

「硫黄島に死す」城山三郎

「Yの悲劇」エラリー・クイーン

「自由からの逃走」フロム

「満州アヘンスクワッド」門馬司

・・・


である。

 本によっては、汚れているもの、マジックで書き込みがあるもの、カバーが残っているもの、茶色の裸で剥き出しのものなどが、乱雑に並んでいる。しつこく本を手に取り中を確認する。落書きや線を引いてあるものも逐一見直すが、何も頭に浮かばないままだった。文庫本と、ハードカバーのものが背の高さも顧みずに並んでいるし、題名でわかるように、純文学もあれば、歴史小説もあり、探偵小説もある。新書や漫画もある。

 ふとそのとき、石原は前回この駅を通った時に太刀川を追って、この場所を撮影して残したのを思い出した。

 スマホを開きその時の写真を見てみた。何か時間軸の仕掛けがあるのなら写真はいいはずだ。つまり、二日前に撮影した本郷文庫の写真と今現在とを比べることにしてみた。首を上下させながらスマホと文庫棚と交互に見比べて行く。

 一段目も二段目も三段目も並びはほとんど変わらなかった。本郷文庫の古本たちは二日の時間を経ても同じように並んだままだった。つまるところ昨今は、たとえ無料の本が並んでいても手に取ることが少ないのだと石原巡査は思った。東大の学生まで含めて電子書籍で読めば十分だ、ということなのだろうか。

 少しだけ変化があったのは、二段目だった。

 二段目は、二日前のものは、右から


「レ、ミゼラブル」ヴィクトル・ユゴー

「硫黄島に死す」城山三郎

「Yの悲劇」エラリー・クイーン

「自由からの逃走」フロム

「満州アヘンスクワッド」門馬司


と並んでいる。

 それらを眺めていたのちに、突如石原は、固唾を飲んだ。もしかするとと思い、もう一度、二日前の写真と、今現在の本郷文庫を比較し直した。そうして、ある一つのことに気がつくと、今度はそのことが脳を離れなくなった。やがて、石原は、とある文字列を幾度もスマホの検索窓に並べて打ち込んだ。ある一定の結果が出た。固唾を飲んでその結果を見つめると、今度は地図のアプリを出した。そして再び検索をしたその言葉を文字で打った。胸を打つ動悸が消せなかった。手の指が震えて、焦る自分を抑えながら、でもとにかく急いだ。なぜなら、その言葉がもし正しい仮説なのであれば、今すぐに動き始めなければいけないからだ。石原は首を振って改札の外の本郷の空を見た。すでに青空は初秋の夕焼けをどこかで始めようとしていた。その空の色がーーもし石原の想定した仮説が正しければ、何らかの事件が起こるまで時間が残されていないーーということを示していた。

 


二百十五 GPS (軽井澤新太) _


 わたくしは、尾行をしてきた赤髪の女性に幾つかの理由を説明して、その埼玉の駅で降りてもらいました。

 ただ一点、GPSだけは預かりました。いつかお返しするという前提で赤い髪の女性に連絡先を尋ねましたが、当然俯きましたので、詮索はせず、この一連の追跡が済んだら返すから困るなら青山墓地の事務所に取りに来てくれとだけ言いました。

 守谷のトラックが止まったのは埼京線の与野本町という駅でした。ふと、突然あれと思いました。どこかで見たことがある景色だと思いました。遥か昔、前職の駆け出しの頃わたくしはこの駅に来たことがある、報道記者の先輩である御園生さんと待ち合わせたのがこの駅だったような気がしたのです。駅は二十年以上も前とほとんど変化はなく、高架をいく埼京線らしい線路下の一ヶ所だけの改札で、駅前に商店街はなくタクシー乗り場にタクシーが一台だけあるだけでした。その少し先に守谷のトラックが駐車しています。追憶と偶然とに混乱しながらわたくしは守谷の軽トラックを、ゆっくりと遠巻きにロータリーを一周して運転席を盗み見るのも定期的に繰り返しました。その度に軽トラックの運転席に、もたれたまま眠る彼の横顔が見えました。昨夜から一睡もせずこのドラム缶やらセメントやらを運ぶ重労働で疲れ果てたのか、意識を失ったかの様子で眠っておりました。

 わたくしは悩みました。今守谷の胸ぐらを掴んで問い詰めても、白を切るのは目に見えています。のらりくらりと、池尻の病院であったことの繰り返しになるでしょう。そもそもですが、目的なくドラム缶やトラックは用意しないはずです。目的に近づくまでもう少し泳がすべき、とわたくしは覚悟しました。

 尾行をしていた赤い髪の女性が帰り、残されたのは手元のGPSと守谷のトラックと微妙な追憶だけになりました。時間が空くと苦しい映像がまた網膜に再来するのが怖く、なにかに焦ったわたくしは、昨日電話の途中になってしまったままずっと気になっていた御園生くんに電話をかけました。

「もしもし、軽井澤です。」

「軽井澤さんですか?」

「何度も連絡をいただいていました。大変失礼しました。」

「心配しました。」

「…本当に申し訳なかったです。」

「いえ。なんとかこちらは進めています。はい、今日は江戸島は会ってくれなかったんですが、彼を昨日乗せた運転手さんと一緒に、同じ場所をたどっています。」

こちらの都合で電話したのにも関わらず、いつもと変わらず快活な声で御園生君は話します。時間を使い、彼なりの考えで動いており、改めて電話口で今日一日の調査のまとめを彼なりの仮説も混ぜながら細かく説明がありました。その説明には、わたくしは驚きを隠せませんでした。それほど、的確な調査が、誰の指示も受けることなく進められていました。

「ありがとうございます。本当にここまで進めてくれて申し訳なかったです。本音を言えば、この怪しい風間や守谷の作業には御園生君をそこまで関与させたくないのですが、江戸島についてかなり進んだのは御園生君のおかげです。そうか、やはり江戸島は関係者であることは間違いなさそうですね。御園生くんーー。ここまで、本当に、ありがとうございます。」

「いえ、軽井沢さん、僕はそんな負担になってないです。むしろ自分でも気になったので調べたかったんです。」

「そうですか。」

「大丈夫ですよ。軽井澤さん。普通の仕事です。むしろ僕が調べた中で気になったことはありませんか?」

わたくしは幾つかのお礼と労いの後、御園生君のかなり長い説明の中で最も気になった点について質問いたしました。

「ご説明いただいた中で言いますと、つまり、江戸島は昨夜、その埋立地の道路に書かれたと思われる何かの文言を消しにきたのですね。」

「はい。それは間違いないと思います。葉書と何の関係があるかわかりませんが、我々が二重橋を訪問した後の外出から江戸島会長には奇妙な動きがあります。訪問した最初の夜は、今思えば、この埋立地の方角に一度向かったのです。銀座で寿司を食べた後に晴海通り、つまり銀座からこちらに向かう真っ直ぐの大通りを、有明まで向かいました。その先にこの埋立地があるのです。そうして何故か有明の手前で引き返した。そこで今思うのは、その時は役員車でしたが、翌日は青山墓地でタクシーに乗り換えました。もしかすると会社の車で、この埋め立て地に向かいたくなかったのではないかと、考えさせられます。」

