殺人の二日前 (九月十三日)



百三十  朝の電話(御園生)


 レイナさんのメッセージを僕は軽井澤さんに転送した。すると、夜明けを待たずに返信があった。

 軽井澤さんは眠れていないのだと思った。

「ありがとうございます。わたくしが不甲斐ないばかりに、お気を使わせてしまいましたね。なるほど、昨夜レイナさんにそのようなお願いをしてもらっていたのですね。わたくしが手が回らず、打合せにも出れず、ごめんなさい。もしよければ今すぐ話せますか?」

テレビ電話を早々に繋げると、軽井澤さんと僕は形だけ、おはようございます、と挨拶した。僕の方で、画面にレイナさんのテキストファイルを映し出した。



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軽井澤

御園生


「ありがとうございます。いろいろ作業を気遣ってもらって。御園生くん、いくつか質問して良いでしょうか?」

「はい、もちろんです。」

「保護司というのはなんですかね。」

「保護司ですね、これは調べてみたんですが、ボランティアの一つみたいですね。」

「ボランティア?慈善か何かですか」

「ええ。更生に関係する仕事みたいです。固有名詞、ということではないかもしれないですね。」

「更生というのは、犯罪者などの社会復帰に関する仕事ということですか。」

「はい。例えば、刑務所を出た人の就職雇用などをケアしたりするようです。まあ風間と守谷の印象からして刑務所くらい出ていた気もするのでそこで共通したのかもしれません。」

「なるほど。」

ぼくが保護司を詳しく説明できたのは、他に調べるような言葉がなかったからだ。本来はこの検索結果で、地元の学校名とか具体的な人物名などが、重複が生じる予定だった。しかし、そんな明確な「世田谷小学校」みたいな言葉はそこになかった。

 軽井澤さんは、それでも気にせずに、ああでもないこうでもないと言いながら単語をひとつひとつ見てコメントをしていった。我々の名前以外で唯一に固有名詞に近い、江戸島という言葉にたどり着いた時に、

「江戸島というのはもしかして、地名だったりしませんかね?」

と言った。

 実はこれも違う。それもすでに下調べをしてある。江戸島は土地名だったり学校の名前の可能性も感じるのだが違った。幾度調べても江戸川橋や、江ノ島、という地名はあるけども、江戸島という地名はなかった。

 すこし珍しい人名だった。

「人の名前なのですか。二人の共通する人の名前だとすると面白いですね。それは気になりませんか?」

「はい。もしかすると、と思い、一応それは調べました。」

僕は淡々とそのことについて説明した。全てのWEBページ、SNSアカウントを江戸島、edoshimaなどで検索して見回したことや、そういう判りやすいアカウントはなかったこと、唯一ネット検索で出てくる人物があったことなどを説明した。

「唯一ネット検索で出てくる。それは、どんな人物ですか?」

「SNSのアカウントなどではないんです。」

「個人アカウントではない。」

「はい。そうです。」

「どういうことだろう。」

「いくつかの経済新聞などの記事で、名前が出るんです。」

「経済新聞?」

「はい。」

僕は、そう言ってチャットの方にテキストを送った。


X重工株式会社、代表取締役会長 江戸島昭二郎

経済団体連合会 理事 


「つまり、江戸島で、引っかかるのは、この人間だけです。」

僕はリンクでそういう過去のニュースを置きながら説明した。ニュースというよりX重工という会社のホームページや人事だった。それだけで十分に経済ニュースになるのだった。

「X重工の会長というか、経団連の役職者のひとですね。」

軽井澤さんはそう言った。

「お知り合いですか?」

「いえいえ。ただ、財界に名前の出る人物で名前だけ聞いたことがあるくらいです。」

「なるほど。江戸島、ということで言うと、かなり探しましたが、この人物しか出てこないですね。なので、この線も、ないのかなと思ってしまいました。」

「なるほど。」

「東証一部上場のX重工の会長と、風間や守谷が付き合いがあるように思えないなと。」

僕がそういうと、軽井澤さんは珍しく反論的に、

「そうですか。わたくしは少し気になるのですが。」

「ほんとうですか?」

「いや、勿論、全く普通はつながらない気はしてるのですが、逆に異質なのが気になるんです。」

「……。」

「そもそも、江戸島という経済界の重鎮の名前を、あの二人が共通にわざわざネットで時を同じく検索をしたのは、考えてみるとおかしい気がするのです。あの風間が、上場企業の役員の名前を調べますかね?」

僕はてっきり軽井澤さんが、他に取り付く島がないので無理にこの江戸島を掘り下げているのかと思ったが、意外とそうでもないらしかった。むしろ前向きに気になっているのだ。偶然、同じ言葉を検索する、それも、自然な言葉ではなく、普段日常使わない言葉を共通に検索窓に入力するーー。軽井澤さんは、その違和感を指摘して少し独り言のように呟いていた。ただ残念ながら、それ以上の事は思いつかなかった。朝早いのもあり、一旦電話を切ってお互い考えをまとめて、事務所で会おうとなった。

 二度寝をするにも勿体ない快晴だった。

 僕は事務所に向かうことにした。なんだか家にいるのが落ち着かなかった。それは、どこかで愛想のないレイナさんからのメールが関係もしていたのだが。ところが家を出て駅まで向かっているときに、ブン、と携帯が鳴った。

 軽井澤さんからのチャットだった。

 曰く、どういうやり方なのかわからないが、早速この江戸島と言う東証一部上場の大企業の会長室に電話をして、面会を取り付けた、というのだ。時計を見ると、まだ朝の七時をまわったところである。二段階も、三段階も早いその軽井澤さんの手順に私は少し驚きながら

「本当ですか?なぜ、そんなことが可能なのですか?」

僕はそうチャットで返したけれども返信は無く、しばらくして折り返しに電話が鳴った。

「わたくしも、無視されると思ったのですが、意外なことに時間をすぐに取ると言うのです。随分、開放的な会長ですね。」

僕は、軽井澤さんの前職が報道記者だったのを思い出した。この辺のフットワークの良さは、もしかしたら軽井澤さんのそういう前職の影響なのかもしれない。長閑なようで突然疾走する。ここぞというときに突然急激になるのだ。

 普通、大企業の受付に朝の六時に電話はしないと思う。大企業の朝は早いのか、軽井澤さんがどういう言い方をしたのかは知らないが、六時台の電話申し込みで、約束は今日の朝八時らしい。

「御園生さん、会長自らが、わざわざ会ってくれるらしいです。八時十分前に、二重橋来れますか?大手町の皇居の近くの二重橋の、X重工ビルです。」

僕は驚いた声を抑えながら、

「しかし、こう言うことって良くあるんですかね?どんな話し方をしたら約束を取り付けられるのですか。」

「いえいえ、大したことでも無いですよ。普通です。後ほど解ります。それと申し訳ないのですが事務所に寄ってもらい、例の葉書を持って車(キャロル)で来てもらいたいのです。いや、これはお願いしますね。車で。その後もあるかもしれないので。」

軽井澤さんは強引になっていた。彼なりの直感らしきものが動いたのかもしれない。ただ、昨日までの暗鬱より、少し強引で、躁が掛かった感じの軽井澤さんの方が僕も気が楽だった。時折、軽井澤さんはこういう熱を感じさせる時がある。

(同じ報道記者だったという、父もそういう感じだったのだろうか?)

父の仕事のことは一切知らないが、軽井澤さんの突然の強引さに、なぜか僕は父親の広い背中の記憶を思い出していた。

「大丈夫ですかね?」

軽井澤さんは沈黙していた僕にあらためてそう聞いた。

「はい。ちょうどいま、事務所に向かってるところだったので、ちょうどいいです。」

「それはよかった。では後ほど。」

僕はポケットのマツダのキャロルのキーを手触りで確認しながら、反対の手に掲げたスマホでX重工の住所を調べた。瞬時にGoogle Mapに、青山通りを皇居前で右折し三宅坂から二重橋に入る道のりが表示された。この早朝ならものの十分でたどり着くだろう。



百三十一 娘 (軽井澤紗智)


 家族で旅行などに行った記憶は少ない。品川の水族館、あとテレビ局の夏祭りと、サッカーの試合のチケットを貰って母と観に行ったくらい。一人娘としては、サッカーよりフィギュアスケート観戦の方を所望したけども、なぜか貰えるのは大抵サッカーのチケットだった。

 そもそも軽井澤家は家族行事そのものが少なかったのだと思う。父と母は、二人とも仕事中心の生活だったから、塾や習い事から帰っても二人が一緒に家で待っているなどということはなかった。

 今日、紗千は夜明け前に目が覚めた。

 夏の終わりとはいえ、まだ五時台ではすることがなかった。

 それだけの理由で、大学の一限が始まる前に、昨夜から引き続き既読無視のままの父に会おうと青山墓地裏の事務所に顔を出してみた。昨夜から連絡がないので、もしかしたら、事務所で寝落ちでもしてるのか、と紗千は考えたのである。

 広尾、乃木坂、外苑、どの駅からも遠いその事務所は、都心部の忘れられた場所のような隘路をたどる、風水が決して良いとは言えないだろう青山墓地の裏手の、崖の下にあった。歴史を感じさせる昔の石垣の名残がその崖を頼りなく支えている。大雨で土砂が崩れたら大変だなと思いながらその前を通って事務所の前に立った。

 事務所に来たのは久しぶりだった。

 やはり、父はいなかった。

 事務所に呼び鈴は無い。明確に探偵事務所だという説明もない。小さくドアに相撲文字のシールで軽井澤探偵通信社と貼ってあるけど気がつく人はいない、と思う。来客を歓迎してるとは到底言い難い、その事務所を眺めながら、自分の中にもそう言う遺伝子が流れているなあと感じる。紗千は、目立つ看板が好きじゃない。

 見た目は母親に似ている、とよく言われる。けど、父と母、二人のそれぞれの部分が自分に共存していて、こういう日陰に事務所を構える父の趣味は、紗千にも流れている。河川敷で暗くボクシングするのもそう。父と見た目は似なかったけど。まあそれが子供って言うものなのだろうか。性格は、どこか父に似てきたのかなと思うことがある。

 仕事ばかりしてきた父と母だから、お互いの理解が難しかったのだなと、突然思った。仕事をすればするほど譲れない誰にも説明できない場所ができるんだろうか。

「どちらさまですか?」

背中側から声がして振り返ると、その人はじっと私をみていた。急いで事務所の前を去って過ぎようとする紗千に、気さくに話しかけた。若々しくスーツ姿の青年だった。お探しの何かがあるような場所ではないという言い方だった。

「いえ、あの。」

まさか、軽井澤の親族だとも言い出せずにいると、その青年は少し怪しげに、わたしを見ていたけれども、

「西麻布からこの辺りは迷いやすいです。乃木坂駅はあっちです。少し遠いけど。それでは失礼。」

とだけ言って、急いだ風情で、まだ誰もいない父の事務所の鍵を開けて中に入っていった。背の高い好青年で、早朝からしっかりスーツにネクタイまでしていた。

 軽井澤探偵事務所であんな人が働いてるなんて紗千は知らなかった。



百三十二 会長室 (御園生)


「東証一部の会長は、普通、当日の朝の電話で知らない人には会わないでしょう。ははは。」

「お忙しいなか、すいません。」

「いえいえ。わたしは見ての通り、田舎出のたたき上げでしてね。そういう初対面のようなところは物怖じさせないのです。」

快活で良く伸びる声で江戸島会長は第一声を放った。美しく整えられた白髪と、眼光の鋭さ。抑えた笑顔、恰幅の良いスーツ姿。豪放磊落、という空気が表現に正しい。後ろの巨大な窓からは皇居や霞ヶ関が一望され、さも上場企業らしい豪奢な役員室であった。正直僕はすこし萎縮をした。

 軽井澤さんはしかし、その鷹揚な会長に対しても、全く躊躇怖じをした様子もなく

「恐れ多いです。この度は、有り難いお時間をありがとうございます。」

と言って、その後は、絶妙な挨拶の会話や僕の紹介などを続けた。顔面青白く体調の優れないのを除けば、軽井澤さんはこの江戸島会長室という場所で迫力負けもせず、ほぼいつも通りに、むしろ元気よく会話をしていた。そうして十分にお互いの胸襟を開いたところで、軽井澤さんが、少しずつ話の舵を切るのがわかった。  

 とある二人の男への脅迫未遂があり、会長はその脅迫周辺の被害に遭う恐れがある。その男達は随分と筋のよろしくない臭いのする輩である。二人とも江戸島会長のことを明確に口にしており、非公式の情報を警察が動くようなことになる前に入れておきたい、と、そういう説明を、軽井澤さんは、秘書に電話でしたらしく、まずはその事から噛み砕いて言葉を並べた。

 軽井澤さんの言葉にはさまざまな文脈が仕掛けを付けているなぁと思いつつ、僕は会話の行く末を見守った。風間や守谷が何を語ったか?そんな会話をしたわけではない。語ったのではなく、検索をした無限にある言葉の中で、江戸島という言葉が、重複したに過ぎない。そこには軽井澤さんの作為があった。

「ふむう。そうですか。まあ、名前も珍しいほうですが、江戸島って名前で引っ掛けたわけですね。」

「まあそうです。今のところは、彼らが共通して、江戸島というお名前を語った、ということのみです。」

「そういうことは、多いのですかね。」

江戸島会長はどうしたものかなという態度になった。

 とぼけているのだろうか?伊藤とか小林とは違う。ネットの上でもあなた以外、子供や若者含めて誰一人出てこない江戸島という名前なのだ。

「会長はご家族は?」

「実は独り身でして。」

「失礼しましたーー。江戸島という苗字は珍しいですよね。」

「ええ。富山がルーツと聞いていますが。まあ、ありそうでない名前なのでね。それから、お二人は、ええと」

「軽井澤探偵通信社です。」

「大変失礼いたしましたね。そうでした。」

少し遅れた秘書が白銀の什器で、お茶を出した。天井が高く、窓も壁一面に開放していて空を丸見えにしている。濠端を見下ろす最上階で一番の部屋である。

 間合いをうまく取りながら、軽井澤さんの話は少しずつ不気味な領域に入っていく。風間の猫の死体の話や、守谷の私刑に襲撃された様子を比較的細かく語った。その生々しい場面には、江戸島会長は経済界の大物らしい相好を崩さない態度を保ちつつ、適度に顔をしかめたり嫌悪感を示す反応をした。

