殺人の前日  (九月十四日)

百四六 変装譚 (石原) 

 

 石原はその人間の言葉が好きだった。

 その人間は存在そのものが特殊だった。そもそもSNSでしか触れることはできない。テレビには出るわけがないし、街を歩いて会えることもないだろう。実体は不明だ。ハッカーだという噂もある。性別も年齢も不明。名前も、言葉も、すべてアノニマス。もしかしたら老人かもしれないし、中学生かもしれない。


 R 0224


 というハンドルネームで、プログラム言語周辺の知識を語っている。石原にはわからないがその方面の発言では開発者の中ではカリスマ的な人気があるらしい。またそのアカウント自体を定期的に廃止して新しいものに変えるのもおそらく自分の素性を強く隠蔽しているがゆえかもしれない。

 石原が何より興味を持ったのは、このR0224の変装についての知見や考え方だった。そもそもネット上でも顔も声も素性も晒さぬのだから、変装者のようなものなのだがーー。

 変装についてのR0224の語る細かい技術が面白く、石原には役立った。

 警視庁で誰かが変装について教えてくれるわけではない。ありがちな、いくつかの小道具は拝借はできたが、細かい最新の技術は用意がないし変装を指導するような担当者がいるわけでもなかった。ましてや銭谷警部補の作業のためなどとは言えるわけがない。その点、R0224は、細かく変装のことを紹介している。まさに自分が変装家として、変装の課題について書いているのである。

 表現が面白い。メガネや、服装のことから始まらないのだ。

 変装には、まず、精神的な世界が大事だという。

 自分ではなくなること、見えない部分から変更すること。違う人格を生きること。通常の人格の記憶を失いさえすること。それぐらい危険なことまでして初めて、本当の変装が成立する。

 石原はここまでのことはできないと思いながらも、


R0224


の言葉を参考にするようにしていた。実際に役立った。先日は銭谷との面会の時に男性用の下着を持ち歩いたりしていたから、少し恥ずかしくなってしまったが、変装している間はかなり安定があった。そこまでこだわると、尾行という不自然さが昇華して、自分がこの世界から消える感覚がある。やがて純粋な別人格の通行人になることができ、そして風景の中に自然に溶けていく気がした。例えば太刀川が突然立ち止まっても、こちらは変な所作にならない。

 とはいえ荷物にも限界があり、また、トイレで着替えるにしても女性トイレから出てくる中年男はまずいのもあるから、出来る限り、自宅からやらなくてはならない。外出先でやる場合は、ある程度は人通りの少ない場所を探して調整するしかない。

 眉毛を男性のように書き、そして黒くこれも流行とは少し違う質の眼鏡をかけた。ネルのシャツは青紺と白で、ジーンズもスニーカーも石原が日常絶対に履いたりしないものだ。変装は人格。内面から、という


R0224


の言葉が強く生きる。鏡で見てもそれが自分とさえ気がつかないほどに。そしてそれが結果として自信になる。その自信が万が一太刀川が振り返った時に最も自然な対処をさせてくれる。

 今朝も石原里美は六本木の駅の入り口を遠目にして、太刀川が通るのを待っていた。



百四七 夢の終り(レイナ)


 真っ赤なテーブルは血塗れだった。

 白いテーブルが白かったことを思い出せない。銀色の什器や真っ白なお皿の背景が赤くなった。

 そこにいた軽井澤さんや、御園生くんが既にいなかった。血はみるみる広がる。自分の手首から流れていく。

 そうおもってふと自分の体を見る。

 手首から血は出ていない。

 そのかわりに、もう一人テーブルでうつ伏せている人間の後頭部がある。

 それは母だった。血は母の血液だった。

 死んでいる母だった。

 母の写真を見たことがないけども、脳天のつむじでそれは母だとなぜかわかった。

 誰にも言ったことのない、いつもの会話が始まる。


本当はあたしは殺していない。

そんな記憶ないもの。

好きじゃなかったけど、憎んでもいなかった。

事実と現実はちがいます。

あたしは殺していない。

凶器を持っていただけ。

散々言ったじゃないか。

あたしは覚えているんだって。

何もかも忘れてなんかいない。

だから、記憶にないんだって。

衝撃で忘れたりなんかしないから。

そう言ってるでしょう。

それなのに。

もう判決を出したんでしょう。

それを変える気もないし、変更できないんでしょう?


 それは節子さんにもいったことがない言葉だった。

 脳の中で繰り返す、あたし、の会話だった。

 自分一人の会話。

 その会話がはじまると、自分は最悪になるとレイナは知っている。心が乱れて、終わりのない場所に向かっていく。


「でも大丈夫。」


節子さんが言葉を始める。

節子さんが手を握るのがわかった。


「大丈夫だから。」

 

レイナは反論する。


「大丈夫なんかじゃない。あたしを更生なんかさせずに、殺してくれればよかったじゃないか?あたしが世の中に戻る意味なんて、どこにあるの?」


目の前は血の海が立体的に波打っている。

赤い海で自分が窒息する。

でも手を繋ごうとする、節子さんの手がある。

掌の温もり。それでも、人間は孤独だという言葉。

節子さんがまだいる。

びっくりするくらい、怒っている。

 

「約束したでしょう。

 才能を前向きに使うって。」


「玲奈さん。

 あなたは才能があるって。

 約束したでしょう?」






百四八 捜査一課長(銭谷)


 捜査一課課長室は扉が高かった。

 わたしは近頃にない早い出勤をした。

「早乙女さん、先日はメールをもらいましたよね。」

そう言ったわたしの目を最初、早乙女捜査一課長は見なかった。見ないことでわたしは大概を理解した。

 わたしは、早乙女の表情だけを確認したくて来た。目を見れば大体のことはわかるが、目を見れなくても似たようなものである。

「沙汰は、まだだな。」

早乙女は、太った体で朝から汗ばんで、忙しいんだという空気だけを作っていた。課長室にわたしがアポなしで入ることへの少しの不満もありそうだった。

「なるほど、わかりました。」

わたしは世間話もせず、すぐに退出することにした。

 一瞬顔を見れば十分だ。わたしの人事について、まだ特に重要な変化が起きている様子はなかった。そうと判るとこの部屋を早く出たいと思った。過去に同じ釜の飯を食った早乙女が、雲上人の捜査一課課長だ、という別物の空気をさせる空間が、嫌なのかもしれない。無論、本人は何も変えていない、という態度でいるが、それが余計に鼻につく。

「失礼しました。少し、メールの書き方が気になっただけなので。」

わたしが席にも座らずにそういって、退路へと向かうと、

「ゼニ。」

と、古い呼び方で、背中を白い声が追ってきた。

「……。」

「ゼニ。最近はどうしてるんだ?」

呼び方を昔に戻すのは懐柔の一種でこちらの暴走を止めようとする気持ちの露呈でもある。暇にさせると、過去の事件、六本木やそのほかの捜査をまた勝手に始めるだろうと早乙女は思っている。そしてそれは、ある程度は当たっている。

「いや、べつに。ただ、沙汰を待ってますよ。」

わたしは嘘をついた。

「うむ」

「……。」

「おとなしくしておけよ。」

メールにもあった文言だった。わたしは引っかかった。

「おとなしくする、というのは、少し深い意味があるようですが。」

「そんなことはない。ただ、言葉通りだよ。」

「警官の職務はひとつだけ、犯罪を暴くことですよね。」

わたしが綺麗事をいうと、早乙女は機嫌を損ねた様子で、

「そうだな。」

とだけ言った。言葉と逆の表情がそこにある。

「以前から申し上げている通り、わたしはそういう論理でしか動けませんからね。」

「そうだったな。」

「では、失礼します。」

わたしが早く去りたいのだと、空気を出すと、早乙女は

「銭谷。全員がその理想論では無理だぞ。組織で動いているからな。」

「……。」

「わかってくれ。お前が現場に出たい気持ちは誰よりわかってるつもりだ。だが刑事そのものを、させられなくなってしまっては元も子もないだろう。」


 わたしは、大部屋に戻る廊下に出た。

 歩きながら少しずつ、わたしは憂鬱になった。早乙女の最後の言葉が、静かな脅しになっていたからだ。言葉の上では労いを言っている。しかし本質は違う。逆なのだ。「刑事そのものをさせられなくしたくない」というのは、つまり、最悪の場合刑事の現職を取り上げるということだ。やはりメールも脅しだった。文面として残しても人事的脅迫にならない線を意識した、官僚らしい警告だったのだ。刑事の現場では大した実績もなかったくせに、官僚らしい技や用語ばかり覚えやがって。

 昔から、犯罪捜査の世界では早乙女の評価はずいぶん低かった。幾つもの事件を早乙女係長でなく、その下の現場の刑事たちが解決してきた。捜査現場では圧倒的に現場の刑事の力が上だった。俊敏に、迅速に、圧倒的な先手で動いた。対して早乙女は、太った体で汗ばんで、初手を悩みながら席に座ってるだけだった。何をしても判断は遅かったし、上層部に確認などをし始めるとただ足を引っ張るだけだった。犯人が刻一刻と逃げていく現場などでは上層部のご機嫌など伺っている暇はない。ノロマは致命傷だった。

 ただノロマで現場に弱い係長のおかげで、若い我々の権限は結果として相対的に大きくなった。報告してもたいして良いアイデアも降りてこない係長への報告をサボるせいで、結果として現場の迅速な判断は増えた。現場の判断が早いだけが理由ではなかったけども、早乙女殺人二係は、多くの事件を早乙女への報告や判断を経ずに解決し続けた。結果として成績は群を抜くようになった。早乙女係長を現場に関わらせずに成績を収めるーーいつしかその中心が、わたしになっていた。

 ただただ現場の捜査に邁進する日々は幸福だった、と今は思う。

 その間、早乙女係長が、その手柄を細かく幹部連に報告して、人事的評価を肥やし、課長に上り詰めて行こうとしてることは気にも止めなかった。いや、わたしに至っては、いつも蚊帳の外にしていた早乙女が喜んでくれるならそれも良いとさえ思っていた。多くの現場は、犯人を逮捕する喜びがあるだけで出世の計算など後回しなのだ。そんな計算をしてたら捜査は進まない。捜査の現場では一瞬一秒が勝負で、肩書きの計算などはないに等しい。ただ犯人を捕まえるだけで満足だった。

 捜査一課長は我々ノンキャリアの警察官が登り詰める最高峰の「肩書き」である。早乙女は上り詰めたのだ。上り詰めてしまえば組織全部が自分のものになる。生意気で報告もない出身母体二係の刑事だけの係長ではない。特定の刑事係に頼る必要はない。ふとわたしが早乙女と殆ど会話していなかったのに気がついたのは、彼が捜査一課長の手前の役職に昇進して二年ほど経った頃だった。それまでは毎日のように顔を合わせていた間柄だったのだが、もう我々には会話さえなくなっていた。早乙女はもっともっと自分の言うことを聞く部下を、大勢手に入れはじめ、生意気ばかりで報告もない面倒なかつての部下との関わりを少しずつ減らしたように見えた。

 そして六本木の事件が起きた。

 やはり、太刀川の事件は途中で、風向きは変わったと思う。

 あの事件で、警察組織は何らかの力を受けた。圧力があった。圧力がなかったと考える方が不自然だ。

 不自然な圧力があるとすれば、その圧力は、何らかの形で警視総監のような雲上人から現場に降りる。その中継点として、早乙女の位置がある。太刀川の捜査本部を途中解散させ、金石が失踪したまさにその翌年、早乙女は念願の捜査一課長に昇進している。

 雲上人になっていく早乙女の論理と、当時の金石やわたしの感覚は、恐ろしく乖離していた。言葉を気にせずに言えば、警察組織にとって、我々は危険だった。なぜなら、我々には捜査の現場しかなかったからだ。現場には人間の死がある。我々は死の尊厳を優先していた。警察組織を守るより死者の真実を優先していた。

「警視総監でも躊躇なく逮捕する。」

それが、金石の口癖だった。わたしも同じだと思っている。

 早乙女の言葉を借りればわたしも金石も狂っていた、ということになるだろう。



百四九 パラダイム (銭谷)  中断金石の涙を、再読希望


 人間の死を扱うと、心がおかしくなることがある。

 単純な死体の場面でおかしくなる訳ではない。

 死体は厳しい現実だが、物体に慣れることは出来る。慣れた後には、実は死体は死体でしかない。

 本当に苦しくなるのは、遺族との対面や会話が始まってからだ。 

 遺族と会い、会話を始めるうちに少しずつある一定の変化が始まるーー。

 物質としての死から、なまなまとした命、人生の最後としての死がそこに現れる。

 泣き崩れる遺族に、刑事である我々は幾度も質問をしなければならない。殺された理由、殺された被害者の特徴、経歴、年齢、性格、まだ生きている時に最後に話した場面。質疑は全て、遺族の記憶や思い出の回想に頼る。質疑をしながら、かつては目の前に生きていた人間の命を繰り返し辿ることになる。

 遺族は、大抵涙を流し、流さない場合は途方に暮れて涙が出なくなってしまった顔をする。過去を刑事に説明して遡るたびに、戻らぬ命を取り戻せない現実の壁に悩み苦しむ。苦しみの中で典型的な後悔ーーー最後に会った時にこうしておけばよかった、あの日はあそこに行かせなければ良かった、この一言だけは話して伝えておきたかった、というような際限ない後悔が溢れ続ける。まさにその中で捜査を行うことになる。

 わたしは情に厚いわけではない。それでも被害者遺族とは彼らが許す範囲で近しくなる。あえて言えば、わたしが正しいと信じる捜査手法とは遺族との会話を重視するものである。一見遠回りに見えて、実は被害者がどんな人間だったかを知ることで真犯人の正確な想像が進みやすい。遺族と会話をし、情報を多くもたなければ、犯罪者逮捕に遠回りする可能性さえある。結果として会話が増え、被害者遺族と刑事の間に、一言では表し難い感情が生じていく。少しずつ、被害者遺族が同伴者となり、知人になり、やがて友人になっていくのである。

 机に座って警視庁の内部の論理を算段するだけの早乙女はわたしの感覚とは合わない。議論にもならない。当然だ。彼は遺族と友情を培うような捜査をしたりはしない。むしろ遺族との会話は、現場に任せるだけだった。

 捜査の現場では被害者と刑事との距離が近づくうちに、殺人犯が「ただの悪魔」から「刑事である自分の仲間を殺した悪魔」に変化する。そのあたりで、わたしは組織人としての感覚が崩れ出す。特に親が遺族で、子供を殺された事件でこの傾向は強まってしまう。

 夫を失った人間は未亡人。

 親を失った子は孤児。

 それぞれ呼び名がある。

 しかし、子供を殺された親を表す言葉がない。

 悲しすぎて言葉にして説明する気持ちを失うからだーー。

 若い女性が亡くなった六本木事件はまさにその典型だった。

「このまま一生、毎朝、毎秒、恨んで苦しんで終わると思います。せめて犯人を捕まえてください。突然、事故に変わったなんておかしいです。許せないです。」

娘を殺された母親の涙を我々は幾度も見た。

 母親と幾度も会話をし、彼女の気持ちを正確に知り、死んだ女子大生がどんな人間だったかがはっきりと理解されていくと、メディアが報じたような女子大生が夜の商売をしていたとか、富裕層に憧れて夜毎に街に出ていたとかは嘘でしかないのはわかった。実際に彼女は二度ほどしか、六本木に行ったことがなかった。他の場慣れした人間とは全く違う不慣れで真新しい存在だったのが、事件の理由だったのかもしれない。検出された薬物などを常習していたとはとても思えない。

 母親は、いつ我々が伺っても、誠心誠意対応があった。

 しかし、女子大生の思い出を語っていく会話の後半は、やはり涙が止められずにいた。娘を殺された母親が流す涙を見て覚悟が生まれない刑事などいない。少なくとも、わたしの横で周囲も気にせず涙を流した金石はそうだった。 両親が本当に大切に育てたことが、母親の言葉を聞いてもよく伝わった。父親はこの件で体調を崩し、精神的な問題もあるため警察から触れないでほしいという母親の依頼もあり、母親は全ての対応を一人で行った。実際には父親は病院に入院し葬儀にも検死にも立ち会えなかった。実際にこの父親に会った事のある金石は、見るも無惨な父親の姿に面会後もしばらく体調を崩すほどだった。まさに一人娘を失い会社も辞めてしまった父親は人生そのものを失ったのだと、金石は繰り返した。

 何度も繰り返すが、それは突然の変化だった。

 警察組織の中で忖度が生まれた。事件に、なにか触れては行けない場所が絡んでいるらしい、という空気が出た。このまま捜査を進めて大丈夫なのか、という空気だ。そして同時にメディア報道が変質を始めた。見えない力があるのか分からない。しかしそれまで太刀川を非難していたあらゆる言論が趣を変えた。例えば、別の報道を優先させたり、頻度が変わったり、論調の違うコメンテーターが出演するようになった。そして、なぜか、娘を殺された被害者側が、何か問題があったかのような報道が急に始まった。被害者は六本木界隈の夜では有名だった、とか、女子大生には刺青があったとか、薬物の売人と関係があった、という推察じみた情報が堂々と一流のメディアで報道された。誤情報もあった。しかし誤情報をしっかりと報道した数日後に一瞬「誤解がありました」とアナウンサーがお詫びする程度だった。多くの視聴者は元々の誤情報つまり間違った方の情報だけを信じた。

 変化は明確にそして揺るぎなく続いた。警察内部では、沖縄、六本木、それぞれ死について踏み込んで現場に触れるのは良くないという空気だけが広まった。警察官は報道および権力の空気を読む。その空気に同調しないのは、多分危険だという常識がある。むしろ金石やわたしのような刑事はかなり特殊だった。

 そういう変化の中で金石とわたしが確信したことがある。

 女子大生が死んだあの部屋に、とある非常に重要な人間がいた、ということだ。

 その人間の名前を隠すためにカメラが止まった。でもそれにはカメラを止めることができる人間でなければならないーー。

 事件が事故に変わった。でもそれには事件を事故に変える権力を持っていなければならないーー。



「女子大生は間違いなく殺されたのだよ。事故死だとしてもそこに、大人が関わっている。」

「何のために?一体誰が?」

「……。」

「金石。この事件について、少しだけ思っていることがある。」

「なんだ?」

「実は、お前にとっては、元々、その大人が内偵対象だったのでないのか?」

「……。」

「つまり、捜査二課の常套である、隠密の作業があった。その対象は権力者だ。事件を事故に変えれるような、防犯カメラの電源を自然に停めたりすることのできるような、人間だ。その内偵捜査がメインだった。その作業の中で、突然その対象者が、随分派手な事件を起こしてしまった。多かれ少なかれ、内偵作業への影響が発生してしまった。本来であれば、そこで対象を逮捕して終了させる話が、どうしてもそれができない事情も生じた。」

「……。」

「お前は、当然、そういうこれまでの内偵作業を捜査二課の上層部には報告をしていない。もしかすると、恐ろしい秘密や、警察権力にも都合の悪い情報まで知ってしまった。人間が死んだ、少なくとも二人の死については、むしろそういうお前の内偵の作業がなんらかの理由になって絡んでいる可能性さえあるのかもしれない。」

「銭谷。少しだけ待ってくれ。」

「……。」

「すまん。理解してくれていると思っている。少しだけ待ってくれ。もう少しなんだ。」

金石の表情を思い出す。我々がやるべきことは至って簡単だった。犯罪に関わった人間全ての名前を証拠付きで、全部まとめて同時に開示することだった。そこにいて、殺人に関わったとされれば大問題となるような人物の名前を完全な証拠とともに、出す。それが、少しでも小出しになれば、警察上層部から逆流して我々の捜査自体が壊滅させられる。

 それがわかっていて、金石はわたしにさえ何も言わなかったのだ。

 そしてその情報をまさに掴もうとしていた時に、肝心の金石自体がいなくなったのである。




百五十 祖師谷宅 (赤髪女) 


 赤髪女は昨夜、新木場の埋立地から逃げるように自宅に戻った。電車に乗るときも、しつこく追尾が気になり、何度も後ろを振り返った。

 GPSはずっと見るようにしている。風間のオレンジの輝点が何故か消えた。新宿から始まっている青点と、探偵事務所の車の緑点の動きを暇さえあれば見る癖がついている。

 ただ、このGPSへの指示者の興味は薄まっている。既に指示者は次の標的に向かっているのだ。あの埋立地に現金をとりにくる男だーー。

 本来はそのオザキと名乗る男に、GPSを設定しなければならない。

 海風の中、遠くからこちらを見ていた人間がその男かはわからないが、赤髪女には恐怖があった。何故か純粋に怖いと思った。携帯電話で話して声を聞いた時から、オザキと名乗る男には少し別物の恐怖があった。

 正直その男に近づいてGPSを取り付けることなどできる予感がしない。

 赤髪女は、昨日のGPSの記憶を辿った。

 昼の時点で探偵の車は、二重橋にいた。夕方まで動かなかったが、その後、銀座に移動した。

 あの探偵が銀座で食事をする想像がつかない。とするとX重工の会長を尾行したのかもしれない。二重橋に来たのも含め、一応そういう流れがある。

 指示者への追加の説明はそうしてみよう、と思う。

 探偵の車を示す緑点は、そのあと、銀座から海の方に向かっていた気がするが、最終的には、代々木上原のあたりにしばらくいた。そして、深夜に事務所まで戻った。

 このことを自分なりの解説をしながら報告しようか。

 その報告に加えて、またお金を新木場に置きに行く。

 今日のところはそれでいいと思う。

 新しい指示者の仕事は金がいいけども、ふと気がつくと自分が毎日忙しくなっている。薬のせいでさほど気がつかずに過ぎているが、以前の、金を拾うだけのような単純な仕事の時はこうではなかったと思う。以前の方が自分の生活にも心の安定にも良かったかもしれない。生活にちょうどいいくらいの、のんびりとしたお金が落ちているくらいの方が。




百五一 視線飼育 (太刀川龍一)


 今日、太刀川にとって重要な仕事がある。

 いつものように、ヒルズの住居棟を降りると太刀川龍一は六本木の駅へと向かった。

 朝六時十五分。毎朝の時間を変えないことによって、時間についての思考を減らすことができる。その分、脳の時間が解放される。これは多くの科学者が愛する思考法でもある。

 もう一つ。太刀川は闇を見ることを好んでいる。

 例えば、地下鉄の窓のなかで窓は鏡になる。そこに現実の世界がうっすらと闇に半分犯されたように、写っている。そうやって眺める世界は心にある別種の、感覚を与えてくれる。そうやって鏡面越しに覗き見をしているときは、眺めているこちら側の人格を消し去ることができる。その喜びも重なる。

 地上を走る列車ではこれは起きない。

 川端康成の雪国の列車での二重写しが有名だが、自分の呼吸でガラスが曇る時、その曇った窓ガラスのなかに小さく指で穴をつくると、その鏡で自分の目線を隠しながら車内を見回すことができる。誰にも視線を悟られることがないというのは愉快であるーー。

 インターネットの世界では、人間がパソコンやスマホのどの場所を見ているかという視線位置まで全て過去に遡って管理ができる。そういう管理をネット企業であるパラダイム社で太刀川はたくさん行った。それによって、その人間に最適な広告を出せばそれだけでモノが売れる確率が何倍にもなる。広告だけではない。記事本文を工夫すれば人間の心を誘導することさえできる。戦争をすべきという世論も作れるし、逆に平和への祈りを醸成することもできる。

 検索の履歴も、住んでいる場所も、ネットで買ったもの、どの迷惑メールに反応するかも含め、ネット上の全ての行動が参照され、全ての人間の行動を正確に予測できてしまう。誰しもが自分の意思でインターネットに参加しながら、みずから情報をそこに預け、飼育されていく。民衆の飼育という言葉ほどインターネット文化の背景に適するものはない。

 その仕組みをこの国で懸命に作り、会社の上場をさせたのは他ならぬ太刀川自身だった。そうしてその自分自身がインターネットに絶望したのである。全ての情報をサーバーに預けてきた自分がネットとの一切の関わりを捨てたのだ。言葉を変えればそれくらい怖かったーー。

 飼育されてはいけない。

 この地下鉄の車内は大切だ。

 ここではどんな権力も誰も何も把握できない。

 太刀川は自分の将来が誰かに把握されることだけは許せなかった。



百五二  大阪と福岡(御園生)



 守谷保  本名 昭和二十五年三月十五日出生

        大阪府東大阪市いろは番地に号

 風間正男 本名 昭和三十三年十月五日出生

        福岡県久留米市にほへ番地と号


 僕がテレビ会議室に入ると、既にこの文字列が画面に映し出されていた。

 米田さんが画面に既にいて、少し遅れて、軽井澤さんが入った。

「さっそくですが。ご依頼の二人のものです。」

米田さんが言った。じっと文字面を見ながら、軽井澤さんが

「本人に間違いはないということですかね。」

「説明すると長くなりますが、まあそうですね。」

米田さんはそう言い切ったが、いきなり戸籍と言うのがよく分からず、僕は少し微妙な表情をした。そもそも軽井澤さんがいつのまにか米田さんに戸籍調査を頼んでいたのも知らなかったのだが。

「私は風間にも守谷にも会ったことはないのですが、奴らがこんな三十代ということはあり得ますか?」

と、米田さんは突然若い守谷のような空気とは程遠い写真を出して聞いた。

「それはないですね。申し上げた通り、五十歳前後だと思います。風間も守谷も。」

軽井澤さんが答えた。

「日本全国に風間正男は、二名。守谷保は三名いました。」

米田さんが言った。

「そんなものですか。」

僕は思わずつぶやいた。

「ええ。風間の苗字で二千人くらい、守谷でも同じくらいです。下の名前まで含めると、こんなものです。完全な同姓同名は意外と少ないです。鈴木とか、太郎とかであれば別ですが。風間正男は、三十代が一名と、六十五歳がひとり。守谷保も二名のうち一名は二十代でした。この世代の若者はネット上に顔写真をあげるようですね。」

そう言って米田さんは、ネット上の風間正男と守谷保を名乗る、双方の顔写真をもう一度見せた。どちらも見覚えのない人間の顔だった。僕は、守谷しか会ったことはないが、はっきりと違った。風間の方も、軽井澤さんは全く別人、と言う表情だった。そもそも若い二人は、元気で快活な写真で、ブログを書いているような社交的な陽気さにあふれていた。私刑や猫の死体の印象とは違っていた。

「お話を聞いている限り、風間も守谷もスネに傷のある様子ですからね。ちょっとちがうかなと。そうすると、この二人しかないかなと。」


 守谷保  本名 昭和二十五年三月十五日出生

        大阪府東大阪市いろは番地に号

 風間正男 本名 昭和三十三年十月五日出生

        福岡県久留米市にほへ番地と号



「ううむ」

「可能性がある戸籍が、日本国全部で、この二人だけ、になります。」

「大阪と、久留米ですか。」

僕は米田さんと軽井澤さんの会話に、質問を投げかけた。要するに風間と守谷の戸籍を少し微妙なやり方で調べたと言うことだろうか。僕がレイナさんに微妙な話を頼んだのと同じ種類の事かも知れない。米田さんは色々と役所界隈でのルートがある。

「やはり同郷というわけではない、ということですかね。」

僕がそういうと、米田さんは、

「戸籍からだけでなく、この大阪と久留米の人間の経歴も出せるみたいなので、そちらも、後ほど出そうと思えば、だせます。」

「なるほど。」

「が、まあ、そちらは調べなくてもいいかもしれません。」

米田さんは切り捨てるように言った。

「調べなくてもいいとはどういうことですか?」

僕は、少し気になった。軽井澤さんは黙ったままだった。

「つまり、その、この二人とも年齢が合わない気がするんです。六十八歳と七十五歳ですから。」

米田さんは呟いた。

 よくわからない混乱が訪れた。がしかしある納得が、後から腑に落ちた感じも、すぐにもやってきた。ちょうど僕も腑に落ちたころに

「やはり、元々、名前自体が偽物でした、ということですか。」

軽井澤さんは静かに、唸るように言った。

「まあ、そうでしょうね。それが納得しやすい。彼らが見た目は五十くらいであれば。」

米田さんは画面の向こうでそう言った。

「おそらく、どんなに頑張ってみても六十には届かないと思います。」

しばらく三人は沈黙になった。

 僕らの前に現れた二人の人間は風間と守谷と名乗った。

 しかしその戸籍を調べると、年齢が違う別の経歴が出てきたのだ。

 そんな事があるはずはない、ではないか。

 僕が、そういう顔をしていると、軽井澤と米田さんの二人はテレビ電話の画面上で、少し思い当たるような表情をした。

 僕は、それが何を意味するか、わからなかった。なんとなく二人の間に符丁があるような気がして、質問などを出来ずのままだった。



百五三 是永警部補 (銭谷警部補)



 早乙女との時間や言葉を脳裏から消し去るのにタバコが五本は最低でも必要だった。頭を麻痺させるぐらいにニコチンを与えてからわたしは刑事部屋に戻った。人が出払っていて、閑散としていた。

 大部屋のテーブルの端にわたしがいつも陣取ってきた場所がある。まだそこは誰か他の人間が占領はしていなかった。少し久しぶりに座った気がした。

 席に座って少し落ち着くと、わたしは昨夜の浅草での老人とのことを思い返した。

 昨夜、老人は酔狂の途中で勢いを失った。きゅうり(きっかけ)はどうあれ、その後は、不景気なありきたりの会話になった。金石やわたしの仕事の談義から遠ざかり、ぼんやりとし、どこかで不完全燃焼の空気になったあと、すぐに別れてしまった。飲み足りないわたしは、浅草で、逆に一人で痛飲となってしまったのだが。

 老人は何かを隠している。それはわかった。でなければ、そもそもわたしの休日を尾行して浅草で待つようなことはしない。

 何かを隠していると言えば、わたしも同じだ。

 金石、いやKからのメールのことは言わなかった。老人が新人配属の頃から可愛がってきたというのに、

「金石には、連絡ができないでいる。」

という言葉でわたしは壁を作った。嘘は茫漠と響いた。実際にわたしから連絡は出来ていないから厳密には嘘ではないが、老獪な刑事にはわたしの心理的隠蔽は伝わっていると感じる。

 ふたりの刑事は、お互い相手の本心を知ることができなかった。ただ、話したくもない人間だとしたら、私は最初から避けていたはずだ。むしろ老刑事と自分のあいだには何か直感があった。お互いどこかで思うことがあり、なにかがある。

 又兵衛刑事は、定年で明日からのんびりと暮らそうという人間ではない。刑事の引退とは真逆の執拗さで、なにか捜査がまさに今行われてるかのような熱気さえあるのだ。仕掛り中の強い意志とでも言おうか。長い時間をかけてきたものへの執着とでも言おうか。何かが彼の目の奥にはある。そうでなければ、誰かの休日を待ち伏せしたりはしないし、店員がテーブルを揺らしたくらいで睨みつけたりはしないだろう。

 私用の電話が鳴ったのはその時だった。

「銭谷か」

「是永か。どうだった。」

わたしは大部屋を見回し、流石に声が響くので携帯電話を持ったまま、再びタバコ場に向かった。

「色々忙しいのに悪いな、是永。」

「気にするな。もう現場ではない。で、槇村又兵衛のことを引き続きと、あと追加はK組のことだったな。」

是永も、もともとは根っからの刑事だ。メッセージとは違い電話の声は、彼の情熱がそこにあった。

「ああ。そうだ。K組のことは追加ですまん。」

わたしは又兵衛と別れた後の浅草で是永に連絡してK組の調査を追加で頼んだ。K組といえばまさにA署の管轄だからだ。

「K組ーー。本拠地 足立区・・・、構成員数百八十人、指定暴力団、独立系組織。」

是永は淡々と概略から述べた。

「昭和の時代、オイルショックのころにまあまあ拡大した。最盛期は構成員三〇〇人。その当時の清原組長というのが立派だったらしい。全国的な暴力団とは友好関係を結んで、この辺りでは珍しく独立系で過ごしている。」

「立派か。今時聞かない言葉だな。」

「まあな。清原組長はバブル崩壊ごろに亡くなって、それからはK組はゆっくり縮小していってる。最近は若手がいないって嘆く人間が多いらしい」

「どこも似たようなものだな。」

「若者がヤクザしたがる時代じゃないからな。老人ばかりが増えている。五十代が多い。若手が不足している。ほら、暴対法なんてのも変わってきてるのに、それに対応が出来ていない。」