「なるほど」

「軽井澤さん、僕が今いる場所を正確に、GoogleMapで送りますね。場所は江東区の海の上というか埋立地です。電車で来るには有楽町線か臨海線で、新木場まで出なければなりません。駅から歩くには少し遠いです。とにかく海の方角へ、東京湾の沖合に向けて埋立地を突き進むとでも言いましょうか。ほとんど埋立地の終わり近くになります。と言っても砂浜もなければレストランもない、何もないんです。工場に向かうトラックや作業車の駐車場が広大に場所を取ってて、あとは工場ですかね。見てください。電信柱がここで終わっています。」

御園生君はそういって、今いる場所の地図や、周囲の写真を何枚か送ってくれました。写真で見てもわかるくらい、人間の気配のない寂しい夕闇がそこにありました。人間の生活らしい光があるのは遠い海向こうの新橋や銀座の高層ビル群の照明ぐらいでしょうか。

「軽井澤さん、恥ずかしながら僕には分からないと言いましたが、やはり、江戸島は間違いなくあの日から、様子を変えていたんだと思います。行動に違和感があります。その上でこんな異様な場所にきて、アスファルトに書かれた何かを薬品で擦って消していたのです。身内の車では見られたくないが故に、タクシーに乗り換えまでして。そのまま同じタクシーで代々木上原の方面まで乗りましたが、用心してなのか、自宅の前ではなく駅前で降りたようです。」

 御園生くんの自主調査は素晴らしいものでした。

 ただ、わたくしは新しい情報を有難いと思う反面どこかで、御園生君にはもうこれ以上関与をしないで欲しいという思いだけを強くしました。むしろ、会話の途中からは上の空にさえなっておりました。上の空というのは聞く意思が無いのではなく、むしろ自分がこの数日間悪夢に侵されたのと同じく、精神が現実に定まらず別世界に持っていかれ目の前を掴めない感覚になっていく、というのが正確な表現です。

 わたくしはそこまで動いてくれた御園生君に辛うじての礼だけを振り絞って述べると、結果的には言い訳を並べて御園生君の電話を切りました。それは御園生君という人格に対しいかにも失礼であり非常に自分勝手な対処だったと思います。

 江戸島は何らかの形で関わっている、というのは実はある切り口では辻褄が合います。というのもこの復讐劇にはどう考えても、金がかかっているのです。GPSもしかり、赤い髪の女性も然り、守谷や風間に対しても人間が複数動いています。そういう作業には金が必要なはずです。そして金が前提となる方向性は二つしかありません。

 ひとつは、命をかけてお金を用意した場合です。お金を持たない人でも命ーーつまり死を前提として金を用意するなどの最後の手段を取ることはできます。その場合の覚悟は相当のものになることはご想像の通りです。

 もうひとつは、富裕の人間が行う場合です。金が余っているような人間なら、命を賭けずに何でもできます。後者の場合江戸島という存在は条件を満たしているかもしれないのです。

 怨念のこもった葉書などは前者の可能性を強く感じます。いや、ここまでの客観情報だけを集めれば、前者のような命賭けで動いている人間の存在を感じざるを得ません。後々知られるにきまっているハガキの直筆もそうですし、それぞれの住所に手書きのハガキを何枚も送ったりすること、風間や守谷の恐らく暗い過去のどれを集めても前者のような殺意に近い動機を感じざるをえないのです。そして唯一その方向に矛盾するかのように、江戸島が現れたのです。

 わたくしは、御園生くんがメッセージで送付した江戸島がアスファルトの文字を消していたという場所をGPSと携帯電話の地図両方で見比べていました。今駅前で仮眠をとる守谷の位置が動かないのを確認しながら、その地図をいじっておりました。

 そのときでした。

 ふと、わたくしは手でいじっていたGPSの機材の方で、とあることに気がつきました。

 このGPSは実は時間軸が設定されているのです。なるほどと思いました。時間を遡る逆再生ボタンがついていて、天気予報の画面が時系列で雨雲を過去に移動させるように、GPS上でそれぞれの追跡対象のいる場所を過去に遡れるのです。一見その時間軸ボタンが見えないので気がつきませんでした。簡単な操作で赤や青の光源がその位置を時系列に戻していきます。

 追跡対象は青、緑、そしてそれに追加してオレンジ、とあります。(オレンジというのは一見画面上は見えていなかったのですが、わたくしがGPS機材をいじりながら発見したのです。)青は今目の前にいる、守谷です。緑は、マツダのキャロルにつけていたもので、今池尻大橋の病院の草むらに点灯を続けています。

 時間を遡っていきますと、守谷を示す青い光源は埼玉の奥地を経由して昨日へと戻っていきます。昨日より以前はずっと錦糸町の宿街にいた様子があります。その錦糸町の前をずっと最初まで遡ると、GPSが点灯を始めた時刻が出ました。ちょうど今日から八日前の早朝になっております。そこからGPSが始まり、それ以前は青の点灯がございません。そしてその点灯が始まった場所が新宿の歌舞伎町でした。正に我々が、歌舞伎町に訪れた、あの前夜に青の光源は点灯を開始します。嫌な想像をしてきたものが当たった気がしました。おそらく切断した右腕を縫い合わせてあったあの縫い目に、GPSを入れ込んだのではないでしょうか。

 マツダのキャロルに付けられた緑の光源の方は、青山のわが探偵事務所の前から始まっています。これは赤い髪の女性がつけたものだと思われます。我々の社用車の動きそのものと画面での履歴はピッタリ一致致します。

 そして、問題はもうひとつのオレンジの点です。

 昨夜、赤い髪の女性は、

「風間のGPSは消えてしまっています。」

と、わたくしに言っていました。そのことを念頭に時間を遡っていくとある時点からオレンジの点が点灯したのです。今の埼玉にいる現在の画面にはオレンジの点は存在しません。しかし、時間を遡るとある時点で光源は「青」「緑」「オレンジ」の三つになります。GPSでの尾行は三ヶ所、つまり三名に行われていたことがわかります。

 このオレンジの光源は実は一番開始が古く、十日ほど前まで遡れます。細かく見ますと、わたくしが風間宅に向かった九月八日に、オレンジの光源は西馬込にあります。まさに彼の猫の死体が玄関に置かれた部屋と一致します。その後、南青山の軽井澤探偵社の周辺を明らかに徘徊している時があります。それは十四枚の葉書の残りを届けた九月九日の朝と一致します。風間が携帯電話の電源を切り猫の死体から逃げていた時間もGPSはしっかりと彼を追跡しています。逃げようとしていた風間の努力は無駄だったのです。そして気になったのは風間がわたくしと深夜に公衆電話した時刻です。あれは九月十一日の深夜です。オレンジの光源は都内の各所を彷徨いいながら埋立地の、新木場の幹線道路沿いにあるのです。いやよく見るとその場所にその前日も前々日も何度もこの周辺を訪れているのです。そして驚くことにーーいや最早わたくしにはある確率で予想されたことにーーまさに御園生君が先ほどメッセージで送ってきた江戸島のいた場所のすぐ近くなのです。この広い東京の地図の上で、こんな偶然があり得ますでしょうか?電話の向こうでトラックの通過音が激しかったのを思い出します。拡大をするとその光源の滞留する場所に電話ボックスが確認できました。