「心当たりがないですね。」

「はい。」

「それで彼らは、警察には行かないのですか」

「二人とも警察には行かないのです。むしろ我々も勧めましたが。」

「それも変わった方々ですね。被害者なのに。うむ。あと、そもそもあなたたちは何故関係が?」

「元々は我々にコンサル依頼があったのです。」

軽井澤さんは上品に言ったのかもしれないが、単純に探偵事務所に連絡があっただけである。

「その流れで二人が被害を受けた場面で、或る意味で、追撃の目撃者になってしまってまして。そのことは話し出すと少しつまらなく複雑なのですが。このようなことを致す人々ですから組織的な犯罪の可能性もあります。つまり、我々は、無駄に組織に狙われる可能性があるのです。彼らはよくわからない連中で、人を殺めてるかは不明ですが、少なくとも猫は数匹殺してますが、そう言う、タガが外れてる可能性がありますから、関連した人間が、こちらに何をしてくるか予想もつかないと言う種類の恐怖でして。」

そこで無言になった。そう言って仕舞えば、我々だけでなく、名前の出ている江戸島会長も同じ危険性の中にあるのだというのは伝わったようだった。青白いくらい疲れた軽井澤さんの表情がその時すごく効果的に、江戸島会長を怯えさせる気がした。

「警察沙汰を嫌がるのは、何故なのでしょうね。」

「わかりません。ただ、会長のような立派な方々とは違い、世の中にはまあまあ、警察署に足を運びたくない種類の人間は多いかもしれません。」

「全く、変な話です。いずれ警察に行くべきことにも思いますが」

「ええ。ただ、相手を知らない中で、余り勝手に警察に動くのも、よくないとも思うのです。強い覚悟や悪意のある人間どもなら、刺激を無駄にさせてしまう恐れもあります。」

僕は黙って軽井澤さんの言葉を聞いていた。その考え方は初めて聞いたなと思った。

「そういうものですか」

「わたくしも、こればかりは分かりませんが、中々猫の死体を届けるなどと言うのは相当な覚悟がなければできませんので。猫を殺せますか?」

猫の死体という、大手町のビルに似合わない言葉が広い会議室を猟奇的に黙らせた。この時の沈黙が一番長かった。やがて、江戸島会長はしびれを切らしたように、

「うーむ。よくわかりました。ありがとうございます。あらましは理解致したのですが、この話を今どうしろと言われても、困ると言うか。」

軽井澤さんは、そこで、少し長めに呼吸をし、

「会長。そこで少しお見せしたい物がございます。」

そこで、軽井澤さんは、僕の方を見た。ああ、そういうことかと思った。プレゼンのように、筋書きを書いて話してるのだ。僕は、カバンから今事務所で壁から外してきたばかりの葉書を取り出して、机に置こうとすると、軽井澤さんの手が伸びてそれを預かった。そうして手品師のトランプのようにして葉書をゆっくりと一枚ずつ、見せていった。見ると、わざわざ消印の日にちを分けている。

 江戸島会長は、軽井澤さんの勿体ぶった態度に、少し目をキョロキョロとさせ、訝しげに軽井澤さんの手を追っていた。

「こちらはですね、この風間と守谷という二人が共通して恐れた葉書なのです。恐れた、というかこの一連の奇妙な出来事の首謀者が作ったと思われる仕掛けのようなものだと思うのです。」

「……。」

「この葉書八枚は、まず八月の六日に、このグループで送られたんですね。見てください。宛先は全部同じように手書きです。筆跡としては、誰か一人だと思われる手書きなのです。つまり犯人もしくは首謀者は、捕まることも恐れてはいない覚悟がある可能性があります。これが送られていて、そうしてこの六枚のほうが、そのまたすぐ後、三日後に送られているのです。この六枚にはこう言う文字が書かれてます。」

そう言いながら、軽井澤さんは、葉書をゆっくりと広い役員室のテーブルにくべた。葉書の位置を微妙に揃え直したりして、何かの間合いを図る手品師のような雰囲気があった。

「最初にこの八枚。三日後に、この六枚です。」

葉書のアルファベット側だけがみえるように、表面になってるものを裏返していった。

「こうやって、文字だけが、突きつけられるということです。」

役員室の広大な長方形の机の上には、手書きのアルファベットが十四個並んだ。八枚のグループと六個のグループが意味にもならない形で並んでいる。

 

六日消印 O C C N E E T R

九日消印 A A U W K S


沈黙があった。江戸島会長にとっては、何かコメントをすることもできないと言う代物なのだろう。手書きのアルファベットだけの並んだ葉書は本当に不気味に見えてしまう。普通の人生でこんな郵便物を受け取る機会などは無いのだ。

「こういう葉書を受け取った二人の奇妙な男が、何かに取り憑かれたように逃げ続けた。殺された猫が届けられたり、死ぬ寸前まで腕をもぎ取るようなリンチがあった。その別々の二人がそれぞれ共通して送られたのがこの葉書であり、共通して言葉にした固有名詞が、唯一江戸島さんの名前だったのです。逆に言えば他には然程共通することがなかった、とも言えます。」

軽井澤さんはそういうと再び、敢えて、なのか、言葉をしばらく止めた。江戸島会長の方がしびれて、

「ずいぶん、不気味なものですね。」

と、だけ言った。その言葉を受けても軽井澤さんは沈黙したままだった。僕にはその沈黙がすごく長く感じられた。そういう沈黙の合間におそらく会長の秘書が扉を何回か開けてこちらを見た。当然東証一部上場企業の会長ともなれば次のアポイントメントが入っているのだろう。

「まあ、普通に暮らしていて、こんな葉書が来るなんて事は無いと思います。何かの、嫌がらせでもない限り」

軽井澤さんは言葉を続けていたが、扉の向こう側から秘書が次のアポイントに対しての合図を送っている。江戸島会長は秘書の合図に気を配った。

「うむむ。申し訳ないがそろそろ次の約束の時間のようです。こちらは、この葉書で何かを結論と言うわけにもいかないかもしれませんが、貴重な情報交換の途中で申し訳ございません。今日は本当にありがとうございます。」

「あ、しかし」

「また、何かありましたらこちらから連絡させて貰います。」

磊落だった江戸島会長は、その言葉でわかるように我々に何か特に具体的な進捗を与えてくれなかった。僕はその態度で、江戸島という言葉の周辺に打つ手はなくなった気がした。何かを閉じる、そういう会話の終わり方だった。きっとそう簡単に何度もこの会長が我々に時間をくれないだろう。僕は意気消沈していく自分の体を感じた。しかしなぜか軽井澤さんはにこりと笑って言葉を颯爽と

「会長、我々も調べていることがあります。そちらがうまく行きましたらまた、ご報告に伺います。万が一、会長のお身体に何かがあっては大変ですから。」

軽井澤さんは、そう言って立ち上がった。



百三十三 受付追跡(赤髪女)

​​

 薬を体に入れた結果、昼夜がわからなくなっている。

 いや正確には体内時計の電池が切れていて時間を忘れている。夜明けを過ぎて完全に朝になった。いや、朝が何回も、通り過ぎた気がする、と赤髪女は思った。

 それでも眠くはない。

 眺めるのが癖になっているGPS画面の中で、緑の輝点が、動き出した。緑色は墓地の探偵の車、マツダのキャロルだ。

 赤髪女は、自分の頭が冴えるのが判った。実際にまたあのヘリウム指示者からの電話がくることを考えれば、なにか成果があった方がいい。次の入金を狙い続けなければ、また薬のお金に困る可能性がある。探偵事務所の車(キャロル)は南青山を地図の右上へと向かって抜け、赤坂を越え皇居の前を通っていくようだった。都会の真ん中で地図の水色がこんなにおおきいのは、皇居だ。皇居の濠端を走るくすんだ緑の車を想像した。もしかすると、あの美男子の探偵事務所員が運転しているのかもしれない。

 気がつくと、赤髪女はシャワーを浴びて、準備を始めた。別に他の仕事があるわけでもない。バッグに服を複数、秋葉原でも霞ヶ関でも目立たない準備をして家を出た。夏の終わりの朝陽が真横から射して、背中が熱かった。小田急祖師ヶ谷大蔵駅までは徒歩八分程度である。

 小田急線は千代田線に直結する。七時台で既にラッシュを迎えていた。車中、赤髪女はすることがないので、GPSを見ていた。マツダのキャロルは、皇居の濠端に停まって動かなくなった。日比谷通りという幹道沿いだった。

 二十分も経たない時間の後、赤髪女は千代田線二重橋駅から地上に出て、くすんだ緑の小さなマツダのキャロルを見つけた。皇居のお堀を背景に、水彩画のように停まっていた。

 朝の二重橋は当然ビジネスマンが多く、赤髪女はスーツを用意しておいてよかったと思った。大急ぎで女子トイレで着替えて地上に出たところで、ちょうど、あの美形の青年が車から降りて、年上の人間と日比谷通りを渡るところだった。

 赤髪女が遠目に尾行をしようとして距離感を測りかねているうちに、二人の探偵は、日比谷通りの御堀の反対側にある巨大なビルの中に吸い込まれた。赤髪女は焦って走った。ふたりが入ったのは赤いレンガの目立つビルで、X重工株式会社と記載があった。受付には複数の女性が並んで登録対応をしている。一番左の窓口で、探偵の二人が受付をしているのが見える。背後で見つめながら、大勢の出入りするその巨大なビルの一階フロアで赤髪女は人を待つフリをした。帽子が役に立っている。二人が受付を済ませ、エレベーターホールに吸い込まれていくのを確認してから、急ぎ同じ受付の女性に小走りで向かった。いちか、ばちか、だと思った。

「いまの軽井澤事務所、のものですが」

「あ、はい?」

軽井沢、と言われて反応したのがわかった。しめたーー。まさか探偵事務所とは名乗っていなくても、普通、アポを偽名にまではしていないはずだ。どこか出入り業者の風情をさせたのだろう。

「上司のアポに遅れてしまい、直接行きますが、何階ですか?部署がわからず」

受付嬢は、若い新人のようで、困った人間を助けたい様子で、説明をした。

「こまりましたね、どうしよう、会長室なので。」

「はい、会長でしたよね、確か名前が。」

「あ、江戸島になりますが、ええと。」

「そう、江戸島。大丈夫ですよ。社員の方に聞きながら上がって見ますから。その前に、化粧室に行きたくて。」

「あ、それでしたら、入ってすぐ右にございます。」

赤髪女は満足した。アポの相手まで調べることができたし、この赤煉瓦のビルに探偵二人が入っていく写真は既に撮れていた。これで、また当面の報酬は安定するだろう。

 行き先を教えてしまった受付女性を残して、赤髪女はエレベーターホール近くの化粧室の方に吸い込まれていった。



百三十四 役員廊 (御園生)


「まあ、ぜひいつでもいらしてください。」

そう言った江戸島の言葉には明らかに壁があった。こういう壁を大企業的な人間はあちこちに設置するのだろう。

 僕は少し落胆気味の気分で、豪勢な会長室から待合を出てエレベーターフロアのほうに向かった。待合には、何人かの次のアポの出入りがあったり、陳情のような賑わいがあった。

「次の約束もたくさんあるんですね。朝一番は正解でしたね。」

軽井澤さんは、ぼんやりとそういった。

「あれ。」

僕はその待合に、どこかで見たような人間がいたのを思い出した。

「誰でしたっけ?」

「誰?知り合いですか?」

「誰だろう。」

「わたくしは全く知り合いもいませんでしたが。」

「多分、思い出しました。ネットバブルで名を馳せた、僕の世代ではまあまあ目立つ男ですよ。たしか、東大の。」

「残念ながら。存じ上げません。そうですよね、御園生くんの世代は結構若くして成功した人がいるでしょうね。」

僕はその男のことが気になっていたが、軽井澤さんはエレベーターを降りる間も、別のことを考えている様子で、余り興味を示さなかった。

(思い出した。たしかあれは太刀川、太刀川龍一だ。パラダイム社の創業者の。一時期かなりテレビで出ていたのに、まったく見なくなったな。)

僕はなんとか思い出したその名前を軽井澤さんに言い出しもしなかった。やはり、軽井澤さんは明らかに他のことを考えている様子だった。

 我々は古めかしく巨大な赤煉瓦のビルを出た。


百三十五 隅田川 (銭谷警部補)


 夜明け前、河川敷から自宅に戻ってもほとんど眠れなかった。

 ウィスキーの興奮なのかわからない。

 謹慎の身で、どうしても金町の駅から千代田線に乗る気にならず、休日に重宝する京成の方に乗り、下町から浅草に流れ着いた。行き場のない気分のまま、わたしはまた遊覧船に乗った。

 桟橋を離れた遊覧船は少し秋風の強まった隅田川をくだった。厩橋、蔵前橋、両国橋と船が行く。二日酔いのアルコールが風とともに抜けていく。

 もともと、刑事という仕事が好きだった。肌にあっていると信じてきた。四十歳を過ぎ、結婚や家族じみた幸福を素通りしてきたのだが、そこに寂しさなどはなかった。刑事の仕事そのものが、自分の全てと思えていた。

 犯罪者を追う。犯罪を犯した悪人を追う。最終的にどんな手段を使ってでも、それを逮捕する。単純な仕事なのだ。単純だが、正義は人間を癒す。やりがいを与えてくれる。日本中の刑事が安月給の重労働に耐えうるのはこの正義の美しい癒しが存在するからだろう。正しい方角へと自分を定めて仕事に向かうというのは、身体にも良いのだ。大岡忠明も遠山金四郎も、きっと似たような実は単純な喜びで生きていたはずだ。

