殺人の三日前 (九月十二日)

百二 再電話 (軽井澤) 


「俺だ」

再び風間でした。まだ夜は明けていません。公衆電話らしい、ブザーと十円玉が落ちる音が再び聞こえました。

「少し考えた。まず、さっきの人間についてもう少し聞かせろ。」

「…もしもし。」

「聞こえるか?俺だ。」

「…はい。」

夜明け前の朝四時台の電話ということは気にもしないようです。この辺りが風間という人間の感覚なのでしょう。ただ、わたくしの側も、朝何時だろうが電話がかかってくるのを待っていたのですから、この時ばかりは風間のこの人格をありがたく思ったのでございます。

「まず、そもそも一つ聞いていいか?」

風間は手順もなく強い言葉でそう言います。

「いやその前に、先ほどの十四枚の葉書の意味の続きを…。」

「うるせえ。」

わたくしとしては、先程切掛けに空気を出した、葉書の説明をまず最初にしようと思いましたが、風間はまた癇癪を起こしました。電話はいつ切られるかの恐怖感を増します。必然と風間の主導に従わざるを得ません。

「そもそもだ。」

「…はい。」

「あんたらは、何か困ってるのか?」

「困っている、と申しますと。」

「いや。探偵さまが、前金もしてない人間と会って話そうなんていうことだからな。なんだかおかしいじゃないか。」

風間は少し得意げにした風にも思われました。自分では忘れたふうにしていたくせに、しっかりとそのことは気にしていたのでしょう。

 やむを得ないことです。

 支払いがなければ対応しないと言い続けていたわたくしが態度を変え、何故か追いかける側に回って話がしたいといっている。挙句は電話を切らないで欲しいかのような、文脈をいくつも使っているのでございますから。

 ここで困っている、とわたくしが言えば、何かの手順を風間に与える可能性があると直感で感じました。そういう二流品の駆け引きを好むのが風間の特徴なのは申し上げた通りでございます。

「風間さま、どうか、先程のように電話を切らないでくださいませ。純粋に我が事務所として風間様にお伝えすべき重要な件が発生したのでございます。わたくしが申し上げた守谷という男についてもう少し追加の話がございます」

電話というのは一度切ると、連続の会話よりも、心が整理されるようです。わたくしは、整理しておいた手順から、まずは言葉を置き始めました

「追加の話、というのは一体なんだ?」

「少し気になることがあるのです。」

「気になること?」

「つまり、風間さまに関わる、重大なことがあるのです。」

「ふむ。勿体ぶるようだな。」

「はい。しかし、そのことは、我々お互いにとって、とても大切なことになると思うのです。今日、もしよければ会って話せませんか?」

わたくしが丁寧にそういうと、風間は沈黙をいたしました。公衆電話から、背後でトラックが走るごごうんごごうんという音が幾度となく受話器の向こう側に鳴り響きます。

「いかがでしょう…。」

「無理なものは無理だ。それより重大なことというのは、どういうことだ」

「ええ、守谷、と申しました男、に関することです。」

「……。」

「守谷について我々のほうで重大な…、」

「いやちょっと待て。そもそもだな。そのナントカという奴。なぜ、そいつの名前を俺にわざわざ伝えるのだ?」

「わざわざ?」

「俺の質問はそれだ。俺が頼んでるのは、俺に葉書をよこした人間の調査だ。そいつは頼んだのとは違うだろうーーつまり、葉書を書いた人間ではないんだろう?」

「…はい。」

「だろう。こちらは頼んでいないのに、あんたはわざわざ、その名前を俺に伝えてきた。わざわざ、だ。」

少し溜息がわたくしの頬に落ちました。やはり、風間という人間は、守谷という名前には全く心当たりは無いので御座いましょう。わたくしはやむを得ず次のカードを切りました。

「そうですね。じつは守谷は別の意味で、風間様と関連すると思われます。」

「別の意味?」

「はい。実は、その守谷が、一昨日、襲撃されたのです。それはそれは、恐ろしいものでございました。まさに瀕死の状態で我々が発見したのです。結果、わたくしどもはその現場に間接的に居合わせてしまっています。守谷を襲撃した犯人は、立ち去っておりましたが。誰だかはわかりません。しかし、この襲撃した人間らが、風間さまへ脅迫をした葉書の送り主と関係すると思われる事実が見つかったのです。」

「……。」

「被害者は、守谷保、という名前です。守に谷、保険の保です。」

「事実が見つかった…。」

「本当に、過去を遡っても記憶にございませんか?。」

わたくしはわざわざ繰り返し守谷の話をしました。しかしながら風間は、さほど間も無く、

「知らんな。」

と無愛想に、言い放つだけでした。

「本当ですか?」

「本当も糞もない。知らん物は知らん。」

「知らない。」

「襲撃されそいつは死んだのか?」

「死んでいません。」

「おい。どういうことだ。それならそいつから、聞けば良い。」

「はい。わたくしどもも、そのように思っていました。しかし彼は、重症の体のまま忽然と消えたのです。」

「消えた?」

「ええ。入院した病院から遁走したのです。そうですね、まるで何かに怯え、恐れて逃げるかのように、消えました。」

わたくしがそう言うと、何故か風間に腑に落ちるような、間合いがありました。

「つまり、何かから、逃げる様子だったのだな?」

「ええ。もっとも、あそこまでの暴行を受けていましたので、不安だったのだと思われます。病院に一度入院は出来たのですが、警備員がいる訳でもないのですから。」

「ひどいリンチというのはどのくらいだ?」

「具体的に、でしょうか?」

「ああ。」

何故か名前には関心を持たないのですが、風間は、守谷の傷口の具合や、身体中にタバコの火傷をつけていたなどの話を、興味を持って聴きました。わたくしは、昨日からのあらましについて、歌舞伎町、池尻の病院、そしてもぬけの殻になった翌日迄を時系列に説明しつつ、全身は打撲の傷が入れ墨のように隈なくあり、無数の黒子(ホクロ)やシミのようにタバコで皮膚を焼かれ、肛門から強姦をされていたこと、最後に腕の切断の話をというところで、

「もういい」

と風間は、逆に話を止めて、

「あんたは、その襲撃犯らについては心当たりはあるのか?」

と、さらに質問をしてきました。

「襲撃犯ですか?」

「そのモリヤという人間を襲った奴らだ。襲撃した人間に心当たりでもあったのか?」

風間は、カチカチと、タバコを点けるような間合いをさせつつ、風も強いのでしょうか、なかなか火がつかずに時間がかかっているようでした。公衆電話の向こうでは、引き続き、沈黙のたびに、大型ダンプカーでも通ったかのような環境音が鳴っていました。わたしは、随分、夜中なのに交通量が多い場所なのだと思いました。

「守谷を襲撃した人間には心当たりないです。想像もつきません。」

「手がかりゼロか?」

「いえ。ゼロとは申し上げません。ある可能性として手掛りはございます。」

「ございます?あるのか。」

「先ほども申し上げましたが、そのことが風間さまと連結する重要なことなのです。」

「……。」

「葉書です。」  

「なに?」

「葉書です。」

「葉書。」

「ええ。ご想像付きますでしょうか?」

「随分回りくどいな。さっさと説明しろよ」

「はい。単刀直入に申し上げます。風間様のものと、全く同じ葉書を、被害者の守谷保は持っていたのです。」

「……。」

「筆跡もまったく同じ、枚数も同じ、書いてある内容も同じなのです。」

わたくしがそう申し上げると、しばらくの沈黙がございました。

 ここで、わたくしは、その後のことを正確に申し上げたいと思っております。

 わたくしは、ゆっくりと、時間をかけてその葉書が、風間が渡していったものと全く同じであるということ、筆跡も裏に書いてあるアルファベットも枚数も全て同じだったということを説明しました。説明をしながらこれが電話であることに悔しい気持ちでいました。もし対面していれば、この話に対して風間がどんな表情をして、どこに気を取られ、焦るかを見れたからです。あんな葉書が、二箇所にくるなど、通常であれば、そんなことは絶対に発生しない、おかしな話なのです。ましてやそのもう一人が、襲撃され死に損なっているわけです。ーーー御園生くんとわたくしがそうだったようにーーーそれは、通常ない驚きが、そこにあるはずなのでございます。だから、わたくしは対面で表情を窺い知れぬまでも、少なくとも電話口で風間の言葉がどうなるのかを注目しながら、葉書について説明を話したのです。

 しかし、です。

 実に、風間は全く、驚いてなかったのです。

 説明して言葉を吐き切ったわたくしは、拍子抜けの違和感と、その理由の不可思議さに焦りました。再び沈黙と背後を走るトラックのごごうんごごうんという音だけが受話器に響きます。わたくしが途方に暮れていると、むしろ風間は通常の間合いで、

「つまり、おどろくことに俺と同じ葉書を持っているのだな。」

という、まるでわたくしを気遣いさえするような態度をしました。

「驚くことにな。」

それは、実際に風間が驚いているというより、一般的には普通驚くよなあ、というような声でした。

「はい。同じ葉書でございます。筆跡も、枚数も、アルファベットの文字列も」

「……。」

わたくしも御園生くんも、あの葉書の同一性を知った時に、しばらくの間、絶句しました。守谷の私刑の壮絶な光景に重なり、途轍も無い怨念の存在を頭に描き、恐怖したのを思い出せます。そういうものが、小説や映画ではなく実際に自分へ現実に訪れて来ると、普通は人間は絶句し、言葉を失い、その後に何かを聞いて確かめたくなるのです。

 しかし、風間は違いました。

 多少の反応はありましたが、葉書に単純に対応しただけでした。むしろ質問は葉書ではなく、その周辺に向かいました。

「ちなみに、そいつは、身長はどれくらいだ?」

「身長でございますか?」

「ああ。写真はないのか?」

「写真はございません。」

わたくしはふと、これまで名前も興味がないと言っていたものに対して、名前ではなく、外観を聞くのは奇妙だと感じました。

「他にわかることはないのか?」

「身長は、わたくしと同じくらいでしようか?ただ、伏せって歩く時の様子をもって、でございますが。」

わたしの身長は1メートル70ほどでございます。

「うむ」

「髪の毛は少なくなってます。年齢は、おそらく、五十の手前だとは思われますが、正確にはわかりません。」

「そうか。」

「ええ。しかし、外見では風間さまとちょうど同じくらいに思われます」

「あんたは、そもそも俺の年齢も知らないだろう。」

あえていうなら、人間的な負の空気も似ている、のですが、そこまではわたくしも申しません。

「まあそうか。それは奇遇だな。」

そういった風間はその後も、たわいの無い言葉を繰り返すくらいでした。

 わたくしは、意図した恐怖反応を二つほど裏切られました。

 一つ目は、守谷という名前とその男に同様に送られた十四枚の同じ葉書の恐怖。

 二つ目は、守谷に瀕死の暴行がなされた事に対する恐怖。

 このどちらの一般的な恐怖にも、風間は、さほど驚かなかったのです。いや、あえていえば、一切驚く様子がございませんでした。

 それは、随分と不思議なことだったのですが、そのときのわたくしは公衆電話といういつ切断されるかわからぬ方の対応で考える余裕もございませんでした。話題の材料を出し尽くしたわたくしはもはや次の会話の手もないのです。

 潮時が迫っていました。

 せめて何かの会話を引き出さねばと、わたくしは脳内の有る事無い事を探しました。突然ブザー音がして公衆電話が切れてしまう恐怖の中でです。何か話題にできることでもないかと身の回りをさがしているうちに、ふとわたくしは昨日守谷のベッドの下で拾ったコンビニレシートの裏面の走り書きを取り出しました。どうせまた電話もつながらなくなるのであればもはやなんでもいい、と思いながら、

「もう一つ、聞いてもよろしいでしょうか?」

「なんだ?」

「すこしお待ちください。メモがありまして、、」

ふと気がつくと、東の空が濃紺の光を帯びてビルの黒々とした姿の間を染め始めています。わたくしはこの会話が最後になる可能性を思いつつ声を出し始めました。

「実は、守谷さまの、いや、あなたにとってはただの「同じ葉書」をとどけられた人間が、残したかもしれない、メモがございます。」

メモかどうかはわかりません。ただ、そう言い切るしかないでしょう。思えば風間と初めて西馬込で会った時もからは彼はメモを執拗に取っていましたが。

「メモ?」

「はい。ただこれは暴行を受けてから辿り着いた病院のベッドで、紙もなくレシートの裏に手書きされた落書きの文字列でございます。無論、手のひらに乗せてボールペンを走らせた程度に相当雑に書かれていて、なんのことかはわからないのですが、」

「……。」

「電話番号だとか、日本語の文章は書かれてはおりません。なので意味が見えません。しかし、仮にこれが人間の名前だとすると、ふとそれは意味をなすようにも思えるのです。無理筋かもしれませんが、見方によっては、これが四つの名前なのかもしれないと思われます。つまり四人の人間をメモに手書きしたのかもしれないと。」