 そうです。このオレンジの光源が風間を指し示していることは疑いないでしょう。そしてまさに、九月十一日の、翌十二日の早朝の四時五十五分、に消えるのです。四時五十五分ーー。忘れもしません。風間の電話が不自然に切れてわたくしが時計を思わず目にした時刻が四時五十分。まさにわたくしとの電話が終わった時間の直後に、消えているのです。わたくしは再び不気味な気持ちになりました。いや、あの電話の最後の終わり方、一回目の電話と違い、明らかに電話は切れていないのに風間との会話だけできなくなったあの場面が明確に思い出されるのです。



 話を葉書に戻します。

 結論から申し上げます。

 風間、守谷はある事件の関係者でありました。

 かれらは幼馴染だった。そうして恐ろしい事件を、犯すことになった。犯罪時、未成年だった。それぞれ逮捕され懲役が確定し収監されたーー。

 それは昭和の終わりから、平成の始まった頃のことです。まだわたくしは小学生でした。報道記者になることなど露にも想像していません。まだぼんやりと事件の報道を眺めていた記憶があります。女子高生が殺された、ということや、子供ながら戦慄するその内容に、世の中にこんなことがあるのかと恐怖した記憶が存在する程度です。他の多くの日本人と同じように、わたくしの目の前にも一つの殺人事件が通り過ぎただけでした。

 わたくしがこの事件に関わることになったのはずっと後のことです。事件から二十年以上経ち彼らは刑務所から出所しました。残虐極まりない事件でありながら四人は極刑は言い渡されず、それぞれ刑期を終え実社会に戻りました。その時期にわたくしはテレビ局の報道記者という立場でしたーー。

 殺人犯の社会復帰は、逮捕時とは違い誰も報道しません。あくまで受刑者の人権観点もあり報道は稀です。大事件を犯した殺人犯は実はこの世の中に静かに社会復帰をしていることが多いのです。

 わたくしは、この盲点を狙いました。

 わたくしはその四人の中の主犯格である元少年A、本名尾嵜憲剛に報道記者として接触を試みたのです。いや浅はかなわたくしは生涯後悔するその作業を、さほど全体のことを考えずに着手しました。そこにあったのは報道記者としての正義というよりも世の中でこの映像は売れるという直感です。売れれば会社の中で良い立場が得られます。わたくしはそういう計算を、さほど考え詰めずに行いました。いやもはやあの頃はそういう計算が自然で、自分でも計算もせずとも身体が動くほどだったのです。何も考えずに取材に向かったというのが本質です。そしてその本質にこそ本当の悪意は存在します。そうです。本当の悪魔は無神経と呼ばれる言語の周辺にあります。言い換えれば、わたくしが脳裏で何かを避けようとする全ての理由がそこにあるのですから。

 少年A、尾嵜だけを取材した理由は簡単です。

 他の三人は取材しても辿り着かなかったのです。四名の中の「実名」一人はすでに死んでいました。残りの「実名実名」も幾度家族に聞いても難しかった。もう家を出て連絡もないと言います。わたくしが取材に訪れるたびに、家族も非常に迷惑そうでした。困ったわたくしは家族以外のルートを使ってでもとかなり広範囲にーー当時の不良仲間なども駆使したり学校関係者に問い合わせたりしながらーー探しましたが、結局生きているはずの二人「」「」の消息はどうやっても掴めなかった。結局、だから少年Aである尾嵜憲剛だけにわたくしは向かわざるを得なかったのです。

 今、そのことが全てわかります。

 つまり、少年Aだけは地元の暴力団に拾われ堂々と実名の尾嵜憲剛で暮らしていましたが、少年B、少年Cは、そういう生活を選ばなかったのです。いや、不退転の気持ちで家族との縁も切り、過去を断絶する方針を選んだのです。それぞれ風間、守谷という別の名前を名乗り、つまり別の戸籍を買取り、別人格になった、過去と決別した人生を新しく歩んでいたのですから。まさかと思いつつわたくしが幾度も現実から目を逸らし続けたせいで確認は遅れましたが、やはり事実だったのです。

 風間とのーーGPSが消える直前の朝450分、最後の電話を思い出します。

「あんたはもう既にわかってるだろう?」

「@@@だろう」

彼は電話の終わりの頃そう、言いました。そうです。わたくしはわかっていたのです。葉書が四人に送付されている可能性や、そのうちの一人が既に死んでいること、残りの二人がどうやら過去に決別して別の名前を名乗っていること、その葉書をなぜ風間が内容まで話したくはなかったか、などのことを。それでいながら、その周辺を脳裏で避け、何とかして自分の恥ずべき過去を思い出すまいとしている自分があることをーー。

 彼らは四人はこの埋立地に死体をドラム缶にコンクリート詰めにして埋めました。

 その恐ろしい事件は今でもネット上で悪魔の象徴のように語り尽くされます。

 永遠に消えることない事件です。

 四人は当然、殺人によって人生の多くを失いましたが、それぞれのやり方で過去と対峙したに違いありません。だから、アルファベットの示す内容ーー人生を失った場所と言葉を忘れられることはなかったのです。わたくしは自分を誤魔化しました。でもそれができたのは、彼等とは違い、あの埋立地で殺人までを犯していなかったからかもしれません。

 彼らは違います。

 人生そのものが殺人で変わりはて、今の自分の置かれる状況の全てがその事件の後遺症となり、事件なしでは自分の本当を何一つも語れぬのです。誰と出会って話しても酒を飲んでもどんな仕事をしても、

 風間、守谷を名乗った二人の元少年ーー少年B山川^^少年C中川 の二人は、十四枚の葉書を見て、正しく稲妻に打たれたようにアルファベットの文字が並んだのだと思います。人間として生きる限り人間の死に関わった過去は消せないのだと思います。彼らなりに過去を無かったことにするために必死ではあったでしょう。でも名前を変え、戸籍を買っても、それは外側にすぎません。どんなに誤魔化しても人間の死に関与した過去は心の奥で消えなかった。誰にも言えない過去。誰かの死に関わった悪夢と責任は、自分の命を失う日まで消えない。いや命を失っても消えないかもしれないのです。人間の死に関わる、とはそういうことです。

 葉書はそういう文字列だった。

 一度並べばもう二度と他の乱数的なアルファベットに戻ることはなくはっきりとした単語の画面となって眼球に張り付き続けることになった。風間と守谷は、葉書を見て恐怖しました。思い出したくもない記憶が、繰り返し襲ったと思います。その結果としてなす術はなくなり、葉書の示す場所に幾度も来ざるを得なかったのだと思います。