 日の出桟橋で降りて、いつもの通り何もないままもう一度、今度は帰る便に乗り直す。

 遊覧船は浅草へと戻りはじめる。

 わたしは職業を変えたいなどとは思わないし、他のことができるとも思わない。こうやって、仕事を奪われた休日でさえ、未解決事件に思いを馳せ、ノートを眺めるくらいなのだ。家庭人が休日に子供の野球相手に張り切るように、わたしは休日も刑事だった。それは仕事を誇ると言うより、正義の依存症に犯された古い機械のようなものだ。時間を忘れて、捜査の不足部分のパズルを埋めるよろこびの他に、休日になんの趣味もない。それくらい自分にとって面白いのが刑事の仕事なのだ。

 知らない番号が官製のほうの携帯電話を鳴らした。

「休日は遊覧船でしょうか?」

声の主は唐突にそう聞いてきた。わたしは自分のこの趣味を人に言ったことはない。

「先日はありがとうございました。じつは、定年間際に、事件も抱えておりまして。ほら、わたしももうこの年齢、この立場で、部下もいないときています。なかなか仕事も進まないのですよ。そこで、もしできれば、あなたのような優秀な人にご相談できないかと思いまして。」

「……。」

「少し話しませんか。浅草あたりで」

声と内容でわかった。松本楼でカレーを食べた老刑事又兵衛だった。金石と関係を持つA署の老刑事だ。なぜ彼が、わたしの番号を知っているのか。そうしてなぜ遊覧船に乗っていて、もうすぐ浅草に向かっているのを知っているのだろうか。偶然で処理される内容ではなかった。

「言っている意味がよくわからないが……。」

「浅草寺の、仲見世にいい場所があります」

なにかわたしを探って調べているのは確かだろう、その不気味さと一緒に、松本楼のカレーをおいしそうにしていた小動物のような瞳を思い出した。

「小生は、今日は浅草にいまして。もしご都合が合えば。」

「……。」

「非番の時に、浅草で船に乗ると聞いたもので思い切って電話して見たのですよ。」





百三十六 二重橋 (石原)


 石原里美巡査は、大手町の三菱通の路地裏のベンチに座った。周囲を少しだけ気にして視線のないのを確認してから、つけ髭を取り、帽子をカバンに入れ直した。朝から優雅な丸の内のカフェに入る気にはならなかった。

 今朝少し前に太刀川は二重橋駅で地下鉄を降りた。乗り換えるのではなく、地上に上がった。出口のすぐ上のオフィスビルに入って行った。ビルの名前はすぐに分かった。X重工株式会社と言えば、日本有数の大企業である。大手町に巨大な赤煉瓦の自社ビルをかかえている。今日は夕方からではなく早い時間から人に会うようだった。

 石原は、さすがにオフィスビルの中までは追えず大手町の道端で一人になったのである。

 しかし、石原はむしろ少し前向きな興奮の中にいた。

 今朝の地下鉄で初めて撮影カメラを回し、太刀川の朝を映像にすることに成功していたのだ。

 太刀川に絶対に気がつかれないため多くの工夫をしている。石原は撮影中一才、視線も体の向きも変えない。隣の車両の席に座り、太刀川の方角でなく、目の前のスマホを見る。膝の上に置く鞄の脇腹に穴をあけ中に小型カメラを仕込んである。小さな穴からカメラで撮影導線した映像の太刀川をスマホの画面で見るのである。つまり石原は、中年男性が携帯ゲームをやっている姿で、太刀川のいる車両を細かく盗撮しているのである。まるでスマホゲームに熱中するように画面を見つめているだけだから誰も気づきようがない。

 撮影できた情報には、単純な目視の尾行よりも余程情報が多い。画像には、太刀川の二重橋までの姿が自分の目で見るより余程正確に記録され、それを事後に、幾度も見直すことができるだろう。実際に人間が見て生で把握する数十倍の情報量があると感じる。石原は自分が幾度も太刀川の映像を見直せることに興奮した。たとえば、太刀川の視線や目を合わせた人物など、これまで自分の目の前で消えていった情報も、撮影した映像を解析する中で、見えてくるかもしれない。

 石原は率直に、この映像を早く銭谷に見せたいと思った。

 

百三十七 慈善提案(太刀川龍一) 



「江戸島さん。私のアポの前に入っていた、変わった風情の奴らは誰ですか」

「ははは。そんなことになぜ興味があるんですか。なんだか、探偵でね、ネット上で私の名前が使われたとかで。心配してきてくれたんですよ」

「ああ、そういう人たちですか。ネットですね。」

「きみの、引退されたネットですよ」

「ははは。引退なんかしていないですよ。ぼくは。」

「そうなのかい?ちまたでは、メールもつながらないから困ると聞くよ。」

「ははは。江戸島さんまでそう見ていただいてるのは恐縮です。」

「まあ、秘書が困るということですよ。連絡先がないと、アポの時間を変えられないのでね。ネットを否定されてる太刀川さんにいうのもあれですが。」

「いえいえ。ネットは引き続き世の中を動かしていますよ。可能性がないから去ったのではない。むしろ可能性がありすぎるから自分でそこにいるのが怖くて辞めたんです。ぼくは、自分の個人アカウントを全て捨てただけです。世の中がどう動いているかは、引き続き、ぼくなりのやり方で把握せねばならないと思っていますよ。」

「ほう。どんなやりかたがあるんですかね?」

「まあ、模索中です。人類は、便利なものを使いだすとやめられませんからね。宗教革命、産業革命、情報革命、全て技術革新からですから。」

「なるほど。」

「江戸島さん。僕のことを、世捨て人みたいに言わないでください。いろいろなやり方があるということです。」

「そりゃそうか。」

「まあ、あんな物を四六時中見てると体に悪いですから。」

「依存症になってる人も多いと聞くよね。」

「開発した人間はスマホを子供には触らせなかったと言われてます。」

「うむ。なるほど。」

「と、江戸島さん。お忙しい中ですよね。用件がなくても会長とはお茶飲み話もしたいんですが。」

「いえいえ。ちゃんと三十分は時間をとっていますよ。」

「はい。今日は、先日のお話であったフィランソロピーの件ですね。あれを酒飲み話で終わらせるのはもったいないと思っていて、もしできれば会長のポケットマネーでも頂こうかなと思った訳です。」

「相変わらず、大胆な説明ですね。ははは。」

「いえいえ。大企業はお金の使い方を知らないですからね。大学関係者は投資というものを知らない。だから産学ともに成長しない。あれだけの予算を使って何一つ成功しない。」

「耳が痛いね。」

「慈善事業は投資ですよ。株価でなく世の中の価値を上げる。世の中がほんとうの意味で前進することに江戸島さんが興味ある人間なのは僕は知っていますよ。だからこうしてやってきた訳です。」

「相変わらず、うまいプレゼン導入ですね。」

「まあ、ちゃかさないでください。ご紹介したい慈善事業は幾つもありますが、今回は脳死関連です。脳死、植物人間というのは奥が深くてですね、いろいろな不条理があるのですよ。その周辺で例えば臓器移植っていうのもある。」

「心臓だ、腎臓だっていうあれですね。」

「はい。おおよそ、こういう世界は純粋にならないんですよ。特に医者というのは権力争いがひどい。たくさん、おかしなところがある。僕は今、医療周りを色々調べています。これは面白いですよ。」

「不条理を許さないですからねあなたは。」

「人間として当然ですよ。」

「あなたみたいな子供がいたら親も楽しいでしょうねえ。」

そのような話をした後、太刀川はテーブルに資料を出して自分が取り組んでいる慈善事業の一部について一通り説明を行った。江戸島は太刀川の話を熱心に聞く様子だったがふとするとどこかで少し心が落ち着いていない様子があった。理由がわからなかった。太刀川は、ふと、少し前に来た奇妙な探偵らに心を半分奪われているのではないか、と感じた。部下の報告くらいで、心がおちつかなくなるような江戸島会長ではないだろう。

「…大企業経営者には社会への責任がありますよね。世の中は課題ばかりですから。少子化。子供の貧困。医療問題…。」

プレゼンは頭の中でシナリオも決まっており、太刀川は、酒を飲んでいる時よりもよほど快活に話を続けていた。彼自身インターネットに触れていないせいで、こうやって人間に生で話すことが楽しいのである。

「なるほど。面白いですね。日本の大企業の社会的責任は、考えていかねばならないテーマだと思います。」

江戸島は少しずつ、集中を直してきた。

「そうですよ。江戸島さん。わかってきましたね。」

「まあ前向きに、というか、具体的にやろうと思いますよ。大企業の社会的責任というのは、いろいろ言われるから。大した予算じゃないですしね。」

江戸島は集中力を欠いたことを詫びるように、言葉に色を付けた。

「ははは。そうこなくっちゃ。」

「しかし、よく調べている。」

ふとそこで今度は逆に江戸島のほうが、首を傾げた。

「これ全部自分で調査ではないでしょう?パラダイム社を辞めてから、太刀川さんは、色々動いているけどオフィスというかスタッフなどはどうされているのだすか?」

「スタッフですか?」

「ええ。これだけの資料だとご用意も大変でしょうし。資本はお持ちでしょうから、色々雇用されてるのかと思いまして。」

「……。」

「確か新しい会社を作ったという話は、お聞きしていなかったなと思ったんです。」

「まあ、色々ですね。」

「オフィスはどちらで?」

「……。」

こんどは太刀川のほうが明確にそこで黙った。そうして少ししてから、

「オフィスはないんですよ。まあ、強いて言えば自宅というか。自分一人でやっているんで。」

「自分一人ですか?ほんとうに?」

「そうですね。人を雇うと色々面倒で嫌なんです。」


九+ 実験番号3219 


すいへいりーべ

すいへいりーべ


テレビのニュースのような音が、小さく聞こえる時がある

言葉まではわからない

水の中に潜ったときの水面の上にある世界

そもそも見えないし、キラキラ網膜の向こうで蠢いている

呼吸は苦しい

いつも苦しい

僕は水面の下にいて、空気のある場所で何かが動いている

世界が回っていくのを感じている

でも、それは水の外だ

朝と夜はわかる

気温を少し感じてるからではない

朝はこの星が何かをつなぐ、不思議な変換があるのだ

流れる粒子や僕の体の中にある分子構造が、共振する

反して夜はそれとは逆の方にゆっくりゆっくりと進んでいく

そうやって僕は朝と夜を数えている

その数を記憶してあの日からどれだけの時間が経ったのかわかるようにしている

誕生日を覚えているから両親と、弟二人の誕生日を祝っている



すいへいりーべ

僕のお船なにまがる

シップスくるある


水素、ヘリウム、リチウム、べりうむ、

ぼくは元素記号、の配列が大好きだ。水素は一番。ヘリウムは二番。背番号。電子(マイナス)の数と陽子(プラス)の数は同じ。水素は、電子ひとつ、陽子ひとつ。最初の満員が二席まで。最初のK殻は二つで満員。次のL殻は八つで満員。満員が安定してて、酸素Oは八番だから、Lの満員には二つ足りない。だから握手する手が二つ。炭素Cは六番だから手が四つ。ダイヤモンドが硬いのは、炭素が六番だから。ジャングルジムの三角形のかたち。これが世界で一番強い。炭とおんなじものが、立体に結晶するとダイヤモンドになる。数字って面白い

蝉はなぜ7年、11年、13年と土の中にいるのか?

ぼくは数え始める

元素という数字が世界を作ってる。

ぼくのからだも、こころも全部、番号の結果だ。

そういう番号がたくさんになっていくと席が安定しなくなっていく

自分で電子を外したりして、放射能になっていく



すいへいりーべ

すいへいりーべ







百三十九 濠端のアスファルト(御園生)  


 軽井澤さんと僕は、二重橋前の赤煉瓦ビルを出ると、ぼんやりとした。なんとなく青空の方角を求めて、皇居の側に歩みを進めた。しかしぼうっとしたのは僕だけで、軽井澤さんは

「御園生くん気がつきましか?」

と、問うてきた。

「えっ。何がですか?」

僕は、会長室の待合にいた太刀川龍一という東大出の経営者の名前をかろうじて思い出して、彼の周辺にあった当時の賑やかな富裕層のこと回想していたのだが、軽井澤さんはその話題ではなかった。

「御園生くん。江戸島会長は葉書を見て少し表情を変えましたね。」

「え、ほんとうですか?」

僕は、少し驚きつつ、江戸島会長が葉書を見た場面を思い出していた。意味不明の葉書をいきなりテーブルに並べられた江戸島会長の対応は一般的なものにしか僕には感じられなかった。しかし軽井澤さんは、

「わたくしには、江戸島が、葉書を見つめながら文字を追いかけているように思えたんです。」

と言い切ったのである。

「文字を、追いかける?」

「ええ。やはりこの葉書は一連の文字列なのだと思うのです。つまり、六日の消印のものが一つ目、九日の日消印のものが二つ目の単語になるんだと思います。それがどうしても知らない人には見えず、知ってる人にだけ見えるようになっている。」


六日 O C C N E E T R

九日 A A U W K S


「でも、江戸島会長はまさか、知らないですよね。それを。」

「ええ。普通は知らないはずです。でもなんだか、引っ掛かるのです。話している間も、わたくしには、彼が驚くところと質問すべき場所が少しずれているというか。つまり、心ここにあらずだったのです。」

「……。」

「そもそも、わたくしには違和感の前提があります。」

「前提ですか?」

「ええ。彼が、我々のような人間のアポを朝一番に用意したことです。」

怪しい脅迫めいたリスクの話を秘書経由でする軽井澤さんの作戦がうまくいったからだけなのでは、という言葉を僕は喉元で止めた。

「だってご覧になったでしょう?待合室を。その後もあれだけ待たされてる人がいるんですから。わたくし達のアポが朝の八時に後付けでねじ込まれたとしか思えないです。そうなると明らかに不自然です。」