「四人?」

「…はい。」

わたくしは、あれ、と思いました。と申しますのも、その「四人」という風間の声が、それまでの声と違って、なにか余裕を持たない印象があったのでございます。わたくしは間髪入れずに、

「四人に心当たりがございますか?」

「……。どういう名前がちなみにある?」

「風間さま。これは明確に名前を、つまり田中だ鈴木だと読めればこのような言い方はもうしません。わたくしには四箇所の殴り書きが、どうも名前に見えるということなのです。あえて言えば、二文字の苗字が三人、三文字の苗字が一人、のように思われるのです。」

「二文字が三人、三文字が一人。」

「……。はい。」

やはり、しっかりと今までとは違う声の調子でございます。風間は興味を示しているのです。

「その名前は?あえて、例えばで言えば?」

「ええと、それが読めないのです。」

「なるほど。」

「なるほど?」

「その、守谷という男が、残したメモに名前が四人。ということがなるほど、ということだ。面白いかもしれないな。」

「面白い?どういうことでしょう。」

「深い意味はない。いや、深い意味があるかもしれん。」

「風間さまどうか、揶揄わないでください。もしできれば、風間様のご認識されているものを、一部分だけでもわたくしどもにご教授願いたいのです。たとえば、十四枚の葉書が一体何を意味しているのかも、我々はわからないので困っているのです。」

わたくしはいつの間にか、芝居を忘れて心からそう声を出しておりました。

「……。」

「いかがでしょうか。」

「四人は、もう正解では無いかもしれんな。」

「正解では無い?えっ?」

「もう三人だということだ。世の中的には。」

「どういうことでしょうか?」

「……。」

「どういう?」

「深い意味はない。」

「四人か、三人かが関係するのですか。」

「まあ、人が死んだことになっている。」

「どういう意味ですか?」

「全身バラバラにされて死んだってことだ。さっきあんたは腕を切断されたとか言ってただろう。」

「どういうことですか?」

「どういうことも何もない。そういうことだ。今回も、死ぬまでやるってことだ。」

「今回?なんのことでしょうか?」

「この葉書は、今回が初めてではないんだよーー。」

「初めてではない?」

「……。」

トラックがごごごんごごごんと音を立ててまた数台走り去りました。ため息が混じりました。

「あんたは、まだ見ていないのか?」

「まだ見ていない?」

「アスファルトだ。葉書の示す場所に行っていないのか?」

「その場所?」

「言葉だよ。殺し合いをしろ、という伝言。」

「ことばですか?」

「……。」

わたくしがそういうと、風間は再び沈黙になりました。受話器の向こうのトラックの疾走音を鳴らしました。

「うむむ少し喋りすぎたな。忘れてくれ。」

「どういうことでしょう?葉書が初めてではない?」

「いや、忘れてくれ。」

わたくしは会話が逃げていくのに焦りながら風間の言葉の意味を理解しようと頭を必死に回しました。

 つまり、この四つの名前かもしれない言葉が、風間が逃げ惑う理由に連結し、守谷の私刑的な襲撃に関連する、風間と守谷の葉書以外の関係性をあらわしている。葉書が指し示す場所があり、その無署のアスファルトになにか伝言があるーー。

 自分で繰り返しても、ただただ混乱するばかりです。もう少し情報が必要で、わたくしは必死に会話を継続させようと、

「風間さま、お待ちください。理解を追いつかせております。このレシートの裏紙は重要なメモなのですね。葉書と同じように関係者には明確な言葉なのかもしれませんが、如何せんわたくしは部外者でございますから、文字の、おそらく人名など固有名詞の判別には苦しむわけでございます。」

「まあ、そうかもしれんな。それより、もうわかったよ。十分だ」

「十分?」

「ああ。あんたらもこれ以上深入りしても、なんの特もないからな。もういいだろう。」

突然、風間は電話を切る空気を出し始めました。わたくしは、焦り、

「風間さま今から、四人の苗字について昨日からわたくしなりに必死に考えた予想をもうしあげたいと思います。ただその代わりに、先ほどの電話でお聞きそびれました、十四枚の葉書の意味と、そのほか風間さまの知っていることについても、お答えいただけないでしょうか。」

「しつこいな。」

「いかがでしょう。」

「もういいって。それより、そうだ。そもそもあんたんとこは、軽井澤さんと御園生さんとでやってる事務所なのだよな?」

「はい?」

「そのあんたが所長で、御園生ってのが駆け出しの若手のようだが。」

「はい、そうですが。」

「いや、少し俺が勘違いしてたのかもしれないな。」

「どういう意味ですか?御園生がなにを?」

「いや、まあ良いや。とにかく今、俺はとにかく、うまく逃げたいわけだ。わかるよな。」

「どういうことでしょう?」

「わからないならいい。」

「しかし。」

「……。」

「風間さん、先ほどの会話の中で、全身バラバラというお話がありましたが、もしかすると」

「なんだ?」

「彼の腕についてですが。」

「その男の腕が切断されていたんだろう?」

「はい。ただ、バラバラというのが過去にあったとお聞きして、まさかこの後、あの守谷にもそういう可能性があるのかと思われ。」

沈黙があった。しかしその沈黙はそれまでのものと違い明らかに風間が何かの思考を巡らせているのがわかりました。」

「あんたが興味本位で知りたいことはもうその辺りまででいいだろう。」

「おまちください。」

「あとはもう、なんでも好きにすればいい。とにかく、あんたも、もうその四人を理解してわかってるじゃないか。知りたければ探偵らしく調べればいい。それより俺が知りたいのはそんな名前じゃない。葉書を誰が出したか、なんだ。誰に出したか、ではなく、誰が出したか、なんだよ。」

「……。」

「あんたは少しもそちらに向かってない。」

「すいません。そのことも勿論、対応いたします。ちょっと待ってください。」

わたくしの会話や言葉はほとんど、行き当たりばったりの破れかぶれになっていました。思いついた会話をただ投げつけるだけしかできないのが自分でも嫌という程わかりました。

 その時でした。

 炸裂音のようなものが電話の向こうで響いたのです。

「どうしましたか?」

風間の声がしません。受話器の向こうで、ごごごんごごごんという先程までの沈黙に流れたトラックの走る音だけは続いています。

「どうしました?」

わたくしは幾度となく、聞きましたが風間の返事がありません

「風間さん、どうしましたか?」

先ほどとは違い、電話はしばらく切れませんでした。つまり公衆電話はつながっているのに、風間の声がしないのです。

「どうしたのですか?風間さん。風間さん?仰った四人のことを確認させてください。風間さん、風間さん?」

わたくしが何を話しかけても、風間は声を出しませんでした。

 そうして如何程の時間が経ったかはわかりません。

 やがて公衆電話特有のブザー音が高鳴りながら、電話は切断されました。






百三 去る男 (人物不詳)


 夜明け。

 凍らせたペットボトルは思ったより、感触がよかった。

 男が殴った一回で、風間は頽れた。脳震盪のボクサーのようにゆっくりと崩れた。もともと背も小さく痩せていた。その横にリュックサックが落ちていた。その上を、潮の風が通った。ドブ臭い潮風だった。辺りには人間の気配がまるでなかった。

 轟々と大型車の走る車道からはちょうど死角になっている。

 男は、風間の横で看病でもするように腰を屈めた。あたりに人がいないのを確認して、氷のペットボトルで殴ったのである。

 まず意識を失った顔面をしつこく確認した。だが、一度確認をするともう二度とその顔面を視野に入れようとはしなかった。大丈夫ですかと話しかけている体制を取りながら、落ちているリュックサックを開け、中を調べた。着替え、財布、電話、メモ帳。

「……。」

財布には、何も参考になるものはなかった。荷物は多かった。免許証には「風間正男」と記載があった。どの荷物も、とりあえず自宅から色々持って出た感じがする。男はメモ帳をとりだし眺めた。小さな紙面に文字が埋まっている。その文字列を見回している。まだ、夜明け前の濃紺の夜空の下で、電話ボックスに蛍光灯が付いてなかったら男は文字を見れなかったかも知れない。

 濃紺の夜の底が少しずつオレンジ色に変わる方角が東だった。凍らせたペットボトルで殴った方の男はハンカチに染み込ませた薬品を再び、風間の口に当てた。こうすれば万が一眼を覚ますこともないだろう。そうして風間の全身を隈無く探した。この男を連れていくとすればGPSの問題があるーー。身体中を探したがなかなか見つからなかった。通行人がいない潮風の埋立地の物陰で、男の体をまさぐっていた。ジャケットの胸ポケットに手を入れたときに、ようやく探していたものを見つけた。

「なるほど。ここか。」

小さい銀色の錫のGPSシールを取り出すと、アスファルトで踏み潰した。そうして凍ったペットボトルと一緒に草むらへ投げ捨てられた。

 男はすぐ近くにとめた車との距離を測った。辺りに人影がないことを確認し、作業を開始した。この男を車に乗せて一旦は移動する必要があった。



百四 是永  (銭谷警部補)       


 朝。

 私用電話の方が音を鳴らして揺れた。

 A署にいる警察学校同期の是永からメッセージの連絡がきていた。

 十年以上前、是永がまだ本庁にいた頃に一度だけ仕事をしたことがある。今はA署にいるので、先日の老刑事の周辺の調査を頼んだのである。調査というより同じ署なので知ってることを教えてくれれば、という程度のものだった。

「A署、槇村又兵衛」

メッセージアプリの一房目にはそう記載がある。

「ご依頼の件」

警察関係の人間に調べ物を頼むのに、警視庁のメールではない連絡手段を使うのは初めてだった。というより仕事だけをしてきた自分には警察関係以外の知り合いなど皆無なのだ。組織に捧げるだけの人生で個人のアドレスを持つ必要がなかった、とも言える。

 上野で若い石原と初めて酒を飲んだ時、古い日本の典型の自分が露呈するのが気になった。石原は言わなかったが客観的に見て組織にしか自分がいないような、組織に身を捧げただけの大人は若者に尊敬されない時代かもしれない。わたしは、石原のアドバイスにしたがって、刑事人生で初めて私物携帯というものを持つことを決め、あの翌日秋葉原の電気街まで歩き、中古のスマホを買った。秋葉原にいけば、すぐ手に入ると石原が意外にも詳しく教えてくれた。

 右手に新しい小さな電話。

 左手にこれまでの警視庁からの支給の電話。

 デジタルに遅れた自分が今更二刀流にでもなった気分だった。

 そんな右手の方の電話が音を出して小さく震えながら是永のメッセージを届け続けている。

「又兵衛は、定年退職ではなく公金横領」

随分な、内容がきた。これは省庁のメアドには送りづらいだろう。

「当人物について」

「いろいろ思うところはあり。この件はまた別途。」

緑の房が文字を載せて続いている。

 朝の一番に、見たくない内容だった。だが見たくはなかったのだが、どこかでそんな予感もしていた。私は槇村又兵衛と名乗る老刑事のなんとも言えぬ表情を思い出した。

(そもそも、定年退職の挨拶というのは嘘で、わたしのところに来たのか。)

わたしが感傷に耽っていると、

「又兵衛氏のことはもう少しまとめている。待てるか?」

と是永は書いた。是永は家族想いのこころ優しい人間だ。私とは違い、正しく人間の家庭を作っている。仕事だってそれなりに忙しいはずだ。それをたった一度昔仕事しただけの理由で、頼み事を聞いてくれている。

「ありがとう。」

指で書くまえに、声が出ていた。待つも何も、わたしには相談できる人間は限られている。太刀川が誇ったような華麗な人脈みたいなものは何もない。



百五 昭和  (レイナ)


 最初に十四枚の葉書を見たとき、レイナは平成の終わりから令和にかけての未解決の事件を探そうと思った。殺人事件の復讐や顔面火傷の様な深い怨恨を、葉書の文字に感じていたのだ。風間正男と守谷保という人間がその事件に絡むはずで、レイナは彼らの名前をネット上のすべてのURLで拾い続けた。凶悪事件は大体これですぐ紐がつくはずだ。

 しかし結果は芳しくなかった。

 幾度かURLとは別のアプローチも試みたが、風間と守谷は犯罪歴なし。ネット上での誹謗中傷にも関連がなくいわゆるシロなのである。

 ただ、犯罪関連という意味で、ひとつだけ機械が提示してくる事件があるーー。

 どのデータが紐ついているのかわからないのだが、とあるかなり昔の、昭和の犯罪事件である。あくまで機械学習(ML)の結果で、風間も守谷も犯罪歴がないと一方で結論しながら、ある昭和の殺人事件に二人が関連したと言う計算結果が出る。調べると、その事件には別の犯罪者らがいて、彼らはとうの昔に逮捕され懲役も確定し刑務所に収監されている。どう調べても守谷や風間に関係しないのである。