「……。」

「五十代のヤクザ、こいつらはまあ、大抵、一九八十年台のつまり昭和の最後の暴走族上がりが多いのが特徴だな。不良が大量に暴力団に就職した昭和六十年ころ、どこもかしこも暴走族出ばかりだった。」

是永は、汚い言葉を話すように言った。

「で、又兵衛はそのころの暴対(四課)担当だったらしい。若くして活躍していた。」

K組の事務所は是永の所属するA署の所轄に点在する。又兵衛もA署であるから若いうちから色々な事件で人間関係があったのかもしれない。

「普通の話だな……。」

「まあ、そうだな。普通だ。だが、少し奇妙なことがないと言えば、ある」

「ある?」

「ああ。たしかに奇妙と言えば」

「このやくざが、最近身内で、ちょっと喧嘩を始めたんだ」

「けんか」

是永の話はそこで、彼らの行った、私刑や、リンチのようなものを紹介した又兵衛の話と繋がった。

「奇妙なのは、そう言う私刑が、表沙汰になったってことだ」

「……。」

「わかると思うが、やくざは身内の私刑をわざわざ通報したりしない。身内の小指をハサミで落として警察に行ったりはしないし、私刑して警察にその情報を流す必要は一切ないはずだ。」

又兵衛と同じ話を、是永は饒舌に話した。おそらく、是永にもここに何か気になる点があったのだろう。

「A署的にも少し困った事件だな、と言うことか。」

「警察もご存知の通り忙しいからな。今銭谷、お前が思っていることをA署の皆が思ったわけだ。そもそも、暴力団から市民を守るのが仕事なのに、暴力団同士の下世話な喧嘩の捜査をしている暇はない。捜査をしてみたところで誰もが口を破るわけもなく、逮捕してみたところで身内の小競り合いに税金を使うようなものだ。そういう放置だったものに手を上げたのがーー。」

是永はそこで少し間合いを置いた。

「銭谷。その手を上げたのが、今お前から質問を受けてる、槇村又兵衛刑事なんだよ。」

わたしはその言葉を予想していた。おそらく是永もわたしの対応を予想していたかもしれない。

「ふむ。なぜだろう。」

わたしは素直に聞いた。

「分からん。元マル暴の血なのかな。これは彼が少し力んだと聞いている」

「りきむ?」

「なぜ、こんな事件に手をあげるのか?ってことさ。」

「なるほど。」

「と言っても、又兵衛刑事には結構な実績というか過去の栄光もあるからな。もしかすると、なにか特殊なネタや期待値があるのかもしれない、そういえば、あのK組の亡くなった清原先代とも又兵衛刑事は色々あったはずだとか、みんな色々勘ぐった。もしかすると、大きな事件に繋がるネタかもしれないとか、すごい大捕物に繋がるのではと。」

「なるほど。」

「で、ここからは元々のご依頼の槇村又兵衛についての話になっていくのだがーー。」

「何から何まですまない。」

「よしてくれ。俺も警視庁の本丸にいる銭谷に協力できるのは楽しいってとこだ。で、槇村又兵衛さん、についてだが、彼は、この件で、共同作業者を募った。一人っきりじゃ尾行だってできないからな。で、当初は手をあげようかって言う若手もいたんだ。」

「ふむ。公金横領の噂があった人間に、か。」

「そうだ。実はA署ではあれは冤罪だと、そもそも嘘だっていう人が結構いたんだ。だから意外にも刑事の現場では、協力を前向きに構える人間は多かったそうだ。」

「ほう。それは初耳だ」

「あの人の人望だろうな。」

「それも初耳だ」

「ああ。意外かもだが現場からの人望はあった。」

わたしは是永がそこで言った言葉の内容で、幾つかのことが腑に落ちる気がした。

「でも結果、そのタイミングで処分が出た。」

「横領の処分が。」

「ああ。若手を連れてK組の捜査を色々始めようって時だ。」

「……。」

「考えすぎかもしれないがタイミングは良すぎる。力を感じる、といえば多少はそうだな。」

「……。」

「処分が出た後は、警察のいつものことだった。さあっと人間が離れていった。それまでK組のことを調べようと若々しく息巻いていた人間もだよ。まあ、ご察しの通り、出世の登山道から外れた人間には、今の警察ってのは驚くほど冷たいよな。ましてや、横領処分となれば尚更だ。銭谷、わかるだろう。尊敬の心は肩書の方角に、というのが警察の常識方針だ。それに逆らえば、貧乏警察官は食っていけないからな。もっともお前みたいに捜査一課のエリートには判らないだろうがな。」

わたしは、その言葉を聞き流した。わたしの噂は、所轄までは行ってないらしい。

「誰も又兵衛の横領なんか信じてなかったのに、上から処分が出たら、誰もがそっぽを向くことになった。実際の横領があったかどうかなど関係ないんだ。可哀想だったよ。非国民扱いってのはあのことだ。茶も出ないからな。」

茶ぐらいは自分で汲める。が、茶も出ないという現実が、ほんの少し寂しいだけだ、と、わたしは言いそうになった。

「でも、あの人はそれでもめげずに、捜査を続けてる、と言うことだろう。よくわからない、ヤクザの身内の喧嘩の捜査を。」

是永は少し寂しい声でそう言った。

 タバコ場はわたし以外誰もいないままだった。わたしは是永との三本目になるタバコに火をつけ直した。

「銭谷、あの人を見て、どう思った?」

「どう?」

「あの人の眼だよ」

「……。」

「おれは、あに人が本当に横領なんかやるとは思えん。金や肩書を求めてそもそも生きていない。」

「……。」

「本物の刑事だよ。だから。」

「だから?」

是永は三児の父だ。若い頃に体を壊して、現場を離れ、管理畑を歩いている。A署の前は別の所轄にいた。二十歳くらいからの付き合いだが、こういうときに、自分の意見を正直に言える。

「お前も刑事歴が長ければ、立派な刑事とは何か?思うことはあるだろう。真実を追求しすぎる刑事にはどんなリスクがあるのか。」

「……。」

「とにかく、あの人は私腹を肥やすような人じゃない気がする。」

「うむ。」

「むしろ現場からの評判がよかったのは確かだ。今となっては公(おおやけ)には誰も言わないがな。」

「……。」

「というか、そっちにいった、金石だって尊敬していたくらいだからな。」

「……そうか。」

わたしは、意外な言葉が出たので少し躊躇った。

 金石の失踪については是永は語らなかった。そのことは然程知らないのだろうか。警察署にいると他の署のことは本当に聞こえてこないことが多い。それくらい所轄は大きい組織で、もっと言えば外のことには気を回したりはしていられないくらい内向きの意識になっていく。

「もしかすると又兵衛刑事が今回のヤクザの捜査に立候補したのも、彼なりの理由があるのかもしれない、とも思ったりするけどな。」

ふとそこで、是永は声のトーンを変えて話した。それはパラダイムを感じる変化だった。そしてある一定以上を語る時に勇気のいる内容に、入っていこうとしている様子があった。

「彼なりの?」

わたしは、是永が勇気をやめないように自然を装った。

「うむ、例の、ライフワークというか。」

「ライフワーク。」

「詳しくは知らんが、あくまで想像でしかないが。」

「想像があるのか?」

「わからん。ただ、あのひとがそういうことを言ってるという話を聞いたことは耳にしたことがあるな。」

是永なりに、第三者の位置を保たねばならないという意識が言葉を選ばせた気がした。

「そういうこと?」

「まあ、ここだけの話だけどな。刑事をしていれば見え始める存在とでもいうかな。まあ、お前だからいうけど、わかるだろう?そういう、空間というか、なんというか」

「空間、か。面白い表現だな。」

わたしは、警察官の中にうっすらとあり続ける、とある空間に是永も言葉を持っていることに少し慰められた気がした。それはあの金石と一緒に捜査をしていたときにもっとも意識をさせられた空間であり、金石はそのことについて言葉を濁さずに語っていた。バーで酔った金石が左手でグラスを握りしめるのを思い出した。

「あの老人がその空間に絡むというのか?」

「空間、まあそうだな。兎にも角にも、又兵衛はそのことに執着していたのは確かだ。ご多分に漏れず、署長や幹部連中とは少しずつ距離ができていった。独自のやり方で色々まずいところまで踏み込んでいくってことだったのかもしれない。」

そのやり方も金石と同じだった。

「銭谷。まあ、お前もわかるだろう。警察には色々不都合がたくさんある。純粋な刑事の気持ちだけでいつまでも仕事はできない」

刑事の俸給で生活をしている人間らしい現実的な言葉だった。綺麗事や、理想だけで労働はできない。三人の子供の父で、生活費がかかる是永に刑事の理想論を語るのは苦しい。独身者のわたしとの違いがそこに暗然と流れたのも事実だ。わたしがあの銀色の線路に今日、自分の身を放り投げても子供たちが悲しんで泣くわけではない。戦争で命が必要ならわたしのような人間を選ぶべき、だろう。

「まあ、そうだな。」

「そう。理想だけでは厳しい。」

わたしは、自分の意識とは逆に、是永との会話の後半に集中力を失っていった。いや、有難い情報を是永にもらいたいと思いながら、どこかで背骨に耳が逃げて、聞くことをやめ始めるのだった。刑事をやっていれば見えてくるものーー闇とでもいおうーーがあって、その闇に立ち向かい続けた人間が公金横領いう濡れ衣を被せられ、それでも捜査や自分の考えを躊躇せず信念を変えないでいる、という事実の可能性について是永は繰り返していた。そういう言葉の列がわたしには既に物悲しかった。そういう話を散々した金石が、まるで闇そのものに飲みこまれるようにして、わたしの前から去ったことにも関係している。

 是永はわたしの反応が悪くなったのを気にしたのか

「まあ、ざっとは以上だ。」

と言った。友人の無償でかけがえの無い作業の時間がそこにあった。

「是永。ありがとう。本当に助かるよ。」

「いやいや。まあ、また何かあったらいつでも連絡をくれ。この私用の電話にメッセージを送れば良いな?」

私は返事をしながらタバコの次を探していた。もう何本目か数えもしていなかった。やはりせっかく多くの調査までしてくれている大切な友人に対し、自分は失礼だった。それくらい会話の後半の集中力は、失せていた。本当に、調べて全てを明らかにしたいと思う内容であるにもかかわらず、また貴重な情報であると分かっているにもかかわらず、どこかで巨大なものの前で金石のようになれない貧弱な自分を意識してばかりいた。自分の無力さに苦しくなり、全てを辞めたくなる。警察官になり四十代になるまで一度も感じたことのない感覚だった。

(なにが捜査一課のエースだ。)

タバコ場の角のゴミ箱の汚れた部分が、ニコチンの色で茶黒く汚かった。わたしは変質者のように、その模様を見つめてはタバコを吸うのを繰り返していた。



百五四 車内撮影  (石原) 


 石原は太刀川が六本木通りを歩いたのを見て尾行を開始した。正確には石原が変装した、肩に黒い合皮カバンをかけた中年男が、である。

 毎日、同じ時刻、六時半ちょうどが続いている。日比谷線だと六時三十五分に北千住行きがある。大江戸線にはまだ同乗はなく全てこの日比谷線の三十五分を使っている。目的もなく暇つぶしのように動くのにも関わらず、毎朝同じ電車に乗るサラリーマンの通勤のようでもある。

 三十五分発の日比谷線北千住行きがホームに入ってきた。太刀川の隣の車両に石原の扮した男は乗った。十五メートルほど先、車両連結部分の先に太刀川が立っている。扉近くに腰掛けると、合皮の肩鞄を膝の上に置いた。そうして太刀川の乗る車両を撮影するレンズを嵌めた側をそちらに向け、接続したスマホを見ながらカメラの焦点を太刀川の横顔に合わせる。太刀川は椅子には座らず、戸袋のところに立っている。

 カバンに取り付けたこのレンズを発見することはほとんど不可能だろう。カバンを一センチだけ切った穴にカメラをはめていて、誰かに言われれば、その穴を塞いで仕舞えば良い。万が一気がついたとしても公共の場所で人の鞄を開けろとはならない。

 準備が整うと石原は静かにスマホの上から撮影のボタンを押した。画面には石原から直角に九十度右を向いた映像が映し出されている。そこには何食わぬ顔で隣の車両に一人で立っている太刀川が写っている。

 昨夜何度も見て確かめた通り、撮影の画質は十分だった。列車を縦に奥行き深く撮影するため焦点(ピント)が不安だが、こうやって今細かく操作して合わせることができた。人物の表情などはなかなかの品質だ。今後、毎日撮影していけばいいのだと、石原は自分に言い聞かせた。焦る必要はない。

 太刀川龍一が毎日こうやって地下鉄に乗るのが石原にはどうしても納得がいかなかった。ネットとの関わりも捨て、もう世捨て人になって全てを放擲して暮らしているならそれでもいい。無目的に、朝から地下鉄が好きなだけ、なのであれば。

 しかし、太刀川の表情や眼差しには、仕事を諦め捨てた人間のような、そういう晴れ晴れしさを感じない。株全てを売却し、全てを諦めた人間の表情には見えない。まだこれから何かをしようとしているような、男性的な熱さえ感じる。そういう眼差しはなかなか、朝の地下鉄では異質だと思う。

 石原はスマホの中を見つめた。

 朝の北千住行きは乗客もまばらだった。最後尾の八両目の車両に太刀川は乗っていて、その手前七両目に石原がいた。傍目には、ゲームかなにかにのめり込んだ中年男にしか見えないだろう。


R0224


の方針の通り、石原は心を落ち着けて、中年の男そのものの人格になって、スマホを見つめ切っていた。



百五五 戸籍説明  (御園生)


 米田さんがテレビ画面の中で、タバコを吸っていた。

 軽井澤さんと米田さんが阿吽の理解を示している様子だったが、僕はほとんど何を了解しているのかもわからないままだった。

 米田さんは、首を傾げていた僕にだけ諭すように、

「戸籍を買ったってことかもですね。」

と言った。

「戸籍を買った?」

「本当は、この戸籍の持ち主ではない人間が、この戸籍を使ってるって事です。別の人生を購入して生活する、ということです。」

「そんなことできますか?」

「死んだのに死亡届を出さずに、その戸籍を売る。もしくは、本当に行方不明になったような人間の戸籍を使ったりする。そういうビジネスをしてるところで買うんでしょうね。」

僕は米田さんの突然の説明がわからなかった。でも、戸籍を買う、みたいな言葉の響きは確かに、風間や守谷の印象に合うようにも思って

「戸籍を買う。でも、そんなことって、普通に有り得ますか?」

「色々ですね。日本国籍が欲しい、つまり外国人のケースなどはわかりやすいです。この国は閉鎖的ですから。たとえ全く外国人の顔をしていても山田太郎と言われるとなぜか親近感が湧く国なのですよ。嘘だとわかっていてもね。」

「不法滞在などの隠れ蓑のようなことですかね。」

「まあ、色々ですね。あとは、人生をリスタートしたいような事もありますよ。この日本では、失踪だけで毎年、何千人もあって、ほとんど見つからない。たしか、累計で八万人かな。」

「八万?ほんとうですか?」

「国の公式資料、だったかと思います。」

僕は米田さんが妙に詳しいのが気になった。 

「なるほど。」

「逆に言えばそれくらいの本籍が、浮いたり消えたりするとも言える。」

米田さんはそう言って、テレビ電話のパソコン画面を切り替えて、見るからに怪しいサイトを表示した。そこには外国語も含めた戸籍を売買する闇サイトのようなものが幾つもあった。そういうマーケットが存在するということなのだろう。

「風間、守谷は、名前からして全く偽物だった、ということですかね。」

僕はため息をつきながら、この二人が自分の想像から遠くなっていくのを感じた。レイナさんに頼んでいる作業も、意味を成すのだろうか。意味がないことを、頼んでいるかもしれない。名前だけでなく、住所から免許の本籍まで全くの別のものを追っていたことになる。

「そうかもしれません。」

「元々の本籍を探さねばならないんですかね。」

「はい。風間や守谷という人物対象をいくら追いかけても、戸籍を売った業者にたどり着くか、死んだ人間や行方不明者の類いにたどり着くに過ぎないので。つまりお二人が追いかけている風間と守谷という人間には、本当の名前が別にあるということですから。」

「でもそうしたら、どうすれば良いんですかね。」

僕がそんな質問を、幾つも投げる間、軽井澤さんは黙っていた。

 戸籍を捨ててまでして別の名前になった人間の、元々の本籍を探すなどは、至難の技だというのは僕にもわかった。そもそも、いつの時代から、この新しい名前で暮らしているのかもわからないし、金をかけて購入するほどまでに新しい名前が欲しかったのならば、当然、過去の人生とは強く決別しているはずだ。僕は守谷の、目尻に皺のある冷たく孤独な横顔を思い出した。

 別の人生。周りの人間も彼のことを守谷とは呼んでいるけども、本当はその名前ではない。元々のほうの人生を蛻(もぬけ)にして暮らす、そうせざるを得なくなった、守谷と今呼ばれている人間の涙を滲ませていた横顔が僕の網膜に残っていた。

 軽井澤さんが一言も発しないのが僕は気になっていたが、

「江戸島の尾行は、御園生くん、ありがとうございます。とても助かりました。昨夜は、すこしおかしな動きでしたね。」

と突然僕の方に聞いた。

 軽井澤さんは憂鬱な表情のまま、しかし、そのことはしっかり聞きたいという空気で僕に話しかけた。僕は、ざっと、昨日メッセージを入れたことを繰り返し、江戸島が銀座で寿司の会食で、そのまま、車で帰ったこと、代々木上原は多分自宅で、余計なことかもしれないが、調べたところ江戸島は既に奥さんが亡くなっていて、その自宅に一人暮らしだということ、などを説明した。

「ありがとう。それと彼の帰宅の経路でしたよね?おかしかったのは。」

「ああ、その件ですね。」

僕は、あっと思って、

「そうです。少しおかしかったのが、最初、銀座から豊洲の方向に向かったんです。」

「銀座から豊洲。つまり自宅と思われる代々木、山の手向けではなく、湾岸の方へ向かった。埋立地というか。」

「埋立地。まあ、そう言われればそうかもしれません。江東区の方になります。」

「銀座から一度湾岸方面に向かい、なぜか車がUターンしたのですね。それで代々木上原の自宅へ向かい直した。江東区とは全く逆になる。」

会話しながら、先ほどの戸籍の住所を落として、米田さんは画面に銀座周辺から代々木上原にかけての地図を写した。



地図X 代々木上原から、江東区まで



「ちょっと変ですね。」

米田さんがまた聞いた。

「そう思いますが、でも奥さんも既に亡くなって独り身なら、その、例えば愛人などの女性関係が湾岸のタワーマンションに住んでるなどで、一回向かったけど袖にされたようなものかなとも思いました。」

僕は、昨日調べて整理した文言をもう一度言った。

「なるほど。そうか。そういう考えの方が普通かもですね。」

米田さんは、そう言ってはみたものの、何故か空虚を見つめるようにした。テレビ電話の背景が二人ともぼかしになっていて、どこにいるのかわからなかった。

 軽井澤さんは再び言葉もなくじっとしていた。何か、苦しんでいるような先日からの表情が回復してはいないということも、画面越しに判った。

 今朝は軽井澤さんが別の場所にいるというのも違和感があった。一体どこにいってるのだろう、と思いながらそのことを言い出しづらい感じがあった。

 その後、軽井澤さんは少しだけ僕の仕事や、状況のことを聞いた。その聞き方はやんわりと、このタスクから離れて他の通常のことに戻って良いという文脈を含んだ。僕はそれに対して、少し反論気味に、乗りかかった船だということを告げて、今日も思うことあり江戸島をつけてみると話した。江戸島は夕方まで業務で多分動きはないけども、社用車の中でパソコンで他の仕事もできるし、江戸島が会ってくれない可能性も高いので、その点は少し考えがあることだけ告げて、テレビ電話から降りた。



百五六 大切な別れ  (レイナ)



 透明で真っ白な世界がある。何の前提もない、自分の心の中だけの場所。記憶の中で、大切な部分だけを再現しようとする場所。水平線まで真っ白に無が続いていく世界の中に、大切な自分の思い出だけが再生される。自分が苦しんだ時、幾度も幾度も再生してきた、記憶だ。

 小さなテーブルに、椅子が二つだけあって、その一つにレイナは座っている。

 強く目を閉じてから、八秒ほど数える。

 そうして目を開けるとそこに節子さんがいる。

「ご飯、食べましょう。」

会話が始まれば、レイナは大丈夫だと信じている。

 白い世界に、言葉がはじまる。

 施設の大人たちとの会話ではなく、節子さんとの会話。

 自分を理解して汲み取ってくれる言葉。


 あれは、いつのことだろうか。

 その日、節子さんは少し体調が悪そうだった。

 少しだけ痩せたとおもった。

 そのことを隠すように、お化粧を上手にしていて、綺麗だった。

 とても美人で素敵だった。

「ピアスをしている?」

「そう。昔ね、旦那さんに、買ってもらったの。」

「旦那さんがいるの?」

「そう。」

「どんな人?」

「そうね。勝手な人だからピアスを開けてもいないのに、先に買ってしまったの。」

「プレゼント?嬉しい?それでピアスを開けたの?」

「そうね。意外と、楽しい経験だったわ。順番は逆だったけどね。プレゼントされなければ経験しなかったのだから。人生なんてわからないわね。」

「レイナは旦那さんはいない」

「大人になったらね。好きな人ができた時に考えれば良いわ。」

「好きな人?」

「そう。無理しなくて良いのよ。自然とそういう人が出来るから。」

「ほんとう?」

「あなたが、ちゃんと暮らしていれば、必ず出逢います。安心して。」

「ちゃんと暮らす?」

「そう。いつか、この施設から出る日が来ます。それでも今まで通り、いろんな本を読んだり、あなたの好きなことを一生懸命やり続けていれば必ず、あなたを愛し尊敬する人と出逢います。」

「……。」

「あなたにはね、ちゃんと才能がある。あなたの人間としての才能を愛してくれる人がきっとたくさんいるわ。わたしにははっきりわかる。」

「ほんとうに?」

「ほんとうよ。」

 節子さんは、その日を最後に、施設に来なくなったーー。



 会えない日が続くうちに、一つの予感がやってきた。節子さんと出会う前の、あの独りの気持ちに戻って、落ち着かない自分がまたやってくる、と思ったのだ。誰も信じられない不信の気持ちが集まって、自分を鉄の山が押し潰すような毎日にまた戻るような、気がしたのだ。

 でもそうならなかった。

 レイナは自分が変化をしていたことに少しだけ気づいた。

 単純に落ち着かなくなると思っていた自分が、しっかり立ち止まり、前へ向かうようにしている。たとえば、レイナは節子さんに会うための、自分に対する努力を始めた。自暴自棄になるのではなく節子さんが教えてくれた努力を始めたのだーー。レイナは施設の中の自分の評価点を大人がつけてるのは知っていた。知っていて、無視をしていた。でも、評価点を上げると外出の許可が出るのも同じくレイナは知っている。外出の許可ーー。そうしたら節子さんと会えるかもしれない。渋谷の街は広すぎるし電車は遠いけど、節子さんが来れないなら自分で探せば良い。

 その評価点のために、大人たちが求める物事を想定した。もう大体のことは分かっている。まずは、事をあらだてて欲しくない大人の気持ちに合わせて生活すればいい。それだけで点数が上がるはずだ。

 時間はいくらでもあった。施設の中で、レイナは、読書ばかりした。本をたくさん読んだのを、ノートに書いて、並べた。読書ノートはいつも、節子さんに見せていたから、そのことをしっかりと続けた。レイナは今も、読書のノートをつけている。心が一番落ち着くノートの作業ーー。

 そうしてある日

「このノートはお勉強のノートです。節子さんとの約束だから、もし出来れば届けてください。」

と施設の大人たちに伝えた。ノートは大人たちが預かってくれた。多分届けたりはしないのは分かっている。それでも良い。読んだ本の名前と感想を節子さんに話すのが好きだった。話せなくても、書いた文字をそこに収める事で自分は節子さんと話をした気持ちになれる。きっといつか読んでくれるはずだ、と思ってノートを提出するだけで、レイナの心ははっきりと落ち着いた。

「新しい自分を始めればいい。」

節子さんはいつも、そう言っていた。あなたには才能があるから、新しいことをはじめて、新しい自分に出会っていくといい。自分を間違った枠にはめないでいい。

「才能があるのよ」

 その言葉は、美しい歌声のように遠くに静かに響いていた。


 節子さんは何日経っても来なかった。

 夏が終わって、秋が来て、雪が降った後も。

 節子さんのことを、誰も教えてくれなかった。

 それは、意図的だったらしい。

 施設の大人たちは節子さんとレイナが打ち解けていた事を知っていて、何かの環境変化や事実で、レイナという人間が「過去の記録」のような方向に戻ってしまうことをきっと恐れたのだと思う。無理もない、と思う。そういう「記録」がレイナにはあるのだ。それが真実かどうかも突き止める方法はないけども。レイナがいた密室で、母が死んでいた記録ーー。母が死んだ原因となる凶器にはレイナの指紋があったという「記録」ーー。詳しくは知らない。でもそうでなければ、こんな施設に何年も入れられたりはしないと思う。少なくともそういう事件があった。でも事実がそうだとは限らない。少なくともレイナにはそんな「記憶」はない。でもそれをいくら言ってもどうにもならないことも知っている。


 会えない時間がつづいたあとに節子さんから手紙が届いた。

 手書きのとても長い手紙だった。

 その文字は、レイナにたくさんの文字を教えてくれた達筆の節子さんには思えないくらい、ネズミの文字になっていた。きっと、苦しい病気の中で、最後の力を振り絞り、書いたのだろうと思う。紙も所々が汚れたり、シワになったりしていた。

 手紙は、会いに行けなくてごめんね、と始まっていた。自分は、どうやら病気で、万が一のことに備えて、手紙を書く、とはじまっていた。「あなたと出会ったのを、昨日のことのように覚えています。一人っきりで私を見る眼差しは怯えていて、でもどこかで、この私を頼ってくれるまっすぐの気持ちが、強く強く感じられました。それは母を求めるようで、わたしは自分の産んだ子供を持ったことはありませんが、どこかで誰かの母になりたいという気持ちがあったのかもしれません。だからあなたがそういう(ごめんなさい勝手に)気持ちで、わたしを見つめてくれたのではないかと、突然思ったのです。

 ひとりきりでその部屋に、大勢の大人に囲まれても、ただひとりでそこにいたあなたに、わたしは勝手な、眺めおろす側の気持ちで、あなたに向き合いました。わたしが母親がわりになってあげよう、と。世の中にひとりっきりになってしまったあなたの母親になってあげようと。」


 そんな言葉がはじまりにあった。レイナは節子さんをいつも苦しめようと子供がいないことの質問をしていた自分を思い出す。手紙の文字と、自分が吐いた言葉とがしばしば重なる。でも、そんなことは節子さんはお見通しだった。その上で、なにも怒らずに受け止めてくれていた。

「…でも、人間はどこかで、上下ではなくなります。あなたのいる場所に通い、あなたという人間の才能に触れていくうちに、私はびっくりするくらいの驚きや感動を与えてもらうようになりました。いつのまにかあなたが何を話しても何をしてもたまらなく愛しくなりました。気がついていたかも知らないけど、それが子供を思う大人の気持ちなのかもしれません。自分より後の時代にこの世に生まれ、これからの新しい人生を描いていくあなたと、既に人生の多くの時間を過ごし、土に帰って行こうとする自分との限られた有限の時間をいただいているのです。大人が子供を育てるのではない。子供の方が大人をこの私を前に向かせ日々驚かせながら育ててくれるのです。それが大人と子供の出会いであり、広い意味で親と子供ということなのかもしれません。そして、そういう大人の側の気持ちを持てることは、人生にこの上ない豊穣なものを与えてくれます。遺伝子的な実際に自分で産んだ子のない私があなたと出会ったことで私は本当に多くの経験をいただきました。レイナさん。あなたを本当の娘のように手をつなぎながら私はいつしかそういう気持ちに変わっていきました。でもそれだけではなかった。」

手紙は所々に紙に皺があった。病室できっと起き上がれもしないときに寝ながら書いたのだと思った。節子さんが一体、どれくらいの人間を救ったのかは知らない。保護司には守秘義務があるから、自分と会ってることも、誰にも言ってはいけないはずだし、当然他の誰と会ってるということも、手紙には書かれたりはしなかった。おそらく治療の合間に書いたに違いないとレイナは思った。

「あなたの才能に、私は驚かされ続けました。あなたは、いろいろな事を質問してくれたね。何故空は青いの?なんでお月様は?虹はなぜ?誰しもがあなたのようにたくさん興味を持てません。興味を持つということはきっと、その世界を理解できる可能性を持ち、正しく世の中のことを把握して、多くの人たちの役に立てるということだと思います。あなたという可能性に触れながら、そのことをわたしは学びました。あなたがひとりで、施設のパソコンを調べて、いろいろなことを独学で動かして行ったのも、あなたの知的探究心が素晴らしかったからだと思います。いつしかわたしでは、わからないような物事の理解を始める貴方は、わたしの人生の誇りになっていきました。ほんとうです。あなたが私の知らないことを理解して、語ってくれるときにどれほどの喜びを持って眺めていたか。おおげさではないです。それは私のような平凡な人間が、過去から未来へ向かっていく人間史の時間の中で、ひとつの襷をつなぐリレーに参加できたかのような喜びなのです。私にはあなたが誇りなのです。」


書いてあった手紙の、全ての文字をレイナは思い返すことができる。最初、一番最初にその手紙を読んだ時、手紙で節子さんが人間が死ぬことに触れているのが馴染まなかった。人間が死ぬことは想像できなかった。そのまま文字を読み進めると、カレーライスのこと、初めて行った渋谷のこと、ピアスのこと、パソコンのこと、一緒に読んだ本のこと、たくさんのことをひとつひとつ書いていた。まるで写真を撮ってその説明をしているような日記のような文章のすべてがレイナには宝物だった。体調の悪そうなネズミ文字に思い出が溢れ出して、でも節子さんの優しさが全てに浸透していて、そうして、手紙の随所に、伴奏のように、

「あなたには才能がある」

と、言葉が置かれていた。

「あなたには才能がある」

手紙にはその言葉がいくつも溢れていた。


 節子さんとは会えずに、その手紙のままが最後になった。

 言葉だけが残った。

 もしかしたらその言葉こそがレイナの知らない、家族や母のような存在になったのかもしれない。肌の温もりや、抱きしめた記憶、親子の愛情、声のような全てのものよりも、手書きの、節子さんの直筆のネズミ文字が強く長く、実質的にレイナを支えることになったのだから。レイナが文字通り新しいことを始められた理由になったのだから。節子さんの書いてくれた手紙はレイナにとっては家族の写真のようだった。手書きの文字、言葉こそが、家族だった。

「あなたはすごい才能があるのね。特にパソコンの難しい仕組みを覚えているところに感動しましたよ。また体調が戻ったら、やって見せてね。」

さようならとは書いていなかった。また再び会えると信じていたのだと思う。いや、生きている限り、さようならと手紙には書かないのかもしれない。

 節子さんが本当に亡くなったのを知ったのは、玲奈が施設をもう出ると言う時だった。

 レイナは幾冊もの本を自分の独房に取り寄せた。本の中からパソコンの内部に入って行った。それまで手探りで行ってきたものを、実際に、誰よりも学び始めた。最初の施設を出て独房に入り、しばらくパソコンに触れられなかった間も、本を読んで多くのスクリプトを頭の中で組み立てられるようになった。実は脳裏に誦じれることが開発には最も大事だ。プログラム開発はパソコンに触れている時間よりも、その構想を頭の中でいかに整理できるかが勝敗を分ける。テクノロジー開発には最新の技術の入力も必要だけど、指を動かす手前の、孤独な暗算と目的設計の方がよほど大事なのだ。レイナは独房の中で、それを学んだ。むしろ独房の時間が未来の武器になった。