「……。」

「江戸島会長は、我々の言うような話に関わる過去があるのかもしれない。」

「結構、大胆な仮説ですよね?」

「ええ。ですが、風間と守谷が江戸島と検索する理由がある限りは、大胆でもないかもしれません。」

僕は元々、風間や守谷のような人間と江戸島会長のような人間の暮らす世界は違うと考えていた。住む世界が違うものが関係するとは思えない。知り合いも共通の人間もないはずである。僕は軽井澤さんの仮説に簡単には肯けずにいた。

 我々は折り合わない見解を紛らわすように、漠然と青空の広いほうに向かった。結果、皇居に向けてゆっくり歩いた。夏のあとの午前だった。陽光が真っ青な堀端の芝生をサトウキビ畑のように光り輝かせていた。

「大胆かもしれません。これは仮説なのですが、多分彼にも、守谷と風間のように、文字が見えるのだというと、いい過ぎますかね?」

「江戸島会長にですか?」

「江戸島は多分、何かを感じたのでは無いか。葉書を見ていた眼差しが気になりました。そのあと、我に帰ったように、知らぬ存ぜぬとは言いましたが、わたくしにはむしろ芝居じみて見えたのです。」

そう言い切ると、軽井澤さんは、手帳を広げて文字を書き始めた。そしてお濠端で少年のようにしゃがみ込み、その紙を破ってアスファルトに切れ端を並べ出した。。

「この六文字を見て、何かイメージが湧いたりしませんか??」


 井 園 澤 生 御 軽 

  

なんのことだろう、と、眺めてから、しばらくして、ああそうかというのが、空から落ちてきた。

「そうですね、我々の名前ですかね。」

「そうです。最初はなんのことかわからないけど、少しして脳裏に落ちてくる。そして一度見て順番が脳内に出来上がると、むしろ、その文字の方が先に感じるようになって他の言葉は見えづらくなる。」

「…まあ、この場合は名前ですから。」

「そうですね。ただ同じように六枚、六文字の文字ではあります。」

「でもーー。」

「軽井澤や御園生という名前を、もし全く知らない場合、いまの我々の脳裏に見ているものは見えないと思いませんか?」

「……。」

「つまり、共通の前提がある場合、他の人が見えない物が見えるという意味です。もしそれが、名前よりももっと記憶に残るような言葉だった場合、例えばその過去の犯罪に関わるようなものだった場合、そのトラウマが必要以上に文字を見せてくる、という気がするのです。犯罪を犯したことがないので、これはわたくしの仮説です。うまく言えませんが、わたくしには江戸島のあの目の動きが、何かを追いかけたように見えたのです。」

「……。江戸島会長が犯罪者ということですか?」

「いや、そうまでは思いません。でもなにかの関係者なのかもしれません。目の動きが、なにか文字を追いかけたようにも思えて。」 

「……。」

「考えすぎかもしれませんが、私には不思議に感じたことがあるのです。江戸島会長は最初にこの葉書を見たときに非常に奇妙な顔をしました。その後に六日消印のものと、九日消印のものとを別々に、それぞれじっくりと見つめました。奇妙だと思ったのはその後です。と言うのもある一定の時点で、葉書を見つめるのをやめたのです。」

後半は葉書から話題が離れたからではないですかね、という言葉を僕は喉に止めた。軽井澤さんは話し続けた。

「葉書を見るのをやめた、のには二つの可能性があると思います。一つは奇妙な葉書そのものに興味を失ってしまったということです。見ても意味がないし、もともと興味もないという事です。」

僕はそこは素直にうなずいた。その通りだと思ったからだ。

「もう一つはこの十四枚の葉書の意味が読み取れてしまったせいで見なくてもよくなった、ということです。わたくしは後者に思えたのです。少なくとも会話の中では、江戸島会長は葉書に最後まで興味を持っていました。それなのになぜか葉書を見つめ直さなかったのです。つまり我々と違い何度も見つめ直すと言うことをしないのです。われわれはこれまで幾度も幾度も、この葉書を見つめたでしょう。それは答えが出ないから見つめたのです。しかし答えが一回見えてしまったものにとっては、こんなものは見つめ直す必要の無いものになるのです。なぜなら既に脳裏に並んでしまえば、見つめて並べ直す意味がないからです。その証拠に、風間も守谷もこれらの葉書を、大事に扱っていない。」

そこまでいうと軽井澤さんは無言になり、また昨夜までの暗く青い顔に戻った。僕はそこで軽井澤さんの言う通りだと、賛成をしてあげるべきだったかもしれない。

 軽井澤さんと僕は、押し黙ったまま濠端から大手町二重橋のオフィス街に戻る方向に歩いた。

 軽井澤さんの弁舌には一理あるかも知れないと思いつつ、僕はなんだか気持ちが乗らないままだった。あの日本を代表するX重工の会長のような人間が、猫の死体とか歌舞伎町のあの守谷のような場面とつながる気がしなかったし、軽井澤さんが言うような細かい表情のアヤも自分には殆どわからないままだったからだ。

 軽井澤さんは一段と、表情が青白くなっている。思い詰めて近寄り難いどこか壁のようなものがある。そのくせ突然堀端でノートを破って江戸島との会話について力説して会話をして解説をしたりする落ち着かなさもある。こういう事は普段の軽井澤さんにほとんどない。僕はさすがに不安になっていた。むしろこんな薄気味悪く、生産性のない風間や守谷のことで悩むより、さっさと距離を置いてしまうべきだと軽井澤さんには伝えたかった。しかし軽井澤さんは、

「御園生さん。一つお願いがあります。」

と疲れた眼差しのまま僕を見て次の話題に向けた。

「はい。」

「今日はこの後、江戸島を尾行できないでしょうか?お願いをしてはだめでしょうか?」

「江戸島を、ですか?」

僕は少し呆れたように返したが、軽井澤さんはさほど対応を気にせずに

「わたくしのほうでは、風間と守谷の履歴周りをもっと調べてみようと思います。ひとつ気になることが実はあるのです。」

軽井澤さんは熱をもってそう言った。

 と、その時だった。

 周囲を見ようとする僕を、差し止めるように手を取ると、疲れた眼差しに少し恐怖を集めた軽井澤さんが、

「ちょっと、動かないでください。」

と、押し殺すよな声だけをさせて

「どうだろうこれは、困ったな。」

と言いました。

「どうしました?」

「ええと、もしかすると、おかしなことになってるように感じます」

「おかしなこと?」

軽井澤さんは二重橋から大手町の中心部へ抜ける遊歩道の入り口で歩きながら、

「御園生くん、以前我々の事務所に不審者があったとおっしゃいましたね。たしか、守谷の事件のころです。」

「ありました。たしか、三日前の朝で、風間の葉書が届いた日です。」

今朝も似た不審者がいたと言う事は僕は口に出さなかった。

「どんな人でしたかね。」

「女でした。」

たしかに、どちらも、女性だった。

「なるほど。そのまま。足は止めないでください。」

軽井澤さんは、なんだか意味不明なことを言いだした。

「えっ。このままですか?」

「そう。真っ直ぐ前を向いてください。」

と小さな声をだした。軽井澤さんは、こちらをむいていない。

「そのまま。首の向きを変えず真っ直ぐ前を向いたままです。」

「はい」

「まっすぐ。そう。自然に。その先を右に曲がりますよ。」

「軽井澤さん、車はそちらではなく、反対の方がきっと」

「今大事なところです。」

軽井澤さんは、そう言ったまま真っ直ぐ歩き、道を曲がった刹那、

「後ろを振り返っては駄目です。わたくしはしばらくこのまま真っ直ぐ歩きます。ほらご覧なさい。そこにあるビルです。」

「ビル?」

横を向かないまっすぐ前を見てままで、軽井澤さんは

「この大きなビル、確か中がホールになっていて抜けられますね。ここでこのまま別れましょう。御園生くんは、ビルに入ってしまってください。必ず振り返らずに。わたくしはこのままずっと歩いてみます。」

僕は何のことだかわからなかった。

「今日は、このまま別行動しましょう。御園生くんは、江戸島の尾行をしてみてください。勿論できる範囲で構いません。多分、日中はビルの中ですから、どこかで家に帰るところを尾行を試みてもらえると助かります。実はそう思って車でおねがいしたのです。わたくしはちょっと別の行動を考えていまして、すいません。では、ここで。」

軽井澤さんは僕に左折を促すと、そのまま直進していってしまった。



百三十九 自問自答(軽井澤)

 

 御園生君と話しているとわたくしは、さまざまな事を思い詰めてしまう性質がございます。これはわたくしの問題であり、彼の問題では一切ないのです。そういう、自分自身の自意識の過剰は、わたくしの課題です。思えばそう言う、さまざまの出来事に気持ちよく打算的になれない性質がわたくしの欠点でもあり、適応能力のなさとも言えます。わたくしは、そういう性質なのです。ひとつのことを強く確信してしまうと、それに囚われて他の思考の自由を失います。物事を全部、過去から未来へのひとつの直線に並べて悩むのです。そうしてその直線が整理できない部分を繰り返し思い悩むのです。

 この数日間、わたくしはトラウマのように、過去の自分に対峙しておりました。風間からの打診、意味不明の葉書、手書きの文字列、凄惨な守谷の私刑、風間の音信不通、公衆電話の告白、つぎつぎと続いた一連は、ひとつの直線の列に並びながら、わたくし自身の過去のとある方向へ収斂するのです。脳裏に直線的に並んでいく。並ばなくていいのに勝手に並んでいく。そうして、わたくしは誰にも説明しようのない、共感されるべきでもない、懊悩へ落ちていくのです。

 例えば心を病んだ自殺者がどこまで正確にその理由を説明しても賛同する人は稀でしょう。不気味で後ろ向きな精神の暗鬱作業を、誰が楽しんで紐解くでしょうか。死ぬことで世の中を前進させるという驚愕たる覚悟ならまだしも、ただ自分の檻の中で壊れていくものを人間は見たくはないのです。敢えて言えば、わたくしの心は、そういう檻の中の病理であり、誰しもと共感のない藪の中に向かう種類のものなのです。

 脳裏を世界地図に例えるなら、冷たい北極の海のように人心を消し去った方角です。冷たく遠く理解の及ばない方角です。氷の絶海に心が彷徨います。娘の紗千が悪に犯される白昼夢が重なるのも、そのひとつです。悪夢は墨が滲むように広がります。それでいて少しずつ、その冷たい海の方角に収斂していく。わたくしはそれらを意識し続けながら、できれば思い出したくない、悪霊でも振り払うように、蓋を被せ、避けることを続けるのです。



百四十 警視庁六階(石原巡査)


 石原は本庁に入ると六階の自席に向かった。

 久々に、気が晴れた感じでフロアを歩けるのは、今朝の仕事がかなり自信を持てたものだったからだ。機材も順調だったし太刀川含めて誰も撮影されたことに気がついた人間はいないはずだ。そのデータが自分個人のクラウドの中に既にある。荷物をまとめてロッカーに置いて執務室に入った。

 いくつかの雑務をはじめると、後ろのスペースで雑談が聞こえた。束の間の事件がふと少なくなる時がある。そういう狭間は、刑事たちのちょっとした休息日でもある。楽しそうに会話しているのは小板橋だった。もともと会話が好きなのである。

「…へえ。銭谷さんが…。」

石原はふと気になった。

「…そうなんだ…。」

パソコンを静かに叩きながら、石原は指先ではなく耳のほうに集中していた。自分に関わることだろうか?ただ挨拶もしたので、彼らは石原が室内に入ってきたのには気がついている。自分に関わりがある話題なら会話を止めるはずだ。

「老人?」

「A署の人間さ。…俺は知ってる」

「ああ、小板橋さんも、A署でしたよね…」

「…なんでそんな人と?」

会話は続けられたが、石原里美が気がつけたのはそれくらいだった。老人という言葉だけが少し残った。引き続き、パソコンだけを見つめながら、背後の声を拾おうとしたが、その後は声は絞られてしまい、ほとんど会話も止まっているように思えた。

 石原は幾つかの報告書の整理の方に集中し、溜まっている作業の方を一気に処理しようとしていた。雑務は早々に終わらせて、今朝撮影したものをゆっくりと分析したかった。

 ふと、背後に気配がした。話をやめたのか、当の小板橋が、石原に声をかけてきた。

「おはよう。」

「おはようございます」

「突然明日、だけど、若手の送別会をやるんだ、顔出せないかな。」

「送別会ですか。」

あまり話したことはない、交通課の人間が、H署に移動になるのだった。小板橋はこういう懇親会を積極的に開催して幹事を務めることが多い。

 石原は迷った。飲んでる暇はない。が、なんとなくこういうものに顔を出さないといろいろな意味で良くないような気もしている。同調的な理由というか、まだ転配属されたばかりの石原には懇親会も立派な仕事かもしれない。

「まあ、いろいろあるからね。」

石原の心理を察してか、小板橋は含みを持たせたような言い方をした。

「いろいろですか?」

「深い意味はない。飲みの席で話したいこともあるってことさ。」

小板橋は間合いのある表情をした。何故か先日、小板橋と銭谷警部補が太刀川を事情聴取した際のことを、今ここで言い出すのではないかという気配があった。石原が銭谷警部補とその後、何か話していないか?と言う言葉と一緒に。

「はい。」

石原は気づかれないように唾を飲んだ。何もなかったように小板橋を見て返している。すると小板橋は、

「じゃあ、明日。忙しいだろうから、少し顔出してくれればいいさ。最初から最後までいなくたっていい。」

と、幹事らしく気を遣ったことだけ言った。小板橋の表情には銭谷のような悩ましさはほとんどなかった。純粋に、この警視庁ビルでの人間関係を楽しんでいるようにさえ思えた。

「警察もチームだからな。懇親会も大事だろう。」

言葉が爽やかだった。説明も明確だった。歩き去る小板橋の背中を見ながら、石原はなぜか昨日の銭谷のことを思い返していた。本郷三丁目駅の周辺を何度も周回して歩きながら、金石元警部補についての説明を懸命に言葉を探して悩んでいた銭谷警部補とはまるで種類の違う背中だった。