 昭和の事件。

 昭和天皇が崩御した昭和最後の年の事件である。

 とある、若い女性の命が失われた。若い命を奪ったのは女性と同世代の未成年たちであり、都内の男子高校生含む未成年の少年の犯罪だった。繰り返しだが彼らは逮捕され刑務所に収監されている。もしかして何かの間違いがあるかもしれないと思い、レイナは手作業で幾度か調べ直したが、風間は大阪、守谷は北九州の高校出身で明らかに東京の下町の高校生が起こした殺人事件とは関係がない。年齢とも合致しない。

 レイナは首を傾げた。

 何か機械計算上の誤差があるのだろうか。

 昭和の事件は一度は世の中が忘れたものだったはずだ。三十年以上前、インターネットもまだなかった頃の事件であるのだが。

 あえていえば、そう言う事件が再び世の中に戻ってくることがあるーー。

 インターネットの時代になり、過去犯罪のさまざまな掲示板が乱立し、犯罪が物語として再現されるのである。残虐な事件だけでなく、犯罪の量刑などネット民が語りやすい事件はその傾向が強い。その事件は当時少年ゆえ実名報道もされなかったことと、被害者の女子高生の悲惨さに多くの言葉がネット上に未だ溢れていた。ネット民の声はおおよそ殺意にさえ満ちていて、逮捕された少年らがそれぞれ経歴から写真まで事細かくまとめられ、弾劾され続けていた。それらは今も、継続的に掲示板というなの罵詈雑言の文字列を増やし続けている。怒りこそが文字を生む、と言っても良いーー。

 機械はそれを何かしら拾ったのかもしれない。

 遠い昔の昭和の事件を、平成の終わりの事件と勘違いしたりするのだろうか。

 レイナは掲示板を漠然と追っていた。

 その時だった。

 どこかで予想をしていたテキストが視界に飛び込んできた。


(人殺しが、いつか刑務所を出てこの世に戻ってくると思うと、ぞっとする。自分の近所に住んでいるかもしれないと思うと、最悪だ。)


あっ、とおもった。嫌な方角から石が飛んできたような気がした。文字列はしばらくレイナの網膜に残り、目を閉じても消えない。呼吸が荒れるので、身体中の銀のピアスの冷たさをなでて、他のことを考えた。


(人殺しは、社会に戻るな)


辛辣な言葉を目が拾う。調査の仕事をしているだけなのに、自分の体が不自然な熱を帯びる。軽井澤さんの仕事に没頭していたはずの自分が、その言葉たちのせいで何も集中できなくなるのが判った。


(少年Aは地元の暴力団に入ったらしい。少年B、少年Cは今、まだ綾瀬に住んでいる)


あっ、と再び思った。レイナは自分の混乱が異常になる理由がわかった。

 少年Aーー。

 未成年の犯罪ーー。

 それは自分がパソコンを始め、施設の中で自分の名前を探しはじめたあの頃と重なった。施設にいたあの頃。少女Aと名付けられた犯罪者をパソコンの中で調べ続けたあの頃ーー。



百六 朝の金町  (銭谷警部補)


ToZ


文学的に言えば、

百の事件には

百を被害者がある


一つとして同じ事件はない


また、殺人において

加害者にはまだ未来があるが

被害者には永遠に未来はない。


言ったはずだ。




同期の是永から又兵衛の公金横領という話を聞いたのは辛かった。いや正確にはその情報に違和感があった。横領をする人間の表情というものをわたしはそれなりに知っていて、昨日日比谷を歩いた又兵衛はそういうものとは真逆の目をしていたからだ。

 落ち着かないまま、仕事の携帯電話を取り出したのだが、手元が定まらず最初に迷惑メールから見てしまった。そこにはKからのメッセージがいくつかあった。

 朝の金町は、冬のように静かだった。まだ夏の終わりだというのに人も少なく、わたしは金町の駅にむかう河川敷の下道(したみち)をとぼとぼと歩きながら、自分の脳裏にやってくるいくつかの文言を並べ直していた。


百の事件には

百を被害者がある


加害者にはまだ未来があるが

被害者には永遠に未来はない。



 迷惑メールの文言は、ほとんど金石の言葉と同じだった。

 天現寺のあのバーでの思い出が脳裏を疾走し、そのまま又兵衛刑事の横顔と混濁した。何故かそういう被害者への解決を追いかけた結果、又兵衛という人間は、公金横領という汚名で警察官を去るのだと、なぜか脳天に言葉が堕ちてきた。不思議な直感だった。わたしは今表向き警察の仕事を奪われている。老刑事も横領ということであれば捜査の前線には参加させてはもらえないだろう。

 空を見上げた。青空が美しかった。ため息のような白い筋の雲がひとつだけ、見えた。

 考え事が止まらぬままわたしは駅に向かって歩いていた。

 考え事を繰り返しているのは仕事に真面目な人間だからではない。刑事の考え事がやめられないのである。仕事が一枚の油絵のようになっていて、この世にある全ての問題を全面解決する夢がある。その反面、未解決を抱えて生きているせいで、常に満たされないものがある。その不満足こそがわたしという刑事の熱源なのだ。

 K、のいう通り、百の未解決事件には百の被害者がいる。

 殺人が職掌である捜査一課が関わり行く被害者の人生は苦しい。第三者のできることなどほとんどないと言える。たとえ犯人を逮捕し事件を解決したとしても、死者は蘇らない。警察では百点になっても、最悪は最悪のままでしかない。 

 わたしは河川敷の下の路地で立ち止まってタバコを吸った。

 そうやって今日という一日が、始まっていた。

 いい日になる予感など何もなかった。

 人のいない河川敷の土手を見上げながら、金町駅までの日当たりの悪い道を歩いた。


百八 暗い部屋 (人物不詳)


 男はそのビルディングの部屋近くに車を停めた。まだ朝の早い時刻で人通りはなかった。先ほどの国道沿いの公衆電話から載せた「荷物」を袋のまま部屋に運んだ。袋の中で手足口を縛り、眠らせたままだ。

 先刻この荷物ーー風間と名乗る男は恐らく探偵と会話をしていた。探偵にあれこれと話していた。わざわざ携帯電話を恐れ、電話ボックスを探してまでして。再びあの場所に戻って。

 つまり、状況が変化をしてしまった恐れがある。

 風間、守谷。この二人だけを動かしても進まない。プランAを諦めて、もうひとり、できれば関わりたくないあの男を参加させる。やはりそれしかないと、感じている。男は例の古いパソコンを開いて、ドキュメントに思うままの言葉を書き連ねていったーー。



百七 手のひら  (レイナ)



「少年Aよ。おまえのような人間は、壁の向こうに居続けるべきで、人間社会に戻ってくるな。お前に残りの人生を生きる意味なんてない。」


 レイナはそのテキストを血まみれの死体でも眺めるようにしていた。

 社会に戻ってこない方がいいから、あの高い壁の施設で自分は育ったのだ。 

 何度も節子さんと会話した「生きている意味なんてない」という苦しい方の言葉が少しだけ蘇る。

 節子さんは反論した。けども、難しい反論だったと思う。だって、そんな人間がいたら嫌だもの。自分の記憶がないとかいって、記憶のないところで人を殺していたかもしれないような人間がご近所いたらどうやって暮らせばいい?そんなことにならないように、リスクがないように人は生きるべきなのに。

 軽井澤さんや御園生くんと仕事をして会議をしている自分を思い返す。なんの罪もないあの人たちに、自分の過去を隠してこの世に暮らしている自分が許せない。

 二人は素敵な人できっと自分とは違うーー。

 自分は誰かに近づいて生きてはいけないんだ。壁の向こうにいるべき人間なのだ。

 人間社会に復帰などして良いわけがないんだ。

 殺人を犯して、どうして十年二十年後に世の中に戻れというのだろう。

 二度と取り戻せない、命を失わせているというのに。




 

百九 金町駅にて


 早乙女捜査一課長から本庁の携帯にメールがあった。


「今日もまだ沙汰が出ない。もう少し、大人しくしていただきたく。」


一瞬よくわからない、変な文面だと感じた。少なくとも、心に引っかかる。

 わたしは嫌な気持ちのまま、金町駅のホームにあがった。

 追越し線を緑を基調にした列車が通り過ぎていく。常磐線の快速だ。

 昔は、ピンクに白の不思議な色違いの湘南列車みたいなものも走っていたが、あの車両はどこに売られたのだろうか。最新式の列車の疾走を見ながら、もう使われない旧式の電車のことをなぜか思った。それは何か自分の置かれた状況を象徴するかのような、似つかわしい虚しさがあった。

 早乙女課長のメールが心に引っかかった。いや、あえてそういう含みを入れている点が嫌だった。

 まだ沙汰がない、とだけ言えばいいのに、

「もう少し、大人しくしろ」

というのは何だろう。もしかすると、わたしが太刀川の件で色々と動いていることに触れているのか?石原のことを知っているのだろうか?わたしのメッセージを全て、見ているならそれもあり得るだろう。と言っても、二日程度で、そこまで読み込めるのだろうか。実際わたしと石原は、さほどメッセージのやりとりをしていない。すでにお互いの使用の連絡手段に切り替えている。

 わたしは処分待ちの人間に典型的な、後ろ向きの勘ぐりの中にいた。

 実は、最低限わたしのことを思って早乙女が火消しに動いている可能性もある。部下の不祥事は避けたい管理職の心理もあるからだ。が、どこかでそういう想像に向かわない。明日には突然、パワハラという雑な言葉で、聞いたことのない警察署に異動になり、刑事現場の人生を終わりにさせられる。そういう想像の逆算で人事権者を見てしまう。わたしは自分に染みついた、警察組織らしい人事に受け身になる性質を恨んだ。

 待機。

 結果が出るまで、何の権限も情報もなく、裁判を待つ被告のように暮らしているようなものだった。それでも前向きに刑事の仕事を思っている自分の気持が何より辛かった。

 酒を飲みすぎた朝はいつも最も後ろ向きな気持ちになる。

 常磐線の駅敷台(プラットホーム)に立ち尽くし、左は千葉、右は都内へと真っ直ぐに伸びる、二本の銀色の線路を見おろして呼吸をしていた。人間が死のうという場合は、この線路と、列車の車輪の間に入ればよい。命とは実に簡単である。消えて無くなるだけのことなのだ。線香花火のように少しだけ膨れて最後の叫びをするかもしれないが、終わった後になにもない。何かがあるなんてのは妄想だ。誰だって同じく土に帰るだけだ。何も変わりはない。

 大袈裟な冗談が静かに一歩一歩自分に現実の色彩で近づいてこようとしている。

 命を捧げてきた刑事の仕事ができなくなるのなら、その時に、そこで終わりにすればいいじゃないか。幾度か、わたしは線路を見て思ってきたことでもある。繰り返しだが、わたしには仕事以外に家庭も何もない。仕事以外、唯一の趣味であるアルコールは、仕事のストレスの反作用でしか美味い味がしない。

 わたしは気を紛らわそうと、もう一度電話をいじった。


ToZ


こどく。

被害者の孤独。

そのとなりに自分がいるのか?