「あなたには才能がああるのよ」

 節子さんの言葉が伴奏を続けていた。

 過去へ向かう楽譜は存在しないーー。

 音楽は常に、過去から未来へ時間を刻む。伴奏はレイナを常に前に前に進めていった。

 いまも、指先がMacに触れるときに節子さんの笑う声がする。そうしてその声が体の中を通信音のように伝播していく。左手の低音が、レイナの美しいメロディ・ラインを後押しする。やがて身体中に飾られた銀のピアスと共鳴する。その心地よい響きがレイナが生み出す全てのScriptにまるで今、生きて存在しているかのような喜びを与えている。



百五七 八潮駅 (石原)   


 太刀川と石原を乗せた地下鉄日比谷線は霞ヶ関を超え、銀座を超えた。朝の静寂な車内に無理なカーブが多い日比谷線の軌条の音がうるさく鳴っていた。

(やはりおかしい)

と石原は思った。

 気のせいだと最初は思っていたが、やはりおかしい。

 というのも、地下鉄の他の車両に比べて、太刀川の乗る車両だけ乗客の数が微妙に多い気がするのだ。石原はこれまでの一週間を細かく思い出していた。後でもう一度見比べてみようと思っているが、そういう直感がある。銭谷警部補と話した通り、この地下鉄をなんらかの連絡手段に使っているのならば、連絡員の数にもよるが人数はほかの車両より多くなるだろう。捜査する側の意識過剰なのかもしれないが、インターネット以外で、オフィスも持たない太刀川にとって、何かの連絡ということに、公共の乗り物が<悪くない>ように思える。石原は自分の直感をなぞっていた。

 数百億円とも言われる資産。その資産をさまざまな用途に使う。当然、人を使う。メールもオフィスも持たない太刀川が、その人間たちとの連絡の場所として、この公共の交通機関を使っているーー。

 日比谷線が、銀座、築地を過ぎ、秋葉原についたところで、太刀川は電車を降りた。

 変装の自信もあったせいか、石原は堂々と太刀川を尾行した。いや正確には石原里美巡査の扮した中年男が歩きスマホをしたまま太刀川の後を追った。地下通路から別路線の入り口、つくばエクスプレスと言う茨城埼玉に向かう列車のホームに移動した。よく見ると、その電車は初日の尾行で北千住から乗り込んだ路線だった。既に七時台になってはいたのだが、下りのつくばエクスプレスは乗客は疎らだった。太刀川は今度は座席に座って文庫本を取り出して読み始めていた。日比谷線とは違い、太刀川の車両にはほとんど人がいなかった。石原は再び隣の車両に陣取り、また同じ手順で撮影を開始した。

 列車は最初は地下を走り、東京らしく、少ししてから地上に出た。

 太刀川は数駅目で席を立った。

 降りた駅をふと見覚えがあると思った。実は初日の尾行と同じ駅だったのだ。前回石原はこの人流のまばらな街の住宅街での尾行をやめた。今回は少し大胆になっていた。いや


R0224


の言葉を借りれば石原里美はそこには不在だった。そこには入念な変化(へんげ)を施した中年男が偶然歩いているに過ぎないのだった。そういう自信が尾行を前回とは違う段階まで継続させていた。万が一ばれても、また別の変装を行えば良いという割り切りを石原は持っていた。隠したカメラで見ているかぎりこちらに気がついている様子は一切ない。

 太刀川龍一は駅を降りると、ゆっくりと駅前広場(ロータリー)を離れ住宅街の方へと歩いていった。遠目にその方角を合わせて追いながら、再度今、降車したばかりの駅名をもう一度見つめた。八潮、という駅名だった。そう、八潮だ、とおもった。太刀川を尾行した初日もこの駅だったーー。



百五八 又兵衛来庁(銭谷警部補) 


 午後の十四時になって、昨夜の言葉通り、A署の老刑事又兵衛が訪ねてきた。わたしは六階の会議室に又兵衛を案内し、自ら飲み物を用意した。太刀川が一週間前に座った同じパイプ椅子に又兵衛は座った。テーブルに茶碗を並べて急須から湯を落とした。

「警部補自らとは、申し訳ございませんね。」

老刑事は良き市井の老人の行儀作法でわたしに言った。

「いや、人が出払っていまして。」

嘘だった。誰か若い人間に頼むのも気を使うから、茶の用意も自分でやっているに過ぎない。

「昨日は、ありがとうございました。」

我々はありきたりの、昨夜のお礼などの会話をし、刑事部屋や捜査一課の話をし、金石のいた場所などのことも一線を超えない範囲で自然に話した。それらは本題に入る前の、刑事特有の前置きだった。

「しかし、霞ヶ関という街は、生活の香りがしませんね。合同庁舎のほうに行ってやっと、マクドナルドがあるくらいですから。」

「……。」

「はは。仕事尽くめのエリートともなると、この方がご都合はいいのかもしれませんがね。こう言った感じの、生活を失った冷たい香りが、この街には必要なのでしょうね。まあ、所轄とは違いますね。」

暗に又兵衛は何かを含んだ言い方をした。冷たい街、という言葉は悪くはなかった。少なくとも情熱的な芸術や文化の生まれる場所ではない。

「ところで。」

老刑事は声色を変えた。

「はい。」

わたしは身構えつつ返事をした。茶を飲むだけの事でこの男が霞ヶ関まで来たりはしない。

「銭谷さんは金石から、とあることを聞きませんでしたか?こう言っては唐突かもしれませんが、まあ、組織のような話です。彼が追いかけている組織です。」

「金石からですか?追いかけている?」

「ええ。彼が、まあ、追いかけていた、というか。」

「組織ですか?」

少し緊張した。老刑事は今日は最初から酒の力抜きで、本題に入る気なのが分かった。

わたしが押し黙ると、少しのためらいの後、老刑事は言葉を続けた。

「まあ、金石が直接その組織の捜査をするなどの話ではないんですが、奴は、非公式にそんなこと言いませんでしたかね。」

「組織、ですか?」

「ええ。」

「……。どうだろう。そんなことを言いましたかね。わたしは何の引き継ぎもなく、辞められた側の人間なので、金石がどこまで心を開いていたかも、わからない。」

わたしは嘘をついた。たぶん、知っている。いや、どこかでこういう話題を昨日の夜も老刑事が入れてくるのではないかと思っていた。

 ただ金石がわたしに、このような霞ヶ関の会議室でそれを話したことはない。一度もそんなことはなかった。そういう話をしたのは、決まって、例の天現寺のバーで、浴びるほど酒を飲んだ時だった。あのバーでだけ、我々は従来のパラダイムの外側での会話をした。もっとも酒の飲み過ぎでそれが会話だったかというと困る類のものではある。


 パラダイム…。

 …世の中には前提(パラダイム)がある。

 常識も全て前提(パラダイム)の上に成り立つ。

 前提(パラダイム)を外れた会話は、人間を人間の関係の中からゆっくり外していく。たとえば地球が太陽の周りを回っているという真実を知ってしまった人間にとっては、中世のパラダイムは難しい。神を信じ、まだ万有引力などと言えない時代には<当然地球の方が太陽より大きい>存在だった。太陽が大きくその周りを地球が回るという地動説は中世で言えば悪魔崇拝である。安易に「真実」を語れば命の危険さえある。

 その場合、方法は二つしかない。 

 一つはパラダイムシフトが生じるまで待つこと。

 もう一つは、自分自身で正面から世界への啓蒙を行うことだ。世の中が気がついていませんよ、あなたの暮らしている世の中が信じていることが、間違っていますよ、と言って生活することは本当に厳しい。言葉を選ばずに言えば、命を賭けた作業にならざるをえない。迂闊に自分の言葉を誰にでも話していれば、

 金石は対人処世を熟知していた。

 だから、パラダイムの外側の、聞いたこともない、常識的ではない、闇の組織の話などを本庁の会議室などでは絶対にしなかった。捜査本部のあるような公的な場所では奴は別人なのだ。ただウイスキーを煽って相手(わたし)も酩酊したのを確認した天現寺のあのバーでだけ、そっと、試すかのように隣の席のわたしにその組織のことを言った。

「奴が、いや、金石警部補が追いかけていた組織ですか。」

「どうだろう。追いかけていたかは知りませんが、金石があなたに話したと思うんです。」

「なぜそういうふうに思うのでしょうか。」

「どうですかね。金石があなたという人間をどういう風に見ていたか、小生が勝手に想像しているだけかも知れない。」

「ーーなんという組織でしょうか?」

「はい。まあ名前がないというのが正解だとは思いますが、会話の都合上、エックス(X)とかエス(S)、という言われ方をまれにしますので、今日はそういうエス(S)という文字に仮称しましょう。」

「……。」

「ご存じでしょうか?もちろん呼び方はいろいろあると思います。いや、金石から聞いたかどうかではなく、世の中に溢れるそういう、陰謀論周辺の言葉を、聞いたことはございませんか?なにせ、太平洋戦争の頃まで遡るような、そういう話でございますから。」

「どうだろう。エスっていうのは初耳です。」

「本当ですか。」

「はい。初耳だと、思います。」

 エス。

 わたしはまた嘘をついていた。。

 金石がバーニコルソンのカウンターで語ったのはそういう組織だったはずだ。ただ、名前で呼ばなかった気がする。彼ら、という言い方だったかもしれない。ただ、わたしはそういう組織の周辺を、気になって自分で調べたこともある。通称がエックスとか、エスだという組織はWEBの上で様々な形で語られていた。

 金石がわたしに話した組織は真新しいことでもなかった。過去、巨大な権力に対峙した小市民が隠密に作った、戦前から存在する市井ネットワークのことだった。しばしば、共産党活動だとされることが多いが事実は違う。戦前の反政府分子や、文学作品に共産党関連の表現が多かったり、特別高等警察に逮捕され処刑されたりした共産党系の作家の印象が強いが、実際は特定の思想ではなく、あくまで体制への疑問をもとに、出版や、文筆業の人間が中心に始めた連絡網、というのが本当らしい。いずれにせよ諸説ある類だ。

「戦前の、反体制の組織ですよね。」

わたしは金石からではなく、どこかで聞きました、という態度で返事をした。又兵衛は静かにわたしの目を見てから下を向いて、押し黙った。この日の会話は、沈黙が声より多数を占めた。そういう会話には重要な情報が往来しやすい。

 しばらくして、又兵衛は茶を飲み込みながら、

「ブラックホールをご存知ですか?」

と、唐突に言った。

「ブラックホール、という言葉は知っているが、物理の方程式は知らない」

「私も、物理には詳しくないですよ。」

「そうですか。」

「ただ、ブラックホールというのは、光さえ外に出て行くことができないそうです。光を飲み込んで存在さえ消してしまうんです。だから望遠鏡で外から見ると何もない黒にしか見えないんです。周辺にいるものを全て飲み込む。つまりですね、組織の中で、どうしても外に出して公然と判断をして欲しいという、光があったとしても、光でさえ、重力に遮られて外に出れないのが、ブラックホールなんです。」

「……。」

「権力と似ていると思いませんか?」

唐突だ。わたしは理解ができていないという顔をした。実際に半分も、又兵衛のいうことが正確にわからない。数学やら理科の教科書は燃やした本の中で一番、よく燃えた記憶がある。

「そのブラックホールのような権力組織、戦前は軍部や特別高等警察がそれだったと思います。つまりそういう権力の内部からは、どんなことがその中にあっても何も外に出ないのです。光さえ消されてしまうのですから。」

「……。」

「いいですかね。」

老刑事は明らかに、力んでいる。わたしという人間が、この奇妙な会話から逃げてほしくないのだ。わたしはパラダイムの境界線を意識していた。又兵衛の言葉と自分の対応する態度はその境界を揺れた。

「光さえ外に出ない、というのが本質です。そういう権力の時代は、人類の歴史には幾度もあります。簡単に言えば、権力組織側がなんらかの悪意を帯びた瞬間、闇が始まっていく。光が外に出ない、ブラックホールが始まるんです。たとえば警察組織は犯罪者を捕まえる立場です。その警察組織が、犯罪者に類似した性質を持ち始める。闇というものは一つ増えればその闇を隠すためさらに闇を増やします。殺人犯が証拠隠滅のために追加で誰かを殺すのと同じです。隠蔽と増殖を繰り返しながら強い重力を持つ。そうしてブラックホールができます。」

「……。」

「善良な市民には耐えられたものではないのでしょう。だから小市民の秘密結社が生まれたんでしょうね。それはごく自然な反作用です。どこの国にでもあるなのです。」

「……。」

「もちろん、ブラックホールのようにならなければ、つまり権力に自浄作用や良心があり、そうならなければ、秘密結社など要らないはずです。光が自然と解決するんですから。誰も不満に思わない。」

又兵衛は、朝から話すことを決めて霞ヶ関桜田門に来ていた。もう、金石のことも含め、酒に頼ることではないという判断と、言うなればわたしへの首検分を済ませたのかもしれない。話す範囲も全て決め切っているのだと感じた。

「その組織が今の時代にも動いているとすると、ゾッとしませんか。」

そう言って、又兵衛はわたしをじっと見つめた。

 内容は雲をつかむような、陰謀周辺の会話に思われたが、単純でもなかった。どうやら、この会話が、彼の警察人生でやってきていることに絡むらしい。是永の言ったライフワークという言葉につながる。

「ブラックホールになった権力の反作用の組織が?つまりブラックホールが存在して、その反作用の組織も存在する。そのどちらも誰も見えないというのですか?」

「そのとおりです。」

「この平和の時代に?」

又兵衛はまた少し長めにわたしを見つめた。その目線にはわたしの言葉への疑問符が書いてある。

「銭谷警部補が、平和をどう定義しているかは存じ上げませんがね。ただ、平和は突然終わるのはご存知なはずです。いや、もう終わりが始まっているのかもしれない。 昭和十五年の銀座は、五年後の東京大空襲の想像など誰もしていません。」

それも金石から聞いた喩えだった。いや、もしかすると、A署で一緒だった時に、この老人が金石に語ったことだったのかもしれない。


百五九 金町二 (軽井澤新太)


 御園生くんが画面から降りた後、一瞬だけ米田さんとわたくしはテレビ電話の中に残りましたが、お互いにそのテレビ電話も降りて、画面の外で手を振りました。わたくしのいた喫茶店の奥の席にパンチパーマ風の体の大きな男性がいて、顔を上げました。実は、米田さんとわたくしは、同じ喫茶店の別々の席に陣取って御園生くんとコールをしていました。昨日別れた金町の駅前の喫茶店です。

「昨日は遅くまでありがとうございます。」

「いえいえ。」

「夜まで動いたので、近所のホテルで泊まりました。」

米田さんは照れ臭そうにそう言いました。

「ありがとうございます。無理させてすいません。」

「軽井澤さんもですか?」

「わたくしは一応、ひとり暮らしですから、どこに泊まっても同じですよ。」

わたくしが米田さんのテーブルに移動すると、店員が不思議そうな目で見つめておりました。

「風間、守谷の戸籍については、理解できました。自分の中で、戸籍の問題で腑に落ちました。つまり、風間も守谷も、どこかの土左衛門の戸籍を使っていたと言うことですね。本当は風間と守谷という名前ではなく別の名前で生まれてきた。つまり、過去を書き換えた。」

「まあ、確実でしょう。八十歳の人間ではなさそうですからね。」

米田さんはそう言って静かにわたしを見つめました。 

 風間や守谷という人間をいくら追いかけても、何も新しい情報が生まれないのは当然です。

 いまの司法制度では殺人が死刑になることには直結しません。一人を殺したのでは、無期懲役にもならないかもしれない。結果、本名Aという人間はある時間を経て世の中に戻ってきます。恐ろしい殺人を犯した人間が「もう反省した」という体裁で世の中に復帰をするのです。

 しかし世の中の側もそのことについては、放置をしておりません。古来、社会的制裁というのは非常に緻密に日本社会には存在します。殺人を犯したAという名前で、商売を始めたり、就職をするなどというのは相当厳しいのが現実です。

 そこで、殺人受刑者は本名Aを捨て、全く別の名前と経歴をもつ戸籍を買うことになる。

 その新しい戸籍が、風間正男だったり、守谷保だった、ということです。

 おそらくそのため、レイナさんがいくら探しても、風間や守谷の過去の情報の収集がうまくいかなかったのでしょうし、ましてや御園生君とわたくしで、風間と守谷の名前をもとに葉書の共通点を探すことが少しも進まなかったわけです。生きていれば八十や九十の行方不明者である風間正男と守谷保という、犯罪とは関係のない鬼籍を追っていた訳ですから。

 この理解は、同時にひとつ不気味な事実も新たに生じさせます。

 葉書の送付者はーー驚くことに、そうまでして過去を捨てた二人の人間の今の住所を調べ葉書を送っているのです。

 本名を捨て別の人生を始めた二人の住所と新しい名前を調べ、どんなにレイナさんが調べても紐つかなかった、新しい戸籍の名前である風間正男と守谷保宛で葉書を十四枚ずつ送付しているのです。自分の本名を捨て、新しい戸籍になって生活している人間にとって、その追跡ほどの恐怖があるでしょうか。葉書の送付者は、まるで

「逃げられるとは思うな」

という宣言をしているかのような、そういう恐怖そのものを送付しているのです。


 おそらく難しい表情で沈黙をしたわたくしの目の前に、もう一枚の紙を米田さんが差し出しました。

「もう一つのご依頼の方です。」



少年A 実名 尾嵜憲剛 

事件の主犯格 

懲役二十年、戸籍は過去通り 現在綾瀬在住。


少年B 実名 山川敬之

懲役八年 戸籍は過去通り 所在不明


少年C 実名 小川慎二

懲役八年 戸籍は過去通り 所在不明


少年D 実名 乾健太郎

懲役五年 平成十年十二月 死亡 


「ご依頼の過去の事件について、当時の少年四人の実名と、最新の情報になります。法務局では、基本的に少年の情報は紐づかないように少年法で定められていまして。ですので半分はまず、インターネット上で調べさせていただきました。過去の犯罪者は、ほとんど名前と住所付きで、晒されていますので。」

わたくしは、目を細めて米田さんの手書きの文字を見詰めていました。少しして自分の鞄から守谷の残したレシートを取り出し、見比べておりました。

「戸籍、住所などは間違い無いと思います。住民税の支払いなどは一切ないようです。つまり実質は行方不明になっている人間です。ひとりは既に亡くなっています。」

「明確ですね。」

「はい。当時<あれだけ>有名な事件でしたし、いまどきはネットのせいもあり、メディアや警察がいくら少年だったからといって過去を隠しても隠し通せることはないのです。その結果かもしれませんが、この尾嵜という主犯格以外は、全員行方不明です。まあ殺人犯としていくら懲役を終えても、社会には強く拒否がありますからね。むしろこの尾嵜は珍しいのだと思います。」

「そうですね。」

「はい。尾嵜は地元の暴力団に所属した関係で、住み残ったようですが。普通は、少年B,C,Dのようになるとは思います。」

わたくしは黙ってうなずきました。じつは、それはある程度は予想しておりました。

「ご依頼の二つ目。彼らと、風間や守谷とのつながりについてです。」

「はい。」

わたくしは呼吸を整えて、米田さんの瞳を見つめました。黒目が強い大きな目です。

「おそらく、可能性としては、Dは死んでいますから、このBとCとが風間、守谷につながる可能性はあると思います。あくまで可能性です。殺人犯の汚名を受けて生きるくらいなら、戸籍を買ってでもして、人生をやり直したいと思った可能性はあるでしょう。」

「はい。」

「ですが、すいません。結論から申し上げると、具体的な証拠的なつながりは一切、拾えませんでした。もう少しお時間をいただければと思いますが戸籍を買うくらい覚悟をして逃げる訳ですから簡単ではないはずです。まあ、警察関係では色々と把握しているのかもしれませんが、そこはやはり少年法が表向き強いのです。法務局には当然ですが、雑誌やネットの情報などは記載されないし、噂話が残ったりはしない。」

「そうですか。」

「まあ、ここで簡単に紐づくくらいでは、自分と別の戸籍を買う意味がないですからね。戸籍を買う時に全て紐づかないようにするに決まっている。ネット社会にもここは限界があります。」

「そうですね。そういうことでしょう、しかしだとすると、やはりあのハガキはすごいことですね。」

「そのとおりです。」

「戸籍を買って名前を変えた二人に、その先の住所宛先ふくめて追跡をしていたことになる。尋常ではない」

「はい。」

会話が重ねられてる間に頼んでいたオムライスとサンドイッチが運ばれてきました。二人はその間合いで会話を止めて、米田さんはタバコに火をつけたままスプーンを取りオムライスを頬張りました。ランチが始まるのか店中にトマトケチャップを炒める香りが充満しましたが、わたくしは食欲が出ずサンドイッチを置き去りのまま、

「守谷の残したレシートの文字が苗字だとすると、二文字が三名。一文字が一人。二文字の名字の二人が似ている名前だとすると、小川と、山川というのが実は近くなるのです。また、乾という一文字も、メモに当てはめると腑に落ちる落ちます。守谷はすくなくとも、この四名を頭の中に描いていた。自分が四名のひとりなのか?それとも、その周辺の人間かは不明ですが。」

確かに、乾の文字は、言われればそう見えます。小川、山川、はまさにその想定に近いと言えるでしょう。川の文字は似ている。ただこのレシートの四人の名前と、少年四人が類似するということも、わたくしの想定の範囲でしたが米田さんは言葉を止めず、

「もし軽井澤さんの予想が当たっているなら、守谷はこの四人の名前をあの池尻病院で片腕を失った状態で、わざわざメモを取ったということにはなります。」

「そうなりますね。」

「軽井澤さんは、この事件の起きた頃、おいくつですか?」

「小学生、ですかね。」

「そうですよね。」

米田さんわたくしはそこで沈黙になりました。どこかでこの事件のある側面について、想定ができてきたからかもしれません。パンチパーマ風の頭をぼりぼりとやりオムライスを平らげた後に店員を呼んでパフェをまた注文していました。置き去りのサンドイッチどころか、その時わたくしの視線は


少年A 尾嵜 現在綾瀬在住


という文字列に釘付けとなっていました。実は、米田さんに隠していましたが、唇が引き攣るように震え、また脳裏に不気味な嗚咽がやってくるのも感じました。ただどうにかそのことは、口にせず、

「すいません。ありがとうございます。」

というのが、精一杯でした。

「私もあの事件の当時は小学生か中学生だったかな。」

と言葉だけかろうじてつなぎました。米田さんは憂鬱な過去を調べたせいか少し不快な表情をしながら、

「あれだけ世間を騒がせた事件を起こしたわけですから、むしろ綾瀬でまだ暮らせる元少年A、つまり、この尾嵜の方が気が知れませんね。まあ暴力団に入ればそれでいいってことなのかは知りませんが。他の三人、いや二人のほうがまだまともかもしれません。」

と、冷たく吐きました。一連の事件について知れば、冷たく言うのも理解できます。この四人は正真正銘の極悪非道な殺人犯なのです。その罪は少年法のあのような短い懲役では許されないという世論が、いつまでもネット上で消えないのも理解できます。

「なんなんですかね。あんな事件があった街にまだ暮らせるというのは、無神経なのか、それとも後ろ盾か何かがあるのか。」

「後ろ盾。」

「ええ。そんなに近所の暴力団が守ってくれるんですかね。まったく。」

「そうですね。」

「まあ、軽井澤さんもそこまで必要ないでしょうから調べませんでしたが、とにかく、わたしにとってはどうでもいいです。ネットの記事を見れば見るほど、ただ、苛立つというか、そういう事件ですよ。まあネットがどこまで真実かわかりませんがね。少女が殺されたというのは、消えない真実です。」

怒りをふくむ米田さんの言葉を聞きながら、わたくしは、もぬけの殻のように、なにも言えずにいました。米田さんの顔の下のパフェのグラスを見つめながら、自分の過去のことを思っていたのかもしれません。

「軽井澤さん、なので少年のB、C、がそういうことです。守谷、風間と紐づく可能性があるとは思いますが、ネット上ではつながりません。この二人は、行方不明です。それと、もうひとりの少年Dは、」

「この一番最後の乾、ですね。」

「ええ。この乾は、山梨県で遭難しています。」

「山梨県で?」

「ええ。富士山の裾野に樹海があって。自殺の名所というか。」

「名所?青木ヶ原樹海ですか。」

「はい。もう二十年以上前に死んでいます。警察では遺書も見つかって処理されていますが、SNSやインターネットの出来る随分前のせいで、ネット上では全く記載がありません。法務局で死亡届が出ててその逆算でやっと調べられたのです。」

「なるほど。」

「ネット上の少年AやBが誰だというのは、掲示板が賑わいます。当然、同じ学校だったり地元の誰かが書きやすいですから。しかし、戸籍を変えたり死んだりした後は、情報が積み上がらないようです。」

「……。」

「まあこのDは、殺人の罪を感じていたのですかね。樹海で遺体の一部が見つかり、死亡処理がなされたようです。自殺したから許されるわけでもありませんがね。」

「ありがとうございます。」

「しかし、軽井澤さん。随分な、四人を調べますね。」

配慮ある米田さんは、昔とおなじように、なぜわたくしが、そんなことを依頼するのかについては、一切触れようとはしませんでした。ただ、自分の感想を言うようにそう言いました。

「すでに、平成がひとつ終わっていますからね。四人の少年犯罪者が、刑期を終えて順に社会に復帰してしばらく経っている。最初に出た人間がすでに、もう死んでいたというのは、皮肉だと思いましたが、ほかの彼らはいまどこでどんな生活をしているのか。人を殺した罪を悔いて生きているのでしょうかね。せめてそうあって欲しいところです。そのことだけが、気になる調査ご依頼でした。」





 わたくしは、米田さんと別れると、金町の駅から、江戸川の河川敷のほうに向かいました。帝釈天のあるほうは雄大な河川敷が眺められます。その河川敷は確か先日、レイナさんを紹介いただいた佐島さんとお会いした場所に近かったかと思います。

 人間の心というのはいつでも自分の思うようにならない、不思議なものだと、いう言葉が河川敷の風を頬に受けながら、空から落ちてきます。わたくしは、やはり、生きながら、ある過去の領域に目隠しをして生きているのだと思います。

 風間や守谷の表情を見るたびに、言いたくないであろう彼らの過去の存在を思わされました。それが彼らに共通した風情でした。彼らもまた、過去といかに決別するかを心において生きているように思われます。また、米田さんの調べていただいた情報で、四人の犯罪者たちの話を聞いたときにも、そのうちの一人が自殺している話がありました。その自殺もわたくしには腑に落ちるのです。むしろその人間少年Dだけは正しく罪を受け止めたのかもしれないという、小さな期待さえ抱くのです。

 犯罪者には過去を後悔できる人間と、そうでない人間がいるのではないか。本来は、過去を後悔し罪を改めることが道徳的な理想です。その上で残りの人生を歩むべきでしょう。しかし、しかしです。本当に正しく罪を思い後悔をするのならば、殺人犯は果たして新しい人生など生きていけるのでしょうか?すでに、人を殺している、のです。当然、命は戻りません。どんなことをしても殺された誰かの命は取り戻せないのです。生きている時点で不公平だと言うとてつもない真実がそこにあるのです。それが真実です。

 人間の死の後にーー殺人犯が生きていて良いのでしょうか?生きて反省してる?そんなことがありえるのか?それは反省ではなく、ただの忘却や誤魔化しなのではないか?

 その忘却はきっと遺族には許しがたいことです。なぜなら遺族は愛する娘がいないことを、毎朝地獄のように思い出しつづけるのです。何の罪もないまま突然絶望を突きつけられ、その日から永遠の悪夢の中にいると言っても過言ではないでしょう。前を向いて生き直すしかない、などというつまらない言葉遊びはそこにおいて何も意味を為しません。そう思うと、少年Dにはそういう感覚があったのかもしれません。

 わたくしは、事件の周辺を思い出しながら河川敷を眺めました。

 ここにひとつの物語があった。

 それはわたくしの暗鬱な闇の記憶とゆっくりとつながって参ります。精神の闇とは不可思議なものです。絶対に思い出したくはないと決め込んで生きていると、思い出そうとしても思い出せなくなるのですから。記憶の違った全く別のものが表面を覆い隠して、正確な形で呼び戻すことさえできなくするのですから。それでいて、そうやって完全封鎖していてた筈にも関わらず、まるで別の悪夢になってある時復活を遂げ今まさに<この精神を>侵そうとしているのですから。例えばわたくしは、葉書の消印を見て埼玉県三郷市と書いてあっても、わたくしの過去に照会しませんでした。脳が関連させなかったのです。重要な消印はありきたりな住所の列のひとつとして黙殺されたのです。そのくらい恣意的に過去の事実を隠すのです。その代償として、自分の娘の悪夢が始まりました。ある意識の向かう方角の反作用が、悪夢に関連付けられたとしか思えません。そしてその方角こそがこの河川敷であり、この綾瀬の街並みなのでしょう。そうしてある日、記憶が復活してしまうのです。

 実際にこの場所に来て見ると、やはり違いました。

 記憶は大地に染み付く。人間は土に近い生き物なのかもしれない。



少年A 実名 尾嵜憲剛 ・・・地元暴力団へ

懲役二十年、戸籍は過去通り 現在綾瀬在住。


少年B 実名 山川敬之 ・・・風間正男の戸籍???

懲役八年 戸籍は過去通り 所在不明


少年C 実名 小川慎二 ・・・守谷保の戸籍???

懲役八年 戸籍は過去通り 所在不明


少年D 実名 乾健太郎 ・・・自殺(反省?)