CONCRETE WAKASU 


守谷

新宿歌舞伎町(九月@@にち)→→→首都高で池尻(翌朝)→→→東京都内を歩く(2日目)→→→江東区方面を歩く(3日目)→→→埋立地若洲周辺を徘徊→→→錦糸町へ→→→車で埼玉秩父まで→→→現在地


風間

西馬込自宅→→南青山→→→西馬込自宅→→→五反田(徒歩)→→→南青山(徒歩)→→→埋立地若洲周辺を徘徊→→→軽井澤に電話→→→消滅(九月@@にち)


  



二百十六 祖師谷 (赤髪女)


 昨夜は一晩中家に帰れなかったから、産業廃棄物のような変な臭い含めて体中の汚れを流したかった。赤髪女は軽井澤と埼玉で別れた後、真っ直ぐに祖師ヶ谷大蔵の部屋まで戻った。突発する薬物的な不安は一旦消えている。家に着くと心が少し落ち着いた。シャワーを浴びているときは禁断症状が起こりにくい。目を瞑り、ただ脳天から熱い湯を浴びた。滴る水流が気持ちを癒しながらぽたぽたと頬から落ちた。

 浴室から出ると、赤髪女は部屋のいつもの壁にもたれた。

 昨日、軽井澤探偵の尾行の途中で指示者が言った言葉は強烈だった。

「わざと捕まるのですか?」

「そうだ。」

「なぜですか?」

「質問はしない約束だ。」

「しかし」

「とんまな尾行をすればいい。探偵も気がつき始めている。時間の問題だ。」

「捕まった場合は。」

「尾行をしたくらいで、警察に連れて行かれたりはしない。まずは捕まればいい。むしろ探偵の側も、今お前から情報を取りたいと思うはずだ。」

「……。」

「その中で、今持っているGPSをうまく、奪われるようにしておけ。」

「GPSを?」

「ああ。人間は、そういう情報に振り回される傾向にある。それを使う。」

「しかし」

「簡単だ。尾行して、捕まり、荷物を奪われればいい。できれば穏便に済ますために、相手になんでも協力するとかいう小芝居を打ってもいい。いや、それがいいだろう。」

 赤髪女は、かろうじて小芝居を打ちながら、指示者の言う通りにGPSを軽井澤探偵に奪われた。GPSに興味を持つようにカバンを開けさせ、情報を小出しにしたのだ。これはうまくいった。軽井澤探偵は明確に興味を示した。GPSの情報をもとに情報を追うようになった。そして、あの機械の使いかたも覚えた様子だった。

 うまくいったのは確かだが、それにしても指示者の細かい言葉ーーたとえば軽井澤からの信用を得るために、元あったマツダ車のGPSをはずせとか、自分から見せずにカバンは相手が見るまで開示するなとかーーは異常だった。しかし、そのことで軽井澤から信用を得たのも事実である。

 それにしても勝手だ、と赤髪女は思った。

 あの探偵が悪い人間なら、埼玉の奥地で何が起こったかわからないではないかーー。

 たまたま好人物だったから助かったに過ぎない。むしろ逆で自分が癲癇を起こしたのを病院に連れて行ってくれたりするほどの好人物ではあった。どうも作戦が秀逸というよりも結果的に、どうにかなったという印象が否めないでいる。

 いまの指示者は少し最近の若者なのかもしれない。

 以前の長閑で、ほとんど修正のない命令系統がーーあの埋立地で後ろ手を掴まれたあの男のような冷たさが背後にあるとはいえーー赤髪女には合っていたのではないか。いまの指示者は小賢しく計画が綿密だが、その綿密さが見透けて感じてしまう。

 赤髪女は、部屋の壁にもたれたまま、タバコに火をつけた。

 いずれにせよ、二つの仕事は分けて考えねばならない。あの岩のような背後をとった男は言っていた。

「仕事を混ぜるな。誰か別の人間がお前の脳天を撃ち抜くかもしれない。」





 村雨メモ


二百十七 令和島へ (銭谷慎太郎) _




「霞ヶ関か新橋のあたりで合流させていただけないでしょうか。すいません。どうしてもお願いします。」

もう一度千代田線に乗ったわたしに幾度も電話を着信させた石原は電話に出るや否やそう言った。その声は冷静な彼女とは思えない熱と興奮を帯びていた。いや少し叫んでいたかもしれない。

「今日、それも今すぐではないとダメなのか。」

「はい。」

「……。」

「もし先ほどの仮説が確かならば、今夜東京湾で殺人があります。」

「それを金石が?」

「わかりません。しかし本郷文庫というメールの伝言とその延長で、の仮説です。」

「仮説?」

「こんや、令和島で殺しがあると。令和島というのは東京庵の沖合の埋立地です。」

石原が霞ヶ関本庁から車を出すと突然言うので、わたしは綾瀬に向かう千代田線を無理やり降り、都心部に戻った。元いた

日比谷あたりでそれに乗った。かなりの速度で晴海通りから第一京浜を南へと走り出す。

 石原の言う令和島は、交通機関がまだ届いていない東京湾の沖にあるらしい。恥ずかしながら、少し前、わたしが自前で携帯する地図帳で調べた東京湾にはそんな島がなかった。こういう時のためにわたしは刑事の私費で最新の市販の地図を持つようにしている。だが東京湾をいくら沖合まで見つめても、その地図に令和島と呼ばれるものはなかった。

「私も実は最初は驚きました。日本全国の島という島を検索したんですが。」

「検索、か」

「はい。結論から言うと、令和島はまだ島ができている途中なのです。道路も海岸線もほとんどの地図には反映されていない。」

「場所はわかるのか」

「Google Mapには海面最終処分場という記載の部分があります。その処分場が令和島という名前なのです。要するに島がまだこれから完成する場所、まだ土地としての帰属がどこにも認められていない場所と言う意味だと思います。住所も設定されていない。」

「GoogleのMapか」

「はい。幾つか地図アプリを見たのですが、Google以外は、記載がまだです。」

わたしは会話をしながら自分の手持ちの地図を鞄の奥に入れた。この国の最新情報を海外の企業が持っているのも残念だったが、わたしが最後まで愛用した日本の地図を作ってきた人間のことも悲しく思った。彼らは死んだのか、もしくは死に近い恥辱の中にいるのだろう。

「お台場の先になると思います。とりあえずレインボーブリッジを渡りますね」

「令和島、か。」

「ゴールデンゲートブリッジ、という橋が台場よりさらに先の沖合にできていて、その更に沖合の区画みたいです。まだ誰も住んでいない、住所も所属区かもわからない。海面最終処分場とだけ書いてあります。」