ましてや、被害者と加害者の、その対立構造などを作っている奴らに加担してないか。


      K


哲学的な設問を混ぜた散文が幾つか迷惑メールに溜まっている。Kと名乗る男は、こういう思想的な文言を大事にしていた。わたしの知っているKにはそういう性質があった。奴の脳の底には、そういう言葉がたくさん蠢いていた。ただ、滅多にそれを開陳しない。話をするのは彼の方でも大抵、アルコールの力を借りている時だった。我々は仕事終わりにしばしば酒を酌み交わしたが、そう言う会話は居酒屋の最初ではなく、もっと酩酊が進んだ、ウィスキーの香りの漂う場所でと決まっていた。

 メールの到着時刻を見ると朝の三時。となると、奴は今も随分と深い酒を飲んでいるのかも知れない。

「朝から、命の話か……。」

声に出してみると恐ろしく小さな声だった。横に並んだサラリーマンたちは誰一人気がつかない。わたしの声は小さく、世界の誰一人聞いて拾うことはない。

「死んだ被害者、と、その遺族。」

自分がもっともっと優秀な刑事だったら、と思うことは幾度もある。

 早く、解決してやりたい事件。墓前に報告をしてあげたい、事件。

 早く、解決してやりたい。

 墓前に報告をしてあげたい。

 遺族の悲しみを目の当たりにしたから、わたしは刑事の仕事が辞められなくなった。いや、自分の精神衛生の中で、そこを離れられなくなったと言っていい。仕事ではなく、遺族の仇打ち(かたきうち)のように生きる自分が生まれてしまったのだ。

 事件のたびに、捜査一課には人間の死が届く。金町のこの駅で列車の車輪と線路の間で体を八つ裂きに裂かれるような、死ぬという現実だ。そうして、わたしが死ぬのとは違い、人間の死ぬ事件には必ず被害者の遺族がある。愛するものを失った被害者遺族にとっては、もしここが殺人の現場ならば、この線路さえ見たくもないトラウマになるだろう。

 実のところ、恐ろしさはほとんど知られていない。

 被害者にならなければ、もしくは被害者の隣でというほどの生活をしなければ、実際には誰もわからないからだ。

 被害者は毎朝、八つ裂きにされる家族の最期を思い出し、その場面を忘れるしか解決しない苦しみを背負って生きる。生活の中で亡くなった娘の最高の思い出を思うたび、その最悪最期の現実が織り混ざって、胸を苦しめる。思い出すことも苦しくなる。しかし、失った娘を思うその気持ちを忘れることは、実はその失われた命にとって申し訳ないという感覚が混ざる。人間は全ての人に命を忘れられた時に二度死ぬのだという詩人の言葉も被害者を苦しめる。繰り返すが、被害者には一切の救いはない。

 反して加害者側はそうではない。

 二度と戻らない人間の命を奪った現実に反し、被害者遺族に途轍もない苦しみを与えたことにも反し、加害者である罪人はたとえ死刑になっても明日がある。被害者の朝が過去の嗚咽に向かうのとは逆に、死刑はすぐにはやってこない。下手をすれば、死刑にもならず、世の中に戻ってきて酒を飲んで暮らすこともできる。

 そうだ。

 金石、いつもお前はそう言ったな。

 被害者と加害者を並べることだけは許せないって。六本木事件のテレビ報道がそれをやっていた。被害者が報じられていくうちに、どこかで力が加わったかのように、加害者の周辺のさまざまな物語と被害者の命は混乱したままテレビの画面で共存した。善悪より事件の映像の力の方が視聴率にとって大切になった。結果、こともあろうに被害者の生活や、関係のない六本木界隈の背景ばかりが報道された。

 金石。お前は、まだ解決させられないわたしを恨んでいるのか?

 あれだけのヒントを残したのに、未だに何も進められていない、このわたしを。

 だからこんなメールを何度も送ってくるのか?

「そうだ。その通りだよ金石。お前のおっしゃる通りだ。それどころか驚くことに、わたしは刑事を首になる可能性さえあるんだよ。そうなれば手錠を犯罪者にかける役割をできなくなるかもしれない。それに加えて悲しいことに、線路を見て自分に人生の終わりのことを思ったりしている。笑ってしまうだろう。金石。殺人犯を追いかけていたつもりが、自分が殺人者になろうとしているんだ。まあ、被害者と加害者の話にはきっとならない、その二つが同一人物になる、奇妙な殺人だろうけどな。」

その時、電話が鳴った。私用の方の電話だった。

「はい。」

わたしは最悪の気分で電話に出た。自分でも驚く、ずいぶん暗い声だった。

「もしもし」

「どちらさまですか。」

「おはようございます。石原です。こちら、銭谷様のお電話でよかったでしょうか。」

石原だった。まだ彼女を登録していない。

「ああそうだ。おはよう。」

「もしできれば相談がありまして。」

あまりに機嫌が悪く驚いている石原に、わたしは素直に詫びた。石原は最初戸惑いながらも、淡々と電話の要件を述べた。今朝の尾行を早々に見失ったという話で、私は、ひとりで尾行して見失わないほうが難しいという話をしようと思ったが、石原なりに思うことは他にもあるらしい。

 電話まで途方に暮れていたわたしに、電話越しの石原の熱量が強かった。それは何か人間らしい強さだった。振り幅が戻り始めるーー。

「いかがでしょうか。このあと時間はあります。」

仕事に向かうあの単純な気概が落ちてきた。一人で壁に向かう必要はない。志が同じなら刑事は議論ができる。

「わかった。では前回の場所でまたどうだ?」

「どちらの前回ですか。」

「まだ酒を飲む時間ではないだろう。」

「はい。」

「例の喫茶店でよいでしょうか。」

金町から霞ヶ関に向かう途中の千代田線に前回の喫茶店がある。

「もちろんだ。場所はどこでもいい。石原のいる場所にもよるだろう。」

「ありがとうございます。ちょうど湯島の近くまできていました。運がいいかもしれないです。」

「運がいい?」

わたしは奇妙な声を出していた。そうか、運がいいのか。乾いた、明るい自分の声が、自分の耳に届いた。

 運がいいという言葉のせいだったかもしれない。最悪の朝の気分が石原のおかげで、ぶつり、と切断された。それはありがたい切断だった。

 わたしはもう一度、線路を見た。

 生首を介錯する刀のように銀色の輝く二本の線路は、千葉方面からゆっくりと千代田線の直通列車をすべらせてきた。湯島まではほんの数駅である。



百十 軽井澤の独白 


 地下鉄千代田線は地上に出たあと北千住から常磐線に直通します。そのまま荒川を越え、綾瀬、亀有、金町と過ぎるあたりに、千葉との県境の江戸川の巨大な堤が見えて参ります。

 県境の手前の、金町の駅を降り江戸川の方へわたくしは歩きました。

 いつもの多摩川ではございません。わたくしがその日向かったのは、多摩川とは逆の東京の東の外れにある河川敷です。そこは、かつてわたくしがボクシングを始めた場所なのです。多摩川と比べたらだいぶ古くからの場所になります。

 経営者も途中で変わったのだと思いますが詳しくは存じ上げません。古いジムには会員アプリもありません。ただ暗い顔をして門を叩けば、だれでもビジターでボクシングはできるものです。どんな人間も選ばずに殴り合わせてくれる。拳と拳との間に差別がない。それが拳闘であり、ボクシングというものの持つ不思議な魅力でございます。そういう人間の陰影にこのわたくしが魅了されているのは既に申し上げました通りです。

 駅からジムに行くまでには一度河川敷の階段を上がります。葛飾区や江戸川区の一級河川の堤を、ご存知ない方は想像が苦しいかもしれません。二階建ての民家の屋根よりも高いのがこの河川敷の堤防なのです。

 土手から見下ろした街は昭和の色彩とでも言いましょうか。押蔵饅頭のように背の低いゼロメートル地帯の街並みは、どこかに年月を重ねた喪失があり、その黒や灰色の印象の強い屋根を一層暗鬱に見せて底に沈んでいました。その川近くの角地に同じ昭和の香りを残したまま、ジムはございました。

 今朝の四時、風間が電話を切ったあとからわたくしは、何もすることができませんでした。突然切れた電話の後の沈黙は不気味な闇のようでした。わたくしは布団にくるまると、脂汗が自分の全身をずぶ濡れにするのに耐えるばかりでした。体が痺れて、昼過ぎまで、眠気と、眠ると悪夢が来るような恐怖から、眠ることさえできない呆然の中にありました。御園生くんからの電話も含め誰からの電話も出ませんでした。布団にくるまったままスマートホンで、風間と守谷の名前をなんども検索をしました。検索窓に、池尻病院とも入れました。新宿歌舞伎町の平成企画も入れました。そうして目を画面に奪わせながら、自分が考えて整理をすることさえできないまま、時間だけが過ぎました。

 毛布にいくら蹲っても、また再び、紗千の悪夢の場面が押し寄せて参ります。おそらく自分でも制御出来ない脳の命令系統があって、その拒否物を幾度も再現してくるのです。

 結果、わたくしは、このジムを目指したのでございます。

 つまり、多摩川ではなく、かつてボクシングを始めたジムに来て体を痛めつけることにいたしました。理由は自分で言葉にできておりません。脊髄が突然判断して、わたくしを東京の東の外れに向かわせた、というのが事実だったと思われます。ただ当然何もなくそうはなりません。ええ。もちろん闇に飲まれた理由がそこにはあるはずです。ええ。ここではあえてこういう書き方にさせていただきたいところでございます。

 ジムに着き次第、わたくしは準備運動もほどほどに、無心にサンドバッグを叩き始めました。筋肉が攣るくらいまで打ち続けます。汗が滲み始めます。右ストレート、左フック、そういう言葉で追えないくらいに、右左右左を気狂いのように連打する。呼吸もままならぬ間に何十回もサンドバックを揺らし続け、筋肉を弛緩させる。そうし続けることによってやっと、すこしずつ、脳の中の悪魔が溶解して、何か自分らしい言葉が整理され始めるのを感じました。

 今朝までの、多くのやりとりがあります。

 西馬込の猫の死体、歌舞伎町の執拗な私刑、葉書に逃げ惑い連絡が取れなくなっていく二人の目つきの悪い男。不気味な手書きの葉書が二十八枚。そして、通知不可能の公衆電話からなされた、奇妙な会話のやりとり。それらに引っかかりながら逃げることをせずにいる自分。

 自らを落ち着かせ、もう一度、今朝四時の風間のことを頭に描きます。公衆電話の会話の中で、わたくし(軽井澤)のことばに彼が不気味に立ち止まったその場所を思い描きます。例えば、風間は「守谷と同じ年齢」というところで間合いを変えました。奇しくも同じ葉書のことではなく、守谷の身長や見た目を聞いてきました。唐突な四人の仮説についても、風間は少し感情の昂りがありました。やがて彼は何かを理解したかのような声を出しました。勝手ながらわたくしは、ある理解の直前までわたくしの狙う方角へ、会話が進んでいるような印象も受けました。そして突然、会話がこれからというところで再び電話が切れました。

 わたくしは整理をしながら無心にサンドバックをたたきました。ひと通り汗が滲むまでサンドバックを叩き終えると、ランニングのために外に出ました。堤をかけ上ると、江戸川の河川敷の美しい眺めが遥かに広がります。まっすぐ川面の輝きを追うように草緑の堤が並んで関東平野の奥へと伸びていきます。わたくしは、ゆっくりと走りながらもう一度、脳裏に言葉で整理しました。


1。風間は、十四枚の葉書が守谷のものと同一であることには反応が薄かった。

2。葉書についてではなく年齢や身長など見た目の質問を逆にこちらにしてきた。

3。守谷の残したメモの、四人という言葉に反応があった。そのことについて、三人だという言葉も言いかけた。

4。電話は再び突然切れた。ただし、一回目と違いお互いに会話を続ける意志があったなかで切れた。切れる時に心なしか鈍い音がした気がする。また、その直前になぜか、軽井澤、御園生という名前をなぜか突然語った。唐突で、今思えば、文脈に合わない。

5。葉書を「見ればわかる」の姿勢は変えていないが、その内容を教えようとする様子があった。電話が切れたのはまさに、その会話に向かった矢先だった。


 言葉を並べながらわたくしは、遠く河川敷の伸びゆく埼玉方面に向けて走っていました。この辺りは千葉と埼玉と、東京の端とが重なる中をいくつかの河川が複雑に縦横に行き交います。

 風間と守谷の葉書の周辺は、明らかに何かの背景や事情が存在することを思わせます。そして当初から変わらず、強く陰湿で怨念の強い、恐怖感が漂います。少なくとも守谷も風間も、過去の好ましくない出来事から、逃げている印象であり、その逃げる姿を葉書の何かが追いかけている。葉書を書いた人間がそうさせている。そう言う恐怖構造を感じます。そしてその恐怖には、命に関わる怨念や狂気、さらには本当に殺すのだという強い意志が漂うのです。

 しかし、これらの整理をしながら、その前に、わたくし自身のことについても整理をしなければならないのです。なぜ、わたくしは、逃げないのか。この突然巻き込まれた不気味な二人の男から逃げないのか。そればかりか、むしろ積極的に彼らと対峙し、自分の中でどうにかしようという意識を持ち、挙げ句こうやって、河川敷で自らに重圧を課すかのように肉体を駆使までして、この状況に対峙しようとしているのか。

 問題を解く前に、問題に向かう理由が自分の中で省略されているのでございます。

 今ここにきてみて、そういう矛盾が、わたくしにサンドバックを叩かせ、走らせていることがよくわかりました。加えて、その方面の整理も、走り続ける脳裏に少しずつ、落ちて参りました。理解を進めながら、わたくしは再び無になろうと走る速度をあげました。しばらく疲れ果てて心が何も描けなくなるまでそれを繰り返そうとしておりました。そうすることでしか自分の中に生じる冷静な真実を見極められない気がするのです。

 伝わりにくいことだと思います。

 いや、あえて申せば、誰にも伝わらないことを前提に、わたくしは言葉を整理しているのです。それは誰に説明しても共感など叶うものではない、ということだと、考えます。もっと言えば、誰が聞いても