懲役五年 平成十年十二月 死亡 



 事件➖➖。

 その事件は、とある男たちが、<紗千のような年齢の>娘を惨殺した事件でした。昭和六十四年。まだ未成年だった少年四人は、同世代の女子高生を一ヶ月以上にわたり監禁陵辱し、惨殺したのです。その事件から今は既に三十年以上すぎています。わたくしはこの事件の当時小学六年生で直接的な関係は何もありません。

 しかし、この事件とわたくしは前職で、関わることになりました。そしてわたくしは当時の上司である大切な人間をこのことをきっかけに本質的に裏切ったのです。道徳的な反対を押し切って刑務所から出てきた尾嵜という主犯格の男に近づきました。わたくしが記者をやっていた頃にこの四人のリーダー格だった尾嵜と言う男が刑務を終えて社会に戻ったのです。

 彼の通うボクシングジムに入会したのもそのためです。



百六十 続・来庁(銭谷警部補) 


 バーでの金石の横顔を思い出す。

 大きな手のひらで小さく包むウィスキーグラスを揺らして、

「銭谷。まあ聞いてくれ。」

「……。」

「今回の六本木の事件はそう言う重宝的な組織が関係すると思うんだ。」

「雲を掴む話か?」

「まあ、聞いてくれ。」

泥酔した時に限り金石はそう言う話題になった。彼が、わたしに語ったのは、その組織は今も脈々と存在しているという、まことしやかには信じがたい話だった。その諜報組織に関係する人間らは、時には、麻薬を運んでいたり、毒物の作成や混入をさせたり、脅迫や強盗の一翼を担ったり、殺人の片棒を担ぐことさえあるという内容だった。そしてそう言う人間は普通にこの日本の随所に存在していると言う。

「どうだろうな。」

会話の都合上、わたしは反論する役回りだった。そもそも、この日本での「諜報」という存在は終戦と共に役割を終えたはずだ。旧軍部の特務機関やそれに対抗する市井の諜報組織などが、今も脈々と存在しているなどというのは常識的ではない。

 しかし金石の考えは常識(パラダイム)の外にあった。

 常にそうだった。

 バーで酔いが進んだ時にだけ、そのことをわたしに幾度となく語った。わたしは幾度となく反論した。そんなものがあるなら、もっと世の中で話題になるだろう、と。メディアも放っておくわけもないし、もしくは本当に存在するのならば、警視庁で表立って調べるべきだ。個人で動いたりなどしたら、何が起こるかわからない。いや、それは恐ろしく危険なことだ。ミイラ取りがミイラになる。<帰れなくなる>。もしそんな組織が本当にあるというならば。

 わたしの反論に、金石は決まって彼らしくない笑顔になった。

 その笑顔は、巨大なものを前に仲間が道連れになってくれないものを悲しむような、諦めに似た表情だった。

「覚悟の上だよ。」

言葉を提示した後に、左手でウィスキーの氷を鳴らすのが彼の癖だった。

「でも金石。そんなことをしてると、帰れなくなったりはしないか?」

「帰れなくなる?どういう意味だ?」

「仮にそんな組織が、警察本体と同じくらいの歴史で昭和の昔から存在するなら、そんな秘密を暴くなんてことをイチ刑事がすることは危ないのではないか、という意味だな。」

「下手を踏めば、当然そうなるだろう。だから今、全体を一気に捲(めく)るために動いているってことだよ。捜査一課のエースにも参加いただいてな。」

「何もできていないが。」

「そんなことはない。それと銭谷が今喩えたように俺はもう<帰れなく>なってもいいとさえ思ってる。逆にお前はどうだ。」

「……。」

「刑事になる前の銭谷に聞きたいね。」

「どういう意味だ」

「おれはお前に、いま刑事になった最初の気持ちを聞いているんだよ。正義という言葉の響きで、この世の悪い奴らを捕まえるぞと、思った十八歳の銭谷だよ。」

「……。」

「事件は突然やってくるぜ。その場面を選んで生きることなど人間はできないだろう?自分の側で、判断の設計をしておく事が必要なんだ。」

金石の声が内耳に揺れている。



 老刑事はわたしを見ていた。

 わたしは、金石と飲んだバーカウンターの板を撫でるように、警視庁六階会議室の冷たいテーブルに掌を当てた。そのとき、ぞっとする考えが頭の中を回っていた。


(帰れなくなったーー。金石は実際にそうなっているのではないかーー。)


わたしは心の動揺を隠すように、湯呑みを灰皿がわりにして会議室では禁止のタバコに火をつけた。老刑事又兵衛が語るたびにフラッシュバックのように訪れる金石との記憶が、精神の裡に次々と不安定な状態を作る。その状態は一つの事実を暗然と物語っていた。この老刑事又兵衛の言うパラダイムとその外側との間に生じる不安定さなのである。そしてそれは金石の失踪ともーー帰れなくなるという言葉とも重なり合う。

 わたしの精神状態の壊滅を気にもせずに、又兵衛はじっとこちらを見つめたまま長弁舌を続けた。

「……戦前のそういう組織には当然、名前もなく、事務所も銀行口座もなかったんです。エスなどというのも巷で言われたM資金や黒い霧の議論と同じで、非関係者の外部の人間が名付けたに過ぎない。本当は名前なんかなかったのかもしれないです。元々は協力者同志の零細な連結で成り立っていたはずです。いや、見様見真似で、戦前の日本の諜報組織が持っていた隠密の手法を用いたのかもしれない。やりかたは、ある程度想像はできます。

 一例を挙げます。

 本格的な諜報組織というものは基本的に多くの参加者は「部分参加」になります。部分ですからつまり、参加する誰もが、作戦全体を知り得ない存在なのです。仮に暗殺が行われるならば、作業は「部分」に分解されます。目標に声をかける人間、親しくなる人間、毒を調合用意する人間、内容も知らずに運ぶ人間、毒とも知らずに飲み物を用意する人間、死体とも知らずに現場の後始末をする人間などは、全て自分の仕事しか知らない「部分」になっている。つまり、二、三十名の人間が、少しずつ「部分」を担当する、これが諜報組織の基本です。少し前にあった北朝鮮の話も、空港で毒を撒いた人間はそれが猛毒のサリンとは知りませんでした。悪戯と聞いて、その協力金で作業をしたのです。もちろん、そこに暗殺目標とする相手がいることさえ知らなかった。おそらくそれを頼んだ人間もその内容を正確には知らなかったでしょう。パズルのピースと同じで、せいぜい自分の隣接者に関わることができる程度です。全体がどういう絵画になっているのかは知る由もないのです。

 なぜこういう面倒くさいことをするかと言えば、捜査一課の貴方には釈迦に説法かもしれません。そうすることで仮に誰かが敵に逮捕拿捕され裏切るとき、「組織」の被害は最小限になります。拿捕された人間は、拷問を受けても作戦の全体を知らないし、死体を埋めた人間は、その死体が死体になった理由さえ知らない。自分の遂行する部分作戦しか知らないので当然です。

 仮に誰かが捕まれば戦争の時代は当然に拷問となります。それこそ拷問のまま殺すことさえありますから、敵に捕まれば命を引き換えにする「亡命」や「組織」を売ることは想定せねばならない。堂々と国家同士が殺人をしあってる戦時に捕虜などになることが如何に恐ろしいことかは想像できるはずです。拷問の結果、情報を持っている人間からは漏洩が絶対に生じてしまいます。連絡網も、暗号も、全て筒抜けになり組織が壊滅させられかねない。なので、上記のように作業を分割し、命令者以外はこのパーティに誰が参加しているかも、何を成そうとしているのかも判らぬようにしたのが、第二次世界大戦の末期、一九四五年頃の常識ともいえます。もちろんそれから半世紀以上が過ぎ、更なる進化はしていると考えられますが。

 世の中の市井の市民が「そんなものは存在しない」と信じているのは日本くらいのことで、平和な国であればあるほど、諜報組織やそれに関連する出先機関、つまり明ん缶の下請け業者は溢れている。多くの日本人はアメリカのスパイ・エージェントはアメリカ人で、ロシアのそれはロシアの人間だと思い込んでいますが違います。下請け業者は、その国の人間です。つまり日本人がエージェントになります。ここでいう出先機関というのは日本人、日本の中でもありとあらゆる場所に存在しています。時には一般市民かもしれませんが、犯罪者だったり、反社会構成員だったりもするかもしれません。使えればなんでもいい。勿論諜報側としては、官僚や検察警察、政治家、大企業の役員のように権力に近ければ尚更よいはずです。ただ大切なのは日本に存在するどこの国のスパイも全て日本人だと言うことです。諜報組織とはそういうものです。

 彼らは例えば、道に金塊と紙切れを置き忘れるくらいのやり方で、命令を伝達したりもしたようです。伝言相手の名前も知らせぬ特殊な規則で連絡がされるなど、その方法は未だ判っていないのです。まあ、特に命令がなければ五年でも十年でも何もなく過ぎてしまうような組織なんだと思います。基本的に専業の人間はほとんど稀で、副業で行ってると思われます。

 ただ時代が過ぎても、過去にそのような緊迫した作業に関係した人間が、命懸けで記憶した手法や連絡の法則を忘れることは難しいはずです。よって必要な場面が来ればその時の連絡網はものの見事に復古するのは、当然と言えば当然でしょう。おおよそ、諜報員、スパイ、とはそういうものであるらしい。警察官とはまた違うものなのだと思われます。

 戦後、この特殊な「連絡網」は、目的を失いながら、ある形で続かざるを得なかったのだと小生は考えています。昭和史の黒い霧については触れませんが、特に勝共だとか中国や北朝鮮、冷戦時代に実はこの国は各国の諜報組織が入り乱れ存在した時代があるのは、様々な書物が説明している史実かとおもいます。その際に、この戦前から存在してきた秘密結社(エス)がある程度の利用価値を持ったのは、容易に想像ができます。それは喩えるなら、戦時中に軍事費で劇薬や生物兵器を研究してきた陸軍中野学校の人間らが戦後どういう場所に転籍していったかなどを見れば容易に想像できるものでしょう。」

又兵衛は一気にそこまで語ると、呼吸を整えた。

 わたしは表情を微妙にした。話半分で受け止めている、という顔をして斜めの方角の壁を見ていた。又兵衛老人の言葉は逐一、天現寺のParadisoのカウンターを思い返させた。あの一枚板のカウンター(木)を撫でながら聞いた言葉だ。金石が左手で氷を鳴らしながらバーボンをボトルごと飲み干す頃に吐いていた。

「分解されても存在しつづけられるものには、本当の強さがあるんです。」

「……。」

老刑事は話すことを決めた演劇中毒者のように、言葉を続けた。

「戦前には拷問などがあった。権力は拷問を行う。実際にさまざまな人間が殺された。連絡している仲間の名前や顔を知っていると、拷問が成立しそのせいで仲間を殺しかねない。だから家族にも友人にもそういう作業があることは言わなかった。結果として誰が組織構成員かもわからない、不思議な集まりになった。」

「……。」

「でもそれが理想だったのです。その分解された個々が、誠実に過去の命令手法を忘れず、全体を本人たちさえ知らないが故に成り立った。運んでいる金も、毒の理由も、命令されて運ぶ側の末端構成員が知る必要はないのですから。ただ、組織が恐ろしい組織だということだけはある程度は知っていた。だから命令に逆らったり逃げたりすることはできないと信じていた。本人たちも何が全体の目的かはわからずにやっている、そういう組織として、市井に残ってきた。」

「そこまでいくと、陰謀論だな。」

わたしは長弁舌に楯突くように冷たく言った。そのあたりで、一応わたしなりにわたしの所属する組織のパラダイムの限界を提示し、付き合いきれない、という顔を差し込んだ。金石でさえ酒抜きでそんなことは言わない。ましてやここは警視庁の六階である。

 その表情を見て、又兵衛はなぜか、逆に楽しそうに

「そうですね。陰謀論、そのものですね。」

と言ったが、怯むこともなく、

「一つだけ、昔とは違う重要なことがあるのですよ。」

「重要?」

「仮にです。もし本当に見えない組織が存在するならば、この今の時代にむしろ、価値を増しているのです。」

「増している?」

「だってそうでしょう。」

又兵衛はわたしの板の電話を机の上に指差した。

「銭谷さん。全てのインターネットはサーバーにつながり、物理的に監視が可能ですよね?これでは、隠密の諜報作業は溜まったものではない。電話も、メールも通貨の送金も、全て監視が可能な時代になりましたよね。実際に政府はそういう方向に、舵を切っている。」

だが、確かにその通りだ。サイバー捜査、街の中の監視カメラ、口座の電子化も含め、権力側の把握できる情報量は日々増えている。実際に警察権力もそれに便乗している。小板橋あたりが詳しいところだ。

「監視側は常に、犯罪の芽を摘むことができる。いや、監視をするものをさらに監視することさえできる。捜査技術が日々高度になっているのはご存知でしょう?」

足を使って聞き込み、張り込んだ昭和の時代は、遠くに去った。捜査の初動は、所持品、特にスマホとパソコンがどんな尾行よりも情報をくれるのは事実だ。最近では刑事より監視カメラが手柄を立てることが本当に増えた。

「デジタルは日進月歩ですよね、銭谷さん。」

「そうだな。だが、あなたのいう戦前からの組織とはどうつながる?そんなことは関係ないだろう。」

「大いにあるのですよ。」

老刑事は堂々と反論した。

「銭谷警部補。エスのネットワークは戦前からのオフラインですね。つまりデジタルデータにつながっていない。昨今では貴重になったインターネットの届かない空間を、大勢の元諜報員が相手も把握せずに連絡できるのです。金は現物で渡されます。命令にメールなどは使われません。道端で拾ったものを、道端で落とすだけの作業かもしれない。銭谷警部補、お分かりかと思います。オフラインは価値が高まっているのです。」

「オフライン、か。」

わたしはあえて素知らぬ、初耳のふりをした。現金で道端で云々までは金石は話したりまでしなかった。となれば、この老人のほうが、長くその組織を考えてきたのかもしれない。またオフラインという言葉で、もう一つ心の中でとある人物が引っかかったこともあったが黙って過ごさせた。

「指示者なる伝言の構造がある。メモだったり紙切れだったり、時に文庫本だったりする。」

又兵衛は昨夜と違った。酒の勢いではなく、話しながらわたしの前で、興奮を重ねているようにさえ思われた。わたしは何故かチャップリンの独裁者という映画を思い出した。話しながら世では陰謀と呼ばれるであろう論を回しながら、その言葉に勢いが出ていた。この言葉の勢いが、本当の彼なのだろう。そしてそれは金石の泥酔した節回しにどこか似ていた。

「銭谷警部補、あなたは金石とそういう会話もして、何かがあったのではないかと思っていたのですが。」

「……。」

「たとえばですが、この、エス、に興味を持っていると思われる人間がいたりもしたのです。」

「興味を持つ人間?金石以外に?」

「もう五年も前になりますが。そのことは金石から本当になかったのですか?」

わたしは、尚も曖昧に話していた。それはわたしの意固地というよりも、金石と又兵衛刑事の関係を又兵衛の側からしか聴けていないが故の配慮だった。石原の時と同じように、わたしは金石のことについて簡単に人に心を開けなかった。

「まあ、陰謀論と銭谷警部補に言われればそうですがね。この通り、そういう切り口を小生は随分昔から辿ってきましてね。職業病のようなものです。」

「昔から、ですか。」

「まあ、昭和というか、そもそも古い時代は今とは違って、清濁がいろんな場所でつながっていましたからね。この警視庁ビルの上層部だって、ヤクザものと繋がっていたし。政治家にもいろいろありました。」

「……。」

「小生は思うんです。そういう不都合な繋がりに、エスという名前のない組織が正しく機能するなら、これは便利だったのだろうと。その繋がりが、正しい人間同士の繋がりだったなら、わたしはそれもいいと思う。」

「それは意外ですね。陰謀の肯定ですか。」

「どうでしょうね。正しいことをするならなんだっていいんだ。でも、問題は、そうではなくなった時ですよ。組織の罪を隠したり、権力の犯罪そのものに秘密結社が利用されるようになると、恐ろしい。なぜって、戦争の時代でも生き延びる強い組織ですから。最初は正義のためにつくった連絡網が、気がつくと、誰からも見えない支配者のための通信網になっていくってことです。闇の始まりでしょう。」

「ブラックホールですか。」

「はい。ブラックホールの機能を、権力が使い始めた時が終わりの始まりです。」


 老刑事は、ある意味、話し尽くすことが目的だったのかもしれない。

 わたしは自分で継ぎ足した茶をごくりと飲んだ。金石のことを白状しない自分の申し訳なさを喉越しに当てていた。

「銭谷警部補。そこで、わたしの相談のことを思い出せますか?」

「相談。」

「昨日の、埼玉の捜査の件です。」

「埼玉?」

「はい。昨日申し上げたものです。身内で何故か加害をしあう、ヤクザの件です。」

壮大な昭和戦前から続く組織の話から、急に、小さな現実に戻される脱力感があった。わたしは押し黙ったが、老刑事又兵衛は少しも怯むことなく続けた。

「前置きが長くなって申し訳なかったですが説明させてください。今回の彼らの小競り合いには、エスにも関連しかねない、古い因果が絡んでいると思っているのです。」

「あの小競り合いに?」

わたしは少しこじつけのような言葉に非知的な表情で対した。

「銭谷警部補。もし仮に、このヤクザの小競り合いの話が、実は、過去の凶悪事件に関わっているとしたらどう思いますか?」

「凶悪事件?」

「既に解決済みにしている事件です。つまり、警視庁が解決済みにしているども、正しくは解決していない案件です。」

老刑事はすこし気になることを言った。解決済みにしている事件、という言葉が釣り針になってわたしの喉を掴む。それは、わたしには、真実を歪められた犠牲者がいるかもしれないと言う意味でもあり、この五年、太刀川と金石の残像に苦しんでいる構図と相似する。

「ーー過去の事件というのは。」

「ええ。過去の重大な事件です。」

「過去に?警視庁が処理している事件か?」

「失礼しました。あくまで本庁と言うよりも、A署の中では圧倒的にという意味ではありますが。ただ、世間様を騒がしたという意味では全国区の凶悪事件でした。」

「なぜそんな過去の凶悪事件と、今日のヤクザの小競り合いが関係を?」

わたしはわからないものは素直に説明を求めた。雲を掴むような諜報組織の話よりは実際の事件の方が質疑が耳には馴染む。

「小生が暴きたいのは、警察も含めた問題です。」

少し唐突にその言葉がやってきた。わたしは、老刑事のリスのような眼差しを凝視した。

「警察の?」

「はい。その問題に、警察内部の問題が関わっていたとしたら?つまり、このヤクザの痴話喧嘩は、痴話ではなく、原因が、日本全国を震撼させたような事件の問題に端を発していて、その問題とは警察が歪めて解決済みにしたとある事件であるとすると、銭谷警部補はどう思われますか?」

「説明がわからない。その事件に、警察側の問題が絡んでいる?」

「はい。」

老刑事は再び真っ黒く大きい瞳で見つめた。わたしは、沈黙した。重大な事件はその判決まで、全て頭に入っている。A署の周辺でというと、凶悪事件というだけで、わたしはいくつか既に思い当たっている。

「その凶悪な事件に、エスのような組織的な動きが絡む、ということなのか??」

「だいぶ古い事件ですがね。金石やあなたが警察官になる以前の事件です。わたしは、A署でずっとその組織を追いかけ続けていたのです。本業の合間にです。あなたと同じように。解決済みにされてしまった、真実に蓋をされてしまったものをです。」

「わたしとおなじ?」

わたしは少し呼吸を止めて又兵衛を見た。

「ええ。太刀川の件を、権限を失っても、自分の時間を独自に使って追いかけている。」

「なぜそれを」

「顔を見れば分かります。」

「顔?」

「刑事の顔を、ずっと見続けてきましたから。」

年老いた刑事は照れくさそうに言った。

「金石と話したのを思い出したくらいですよ。」

用意した話を尽くしたのか、老刑事は少し満足気にそう言った。

 わたしはたまらず反駁した。

「又兵衛さん。いいですか?金石の話をしたいのなら、無理だ。わたしは奴から捨てられた側だ。期待されても困る。それに。」

「それに。」

わたしは自分が、現在置かれている立場をそこで言いそうになっていた。何故か、この老人との距離が近づいている。しかしそのわたしの脳内の混乱を遮るかのように、老刑事が先に

「銭谷さん。小生は横領とかいう濡れ衣で懲戒解雇になるのですよ。ご存知でしょう。刑事に尽くしてきた人生の最後がこれです。」

「……。」

「今回の捜査は刑事人生の集大成です。小生は修めたいのです。刑事人生をね。ですが、そう力んでいましたせいか、どこかでA署の幹部に幾つかのことを把握されてしまいましてね。若い警官で手伝ってくれる候補はいたんですが。」

「……。」

「結局、組織のやることは人事ってことですよ。人事が権力なんです。金石もそうだったでしょう。」

金石は自分の人事を把握して去った、とわたしは考えている。そういう意味では懲罰人事も見越して動いていたはずだ。

「現在の小生の立場はA署には迷惑極まりない。なぜなら小生が捜査を続けて開示するのは、A署では最も恥ずかしい黒い歴史になるからです。ブラックホールの闇に消し去ろうとしていたものを、暴こうとしているのです。昭和を象徴するようなあの事件で、警察がヤクザに加担していたなどはあってはならないはずです。」

「……。」

「残念ながら、もはやA署内に小生は頼れる人間はいません。」

わたしはそこから長い間沈黙した。無言を誤魔化すように、茶を組み直したり、火のついていないタバコを指で鉛筆のようにわたしはいじった。そうして、やはり太刀川の座ったパイプ椅子に又兵衛が座っていることを象徴のようにながめていた。

「銭谷警部補。いや銭谷さん。わたしはあなたに少しだけ、頼みたいんです。」

長い沈黙の後突然、老人はそう言ってわたしの手を掴んだ。かさついた老人の手が、表面だけ汗ばんでじっと、爬虫類に触れた遠い記憶を思い出した。

「一日だけで、いや半日でもいい。」

 強い握手だった。 

 刑事になったあの頃に未だわたしが正しく持っていた、仕事への夢のようなものが、<手のひらから>戻ってくるようだった。そんな夢を、この老刑事は四十年以上持ち続け、そして、上層部の策略かもしれない懲戒をうけても、刑事の仕事を===世の中の罪を暴くという仕事を諦めずにいる。誰か個人を恨んだりする様子もなく、ただ、刑事の初心の夢に忠実に生きている。

 きっと老人は周囲の誰にも話したことは無かったのだろう。A署での是永の話にもその領域は一度も出なかった。彼は自分の作業を誰にも話してこなかったのだ。

 その構造は、この五年の間わたしが殆どのことを人に話さずに太刀川を追いかけているのと酷似していた。しかし彼は三十年。わたしはまだ五年だった。

「どういう作業があるのだろうか?」

「どういう?」

「又兵衛さん。委細は、別として、わたしが捜査に協力をするとしたら、どういう作業があるのだろうか?」

わたしがこれまでの氷の顔面を割って、言葉を出したとき、老刑事はゆっくりとそれを黒黒と潤んだ瞳で見つめた。

「ありがとうございますーー。」

「……。」

「いえ、なに、簡単です。何もいりません。もう手配は整えていますから。すこしだけ、わたしにお付き合いいただければそれで終わりです。」

「よくわからないが、わたしの時間を使いたいというなら、それは構わない。ご存知かもしれないが、いまわたしは事情があって時間がある。ちなみにいつからですか?」

「それでは、今日この後、いかがでしょう?」

「今日?」

再び、老刑事はわたしを黒目で見つめた。

「さっそくですね。」

「はい。急かすようですいません。何か新しい事件が起きて、銭谷警部補がお忙しくなってしまう前に、と思っていまして。」

わたしはその時ニコチンが切れていたにも関わらず、煙草のことを思い出さなかった。



百六一 墓参  (御園生) 


 軽井澤さんは米田さんに風間と守谷の戸籍を調べさせていた。

 米田さんは軽井澤さんの前職の頃からの付き合いで、さまざまな場面で軽井澤さんをサポートしている。そして今回のような本当に困った状態で頼むのは米田さんなのだと思う。そういう相談は僕には来ない。少し悔しいと思った。でも十年を超えるような仕事の関係というのが僕にはまだ想像がつかない。ひとつひとつの仕事で積み上げていくしかないのかもしれない。

 尾行の二日目と言っても江戸島と言う名前と出会ってまだ三十六時間程しか経っていない。僕は少なくとも昨日より冴えた頭でマツダのキャロルを二重橋に停車させ、パソコン仕事を運転席でこなしながら、江戸島の社用車が地下から出てくるのを待った。銀座でさえ車で行くのだから、どこにいくにもこの出口からくるのではないかと思った。

 夕方も五時をすぎる手前、昨日と同じ一際目立つ役員社(リンカーン)が社用口から出てきた。

 役員車は銀座方面には向かわなかった。皇居から青山通りに入るとなぜか、外苑の銀杏並木を超えたあたりで突然車を停めた。オリンピックのスタジアムは近いけども、辺りには料亭も無さそうな場所だ。車を降り、江戸島は運転手らしき人に手を振っていた。どうやら役員車(リンカーン)を帰してしまったようだった。

 歩き出した江戸島会長は、角を曲がると消防署通りの方に入った。その先は、軽井澤探偵通信社の方角である。と言っても都内の一等地に広大に広がる青山墓地の方角というだけで、我々の事務所のある南のはずれの崖下まで江戸島が歩くとは思えなかったが。

 僕はコインパーキングを探しながら社用車(キャロル)を徐行させ、遠目に追いかけた。江戸島会長は料亭に向かうのではなく、青山墓地の入り口の事務所で花を買っていた。墓参なのだ、と思った。確か昨日調べたが、彼は、秋田の出身である。こんな都内の一等地に代々の墓でもあるのだろうか。花束は立派だった。

 僕は車を消防署近くの路肩に止めて遠目に江戸島会長を追いかけた。彼が墓参したのは、墓地の管理事務所から東側に歩いた区画で、大久保利通の墓所の少し先だった。そのあたりは樹木が少なく遠目にも見渡せた。僕は通行人が偶然に立ち止まったふりをして、墓作業をする彼を遠目に視界に置いていた。江戸島会長はその場所に蹲るようにして比較的長い時間手を合わせていた。

 しばらくして江戸島会長は立ち上がった。そのまま青山墓地に無数にある出口の一つを使って墓地を青山デニーズの側に出ると、手を挙げた。停まったのはリンカーンではない街のタクシーだった。あっ、と思った。何故役員車があるのにわざわざ、タクシーを使うのか?昨夜の不思議な折り返しが脳裏によぎる。僕はキャロルの方角に戻ることを諦めて、急いで江戸島と同じデニーズの通りに出てタクシーに手を上げた。一人での尾行には限界があると思ったが、運良く空車のタクシーが連続してやってきた。江戸島を乗せた車を一瞬見失ったけれども、幸運なことに墓地の南端の米軍基地の前の信号で真後ろに追いついた。後部座席に立派な江戸島の白髪があった。

 江戸島会長を乗せたタクシーは、西麻布から天現寺を抜けて、目黒方面へと走った。僕はタクシーの座席になるべく重心を下げて顔が見えないようにさせながら、前の車を目で追った。



百六二  埼玉八潮(石原)


 八潮の駅を降りた太刀川は、住宅街をほぼ迷うことなく歩き、駅からさほど遠くないその家に入った。少し世代の古い宅地で、昭和のころの街だった。いくつかの家は新しく改装されたり新築されたりしていた。太刀川の入った家の前を、変装したままの石原里美巡査が通り過ぎた。表札だけ目で読み取った。

 川田木という表札が読めた。なにか慈善事業をする企業や中規模の団体が存在するような家ではなかった。平凡などこにでもある家に思えた。太刀川の知人や関係者の家なのだろうか。太刀川は福島の出身だが、親戚でもない限りこの埼玉の住宅街は違和感があるように思えた。

 石原はしばらく歩いてから、道に迷った小さな芝居をして、川田木という表札の掲げられたその家を再度確かめて、通り過ぎた。そうしてブロック一つ離れてから、辺りの地図を確認し、少し離れたあたりで別の家の呼び鈴を押した。閑静な住宅街だが、少し高齢化が進み始めている印象の家並みだった。

「簡単なフィールドワークを行なっていまして。」

石原が挨拶したのは、典型的な六〇過ぎの女性だった。

「フィールド?なんですかね。それは。」

「まあ、国勢調査の一種と思っていただければと思います。」

「へー。そんなのあるんですか。今まで経験は無いですけども。」

「はい。ランダムに住所に宛てておこなっています。視聴率調査と一緒ですね。あれも本当になかなかやったことがあるという人も少ない。」

警視庁と言う言葉は強すぎる。また、ここは厳密に言えば埼玉県警の管轄でもある。本当のことを言えばややこしい。

「民間の調査か、なにかなのかしら。」

もちろん知りたい事は、太刀川の入ったへ表札の家が、この辺りでどんな存在なのか、であるが、いきなり直接それを聞く事はおかしい。

 目の前の主婦は少し怪しいものを見る表情だった。同じ女性同士の邂逅がないなとおもったが、石原は自分自身が中年の眉の濃い男の格好をしていると言うことを少し忘れていた。

「はい、そうですね。まあ、皆まで申し上げますと、実は、探偵調査でして。」

「へえ。」

R0224の影響で用意した、簡単な名刺を石原は差し出した。こういう名刺を持つことで安心感が増すのであるが、実際に役に立つとまでは予想しなかった。自分の人格を徹底的に設計せよ、か。

「ご存じないかもしれませんが、都内で探偵をしています。」

「へえ。都内で。」

「はい。実は、この二丁目の界隈全体を調べております。理由はと言うと、資産家というか、旬の金持ちというのはまぁ嫉妬深いかたが多いのですが、この界隈の女性との不貞関係を調べておりまして。」

不貞という言葉を石原は、意図的に置いた。ほとんどの人間が不貞や不倫という言葉の響きには立ち止まる、というのは本当だった。

「本当ですか。」

「ええ。嘘を言いに埼玉まで来ませんよ。」

「まあそうね。この界隈はもう古いので、若い女性はあまり住んでませんけどもね。若い女性はわたし知りませんのよ。」

「いえいえ。年齢と言うのはいつになってもわからないものです。不貞というか、そういう熱情には、むしろ驚いてしまうようなことが多いものですよ。」

「この二丁目十五番地で、でですか。」

石原は、主婦が前向のめりになるのを感じた。

「はい。二丁目で調べてるんですが、まぁレポートは無記名で、もちろん依頼者以外誰にも見せないものですので、自由に話していただければと思います。」

そう言って石原は説明のタイミングで商品券を取り出した。こういうときのために常に取材協力の経費を用意してはいる。これは捜査一課の経費である。

「まあ、でも、そもそも女性はこのブロックだと、みんな高齢で介護に通ったり寝たきりだったりですよ。元気にしているのは私のとこと、山田さんでしょ、あとは、川田木さんのとこもはさすがに良い御年ですから、不倫のイメージなんて全然。」

しめたとおもった。向こうから言葉を晒してくれた。

「まあ、探偵と言うのも世知辛い商売でして、レポート並べれば経費をもらえるものだったりもしますので。気にせずにお願いします。不貞関係に竿を指したいのではなく、レポートを作るためだけですので。」

「なるほど。」

「その山田さんや川田木さんについてでもいいのでぜひ教えていただけないでしょうか。」

「いや、どうですかね。山田さんに会えばわかると思いますけど、その方向は完全にないというか。もうお年ですし、そんな感じはないですね。まあそうです。川田木さん、川に田んぼのたの川田木さんは綺麗にしてらっしゃるけど、でも、もう不倫なんて全く考えづらいよなおうちですけどね。子供みんな東大に合格して近所でも自慢のママさんでしたから。」

「全員東大ですか?」

ふと太刀川の経歴のことを思い出した。東大在学中に起業したのがパラダイム社ではなかったか。子供たちは同級生とかそういうことがあったりするのだろうか、と思いながら

「川田木さんはおいくつくらい、いや、そのお子様はおいくつくらいなのでしょうか?」

「三兄弟ですか?」

「ええ。」

「そうですね、大学がみんな東大だなんて、この辺りじゃあ珍しくで、そんな話題をしていたのは、もう一昔前ですからね。今はもう五十ちかく、とかになっているんですかね。弟さん二人は出世して弁護士と、官公庁にお勤めだったと思いましたけどね。」

嫉妬深そうな主婦は他にすることも話すこともないのか、玄関で茶も出さずに立ち話を続けた。

「ああ、そういう年代ですね。」

石原は、太刀川と同世代かもしれないという勝手な想像を止めた。五十代と三十代では、さすがに関連は考えにくい。

「川田木さんがそんなことするかなあ。まぁあの家も大変だったりするから、いろいろあるのかなあ」

「たいへん?」

「ええ」

「そんな自慢の息子が三人も東大に行ってたらお母さんは幸せでしょうに。」

ふと石原は警視庁にもいる東大法学部出身のキャリア官僚を思い出した。雲上人の人間である。早乙女捜査一課長のさらに上に、若くしてやってくる、我々とはほとんど関係のないような、遠い存在が、東大という言葉の響きと重なった。

「まあ、いろいろわからないものですよね。」

主婦は少し会話に引き出しをつけた。よほど暇らしい。

「実は弟さん二人は良いのですが、その長男が、ずっと寝たきりなんですのよ。」

「ねたきり?」

「植物人間って今は言っちゃいけないんですかね。脳死ともいうんですかね。」

「脳死。」

「ええ。もう人間は死んでいるのに、身体だけ呼吸したり心臓が動いたりはするんですよ。ほら、だから、例えば、臓器移植とかして、若い子供が助かったりするでしょう?」

「臓器、ああ、心臓とかの。」

「そうです。そのドナーになる人ですね。脳死していると、そういう世の中の役に立つ可能性なんかがあるとかで」

「なるほど。」

「東大に受かった人の心臓ですからね。わたしもどうせもらうならそういうのがいいですけど」

「そういう心臓を渡すんですか?」

石原はさほど興味が薄れつつも、他に周辺に手段もないため、適当な質問を繰り返した。そうやって主婦との会話をしながら、別のこと、太刀川が、何故こんな場所にわざわざくるのだろうかを考えていた。つくばエクスプレスにはほとんど人がいなかった。都内を回りがちな太刀川にしては埼玉は少し違和感がある。それは銭谷警部補と話した内容である。彼も違和感を言っていた。だが今日、川田木という表札の家に入ったのは間違いない。

「それがあの人のところは、なんだか、そういう臓器うんぬんは絶対にしないって、話です。まあそうですよね。まだ死んだわけでもない子供の心臓を止めるなんてね。で、病院にも置いておけなくて、自宅で面倒を見てらっしゃるんです。」