石原はそう吐息を漏らすように言った。ずいぶん強引にその場所を目指している。クルマが速度に乗れたところで、わたしはようやく質問を始めた。

「本郷文庫出会ったことを質問しても良いだろうか?」

「はい。もちろんです。A署の方もあるのに、すいません。」

石原はハンドルを握る指に力を入れ直すようにしてから

「金石元警部補なのか、他のだれなのかわかりません。ただ誰かが意図的にその言葉を並べ、銭谷警部補に伝えようとしたのだと思います。」

「……。」

「もともと頂いていたメールの頭文字を並べると、ほん・ご・う・ぶん・こ、つまり本郷文庫になる。そしてご連絡いただいたその後のメールも、に・だん・め になる。」

石原は文字を覚えきっていて、ゆっくりと言った。

「つまり、本郷文庫の二段目、という意味になる。」

「偶然だったりはしないのか。」

わたしは思っていたことをまず言った。

「おっしゃる通り、実際に並んだ言葉を見て、最初は偶然かもしれないと思いました。それが本当に意味を持つ言葉なのか?意識のしすぎではないか?とも、考えました。でも人工知能を含めていくつかの研究も調べてみました。ランダムに並べた文字列が意味をなす可能性は、かなり稀です。基本1パーセントもないかもしれないです。」

人工知能という言葉にわたしはまた、呼吸を乱したが、我慢して質問を続けた。

「1パーセントもない?」

「ほぼゼロに近いと思います。」

わたしは堪らず反論した。

「そうだろうか。たとえば、「あ」という文字の後に、あいうえおの順にしても、愛(あい)、会う(あう)、会え(あえ)、青(あお)、と言うふうに、どれも意味をなすように感じるが。」

「はい。ただこれは、あいうえおだけが、特殊なのだと思います。たとえば、逆さまに読めば、いあ、も、うあ、も、えあ、も、おあも、日本語で明確に意味があるかと言われると難しいです。ただ、二文字は偶然も多いです。三文字、四文字と並べてみるとすぐに相当難しい、確率が管理低いことだとわかります。」

「なるほど。」

「全く文面にならない事ばかりになります。ためしに新聞や小説の文字列を縦横変えて読むとわかります。文字が乱数的に並ぶときに文脈になる確率はほぼゼロです。人間が文字を並べて話せばほとんど意味を持つというのに、文字列の方で並んで意味を持つのは、奇跡だということを人間は知らないんです。」

石原は、芝浦の倉庫街に入るとアクセルを強めに踏んだ。お台場へ渡るレインボーブリッジが視界に見えてくる。

「今回は二文字や三文字ではない。「ほん・ご・う・ぶん・こ・に・だん・め」まで意味が発生している。本郷文庫、までは私も偶然をある程度は意識しました。しかし二段目まできて確信が高まりました。」

「なるほど。」

「……。」

「ではもう一つ、よいか?」

「勿論です。」

「その類推のなかで、突然それが今夜になった理由はどうなる?まさに今、焦りながら、その海面処分場の沖合の島に向けて急ぐ理由を知りたい。」

わたしはようやくその理由を聞いた。何故、今夜なのか?何故、東京湾沖合のまだ海面を半分残すような埋立地なのか。質問をしながら槇村又兵衛刑事の

「罪を全て川から海へと流すのは人間の業です」

という言葉が突如脳裏に再来した。今日、わたしにはもう一つ重大な事が起きてしまっている。そこにも明確に人間の命が関わっている。だから石原が<なぜ今夜なのか>は大事な会話になる。

「説明します。」

レインボーブリッジまでもう少しと言うところで車は信号で止まった。石原は、彼女の板電話(スマホ)を差し出した。

「先ほどメッセージに写真を二枚お送りしました。」

「ああ。写真は見た。」

「この二枚の写真で気がつきました。もちろん金石元警部補と思われるメールがメールの本文の頭文字を恣意的に並べたという仮説がきっかけです。」

わたしは板電話(スマホ)で言われたままに写真を見た。二枚とも本が並ぶ駅の改札の壁面の書架の写真である。わたしは幾度となく見つめながら

「これが本郷文庫の写真だというのは、理解しているつもりだ。」

と言うのが精一杯だった。

「そうです。本郷三丁目の駅の改札の外にある、一見学生向けの無人古本貸出しです。」

「……。」

「申し上げます。本郷文庫二段目という言葉が、もし何らかのコマンドだとすると、いくつかのことが収斂するのです。つまり、金石元警部補のメールはメールの内容ではなく、むしろ内容に関係のない冒頭の文字がキーだった。」

わたしは無言で頷いた。

「同じことがこの文庫本でも言えるとすると、銭谷警部補、その二段目の、右端から並ぶ本の題名を見ていただきたいです。一枚目の写真をまずみてください。」

わたしは写真を見た。各段を埋め尽くす形で本が並ぶ。典型的な古本屋の体裁で、本は種別も作者も関係なく雑然と並ぶ。わたしはその二段目を見た。一番右は、「レ・ミゼラブル」ヴィクトル・ユーゴー「硫黄島に死す」城山三郎「Yの悲劇」エラリー・クイーン「自由からの逃走」フロム、と並んでいる。並んでいるといえばそれだけである。

「一応、眺めたつもりだ」

「ありがとうございます。一枚目が、二日前にわたしが最初に撮影したものです。」



「レ・ミゼラブル」ヴィクトル・ユーゴー

「硫黄島に死す」城山三郎

「Yの悲劇」エラリー・クイーン

「自由からの逃走」フロム

「満州アヘンスクワッド」門馬司



「もう一枚は、今日です。」

もう一枚は、「今昔物語」岩波文庫、が一番右端である。その隣が「柳生忍法帖」山田風太郎。その次に、また「レ・ミゼラブル」ヴィクトル・ユーゴー「硫黄島に死す」城山三郎「Yの悲劇」エラリー・クイーン「自由からの逃走」フロム、と言う順が続いている。つまり、この二冊だけ差し込まれている。


「今昔物語」岩波文庫  

「柳生忍法帖」山田風太郎

「レ・ミゼラブル」ヴィクトル・ユーゴー

「硫黄島に死す」城山三郎

「Yの悲劇」エラリー・クイーン

「自由からの逃走」フロム

「満州アヘンスクワッド」門馬司


わたしは、二枚の写真の違いを見つめた。

「この後に続く列が、つまり「満洲アヘンスクワッド」の隣が、「さようならオレンジ」岩城けい「ツラトゥストゥラはかく語りき」フリードリヒ・ニーチェ「1984」ジョージ・オーウェル」

「そうか。」

わたしはそうとだけ、言った。

「二枚の違いが、気になったんです。二日前には、右側の二冊がなかったのです。つまり、この二枚目、今日撮影した写真と一枚目の<間にも>文脈が発生しているんです。」

「……。」

わたしは、ようやく、そのことに気がついた。気がついた瞬間は、我々の乗る車は巨大な木馬のようなレインボーブリッジを渡るところだった。夜の暗闇の下に台場の光が瞬いていた。高層ビルから見下ろすような東京湾が無言に広がった。海岸線を工業地帯の瞬きが切り出している。?湖のように暗く平らかな海の沖合が、恐らく我々の目指している場所だ。