「軽井澤自身が犯罪を犯したわけでもなく、そんなことを気にする必要などないのではないか」

と終わることとも言えるでしょう。ええ。既に誰にも話さずにもう十年以上過ぎていることなのです。

 走り続けていると、河川敷の土手からは古い寺院がいくつか見えます。そのほとんどに墓地があります。卒塔婆がまだ新しいのもあれば、いつの時代かわからないくらい古い風情の無縁仏も沢山あるように思います。墓石の数全て、人生を終えて墓標となったのだと思います。例えばーーこの墓のそれぞれのどの人間の生涯を我々が思い出し振り返ることがありましょう。人間の過去は全て何もなく土に帰る。歴史の偉人でさえ、殆どの心中の思いは伝わりもせずに土に帰るだけなのです。さすれば、わたくしの思い悩む過去のことなどは塵埃そのものでしょう。果たしてこうして語り言葉にすることにさえ躊躇がございます。本当に世間の皆様には申し訳のないくらい、くだらないことなのですから。

 かつて、わたくしは今の人生のような生活とは真逆の生活を送っておりました。わたくしは前職の頃、いまから八年より前の人生においては、ほとんど考え方も生きる目的も含めて、別人格の、全く別の生活をしておったのです。全国展開する放送局というものに勤めて報道記者をしていました。

 たとえば、例を挙げれば、今回のような、血生臭い事件的なものにこそ昂奮してきたのです。人間の生き死にの局面を扱う生業を持っていた、とも言えましょう。そういう興奮を使って自分の正義を設計し仕事を正義化させ、(そして商品化を行い販売して)自己満足をして放送局という企業で高給を取っていたのです。そうして、ある種の安定を得ながら、また別の説明しづらい理由で、その放送局から突発的に逃げるように職務を放棄して去ったのです。必死に自分の過去を黒く墨汁で教科書でも塗るように消して。

 申し訳ございません。まだまだ言葉の整理が足りているとは思いません。

 相当長い言葉を尽くしたものを我慢して読んでもらうか、血を振り絞って覚悟を届けながら書くでもしない限り、わたくしの内面は伝わらないでしょう。果たしてこの多忙な現代社会でそんな精神の彷徨を辿っていただく時間が誰にあるのでしょうか?実際自分の家族にさえわたくしは何かを話せたことはないのです。また話したいとも思わないのです。黒く墨汁で消した過去を話すどころか、話すための言葉の用意もないのです。

 ただ、これらの混乱の結果としてーーーわたくしは何か過去に呼び出されたような気分を持って、この江戸川沿いのボクシングジムに戻ったのです。認めたくない自意識を見つめ直していうならば、わたくしはいくつかのことを確かめなければならないと思ったからなのです。あの葉書の文字列を読みながら、そしてどうやら現実味を帯びた四人の名前を並べながら、黒く塗ったはずの教科書の文字が炙られて、浮かび直してしまうかのように思えたからなのです。言うなれば、自分の知らぬところで過去に黒く墨で塗り潰したはずの全てが、突然の大雨で洗い流されて丸見えになるのを恐れたのです。

 罪というものを人間は忘れようと致します。忘れさせてから残りの人生を暮らしたいのです。濃淡程度の差こそあれ、人間はそういう性質を持っています。わたくしが過去にあったことを深くは語りたくはないように、誰しもにある程度望ましい過去と望ましくはない過去があるはずです。過去の犯罪の履歴などがあれば、その罪を日々なぞり見つめ直し生きるなどは堪え難いものでしょう。そんな苦痛ばかりの人生が成立しうるのか甚だ疑問でございます。

 とはいえ、真っ白に過去を消さんとする誰かの姿勢にも、どこか無責任が宿るのも真実でしょう。自分さえ良ければいいという言葉が、網膜に活字で暴れる。そういう罪悪意識の錯乱がわたくしに、あのような悪夢を見せ、あのような映像を生成させるーー。

 わたくしの自意識は二つの間を往復をしていたのだと思います。

 忘れて黒く塗りつぶして生きるべきか。

 毎日繰り返し罪を思い出して、解決のない憂鬱の海底に自分の独房を定めるべきか。

 その二ヶ所の往復の中でわたくしは最初前者にあった。そして今回の葉書に導かれるように、後者へと移行していった。それが真実なのでしょう。どこかで過去に導かれ、見て見ぬふり、知らぬ存ぜぬで生きることができなくなり、この江戸川の曰く付きのボクシングジムに知らぬ間に足を運んでいたのです。気がついたらこの河川敷にいたのです。

 見渡せば遠く南の川下の空が白く霞にたなびいていました。川の下流に向かう風が海の方から押し戻されているような澱みを感じます。

 小一時間もそうしていたかもしれません。風がまるで自分という主格主体を持たないようにわたくしの心もどこに向かうのか正直わからなくなるような寂寥に、しばらく土手に体を投げ打って言葉を失っていました。

 その時でした。

 わたくしの携帯電話にメールが着信しました。

 それは珍しい名前でした。

 佐島恭平。

「軽井澤さま ご無沙汰しています。佐島です。もしご都合が良ければ、本日、お時間いかがでしょうか?東京におります。どこにでも、伺いますので」

 




百十一 仕事 (レイナ)


 レイナは少し気になっている。

 実は軽井澤さんは何かに関わっていている気がするのだ。

 機械の計算で出た昭和六十四年の事件やその周辺にある幾つかの暗号めいた部分に。

 その理由はわからない。ただ直感だけがある。むしろなんらかの関係があるせいで軽井澤さんは逃げられないのではないか。本来は避けるべきなのに、執着させられているのではないか、と感じてしまう。

 どうなのだろう。

 軽井澤さんは本当に何も知らないのだろうかーー。

 もし何も知らないのであれば、すぐに止めるべきだが。


(軽井沢さん。収監刑務所が遠く高い壁の向こうにあるのは、人間の正気を保つためですよね。殺人犯を目で見て触れるということは教育上だけでなく、様々な意味で危険なんですよ。素直で何の問題もない美しいものを、乱れさせてしまうんです。純粋な心であればあるほど悪に飲み込まれやすい。混じり合っていくうちに戻れなくなる。だから昔の罪人は、壁の向こうに置いたり、遠い島に流したり、命をおわらせたりしていますよね。

 風間も守谷もそういう人間に思えます。

 証拠は取れていないけども、でも直感が大切です。こんな人たちの要望に対応したり絡んだりする必要はないんです。今すぐやめましょう。)


 レイナはそう心で呟きながら言葉を整理した。

 しかしそうやって言葉を集めながら、レイナは自分の胸が苦しくなり、頭痛や吐き気が止まらなくなってきた。

 何故なら、その言葉が正しいのなら、レイナ自身が、軽井澤さんや御園生くんと関わることは辞めるべきかもしれないからーー。


「この事件に関わるのを今すぐ、辞めたほうがいい。」

レイナは、軽井澤さんに言おうと思っている言葉を独り言で呟いた。


 千葉の内房、東京湾を望む君津の町の手前で、路肩に車を止め、しばらくタバコを吸った。

 小一時間ほどそうしていただろうか。

 レイナは後部座席のトランクを開けた。

 そこには男物の服装と一式が入っている。

 レイナは初めて自分に仕事を与えてくれた軽井澤新太という人間のことを思った。初めて他人のためにスクリプトを考えたのは軽井澤事務所の仕事だった。そういう時間を与えてくれたのが軽井澤さんだ。それまではレイナは全て自分のためにスクリプトを書いていた。誰かの調査のような受注業務として、頭を使ったことはなかった。誰か他人のために仕事をすることが、レイナには初めてで、それは明らかに新しくて別次元だった。

 もう、軽井澤さんとの仕事をはじめて八年にもなるのか、とレイナは右手を見つめて思った。

 会ってはいけない、触れてはいけないと思いながら、レイナは無性に軽井澤さんに会いたいと思った。

 レイナはもう一度、その男物のスーツを見つめた。



百十二 不忍池(銭谷)  


 過ぎ去ろうとする夏が午前の上野不忍池を冷やしていた。

 モーニングを終えた時間帯で客は疎らだった。手前から二つ目のテーブルに石原は横顔で座っていた。

「おはよう。」

「おはようございます。」

わたしは席につきながらコーヒーを頼んで、タバコに火をつけた。

「すいません。収穫ゼロです。朝から見失いました。」

日比谷線の六本木駅で太刀川に似た人間を見つけたのだが、本人の確証ないまま追ってしまったが、よくよく確認すると別人だったというのである。

「今朝は太刀川は、いつもの時間にはいなかったようでした。」

石原は一日を失って、時間を無駄にしたことを悔いていた。わたしは、懐かしいものを見る気持ちになった。

「君はそういうけど、土台一人で尾行など無理な話しだろう。」

本当は一言目に、毎日ありがとう、それだけで嬉しいのだ、と言いたかった。が、成果の出る前に褒めるのは得意ではない。

「はい。しかし、気をつけます。」

そう言った石原は何故かいつもと風情が違う感覚がした。わたしは女性の顔面を見つめ返すのが苦手だ。中学校の頃からそのことは変わらない。

「すいません。」

「すいません?」

「眉ですよね。」

「まゆ?」

時間を挟んでやっとわかった。違和感は眉毛だった。それが今朝の変装の跡だ、ということが落ちてきた。

「いえ、昨日の今日なので、気になってやってみたんです。その自意識過剰だったかもしれません。」

「変装を。」

「今後も幾度も太刀川を追いたいので、顔バレのリスクだけ減らそうかと。でも中途半端な変装のせいで、視界を狭くしてしまい、見誤りをしました。」

石原の座席の後ろに芸人の隠し道具のようにボストンバックが置いてあった。変装というのは、無駄に嵩張る。あまり見せたくないと言う風情で石原が言ったので私は言葉を重ねなかったが、彼女なりの変装の道具、着替えやカツラが入ってるのかもしれない。

「何だか、不慣れですいません。」

「いや、ありがとう。」

わたしは思わずそう言った。

 単純に変装したことについてではない。石原のその姿勢に自分の感謝があった。わたしが頼んだことをやるのではなく、わたしが頼みたいと思ってたことを、言葉を聞く前にやってくれたのだ。わたしの周囲から消えて行った、かつて刑事には当然存在した喜びが目の前にあった。

「ありがとう。」

わたしは恥じらいもなく言葉が出ていくのを感じた。脳で考えたものではない脊髄からのわたしの言葉だ。わたしは日頃、計算でこの美しい日本語を使いたくない、と思っていた。夏の終わりは、少し素直になれるのかもしれないと、なぜか思った。

「いえ、もっとがんばります。すいません。」

石原はまだ完成もしていない、自分の変装については語らず、奥床しい、空気を保ちながら、反省ではなく対策の弁をいくつか述べた。わたしはそれらに過去の経験からの助言をいくつか試みた。そういう会話の中でコーヒーが届いた。

「太刀川の交友関係について、もう少し調べてみました。」

「うむ。」

「意図は分かりませんが、経済関係の人間以外も、交流があるようです。」

尾行一日で、なぜそんなことが判るのだ、という質問をわたしは一旦飲みこんだ。小板橋は、これを始めるのに、質問だけの打ち合わせを三回は要求するだろう。自分で考えてない人間は会議ばかりを求める。

「たとえばですが、慈善のようなこともやっています。」

「慈善?」

先日の会話で、太刀川が慈善という言葉を出したのをわたしは思い出した。

「昨日の埼玉は多分それです。」

「うむ。」

「パラダイムを経営していた頃には慈善事業は、領域になかったですよね。」

パラダイムを経営していた頃に、太刀川が慈善事業などに手を出したことはありえない。そんな精神状態ではなかったはずだ。

「まあそうだな。」

「例えばなのですが病院関係とか、難病の人間の支援や、交通事故の被害者支援、犯罪被害者支援、そういう場所にも足を運んでいるようです。」

「やつはそういうインターネットの顔を消している。自分で発信をしてるわけではないだろう。どうしてそれを?」

「はい。太刀川龍一がネット上にアカウントのないのはおっしゃる通りです。」

「うむ。」

「ただ、逆に、彼が関わった慈善団体の側が地味にSNSなどにあげたりしているんです。」

わたしは驚いた。そんなものを拾う方法が想像できなかった。

「それを拾ったのか。簡単ではないだろう。検索してすぐ出るならば、今のように世の中がここまで太刀川を忘れないだろう。」

「地道なパソコン作業は大切だと警部補は仰ったかなと。」

「パソコンか。」

「いえ。Googleのほうで画像検索がリリースされたので、使ってみたのです。意外と拾えたので、自分も驚きました。」

「画像の検索?」

わたしは上野で饒舌に酔ったときに多くのことを嘯いた自分を恥ずかしく思いだした。自分なりに様々なことを調べてきていたつもりだったが、やはり一人の作業や、ものの見方には限界があった。そしてやはり、わたしはもはや古い人間だった。

「なるほど。」

「慈善団体側が、自分らのホームページに来訪者の写真をあげたりします。太刀川の個人名が記載されてはいませんが、集合写真のなかに太刀川が写っているものが幾つかありました。時季的にも、パラダイムを辞めた後です。」