「寝たきりなのですか。」

「そうです。もう、三十年前かなぁ。素敵なハンサムでね。三人の長男で、スポーツマンで、現役で東大に受かってすごいってみんなで言ってた矢先に事故になっちゃってね。まぁ弟さん二人が頑張ってお兄さんの分までおんなじ東大に行って、弁護士になってもう一人は官公庁にお勤めですから、よかったんだけど。」

「なんでまた。」

「まぁちょっと私も詳しくは知らないんですけど、誰かに殴られたのか何かいろいろあったんだと思うんですが、当時の不良ですかまぁそういう時代だったんで。」

「……。」

「なのであの家のお母さんが不倫なんて言う事はない気がするんですけどね。旦那さんは建築関係のお仕事しててもうやめたのかな、夫婦とも仲もいいです。寝たきりの子と自慢の子供たちとで、お忙しいですからね。旦那さんもお仕事一筋で真面目な方で仲の良い夫婦ですよ。」

「なるほど、ちなみにその、親戚付き合いとかはいかがですかね。」

「親戚?」

「ええ。その例えば福島の方で親戚があるとか。」

石原はあえて太刀川の出身を会話に絡めた。

「福島?なぜですか?」

「いえ、その。」

「……。」

「その、不貞の相手方の都合でして、守秘義務ですが。」

「なるほど。そうですか。川田木さんの出身は関西の方でした。ご夫婦で学生時代からのお付き合いだとか。福島県という話は聞いたことがないです。関西から親戚の方が昔見えたことがあったようなことはあったと思います。」

「なるほど。」

「いずれにせよ、夫婦とも素晴らしいお方ですよ、わたしがいうのもなんですが、なので、二丁目で不貞だとすると、山田さんなのですかねえ。」

「ああ。山田さんは、もう大丈夫ですよ。」

石原は商品券を封筒に入れ、老主婦に渡した。

「え、もういいんですか。」

「まあ、我々はレポートできれば助かるのですよ。今日のお話でかなり進捗できました。いろいろ情報いただきましたから十分です。ありがとうございます。」

石原は主婦との会話をしながら、川田木と言う家に入って行った太刀川の背中を思い出していた。三人の息子を東大に入れた母親。ごく平凡な教育家庭。その家に、わざわざ複数回通っている太刀川。

(あるとしたら、慈善の話になる、ということだろうか。でも、ほんとうに慈善事業なの、だろうか。)

寝たきりの息子を介護している、と言う。無理やりこじつければ、例の慈善団体の作業の一環といえなくもない。が、石原には太刀川という人間とこの埼玉の住宅地がどうしても重ならないままだった。

「なにか役に立ちましたかね。」

老主婦は、じっと石原を見ていた。

「もちろんです。」

「それと。」

「はい?」

「今時って、おとこのひとも眉毛を描くんですかね?」

「え、これですか?」

「いや、その少し気になって。」

主婦は、まんじりと石原を見た。



百六三 反社行脚(銭谷)


 A署の方面へ向かう千代田線で又兵衛とわたしは無言だった。

 少し前、警視庁の六階で又兵衛刑事がわたしに語ったことを整理していた。


①過去の事件が発端でA署の所轄内の暴力団界隈で、何かが起こっているらしい。


②警察と反社会組織の癒着の問題が存在してきた、と又兵衛は考えている。


③古くからの諜報組織について又兵衛は研究があり金石と近い考えを持つ。




 地下鉄の中、又兵衛の隣の席でわたしは、A署の関連する事件を五十年以上昔から順に辿っていた。

 脳裏に一つの事件を想定しつつあった。

 A署の管轄で起きた事件といえば、その事件を想定してしまうような、嫌な事件である。無論ほとんどの解決済み事件がそうであるように、その事件もすでに時の彼方にある。そもそも又兵衛の指摘するような❷の警察不祥事や❸の諜報組織の類がその事件に絡んでいる気はしない。

 地下鉄の座席に腰掛け、又兵衛は、ほとんど目を瞑っていた。あの動物のような瞳を閉じると、見た目はどこにでもいる老人だった。刑事は歳をとりやすいという言葉をわたしは思い出した。苦労が多かった人生なのだろう。

 西日暮里から北千住を過ぎ、地下鉄がすっと角度をあげて地上に出たところで、突然又兵衛は立ち上がった。次は綾瀬駅で、既にA署の管轄だった。

 綾瀬駅を降りると、特に迷うこともなく、歩き始めた。

 又兵衛老人の脳裏には、所轄の暴力団事務所の住所が入っているらしい。

 わたしは無言で又兵衛についていった。まだ若い刑事の頃、先輩について足で稼いだ時代を思い出した。速過ぎず、遅過ぎず、淡々と足をすすめる。又兵衛は、よく歩いている刑事の足だった。先を急ぐ一定の速度が理想的だった。綾瀬は駅前すぐから住宅が始まる。最初の事務所は、綾瀬川の方に徒歩十分ほど歩いた川近くだった。見上げるような土手から一筋入った何隔てない普通の住宅地に、少し異風に歌舞いた黒塗りの家があった。

 臆することもなく、老刑事はドアを叩いた。

「警視庁です。」

しばらくすると、中からわかりやすいその道の若者が出てきた。

「またあんたか?ちゃんとA署の中でも担当を通してもらいたいな。」

「今日は、少し違います。いつもと。」

「なにい?」

「警視庁のね、本丸の刑事さんもきてもらっていますから。」

「どういうことだ?」

「本丸の霞ヶ関が動いているということですよ。みなさんの身内の私刑の騒ぎについてです。」

「何がだ?」

「なんでもいいんですよ。とにかく茶でも飲ませてください。」

そう言って老刑事はにっこりと笑った。それはなぜか年長のものが街の後輩に優しく微笑みかける様子にも思われた。目尻の皺が深かった。

 又兵衛は端的だった。

「もう一度改めてお尋ねします。こういう写真が警察宛に送られてきている。心当たりはないでしょうか?」

と、彼らの身内の私刑の写真を見せるのである。写真は典型的なリンチの現場で、瀕死の重傷を追った人間の写真である。見るものが見ればこの看板ーーK組の構成員であることはわかるのだろう。決して末端の若者の写真でもなかった。むしろ傷ついているのは高齢のベテラン組員が多い印象だった。

 本来であればそんな写真は警察までは出回らない。もっといえばそんな写真などは撮らないし、抗争や縄張り争いならこんな手順を踏まずに殺すことの方が多いはずだ。それがわざわざ写真にして出回り、挙句、警視庁にまで送られてきている、と言うのが又兵衛老刑事の説明である。K組の人間も、身内の人間が重症を負っている写真なのもあり、一定の興味は持ちながら、何故か表情を曖昧にした印象で、この老刑事を避けている。

「これがA署だけならいいけどですね、こちらの霞ヶ関の本庁にまで届いておると言うんです。それは警察組織としても、少し話が違って参りますから」

と説明を加えた。なるほどーー。

 <わかりやすい>役者を一人置いたということだ。

 すでにA署の正規の組織対策担当者ではない又兵衛が、本庁の論理を使う。こうすれば組織の縦割りで、裏どりを行うことが難しい。少なくともA署の中だけの処理がしづらくなる。そういういくつかの設計を感じる。

「どうですかね。こんな写真を警察に届けるというのは、みなさんらしくないですよね。」

「わかんねえなあ。」

「わからなくはないでしょう。」

「何とでも言えよ。…今はみんな出払ってるんで。」

昨今の暴対法のせいか、恫喝をしてくるようなことはなかった。ひと昔前であれは、こんな訪問でも、気が狂うような罵声を浴びせて息を撒く若手組員がいたものである。近年は、彼らは、ただ、難しい視線で、殺意かどうか判りにくい視線を漂わせるのみである。

「いかがですかね?心当たりや聞いた話でも良いんです。」

「知らねえなあ。」

「あと、前も申し上げたあの件はどうですか?」

「あの件?」

「葉書ですよ。何だか、不思議な葉書が出回ってるとかいう。この事務所にも来ませんでしたかね。」

「葉書?」

「この界隈の組員の中で、そういう噂があると聞いているんですが。」

「知りませんね。」

暴力団構成員の若い男は本当に知らないのか、威勢を張りたいだけなのか、壁のような顔でそう言った。上層部から言葉を禁じられているのかもしれない。茫漠とした殺意か単純な威勢なのか判りずらい表情を我々に投げ返していた。若者の顔面をぼんやりと眺めつつ、わたしは葉書という唐突な言語がそこに置かれたのが気になった。

 一つ目の事務所はそれで終わりだったが、基本的に何か明確に目に見える成果があるわけではなかった。

 ただ、川沿いを歩いて北上して入った次の事務所でも、又兵衛刑事は同じ会話を繰り返した。ほとんどが同じ会話である。

 事務所は小さな家であることが多かった。K組の関連事務所だけを、繋ぐように老刑事は歩いた。次第に綾瀬駅からはだいぶ距離が離れた。綾瀬川沿いを北上して民家の太刀並みの間の細い道を歩いた。河川が多くそれを守る土手が多い。その土手より低い家がほとんどだった。我々は徒歩でいくつかの橋を渡った。

「あの先から、埼玉ですね。」

「もう、こんなすぐですか。」

「入り組んでいてね。川の湾曲に合わせて、県との境があるのでね。」

そう言って、少し高台になる綾瀬川の堤防に立ちながら、老刑事はじっと埼玉の方角を眺めた。


図X 地図X


 我々は県境を越えて、埼玉県の八潮とか三郷、という地域に入っていた。ある一定の間隔を持って、K組の事務所は存在した。埼玉にも多い彼らの事務所を順に扉を叩いた。どこも、似たような風情の人間がそこにいて、似たような眼差しで又兵衛の話を形だけ聞いた。

 最初の綾瀬川沿いの事務所から数えて、五箇所目だっただろうか。

 又兵衛が例によって写真を見せたり説明を始めようとする時に、相手の男が少し違和感のある強さで遮って

「まあいいや。シノゴのはうるせえからさ、まとめるとあなた、何を調べてるんですか?」

と、前のめりに聞いてきた。

 その声と表情は明らかに殺意が丸出しだった。

 どうやら、K組の中でも情報が回ったらしい、とわたしは感じた。声と空気が変わっているのは幹部からある程度の指示が出ている証拠だろう。

 その組員の左手は指が根元からふたつ欠けていた。

 又兵衛は臆さなかった。

「小生もこの通り、刑事を長くやってますがね、なぜか、あまり、みなさんが、落ち着きがないので気になるのですよ。プロの皆さんが身内で私刑なんてのが、ポリスにまで出回ってたりしてね。天下のK組さんが、みっともないじゃないですか。」

「あなたにとやかく言われる事じゃないでしょう。知らんもんは知らんからね。」

「上の人はいますか?」

「なんのことですか?」

「ええ。カシラでも、組長でもいいですよ。」

薬指と、小指のない男は殺意のある目で無言に睨み返した。しかし老刑事は全く怯まない。彼らと同じような、いやそれ以上の覚悟さえ感じさせられた。しかし、指のない男の目の中に一瞬間、殺意が宿ったのは確かだった。

 危険な橋を渡っている。それはわたしにも判った。

「A署には定期的に、ぼくらもお参りさせてもらってるつもりですがね。あんたとは違って、正規の暴力団担当の方にね。」

指を欠損した男は言った。

「そうでしょうね。わたしはもうマルボウではないのでね。いまどきの御作法が判らずでして。まあおそらくあなたたちとよく話し合っているマルボウ担当は、今回のようなことには触れないでしょうけどね。一見、小市民に関係がないことに見えますからね。」

「……。」

又兵衛は、A署では暴力団の正規の担当ではない。ある意味警察組織にも無許可で事務所回りをしているのだ。これが正規軍ではないと理解すると、彼らは堂々と暴力を振るう可能性が高まる。しかしそのことさえ恐れず織り込み済みだという態度を又兵衛は取った。

「とにかく話ができるように対処頂けますと、助かります。これ以上こんな空気が続くのは、あなた方の中では、課題でしょうから。」

おやと、わたしは思った。なぜかその時、わたしは又兵衛が、暴力団の人間たちが身内で私刑を行う理由を知っているように感じた。

 薬指と小指のない男はそこから無言になった。睨み返しながら何かを考えているようにも見えた。思えば、この時に一定の判断がされたのかもしれない。もしくはこの老刑事の絶対的にも感じられる覚悟を彼らが少し恐れたのかもしれない。

 その後も、老刑事とわたしはK組の事務所を回った。

 わたしは、老人の横で次々に現れる反社会の人間たちの様々な顔面を眺めているばかりだった。そのほとんどは、幸せそうではない、わたしのように疲れた顔をしたヤクザだった。

 五箇所目、左手の指が二本ない男のいた事務所の後からは、明らかに組織の上層部が、我々のような訪問者が来ることに対し、なんらかの指示を出した様子があった。わたしがそう思ったところで、又兵衛刑事もおなじことを感じたようだった。

「銭谷警部補、そろそろ、と思います。」

「そろそろ?」

「ええ。少し奴らも状況を変えてきたのはご理解あると思いますが」

「そうですね、少し様子が変わっていましたね。」

「まあ、そうです。」

「ちょっと危険かもですね。」

「いや、わたしは老人ですから大丈夫というか、気になさらないでください。もういいんですから。しかし、あなたは未来ある人ですから。」

「僕のことなんて、彼らはわからないでしょう。」

「いいえ。撮影していたと思います。今のとこは。」

「今の?」

「首検分をはじめています。A署に確認が入ったかもしれない。」

「A署に写真がいっても、わたしとは判らないですよ。まあわたしも、別に何も守るものもないですから。」

わたしは素直に本音が出た。

「いえいえ。そういうわけにはいかない。なんだか、警視庁の大切な人間を、わたしが暇を見つけて利用してしまいました。」

「大切ではない。」

「いえ。ちょっと反省もありますが、もう十分です。お陰様で、 賽は振られたように思います。明らかにね。」

「賽がふられた?」

「ええ。」

わたしは、いまだ、この老人が何を狙っているのかが判らなかった。だが、そのことをあえて訊くこともしなかった。そのこと以上に、明らかに表情と態度を変え始めたK組の様子を危険に感じた。そしてその危険をむしろ前進のように感じている老刑事の興奮が、理解の枠を超えていた。



百六四 背後の男(赤髪女)


 波が埋立地の垂直な護岸を打っている。

 砂浜などなく、切り立った鋼鉄製の埠頭が、いかにも人工的に海を直線で裁断している。その上をカモメがゆっくりと舞っている。

 赤髪女は、昨日の夕方に誰かがいると思った場所に人がいないのを確認しながら、恐る恐る目的の場所に到着した。新木場の駅からここに向かうときも、幾度も後ろを振り返っている。尾行の対策は、あからさまにやる方が良い。

 昨日の場所からまた電信柱一つ海に近づいた場所だった。広大な敷地を使った工場があり、ミキサー車やトラックが往来する。住居はなく、人間の生活の臭いは一切ない。昨日の人影はこの光景の中で異質に思えた。遠目にも人間じみた生臭さを感じたのだ。

 赤髪女は指示者の指定した電信柱の足元近くにうずくまり、昨日、一昨日と同じようにその封筒を貼ると、周囲を見ずに立ち上がった。そのまま駅まで歩く道を戻ろうとしたときだったーー。

 何かが赤髪女を後ろ手でつかんだ。暗い声が背後で、

「前を向いたままだ。」

「……。」

「振り返れば命の保証はない」

ヘリウムの声ではなかった。全身を戦慄が走る。赤髪女は常に、後ろを気にして歩いてきたはずだ。今日はむしろ、誰かに尾行されている気はしなかった。まるで存在を消してきた幽霊が今ここで人間になったような気がした。それくらい非常に高度な尾行の能力を持っていることになる。恐怖が襲った。

「そうだ。黙って答えれば何も起こらない。いくつか聞きたいことがあるが、良いか?」

その声は、赤髪女が一度も聞いたことのない声だった。冷たく暗い声だった。

「……。」

「正しいときだけ、ゆっくり頷いてもらいたい。」

「……。」

「よくわからない金を届けに行く理由を把握してるか?」

女は首を振った。

「正しいときだけだ。筋肉を使うな。正しい時にゆっくり頷くだけでいい」

「届けている相手を詳しくは知らないな?」

女はゆっくりと頭を下げた。

「知らないのだな。」

 もう一度ゆっくり頭を下げた。

「……。」

 赤髪女は恐怖した。

 背中に人間を感じるが、熱がない。

 冷たい。

 ただ、上から抑えられる身長の高さを感じる。力は強いというより、なにか岩石のような不動感が強い。

「この数年間で幾度となく我々は貴殿に仕事を頼んできた。しかし、その最後の仕事はもう一年も前になる。そのことをご存知か?」

「!」

赤髪女はその言葉に動揺した。身体が硬直しそれは背後にいる男に伝わるほどだった。

「正解のようだな。どうやら今回は筋の違う仕事を受けていたようだな。」

たまらず、赤髪女は声を出した。

「どういうことですか?」

「声を出すな。自分を大切にしたほうがいい。」

「でも。」

「わかるだろう。」

赤髪女は全てを理解した気持ちになってゆっくりと、うなずいた。ゆっくりとうなずくことは、許されている。

 そうしてしばらく沈黙があったのに、背後の男がとても小さな声で

「我々は貴殿が他の仕事をしたりすることを特に気にはしない。そう伝言しておこう。」

「伝言。」

「いいか。大事なことはこれからだ。その仕事は一切、我々とは関係がない。今後どうするかは任せよう。しかし、我々の仕事と何らかの混同、ないし虚偽の作為を行った場合は、どうなるか覚悟はしてもらった方がいい。」

「……。」

「言ったことは理解したな?」

「つまり」

「仕事を混ぜるなということだ。気をつけることだな。」

赤髪女は、うなずいた。

「うむ。では、そのままだ。」

「……。」

「後ろを振り返ったり、今後、何かを逆算して調べれば、命の補償はない。」

「……。はい。」

「海の方角を向いてもらおう。」

「……。」

「そのままだ。今から、千まで数字を数えながら、ゆっくりとこの先の突き当たりまで歩いてもらおう。絶対にふりむかないことだ。振り向いた場合、別の人間が頭を撃ち抜く可能性がある。その人間のことも俺は知らないから、止めることはできない。」





百六五 綾瀬の家 (軽井澤新太) 


 綾瀬の駅から、下町風情の静かな土地を歩きました。

 古いその家は、誰かが暮らしている様子がほとんどありませんでした。もう陽も暮れかかるというのに灯はついておりませんでした。わたくしは幾度か呼び鈴を押しましたが家の中に流れる電子音が寂しく鳴るばかりでした。

 ふと女子学生がわたくしの横を通り過ぎて行きました。

「すいません。」

「……。」

「あのう、こちらのお家の方についてお聞きしたいのですが。」

「すいません。わたし、わからないです。」

学生は何のことかわからないという、態度です。その表情はわたくしの質問に対する純粋な対応でした。つまり、この家の持ち主のことについて、知らないのだと思われました。

 実際のところはそうなるはずです。もう遠い昔のことなのですから。

「すいません。ご近所の方でしょうか?」

わたくしは幾度となく、通行者に声をかけました。

「いえ、ちがいます。」

「失礼しました。突然呼び止めて、申し訳ございません。」

また別の学生が礼儀正しく去っていきました。人通りの少ない路地です。しばらくしてまた一人、これは少し妙齢の主婦が歩いてきたので、わたくしは声をかけました。あえて、明確に家の方を指しながら、行く手を遮るように、わたくしが声をかけたときです。主婦は突然、

「雑誌社かなにかの方ですか?」

と、言いながら立ち止まりました。

「いえ。雑誌?」

「その、また何か取材ですか?」

できれば関わりたくないのだというような空気をさせつつ、わたくしをじっと主婦は見つめています。買い物の帰りのビニール袋を左手で握っていました。

「いえ、取材などではございません。この家のことについてわかる事があればお聞きしたくて。」

「……。この家のこと、ですか」

主婦は冷たく目を細めました。

「もう知りません、わたくしは。」

「ご存知なことだけでも。」

「最近はこのとおり。なんにもないですよ。」

「最近は、ですか。この家に暮らしてる方についてはいかがですか?」

「本当にわからないです。申し訳ございません。」

最初に声をかけた学生は何も知らない様子でした。おそらく地元の古い人間ではないのでしょう。しかし、この主婦は違いました。何かを知っています。

「雑誌の方ではないのですか?」

「はい。」

「この家に人が出いりしたり、戻ってきてたりするのを見たりはされましたか。」

「わからないです。」

主婦はその後、わたくしに、<もうおやめなさい>、という眼差しを向けたように見えました。遠い昔の悲劇を雑誌記者の風情で集めることだとすれば、それは、そうなるのでしょう。主婦は明らかに昔からこの場所にいたことがあり、昭和の時代にこの周辺に関わったことがあったのでしょう。もう今更何も生まれないでしょうし、何も解決しませんよね、という言葉が聞こえたようにさえ思われました。しばらくの無言の観察の後、主婦は小さな会釈をして去っていきました。

 わたくしは日没し、誰も通らなくなった後も、その家の前でたたずみました。家には電気はつきませんでした。しかし、人が暮らしていないとも言い難い気がしました。ここに暮らしたはずの人間を確かめねばならないとおもっているのです。なぜならば、あの不気味な葉書はこの家にも投函されたかも知れないのですから。この家を本籍にしている人間宛に。

 外灯も疎(まばら)な古い住宅街でした。わたくしはひとり、張り込みの刑事のようにその家の前で時間を過ごしていました。







百六六 老刑事 (銭谷) 


「又兵衛さん、ひとつ、いいですか?」

わたしは隣を歩きながら直感的に自分の思うことを彼に言わなければと思った。河川敷は海から内陸に向かう風が吹いていた。

「はい」

「わたしを見せ球に使いたかったと言うことですか。」

わたしはあえてそう言う言い方をした。無論、この作業でわたしが何かの影響を受けることに不満を言いたいのではない。

「銭谷警部補。失礼をしました。ただ、ご存知かとは思いますが、所轄の暴走を、本庁に問い合わせになることなどありません。また見せ球というつもりではない。わたしは、あなたに参加して欲しかった。それだけなのです。」

答えはぼんやりとしていた。そしてわたしの求める内容は違っている。

「又兵衛さん。わたしは、不満を言ってるのではない。」

「しかし」

「正義のためにわたしを使うのは、いつどんなときでも歓迎する。本庁の許可を取る必要もない。刑事がすべて結果の勝負である限り犯罪者の逮捕、真実の暴露に向かうことであれば手順などどうでもいい。少なくともわたしについてはそのとおりだ。」

「……。」

「ただ何らかの形で関わるのであれば、わたしはその仕事に対して意見を述べさせてもらうことにしているーー。又兵衛さん。わたしには今のあなたは無防備に見える。」

老刑事は、リスの瞳をさらに黒くしてわたしを見た。目尻の皺が笑っていないのに残っている。

「なるほど。やはり、無防備でしょうか。」

「悪く言えば無計画だ。いや、今日の日まで何年もかけてきた捜査なのであれば尚更と言う意味だ。」

わたしは老刑事の捨て身の作戦を指摘したーー。

「わたしはあなたが、ある戦術をとったのだと理解している。その戦術は、わたしの眼には命の取引に見えている。」

K組もおそらくここまで動けば黙ってはいない。いや、彼らの内部事情は詳しくは知らない。おそらくK組の過去に関わる何かがあり、それを様々な形でこの老刑事が揺さぶってきたのだろう。

「K組もある意味で命をかけて存在している。彼ら反社組織にとって苦しい時代だとかいうことを言いたいのではない。繰り返しだが犯罪があるなら絶対に許してはならない。そしてその犯罪はおそらくあなたが命で取引をするくらいだから、人の命にも関わるような重大事のはずだと、想像する。いま、綾瀬から埼玉の八潮にかけて歩き、あなたは彼らを怒らせ、彼らが何らかの作戦に出ることを企図している。つまり、このまま放っておくなら、情報をばら撒くぞと、いうことだ。

 罠を仕掛けたとも言える。もしかするとそういう罠で彼らが何らかの事件を起こす際にある隙を掴もうとしているのかもしれない。その罠の檻であなたが自分の命を囮にしている理由はわからない。もしかすると、あなたの情報をただ出版社に持っていっても黙殺される可能性をゼロにするため、一度彼らを鉄火場に引き摺り出したいということかもしれない。今の身内の私刑ではなく、小市民である例えばあなたを、攻撃するときに生じる、暴力団らしい不手際や隙を狙っているかもしれない。」

「……。」

「あなたは今日、たしかに、その情報について彼らが下手に動いて潰しにきた場合、A署だけでは収まらないぞ、警察の別班つまり霞ヶ関も動くぞ、という説明をした。そういうボタンを押した。間違っていますか?」

「いいえ、その通り。間違ってませんね。」

「わたしにはやはり、貴方が無防備に見える。」

わたしは静かに繰り返した。例えば途中の指のない男の表情が典型的だ。殺意で冷静さを欠いていた。上層部に間違った報告があがる可能性さえある。個別の構成員の人事やメンツも関わる。やつらは一般市民ではない。勘違いだけで暴挙に出ることもある。

「もちろん、あなたの長い刑事人生をかけた仕事にわたしは何か口を挟むことはない。ただ」

わたしは少し呼吸を整え、言葉の覚悟をしてから、

「喩える例が正しいかわからない。ただ、金石とわたしが陥ったようになって欲しくない。」

気がつくとその言葉を吐いていた。


「ご存知のとおり、わたしは金石と一緒に動いていた。また別の見えない闇というような、あなたが昨日言ったような相手を白天の下に引き摺り出そうと、似たようなことをしていた。しかし、我々は甘かった。」

「……。」

「全て消されてしまった。客観的に見れば作戦の失敗ともいえる。相手の方が、何枚も上手だった。偶然そうなったという考えもあるかもしれないが、わたしはそうは思わない。金石は突然いなくなった。奴が逃げたとか誰かに攫われたとかはまあいい。ただ、揺るがぬ事実として、全てが止まってしまった。」

「……。」

「金石はなにひとつ残しませんでしたから。残してももう一人失踪者が出るだけで、まあ当然と言えば当然なのですが。ただ、そうなってからでは、遅いとも言える。」

「遅い。」

「ええ。そう思いませんか。巨きな闇に向かう限りは必ず、突然、そういう展開は覚悟しなければならない。聞いておけばよかったこと、残しておいてもらえればよかった証拠、文面、など、消えてしまうくらいならば、もっと別の会話もできたとおもう。」

又兵衛はじっとわたしを見つめたままだった。わたしはきっと恥ずかしい人に見せたくないブザマな顔をしていたはずだが構わず続けた。

「でも、あなたが暴こうとしている真実が巨大であるなら、事実を隠し消去したい人間は命を懸けて貴方に向かう。いや、権力者の常套手段として、命懸けの命令を受けた末端の人間があなたの失脚を画策してあらゆる場所に発生する。それがK組なのか、また違う何なのかは知らない。ただ、人間は自分の命や地位の有限であることを設計することは難しい。金石とわたしはそれができなかった。」

わたしはもう恥ずかしい気持ちは消えていた。

「ですから、最悪の事態を想定するべきだ。例えばあなたが一人で明日、死んでみつかったら、あなたが人生を捧げてきたおそらく膨大な作業実体に対し、わたしは何もできない。それではわたしは、今日という一日を永遠に後悔することになる。」

わたしはそう言って、老刑事を見つめ返した。明日死ぬ、という言葉をわたしが自然に使ったことを、老刑事は懐かしいもののように見ていた。そしてなぜか嬉しそうに

「こんな老人が死ぬ時なんて喩えは、もったいないですが。」

といって、少し久しぶりにタバコを取り出して美味しそうに飲んだ。しばらく互いに空を眺めたりして、静寂が訪れた。

「銭谷警部補。言われてみて、その通りかもしれないですね。いやあ、そうか。」

又兵衛は心が整ったような表情で続けた。

「ずっと一人だとね、頭が凝り固まってしまいがちです。全てはこの頭の中か、誰も読めないようなノートに書いてあるだけですが、そうですね、何かがあれば、そんなものは消えてしまうに違いない。」

「……。」

「銭谷さん、少しだけ、待てませんか。なにも全く準備も何もないわけではない。わたしも誰かに伝えたいと思っていたことも少しあるのです。もしよければそれをあなたに見てもらえないかと。」

「わたしに?」

「ええ。本庁のメールはだめですからね。たとえば私用の携帯電話などはお持ちですか?」

又兵衛はわたしがそれを持っているのを知ってるかのように言った。



「 捜査で得た情報を今知りたいとは言わない。いや、あえて言うならあなたは先ほど仰った諜報機関の例えの通り、その情報を言わないはずだ。命に関わる情報であるなら、仮にわたしが今日どこかで捕まり拷問をされた場合、問題が生じてしまう。あなたが人生をかけたかもしれない捜査がそれで全てが終わってしまう判断をあなたはしないと思う。」



百六七 倉庫街 (御園生)


 江戸島会長を乗せたタクシーは、青山墓地から西麻布を抜け目黒から品川へと、更に南へと向かっている。高速には乗らずに下道をしばらく走った後に、羽田より少し手前で幹線道路を曲がると、町工場が金属臭を隠さない埋立地らしい工業地帯に入った。

 僕はタクシーの後部座席に体を埋めるようにして、少しずつ恐怖を覚えた。軽井澤さんの予感が当たったのかもしれない、とも思った。東証一部の会長が、社用車の運転手をわざわざ返してタクシーに乗り換えて向かうのが、会合の場所の空気のない、工業地帯なのだ。昨日の夜も、銀座の寿司店から会食の帰りに自宅のある代々木と逆の東京湾の方角に向かっていた。大田区は神奈川寄りで、昨日の有明方面とは東京湾を挟んで真逆だけれども、海や埋立地ということでは共通している。とすれば、江戸島会長は、昨日からもしかすると、不穏な行動を始めたのかもしれない。昨日からだとすると、我々の早朝の訪問が影を落としているという軽井澤さんの意見が信憑性を帯びている。葉書を見て表情が変わったという意見もそうだし、そもそも、見も知らぬ探偵社の朝のアポ依頼に対応したことからしておかしな話だったのを、僕は反芻していた。

 その時、僕ははっとした。

 タクシーが急に止まったのだ。僕は運転手に予め話したように、自然さを失わないようにそこを通り過ぎさせ最初の角を曲がって停めさせた。追い抜きながら見たとき、江戸島会長はタクシーを降りて、何か、小さな町工場のような場所で人に挨拶をしていた。


図X 東京湾の見取り図。大田区、港区、江東区。(軽井澤の?銭谷の?石原の?描写?)