 


百四十一 手順 (軽井澤)   ★ここは楽しく書き直し。


 御園生くんと別れた後、わたくしは地下鉄に乗りました。

 追跡の恐怖は払拭しずらいものです。そこでわたくしは、地下鉄を使いました。列車の閉まる扉にぎりぎりと乗り込めば、追跡は難しくなるからです。 

 大手町で、我々を何者かが尾行していた気がします。おそらく女性だったとおもいます。葉書を用意したり、猫を用意したり、片腕を切断させるような組織、そういう組織がわたくしと御園生くんを何かの目的で追跡を開始した可能性は率直に嫌なものです。

 地下鉄の扉が、おそらく尾行者を遮断し切った形で閉まり、千代田線が無事に走りだすと少しだけ落ち着きました。席に座るとわたくしは目の前の現実に思考を向き直させました。

 この二日でいくつかのことがありました。電話の途中で途切れた風間のこと、レイナさんの伝言を届けた佐島氏のこと、江戸島という唐突だけれども明らかに違和感のある経団連の人物のことを回想しつつ、わたくしはやはり一つの方向に自分という人間の存在が収斂していくのがわかります。

 そこには絶対的な「条件」が存在し、その存在にこそわたくしは精神が持っていかれるのです。

 それはなにかーー。

 復讐者という人格です。

 暗闇の中にはっきりと設定された復讐を願う存在がわたくしを捕まえるのです

 手書きの葉書が腑に落ちます。

 あの文字列には昨日今日の恨みのような気分がありません。明らかに長い年月を経ても消えない、人間の命懸けの迫力があるからです。

 言い換えれば「復讐人格」が存在する。

 あえていえば、復讐は、まだ序章であり、これから更に厳しくなると想像します。そのことを熟知してるから、守谷は片腕を失った後も逃げ回っている。風間も家を出て電話を消し逃げている。

 そうして、わたくしは風間の最初の依頼に立ち返ります。

 一体、こんなことをするのは誰なのか?

 あのような手書きの文字で何枚も彼らの場所に送付するのにはどんな経緯があるのか?

 なぜ、こんなことをするのだろうか?

 自然に考えればこうなります。

「風間と守谷が人を殺し、その復讐に駆られる人間が葉書を設計し、いままさに復讐を行っている」

 そうです。

 つまり、最も可能性のある起案者は、被害者の遺族になる。

 つまり、遺族が復讐人格であり、全てを起案し葉書を書き、組織を動かしている。

 それが、普通の考えです。

 もしそうであれば、この復讐は極限まで終わらないはずです。

 その極限とは、なにか。

 それは風間や守谷が死体になるということだと思うのです。

 風間や守谷に起きている現象や葉書を見て、誰しもが思うであろう結論はそれだと思います。

 いや、わたくしが想定する物語の最後はその場面なのです。

 風間や守谷が死体になるということです。

 

 ここまでは実はわたくしは自分の中で疑いのあまりない事実だと思っております。もっといえば、最初風間に西馬込の一室で会った時からそういう直感が心のどこかにありました。

 ただ、ここに重要な観点があります。

 実はもし単純にこの事実だけで、復讐が発生するだけであれば、わたくしはこのような青い顔は致しません。いままさに、こうやって千代田線を北千住方面に乗り込む理由さえないでしょう。被害者が命をかけて、殺された我が子の復讐をする。例えば娘の親御が何年越しかに、殺人犯への復讐を計画する。それは因果応報の当然とも言えます。正直そのことを第三者が止める権利などどこにあるのでしょうか?自分の娘を殺され絶望の中を生きてきた人間が、もはや自分の命も不要として、人生の長い試行錯誤の中で決断した復讐なのです。もはやそれによって極刑があろうとも覚悟の上だとするならば尚更でしょう。

 繰り返しですが、もしそういう判断の結果ならば、わたくしはただ事の成就を見守る第三者でしかありません。

 問題は、そうではない場合です。

 そうではない場合ーー。

 全く別の恐怖予想があるのです。

 わたくしが佐島氏に待ってくれと伝えたのはそれが理由です。、その恐怖の予感が理由です。普通に考えれば、そういうことに違いないとしながら、人間はそんなものではないのだと、胸ぐらを掴むように言ってくるのです。

「おまえは、ご遺族がどういう悲惨な状況下にあるか見たのか?」

「……。」

「復讐をさせろ。」

「しかし

「復讐なら見守ればいい。そう思わないか?もう死ぬ覚悟で親父さんはやるんだ。誰も止められないだろう。」

「でも

「問題はそうでない時だ。復讐などないのに、復讐がはじまったっていう報道を作ろうと思えばできる。わかるか?ご遺族の行動を盛り土に乗せればなんとでもなる。」

「そんなことは

「お前がしているのはそういうことだよ。そういうことを狙ったんだよ。

「遺族にはそんな

「最初に遺族を考えずに、視聴率を考えただろうが


「視聴率の匂いで内容を選んだじゃないか」

「ちがいます」

「視聴率の匂いがしたから首を突っ込んだのか?」

「……。」

「その予想が間違いだった時現実に起こる、利用された側の状況をお前は想定したか?軽井澤?聞いてるか?」

「……。」

「始める前に、それを命懸けで見極めたのか?」

「いのちがけ?」

「当然だ。いいか。世の中で視聴率がとれるものは、凄まじく人間に影響を与える。お前に使われた人間は人生まで失いかねない。視聴率、もしくはその周りの報酬に魂を売ったなら、どこまでも人間を苦しめることができるんだよ。」

「……。」

「おれはお前にはそれだけはしてほしくないんだ。全てを想定してくれ。そこに影響という権力の臭いがある限りは。お前が就職した理由もその力を求めたからだろう。だからだろう。でも、だからこそ自分を見つめる力が必要なんだ。」

「お前が取材して作ってる映像を、見る遺族の気持ちを考えたことあるか?」








百四十二 幸運 (赤髪女)


 X重工の赤煉瓦ビルを出てから、二人は、皇居周りで何やら、地面にうずくまって話していた。夢中に中年の探偵のほうが若いあの美男子に何かを語っていた。ところがその後明らかに彼らは歩みを変えて、丸の内のオフィス街に消えて行った。その足取りには明らかに意思があった。

(尾行に気がつかれたのだろうか?)

下手な深追いは、今後に影響もするのもあり赤髪女はそこで今日の仕事を手仕舞いした。

 そのとき、見計らったように電話が鳴った。

 指示者のヘリウムガスの声だった。

「最新の進捗を訊こうか。」

「ちょうど動きがあったとこです。」

指示者の電話の回数が増えている。その都度、新しい情報を求めているのである。

「探偵側に動きがありました。探偵が二人、大手町の二重橋に来ています」

「二重橋。この車の停まっている、GPSの場所だな。」

「はい。」

「二人というのは?」

「あの事務所は軽井澤という所長と、若者の二人のようです。小さな事務所です。電話番号はホームページに携帯電話を載せておりましたので確認できました。」

「うむ。奴らは一体何を目的で、そんな場所にいくのだ?風間からの依頼とは関係ないだろう。」

「二重橋の赤煉瓦のビル、がアポイント先でした。ご存知ですか?」

「質問はしないルールだ。」

「はい。会社の名前は、X重工です。おそらくですが、そこの会長に会いに行った様子です。」

「…なぜわかる。」

「聞かれるとおもって、上手く聞き出しました。」

「どうやって?」

「受付で遅刻したことにして、軽井澤事務所の人間のフリ、をしました。」

「ふむ。」

「多分、軽井澤という名前が印象的だったのかも知れませんが。受付の女性が彼らの面会先を教えてくれました。」

「誰と面会したのだ。」

「江戸島という会長です。」

「江戸島会長?」

赤髪女は、あれと、と思った。指示者が明確に聞き返したからである。自分は江戸島という言葉を初めて聞いたときに、すぐに認知できなかった。江ノ島とか江戸とか間違えるくらい普段耳慣れない名前なのである。

「…はい。お名前をご存知ですか?」

「質問はしない約束だ。」

「……。」

「で、どうだったのだ?」

「三十分ほどして、二人は赤煉瓦のビルから出てきました。何か得るものでもあったのか、ビルの外に出ても二人で熱心に打ち合わせをしておりました。ただ、おっしゃる通り風間との関係については確認はできていません、あくまで探偵の周辺の尾行情報です。」

赤髪女はそこまで話した。情報としては十分だろう。料金の追加の話は、次回の電話でしようと思った。

「以上です。引き続き、今日のもうひとつの重要な仕事の方に移動します。」

「……。」

「以上になります。」

「そこからなら、有楽町線がいい。」

「はい?」

「大手町から有楽町まで歩けば、新木場への直通の地下鉄が出ている。」

赤髪女は、指示者の丁寧な言葉に少し躊躇した。

「ありがとうございます。お詳しいのですね。」

「地下鉄の路線など誰でも知っている。遠回りをして欲しくないだけだ。日没までに、が例の現金を届ける仕事の約束のはずだ。」





百四十四 暗室 (人物不祥) 


 暗い部屋。

 電話を切ると、男は、見境なく物を投げつけた。

「ふざけるな。」

ヘリウムのままの声が響く。電話が終わっても、声はそのままだった。

「探偵ごときが。」

音も光も漏れぬ暗い一室であるせいで、歯止めが効いていない。興奮した男は、

「なぜたどり着く?いったいどうやった?」

当たり散らして投げた何かが、締め切った暗い部屋の窓にあたった。ガラスに稲妻の割れ目が走った。男は冷静になれなかった。しばらく類似した放擲を続けた。室内には机と椅子と古めかしいパソコン、それと昨日の朝に持ち込んだ人間の入った布袋があるばかりで、物を投げるために硬い床にゴツゴツという音を立てた。

 数分間、怒りに任せて物を投げていた。

 ただ体が疲れてしまうと爆発した感情はゆっくりと落ち着き、男の精神は、もとの正常な状態に近づいた。

 男は、椅子に深く座りながら、考えてみた。

 もはや、事実がそうなっているということだ。

 ということは、この事実に対処せねばならない。プランAどころかプランBでもなく次のことを考えなければならない。

 事実として、探偵があの二人に関連し、江戸島へと向かったということだ。つまりーー。この自分に何らかのリスクが向かっているということに間違いがない。とすれば、Documentに書いた着地想定は全く別のものにせねばなるまい。

 事実として、風間や守谷についての自分の読みが甘かったということでもある。探偵を雇っておかしな動きをするのは想定外ではあった。

 そして、その探偵の動きも想定外だ。

 男は一時間くらい無言になった。

 無言で、メモも取らず、キーボードにも触らず、旧式のパソコンを見つめ続けた。





百四十五 浅草  (銭谷)


 桟橋から降りると、老刑事はどこからともなくわたしを見つけ、声をかけた。

「休日ですか?」

白々しい言葉に、わたしは黙っていた。黒目が強い。やはり悪い人間には見えづらい。

 無視するわたしに、老刑事は開き直った声で挨拶を繰り返した。

「こんにちは。」

「本当に偶然ですか?」

わたしは独り言のようにそう呟いた。

「おや。何か感じられることでもございましたでしょうか。」

「……。」

ある一定の隠蔽的な態度がこの老刑事にはあったことや、公金横領という言葉が脳裏をよぎる。

「お暇だという噂を聞きまして。優秀な人間がお暇なのは、警察の損失ですから」

「わたしが?」

「ええ。」

「いったい誰から聞いたのですか。」

聞いて野暮だと思った。いい年齢の捜査員がパワハラというのは、噂話としては秀逸だろう。警察組織というのは情報が好きで、結果噂話のようなものが溢れている。そういう場所から、口の軽い人間はたどりやすい。

「とある偶然ですよ。」

「偶然?」

「所轄の退職者にまで本庁の極秘事項は降りては来ませんからね。」

「退職者、ですか。」

老刑事は引き続き、愛嬌のある黒目でわたしを見つめた。退職ではなく、横領で懲戒免職という言葉が再びわたしの脳を横切る。

 その時、ふと何故か、早乙女の「大人しくしておけ」という言葉を思い出した。突然、昔の呼び方(ゼニさん)で話してみたり、わたしへの思いやりを建前にしているその空気の気持ち悪さが早乙女らしいと思う。彼だけではない。官僚的な人間は大抵、優しさを含んだ言葉というものを商売道具にし始める。しかしそれは会話技術であり、人間の本来持つ優しさとは別である。むしろ全く逆だ、ということに気がつくのにわたしは二十年近い時間をすぎてしまった。その失敗を老刑事の真っ黒で純朴な瞳を見て思い出した。早乙女とは違う暖かい瞳だった。

 私たちはゆっくりと歩き出した。

 不思議と歩く速度について、どちらかが先に出ることも遅れると言うこともなかった。並んで歩く相性はよかった。浅草寺の大きな赤提灯を右に折れると、小さな赤や黄の提灯が並ぶ仲見世に入った。

「あなたみたいな立派な人が暇をされていると言う事は、国家的には問題ですよね。」

又兵衛はまた同じ話を繰り返した。

「前段は、わかった。それで私に何をさせたいのですか?」

私はせっかちだ。元来、資料のページを後から読む位の人間である。それはどんなに暇でも変わらない。

 わたしが急かすのをみて、又兵衛は少し微笑して

「ふむ。仕事は結論から、ですね。では。」

「……。」

「こういう襲撃の話がありまして。」

老刑事が出したのは、草むらの写真だった。中年男の死体らしきものがあった。

 私はあまり興味を持てなかった。

「事件か」

「まあ、少し特殊です。」

「おみやになってるのか?」

お宮となってなければA署が捜査をするだろう。

「いいえ」

「……。」

「実は、死んでいないんですよ」

写真は三枚あった。どれも別人である。

「これは、鑑識のものではないな。」

「ええ。身内で撮影したんでしょうね。私刑ですから」

「……。」

「味方同士の小競り合い、ともいいましょうか」

「小競り合い」

「ヤクザもの同士の小競り合いか」

写真の所々にその筋らしい刺青が垣間見えた。

「まあそうです。」

「なぜ小競り合いが外に出る?」

わたしは思わずそういった。老刑事はわたしをなるほどという表情で見ながら

「その通りです。ヤクザが、身内のこんな写真を外に出すなんてことは聞いたことがない。いや、晒せば警察に尻尾掴まれるリスクだけが増える。そんなことをする意味がない。そうなんです。だから、この問題はただの私刑ではない、というのが小生の見立てです。」