「慈善団体側の、写真ということか。」

「太刀川の名前の検索では出てきません。画像検索で人物認識された場合にだけです。」

石原は、そういって、適切な位置に灰皿を置いた。

「それと。」

少し、石原は思うことがあるらしい。

「どうした?」

わたしはタバコを蒸しながら、伏し目にコーヒーの漆黒の細波のほうを見つめた。

「その、僭越かもですが」

「気を使わないでいい。我々は他に仲間はいない。」

仕事はできる奴が進める。どんなに若くても関係はない。

「はい。その、なにか、彼の中には必死さがあるように思えてなりません。」

「必死さ?」

「はい。必死に生きている、というか。のどかに、手ぶらで歩いているようにも見せているのですが。」

「……。」

「朝、六時からです。まだ検証していませんが、銭谷警部補のころから続けて毎日これだとすると異常です。」

「うむ」

「何よりあの若さで成功していると、遊びの方で普通は派手になります。それなのに、警部補が先日おっしゃったように、夜の街に全く向かわなくなった。」

「うむ。そうかもしれないな。」

「以前は、六本木の界隈でそれこそ夜な夜なの賑わいを呈していたようには思いますが。まだまだ遊びたい盛りだと思うのです。」

若い石原から、遊びたい盛り、と言うある種、冷めた言葉が出てきたのは私には意外だった。変装の後のせいか石原はスーツの襟が少しだけズレていた。

「加えて、やはり自分の中で腑に落ちて無いことがいくつかあります」

「例えば?」

「まず、インターネットを辞めているというのは本当なのか?これだけの人と会っていると逆に不便になる気がするのです。情報もとれない。」

「うむ。」

「あと、以前申し上げた部分に近いのですが、やはり、その地下鉄に乗ると言うところがちょっと不思議で。なんというか、金があるなら、タクシーで移動すればいいはずです。東京はそこまで広くない。地下鉄で移動するよりもよほど早い。」

「どうだろうか。わたしも人のいない地下鉄は好きだが。」

わたしは今の石原とかつて同じことを考えたことを思い出していたが、あえて逆のことを言った。まだ朝の日課を変えていないことに、その疑念は強まる気もしている。

「警部補は地下鉄がお好きなんですね。」

「……。」

「太刀川と趣味が合うかもしれない。」

「わたしが?」

「いや、そう言う意味ではなくて」

「どういう意味だ。」

「いやなんでもございません。すいません。」

石原里美は、飲み込むように言葉を止めた。

「まだ初日だからな。」

「はい。」

「この方向で少し続けてもらうのが良い。尾行は毎回成功させる必要はない。」

「ほんとうですか。」

「本来尾行は大勢で行う。個人の作業には限界がある。わたしの顔が割れてることもある。人員が少ないのは申し訳ない。むしろ無理をしすぎないで継続してもらいたい。」

石原はそれを聞くと少し安堵したような表情になった。

「かしこまりました。」

声が美しく静かに喫茶室の小豆色のフェルトの壁に馴染んだ。

「それと。」

石原はまだ言葉を残していた。

「銭谷警部補。このあと少しだけお時間ございませんか。」

「時間はあるが何だ。」

「ここは湯島ですよね。」

「その通りだ。」

「前回の話の続きです。湯島についてちょっと気になっていまして。」

「気になったというと?」

「太刀川の創業の関連で、つまり創業の関連するとある部屋を不動産屋に聞いて調べたのです。」

「部屋を?」

これも早い。先手先手と様々なことを動かしていく。繰り返しだが官僚風情の後輩たちは手を動かす前に手順を重視する。手順よりも捜査が進むのは四方八方に手順の確認より先に先手で手を動かすことだ。

「はい。今の太刀川はオフィスも持っていません。何らかの秘密の作業を行うならば、都合がいい場所が必要なのではないかと、少し探ったのです。」

「なるほど。」

「もしお時間があればここから近くですので、見てみませんか?その辺りを含めて歩きながら話せればと。」




百十三 思い出(軽井澤紗千)


 一昨日に紗千が送った父へのメッセージには返信は無かった。紗千は返信さえないのが少し気になった。

 大学の午後の授業が突然休講になったので、午後、多摩川に向かった。

 ボクシングでもしていたら、父が来るような気がしたのだ。たまに、自分は父と会いたくなる。それを正面から言いづらい性格なせいで、この多摩川のジムは重宝している。練習した帰りに、夕食を一緒にしたり、少し話すだけでもいい時ってある。家族の感じがする。

 父はいなかった。

 なんとなくジムの外に出たくなって河川敷を走った。

 紗千は走りながら同じように河川敷を走った昔を思い出した。

 多摩川ではなく、別の街だ。

 茨城県の方角、たしか取手行きの緑色の電車の駅を降りて、柴又の帝釈天の方に伸びる京成電車の横の道をおおきな川の河川敷まで歩いた。その先に父が通っていた古いボクシングジムがあった。母が仕事で遅くなるからと急に言われたのがきっかけだった。

 まだ父が会社を辞める前、いまから十年以上前、小学生のときだ。いつもの通り母から送られてきたスマホの地図を頼りにそのジムに辿り着いた。

 父はあの頃はテレビの仕事が忙しくてほとんど週末でさえ会えなかった。だから父に会いにいくのはいつでも楽しみだった。

 その日、ジムにつくと父がいた。

 ところがその日の父は、いつもの父とは違っていた。

 いつもと違う人間が、その日は何かに取り憑かれたように、大きな吊された茄子のような袋(サンドバック)を叩いていた。顔が別人だった。恐ろしい顔をして茄子の袋を殴り続ける不気味な大人がいた。どう考えてもそれはいつも優しく紗千に話しかける父とは違った。怖くて話しかけられず紗千は外に逃げた。堤防から坂を降りた中段の河川敷でぼんやりしていた。いや、心を落ち着かせるために、ずっと川を見ていた。川が左から右に流れていくのがわかった。きっとあっちが東京湾だろう。

 何かが怖い気がして、逃げて、ずっとひとりで泣いていたらしい。

 前後の記憶も思い出せない。

 しばらくして、

「なんで泣いてるんだ」

父の声がした。父に背中から抱きしめられた。その温もりは思い出せる。顔を見せたその時の父は、あの暗いサンドバックを叩く印象が綺麗に抜け落ちていた。父はいつも通り、家で紗千に微笑む父と同じだった。

 十年前だろうか。

 父、軽井澤新太が、放送局の報道記者をやめる前だ。

 たった一度、食事の誘いのメッセージに返信がないだけで、なぜか紗千はその頃の父のことを思い出した。不思議だった。ほとんど思い出したことのない記憶だと思った。

 何故か不安のような雨粒が心に降るように思えた。



百十四 竜岡門 (銭谷警部補) memo 写真のくだりだけ


 石原とわたしは湯島の喫茶店を出ると不忍池から昌平坂を上がった。

 右に三菱財閥の名残を残す旧岩崎邸のあたりを越えると本郷台になる。

 歴史ある坂は微妙に蛇行しながら台地へと上がって行った。わたしは歩きながら、石原の意見と自分の脳裏を整理していた。

 

 ・太刀川の株式売却後の金の使い方。どう使ったのか。

 ・毎朝の地下鉄は継続している。理由は不明である。

 ・彼の世を捨てたようには見えない表情。石原も同感。

 ・慈善への傾倒。パラダイム時代にはなかった。


石原の指摘した竜岡門ビルディングは春日通りの坂を上がったあたり、少し横道に入ったところにあった。ビルディングの片方の側面にこの辺りでは珍しく蔦が緑に密生していて四階の上まで壁を覆っていた。その横を鉄製の階段が壁に突き刺す形でついていた。エレベーターはないようだった。

「ビル、というほどでもないか」

「そうですね。四階建てですかね。」

石原はスマホを手に写真を撮りつつ

「太刀川は先日、この竜岡門ビルディングの方に歩いていった、ということだったな。」

「はい。正確には部屋に入ったところを目撃してはいませんが、不動産会社の話と合わせると、おそらくそうだと思います。生活の様子はないですが、光熱費だけは継続しています。」

「部屋は、使われている、ということか。」

わたしはそう言って、横を向いて石原の横顔を見た。石原はビルの四階あたりを見つめたままの頬だった。上野の居酒屋とちがい、折からの陽を受けて肌が健やかに輝いていた。

「ここの四階は、少し裏事情があるのかもしれません。」

「裏事情?」

「はい。じつは、パラダイムの創業は六本木ということになってたと思いますが、それよりもっと前に、ここを登記していたんです。」

「パラダイムの?」

「はい。パラダイム自体の記録には残っていないんですが、当時の取引先の方に残っていました。」

これも随分と早い。適切な裏取りが常に進んでいる。

「ふむ。」

「なぜ、この場所を記載していないんですかね。創業の場所なのですが。」

「創業の場所として、記載していない?」

「それが気になりました。普通だいたい、ネット企業は創業からの歴史をホームページで語ると思います。でもこの部屋は、過去から消されている。実際色々語られたパラダイムの創業のころの武勇伝にも一切出てこないです。よくあるじゃないですか。四畳半一間でパソコンを繋いで始めたみたいな。」

「よくあるかもな。」

「はい。四畳半ではないけども、何だか気になったんです。さらにおかしなことに、会社の株を手放したあとの今になって、太刀川はこの部屋にいた様子がある、というのが。」

わたしは、再びビルディングの四階を見上げた。

「部屋は四階なのか。」

「はい。ワンルームですね。本当の学生の一人暮らしのような狭い部屋です。三階も含め同じ間取りですね。」

石原は、横顔のままずっとビルを見上げていた。今朝の変装の名残だとおもわれる強めの眉毛のむこうに夕焼けが始まっていた。

 竜岡門ビルディングを後にすると、我々はゆっくりと、本郷の商店街の方に向かって歩いた。

「ここでも、気になったことがあるんです。」

石原は歩きながら、呟くようにそう言った。

「気になったこと?」

「これは自分の意識の過剰、でしかないのかもしれません。」

本郷三丁目の駅は商店街の奥にあった。東大の学生向けの商店街なのだろうか。むずかしい参考書や辞書をならべているような書店の合間に、普通にパチンコや喫茶店が挟まっていた。

「ここです。」

駅の改札までたどり着いたところで、石原はわたしに向けて振り返った。

「ここ?」

石原の指さしたのは駅の古本置き場だった。

「太刀川は、ここでじっと本を選んでいました。」

「本を?」

「古本ですね。本郷文庫って書いてありますが。東大赤門の最寄りの本郷三丁目の駅らしいというか。」

「太刀川と古本、というのが結びつかないな。」

「はい。そうかもしれないです。ただ実は、自分でも試したんですが、携帯電話を持たないで地下鉄に乗るとすごく暇なんです。だから、こういう場所は大事なのかもしれないですね。」

石原はわたしに話しながら、ビルディングの時と同じように話題の対象をスマホで撮りながら話していた。わたしは駅の壁をくくり抜いただけの枠に、所狭しと並べられた古本の列を見つめた。西陽が入る古い駅舎に同じように古い本の集まりが似つかわしかった。

 そうして石原とわたしは少しの間、そこで沈黙になった。少し間合いが悪いと感じた。石原には珍しいなと思った、その時だった。

「銭谷警部補、今日はありがとうございました。今日の最後と言ってはなんですが、銭谷警部補にもうひとつだけ確かめておきたいことがあります。よろしいですか?」

「確かめておきたいこと?」

「ええ。」

「具体的にどの部分だ。」

わたしはさっと、一つの予感が体を刺した。石原はそのわたしの感覚を見て取ったように真っ直ぐこちらを向いた。

「金石警部補、のことです。」

わたしは顔面の筋肉が波打つのを感じた。

「銭谷警部補とこの太刀川の関連の捜査で、組んでいた捜査二課の金石警部補、いや元警部補のことです。まだ銭谷警部補から、一度もお話を頂いておりませんので。」

石原はわたしの瞳を見つめていた。 


百十五 空想後 (赤髪女)


 田園のような光景を思い出そうとしても、思う通りにならない。

 おかしい。さっきまでずっと、気分良く進んでいたのに。

 自分の脳細胞が求める景色が途切れる。

 少しずつヒビが入る。スマホの画面が割れるみたいに。

 指がひっかかりなめらかに滑らなくなる。

 やがて、寒気がやってくる。


(薬が切れてきた。)


 気がつくと、お父さんは別の女の人と歩き始めた。お母さんも。別の男の人と暮らし始める。私と会う時はお父さんとお母さんは不思議な白い目の見えない御面(おめん)をするようになる。

「真美子のことは大好きだよ。」

「アイドルの仕事頑張ろうね。」

そう言っていつまでも二人とも不思議な白い御面をとってくれない。いや、もしかすると取りたいのに取れないのかもしれない。お父さんとお母さんの御面を取ってあげなきゃいけない。体に寒気が走る。脳の細胞が、不思議で不快な針金とブリキ音のコンサートを始める。昔の歌を音程を外して歌いだす。昭和の歌。なにかの、ドラマの主題歌。不安がくる。