「つまり二日前に「れ・い・わ・じ・ま・さ・つ・い」だったものが、今日になって「こん・や・れ・い・わ・じ・ま・さ・つ・い」という言葉になっています。メールと同じく頭文字がです。「令和島殺意」です。金石元警部補の言葉として、今夜、令和島に殺意があると言うことになると、今すぐにでも向かうべきだと思ったのです。そして、昨日警部補は金石さんに似た人間が地下鉄にいたかもしれないとおっしゃいました。この本郷文庫に何らかの作業をした可能性において辻褄があう。」

わたしは金石に似た人間が地下鉄の映像にいたことを思い出した。早朝の本郷三丁目の駅にぼんやりと揺られてやってくる、文庫本を持った巨きな人物。それが脳内の幻覚とは思えなかった。

「令和島というのがどう言う島か、少しわかったりするか?」

「はい。適切な情報かはわかりませんが、調べただけのものですがよろしいですか。」

「情報はあればあるほどいい、今から、なんらかの殺人がもしあるなら、時間を争う。今夜は、あと二時間もない。」

石原はわたしの「殺人」という言葉に大きく息を吸ったように思えた。アクセルペダルを踏み続けたまま誦じるように恐らく既に調べていたものを説明を始めた。

「ありがとうございます。まずは、地図を見た説明になるのですが」と言って石原はアプリではなく旧来の地図に手書きの赤い点線を書き込んだ地図を差し出した。



★地図




「東京湾の埋立地は、昭和から平成、令和にかけてゆっくりと沖合へと南下していきます。佃、晴海、台場、豊洲、有明、若洲そして青海までの埋立地は昭和以前のものです。古くは山を削り砂を運んで土地を埋立てました。近年は山を削って土を積むわけではありません。基本的に再生処分、つまり莫大な量の東京都のゴミで埋め立てます。昭和時代は夢の島と名付け、ゴミにハエが大発生して江東区では訴訟が起きています。新木場や若洲がそのあたりでしょうか。現在は廃棄物の毒性を限りなく排除して海面処分する形になりましたが、その土壌がどこまで健全かは政治を信じるしかありません。いずれにせよ埋立地はそれぞれの歴史を重ねながら、少しずつ、東京湾を沖合に伸ばし続けています。平成が終わり、あたらしく名前がつけられることになった「9号」海面処分場が、「令和島」となります。この島が言わば、最新の埋立地です。」


「よくわかった」

「はい。この最新というのがポイントだと思います」

「どういうことだ」

「お台場を見てわかるように、東京湾の埋立地は東西南北に道路が走ります。人が先に住んだ下町とは違い道路交通が優先的に設計されるからです。しかし、この島はまだ出来てもいない。それゆえに特殊かもしれません。」

「特殊?」

「島にはまだ接続する道路が殆どないんです。」

「なるほど」

「この今、埋め立てをする最先端の令和島には一箇所だけ、おそらくこの地図の一本の道路、ゴールデンゲートブリッジの幹線道路から降りる一本だけの道になります。つまり、もし殺人がこの島であるとすると、袋小路の密室のような場所の中で起こることになります。」

歴史まで噛み砕いて長い説明が「いま」必要だった理由がよくわかった。つまりこの島に入る、その入口から我々には覚悟が必要になる。今夜、いやまさに「今」の殺意が本当なら一箇所しか入り口のない孤島の密室への入りかたを間違えば事件は深刻な悪化を起こしかねない。

 わたしは石原の説明を聞いて、彼女の差し出した地図をもう一度見た。石原の言った言葉にはほとんど反論はなかったが、ただ一点、なぜこの令和島での殺意を金石がわたしに展開しているのかが気になった。

 金石の性格なら、もし彼が本当に追っている事件についての話ならこのやり方はしない。真実の獲得に最も近いやり方を取るはずだ。それよりもこの暗号を私が見逃したときに、次の手が打てない。現に五年間一度もわたしは対応をできてこなかったではないか。わたしは金石が何をしようとしているのか想像ができぬまま、もがくように過去の記憶を辿った。茫漠と巨大な体躯の男が左手でバーボングラスを揺らしながら好きなことをまた繰り返している。酩酊の中、陰謀論を無責任に繰り返したり日中に見せない自分勝手な言葉が並ぶ、あのバーでの深夜ーー。そうして突然なぜか、


(お前は警察の中でとどまると良い。)


という言葉が頭に再現された。一旦浮かぶとそれは本郷文庫の文字列のように脳裏にしつこく張り付いて、取れなくなった。(金石、どういう意味だーー。)

思わず独り言を言ったかもしれない。声に出ていたかどうかはわからない。

「どうしました?」

わたしの目には石原の運転する横顔があるだけだった。

「いや、すまん。大丈夫だ。」

「……。」

「うむ。」

「…銭谷警部補、もうすぐ中央防波堤です。その先が令和島になります。」

石原は再び強くアクセルを踏んだ。辻褄の合わなくなった会話を忘れさせるように強めたのかもしれない。

 その時電話が鳴った。





二百十八 青山墓地  (江戸島) 


「佐島さんでしょうか?」

「はい。」

江戸島はじっとその男を見た。化粧をしている、と思った。いや、正確に言えば、そういう趣味がある人間なのだろうが、何かの乱れで、うまく化粧できていない様子がある。

「あなたですか?妻とのことをおっしゃったのは。」

「いえ厳密には私ではありません。しかし、そう捉えていただいて構わない。」

「なるほど。」

「……。」

「どういう用件でしょう。この場所でなければなりませんか?」

江戸島は少し嫌な表情をした。じつはこういう風に妻の過去の関係者から連絡を受けることは初めてではない。江戸島はすこし、否定的だった。

「このお墓は、季節ごとに様々なお花が飾られます。」

佐島と名乗る男は江戸島をあまり見つめずにずっと墓標の方を見つめている。そうして花を一つ手に触れた。

「月見草ですね。故人はこのお花が好きでした。」

「……。」

「夕暮れから花を咲かせますね。」

「よくご存知ですね。佐島さん。」

どういう関係か、などは江戸島は聞かなかった。おそらく、妻の関係者ということは、ある程度のことは想定ができるからである。

 しばらく黙っていると、佐島と名乗る男は、

「この青山墓地は建国の志士らの墓標もあれば、無縁仏もあります。墓にも寿命があり、時を重ねれば故人を偲ぶ時間は少しずつ減っていくのでしょう。ただ、この辺りで季節ごと様々な花が手向けられるのが、一番多いのはこのお墓かもしれません。」

と言った。それは江戸島には少し違和感のある言葉だった。先日は事情があり急遽来たのだが、基本的に自分はこの墓に一年に何回も訪れはしない。あくまで妻の亡くなった桜の季節に訪うくらいである。これまでも、普通の墓より花が多いのは大企業の会長という立場の自分に幾つかの取引先が気を遣ったのだと思ってきた。実際に妻の葬儀は盛大に行われ、随分のひとが参列していた。