又兵衛は少し言葉を強めた。

 わたしはすこし、潮が引くような気持ちになって

「まあ、理屈ではそうなるだろう。」

とだけ言った。

 わたしは興味が湧かないままだった。小市民が反社会の人間に何かをされたのなら、まだしも、くだらない奴らの身内の小競り合いを、警察が税金を使って時間を使うわけにはいかない。

「はい。ヤクザもの同士のよく分からない私刑です。A署で当然後回しになりました。」

又兵衛は先を読んでそう言った。

 再びわたしは、老刑事にリスのような眼差しで見つめ返された。静かな眼差しだった。ただその眼には警察官が出世のために始める、人間を損得で見る空気が全くなかった。わたしをその場から去らせない唯一の理由がそこにあった。

 又兵衛がわたしに話したのはおおよそ以下のような内容であった。

 埼玉から綾瀬の界隈を縄張りにしてる、反社会組織に、K組という暴力団がある。この組織の中で身内のトラブルが続いている、という。通常暴力団は、縄張りを争ったり、後継者争いなどで抗争する。どちらも、抗争に勝てば、現金収入のご褒美がある。しかし、K組の抗争において、その気配がないらしい。又兵衛はそのことに注目していた。例えば、襲撃された写真の人間は二人とも、利権に関わるポストを持っていない。組の中でも重要視されていない老いたヤクザである。それがなぜか私刑に遭っている。なおかつその写真がこうやってA署にまで届けられているように、暴力団の抗争とはおよそ思えない奇妙さがある。

 又兵衛は淡々と、説明を続けたが、わたしはどこかで、集中力を失いはじめた。

 どうみてもつまらない事件だった。

 うだつの上がらぬヤクザものの痴話喧嘩だろう。老人同士の意固地や嫉妬がこういう痴話喧嘩を起こすこともあるだろう。

「この事件。これはそもそも事件なのですか?」

わたしは仲見世の列を眺めながらそう言った。

「……。」

「当然、被害届とかはないですね。」

「ええ。」

「失礼ですが、これを、わたしが?」

警視庁本庁の刑事が対応する意味があるのか?という空気をわたしは出した。以前ならそれが自然だった。しかしそう言っておきながら、自分には何も権限は既にないことが心の底に跳ね返ってきた。わたしは、来月にはどこかの署に左遷され、刑事でさえない仕事をしているかもしれない。こんな痴話喧嘩でもありがたく首を突っ込むしかないような立場にあるかもしれない。

「ははは。」

老人は嗤った。 

「なにがおかしい。」

「いえ、当然でしょうね。警視庁のエリートが触るべき仕事ではない」

「馬鹿にしていますか?」

「わたしは馬鹿な人間には会いません。」

やはり、老刑事はわたしの環境を知っている。パワハラで人事的な黄色信号が、警察組織の中で何を意味するのかも。

「この事件を暇な時間を見てわたしがやるべきだと。」

「ええ。そうです。」

「なぜですか。」

「それは、いずれわかります。」

「どういうことだ。」

「この私刑はある大きな事件に繋がっている可能性があるからです。」

「この?ヤクザの末端の痴話喧嘩がか?」

「今はまだ言えません。」

「ちゃんとした説明をしてくれ。」

「もう少しだけ、銭谷警部補が関わっていただき次第、説明申し上げますので。」

そう言ったきり、老刑事は饒舌だった言葉をとめてしまった。

 老刑事は何かを隠している。わたしは老刑事と金石が同じA署にいたことを反芻した。今日は、一度も金石の話題にならないのも気になった。

 A署は埼玉と千葉と隣接する東京の警視庁の管轄の東北のはずれの鬼門に位置する。又兵衛がいう暴力団K組は、その周辺に根を張る組織であった。自分の住む金町もその近辺である。

「どうですか。この続きは、そちらの浅草の仲見世のあたりでいかがですか。良い店を知ってまして」

 この辺は昼からやれるところが多くてねと、老いた刑事は言った。話は座ってからということなのだろう。わたしたちは浅草寺の裏手にありがちな小さなテーブルと丸椅子の野ざらしの串焼き屋台に座った。

 浅草は昼から賑わっていた。太陽と青空の下で堂々と酒をならべ、パイプ椅子にすわって呑んでいる。

「繰り返しますが、あなたみたいな優秀な方がぼんやりしてるのは勿体無いでしょう。」

ビールを飲みながら又兵衛は語った。皺の深い老人の顔面にリスのような黒い瞳がある。

「……。」

「ただのくだらない案件なら、あなたのようなお方に、頼みはしません。」

「しかし」

「この件は、本当なのです。必ずわかります」

「売り込む前に、最初に説明を増やしてほしい。」

「……。」

「何かあるのか?」

「少しだけお待ちください。」

「待てないな。」

「もう少しだけ。銭谷警部補が関わって頂くことを希望します。人それぞれに、才能があります。その才能を無駄にしてはいけない。我々の仕事は国民の生活と直結しております。必ず、手抜きは、罪深い結果をもたらします。」

老刑事はそう言って、また小動物さながらの黒目をこちらに向けた。

 わたしは不思議なものを感じ始めている。たった今、目の前の老刑事が意図せずに漏らした溜息に覚えがある。ただのため息ではない。何度も何度も試みた本当に重要な努力が、闇を乗り越えられない時に出る溜息に似ていると思った。

 まさかそんなものがわたしの心を融かすとは思いもしなかった。巨大なものに立ち向かい、ふと挫けそうになる時に吐くため息。そのため息にわたしは見覚えがある。

「東京から川ひとつまたいだだけですよ。」

老刑事は再び写真を見せ熱心にその土地のヤクザについてあれこれと語り直した。

浅草は夕暮れを始めていた。老刑事への共感めいたものが増えると同時に、わたしの話を聞く姿勢は前向きに変わっていった。

 わたしはやはり、自分が刑事なのだと思った。いくら未解決を含めて過去に膨大な仕事があるとはいえ、たったいま、目の前で現在進行しているものには別の血が騒ぐのだ。



百四十六 違和感 (赤髪女) 


 違和感がある。

 そんなことをあまり考えるとよくないと、赤髪女は自分に言い聞かせているのだが、違和感は拭えない。社長さんは、この仕事は昭和の昔からずっとある伝統的で安全な仕事だと言っていた。実際に八年ものあいだ、安定的に生活費を与えてくれたのはこの仕事だった。

 今、そういう安定感は感じない。すくなくとも電話でヘリウムの声で細かい指示をしてくる男は、今までの風情と合わない。やはりこれまでとは、仕事の仕方が違う。

 そもそも、命令の変更などこの八年間で一度もなかった。

 今回の指示者はずいぶんと、長い説明をしがちだ。

 これまでの仕事は、何を目的とした作業なのかもほとんどわからないまま、その断片だけを処理をしてきた。

「ものを拾い、どこかに落とす。」

ほとんどそういう仕事だった。誰が何のためにするのか?など何もわからない。赤髪女が参加してきたのは部分でしかない。作業の全容など想像もできなかった。

 しかし今回は想像ができてしまう。

 最初、風間という男を監視した。

 執拗に嫌がらせをするのが仕事だと、すぐに理解できた。

 しかし風間が探偵に泣きつくと、今度はその探偵を調べることになった。

 そういう変更は、これまでになかった。

 全体の方針を見直したのが、赤髪女にもわかる。

 更にその後、なぜか風間の追跡を辞めた。風間もGPSから消えてしまった。その代わりに埋立地に金を届ける作業が始まる。

 違和感が赤髪女に続いている。

 これまで、一切指示者が自分に人格を見せることはなかったが、今は違う。そもそも電話でヘリウムの声とは言え会話があるのだ。地下鉄の路線を細かく指示したりする。この仕事でいくら追加だとか、金額を増やすとか、金をどう使うかにもこだわりがある。そうだ。指示者は金の力を熟知している、と赤髪女は、感じる。金が足りなくなるとなぜ人間が働くのか。そのことを熟知していて、だから赤髪女にも適宜支払う金を工夫してくる。探偵の仕事を増やすならこの金だ、風間を辞めるからこうだ、というような。

 経営の感覚なのだろうか。

 赤髪女は指示者の指示通り、有楽町線に乗っていた。夕方までにまた仕事をしなければならない。封筒に入れた金を電信柱に貼り付けるという、仕事とは呼べない簡単なものだが、昨日と同じく、湾岸の埋め立て地までいかねばならなかった。





百四十五 役員車 (御園生) 


 突然、おかしなテンションになった軽井澤さんから指示され、丸の内のビルの真ん中を通り抜けて、尾行というものを巻くような動き方をしたあと、僕は朝、路肩に駐車したままの社用車に戻った。すぐにでもレッカーされてもおかしくないと思っていたが、意外なことに大丈夫だった。

 午前の陽を浴びて温められた席に座ると寝不足から睡魔が来たが、うつろうつろとしながらもスマホとパソコンを中心に残務を片付け、そのあとは再びX重工ビルを周りを走らせて幾つかのことを調べた。と言っても、役員の車が出てきそうな社用口に目処をつける程度だが。

 睡魔が襲ってきたので、社用口の手前の路肩に車(キャロル)を停めて、江戸島会長の車が出るのを一応待った。眠ったり、目を覚ましたりしながら、万が一見逃したならそれはそれと思っていた。

 軽井澤さんは、江戸島に会った後、何か直感めいたようだった。特に葉書を並べた時、江戸島会長の視線が不自然に動いた、というのを強調していた。皇居のお濠端で、手帳を破ってまで説明をしていた。

 だが、残念だけども僕は同じ気持ちにならなかった。

 正直、東証一部の代表が、あんな風間や守谷みたいな奴らと関係してるとも思えなかった。それは、江戸島会長本人に会って感じた素直(そっちょく)な感想である。経済界を上り詰めてきた立派な感じが不自然なく横溢し、そもそも住む世界が違う。街ですれ違う可能性すらないとも思えた。どう考えても彼と、風間や守谷のような人間が同じ場所で会話や食事をする想像がつかなかった。

 こんな事は時間の無駄じゃないかと、軽井澤さんに言おうか、迷っている。よくよく考えれば、守谷の問題も、われわれは、殺人事件を目撃したわけではない。襲撃の闇集団もそこまでの、追跡をするだろうか?あの場ではあまりの恐怖に、そう思ったが、果たしてどうだろうか。守谷が死んだのならまだしも、大怪我をしたとはいえ警察にもいかないでいるのだ。

 僕は眠ったり、起きたりを繰り返しながらそんなことを脳裏に集めて時間を過ごしていた。おそらく、夕方が始まっていた。午後の日差しが少しずつ弱まるのを睡魔の中のまぶたの向こうでうっすらと感じはじめていた。

 ちょうど、そんな時だった。

 江戸島役員車が、社用口から出てきたのである。

 窓に目隠しがなかったので、僕はなでつけた灰色髪の江戸島会長を見逃さなかった。十秒でも時間がずれれば見逃していただろう。

 車は銀座へまっすぐ向かい、ありがちな接待向けの寿司店の前で止まった。恰幅のいい江戸島会長は優雅に寿司屋の暖簾をくぐった。

 寿司屋で二時間は出ないだろうから、僕は出入り口の見える路肩に駐車したまま、パソコンを取り出して、風間らのせいで放置されがちな多くの作業を再び見直した。軽井澤さんからは連絡はなかった。朝の四時からレイナさんのメールで起こされたまま上場企業の会長室にまで訪れ、そのままその人物を尾行までしている。不思議な一日だった。

 ふと僕は、情報をもらったレイナさんにお礼もしていないのを思い出した。 

 

百四十六 新木場再 赤髪女 



 赤髪女は昨日と同じ新木場駅についた。

 駅を降り、同じように南に向かう。海の方まで歩く。

 夕方だが人がほとんど歩いてはいない。都心では見ない大きさの倉庫や工場が続き、駐車場のようなだだっ広い敷地にトラックやミキサー車などが並ぶ。

 生活の臭いのない場所だった。街というには不適切なくらいに人がいない。所々ある緑さえ作り物のように感じる。

 寂しい場所だな、と赤髪女は思った。

 こんな場所に指示者は毎日現金を持って行けというのである。

 二十分程歩き、昨日自分が現金入りの封筒を貼った電信柱にたどりついた。

 赤髪女は昨日の電信柱を見て少し鳥肌が立った。

 昨日の封筒はガムテープごと剥がされていた。

 三万円入りの封筒が消えている。


(あの無愛想な電話の男が取ったということか。)


つまり、指示者の思惑の通り、間違いなくここにその男が来て意味不明の封筒を夜の闇の中で拾って帰ったのだ。

 赤髪女は昨日と同じように、用意した封筒を電信柱に貼り付け、昨日と同じようにその男に電話をかけた。こちらの番号は非通知にしてある。

「もしもし。」

「オザキさまですか?」

「はい。」

「昨日の場所から、電信柱一本分、海側の場所に、ご依頼のお届け物を貼り付けさせていただきました。必ず日没後に、お引き取りください。」

「…わかった。」

男は無愛想ながら素直な声で応じた。現金を得ることで何か手順されたような声の印象の違いがあった。

 そうして電話を切ったときだった。

 夕焼けを始める西側の岸壁の方角に人影が見えた気がした。封筒を貼っている時には気が付かなかったが、電話をかけて切る時にふと視界に今までなかった人間の気配があったのだ。視力には自信がある。影は何故かこちらを意識していたように感じた。赤髪女が電話を切った時に、同じように携帯の電話を切ったようにも見え、そのままミキサー車やトラックに隠れるようにして視界から消えていった。オザキという男がまさか既にこの近くまで来て赤髪女の一連の動きを見ているということではないだろうかーー。