 現実に戻っていくのが怖い。せっかく、いい形で仕事も進めていたのに。早く薬を飲まないと、田んぼの夕焼けに戻れなくなってしまう。



百十六 河川敷 (佐島恭平)


 東京湾を見下ろす葛西ジャンクションを駆け上がり右折し、高速道路を北上していく。大型のトレーラーは、いくつかの橋を越えやがて高速を降りて市街地に入った。地図を見ると、都心から隅田川、荒川、江戸川と、主だった一級河川があり、その合間に細かく綾瀬川、新中川、中川、旧江戸川と、様々な水路が行き交う。指定された場所は千葉の近くまで行った、江戸川の土手だった。トレーラーは河川敷の一角に停まった。

 すでに、夜風が静かに吹いている。星のない夜空に、満月ほどではない月が雲の狭間から出ていて、少しの明るさを地上に投げている。

 黒いサングラスをしたスーツ姿の佐島は、トレーラーを降りるとしばらく歩いた。そうしてメールをやりとりして、細かい場所を合わせた。ようやく待ち合わせたもう一人の男に、快活に手を振った。

「ご無沙汰だね、軽井澤さん。」

「佐島さん。ごぶさたです。」

「突然で、申し訳なかったね。」

「いえ。偶然、場所も都合が良かったみたいで、よかったです。」

「そう。偶然、湾岸道路にいたんだよ。偶然だ。久々にあえて嬉しいよ。」

「こちらこそです。」

「レイナの仕事っぷり、は最近はどう?」

「はい。とても助かっております。探偵業もかなりデジタル化しておりまして。彼女(レイナさん)の才能にとても助けられております」

「そうか。良かった。」

光のない漆黒の川が無言で流れている。野球場が三つも四つも並ぶ草原の横を土手がなだらかに高台を作っている。誰もいないその土手の上で、二人の男は立ち話をはじめた。

 何年ぶりだろう。男たちはそれぞれ思った。夏が終わった後の、熱を失った夜風が河川敷を撫でていた。静かだった。ふと、どちらともなく歩きながらの会話になった。

「軽井澤さん。少しお疲れのように見えるが。」

「そうかもしれません。」

「例の新しい案件かな。」

「ええ。ご存知ですか。」

「レイナから聞いている。葉書と、もろもろの暗号が複雑という。関係してる人間も随分怪しいようだ。」

「はい。」

「そのことも含めて、話をしたくてね。今日は時間をすまない。」

「いえ。佐島さん。逆にこんな東京のはずれまで来ていただくなんて。」

「ちょうど葛西まできていてね。運がいいと思ったのだよ。ぼくもね。葛西からこの辺りは道が一本だからね。ちなみに今日は、この辺りを調査していたのですか?事務所からは随分遠いようだが。」

「そうですね。そんなところです。」

「そうですか。」

「はい。」

佐島は、ゆっくりと川の方を眺めた。川に沿って高速道路の灯す列が遠く埼玉の方まで走っている。

「ところで、です。レイナとも話しているのだが。」

「はい」

「軽井澤どの。あなたは、今の案件、つまりあの二人、いわゆる風間だとか守谷とかの件はどういうおつもりかな?」

「どういうと言いますと?」

佐島はそこで息を整えた。今日はそのためにここに来たわけである。

「つまりその、直感というか、その、これは、レイナの意見なのだがね。」

「レイナさんの?」

「ああ。わたしは仕事の現場のことはわからないのでね。」

「はい。」

「一連のその風間らの流れに軽井澤さんがどうして首を突っ込むのかというかね。不思議に思ってるのだ。いや、不思議というよりも、不要におもうのだ。」

「……。」

「まあ、その、実は、レイナから聞いたのだが、この件は深く調べていくと、少し古い時代の出来事と絡んでくる可能性もあるのだ。あくまで仮説なのだが。」

「古い時代ですか。」

軽井澤はすこし表情をあげた。見つめられたせいで佐島恭平は思わず黒いサングラスを指でいじった。

「ああ。その古い時代は、世の中というものがね、まだデジタルではない時代だ。もう世の中が変わってしまったけども、昔誰もが、スマホも、ネットも持たない時代があった。」

「……。」

「そこにじつはね、断絶がある。いわば社会情報の過渡期だ。なのでレイナの得意とする、最新の調査がなかなか思う通りにいかないのは彼女が当初から申し上げた通りだ。」

「はい。そのことは、別のお仕事の中でも、幾度かお聞きしておりました。」

「今回はなんとか、その葉書などのアルファベットの並びなどにおいて、またいくつかの仮説において、不得手とはいえ、この件を論理的にネット上で整理し始めた。」

「はい。認識しております。」

「そう。その際にだな、その、レイナから予感というか、何というか、随分、これはよろしくない過去に向かっていくように思えてならないという、直感があったそうなのだ。」

「よろしくない?」

「ああ、彼女なりのコメントがきているのだよ。うまく説明できるかわからないがね。彼女はまず、風間と守谷のことも調べたんだ。なんとなく犯罪者の香りがするとなっているからね。でもそちらはなぜか一切問題が出ない。いや、彼らのアカウントは犯罪者や反社会的なアカウントではない、真人間の一般的なアカウントだ。つまりちゃんとしている様子があるのだ。これはレイナにはある程度意外だったそうだ。すぐに何かの足がつくと思っていたのだ。」

「……。」

「それだけなら、こうやってわざわざ私、佐島があなたに会いに来ることなどない。」

「……。」

「しかしだ。あの葉書なのだよ。アルファベットや、風間らのことをデータベースの一角として、機械での計算を繰り返させ始めてからだ。当然あらゆる機械学習は、その都度アルゴリズムや、初期要素の起き方で計算の結果は変化する。とはいえ機械だから答えは提案してくる。そうやって計算は進めていくでいく。そこでね、突然、関連事項にとある事件が上がった。つまり、風間や守谷の過去がそういうものに絡む可能性もあるという計算が出たのだ。葉書のアルファベットを混ぜて機械が読み込むと、おかしくなるのだ。純正に風間、守谷だけではそうならないのに。」

「ーーつまり、葉書を混ぜて調べると、なんらかの過去の事件につながっていく?風間、守谷だけではそうならないのに?」

「機械というのは予想はしない。予測だけをする。何かの根拠がない限り予測はしないから、なんらかの理由があると思った。しかしレイナがいくら調べてもその理由が出てこない。繰り返しだが、彼女の不得手であるだいぶ昔のインターネットが社会に存在していない頃にまで遡るからだ。しかし」

「しかし」

「しかし、やはり計算をどう繰り返しても、過去の事件、しかもおぞましい殺人の事件に収斂していくようすが強くあるらしい。」

「悍ましい事件ですか。」

「ああ。レイナ自身、もう間違いないと仮説しているかもしれないーー。」

そこで佐島はじっと軽井澤を見つめた。サングラスの中でも黒目を見つめていることが判るような、そういう間合いだった。

「殺人事件、過去の問題の事件に絡むくらいならば、リスクある執着などせずに、探偵としての協力などやめて仕舞えばいいじゃないかと、いうことですよ。軽井澤さん。世の中の闇に手を突っ込むのは危険でしかない。」

「執着ですか」

「ええ。これは執着に思えてならないのだ、と。」

ここで、佐島は少し咳き込んだ。言葉を出すのを少し苦しそうにしながら、

「軽井澤さんが何故そこに向かうのか?レイナはあなたの執着が腑に落ちないと言うのだよ。」

佐島はそこから、ずっと考えてきたことを強めに言葉にした。それは佐島の心の中では苦しい言語作業だった。

「一般論で恐縮ですが、人間は凶悪な案件には触れない方がいい。警察や司直の仕事なんだから。知る必要もない凶悪な事件の因果に巻き込まれれば、日常生活のさまざまなことが、悪い影響を受ける可能性がある。風間や守谷は凶事の関係者である可能性があるし、もしかすれば、彼ら自身自らが今から新たに何らかの罪に絡んでくるかもしれない。彼らは追い込まれている様子がある。」

佐島は言葉を押し殺すように置いた。それらはここに来る前に幾度もトレーナーの中で整理した言葉だった。佐島の頬には相変わらず夏の終わりの夜風が、河川敷の草の夜露に熱を失いながら流れていた。おそらく、今の時刻は、海の方角へゆっくりと向かっている。

 佐島はそこで言葉を止めた。言葉は伝わったはずだ。伝えるべきことを伝えた。あとは軽井澤さんの考えになる、と。しばらく沈黙をしようと思ったときだったーー。

「佐島さん。お言葉、ありがとうございます。ですが、今はまだ、明確に申し上げられないが、実は、わたくしには一つの事情があります。そのせいで、この案件を損得勘定で放擲できないのです。執着と先ほどおっしゃいましたが、はい。そのとおり、執着があるのです。」

「執着がある?」

「はい。まだ申し上げられないですが。」

「そんな、リスクを冒す必要が本当にあるのですか?」

「ええ。今後このまま、このことが、終わってくれるならそれでいいのです。が、どうも、まだこの先に続いていく、もしくは、何かに向かっていく気がしてならないのです。いま佐島さんが仰ったように、新しい何かの罪の予感があるのです。いや、既にそのことに向かっているのではないかと懸念しています。」

「……。」

「そうなるとき、つまりこの先に何かが起こる時に、わたくしとして、絶対に避けたいことがひとつあるのです。」

「絶対に避けたいこと?」

「いや、これは、もう、わたくしの精神の病みたいなものでしてーー。申し訳ございません。少しだけ、待って欲しいのです。」

「……。」

「間違った方向に行ってしまうことだけは、回避したいのですーー。この葉書の周辺で、最悪の状況が起こることを、わたくしは、どうしても、避けたいのです。」

それは佐島には予想外の言葉だった。



 立ち止まって話すのが苦しくなり、どちらともなく河川敷を歩き始めた。歩いたのが海に向かってだったのか、佐島は今思い出しても、その方向がどちらだったか分からない。目で見ている景色さえ確認できていないくらい、混乱していたのだ。

 その後、夜の闇の中で、二人の男は、横に歩くもう一人を意識しながら、片言の言葉を、喋った。その言葉たちはそれまでと違い、明らかに会話にならなかった。言葉の終わりに声の方角を変えたり、歩みを少しだけ緩めたりしていたが、軽井澤が

「自分の執着です。」

と再び言い切った時、二人はどちらともなく、歩みをやめて、土手の草むらに腰をかけた。

 そのまま二人は、懐かしいものを一緒に眺めるように、河川敷から川を見ていた。数日の晴天で、水量が少ない河原の広がりの真ん中を、無言の爬虫類のように艶のない川面が蛇行していた。

 この二人が実際に対面したのは二回目だった。たったそれだけの逢瀬であるにも関わらず、何故か長い過去を一緒に歩いた人間同士の安らぎが、双方にあるように、佐島は感じた。

「軽井澤さん、わかりました。いや、説明は十分です。わかりました。」

「……。」

「あなたにも来歴があるでしょう。かくいう私にも思うところがあります。今日は時間を本当にありがとう。レイナからの伝言を伝えることが私の仕事でしたから、もうこれで十分です。」

「レイナさんによろしくお伝えください。」

「もちろんですよ。」

そこで佐島は少し躊躇した。なにか言おうとしたり、やめたり、というのを繰り返した。そうして三度目の正直という間合いで突然、佐島の声で

「一つお願いがあります」

と言った。

「なんでしょうか」

「軽井澤さん、握手してもらっていいですか。」

「わたくしがですか?」

「はい。もしできれば。」

軽井澤はその時、疲れていた表情を、一瞬輝かせるような笑顔をして、佐島を見つめた。その表情こそが軽井澤の人間としての魅力であることを、軽井澤本人はまるで理解をしていないだろう。

「もちろんです。」

二人の男はそうして握手をした。握手をして、そのまま次の言葉を探すようにしたが、ふたりとも言葉が出せなかった。そのとき佐島は、いや、佐島恭平を演じたレイナは節子さんが渋谷の街並みの中でしゃがみ込んで教えてくれた、<手のひら>のお話を思い出していた。




百十七 Kの説明 (銭谷警部補) 


 本郷三丁目駅の改札、古本文庫置き場の前だった。

 石原里美はそれまでとは明確に表情を変えてわたしを見つめていた。

「今回のことでいろいろなことを教えていただき感謝しています。ただ、銭谷警部補が私にあえて言わないことがあるのはなぜですか?私なりにこの仕事に、自分の時間を費やし、刑事としての仕事を成立させたいと思っています。」