 


百六八 歓送迎会(石原)   


 石原は虎ノ門の居酒屋に一時間以上遅れて到着した。

 参加者は十数名いたが誰もが既に酒を飲んで酔いが回っていた。テーブルには飲みかけたレモンサワーや日本酒が不揃いに置かれていた。それぞれの席で、それぞれが車座になって酒を酌み交わしていた。顔を赤くしてる人も何人もいた。典型的な警察官の飲み会だった。

「おお、石原。やっときたか。まぁ座れよ。」

と、小板橋が石原を見つけて自分の左手の座席を指した。

「おつかれ。ビールで良いか?」

テーブルには、捜査一課以外にも、交通課や警務など、別のフロアの人間もいた。小板橋はその一人一人を石原に紹介した。こういう会は巨大な組織においては貴重な懇親の場でもある。

「そうそう。まさに石原の話をしていたんだよ。」

「私のですか?」

「まぁ石原と言うよりかは、銭谷さんだけどな。」

石原里美は、はっとした。まさかこの一週間の動きの裏を取られたりしていると言うことだろうか、と思った。しかし小板橋は

「いや、この間、とある大物を取り調べした時の話だよ。ほら。あの少し手伝って貰おうとしてた、例の件。」

とだけ言って、少し酩酊感のある眼差しで石原の方を見た。

「ああ、Tですね。」

「そうそうT。まあ、なかなかあのままじゃ厳しいだろうというさ。なんていうかさ。」

小板橋が語り始めたのは先日の太刀川の追加の取り調べのことで、よくよく聞くと、捜査一課二係のエースである銭谷警部補に自分がこんなことまで言ってやったよ、という平凡な自慢話だった。

「まあ、若者なりに俺も思うところがあるって訳ですよ。銭谷警部補がかつてのエースなのは確かだけどな。伝説的な。」

小板橋は<かつての>、と付けるのを強調した。

「やり方はどんどん変わってきてるからね。あの取り調べじゃあ、なかなか進まんと思ったね。」

いくつかの言葉を石原は胸に飲み込んだ。銭谷はここには呼ばれてはいなかった。本人不在で話したい内容なのだ。

 居酒屋に集まった人間はみな、若かった。三十代前半の小板橋が最年長だろう。

「でもこれもまた極秘だけどさ、あの人は実は、問題を抱えてるんだよ。」

「問題?」

石原は知らぬふりをして、相槌した。

「ああ、早乙女課長がそれで苦労してるらしいんだ」

「捜査一課長が苦労している。」

「まあ、銭谷警部補も次の人事で終わりかもしれないんだ。」

石原はぼんやり聞いたが、むしろ他の人間の方が興味を持っていた。

「ええ?そうなんですか?上に行ける人だとおもうけどなあ。だって実績は申し分ないじゃないですか。警視総監表彰二回でしたっけ。三回かな。それにあの早乙女捜査一課長の元直属の部下ですよね。」

「それが、傾いてるって言うもっぱらの噂だよね。」

誰かがそう言ったときに、場はしんみりとした。

「まあ、警察官は、伸びる人の下につかないとだけどな。」

打算的な人事の話になっている。酔ったせいで、言葉が直球になっている。だれもが愚痴っぽくなっていたところで、小板橋が、

「なんかおれこの間、銭谷さんが、A署で首になった人間と、日比谷にいたのを見たんだ。」

「なんでA署なんてのを」

「ほら俺、そっちの出身で、その人は有名なんだよ」

小板橋がA署の出身であるのは、石原は聞いたことはなかった。

「ゆうめい?」

「公金横領さ」

「へえ」

「白髪で真っ白。太ってて背が低い。名物刑事だな、あの人も。それが公金を横領だなんてのは驚きだけど、なんでそんな人が、今更、警視庁の銭谷警部補と二人でいるのかね。」

小板橋は、銭谷警部補のことをやはり、あまりよく思っていないらしいが、石原には実力ある人間に対する男の嫉妬が混ざっているのを感じた。

「でも石原は銭谷警部補とはよく話してるよね?」

「え?」

「銭谷さんとなにかあるのか?」

小板橋の目は、真っ直ぐ石原を見た。

「なにもないです。どうして?」

「でも、俺が会議室を出た後、話してただろう。」

小板橋が言ってるのは、太刀川との面会の後のことだった。何かの匂いを感じてる様子ではある。石原は落ち着いた表情をしたまま、

「いや、特になにもないとおもいますが。」

「タバコ場で話すくらいか。」

「今タバコも辞めなければと思っているところです。」

「まさか男女の中ではなさそうだな。」

よく見ると、小板橋はかなり酔っているようで、顔色は変えてはいないが目が濡れている。

「冗談は辞めてください。」

「忠告じゃないけど、あの人は気をつけた方がいいぞ」

日比谷でカレーを食べたりしたのは知らないらしい。ましてや上野で一緒に刑事論や、その延長で警視庁のあり方を語らいあい、隠密の捜査を今一緒にやっていることも察知していたりはしない表情だった。

「銭谷さんは独身でしたよね?」

警務部の名前も知らない女性が酔って大きくなった声でそう言った。

「いやあの人は、これかもだから」

「これって。」

「いやあの年で、女性に興味ないと言うかね。あと、前に警察をやめた人間と噂もあった。」

「誰でしたっけ。それ聞いたことある」

この居酒屋での会話はほとんどそんなふうだった。警官達は酔っていた。話題は支離滅裂なくらいの方が楽しいらしい。

「太刀川まさに、この間の太刀川だよ。なあ、石原巡査」

「太刀川?」

「金石警部補ね。」

「金石?」

「あの太刀川の事件で捜査本部を解散させられた後に、いなくなったんだ」

「ああ、いなくなった人いましたよね。元気なのかしら。」

捜査本部まで作られた事件はそれなりに話題が多いようで、酔ってバラバラだった人たちも興味を示して会話に参加した。

「知らないなあ。俺と同じA署の出身なんだけど、A署の人間とも連絡とっていないみたいだからね。」

「完全に行方不明?誘拐とかでもなく。」

「銭谷さんと同じ独り身だったからね。捜査願にもなっていない。」

「親御さんとかは?」

「どうなんだろう。詳しく知らないけど。」

 警察官の仕事にストレスがないと言ったら嘘だろう。仕事そのものもそうだし、人間関係もそうだ。そういう鬱憤を車座になって酌み交わす飲酒行為で、雲散させひとつの塊になっていく。東大法学部卒のキャリア官僚でもない限りは、一般採用の警察官には、永遠に続く現場が待っている。その合間に不思議な経費で飲み食いする時間が救いになるのは、大企業のサラリーマンが経費でシャンパンを飲むのと何も変わらないんだろうと思う。小板橋は上層部に頼み込んで、こういう懇親会の許可を得て、歓送迎会を主催しているらしい。

 結果、必然的に誰かそこにいない人間の話になるのは自然なことかもしれないと石原は思った。警察官はどうしてこんなに定例の人事話が好きなのかと思う。六月が来ればわかることなのに、事前に一生懸命知りたがり、こういう場所で情報を収集したりもする。もしかするとここで集まった現場の声という情報を、経費の出し主である人間に報告するのが幹事の小板橋の仕事なのかもしれない、とさえ思ってしまう。

 石原はこうやって身内で酒を飲み、人事の話をする空気はどうしても好きになれなかった。飲みたくないのではない。仕事の話だけを、話したかった。それには二人か三人で飲む方がいい。どこかで銭谷のやり方のほうに魅力を感じてしまう。

「あの人、御沙汰はどうなるんだろうな。」

小板橋は辞めなかった。各所から集められた警察官(参加者)たちは、エースである銭谷警部補が何やら組織の中で、身動きが取れない、懲戒関連の動きがあるという情報に、酩酊の中で意識を昂らせていた。話題として面白いのだろう。自分より成果に溢れた誰かが、自分より不幸な顛末をむかえる可能性があるというだけで話題としては十分だった。さまざまな質問が飛んだ。それにまるで、手品師がタネを勿体ぶるように小板橋は答えた。

「まあ、金石さんも銭谷さんも同じように、エースだったけども、いろいろおかしな動きをしてるんだろうね。上層部が目をつけているのは確かだから。」

「もったいないですよね。せっかくの実績が。大人しくしていればいいのに。」

「そうなんだ。まあ実績があるから少し有頂天になったとも言えるだろうね。警視総監賞を二回も三回ももらうと、ちょっと慢心するのかも知れない。」

ちがうと、石原は思った。二回も三回も伝説的な解決をすると、更に難しい事件に取り組もうとなっていく。単純にそれだけなのではないか。その中で、相手や肩書きに怯まなくなる。犯罪者が警察組織そのものだとしても気にせず捜査を進めていく。二回も、三回もそういう賞を取った人間は、たぶん、警察の正義を行うことへの自負が芽生えていくのではないか。

「銭谷警部補は慢心してる。」

酔った小板橋がそう言ったとき、石原の脳は二回も三回も反論をしていた。

 見回すと、多くの参加者が酩酊していて我を失うくらい酒を浴びている。石原は庁舎に戻って仕事をしたいと思っていたが、合間を見てスマホで今日の撮影や太刀川の乗る地下鉄のことを思い返していた。しばらく泥酔者らの会話をぼんやりと聞き流しながら、そうやって太刀川の撮影を思い出していた時だった。


(二回も三回も?)


 あっと思った。

 なぜそのことを考えなかったのか。

 思いつく時は大抵そうだが、なぜ、と石原は自分を責めた。

 もし、太刀川が地下鉄を何らかの連絡に使っているのであれば、少なくとも一週間の間などで、同じ人間がそこに二回も三回もいるべきではないかーー。

 酒が運ばれた。煽るふりをしてほとんど石原は口につけず、水を飲んでいた。

 話題は人事話でネタが少なくなったのか、昇格試験の話題になっていた。勉強方法や、試験の対策を誰もが話していた。やはり銭谷のような刑事の現場の話を語る様子はなかった。そうならない人間を小板橋は集めたのだろう。

 石原はもう話題についていくこともせず、太刀川の朝の地下鉄のことに頭が全てになっていた。銭谷警部補の話によると、もう何年も前から太刀川は毎朝地下鉄に乗っている。その行き先が決まっていないにもかかわらず、である。その空間が暗号的な伝達の場だとしたら、当然、そこには同じ人間が二回も三回も、いるはずだ。

 


百六九 金門橋 (御園生)


「江戸島に動きありです。」

御園生くんのチャットが入ったのは、わたくしが五時間ほど待ち続けたとある民家を諦めて、河川敷や下町をぼう然と歩き終えて綾瀬駅までたどり着いた時でした。

(江戸島に?どう動きましたか?)

チャットはしばらくして既読になり

(いま、大田区です。品川から南、京浜工業地帯です。波止場近くでクレーンが見えます。)

(大田区の工業地帯で、江戸島会長が会食ですか?)

わたくしは、思わずそう聞きました。会食で工業地帯と言うのは、大手町二重橋に拠点を構える経団連の重鎮に不似合いだと思いました。昨夜は銀座だったのです。品川の先までわざわざ行くのでしょうか。わたくしはチャットを見たり閉じたりしながら、そのまま他の大勢の人々と同じように千代田線の列車に乗りました。綾瀬の駅は高架で見晴らしはいいのですが周りの景色を思い出せないくらい、スマホの画面だけ見ていました。

(詳しくは後で話します。今はさらに海の方、東京湾の方に向かっています。あとそもそも会社の車ではなくてわざわざタクシーに乗り換えてます。会食ではないと思います。周りはこんな感じですから。)


地図X


チャット宛に写真で送られたのは、今御園生くんがいる場所の地図画面と、冷たい金属が剥き出しに縦横無尽に組み込まれた典型的な重工業地帯の写真でした。まさに東京湾の西側、京浜工業地帯の北端を地図はさしております。

 わたくしは、不気味な気持ちが自分に押し寄せてくることを感じました。昨日は平静を装っていた江戸島という人物の仮面がひび割れて、そこにどうしようもなく汗ばんだ本性が見え隠れし始めたような気がしました。ある程度の想定はあったとは言え、それは恐ろしいことでした。

(なるほど。江戸島は動いた、といえそうですね。)

(はい。軽井澤さんの直感が当たったかもしれません。)

(なるほど。)

実は、東京湾と言っても広いのですが、わたくしはどこかで昨日の銀座からの帰り道、有明、つまり千葉や浦安の方面に向かう江戸島に、葉書との連結を見ていました。湾岸方面に、わたくしの葉書の文字列の想定があったからです。そういう意味では、逆の方角、東京湾では西側に向かった点は、少し、想定とは少しずれています。

 それよりも、なぜ東証一部の会長、経団連の重鎮のような人間が、おかしな葉書への対応や、不自然な行動を連続させるのか、が不気味でした。わたくしは強い懐疑を脳に置きながら、千代田線に揺られて北千住、お茶の水を越えて、東京の中心へと戻っておりました。

(不自然ですね。)

チャットは続きます。

(はい。先刻入った町工場も、およそ天下のX 重工業が連絡するような工場には見えません。)

(町工場?)

(はい。なんだか、タクシーを止めて、入ったのが、塗装関連の町工場なんですが、天下のX重工の下請けとも思えないくらい小さな工場です。)

(なるほど。)

わたくしは考え込みました。塗装関連というのも想像もつきません。あれこれと昨日からの江戸島の様子を反芻しながら、御園生くんとのチャット画面を見つめつつ、一体どことどこが繋がるのかを妄想し続けておりました。江戸島の周辺がどうもおかしい。しかし、それにつながる因果を何一つ思いつかずのままでした。

(それと、軽井澤さん、忘れないうちに、お願いが。)

(お願い?)

(軽井澤さんは、今事務所の近くですか?)

(千代田線でそちらに、向かってるところです。)

(じつはキャロルを江戸島尾行の途中で、乗り捨てていまして。)

(なるほど。)

(鍵ありますよね?)

写メが送られてきました。これも地図の写真です。墓地横の消防署の近く、青山墓地の入り口に停めたようです。

(大丈夫です。拾いにいってみます。それから向かいますね)

(すいません。たすかります。新宿と違って路駐で切符も嫌なので。)

(はい。ちなみに、これは青山墓地ですよね。)

(はい。そうです。そう、江戸島は今日夕方墓参りをしていたのです)

(え?墓参り?)

(そうです。)

(どなたのですか?)

(すいません。追いかけるので精一杯で、墓標を見れませんでした。ただひとりで、花を買っていました。)

そのようなやりとりを、千代田線の車内で、チャットしながら、わたくしは少しずつ、都心へとむかいました。不思議とそういう言葉の連続のせいでそれまでの混乱は一時的に脳裏から離れてもいました。わたくしの心理は、綾瀬の界隈から、埋立地、東京湾の方角へと向かいました。 キャロルを拾うため、乃木坂の駅を降りたところで、御園生君からの電話がありました。

「軽井澤さん、江戸島が、タクシーに乗り直しました。」

「乗り直し?」

「はい。町工場を出て。大通りに出ます。タクシーさん、うまく追いかけて」

御園生くんの必死な声と、タクシーの運転手らしい戸惑う声が重なります。

「さらに海のほうに向かって行きます。」

「海ですか?その先は、出島というか羽田の空港になりますよね。」

「ええと。海だ。今から海を渡ります。」

「海を渡る??」

はっと思いました。御園生くんがチャットに貼り付けた地図にそんな道がないと思いつつ、地図と御園生くんの声を重ねながら、どのあたりを動いてるのかを想像しながら、キャロルの場所に、これもまた地図を頼りに向かっていました。

「右に羽田空港、京浜工業地帯。左にたぶん東京の都心部。」


 図X 東京湾地図


「ああ。軽井澤さん!」

「どうしました?」

「わかりました!なるほど。埋立地がまだ埋め立て中なんです。地図で見ると、海面調整場、となっている。地図が追いついていない。」

「追いついていない?」

「はい。埋め立て途中なんですよ。道もまだ正式にできたばかりで。」

「埋め立て?」

「ええ。まだ地図が最新を反映していない。これからゴミで埋め立てるのですかね。」

「ゴミで埋め立て、ですか?」

わたくしは、背筋に冷たいものが走りました。今朝の喫茶店でとある過去のことを米田さんが<冷たい>と言った言葉を思い出しました。御園生くんは恐らく何も気が付かずに純粋な声で言いましたが、わたくしはその言葉を、通常の会話で受け止めることができませんでした。ゴミで海の向こうに埋めていく埋立地という、その酷く冷たい言葉をききながら乃木坂の駅で凝然としていました。なぜなら、そのことばがわたくしが想定した事件の、象徴そのものであるからです。埋立地に捨てるという言葉。その言葉の切なさ、虚しさについて、わたくしは過去にはっきりと向かい合いをしたことがあったのです。わたくしは鳥肌を立てつつ、その場で蹲るようになってしまいました。

「軽井澤さん、すごいです。」

御園生くんは当然わたくしの情況は知りもしません。

「ど、どういたしましたか」

「これ、新しい橋があるんです。」

「はし?」

「はい。地図にはまだできたばかり、いや工事中と書いてあるものもある。いま、その橋を渡っています。ずいぶん大きいです。ゲートウェイブリッジ。」

「げーと?」

「はい。レインボーブリッジではなく、ゲートブリッジです。知りませんでした。ここから、江東区なんですね。大田区ではなくなります。」

「えっ、江東区?」

わたくしは思わず強めに声を出しました。

「はい。東京湾を渡る橋です。東京湾を羽田のある西側から、千葉寄りの東側に渡るみたいです。ディズニーランドのある浦安の近くにたどり着くみたいだ。」

「東京湾の、東側……。」

西ではなく東に渡る橋が東京湾にあり、江戸島はいま、その橋を渡っている。品川から町工場を経由して。東証一部の会長がわざわざ社用車を乗り捨てて向かっているーーー。

 はっとしました。

 江戸島は我々と違い、年齢だけは、当てはまるものがあるのです。

 まさか、と思いつつ、

「御園生くん、江戸島は年齢はいくつくらいでしたっけ?」

「七十八歳ですね。昨夜調べたんでわかります。」

「その、家族構成とかわかりますか?」

「ネットで見た程度なのですが、奥さんを亡くしている、ことだけわかりました。」

「子供は?」

「子供ですか?」

「はい。」

「いや、何度か探し調べましたが、子供はありませんでした。」

「ネットでは他のことは記載ありますか?」

「いえ、実は、例の風間と守谷の検索の問題があったので昨日から結構パソコンは叩きましたが、江戸島に関してはそのほかには、全く出てこないですね。すべてX重工の公的な人事情報だけです。」

御園生くんはやはりしっかりしていた。わたくしはどこかで担当から遠ざけようとしているのに、自分のできる調査を率先してやってくれていたのである。江戸島が子供がいない、ニュースにはなっていないということを聞いて、わたくしはいったん安心し少し疑惑した<その線>を消しました。

 わたくしは、今朝米田さんにあの残忍な三十年前の事件の四人の加害者らの列を並べてもらった後に、じつは<その線>のことを思いました。そうして一瞬、わたくしが最も恐れる心理構造を江戸島が持っているとすれば、いろいろなことがつながると思ったのですが、事実はそうではないようです。江戸島がまさかあの三十年前の事件で娘を失ったような人間ではない、というのは冷静に考えればわかることです。経団連の重鎮にそんな因果があれば週刊誌やネットが放って置かないはずですから。

 ただ、疑問はまだ残ります。

 なぜ江戸島はこのような意味も不明の動きを繰り返すのでしょうか。

「御園生くん、すいません。もう少し正確に聞いてもいいですか。」

わたくしはいくつか質問をしなおしました。江戸島が墓参りを始め、そしてその延長でタクシーに乗っている、と御園生くんは説明しました。

「墓参りですね。」

「ええ。青山墓地に花束を買っていきました。」

「誰のお墓かは判らなかった。」

「すいません。申し上げた通りです。」

「それから、わざわざタクシーで東京湾を回っている。」

「ええ。一体どこを目指しているのかも判らないです。」

わたくしは地図を見ていました。

 その時すでにわたくしはその場所を想定して見つめていました。

 江戸島の目指す場所です。

 場所が地図の先に地名で記載があるのです。

 それはまさしく、わたくしが二重橋の会長室で葉書を順番に見せた際の意図的なアルファベットの順でした。八月九日に届いた六枚の葉書が、わたくしの脳裏にはっきりと並んでいました。



AASKUW







百七十 河川敷へ (銭谷)


 わたしの私用の携帯電話番号を記録した三人目は槇村又兵衛という老刑事になった。電話ではなく、手帳を開いて手で番号を書いている。作ったばかりのメールアドレスと一緒に、番号の数字を並べ終わると又兵衛は顔を上げた。

「銭谷警部補。あなたのご指摘は了解致しました。説明もないまま、失礼しました。しかし小生の考えを大凡把握いただいていたことに大変感謝いたします。」

老刑事はじっとわたしを見つめた。

「こちらの連絡先が小生に大切なものになりそうです。」

「思うほど、時間はないかもしれない。」

わたしがそう言うと、又兵衛はなんとも言えない感謝を集めた表情をした。じっと川の方角を指を刺して

「河川敷の高台から見ると、中洲や川辺にああやっていくつか木があるじゃないですか。」

「木?」

「そうです。川の本当に流れているすぐそばにね。あれじゃあ、台風が来て大潮になると、水の底に沈んでしまうんです。」

よくわからない話題だと感じながらわたしも合わせて川面の方を見つめた。たしかに、真っ平の河川敷にいくつかの樹木が残っている。

「でもいくつかの木は、ずいぶん長い間、台風で何日も川面に出れなくても、耐えて葉をつけ直すのですよ。小生はそれが好きでね、河川敷を歩く時にいつも、ここまで水が来るとあの草も花も流されるなあ、と思ったりして眺めるのが好きなんです。」

わたしは味わうようにその言葉を聞いていた。関係のない話題だったが自分の知らない場所で何かが繋がる気がした。

「そもそもだけどね、どこかで、金石が最後にこの警視庁本丸で仕事をした人間と関わってみたかったんですよ。」

「……。」

「まあ、正直にもう申し上げますとね。」

老刑事はわたしの私用の個人情報をありがたそうにしまいながら頷いている。

「又兵衛さん、あなたは金石とは。」

「ええ。そうですね。奴が、入った頃からですからね。まあ、その時には小生はもうA署のお荷物だったんですが。小生みたいな人間の下についたから、可哀想なことをしました。」

その言葉には、わたしは、相槌をしなかった。

「ただね、あいつは本当に立派な刑事になりました。A署でも大活躍だったから本庁に抜擢されてね。でも偉くなっても変わらず、懐かしがってくれてね。もうだいぶ昔のことですが。ただ、あいつが最後に仕事をしたのがあなた、だと言うことで腑に落ちました。」

「……。」

「金石もまあ、もっと別のやり方もあったかもしれないという貴方のご意見もあるのかもしれませんがね、どうですかね、敵はそんなに甘くないと思うのです。あいつはまだ、この世の中のために働いてるんだと思っています。そう信じています。警察の本丸からのやり方ではないかもしれないけども、どこにいたって世の中の正義を貫こうと動くことはできる。まあ、それもあいつの人生だから。」

又兵衛はそう言って、話を切り上げるようにした。

「ずいぶん、長い一日になりました。でもおかげさまで、賽は振られたと思っています。あとは、どうなるか楽しみです。ただ、おっしゃったご指摘は尤もですので、このいただいた番号に万が一のものを送らせてください。」

そう言うと、又兵衛は河川敷をわたしの歩こうとする方角と逆向きに向かおうとした。

 別れようとする又兵衛に、わたしは初めて自分の腹の底からひとつの声を出した。帰る前にひとつだけ聞いておこうとしていた質問である。

「又兵衛さん、ひとつだけ、いいですか。」

「……。」

「昨日あなたは、エスについて興味を示した人物が五年前にいたとおっしゃっていましたね。」

老刑事は、帰路につこうとする背中を止めた。

「はい。」

「興味を示した組織というのは、それも秘密結社か何かですか?それとも警察関係だろうか。」

少し力んでいるわたしの声に、又兵衛老人は立ち止まったあと、肩で呼吸を整えたように見えた。

「銭谷警部補、組織ではありませんよ。」

又兵衛はそう言って、わたしの目をしっかりと見つめた。

「組織ではない。」

「はい、組織ではないですね。」

「いち個人が、問い合わせに来たということですか。」

「はい。本庁の六階で申し上げた通り、あの事件の後にわたしのところにとある個人の方から問い合わせがあったのです。」

「それは…。どういう人ですか?」

「貴方もご存知の人物です。本当にご存知なかったのでしょうか?」

「はずかしながら。」

「おどろきました。てっきり把握されているものと思っていました。もちろん隠す意味もないですから。五年前、小生に会いに来たその人物は、太刀川龍一です。」



百七一 埋立地の夜 (赤髪女)



 赤髪女は、背中にいた男が言う通りの千秒を数えていた。

 やはりどこかで気になっていたことが現実になった。つまり、自分に長年指示をしてきた組織と、いまの指示者は全く別だったということだ。ヘリウム声の男は、新参者なのだ。金額は今のヘリウムのほうが大きい。どこか策も細かく若い印象さえある。

 これまでは一切人間の香りがしなかった。最初に社長さんの紹介で始まったとはいえ、赤髪女はその組織の人間に対面したこともないし、会話どころか声も聞いたことがない。だから、今回、岩のような迫力で生身の声を話す人間に背後を取られたのは驚愕だった。気配も出さずに背後取る能力そのものにも恐怖があった。

 質問もしつこくなかった。

 むしろ、指示者のことはある程度調べ済みで、その上で赤髪女に質問しているようだった。

 もうひとつだけ特徴を挙げるとするなら、声の位置がかなり高かったことだろうか。

 身長が高いと思った。それも普通の高さではない。二メートル以上あるのではないか?

 それにしても、どうやって自分の背中を取ったのか。行動を相当長い間に渡って尾行しなければ、この場所にこれない。叫ばれることもあるから街中や、駅ではああいう会話はできない。場所は限られる。さらには赤髪女がヘリウムの声の男と電話をしていることまで、知っている。そこまで把握しているということは、相当な時間をかけて調べているということだ。

 赤髪女はぞっとした。

 そのせいで千秒を数え間違えた。

 数え直しだ。

 赤髪女は後ろ手で男に掴まれた場所から埋立地の突き当たりまで歩いた。まだ一度も後ろを振り返ることはできないままだった。かもめが自由の象徴のようにふわふわと海風に乗っていた。

 これまでの仕事は単純だった。ものを運ぶ仕事、道に落ちたものを拾って届ける仕事、同じように落ちていた携帯電話を拾い、そのメッセージの通りに簡単な作業を行う仕事。そうしてその携帯電話を確実に廃棄したりするような意味不明の仕事。わざわざ夏祭りの焚き火に投げ入れたのを思い出した。

 どれも単純な作業だった。指示があればそれをこなすだけ。途中に変更もなければ当然、連絡もない。相手の人格も分からなければ、一体何が目的で作業をしてるのかも、不明だった。

 それが今回は違う。

 ヘリウムの声とはいえ、会話である。指示が二転三転する。そして命令の量が多い。その変化の理由を赤髪女は、最初は自分の立場が上がったからかもしれないと思っていた。実際に金額は増えている。

 赤髪女は背中を掴んだ男の、凄まじく冷たく強い力を手首に思い出した。重金属のような不動感だった。声は感情のない冷たさだった。

 駅まで戻った時、携帯電話が鳴った。

 ヘリウムの声だった。

「これから、新木場駅に戻り、探偵事務所の方に向かいます。」

「抜かりなく願おう。金を置く仕事の方は、うまく行ったのか。」

「問題ないはずです。」

改めて、指示者の声を冷静に赤髪女は聞いた。ヘリウムの声。一体何者なのか?何故こんなことをしているのか?考えたことなかった。この人間は誰なのだ?なぜこんなやり方をするのか。私の何を知っているのか。

 とはいえ、この人間にも狂気がある。

 忠誠を失えば、何をするかわからない人間であることは、言葉の端々に感じられている。

「尾行が優先でしょうか」

「うむ。」

「今は、探偵の社用車が、なぜか青山の墓地の反対側にありますので、戻って調べようと思います。」

「彼らは、人を追いかけているはずだ。それを調べるのだ。」

「はい。しかし。」

「口答えはいらん。作業ありきだ。作業をしろ。」

「はい。」

「探偵の奴らは何を考えているのかを拾え。なんでもいい。とにかく尾行するんだ。」

赤髪女は、やはり指示者がいつになく感情的なのが気になった。いや、あの背中を掴まれた冷たい重金属のような男の迫力に比べてしまえば、誰しもがそうなるのかもしれない。

「そういえば、昨日の朝の尾行だが。」

「はい」

「江戸島、いや、 大手町のビルの役員室に探偵が行ったと言う話があったが。」

「ありました。」

赤髪女は指示者が意外なところに話を戻したのを感じた。

「繰り返すがそれは確かだな?」

「はい。確かです。」

「うむ。」

指示者はそう頷いてから、長い間沈黙をした。それは指示者には珍しいことだと思った。電話をしていることを忘れてしまうくらいの沈黙が続いたあとに、

「では、今からいうことを覚えろ。」

と、冷たく引き続きヘリウムの声のまま言った。

「少し待ってください、メモを。」

「メモはいらない。覚えろ。」

「はい。」

「それから、今鞄に入っているものを教えろ。」

「カバンですか?」

「質問はいらない。」

赤髪女は少し押し黙った。

「いいか。」

「はい。」

「おまえを安い金で雇ってるとは思ってない。出来ないなら、今後の金についても補償はないと思え。」

恐れていた言葉だった。赤髪女は、上級の覚醒剤の味わいを思い返していた。金を持っていなければ禁断症状でやってくれば、自分は耐え切れるか分からない。



百七二 河川敷の別れ


「……。太刀川ですか。太刀川があなたに?」

わたしは、唖然として空を見た。いつのまにか、河川敷の暗闇に月が出ていた。

「ええ。あの世間を賑わせた太刀川龍一という男でした。彼がこの小生を調べてやってきたのです。」

「太刀川が自分で調べて、あなたに辿り着いたのですか?」

わたしは脳が追いつかないのを感じた。嫌な汗も出た。

「念のため申し上げますが、太刀川が小生に会いにきたのは、金石が警視庁を去ったあとです。時系列が大事です。あなたと金石は捜査本部で、太刀川を調べていた。太刀川の周辺を追いかけ、闇を暴こうとしていた。しかし、世の風向きが変わった。圧力がかかったと言っても良い。その結果、捜査本部は解散され、金石は失踪した。小生はあの事件をそう言うふうに見ています。」

又兵衛刑事はタバコを取り出していた。別れるはずだった我々は再び立ち話になった。

「当たっていますか?」

「時系列と言う意味では、その通りかもしれない。」

「であればまさに、その後です。金石がいなくなった後です。」

わたしは混乱を誤魔化すように頷きながら、又兵衛の言う言葉を噛み締めた。

「最初、小生はそれがA署の人間が、金で何かを太刀川に売ったのだと思っていたんです。」

「買収ですか。」

「まあ太刀川は金持ちですからね。あちこちに話を投げた一つ程度だろう、と思っていました。」

「太刀川が警察になんらかの情報源があると考えた。」

「どうですかね。あれこれ辿ったひとつかなと。」

「しかし、太刀川がなぜ。…太刀川の質問は、どんな内容でしたか。」

「それが、そうやって無理してたどり着いた割には、質問は曖昧なのです。小生がどんな刑事の担当かとか、どういう捜査を今しているのか、程度の質疑です。あとはあの経営者らしい眼差しで見つめてくるくらいです。逆に小生が何を聞いても、何も答えなかった。その点は徹底していた。」

「わざわざ、会ったこともない刑事に会いに来て、ですよね。」

「そうです。小生に会いに来た理由が全くわからない。だから本庁のあなたたち、つまり捜査本部の周辺の人間が、何か太刀川に話したのではないかと思っていました。たとえばそれで金石の教育担当だという理由で調べに来た、とかですかね。貴殿にあった最初、繰り返しですが小生は探りを入れたのはこのせいです。」

「わたしは太刀川とそんな話をしたことはない。」

「とすると、考えられるのは、やはり金石が太刀川に連絡をとったということになるかもしれない。」

「あの二人が?」

「まだわからない。現時点では小生はそう結論だ。この件については。」

「金石が今いる場所と、太刀川が近いと言うこと?」

わたしはどこかで思っていたことを思わず口にした。地下鉄の映像にいた身長二メートルの男の背中を思い出した。

「わかりません。たとえば、金石が外部の諜報組織に転向し、その中で太刀川と何らかの連絡をとった。小生がライフワークでエスのことをいろいろ調べてきているのを探ろうとしたと考えるのは考えすぎですかね。でもそういうことでなければ、A署の小生にまで探りに来ないはずです。」

「……。」

「実は、敢えて言えば、質問は曖昧なのですが、趣味を聞いてきたり、警察以外の活動だとか、なにか少しエスの周りの話を引き出そうとしていた様子もあったのです。いや、これは小生の意識過剰かもしれないので、あまり自信のないところですが。」

「初対面で、いきなり陰謀論の会話も難しいでしょうしね。」

わたしが陰謀論、という言い方をしたところは又兵衛は拾わず、

「いずれにせよ、五年前、あの事件の風向きが変わり、金石がさった後、なぜか太刀川龍一は東京の外れの警察署まで、こんな老刑事を訪ねたのです。相当なリスクを冒していますよ。陰謀論と誰しもが馬鹿にするような情報を、よく知りもしない刑事に聞きに来るというのですから。そこに、なにかありますよって告白しているようなものでしょう。」

 気の動転を隠せなかった。

 わたしの考えでは、太刀川についてはーー「そういう組織」の内部の方に関係しているとばかり思ってきた。もちろんエスとかいう組織が本当に存在するのであれば、という意味でだ。あの風向きの変化も奴が逮捕されずに済んだのも、例えばそういう権力的な眼に見えない力の恩恵だと思っていた。呼称はエスでも何でもいいが、太刀川龍一はそういう権力に莫大な現金を使って現場の刑事たちを吹き飛ばしたのだとばかり思ってきた。