 赤髪女は漠とした恐怖が自分を襲うのを感じた。

 あたりに人影は何もない。もし襲われれば何も抵抗できない。自分には護身の術もない。万が一逆に尾行されれば、持ち金全部奪われる可能性もある。背筋が震えるのを隠しながら、赤髪女は急いでその場を去った。

 


百四十七 仮草稿  (レイナ) 


御園生くんからメールが来ていた。

作業をありがとうございます。

なかなか、自分の思う通りの結果にはなりませんでした。

むずかしいですね、とーー。

そう書いてあるのをレイナは眺めた。

御園生くん。

違うよ。

十分にあなたの予測は的確だった。

実は、あの言葉の列の中に、風間と守谷とが繋がる場所がありました。

そう。風間と、守谷はたぶん、犯罪者だった。それも殺人です。

ネットには何故か出てこないけども。

少なくとも、それが、わかった。

その中で、あの二人は別々のやり方で何かの救いを求めたのかもしれない。

いや、殺人者に救いなんてないんだけど。

ただ、逃げようとしたのかもしれないけども。

どこかでその道筋を探した。

助けを求めたのだと。

救いとか、現状から逃げたいという気持ちがあった。

それが、わたしにはわかりました。

やはり、風間と守谷は犯罪者だった。

それも殺人。もう少し、調べてみるけどもーー。


風間も、守谷も、あなたが説明してくれたように、一定の雰囲気があります。

そう。

他の人とは違う表情をしている。近寄り難いというか。

風間と守谷はできないんだと思います。

普通の人に混ざって行くことが。

殺人者である過去を持ちながら普通の人に混ざれない。

混ざって行くことは、隠すことになるから。

隠して生きているから、変な表情になるんだと思う。

普通ではない顔になる。

でもそれが真実だと思う。

私にはわかる。

普通じゃない顔になる意味が。

そう。

このわたしが普通の人に混じって仕事なんて、おかしなことだから。

いや、少しはこれからも混じって仕事をするかもしれないけど、御園生くんたちとはやめなければいけない。

私はそう思わなければいけない。

なぜならあなたや軽井澤さんは素敵だから。

素敵なあなたたちと仕事をするには、わたしには難しい問題がある。

本来はそれに値しない人間だから。

ごめんなさい。



百四十八 上原  (御園生) 


 赤ら顔になった江戸島と会食相手とが寿司店から出てきたのは三時間後の二十一時前だった。寿司屋の大将らしき人物が深々と頭を下げていた。

 店の出入り口の一つしかない寿司店だから僕ははっきりと彼が出てくるところを見ることができた。他の人たちを残して自分は先に帰るという様子で、会長ともなるとそう言うものかと思った。

 待っている間に江戸島のことを幾つか調べた。秋田の出身で、有名私大を出ていた。新卒でX重工業に就職していた。数年前に夫人を亡くして子供もいないらしい。なので一人暮らしなのかも知れない。であれば二軒目位には行くものと思っていた僕は、直ぐに銀座を去る江戸島の車に拍子抜けた。役員車はこちらの尾行なども気にせずに晴海通りに出て、湾岸方面に向かった。まだ九時前だったが、七十近い経営者はそういうものなのだろうか。

 ここで少しおかしいことが起こった。

 最初、車は銀座から晴海方面に向かった。つまり山の手ではなく湾岸へと向かった。勝鬨橋を渡り、有明方面へと走った役員車は、なぜか、豊洲の辺りで突然Uターンをしたのである。それはマラソンの折り返し地点のような交差点での折り返しだった。そしてそのまま今度は晴海通りを元々来た銀座に戻り直した。いや正確に言えば銀座もそのまま抜けて今度は皇居前を通り過ぎ、最高裁判所の角から青山通りに入った。そうしてしばらく走ってそのまま外苑を抜け、表参道を右折した。

 代々木上原の高級住宅街にある一軒家の前に役員車は停まった。江戸島が中に消え、役員車も帰った後に見てみると、表札には江戸島と書いてあった。

 僕は、少し奇妙に思った。

 銀座で会食して代々木上原の自宅に戻るのになぜ一度、わざわざ真逆方向の豊洲まで向かったのだろうか。



百四十九 顔面  (人物不詳)   



 そのとき、部屋の奥の袋が、少し動いた。

 とある人間ーー風間を昨日、気絶させて入れただけの袋である。

 よく見ると縛っておいたはずの入り口が開いてしまっていた。

 袋が口を開けている。

 結果、袋の中に入れていた風間が少しずつ、顔を出したのである。口にはガムテープをしてあるが、目は閉じていなかった。風間の眼が驚きを隠せない表情で、闇夜の猫のように瞳孔を広げて、男を見た。

 風間のその表情は驚愕していた。

 自分を拉致して監禁した男が誰かを、風間は知ってしまったのだ。

「……。」

ガムテープを口に噛んだ風間は言葉を発することはできないまま顔面が恐ろしく見開いた目だけになっていた。

 しばらく沈黙が再び流れた。

 今まさにーー。

 今まさに、この暗い部屋の男の結論がそこで定まったと言っていい。男は今起きた現実というものに対峙していた。つまるところ奴はーー風間はこの自分の画面を見てしまったのである。奴はそこにある生生とした現実を、消すことのできない事実として知ってしまったのである。

 男はゆっくりと風間に向けて、

「今、おまえは、この私という人間の、行く末をまさに決めたようだな。ははは。馬鹿な男だ。眠り続けておけばよかったものを。もしくは目を閉じておけばよかったのだ。」

風間は首を振った。自分には悪意はないから、許してほしいという様子だった。しかし例え悪意がなくとも、見て知ってしまった事実は消すことはできない。

「なるほど。」

「……。」

「こういう結末が良かったのかもしれないな。本来お前をどうするかについては、いくつか選択肢があったのだ。しかし、自ら自分の運命を決めたのだから。」

「……。」

「私はこの一日まあまあ考えたのだよ。その中で結論をどうするか本当は悩んでいた。しかしお前がこうやって見てしまったという現実のおかげで、どうやら正解がはっきりとしたようだーー。」

そう言って男は、再び旧式のパソコンに向かい、そこに風間がいることも忘れて、もう一度、全体の計画を緻密に記載し直した。ネットに繋がっていないそのパソコンに再び夢中になって設計を記載していく。密室の周辺のアイデアが追加でいくつも出てきた。

 男は自分の中で決断した新しい作戦を文章にして確認を幾度も繰り返した。

 下見した場所も含め、いくつかの準備は盤石にしつつある。

 集中は再び一時間は続いた。


  



百五十  元警部補(石原)    


 小板橋らが大部屋を出たのを見て鞄から石原はノートを取り出した。

 言葉を書き連ねていく。


・金石警部補の失踪は、警察上層部の何らかの意向に絡むと、銭谷警部補は思っている。

・六本木事件は、ある時期からなぜか「潮目」が変わった

・金石警部補と思われる人物が銭谷警部補に連絡を続けている。



金石警部補らしき人物のメールの速写ーー。


ToZ


文学的に言えば、

百の事件には

百を被害者がある


一つとして同じ事件はない


また、

加害者にはまだ未来があるが

殺人被害者には、永遠に未来はない。


言ったはずだ。





よくわからないメールである。ある意味ただ、飲んだ勢いで送ったりしているようにも思えるし、銭谷警部補との会話が好きで繰り返しての酒飲み話の会話にも見える。いや本当にそう見える。


ToZ


本末の転倒。

飲みすぎは、やめておけ。

若者に迷惑をかけないようにしろ。 



ToZ


孤独。

被害者の孤独。

そのとなりに自分がいるのか?

ましてや、被害者と加害者の、その対立構造などを作っている奴らに加担してはならない。

     



石原はノートの速写をしばらくのあいだ見ていた。金石警部補は、いや元警部補がなぜこんなメールを送るのかが腑に落ちない。内容も刑事の議をいくつか語っているけれども、そういうものを誰かに見せたいのか、ただ銭谷警部補と語り合いたいのか。

 石原は大部屋で一人頭を抱えていた。



百五十一 浅草の夜(銭谷警部補)


 浅草は夕暮れを終わらせ夜の時間を始めていた。赤提灯は暗闇に似合うようにできている。黄色い屋台も辺りが暗くなって初めて温もりが広がる。浅草寺の裏店だった。

 話題は別にして、わたしはどこかに感じはじめた老刑事への親近感で酒を煽っていた。そしてどの酒も、ある程度は人間同士の何らかの距離を近づけたりはする。我々は昨日の会話を忘れたかのように、浅草のこととか昼から飲む話のことを語り合った。

「酒に酔いましたね。」 

だいぶ酒を嗜んでから、老刑事はようやく、

「銭谷警部補は、金石と一緒に、例の捜査をしていたのですよね?」

と今日初めて、金石の名前を出した。

「まあ、そうですね……。」

「奴は、どうでしたか?同世代から見て。」

同世代といえば、そういう言い方になるだろう。

「いえね。A署で私は奴と上下だったんで。あいつが新人の時に私の下にきたんで、箸の上げ下げから教えたようなもんなんですよ。それが行方知れずだっていうんだから。」

金石の刑事人生の最初が、この老人だったのか、とわたしは思いながらホッピーを唇に当てていた。

「しかしねえ。もう二十年も昔になるのか。歳をとるはずです。」

「金石は…。」

「はい?」

「金石は、A署ではどんな刑事だったんですか」

「はは。それは最近まで一緒だった銭谷警部補の方がお詳しいとは思いますが。」

詳しくはない。ほとんど仕事のことだけの会話だった。やつの住所も知らないし、随分長い時間を共にしたが、家族がいるのかも知らなかった。プライベートの会話をしない人間だった。

「身体が大きくてね。」

「それは、わかる」

酒らしい冗談を叩きながら、我々は酒を飲んだ。

「いい刑事でしたね。」

それも、わかる。金石のようなある意味警視庁での中のバランスを顧みない捜査姿勢はどこかで人間の闇を暴いてしまう。そのせいで、身が引き締まることが幾度もあった。

 酔っぱらった、といいながら、又兵衛はレモンサワーを煽った。酔った勢いの言葉だというのが、建前としてあるようだった。典型的に酔った酒飲みの表情で、ふと、それまでの眼力を変えたような気がした。リスのような瞳が、猟犬のような冷たさを一瞬見せた、と思った時に、

「そういえば、金石は、何か特殊なことをいいませんでしたか?」

と、老刑事は言って、真っ直ぐわたしを見た。

「特殊?」

「ええ。なにか、銭谷さんに言ったりしませんでしたかね。」

酒を飲む前は、埼玉のヤクザの捜査の協力が建前だった。その協力依頼に嘘はないと思うが、どうしても又兵衛老人が繋げようとする点と線の中に金石がいて、その金石の周辺にこそ、会話の目指すべき場所があるようにおもえてしまう。

「まあ、酔った勢いですがね。銭谷さんは金石とは結局のところ、どうだったのかなと思ったりしたのですよ。」

又兵衛はレモンサワーを煽ってから机にごつんと置いてそう言った。

「どうと言われても。」

「いや、まあ、困るとは思いますがねえ。勢いの会話です。」

「うむ。」

「当然話せることと話せないことがある。もちろん話せないことを聞きたいのではないです。あの金石が、本庁でどんなふうに仕事を回していたのか、その切れ端でいいんですがね。」

「なるほど。」

「まあ、最初の教育担当としての、エゴでしかないんですが。」

「なるほど、そうですね。」

「まあ酒飲み話ということでね。」

「まあ、あいつと最初に組んだのは、たしかいまから八年ほど前だったかな。」

「へえ、八年前ですかあ。」

わたしも少し酔っていた。酔いに重ねて、少し金石のこともと思ったその時だった。店員が皿にきゅうりを載せて持ってきた。忙しい店員はその時少し雑で、まるで見事に会話の腰を折るように、テーブルの角に太ももを当てた。いわゆるモモカンだ。テーブルから危うく酒やきゅうりが落ちるところだった。わたしは、その雑さが気になり会話の調子が崩れた。言おうとしていた言葉を忘れた格好になった。テーブルの上は静かになった。

 すると、又兵衛老人は、

「ちゃんとしなきゃ、店員さん。」

そう言って、少し店員を大人気なく睨んだ。わたしははっとした。それは明らかにさっきまでの酩酊とは違う冷静さだった。酒に酔って話す空気とは一切違った、計算と目的のある表情だった。会話のリズムを狂わせたきゅうりの置き場所に強い恨みさえ言ってるような一瞬。しかしそれを、すぐさま隠すような気遣いでまた明るく、

「いやあ、いい天気ですね、青空の下でサワーってのは。楽しい」

と言って、又兵衛は元の会話の雰囲気に戻そうとした。しかし、わたしの方は、きっかけを失い、何かと構えてしまっていた。話そうとしていた金石のことも、躊躇いに戻った。

 わたしが金石のことを語るのに躊躇するのには感傷以外にも理由がある。

 金石は、何も言わずに突然いなくなった。その直前までわたしと、捜査本部で何をしていたのか、薄々警察内では気づかれている。警察内では表向き、仕事が嫌になってただ辞めたような処理がなされたが、上層部は誰もそんなふうに思ってはいない。金石が通常の捜査では得難い情報を手にしていたと疑っている。例えば金石は警察以外の別の場所(そんざい)に向かった可能性がある。警察を辞めて、別の組織に入ったのかもしれない。どんな形かはどうでもいい。自分の持つ情報を武器にして生きている可能性がある限り、警察組織には重大な問題が生じる。