「いつ来ても、どんな季節に来ても、誰かが、それぞれの季節の花を捧げていただいて。季節ごとに訪れた人が花を変えるのを繰り返しています。もう随分の時間が過ぎたというのに。」

佐島はそう言って墓標を見つめている。

「あれからもう、何年も過ぎました。節子さんには本当に……。」

よく見ると横顔に涙が流れているのに江戸島は気がついた。自分の過去の記憶のとある区画を、懐中電灯で照らすような気持ちになった。

「あなたは…。」

「失礼しました。節子さんとの、私の思い出というか、はい。自分が混乱しています。すいません。ちょっとだけ、失礼します。佐島恭平、だとか申し上げましたが、すいません。少し時間をください。実は今、あなたと、話をさせて欲しいのです。」

その声はどこか、それまでの男の声とは違い、女性的だったーー。



219  軽井澤新太による直前までの説明


 わたくしの追う守谷の車は埼玉から東京に戻り、都内を南下しました。隅田川沿いを降り、新木場を超え、埋立地である若洲に入りました。わたくしは、若洲という土地に入ったときに背筋に強い覚悟をいたしました。

 ところがその予想を裏切り、守谷の軽トラックは若洲を素通りしました。GPSを持ったままわたくしは、地図を見ました。御園生君が説明していた若洲の海沿いにある観音像の場所を、確かに、素通りしている。つまり昨夜、江戸島が徘徊した場所には近づかず、守谷の車はさらに東京湾を南へ向かいます。

 午後の終わる日差しが車のボンネットを熱します。西陽に目を細めながら若洲から次の埋立地の方へ橋を渡ります。巨大なゲートブリッジを駆け上がり羽田空港方面に向かいます。橋の最上部を通過する時、ふと東京湾を一望できます。空港や京浜の工業地帯が地図のように並ぶその先に、まだ埋立が途中の生簀のような区画が夕陽に海面を輝かせて見えます。GPSの地図には映らぬその区画は半分ほど埋立が進んでいる様子です。そしてその長閑で美しい夕焼けの終わりを目の前にしながらわたくしは守谷の車を追い続けていました。

 美しい夕焼けのなか守谷の車が左折したのはまさにいま橋の上から眺めていた、地図の表記のない埋立地の方角に入る交差点でした。左折は、つまりお台場の逆、海の沖合の方角になります。その埋立地は、東京湾の最も沖合の出島のように伸びていました。

 わたくしは一旦、島の入り口で車を止め、いくつかの地図アプリを調べました。というのも明らかに出島は袋小路の行き止まりであり、行き止まりのあの島に尾行を走らせるのはすぐに目につくだろうからです。つまり密室のような行き止まりの袋小路に、ドラム缶にコンクリートまでを載せた守谷の軽トラック車を追いかけるのには少し準備ーー覚悟が必要だと思ったのです。

 わたくしは地図をいくつも調べました。

 不思議な島です。埋立地になろうとしている、海でも陸でもない場所。

 GPSでもう一度見る限り、やはり、この島の入り口はどうやらここ一箇所だけのようです。そもそもまだ島を作っているような状態ですから、複数の道路を作って出入りする必要はないわけです。

 追いかければ守谷の軽トラックと鉢合わせになるでしょう。入口が一箇所の出島です。この入り口はおそらくゴミ処理の車両や島の建設を預かる工事車両の通行路です。守谷の軽トラックはその一本の道を迷うことなく進んで消えていきました。いつしか夕焼けは終わり、闇に飲まれ始めると街の光もない沖合は驚くほど暗くなると、守谷の通った工事関係車両用の細い二車線は照明もほとんど少なく沖合の方角は暗く、まるでどこから海になっているのかもわからぬようでした。場合によってはそのまま海に落ちても誰もわからないようなそういう恐怖がありました。

 守谷をリンチした集団を思い出します。

 万が一このトンネルの先にそう言う人間が集まっていれば、安全なわけがございません。

 守谷は一体、何の目的でドラム缶を埼玉の山奥に探し、ホームセンターでセメントを用意したのかなど思いながら、わたくしはGPSと地図に釘付けになって、さまざまなことを思案しました。出島の入り口のその場所でまんじりとした時間が過ぎました。守谷のGPSは島の奥でまだ輝いています。地図上では海の上の沖合にまで進みました。やがて、そこに止まったまま動かなくなりました。

 随分長い時間待ったとおもいます。守谷は一人で何をしているのか。ドラム缶やセメントの粉を何に使うのか。まさか誰かを殺して再びそこに埋めようとしているのかーー。そんなことを妄想していました。しかし誰かを殺すも何も、彼はただ一人でこの道を奥へと向かったのです。

 いつしか夕暮れは終わり、夜の帷が落ち始めました。

 あたりは、建物も何もないせいか暗くなるのが早いようです。明るいのは海の向こうの都内の高層ビルや、空港の照明の輝きばかりで、足元は漆黒の闇です。まるで海面のように生き物の香りがない。わたくしは、闇に覚悟を迫られたようにして、車のアクセルを踏みました。地図にない交差点から島の中へと進めました。地図の上では陸が消えるその沖合に向けてしばらく走りました。入ってわかったのですが、島はかなりの広さがあるようでした。

 しばらく行ったところでした。

 狭い車線に蛍光色の何かが広がっていました。嫌な予感がして、車を停めてアスファルトの闇に光るものを見てみると、そこには、車のタイヤを破裂させることを目的に尖らさせられた夥しい数の撒菱が、星屑のように闇に広がっているのです。

 嫌な予感がしました。

 わたくしは、明らかに意図を感じるその夥しい数の撒菱を眺め、その先の島で何が行われているのかを想像し、恐怖戦慄を始めました。

 守谷や風間を名乗る彼らが起こした事件も、最後にはこの海の果てのような埋立地に辿り着きました。あの若洲がまだ地図の上では海だった時代に起きた事件。少年たちが、当時、海面調整中の埋立地の土を掘り、死体を隠そうとした、あの時の心理と何か同じものが今まさに始まる気持ちがしたのです。ドラム缶に入れた死体を、コンクリートで隠して埋めようとしたあの心理と同じように、守谷が、ドラム缶を用意して、コンクリートを用意しているのですからーー。

 あの小さなトラックには死体などなかった。

 では島にはすでに、何か死体があってそれを埋めるのか?

 そういう作業をまた行うのか?