 その太刀川が間抜けにも、事件のほとぼりが冷めた後に所轄に問い合わせに来るなどと言うことがあるのだろうか。それも又兵衛という確かに諜報組織の捜査を何十年と試みてきた老刑事にピンポイントにである。

「諜報組織について教えてくれとは聞かなかったでしょう?」

「どうですかね。恥ずかしながら、会話を細かくは記録しなかったもので。ただ、警察の表向きの仕事以外に色々やってますか、みたいな質問はしていました。その質問を、そう捉えることは出来なくはないでしょう。エスについて知っていることがあるなら少しでもいいから、聞かせろという意味に。」

「しかし、そんな質問をするようでは、太刀川龍一は、六本木事件の首謀者でもなんでもない、ということになる。つまり自分が助かった理由さえ分かっていないので、エスのような組織の存在をあちらこちらに聞き回ったみたいなことでしょう?」

「どうだろう。」

「でなければ、そんなボヤけた質問をしに、あんたに会いに来る理由がない。しかも事件がある意味で収まったあとだ。寝た子を起こすことにもなりかねない。メディアの熱で東京地検が動けば強引な逮捕さえ十分あった状況だったのだから。」

「そうですね。」

「そういう恐怖に再び太刀川が向かうと思えない。」

そうだ。太刀川がその時点で老刑事に会うことはリスクでしかない。そもそも闇の中、権力の中心で作業をしていたならば、そんな質問をしに来る意味が全くおかしくなる。

「おかしいですよね。」

わたしは唐突に自分の考えを告白していた。しかし又兵衛はそんなに焦ってはいなかった。

「まあ、こればかりは小生はこの事件のことは部外者でしかないです。あなたの持っている情報もほとんど知らない。つまり、真実はわかりません。ただね、銭谷さん。昨日申し上げた通り、仮に太刀川が関わったのが本当の諜報組織(エス)だとしても組織図も何も存在しない。誰が構成員かもわからないのです。」

「……。」

「とすると、太刀川には二つの可能性で見るしかない。」

「ふたつ」

「ええ。これはくりかえしですが、小生の仕事でも何でもなく、五年前を思い出して口走ってるだけですから、無責任の意見をお許しください。」

「いえ、かまわない。」

「ひとつは、彼が陰謀の中心で、金を使ってこの諜報組織と関わったと言う場合です。このケースだとすると、あの部屋の出入りに、政治家がいた。芸能界の人間がいた。巨額の金が絡んでいた。過失があった。過失致死だったか殺人だったかわからないが、事故ではなく犯罪があった。だから、なんとかして、女子大生の死亡を単純な事件などにして処理せねばならなかった。そのときに、何らかの組織の力を使った。つまり太刀川が主導して、潮目を変えようとした。」

「……。」

「おそらくこれが、普通のものの見方です。」

老刑事はどこの報道にも書いていない情報の断片を集めて、ほぼ真実に近いことを言っていた。その慧眼にわたしは驚いていた。警視庁は所轄に情報などは一切共有しない。ましてや六本木事件に全く関連しないA署である。ただ、長いものに巻かれずに全て自分で常に裏どりをしながら物事を把握している刑事にはしばしばこういう孤高な慧眼はありえる。

「で、もうひとつは、逆です。」

「逆?」

「つまり、太刀川は一才、諜報組織は権力のことを知らずに、末端だったと言うことです。つまり、彼が助かったのも偶然だったということ、です。」

「偶然?」

「つまりもっと彼よりも強く力のある人間が、六本木のあの部屋にいたのではないか。その大物が六本木事件の罪を隠蔽して逃れるために、さまざまなことを行った。エスとよばれる組織をつかったのかもしれないし、どんな力を使ったのかもわからない。ただ、その中で結果として太刀川は偶然助かったと言う意味です。そのときの抱き合わせの条件で、会社を辞めることや、株を手放し、これまでの人間関係を清算するなどの条件や権力側との手打ちもそこに結果的に生じた。この場合太刀川は、処理の首謀者ではないから、彼が知っているのは部分でしかない。その高度な取引を誰かに仕掛けられ、太刀川には他に選択肢がなく、受領した。」

「末端の構成員として、偶然助かりながら、ですか。」

「はい。結果として司法の恐怖の前で、煮え湯を飲まされた。会社を失うというね。太刀川に関して言えば、あのときのメディアの論調や、特捜部まで動かすぞと言う話があった中では、殺人幇助で牢屋に入るまでの可能性はあったはずです。」

老刑事の指摘はほとんど論理的だった。むしろ長年、陰謀組織を研究している人間ならではのリアリティもあった。ただ、わたしはどこかで想定をせずにきた後者のーー太刀川でさえ蚊帳の外だったという考えをすぐには受け入れられなかった。

「太刀川が、末端ですか。」

「はい。それだと、本丸を知りたくなる。」

「……。」

「もしかすると、六本木事件の高度な着地交渉の中で、自分の思っていた通りにはいかなくなったのかもしれない。本当は会社を失う話ではなかったとか、色々可能性はある。だから、事件が落ち着いた後に、何か会社を取り戻す対策を狙った時期があったのかもしれない。首謀者が見えないのであればそう言う動きに出るのはあり得る。」

又兵衛はじっとわたしを、睨むように見つめ、

「とにもかくにも、そうでも考えないと、なぜ彼が、こんなA署の老刑事にまで話にくるのかはわかりませんでしたから。」

わたしは夜の闇、月明かりの下に黒く屹立する河川敷の干木を見つめた。大雨が来て河川が氾濫してもあの場所で孤独に生き残る痩せた樹木ーー。その樹木だけが本質を孤独に見つめているーー。

「銭谷さん。小生の方から申し上げなかったことを、お許しください。太刀川が小生を尋ねた時、すでに捜査本部は解散していました。金石もすでに退職していた。その時直感で、金石は警察組織ではない場所で仕事を続けることにしたのだ、と小生は考えました。無論、金石は自らその結末を選んで、刑事を辞めたのですから、自分でも別の勝算を計算しているはずだ。金石はそういう人間です。それならば中途半端に触れるのは危ない。これは小生にとってではないです。金石にとって危ないのです。もし本当に困っていれば、金石の方から話に来るはずですから。だから小生は五年間このことについては一切関わらずに、胸の奥にしまったのです。意外だったのは捜査一課、二課は把握されているものとばかり思っていたことはありますがーー。以上です。銭谷さん、太刀川について小生が知っていることは。」





百七三 自問自答(人物不詳)   (前被りチェック)

 

 男はこれまでのことを回想し整理をしていた。 

 いくつものことが、予定とは違って来ている。

 まるで自分の過去を公然と暴こうと、暗闇から追いかけてくるような、そういう何かの存在を感じる。自分は完璧に過去を消したというのに。

 腑に落ちないままだった。

 自分の過去。

 過去は現実でしかない。

 反して、未来はまだ現実ではない。

 未来をつまらぬ現実の犠牲にするのか?

 それとも現実を超えた夢にするのか?

 全く別の人間になることができるというのにーー。

 自分が求める新しい夢の世界を実現する。

 過去を捨てることで新しく前に進む。

 インターネットが悪い。

 過去のしがらみから抜け出せなくさせる。

 世界にはこれだけ過去を消し去りたい人間がいるのに、その過去を刺青にして消させまいとする。

 それがインターネットだ。

 男はじっと、その袋を見た。

 袋の中に入っている男の歴史を、見つめたと言っていい。

 やはりーー。

 袋の中の男は何も持っていなかったのだ。ーー。

 その日暮らしの生活で、いつもゼロなのだ。失うものも何もない、つまり何も持っていない。逃げたり何かを守る必要はない。だから行動が予想の方角へ進まない。せいぜいネットを検索し、警察の外側の探偵に相談するくらいしかなかったのだ。

 男はさっぱりと、そう結論づけた。

 もうこの人間たちはそれでいい。

 作戦は変更だ。

 大事な変化が起きている。

 そう。よくわからぬ探偵がくだらない動きを始めている。

 慎重に行わなければ、自分にも被害が及ぶ。

 その設計変更については、既に十二分に考え尽くした。

 プランBもやめ、今しがた完成させた最後の作戦で処理をしよう。これでいい。

 世の中が求めている通りにーー。

 簡単なことだ。

 簡単なこと。

 死体にするのだ。そういうことだ。

 それが世の希望のはずだ。

 そうして、世の中はしばらく、満たされる。

 現実を忘れて、観劇に慰められる。

 作戦は想定できている。

 そのリスクも細かく検証した。

 密室が中々いい東京の真ん中にあったのだ。

 男は、ゆっくりと水を飲んだ。

 袋の隙間から風間がじっと自分のことを見つめている。

「意識を取り戻しているようだな。」

「……。」

 風間はじっと男の方を見上げた。

 手足は縛られたままである。

「この顔を見てしまったのでは、死んでもらうしか無くなったということだな。」

 男が開き直っているのを見て風間ははっきりと恐怖した。

 口のテープが外れるかというぐらい顔面を引き攣らせてている。

「うるさいぞ。」

 男はそう言って、風間の顔を激しく殴った。

「まあ、今更、探偵に相談したのも、奴らが江戸島に向かったのも、どうでも良い。お前が馬鹿な判断をしたまでだ。後悔は先に立たん。方針は変更されたのだ。」

「……。」

「アスファルトの通りにただ殺し合っていれば、葉書を設計した人間の希望通りで済んだのだ。お前の嫌いなオザキを殺せばよかったじゃないか。人生を狂わせられたのもアイツのせいだっただろう?それなら少なくとも三人のうち、一人は助かる可能性があったのにな。」

 男はもはやヘリウムの声ではなかった。彼本人の声が、暗い部屋に静かに響いていた。

 無言になると、不気味な暗室はパソコンの光とファンの音だけに暗闇が浸っていた。手足を縛られ椅子にくくりつけられ口を塞がれた風間は、その悪魔を見たような目だけを皿のようにして、何度も獣のように首を振りながら、男を睨み続けていた。



百七四 解凍時間  (石原) 


 石原は本庁に戻る間、二度三度、という言葉が頭から離れなかった。

 地下鉄車両が何らかの情報共有の場なのであれば同一の人物が、定例の場所にくりかえし少なくとも二度三度、現れているはずだーー。

 まずは、車両の映像をスマホでだけではなく大画面のパソコンで静止画にして画像を複数並べて拡大して見直したい。

 それにはカメラのデータをパソコンに落とし、大画面で確認しなければならない。

 六階は人が疎らだったが、石原は念の為個室に入った。盗撮用の機材をカバンから取り出しパソコンへのデータ転送作業を始めた。秋葉原で買った高性能カメラは撮影したものは超高性能だが、データを転送して取り出すことに時間がかかった。

 単純な待ちの作業になった。

 石原はまた大学ノートを取り出して、ここまでの整理をこの時間ですることにした。



①今週の太刀川尾行


九月十日  本郷三丁目、竜岡門方面へ 見失う

九月十一日 埼玉八潮駅、住宅方面へ 見失う

九月十二日 確認できず

九月十三日 二重橋 大企業ビル

九月十四日 埼玉八潮駅、川田木家へ 


太刀川龍一の行き先は決まっていない。東大生を三人育てた埼玉の母に会いに行くこともあれば、母校の本郷三丁目の駅に行くこともある。大手町二重橋で大企業の人間と会うこともある。少なくともオフィスは持っていないように思われ、目的も散漫に見える。

 埼玉については、三人の東大生を育てた川田木という家に太刀川が通っているのは把握できた。なんでも寝たきりの東大生の支援を行っている可能性があるがまだ詳細は不明である。これは彼が進めている慈善活動に関係しているものと思われる。いくつかの慈善についてはWebで非公式に把握はしているが、こちらも太刀川側が明確に事業として喧伝はしていない。あくまで、参加しているNPO団体などのホームページで太刀川の写真が露見されることがあるという程度である。

 本郷周辺については、太刀川は一体何をしているのかは未確認のまま。本郷の竜岡ビル四階は彼が創業した企業の最初のオフィスを借りた場所だったが、不動産屋によると太刀川本人が一連の騒動の後に買いとったらしい。だがこの部屋をとして使用している形跡はない。少なくともここに人員を集めたりはしていない。また本郷周辺という意味では、この部屋の他に、本郷三丁目駅にある文庫本置き場をなんらかの連絡行為に使っていないかも気になる。とくに携帯を持たずオフラインでの連絡を行う太刀川にとっては、掲示板伝言板をどこかで使わざるを得ないのではないか。




②地下鉄の仮説


 太刀川の目的地は地下鉄の降車駅ではなく、目的地は地下鉄の車両の中なのだと仮説できないかーー。

 結果的にどこに行ったかではなく、毎朝六時半の日比谷線で、暗号的な定例連絡会議を行っている可能性がないか。そう仮説すると幾つかのことが腑に落ちる。毎朝同じ時刻に乗車することや、車両がいつも広尾方面寄りの後ろから二番目であることも、誰かが同乗していて何かを日々伝えているなら合理的であり、日々の連絡を行うのにオフィスもメールもない人間には時間を定めた<空間>が必要なはずだ。

 数百億円の資産で何かの意思がある場合。年利六%で運用したとしても、数十億円ちかい金額を複利で得ている。数百人の人間を雇える可能性がある。太刀川に何か目的があるなら(以前、放送局やメディアを買収しようとしたような)ば、何らかの形で協力者を雇用するはず。インターネットを否定している太刀川なりの設計があるのでは?メールも電話もチャットもSNSもできない場合、実は自分のチームでの情報や命令の共有も難しくなる。

 地下鉄の車両を定例の会議につかうのは違和感はない。オフィスを持てば住所に紐づくことになり組織は公然となる。が、公共の交通機関の走行中であれば、どんな場所にも紐がつかない。現在ダウンロード、転送中だが、十三日と、十四日で撮影した太刀川の地下鉄動画の中に、同じ人間がいる可能性がある。少なくとも「定例会議」なのであればメンバーは何人かは再度乗り合わせる。毎日参加する人間がいてもおかしくない。

 この点は、今後の朝の撮影が叶えば、ある程度データは蓄積されるかも知れない。この動画解析を本庁の科学技術班で行うと、銭谷警部補と石原の作業が庁内で開示されてしまう。やるにしても、もう少し情報を集めてからにしたい。



③銭谷警部補宛に、送り主不明のメールがある


このメールの送り主は、銭谷警部補曰く、警視庁を辞めた金石元捜査二課警部補の可能性が高い。金石元警部補は、太刀川関連の事件で銭谷警部補と組んでいた人間である。



本を読め。本末の転倒。飲みすぎは、やめておけ・・・


孤独。被害者の孤独・・・


文学的に言えば、百の事件には百を被害者がある


郷に入りては郷に従え・・・


不思議な、というか、よくわからないメールである。メールもそうだが、金石元警部補についても不明点が多い。銭谷警部補と五年前に警視庁で最強のタッグを組んでいた。捜査二課のエースだった。独自の取材網を持っていて、銭谷警部補も一目置いていた、などが客観情報である。

 この人物からと思われるメールが、毎回送信してくるアドレスが違っていて、迷惑メールに入るのを、銭谷警部補はわざわざ、定期的に拾いに行く。そこには金石元警部補と彼の間でしかわからない内容が書いてあるという。ただ、具体的に情報があると言うより、過去の二人の間での会話の周辺になんとなく関わっているという。これは銭谷警部補の主張でしかない。

 なぜメールが送られるのか。内容は何かを意味している暗号などなのか。

 この二点については時間を置いて銭谷警部補に問い詰めるべきかもしれない。少なくとも現状はこのメールの内容を共有することに相当難色があった。彼が開示していないいくつかの情報もあるのかもしれない。



④五年前の事実の整理  


 メールは、五年前に、金石元警部補が突然警視庁を辞めた後に始まっているらしい。五年前、金石警部補が辞める直前まで二人は太刀川周辺の事件を追っていた。六本木の事件で一旦捜査本部はできていたが、すぐに解散になった。その周辺に一連の疑獄があることを仮説し、焦点を当てて隠密の捜査を続けていたという。

 その捜査が金石元警部補曰くかなり前進をしてきたところで、なぜか、潮目が変わり、報道の方向も変化があり、捜査は事件性なしの形で解決し、打ち切られた。どのタイミングかは知らないが、金石氏は警察を去ったという。その後の連絡先を銭谷警部補は知らない。おそらく辞めたというより、失踪に近い形だったらしい。連絡不能の状態が続き、そうしてしばらくした後に、一連のメールが来るようになった。

 六本木事件についてーー。

 女性の死亡は事故死で解決済が警視庁の方針。死因は「本人による薬物の過剰摂取」となっている。六本木事件といえばこの事件をさすが、銭谷警部補はこれに加え、二つの不審死を、六本木事件として一緒に捜査定義している様子がある。ひとつは沖縄での会社社長の不審死。もうひとつは六本木での別の死亡事故らしいが、この点は銭谷警部補はまだ、不明点が多く話す段階にはないという。沖縄の不審死も沖縄県警からは早々に自殺と断定されている。

 当初、警視庁本庁は、捜査一課、二課合同の捜査本部を設置し、積極的にパラダイム社太刀川社長をはじめ、不審死のあった一室について捜査を行った。この事件には多くの不明点が確かに多い。六本木ヒルズレジデンスの防犯カメラは、いち早く、映像が不明になっていた。三十七階の一室に一体誰がいたのか、が重要なポイントなのだがこの点は当時太刀川が借りていたこの部屋の鍵は複数の人間が持っていて事実上出入り自由になっていたため、特定がなされなかった。金石元警部補はこの情報を独自のルートで把握していたのかもしれない。

 このほか、居酒屋での情報でしかないが、銭谷警部補が、公金横領で懲戒にあった、所轄の老刑事と打ち合わせをしていたという情報がある。これは本人に聞くべきである。



 石原は頭に入っていることをとりあえず書き続けた。

 ノートに書き出してみると心が落ち着くのがわかった。少なくとも自分の次の動き方がイメージできる気がした。

 六本木事件については、今まさに再度の捜査が始まったばかりだ、と思っている。いや、一度全てが「解決済」になった事件を今から全てひっくり返そうということであるから、簡単な作業ではない。

(しかし、なぜ、捜査本部まで組んだ警察は方針を変えたのだろう。)

石原里美巡査には、強い興奮があった。刑事になって、まさかこんなに早々に、世間を揺るがした事件の捜査の中心の作業ができるとは思っていなかった。隠密とはいえ、若い自分にそんな機会は簡単には訪れない。それも、捜査一課で最も実力があると言われる刑事と一緒に、組めるというのである。

 その時ようやくパソコンが様子を変えた。どうやら無事ダウンロードが済んだ様子だ。石原はノートを閉じてパソコンの方に目を向けた。



百七五 バーへ (銭谷)


 綾瀬の河川敷で又兵衛と別れたあと、わたしは気がつくと金町とは反対の方角の電車に乗っていた。

 霞ヶ関を通り抜け、乃木坂で千代田線をおりると西麻布から広尾方面へと夜風に吹かれながら、歩いた。景気は相変わらず悪く、空っぽの品川行き(バス)が赤い終電灯を揺らして外苑西どおりを疾走していった。行き詰まった捜査の考え事をして幾度も歩いた道だ。わたしは何か閃きが夜空から舞い降りるのを願ったが、夜はいつものままだった。そうして天現寺まで歩き、バー・ニコルソンに入った。

 客は誰もいなかった。

 わたしはカウンターに座って、隣の空席を改めて眺めた。

 その席は金石のいた席だった。

 ここに座る目的は簡単だ。

 あの時と同じ気持ちになって、同じ酒を飲む。そうして又兵衛の話した太刀川龍一周辺の言葉をなぞる。そうすれば、もしかすると金石がその席で語っていたことを、思い出すかもしれない。忘却してすぎてしまった会話を同じように酒を飲むことで、思い出せるのではないかーー。

 気狂いじみた発想だったがいまのわたしにはそれ以外に方法が思いつかなかった。

 おそらくそれにはずいぶんな量のジャックダニエルが必要な筈だった。

 隣の金石のいた席をわたしは無言で見つめた。



百七六 青山墓地(軽井澤新太)


 御園生くんの乗り落としたままのキャロルは、消防署通りの夜の闇の中にありました。墓地の北端はそのまま神宮外苑に通じる細い通りがあり、その通りが消防署の前を通るので消防署通りと言います。手前の道はすべて墓地と続きになっているので桜の時期はたくさんの花見客が陣取る場所ですが、葉桜の後のこの夜は誰一人いない暗闇でした。

 そのとき、です。

 ふと、二重橋で受けたのと同じ感覚がわたくしの背中を襲いました。

 なにかの尾行がある気がしたのです。

 漠然と、わたくしはそれを<女>だと感じました。





百七七 若洲 (御園生)


 金門橋(ゴールデンゲートブリッジ)を渡ったところに巨大な風車があった。羽田側から登ったブリッジで海を渡り、浦安や新木場のある、東京湾の千葉に近い側に降りていくようだった。橋を渡った先も、いかにも埋立地じみた平らかな黒い板洲のような土地が闇に広がっていた。工場や自動車が出す光が点綴として、そこだけ海面ではないのだと判るのだった。

 江戸島を乗せたタクシーは橋を降りると幹線道路を左折した。折り悪く信号が赤になった。

 往来はミキサー車や、トラックが多く、橋の上から眺めたときよりも広大に思える敷地に巨大な工場が遠く並んでいた。その闇へと目的のタクシーが吸い込まれていく。

「信号を無視して、追えませんか。困ったな」

「無茶言っちゃいけねえよ。」

信号に間に合わなかった我々を置いてタクシーは埋立地の工場の方角へ入って見えなくなっていった。

 ふと僕は、昨夜の銀座の寿司店の後を思い出した。代々木上原という、渋谷や原宿の先の内陸側に自宅がありながら、江戸島会長は銀座から海の方角、つまり埋立地側に向かった。もしかすると昨夜もここに向かいたかったのではないか?

(方角という意味では合っている)

信号がようやく変わると、急加速をさせて我々は江戸島の車(タクシー)を追った。しかし、かなり急いで回ったが江戸島を乗せたタクシーは見当たらなかった。

 タクシー運転手は、申し訳無さそうに謝った。僕が想像以上に落ち込んでいるのを気遣ってくれた。

 しばらく探したあとに、僕は軽井澤さんにメッセージをした。声を出して、電話をする気になれなかった。

(すいません、見失いました。)

チャットはすぐ既読になった。

(一人では難しいです。御園生くん、しょうがないですよ。)

軽井澤さんのねぎらいの言葉だった。

(しかし。貴重な好機でした。)

(いまどちらですか)

(いま若洲というところにいます。)

その言葉が既読になったあと、随分長く返信がなかった。軽井澤さんは僕の送ったいくつかの、写メをみている様だった。

 暗闇がうっすらと月夜のように明るいのは、東京湾の向こう側のまさしく大都会の夜の灯が間接的に埋立地を照らすからだった。工場の高い建物と、ミキサー車の並ぶ広大な駐車場が、闇に暗く広がっている。なんの工場かわからなかったが、とにかく、人間の存在を感じない、全て機械が自動作業だけする場所のようだった。大都市のさまざまな物事を処理し、ただ冷たく動く印象は、どこか尾行してきたものを見失った気持ちと重なるようだった。

 海風が、人のいない平らなアスファルトの上をなでていた。



百七八 バー電話(銭谷警部補)


<前受けがあった方が’(右のメモ)流れいいのかも>


私用のほうの電話が鳴った。石原だった。

「資料映像、クラウドで、もう上がると思います。」

「ええと。すまん。クラウド。」

「はい。銭谷警部補が新しく買われたのはアンドロイドではなくてiPhoneですよね。」

知らない言葉が溢れる時代だと思う。知っているやつの方が幸福だとは思わないが、酒のせいでわたしは素直に聞いた。

「すまんが教えてくれ。クラウドというのが全くわからん。アンドロというのはもっとわからない。」

「今、話している電話の画面を見れますか?」

石原は、ゆっくり、わかりやすい形で説明をしてくれた。それは草原をゆっくりと歩くのと、のどかな夕日を見るのとが混ざったような気持ちで、私は珍しくこの板電話(スマホ)を前向きに捉えることができた。

「その右下にボタンがあると思います。」

「この歯車か。」

「はい。その歯車のボタンを押してみてください。」

「うむ。ファイルが並んでる様子の画面になった。」

「いいですね。そこでこの後、映像が見れるようになると思います。」

「よしわかった。」

わたしは若者らしい知らないものを学ぶ子供のような気分だった。

「もし良ければ、その間に銭谷さん、一ついいですか。少しご報告したいことが映像に絡んでありまして。」

「報告はいつでもありがたい。」

ふと、ニコルソンが他の客がいないので、音楽の音量を下げてくれた気がした。

 石原は、自分の仮説をそこで話した。理路整然としていた。わたしは石原の説明をまとめるように、

「つまり、太刀川が地下鉄を使って何かの連絡、指示している。もしくは、彼の持っている金を何らかの形で使っている、ということか。」

と言った。少しの間合いの後に石原は、

「ええ。そうとしか思えないのです。もちろん配るのはあの場所ではないかもしれないですが、なんらかの符丁があったりするのではないかと。つまり、あの地下鉄の車両で、直接の会話はしないけれどもなんらかの連絡場所になっているように思うのです。」

わたしも、過去幾度かその可能性を考えたことはあった。

「根拠はあるのか。」

「根拠と言うほどではないですが、その可能性として、映像を見ていただきたいんです。」

「わかった。」

「経済には詳しくないですが、太刀川は利子だけで毎年収入が何億もあるという話でした。」

「利子で言えば、複利を考えずともそうだな。」

「だとすると、毎日二百万ドブに捨てなければならない。」

「どぶ?」

「ええ。仮に年間六億円使うには、毎日百八十六万円を捨てる処理をしないといけないんです。使いきれないんです。今の太刀川を見てる限り、そういう生活をしているように見えないです。」

地下鉄に乗って、街を散歩しているだけではその通りになるだろう。本来はタクシーどころか、運転手付きのリムジンに乗るべき金額だ。

「調べてわかったのですが、太刀川はインターネットアカウントだけでなく、携帯電話どころかクレジットカードも持っていません。いつでも支払いは現金のようです。クレジットカードで払ったりすればいつ誰に金が動いたかは足がつく。」

「……。」

「つまり、警察からすれば、何も情報を盗めない。少なくともそういう空間を太刀川は作っている。」

「うむ。」

「メールやメッセージを一切、辞めた太刀川です。一見世捨て人のように世間から遠ざかったようにしている。でも、そこにこそ、盲点があるのかもしれません。本当はその逆なのだと。」

それはわたしがずっと直感してきていることだが、自分で言葉にしてはこなかった。

「つまり、あの地下鉄を連絡場所にして、現金(げんなま)を使って何かの組織を運営しているのかもしれない。」

「組織の運営を?」

「はい。毎年数億円です。かなりの人間をやはり雇えます。」

「……。」

「銭谷警部補。五年前に何があったかわかりません。金石氏の隠密領域もあったと思います。しかし、太刀川が警察組織や権力に何らかの形で嫌な思い出があるのだとすると、ーーー今までとは別の組織運営方法を太刀川が構築することはありえませんか。」

「……。」

「オフラインは逃避ではなく、ある種の力になります。」

わたしは素直に返事ができなかった。そして又兵衛が先刻、わたしに伝えた内容を思い出していた。金石の言葉を思い出すために飲みすぎているウィスキーが脳を揺らしている。しかし、頭痛とかではなく興奮剤のような感覚でもある。

「現金で、太刀川が今までと違う人間を動かしている。」

「普通の会社を経営するなら、普通に支払えば良い。とすれば、普通ではないことをやってるのかもしれません。」

「普通ではない?」

「私には、そう思えてならない。毎朝六時半。もう何年もですよね。銭谷警部補が尾行をしていた頃からです。五年以上です。」

「……。」

「五年前に会社の株式を失ってから多くの部下を失った。太刀川にしてみれば、次の動き方はいろいろな人間に対する不信があった。」

「奴がいろいろなものが信じられなくなった可能性はあるかもしれない。」

「もう少しわたしの方でも調べたいと思っています。ぜひ銭谷警部補には映像の方をご覧になっていただければと思います。」

「論理はわかった。まずは映像、だな。」

「はい。私ももちろん半信半疑の自分もいます。こうやって仮説を強めに自負する証拠になるかわかりませんが、明日以降もできる限り撮影を追加します。」

「ありがとう。まずは見てみてそれから折り返しでも良いか」

「ありがとうございます。もうすぐクラウドで見れるはずです。歯車のマークです。」


百七九 間諜 (守谷) 


守谷はその白い軽トラックの運転席に座った。

ほとんどその瞬間にまた同じ非通知の着信が鳴った

「守谷さんか。」

「……。」

「運転席の座りごごちはどうだ?」

「ど、どこで俺を見ている?」

「まあ、気にするな。逃げられんということを理解すればそれでいい。」

「……。」

「助かりたくないのか?」

「助かる?」

「困っているから探偵に話したりしているんだろう?こちらの提案の通りにすれば、全てを解決する。その事は約束しよう。」

「信じるのは、難しい。」

「いつまでも逃げるつもりか?」

「……。」

「終わりにさせたくないのか?もう十分長い時間が過ぎた。懲役も終えたんだ。すこしの協力をすれば良い。それで解決する。」

懲役という言葉は電話の中で、冷たく響いた。

「何もあんたは頭を使ったり作戦を考えたりする必要は無い。簡単なことにすぎんよ。もはや逃げていれば結末は見えている。守谷さん。あんたはもうひとつの腕も、失って生きたいのか?」

「ーー何をすればいい?」

「何、簡単なことさ。コンクリートの作り方は知っているよな?」

「…どういう意味だ?」

「作り方を知っているのか?」

「…知っている。」

「では、説明をしよう。撒菱には塗料は塗り終わったのだよな?」





百八十 電話 (御園生)


軽井澤さんからの電話が鳴った。

「いま社用車(キャロル)は拾いました。」

「よかったです、ありが…。」

僕がそう返そうとするのを遮るように

「み、御園生くん、前言っていた、女性というのはどんな人でしたか?」

「女性?」

「唐突にすいません。あの例の事務所の前に居たという?」

「ああ。そうですね、すこし年上だと思いますが。どうしてですか?」

軽井澤さんは少しためらってから

「実はいま、まだそんな人間がいた気がしたのです。この車に、何かつけられたりしてませんよね。」

「車にですか?さて」

「事務所に誰かがつけてるというのは、わかるのですが、青山墓地の北側で今車を拾おうとしたその場所にいた気がしたのです。はい。二重橋の時に感じた女性です。」

「事務所でなく車を、尾行しているということですか?」

「ええ。大手町二重橋も、ほら、キャロルで向かったので。」

「車に何かされているーー?そう言えば、会ったとき、車の下に落とし物をしたとか、言ってました。」

「なるほど。それはすこし怪しいですね。わかりました。ありがとうございます。ちょっと事務所に戻りながら様子を見てみます。」

「了解致しました。」

僕はふと、チャットの流れがあったので思うことがあったけどもそのことは言葉にはせず、

「軽井澤さん、僕の方でも江戸島を追ってみようと思います。江戸島本人は面会をしたがらない様子ですが、明日朝、タクシー会社に聞いてもいいと思いました。」

と自分の考えを伝えた。言ってからこの案件から離れろと言っている軽井澤さんへ少し当て付けた感じになった気もした。

 少なくとも江戸島と一緒に青山から工業地帯を回ったタクシーのナンバーや会社名はメモしてある。それだけは問い合わせてみようと思っていた。おそらく江戸島を乗せた運転手はそれなりに何かを見たはずだと思っている。



百八一 尾行の女 (軽井澤新太)


 その女は、わたくしには不自然に見えました。

 御園生君が乗り捨てたマツダのキャロルをわたくしが探しているときに何故か二回ほどわたくしの視界に入ったのです。一般的に公道で同じ人間を二回見るということは難しいことです。わたくしは、その女に気がつかれないことを確認しながら、キャロルの鍵を開けました。恐らく、御園生くんに申し上げた通り、この車がここにあることを知っているように感じました。死角になる墓地の方角からその女が見ているように思えたのです。そして何より、二重橋で尾行されているように感じたのと同じ空気を醸しているように思えたのです。