 十分あり得ることだった。

 奴は六本木の富裕層の人脈にも刑事であることを隠して別人格で入り込んでいた。幾人かの担当者を使っていた可能性もある。金石が警察の内部の罪状を把握しているのであれば、奴の性格上途中で諦めたりはしない。別の組織に参加しその情報を最大限活用するに決まっている。当然上層部は気になっているはずだ。何も言わないが、早乙女は明らかに金石とわたしのことを気にしてきた。わたしがどこかで連絡をとっていないかを疑っている。

 だからこそ、まだ会ったばかりのこの老人に金石のことを話すのは危険なのだ。

 万が一、彼が裏切り者で、早乙女と繋がっていれば、金石が危険なことになる。わたしは、きゅうりがテーブルを揺らした時に、我に帰った老刑事の表情を思い返した。店員のきゅうりが、絶妙に老刑事とわたしの邂逅を失わせたのは事実だ。会話の間合いを失って、我々の酒の勢いがぴったりとやんだ。

 老刑事は機会を逸したのを理解してか、その後は酒を浴びるようには飲まなかった。しばらくぼんやりとした会話をした後、

「明日には資料を本庁にお持ちしますね。」

と例のリスの瞳を再び輝かせながら言った。

「明日?本庁に?」

「ええ。貴殿に最初にお話ししました、埼玉のヤクザの件です。ご興味いただき、お時間も融通がきくかも、ということだったので。」

「……しかし。」

「税金を無駄使いしてはなりません。秒も惜しんで、刑事の業に邁進しましょう。才能を大切にせねばなりません。」

又兵衛は時折繰り返してきた台詞をはっきりとまた言った。酔った勢いで金石の話をすることはやめたらしく、屋台での後半は殆どそちらへの話題の誘導は感じなかった。




百五十二 待合せ 



 わたくしは金町の駅で降り、再び河川敷のボクシングジム周辺へと向かいました。

 一定の吐き気や脳の刺感は変わらずに続きますが、どこかで覚悟を増やしたわたくしは、具体的に何をするのかだけは心に描きつつありました。

 最初に向かった昨日のボクシング・ジムには、若い人間しかおりませんでした。わたくしはボクシングの準備はせずにすぐに、用意してきた質問をいくつかしました。ジムの青年は少し目を丸くして、

「詳しいことは社長に聞いて欲しいけど、社長は今日はいないですね。」

ぶっきらぼうにそう言いました。

「そうですか、明日は?」

「わからない。ええと、まあ多分いると思うけど。」

「なるほど。」

それだけ聞くと今度はわたくしは駅の方に戻り、駅前の交番に入り、当番の警官に話しかけました。

「少し聞いてもいいですか?」

「どうしました?」

「とある昔の事件なのですが。」

駅前交番の若い警察官は、

「昔の事件ですか?」

と、不思議な表情をしました。そもそもその事件も然程知らないようでした。もう一人の警察官も若く、わたくしの話を聞いたけれども茫然としていました。無理もないでしょう。彼らが二十歳とすれば生まれるずっと前のことなのです。

「何かの新しい事件ですか?」

彼らはわからないなりに、真面目にそう聞いて参りました。今は忙しいのだ、というような気持ちが表情に出ています。

「いえ、ちがいます。新規の事件ではないのです。」

「どんな事件ですか?」

「少し古いんです。」

「どれくらいですか。」

「そうですね。もう三十年も経つかな。」

「三十年ですか。それをここで言われても難しいかもですが。その事件を調べているのですか?」

「いや、事件というか。もう事件事態は解決というか犯人を探すとかそういうことでもないんですが、その、関係した人間の現在を調べていまして。」

「犯人が逃亡しているとかではなくてですか?」

「犯人はもうすでに、刑務所をへて出所しています。」

「出所している?つまり更生ですか?」

「そうですね。」

「それは個人情報の問題もありますね。」

「はい。そうだと思います。」

「それをここで話すというのも難しいです。一体どんな事件のことかは知りませんが。」

「はい。」

そこでわたくしは思い切って、想定する個人名、つまりジムで言った名前や事件のことを話しました。しかし若い警察官はその事件を知らないのか、ピンとこない様子でした。多忙にも関わらず話は聞いてくれるのですが、噛み合わないままでした。

 わたくしはもう二つほど、交番を回りました。どの交番もまだ若い警察官がハキハキと対応はしてくれましたが、過去の事件のことも、過去の犯罪者の個人情報のことにも関わる会話になりませんでした。

 そうしてから、もう一度、ジムのほうに戻りました。思い切って、ボクシングジムの若いスタッフに、わたくしの想定する過去の事件のことを、交番以上に詳しく話しましたが、

「何も知らない」

と答えるだけでした。そして、期待した社長もやはり今日は顔を見せないようでした。

 わたくしは最後に、もう一度繰り返して、とある時期にこのジムに通った人間の名前だけを伝えて、ジムを後にしました。おそらくオーナーはその名前を見れば、何かを思い出すと思ったのです。わたくしのことは名前も思い出せないでしょうが、その男のことについては、何らかの記憶があるはずですから。

 再び金町駅の方に戻ると、目立って体の大きなパンチパーマの人間が手をあげました。

「面白い場所で待ち合わせますね、軽井澤さん。」

「米田さん。お忙しい中申し訳ないです。」

「こんな場所と言っては何ですが、縁もゆかりもあったのでしたっけ」

「はい。ゆかりというか、昔通ったボクシングジムがあります。今は、多摩川で東京の西側ですが、始めたのは東のはずれだったんです。」

我々は特にどこを目指すともなく、駅の界隈を歩きました。

「ふむ。風間と守谷は進展しましたか?」

「今朝方、二重橋でレイナさんにいただいた彼らの共通点に会って参りました。」

「共通点?」

「ええ。彼らの検索の共通点です。その前に、実は風間からようやく電話がありましたよ。」

「ほう。いろいろ話せましたか。」

「電話自体は、また例によって、途中で切れてしまったのですが、いくつか話せました。」

「切れたというのも、よくわからないですが」

「はい。公衆電話からかけてきていました。」

「公衆電話?彼は携帯電話がないのですか?」

「いえ、なぜか、その時だけです。」

「なぜ、公衆電話か、そのことについては話しました?」

「話せてません。それが、何だか、追われてるような空気があったのです。。」

「逃げているのかも知れないですね。携帯は、位置がバレやすいと聞いたことがあります。」

「……。」

「猫の死体を置かれた人間が、携帯の電話を切って逃げている。わざわざ公衆電話を使って連絡をしてくる。」

「はい。」

「なんだか、今回の話はいつになっても平和にならないですね。それで風間とはどんな話を?」

米田さんは火のないタバコを手に持ちながら、じっとわたくしを見つめました。

「はい。まずは、葉書のことを話しました。十四枚全く同じ葉書を私刑された守谷と言う男が持っていたよ、と。」

「なるほど。」

「しかし。風間は少しも驚きませんでした。」

「葉書に?」

「はい。それと、同じ葉書を送られている守谷と言う名前についても、風間は一切知らないと言うのです。」

「うむ。では本当に知らないと言うことなのですかね。私にはそう思えないけれども。芝居でも打ったのか。一切関係なさげなのですか?」

「風間が葉書には驚かなかったことや、守谷のことも知らないと言う対応自体には、正直、芝居は感じませんでした。むしろ我々に芝居や嘘をつく意味も全くないように思われますし、そういう印象でした。ただその周辺で、実は、引っかかる点がございました。」

「引っかかる点?」

「はい。例えば、わたくしはこういうメモを守谷の失踪した病室のベッドの下から拾ったのですが。」

「レシート、ですね。」

どれどれと、大切な古い布切れでも見るようにわたくしの手からそのメモを取って、米田さんは目を細めました。

「公衆電話で話題に困ったわたくしは、破れかぶれに、風間にこのメモのことを言ったのです。メモがどうも、四人の人間の苗字に見える、と。」

「なるほど。」

「これに、驚いたのです。」

「ほう。」

「葉書の話や、守谷が私刑され死にかかってる話に興味を示さなかった風間が、果たしてこの四人の苗字を云々という話には、明確に反応したのです。」

「この四人の苗字のメモに?」

「はい。そこから、今度は遡って、それまで興味のなかった守谷についても、見た目や身長などを聞いてきました。」

わたくしは、なぜ見た目を聞いたのかには、多少の心当たりがありました。しかしそのことは言わずにいました。

「見た目を聞いてきたのですか。名前にも私刑にも驚かなかった風間がですね?」

「はい。そうして、最終的には四人には心当たりがあると、言いだしました。いや、むしろこちら、つまりわたくし軽井澤も既にその四人を知ってるだろう、知っていて知らないふりをしているのだろう、という言い方をし始めたのです」

わたくしはそう言いながら、実は四つの苗字が、心の底でわたくしを動かしていることや、この金町まで呼び寄せた理由なのだ、とまでは米田さんには言えませんでした。一旦は、先入観なしで、米田さんには調べて欲しいことがあったからです。

 米田さんはタバコを手持ち無沙汰にして、

「よくわかりませんが、つまり風間は、知っているんだろう、と言ってきたのですね。軽井澤さんが知っているのに知らないふりをしているんじゃないかと。ううむ。よくわからんな。他には気になることはありましたか?」

と、パンチパーマ風の髪の毛をゴシゴシとやりながらそう聞きました。

「そうですね。もう一つ、風間はその四人は自分の知っている話では、一人は死んでいることになっている、と言いましたね。」

「うむ?それは新しい話だな。どういう意味だろう?」

「…。それが私もわからないので聞きたいところだったのですが会話をうまくまとめられないうちに電話が切れてしまいました。」

「公衆電話ですから小銭が切れたと言うことですかね?」

「いいえ。」

「いいえ?」

「はい。小銭がと言うより、電話の向こうで変な音がして何の挨拶もないまま風間との電話が終わってしまったのです。」


 米田さんとわたくしは、立ち話の延長のまま、金町の駅前の喫茶店に入りました。わたくしはコーヒー、米田さんはパフェを頼みました。断片ばかりの不案内な説明や、唐突な呼び出しにも文句一つ言うことなく、米田さんは首を捻りながら、悩んでくれているようでした。

「ええと、大体は理解しました。いや理解したというか、自分なりに情報を並べるだけはできました。それと、今日のこの金町は別ですよね?」

「金町は別?」

「あ、いやその、深い意味ではなくて。ここで軽井澤さんが待ち合わせたいと言ったのは別の理由があってのことだったのかなと思いまして。」

「そうでした。わざわざ来ていただいてすいすいません。」

「調べたいのは法務局周りですよね。」

「はい。」

「この界隈はS法務局の管轄です。一応知り合いはいます。」

一応、と言うときは、この米田さんは、それなりにいると思って間違いがない。これは前職の頃から変わらない間合いです。

「実は風間と守谷が、この界隈の出自だと仮説してみたのです。もちろん違うかもしれませんが。調べて欲しいのです。」

「なるほど。」

米田さんはパフェを削りながらタバコに火をつけて、食べたものと混ぜるようにニコチンを吸ってから

「法務局は、とりあえず今夜、見切りでやってみます。上手くやりますね。」

「ありがとうございます。助かります。それと、風間と守谷の二人以外に、調べてほしいものがありまして。」

わたくしはそこで、∫<とある事件のことを言いました>。そちらの方は、むしろ単純な戸籍作業でしかないので、米田さんには簡単かもしれない、と述べながら。米田さんは少し遠くを眺めるような目線でわたくしを一瞬見つめてから、カフェの壁面にあった狭い曇りガラスをみていました。

 わたくしはその時も、暗い北極の海の方角に集まった冷たい怨霊が、わたくしの動力源であることも、なんとなく隠しておりました。

 しばらく無言で時間をすぎさせた後に

「あ、そう言えば」

と、思い出したように、パフェを仕上げながら、米田さんのほうから声を出しました。

「ちなみに軽井澤さん。この件いつ頃まで追いかけるおつもりですか?」

「わたくしがですか?」

「ええ。」

「なぜ?」

「いや。どうだろう。まあ御園生くんは、この事件早くケリをつけたいのが顔に出てましたね。」

「まあ、そうですね……。」

わたくしは言葉を濁すしかございませんでした。そうして、少なくとも御園生君に関しては、早く、この件は引かせて、わたくしだけで処理をと思ってることを告げました。

「なるべく、できるだけ早く、御園生くんは本業に戻したいと思っています。」

「まあ、そうですね。とは言え、彼も一生懸命やってるのに、いきなり休めは嫌だったりするような気もしますが。いい意味で、頑張り屋さんですからね。」

「そうですよね。」

「まあ、御園生さんには、なぜ軽井澤さんが、ここまでこの案件に首を突っ込むのか、もわからないだろうし。」

「……はい。」

「私もわかっていませんがね。」

「……。」

「今おっしゃった、<とある事件>、というのは唐突ではありますが。」

貴方を問い詰めるのもなんですから、という言葉が米田さんの声の底に滲む気がしました。ふと、勘のいい米田さんは大体のことはもう察しているのかもしれないとさえ、わたくしは思いました。

 思えば、米田さんとわたくしとは、過去の前職時代から仕事を共にしていました。その長い付き合いの中には、彼特有の配慮があります。米田さんはわたくしの精神への無駄な侵入を行いません。これまでの人間関係の中でも、わたしに対し幾度も質問してもいい場面はありましたが、

(なぜ探偵になったのか。)

(なぜ転職したのか。)

というような内容は米田さんは一度も言葉にはしませんでしたし、今後も質問しないのだと思います。おおよそ言葉を配慮して無言にする、そういう種類の配慮は人間の所作の中で最上級のものです。そう言う上級な間合いを彼は持っています。

 我々は、夜になっても酒も飲まずに喫茶店でタバコを、二、三本吸いました。米田さんは早速今夜から動きたい、と言って、知り合い何人かに電話をしたようでした。おそらく法務局の内部の人間でしょうが、その人物がどの部署のどう言う人間かなどは、無論わたくしが知る由もありません。

 最後に小さく挨拶だけすると、米田さんはそのまま喫茶店を後にしました。


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