 わたくしは急ぎました。車がタイヤで通れるように重たい撒菱をどかすのに時間を取られました。よく見ると蛍光色の塗っていない撒菱も大量にあったのです。車のライトを下に向け、私はただ焦りながら、冷たい鉄の撒菱を拾っては脇道へ投げ、辛うじてキャロルの車幅だけ通れるようにすると、ようやく島の中へと車を進め直しました。

 恐怖と、何かが始まってしまう悪い予感に苛まされながら、車上灯を消し、漆黒の闇のなかをすこしずつ車を進めました。

 青ざめた自分の頬が硬く冷たく頬骨に張り付くような感覚でした。

 闇夜に目が慣らしながらうっすらと見える視界の中、どうやら、守谷の軽トラックは島の埋立地の一番南のあたりに止まっているのが見えてきました。わたくしは灯りをつけずに、そこまでは海面がなく埋め立てた土が続いていることを信じて、幾度かに小分けにしながらアクセルを踏みました。少しずつ守谷のトラックに近づきました。

 もう既に、こちらの気配もわかるほど近づきました。守谷がそこにいるならこちらに気がつくでしょうから、最悪の場合、すぐにバックで逃げれるようにギアを意識しながら、少しずつ近づきました。

 あたりには人間の気配は一切ございません。

 もうはっきりと守谷の軽トラックは視界にありました。

 わたくしはそこで車上灯をつけました。

 目の前にはドラム缶が下ろされて、軽トラックの少し横に置かれていました。

 守谷は見当たりません。

 わたくしは車を降りました。

 ちかづいてトラックを探しましたが守谷はいません。私はキャロルの車上灯(ライト)をトラックの方角に当てなおし、トラックの周りを調べ、何もないのを確認してから、今度はドラム缶の方に移動しました。ドラム缶は蓋が空いていました。

 空にはすでに星が見えました。横から闇を照らすのは広大な京浜工業地帯と羽田の照明群です。夏の終わった夜空は静かでした。人間のいる陸の喧騒から離れた沖遠い海上では、星がいくつか瞬くようでした。対岸の工業地帯では御園生君の送ってくれた写真にあったような鉄の剥き出しの工場が夜間も稼働を続けるようでした。それは人間が機械に任せた街並みでした。手前の海路をタンカーやらの海上輸送がずいぶんゆっくりと航行していました。

 全てはこういう場所から始まったのだと思いました。御園生先輩が言った通り、人間がもう見たり触れたりしたくないものに蓋をするときに、さまざまな方法があって、その一つが海に捨てようとすることなのです。都会の喧騒や人混みの街から溢れた出た悲しみを、川へと捨て、やがて海の沖へと遠ざける。海の底へと見えなくする。それこそが多くの人間がみな根源に持つ性質なのです。

 強く深呼吸をしました。

 わたくしは改めてドラム缶の方を見つめました。


二百十九  (太刀川龍一)

 太刀川は深々と呼吸を整えていた。

 集めて作り上げてきた文書が、いよいよ形になる。

 達成感、作業の完遂、というものはいつの時代でも、なにものにも変えがたい。

 金をいくら稼いでも得れない恍惚がそこにはある。

 面白いことが、進むだろう。

 随分長かったーー。

 太刀川はとある刑事のことを思い出したーー。


220 背中 (銭谷慎太郎)   


「銭谷か。」

是永か?と言おうとして、言葉を飲んだ。信用しているとは言え、無駄に今隣に座る石原の前で名前を出す必要はない。

「そうだ。」

「動きがあった。」

「ありがとう。こんな深夜まですまない。」

「銭谷は、金石を覚えているか?」

覚えているのも何もむしろ、是永からその名前が出ることが意外だった。

「ああ。もちろんだ。」

「この所轄から本庁捜査二課に異動した。栄転したのに五年ほど前にやめているはずだ。」

「そうだ。一緒に仕事をしたこともある」

隣で石原が聞き耳を立てたのがわかった。

「その後、あいつと会ったりしたか?その、金石が刑事をやめてからだ。」

「…いいや、ない。」

「実は、今日おれは、奴のことを二回ほど見かけたんだ」

「何、見かけた?」

わたしは思わず声を強めた。

「いや、知っているならわかるだろう。あいつは、二メートルの巨体だ。顔は見えなかったがなんとも言えない、あの後ろ姿を見た気がしたんだ。顔までははっきりとわからなかった。十年以上も昔だからな。すこし別人のようにだいぶ変わった気がする。でもあの巨体は変わらない。あの風情を感じたんだ。」

「署の中でか?」

「ちがう。一度は、署の駐車場。もう一度は、とある病院だ。」

「病院?」

「河川敷、帝釈天の裏の江戸川で重傷を負ったら、どこに向かいやすいか?」

「金町病院だな」

「そうだ。一見そうだ。」

是永は意味を含んだ言い方をした。

「一見は、そうだがーー。」

「もし、意図が働くなら少し場所を変えるか。とすると、亀有病院だろうか。」

わたしは想像していたことを言った。

「そう。俺が見たのは亀有病院の前でだ。」

「……。」

「奴は、病院の前から堂々と入っていった。あの時間、人はほとんどいない。捜査には最も適さない体格だが、警備を突破するのにはもってこいだ。」

 わたしは信じられない気持ちの中に何か、新しく興奮する気持ちが混ざっていくのが分かった。初めて迷惑メールが来た時と同じだ。それは金石という人間が生きているという証左を用意した時にだけわたしに訪れる、非常に特殊な感覚である。

(金石が槇村又兵衛の救出に向かっている?まさか?)

 又兵衛の状況は深刻なはずだ。

 ただ、金石が動いているなら、わたしが動くよりいいーー。

 わたしの脳裏にそういう言葉が悲しくよぎった。

 奴が動いて駄目なものはわたしでも同じだ。それが実力だ。わたしは結局、組織での立場を選んでいる弱い人間だ。地位を捨て自分の実力を信じ仕事を進める金石に叶うわけがない。

「銭谷、大丈夫か?」

わたしの怨念を打ち破るように是永の言葉が電話の向こうで響いた。

「あくまで金石については確実な情報ではない。もう少し調べてみるから待ってくれ。場合によっては、俺も亀有病院に行ってみるかもしれない。」

「すまない。是永、無理はしないでくれ。」

「無理などしていない。」

「しかし」

「いいか、これは、俺が好きでやってるだけだ。それだけってことは忘れないでくれ。」

刑事の血がうごめく言葉だった。良き友を持っていることをわたしはほとんど知らないで生きてきていた。

「是永、すまん。なんと言っていいかわからない。いま、こちらは、別件の現場に向かっている。実はそちらもかなり重たい。」

石原がこちらを気にしているのが分かった。

「別件の現場なのか。この時間に大変だな。まあエースにはエースの仕事がある。そっちがまず大事だろう。わかった。動きがあり次第連絡する。」

「ああ。」

わたしは電話を切りながら、殺意の島に向かう目の前の現実の景色に戻った。金石からのメールや伝言はこのまま埋立地へ迎えと言っている。それに反して金石と思われる二メートルの巨漢が埋立地ではなく、河川敷の上流の槇村又兵衛のいる場所を探している。

「罪は川に流し、遠くの海に捨てたくなる。それが人間なんだ」

わたしは、もう一度、又兵衛老人の言葉を思い返していた。




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天国の少し手前 下北沢候二 @shimokitazawa5

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