 車(キャロル)に乗るとわたくしは、あえて彼女が少し追いかけることのできるくらいの速度で、葉桜を終えた桜並木をゆっくりと南に降りました。一旦事務所の前に車を戻してから、手早く事務所に入り、幾つかの護身用の武器を取り出しすぐに外に出ました。

 わたくしはそこで少し事務所から離れて、あえて自分が尾行者や追跡者ならどこにわたくしを監視する場所を作るかを考えてみました。すると一箇所、崖の上に青山墓地の作業員が物置を置く小屋があります。登ってみると打って付けで、わたくしどもの事務所が見下せる機械置き場がありました。わたくしはあえて、その小屋から少し離れて死角になる草むらに気配を消して蹲りました。夜の闇に、こんな小屋にやってくる人間など普通はありません。あれば、その獣はわたくしを尾行する獣でしょう。

 御園生くんが車を置き去った墓地北端から、ここまでは歩いて十分程です。ちょうどそのくらいして、獣のような影が小屋に入りました。そして凝然とそこに座り込みました。わたくしどもの事務所の方角に体を向けて見下ろしたまま、タバコを吸い始めているようでした。わたくしは事務所の電気だけはつけておきましたので、影はそちらに集中して事務所内の様子を見つめていました。

 足音を消して近づくのは一応、探偵業として心得はございます。

「後ろから失礼します。動くと後悔します。無駄な抵抗はやめた方がいいです。」

わたくしは背後からその影に近寄り、直前に事務所で用意した護身用の電気具をその女の頬に充て、冷たく言いました。

「こちらを見ずに、手を後ろにしてください。抵抗は危険ですよ。」

影は、女でした。暗がりですが、見た目は想像より小綺麗にしているのがわかりました。御園生くんと同い年くらいにさえ見えました。

「……。」

「危害を加えるつもりであれば、とっくにそうしています。聞きたいことがいくつかあります。」

わたくしは、殆ど抵抗をしない様子のその女性を確認しつつ、後ろ手に用意した紐で手早く縛りました。墓地の暗闇から一緒に階段を降りると、ゆっくりと事務所の手前に進み、車(キャロル)のドアをあけ、助手席に座ってもらいました。事務所では外からも丸見えで、前を人が通ると、監禁と言われても困ると思ったからです。

 助手席に女を座らせ、わたくしは運転席に座りました。事務所の前は不安だったので少しだけ車を、人気の更にない墓地の桜並木の方に移動させました。闇の中、車上灯をつけると女性は真っ赤な髪の毛を帽子の下からはみ出しているのがわかりました。

「あなたは、どなたですか?」

「……。」

「なぜ、わたくしを尾行けたのですか?」

わたくしも、自分の方で聞きながら、多少は気が動転していて、どう始めていいのかも分かりませんでした。

「なぜかは聞きません。どうやって、わたくしの居場所を知ることができるのですか?」

女性の顔を見ました。尾行と言っても諜報員のような体を鍛えている風情もない、連絡員のようなアルバイトのような感じです。

「……。」

「先ほど、墓地の北端であなたはわたくしを尾行していた。恐らくですが、この車のどこかに細工をしましたね?」

わたくしは時間と共に少し落ち着き、言葉を上段に構え始めました。

「この車には細工がある。はい。答えなくても構いませんよ。」

「……。」

「我々はいま、とある、葉書の問題や、不気味な依頼人の問題を抱えている。そのこととあなたは関係しますね。」

「……。」

「荷物を見せてもらっていいですか?」

わたくしは彼女の抱えたかばんを取り寄せ、蓋を開けました。どのような環境でも女性のかばんを開けるというのは、嫌なものですが、携帯電話、紙袋に入れた札束、大学ノートらしきもの、などが見えました。大学ノートをまず開きましたが、殆ど何も書いていませんでした。

 携帯電話を見る気にならずに悩んでおりました。するとふとそこに携帯がもう一つありました。今どきの若者は携帯電話も二つあるというのはよくある話です。仕事用と私用が別なのであれば、仕事用だけを見ようと、思いました。

「どちらが、こういう仕事のためのものですか?」

「……。」

「この携帯、二つありますよね。」

「ふたつ?」

初めて聞く女性の声が思っていた以上に透明感があるのを感じながら、わたくしはハッとしました。片方の少し大きい方は実は携帯電話そっくりですが、画面が違う気がしたのです。

「なんだこれ?地図アプリだけなのですかね。」

「……。」

「これは、なんだろう。」 

地図の中に緑の点滅があります。

「これは、この画面の中で光ってるのは、西麻布の、つまり我々の現在地を指していますね。」

わたくしはその時、自分の予感が当たったのを感じました。二重橋でも今もこのキャロルにはGPSが付けられていた。この自分の体ではなく、車にであればーー。

「つまりこの緑色はこの場所を意味していますね?」

「……。」

「あなたは一人?他にいるのですか?」

「……。」

「もう一度聞きます。答えなくてもいい。あなたの仲間は近くにいますか?この状況を見て、なにかあなたのリスクが発生していますか?この状況だとあなたの仲間はあなたに危害を加える可能性まで生じていませんかーー。」

わたくしは目の前の女性があまりにも若く、むしろ幼い年齢なのにどうも会話がうまくできませんでした。これが守谷や風間のような相手であればもっと雑に自分の知りたいことだけを聞けると思うのですが。

「どうでしょうか?」

赤い髪を帽子からはみ出させたまま、女性は空虚な表情のままで何も答えません。

「大丈夫。答えたくなければ答えなくていい。」

わたくしは、しばらく墓地の周りをゆっくりと車を走らせ、その緑の点が同じように動くのを確認しつつ、青山一丁目の交通量が多いあたりで、車を路肩に止めました。ここならば逆に、何かがあっても人目がある。歌舞伎町にいたような人々も流石にここでは暴威は振るえない、と自分に言い聞かせつつ、

「尾行はあなた一人だと考えていいのですか?」

「……。」

わたくしは、彼女から奪ったスマホ風の機材を見ながら、

「この緑色のGPSですね。つまり、この車につけたってことですよね。」

GPSは先ほどの事務所の前から青山一丁目の現在地に移動していました。

「違いますか?」

この車に取り付けたでしょう、という目でわたくしは女性を見つめましたが少し臆してはいるものの女性は焦ってはいません。何を考えているのか判らない、意図の読めない表情のままです。

 わたくしはGPSをもう一度見て、緑色以外にも青の点があるのに気が付きました。

「もう一つのこれは何を指していますか?」

青色のその点は、錦糸町のあたりにあります。

「もう少し、待てば説明してもらえそうですか?」

わたくしはじっと女性を見つめました。

 赤い髪の女性はその時、目つきが少し白目を向くような均衡を壊す表情をしました。痙攣を予感させるとでも言いましょうか。なんと言いましょうか。尾行が失敗してしまったストレスで何か彼女の精神的なものが決壊してしまうような気がしたのです。そうして白目の痙攣を少しずつ増やしたり、その合間の小康状態で切なくも美しい表情を取り戻してこちらを見たりを繰り返しておりました。

 


百八二 車中にて (赤髪女) 


 赤髪女は軽井澤探偵に後ろ手に縛られたが、その縛り方は優しく、正直逃げることも可能だと思った。昨日、埋立地で背中を取られたときとは違った。あのときは、背の高い位置から体が抑えられ、岩のような不動感があった。どんなやり方をしても逃げられない力だった。それと今とは別物だった。

「千秒数えるまで、命の保証はない。」

という冷たく静かな声とは反対に、軽井澤探偵の声は温かいものだった。

 しかしながら、その温かさが逆に赤髪女の心を暗鬱にさせた。

 一体自分は何をしているのだ?という、徒労感が赤髪女を襲っていた。フラッシュバックでいくつかの過去が竜巻のようにくるくると回った。薬物的な禁断も混じってるのかもしれない。

 この探偵の不思議なやさしさのせいで、自分の気持ちが狂うのだ。乱反射する光が脳の中で彷徨って思考が粟粒になって消えていく。この人物の優しさや癒しが逆に不安に自分をさせるのだ。

「この青い点のことをなにかご存知ですか?」

GPSを指差して、軽井澤探偵は聞いた。その青い点は、指示者に追加して見ておくようにと言われたまま、放置していた人間である。新宿の歌舞伎町から、光り始めたのを覚えている。この二日ほどは錦糸町という駅のあたりで点滅して動いていない。もうひとつあった、赤い点、草臥れた茶ジャケットの風間はいつの間にか消えてしまって画面には映っていない。

 優しい言葉を丁寧にかけられるたびに、罪のような気持ちになり吐き気や痙攣のようなトラウマがおこる。自分がおかしい。覚醒剤のせいもあると思う。覚醒剤は善意に化学反応をするのだろうか?赤髪女は茶色い汗を掻くような気がした。

「このGPSでわたくしを、つまりこの車を追いかける理由は、誰かに指示をされたということですね。」

探偵はやさしくこちらを眺めている。

「違っていたら教えてくださると助かります。つまり、あなたは我々探偵と同じように、誰かに雇用されている。しかし、その雇用した人間もは身元を明かすのは危険が伴うから、かなり慎重なはずだ。」

「……。」

「その雇用先について判ることはありますか?着信の履歴だけ見させていただきます。メッセージは残っていないでしょうから。」

言いながら、軽井澤探偵は、赤髪女のかばんから取り出した彼女の携帯電話をこちらに差し出した。持ち主の赤髪女に顔認証をさせたのだ。

「非通知ばかりですね。」

「……。」

「これが指示をしてくる電話ですか?それとも別の方法ですか?」

「……。」

「わたくしどもは数日前に、とある二人の人間から相談を受けました。彼らのは一人は、猫の死体を玄関に置かれたのでびっくりして、なぜか警察に行かずにわたくしどもを尋ねたのです。頼ったとも言える。その方は、先日電話中に音信不通になりました。風間という方です。もうひとりは守谷という人物です。恐ろしい私刑にあい、瀕死の怪我をした人です。この二人は誰かに狙われている。その加害者が、わたくしどもの動きを気にしたかもしれません。でもはっきりと言いましょう。我々を調べたり尾行をしても意味がないです。その加害者に指示されているなら、そう伝えた方がいい。わたくしどもは風間や守谷から何か具体的な情報や秘密を受けているわけでもない。正直何も知らない。」

赤髪女は何も言い出せぬまま軽井澤探偵の胸の辺りを身任せにしていた。声が重なるたびに嗚咽があり、苦しくなっている。

「わたくしを追跡するのは構いません。何も起きませんから、自由に尾行すればいいです。あなたも事情もわからず、尾行をしておけばそれでいいというなら、GPSをわたしのポケットに入れてもいいです。それよりも、わたくしは、そんなあなたに、お聞きしたいことがあるのです。」

「……。」

「つまりその、つまり、こんな金銭をかけてまで尾行を命令するその理由を知りたい。その人が風間や守谷という人間を加害してきた人物なのならその理由もです。たとえばどういう人物か?について、少しでもわかることはありませんか?」

「……。」

「何も邪魔する気はございません。警察等に言ったりしませんし、何かをお聞きしてもそれを転用はしません。わたくしは、ごぞんじ、探偵で守秘義務は心得ているつもりでございます。わたくしどもは、ただ、その結果発生する二次災害を恐れているのです。」

「二次災害?」

赤髪女は、思わず口にした。

「はい、そうです。」

「二次とはどういうことですか?」

軽井澤はその時とても暗い顔をしていた。話したくはないがこのままいくと二次災害が起こるのだ。それは誰も幸せにしない、逆に無実の人を不幸にするかもしれないのだ、と、言葉を真剣にさせながら赤髪女に説明をしてきた。

「そうなんですか。」

赤髪女がかろうじてそう言葉を返した時だった。

 目の前が暗くなり、なにかが見えなくなっていくのを感じ始めた。

 頭を強い金属で叩かれたようなそういう一瞬だった。



百八三 癲癇後 (軽井澤新太)


 どうして闇を感じたのかはわかりません。美しい女性の顔面の中に何かガラスが割れてしまうような予感があって、何か暗い彼女の中の世界のようなものが覗くのです。わたくしがあれこれと追求をする中でーー赤い髪の女性は、時間を追うごとに、観念したという表情を深めた気もしていました。もう少しで、何かを話してくれると、わたくしは感じ始めていました。そう思っていたその時でした。

 突然、白目を剥き意識を遠くしたようにしたのです。そのまま人事不省となるような、痙攣を始めました。

「だ、大丈夫ですか?」

わたくしは焦って、助手席のリクライニングを倒しました。あきらかに、なにかの薬物的なものの禁断症状です。

 わたくしは、彼女の背中を擦り、額を抑えました。できることがなにもないせいで、そうするしかなかったのです。人間が死ぬ顔をするとき、悪魔のようなものが顔の各所に現れます。獣のような白目を剥く彼女にはそれが顕れていました。その表情のまま、突然、口から血を出しました。中毒者はしばしば、舌咬傷を起こし全身の強直痙攣と意識消失をおこなうのです。わたくしは、途方に暮れながら、病院に行くべきか、それとも警察に行くべきか、まさしく右往左往するばかりでした。

 その時ふと、この青山通り(246)の先に、


(守谷のいた池尻病院)


があるのを思い出したのです。池尻大橋は、今車を路肩に停めている青山一丁目からは車で数分です。まともな病院に薬物の中毒者を連れて行けば、すぐに警察沙汰になり、多くのことが身動きできなくなるのは目に見えています。かといって、命に関わればその方が大変です。

 わたくしは相当の速度で車を走らせ池尻までくると、車寄せに堂々と停めたまま、赤髪の女性をおぶり、リノリウムの床の上で車椅子に乗せて、守谷のいた部屋に向かうと、ほとんど常連の風情でわたくしは医者を呼びました。

「昨日お世話になった、守谷の部下のものです。身元は確認してみてください。」

「守谷さんの?」

「はい。すこしトラブルが続いておりまして。」

おそらく当直であろう、若い医者がすぐにやって参りました。医師はさも、こういう癲癇や顛末に慣れた様子で、まるで死にかけているとわたくしが慌てている赤髪の女性に驚きもせず、注射を一本打ったのと、顔面中心になにかマッサージのようにさすりました。

「覚醒剤の過剰摂取による痙攣ですね。」

医者は慣れたようにそう言いました。そうして、何も珍しくないむしろ飽きてるかのような表情で注射を一本用意し、呼吸も整えもせずにそれを赤い髪の女性の二の腕に打ち、

「では、以上です。お大事に。」

とだけ言って、帰ってしまいました。わたくしは余りの速さに呆気に取られましたが、赤い髪の女性はたしかに痙攣が治り、明確に落ち着きを取り戻し眠りなおしたように見えました。



百八四 映像 (銭谷警部補)



 バーで動画を見れるようになったのは少し驚きだった。

 石原の送ってきた動画には、日比谷線の朝の映像がいくつかあった。

 わたしがメッセージで


(見れそうだ。)


と送ったところ、石原は深夜にも関わらずメッセージを重ねてくれた。


(ファイル名はfileattached003とfileattached008です。同じ人物がいるように見えます。)


わたしは、そのメッセージを少しみてから、二つの動画を見比べた。本当だった。風情は変わっているが、わたしの知らない、しかしおそらく同じ人物だと思われる人間がいた。ただ、太刀川とは距離を置いていて、遠近のピントが合っていないせいで明確に顔までがわからなかった。背格好が同一の人物と仮定しても問題はないだろう。だが確信を得るにはもう少しサンプルが必要だ。


(なるほど、同一人物に見えなくはない。)

(はい。ですが、この程度ではと思いますので、明日も動いてみたいと思っています。)

(寝る間を惜しんで、申し訳ない。)

(大丈夫です。体力には自信があります。)

(明日も早い。ゆっくり休んでくれ。)

(了解しました。)


メッセージを終えたわたしは石原への感謝を心に集めてバーボングラスを掴んで氷を揺らした。そのまま動画を幾度か見直していた。こうやって撮影をすると確かに自分のが日常獲れる何倍もの情報量を把握ができる。そうして幾度も再生して見ることもできる。わたしは純粋な気持ちでやはり石原に感謝した。

 そんなふうに最初の動画、つまり今日の朝の日比谷線の動画をもう幾度となく眺めていたその時だった。

 石原が二つの動画で比べさせた人物とはまた別のとある男が、目に入った。その男には明らかに太刀川を狙って撮影したせいでレンズの焦点があっていなかった。ぼやけていた。しかしその男が目に入った瞬間わたしは心に津波が押し寄せるようにすべての精神的な状況を押し流されていくのがわかった。

 その男は太刀川の乗る地下鉄車両の一番奥の扉近くにいた。地下鉄の出入り扉の、扉袋に立っている。焦点が太刀川に合わせてあるため、細長い車両の手前と奥とでぼやけていて、表情は確認ができないが、カメラの側に背中を向けて立っていた。ただその背中はわたしの知っている背中に非常によく似ていたーー。

 バーのカウンターに板電話(スマホ)を顕微鏡でも覗くように目に擦り付けたわたしは、幾度も幾度もその映像を再生し直した。

 髪型や服装はちがうが、奴の二メートル近い身長は、誤魔化せたりはしないーー。



百八五 男 (人物不祥)


男は若洲の草むらにいた。

計画の通り手配が進む。

少し武者震いがある。

今、世の中が求めていることを実行すると、信じている。そういう方向に向かっていることが自分の背中を押している。

しかしーー。

あの老人ーー。

江戸島の行動は予想外だった。

つまらない動きを追加してくれたせいで、計画に混乱が生じる可能性がある。

だから老人のやることは予想がしずらい。

やはり、そうなるとすぐにでも実行をする必要がある。時間をかければかけるほど不確定要素が増えてしまうからだ。




百八六 出池尻再(軽井澤新太)   もう一度読む


 池尻病院の医師は、慣れた様子で薬物の処理を行い、女性の痙攣は止まりました。一旦安定すると看護婦がつくわけでもなく、勝手に帰っていいという空気になりました。先日は右腕を切断した人間が来てもあの程度だった病院ですから無理もないかもしれません。

 わたくしの目の前で、赤髪の女性の電話が鳴ったのはそうやって守谷のいた病室で彼女が少し落ち着き、悪魔がこぼれ落ちたような痙攣の表情を忘れたかのように美しく眠る横顔で静かな寝息をさせていた時でした。

 鳴り響くというより、静かに揺れるその電話の音に、赤い髪の女性は目を覚ました様子でわたくしと目が合いました。

「……ここは?」

「病院です。わたくしの車で意識を失ったのを覚えていますか。薬物中毒の発作だったと思います。舌を噛んで切れています。話す時に気をつけてください。」

「すいません。」

それまで、言葉を出すことも渋っていた女性は、昏倒をきっかけに心を開いた様子もありました。電話は一旦鳴り止みましたが、すぐにまた鳴り直したので、わたくしは女性に電話を手渡しました。その画面を見て表情がはっきりと変調したのをわたくしは察しました。女性は電話に出ました。

「すいません。」

電話を取った女性は、思いの外明確に答えました。背筋を伸ばし、まるで上司の電話に対応するような空気がそこにありました。舌を切っているというのに、その痛みを忘れて話しているようでした。

「ーーー」

「はい。」

「ーーー」

「はい。」

電話は明らかに、なんらかの指示系統からの連絡でした。おそらく、その指示によって彼女はさまざまな仕事をしているのだと感じました。体調が悪いにもかかわらず、仕事の受注者特有の背筋を伸ばした態度がありました。そうしてひと通り確認が済んだところで電話を切ったようでした。

「この病院は、どこでしょう?」

「池尻ですね。青山から電車で二駅。」

「はやく、動いたほうがいいと思います。」

「どうしてでしょうか。」

「ご存知かと思いますが、車にGPSがついています。」

赤い髪の女性はその言葉とともにわたくしを見つめました。美しい赤い唇と髪が白いベッドの上に紅白の対峙をさせていました。

「あなたがそうおっしゃって良いのですか。」

「…とにかく、急ぎましょう。」

「でも体調は。」

「お気遣いすいません。楽になっています。話はその後がいいです。」

わたくしは、協力をしてくれるのか?という質問をしようと思いましたが、女性の方に何らかの配慮があり、まずは従うべきだという直感が働きました。さっそく席を立ち、個室から出ようとドアを開けました。

「会計は?」

「大丈夫です。おそらくこの病院は。」

女性は、不思議な顔をしましたが、わたくしに従ってすぐに自分の脚で立ち上がり、歩き出しました。

「車は駐車場に止めてあります。」

むしろ女性に急かされるように病院のリノリウムの床を滑るように進んで、一階から出ました。すでに深夜で、誰一人人はいません。社用車(キャロル)をみつけると、女性は大胆に車の下に潜り込みました。そして予想よりも小さなその器材を裏面から剥がしてわたくしに見せるや否や、

「あなたが取ったことにしてください」

と言って、GPSの発信器を草むらに投げ捨てました。

「壊してはダメです。その瞬間に、再追跡を始める議論になって電話が掛かってきます。電源を入れたままなら、同じ場所にいるのだと誤認してくれる。先程の電話では少なくとも、この病院で休んでいると認識しています。」

「なるほど。」

わたくしはそう言って、ふと、女性の手を縛っていないことに気がつきました。逃げようと思えばいつでも逃げれるはずの女性は、その様子もなく、キャロルのドアの前で

「ありがとうございました。病院まで手配していただいて。すこし、ご協力できることだけ、させてください。」

とだけ言いました。

 我々は、一旦尾行のGPSが取れた車(キャロル)に乗り、病院を離れ始めました。元いた青山、つまり渋谷の方の玉川通りに戻りながら車の中での会話を始めました。

「繰り返しですが、病院をお世話していただき、ありがとうございました。」

女性は丁重にそう言いました。美しいだけでなく声に温もりのある人で、何かの邂逅をわたくしは感じました。そのまま自然な流れで質問の続きをしました。 

「痙攣する前に聞いていたことと同じで恐縮ですが。お聞きした内容は覚えていますか?」

「…はい。」

「そうですか。」

「私からも、お伝えすることがあると思います。」

「お伝えすること?」

「はい。まずその、GPSの画面を見ていただけませんか?」

「画面?」

「はい。私もご想像の通り、自分に指示をしている人間のことを、目的も含め何も知りません。ただ、この画面の中にいくつかの手がかりがあるのかもしれないと。おそらく関係する人間が動いています。」

「関係する人間?」

「私が尾行していた人間は風間といいます。」

「風間ですか?」

「はい。その人間と同じようにもう一人、このGPSの中に入っているのが守谷という人間です。」

「守谷?なぜ?」

「二人の動きを追跡することが私の仕事だったからです。」

「いま、緑が我々、青が守谷ということですか。風間は?」

「風間は以前、オレンジ色で存在しましたが、もしかすると自分で気がついてしまったのかもしれません。」

「見当たらなくなった。」

「はい。」

わたくしを尾行し、そして同じように風間や守谷をこの女性は追跡をしていた、という。それでいて何も知らない。その尾行の理由も何も知らずに、このわたくしに逆に拿捕されている。わたくしは少し女性の危険を感じた。

「あなたは、風間と守谷を知っているのですね。」

「…はい。」

「なぜ、ご存じなのですか?」

「ご想像の通り、特に理由はないのです。」

「…なるほど。」

「ただ、名前と光の点として追跡をし、指示があればその作業を行っていたに過ぎません。」

急ぎ、画面を見ると、赤い髪の女性が指し示した青い光点が東京の地図を正に今、動いているのがわかりました、確か先刻最初に見た時は錦糸町のあたりに動かずにあったと記憶します。それが、東京の赤羽を超えて北上しているのがわかります、すでに埼玉に入っていくようでした。あきらかに車で移動しているのがわかります。

「風間のGPSが消えている今、ここに残る関係者は、彼だけになります。彼に会い、状況を確かめるのが、私は一番良いと思います。」

「この青い点を、追いかけるべきということですか。」

「はい。」








百八七 (軽井澤新太)

 わたくしは青い輝点の動く方角を目指して運転していました。赤い髪の女性は無言のままずっと座っています。

 女性の説明通り、おそらくこの青い点が守谷にちがいないのでしょう。青点は埼玉を秩父の方角に向けて移動していきました。下道を通り夕食でもとるのか時折止まったりしながらしかし、方向を変えることなく進んでいます。池尻、つまり渋谷をこの社用車(キャロル)が出たのは深夜の二時頃だったでしょう。もうすぐ夜明けが来るのを東の空が感じさせてはじめています。青い点はGPSの画面の中秩父山系の中の国道に入って行きました。

 辺りの景色が明らかに東京とは違う、間延びした暗闇になりました。信号も間延びし、おそらく秩父の森が黒々と眼前に立ちはだかるようでした。


百八八 朝焼け(銭谷) 



「銭谷。お前に提案があるんだ。」

「なんだ?」

「銭谷。お前は上り詰めろ」

「なんのことだ」

「銭谷、いいか、お前は、警察で上り詰めてもらえないか?」

「どうしたんだよ?」

「捜査一課長、もっといえばその上に行ってもいい」

「魔が回ってきたな」

「そんなことはない。なんなら、俺が定期的に銭谷に手柄を渡してやる。」

「本気で言ってるのか?」

「権力に近づくんだよ。そうしないと倒せない闇がこの世にはある。」

「警察の通常の仕事だろう。闇を倒すのは。」

「どうだろうな。」

「……。」

「おれは早乙女も含めて、いろいろな闇に飲まれ出していると思っている。」

「早乙女が?」

「ああ。」

「本気で言ってるのか?」

「銭谷。上に行くってことは、そういう闇とも向き合うってことだ。」

「……。」

「若いうちは真実を追求して刑事をやってる。でもみんな大人になる。家庭を持ち、生活や人生がかかっていく。一般的に、権力に近づく年齢がいちばん、陰謀の片手間をつかみやすいんだ。」

「……。」

「さらに言えば、登り詰めれば、人間的に尊敬もされるが、昇り詰めなければ、負け犬でしかない。人間として価値もない。そういう組織が一番危ない。」

「……昇り詰めなければ負け犬でしかない、か。ひどい言葉だな。」

「警察を見ればわかるだろう。俺には警察官の誰もが肩書きにこだわるせいで、どんどん人間の本質が薄まるように思える。警察が変化していると思わないか?昭和の昔はあちこちにベテランがいて、正義だけのことを話していた。出世なんかより大事なものを彼らは追っていた。刑事の本質だけを追求してな。そういう人が、教えてくれたことはたくさんあった。キャリアのやつなんか、何も知らないようなことがたくさんあった。」

「今はそういう人間に居場所がなくなったかもな。」

「ああ。そうやって、肩書きだけを人間が求め出した時、何が起こると思う?」

「なんだ?」

「外部の人間にコントロールされるようになる。」

「どうやって?」

「想像できるだろう。足を引っ張るのは簡単だ。」

「わからないな。」

「陰謀の組織が警察を裏から操ってるっていうやつか?」

「なんとでも言えばいい」

 ウィスキーが頭の中で血液のように回っている。バーParadisoのカウンターをカジノのテーブルのように撫でながら、金石は泥のように酔っていた。

「悪を追究していくと、理解が進むこともある。」

「どんなことだ」

「俺たちの仕事の、正義と悪魔は単純に二分されない」

「……。」

「例えば今回の六本木の件で、警視総監が犯罪者だったとしよう」

「それも大胆で無理のある仮定だな」

「ああ。でもそうやって仮定したとしてもやっぱり二十万人の警察そのものは本来悪じゃない。」

「ああ。警察官は一般的に、悪じゃない。」

「どうだろうな。まあいい」

「でも仮に警視総監が犯罪者なら、組織も犯罪そのものになるんじゃないのか。」

「いや違う。二十万人のほとんどは正義なんだ。」

「……。」

「単純じゃないんだよ。悪い奴が悪いというより、正しい奴が悪くなったり、悪い奴が正しくなったりを繰り返している。一つの行動結果だけでは決めきれない。ただ、命令系統の上位が犯罪を犯す場合、下位はそれを黙認しがちだ。」

「……。」

「そもそも、警視総監にもなって、なんで罪を犯そうとするのか。ということは、裏を返せば、そうせざるを得ない何かがあったかもしれない、ということだ。」

「どういう意味だ?」

「なにかの、誰にも言えない事情で、飲み込んだってことだよ。当然、命懸けの判断をしているはずだ。」

「……。」

「警察官人生を賭けて生きる幹部候補生が犯罪の片棒を担がざるをえなかった、ということさ。当然そこには警察官人生をかけた命懸けの判断があったはずだ。そういう判断をした上層部の罪を暴くってことは、その警視総監らと命懸けの対峙をするってことになる。そんなことをやろうとしている現場などがいたら、おまえがその警視総監の立場ならどうする?」

酔狂めいた言葉の所々は強い口調になった。金石は次の酒を要求した。

「人事異動だな。もしくは濡れ衣の懲戒だ。」

「六本木の事件には、そういう臭いがしているだろう。」

「警視総監が犯罪か?」

「個人を特定していない。上層部、権力者の誰かが、と言う意味だ。」

「そんなの陰謀だよ。悪意はバレるだろう。」

「どうだろうな。」

「……。」

「ただ、真実としてーーおおきな悪意が起きる場合、俺たちは常にそういう場所にいるってことだよ。」

「……。」

「陰謀の闇を調べれば調べるほど、そういう情報が増えていく。」

「警視総監が絡む闇か?」

「ああ。権力が調整をする闇の場所だ。この闇は絶対に暴かれなければならない。それを中途半端に止めることなんか俺にはできない。」

「やはり陰謀か。」

「ああ。いつもの陰謀だ。」

「……。」



 浴びるほどウイスキーを飲み続けたのはビデオに映ったその巨漢の男のせいだった。

 浴びたウィスキーがわたしをどうにもなりようのない過去へと繰り返し押し戻していた。

 わたしは石原の撮影したビデオを繰り返し再生した。後ろ姿に辛うじて映る横顔や、体格は金石そのものだ。二メートル近い巨漢の足を切断するわけには行かない。佇まいや少し動かす体の使い方の全てが金石に見えた。だが、もし金石だと明確に確信があったなら何杯もジャックダニエルを飲まなかったはずだ。映像は不完全だった。撮影者である石原は別の太刀川という人間を追っていて、この巨漢には一切焦点(ピント)は合ってはいない。

 敢えて言えば顔の印象が少し違う。帽子とマスクのせいなのかメガネをしているせいか、顔の確認が完全にはできない。

 わたしは食い入るように板の電話を睨み、何度も何度も再生し続ける。そして中毒者のようにウイスキーを無言で煽り続けた。金石のような、巨体。しかし顔の表情が見えない。マスクと、メガネと、帽子が計算された曖昧さを残している。また、もう一度、酒を飲み直す。ニコルソンは何かを察して、最後の客になった私を放置していた。わたしはウィスキーで潰れるまで飲もうとしていたが、どうやら潰れなかった。

 なぜかスマホの中の時計が四時になっているのを見た時、あと二時間で六時になるのだと思った。わたしは最後の一杯を一息に飲み干すと、思いついたように会計をした。ニコルソンはいつもと変わらぬ表情で、

「またぜひ。」

とだけ言った。ドアを開けると夜はもう終わりで朝が東の空に始まろうとしていた。

 外苑西通りはトラックばかりだった。天現寺から西麻布の、六本木ヒルズの影の街のような坂の下の一角のあたりまで歩いた。交差点近くに恐らく外国人向けのカプセルホテルがあった。客は誰もいなそうだった。六時まで、今から二時間だけ眠って見る。もし二時間で目が覚めたなら、太刀川のいる六本木駅の地下鉄車両を目指す。酒の勢いを借りて、万が一目が二時間で覚めるのなら映像では叶わなかったものを確かめに行く。そうとだけ決めてわたしは狭いカプセルの中にそのままの格好で眠りについた。

 目が覚めないことを祈ったのは本当だ。

 二時間後に場合によっては金石に会うかもしれないーー。

 こんな体たらくな自分を見せたくはなかったが、では逆に酒も飲まずにそんな場所に行けるかと言われれば、自信はない。わたしは深い眠りが日中まで続くことを祈った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る