「そうだな。」

石原の言うとおりである。金石のことを話題として避けてきたのはわたしだ。

「すまん。」

「いえ。」

「金石のことだよな。」

わたしはその言葉を置いた。精一杯、声を振り絞ったのだが、声は小さかった。

「いろいろ事情があるのかもしれません。言いづらい事情も。ただ、一切説明の中に出てこないのも気になりました。」

わたしはそれでも石原が配慮した言い方をしていることに感謝した。

「今、話した方がいいか。」

「お任せします。もしできればお願いします。」

「このまま、歩きながらでもいいか?」

我々は駅を出て、商店街から本郷の大通りに出た。

「すまん。ここまで話さないでいたことは、まず、申し訳ない。この通り謝りたい。」

歩道を並んで歩きながら、わたしはそう侘びた。本当は、面と向かって頭を下げたかった。今朝の金町駅での銀色の二本の線路が、本郷通りのガードレールの錆びた鉄となぜか重なった。自分自身への自己嫌悪が再来する。死にたい気分というのは、突然絵の具をバケツの水にバラ撒くように、広がる。

 思えば、朝の最悪の気持ちを切り替えてくれたのは、石原からの電話だった。そうやって今日は始まっていた。

「機会を待って、話さなくてはならないとは思っていた。」

「それは、私の首検分みたいなことですか。」

その言葉はきつかった。

「そうではないのだが、言い訳はする気はない。」

「いえ。」

「すまん。」

「でも、話しては頂けるのですね。」

うまく話す自信がなかったし、実際にどこから話せば良いのだろうか、というのも悩んだが、ひとつひとつ順番も気にせずに言葉を並べることにした。今石原は太刀川の事について背負って(しよつて)いる。仕事には<背負う>仕事と、<流す>仕事の二種類しかない。仕事を背負った刑事に順番は要らない。不明ならその都度訊いてくる。

 わたしは小板橋の前で披瀝した自分の説明能力のなさを気にせず、思うままに言葉を並べた。石原に向け、概要を繰り返しながら金石の周辺で触れずにいたことを逃げずに話す。力を抜いて、言葉を預けるように。六本木事件の全体を紐解くように、避けてきた金石を適切に登場させて、なぞった。

「…そこで、つまりある時期に警視庁に力が加わった。少なくともわたしもそう思っている。」

「……。」

「ただ、その確信をしていたのは、わたしよりむしろ、金石だった。金石はそういう存在だった。つまり、このわたしより遥かに情報人脈に長けていた。殺された死体から捜査を始める専門の自分より、捜査二課らしい経済的な人脈にも強く、またわたしも知らぬような情報源や、捜査方法を持っていた。」

わたしは、言葉を集めては、書き順も気にせず並べた。

 石原は黙って聞いている。わたしは、うまく伝わらない気がしたところでもう一度話を戻した。六本木事件をなぞり、そして金石と一緒に組んで、捜査した流れまでなぞる。気がつくと、同じ言葉を繰り返している。

 うまくまとまらないわたしは、一度空を仰いだ。呼吸の乱れを整えるように、一旦立ち止まって、石原を見つめた。

「すまん。」

「いえ。」

「こういうことの前に、大前提から話したほうが良いかもしれない。」

「大前提を、ですか?」

事実をいくら並べても伝わらない理由に、わたしは気がつき始めていた。

「ああ。事実の説明を重ねても、いちばん大事な部分がうまく伝わらない。すまん。」

「事実と別のことですか?」

「説明が得意ではない。わからないことがあれば、どこでも止めて質問してくれていい。」

「わかりました。ただ、一度で理解するように努めます。」

「どこから話していいか、うまく言えないが。」

「はい。」

「例えば、その、そもそも論だが、警察は正義の味方の側だ、という前提があると思う。」

「はい。そう思っています。」

「そうだ。それが、常識的な事実だ。でも、警察の中に万が一、犯罪者がいたらどうする?」

石原は少し歩調を変えた。

「まあ正確には犯罪者じゃなくても良い。たとえば、犯罪者のお友達や親族でもいいし、犯罪者が捕まると色々困る共犯者のような人間でもいい。そういう人間が警察にいた場合だ。」

「……。」

「更に、そのそういう人物が自分の上司だったらどうだろう。いや、更に、警視庁の雲の上の上層部だったらどうなると思う?これは具体的な話ではなく仮定の話だ。」

わたしは、そこで呼吸を置いた。金石のことを話すにはやはりこういうことを話すべきなのだろう。

「想像できませんが、多分、その人物を適切に逮捕したり処分するのではないですか?」

「残念ながら、違う。」

「ちがう?」

石原は少し驚いた声をした。本郷通りを我々を追い越して御茶ノ水の方に向かうトラックが地面を揺らした。

「少なくとも金石は、違うと言うだろう。」

「金石警部補、いや元警部補がですか。」

「そうだ。やつはその点を明確に、指摘するだろう。例えば、数学の期待値を使って、実際に過去の警察の歴史を紐解いて語ってくる。」

「どうしてですか?」

「我々警察が【個の人間】ではなく組織だからだ。」

「組織だから?」

「若い頃は組織のなかにある異常な性質というものに気づかない。」

年長者の言葉として、わたしは悲しい事実を伝えるように、声を小さくしていた。石原は純粋な若者の表情でわたしの次の言葉を待った。

「少し法律的な問題に入るがいいか。」

「はい、もちろんです。」

「法律というのは、一人の罪を裁くことが可能にできている。」

「そう思います。」

「だが、実は若干の矛盾がある。法律は、罪のある人間を裁くのはうまくできているが、罪のある組織を裁くことはうまくできていない。対応する法律が曖昧なんだ。」

石原は首を傾げた。わたしは言葉を探して、

「たとえば、組織が犯罪を犯しても組織に懲役が下るわけではない。とある会社が、懲役五年、のようなことにはならない。その中で、犯罪をした人間というものだけが選ばれて、選ばれた人間だけが罪を負う。」

「……。」

「例えば、捜査一課が処罰されることはないし、いくら組織ぐるみの犯罪があっても警察庁のどこかの部署・組織を懲役させることはできない。あくまで罰を受けるのは個人の人間だ。」

「組織でなく、個人の人間が罪を受けるというのは理解できます。」

石原は必死に理解しようという表情でわたしを見ていた。

「ありがとう。人間が犯罪を犯す確率はどれくらいだと思う?」

「はい。おそらく1%から0.1%ほどですかね。」

「凶悪事件で一万件、刑事犯罪全体で百万件ほどだろう。毎年だ。つまり単純な概算で、十年毎年足しあげればーー 」

「凶悪で十万人、刑事犯罪全体で千万人。まあ、再犯を数えなければ、ですが。」

「すごい数だ。」

「はい。十人に一人が犯罪をしている計算ですね。」

「警察官も同じく人間だとすると計算が合わないだろう?」

「……。」

「令和の今、全国二十万の人間がいる。この十年で二百人が凶悪犯罪で逮捕されていなければならない。」

「……。」

「明治の川路大警視の時代から、令和の今まで、警察組織の犯罪が明るみに出た数はあまりに少ない。数字が合わない。」

「警察組織が、普通の市民より罪を犯さないからではありませんか?」

石原はそう言ってわたしを見つめた。警察官の模範回答だなとは、わたしは言わなかった。

「どうだろうな。警察関係の犯罪率が低いということを信じたい気持ちはもちろんあるのだが。どこかの国の統計だったと思うが、人間の犯罪の確率というのは、職業ではさほど変わらないらしい。」

「……。」

「街中でも、どこでも、犯罪は起きる。当然警察官の中にも犯罪を犯す輩は存在するし、政治家にもエリートにも一定の犯罪者は存在する。でも逮捕されるのはだいたい、そうではない人間たちだと思わないか??」

「数の上では、そうかも知れません。」

「金石はそれを数学的にわたしに言っていた。数字の計算では警察が罪を隠蔽していると思う方が自然だと。」

「……。」

「組織は罪が発生した時にどうするか?その初動は想像ができるだろう?」

「罪を告発するのでは?」

「本当にそう思うか?」

「どういう意味ですか?」

「組織で罪が発生すれば管理職は間違いなく責任問題だよな?」

「…そうかもしれません。」

「だとするとどうなる?」

「罪を、つまり犯罪を隠す、ということですか?」

「そうだ。」

「でもーー。」

「日本人が認めたくない真実がそこにある。じつは、組織は罪を表に出さない。目を瞑る。もしくはなかったコトにする。いや、それが普通なんだ。もはや時代によっては、本人達がもはや罪とは自覚さえしない形にさえなっていく。石原にも、心当たりはないか?」

「……。」

「裏金だとか、歓送迎会の経費だとかが、これまで公然と使われてきたのを聞いたことがあるだろう。一度罪の周辺を隠し通せると人間はその罪を罪とさえ感じなくなっていく。我々が使っている金は血税だ。」

バーで金石が繰り返した言葉だった。

「警察組織にそういう犯罪行為が一切ないとわたしは言えない。つまり罪悪は存在する。そして悪事を犯して捕まらないでいる人間が組織には存在するということだ。」

「……。」

石原は小さく、自分を確かめるように頷いていた。

「でも決して表には出てこない。それらが表に出てこないということは、うまく隠せているということだろう。仮に金石がわたしに繰り返した犯罪確率理論が正しいとすれば、だが。」

わたしと金石はそういう形式が警視庁の中にあると踏んだ。もちろん、裏金とか、そういうことじゃない。六本木事件の幕引きの中でだーー。

「まあいい。これは仮説の話だ。」

「……。」

「もう少し仮説を広げていいか?」

「はい。」

「仮に、金石の考えの方が正しくて、警察組織にも、同じように犯罪があるとしよう、そうすれば、警察犯罪の大多数は発生したにもかかわらず世の中に出なかったということになるよな。」

「そうかもしれません。」

「そうだ。しかし警察の上意下達の命令系統は、本当にしっかりしている。警察組織において、上司の犯罪を安易に告発できる環境が存在すると思うか??」

「…告発できるとは、おもいません。」

石原はその時本郷通りの歩道で立ち止まっていた。

「そうだな。」

「……。」

「ということは、組織の中で、犯罪を隠す極秘の命令系統があるということだ。もしくは、犯罪だと判っていても、目をつぶる循環があるということだ。実際に、それは体感として、このわたしにもある。」

「どういうことですか?」

「まず、命令としては表に出ない、見えない命令が始まるんだよ。」

「見えない命令?」

「ああ。何かが起こるということだ。」

「何が起こるのですか?」

「普通は人事だ。もしくは人事的な懲戒だ。」

沈黙になった。

「金石はそうなった。」

「ちょっと待って下さい。かれは、依願退職だったと。」

「金石は、自分の人事を知っていた。」

「……。」

「そして、その人事が発生した力学の周辺で、逆に自分が握った情報の正しさを確信したのだと、わたしは思っている。」

わたしはもはや確信をまだ持っていないギリギリのところまで話していた。

「つまり、金石さんは警視庁に都合の悪い情報を持った。」

「ああ。やつは六本木のあの部屋にいた人間のーーあの部屋、35Westに出入りした人間の名前は全て把握していた。表向きで、週刊誌に出ているもの以外もだ。」

「出ているもの以外があった?」

「ああ。」

「しかしーー。」

「実際、金石とわたしは自分達の情報を、警察内で開示をしなくなっていた。つまり、開示に恐怖したんだ。当然だーー。もし、警察の中に犯罪者側との連絡ルートがあるなら、報告をすればそちらへ伝わるということだ。自分の身分を隠して情報源に向き合っている金石や奴に協力する人間には非常に危険だ。彼らは当然、六本木界隈の投資家だとか遊興人のひとりとして状況と向き合っている。名前も別だ。そこにいるだれひとりとして、捜査二課の警部補とつながるとなどとは思っていないだろう。」

「……。」

「犯罪者にとっては、犯罪情報を持った人間は何としても潰さねばならなくなる。だから、捜査情報は小出しには出来ない。完全な誰もが諦めざるを得ない真実を全貌から掴み、そして一気に一括で、証拠隠滅されない確信のなかで、お天道様の下に晒さねばならない。それが金石とわたしの合議だった。」

石原は静かに頷いた。もう一度、二人で歩くのを再開しながら、

「その合議の結果、警視庁の中で、わたしと金石だけ、調べることが変わって行った。その辺りが、危険の始まりだ。」

わたしは幾つか他の言葉で、内部を信じられなくなっていくことを説明した。つまりわたしに対して話しかけてくる人間には、上層部からくる裏の調査がある、という懸念を常に持ってきた、ということだ。

「申し訳ない。わたしは、君に対してもそういう目で、見ていた。」

「組織の側からの差し金、かもしれないとですね。」

「すまない。しかし、全ての捜査にこのことは当てはまる。何故なら、警察の上層部が何かの犯罪に関与しているならば、我々は仕事をすればするほど危険なんだ。」

歩いた先は御茶ノ水だった。神田川のガードレールのさき、聖橋越しに御茶ノ水駅が見える。オレンジと黄色の電車が聖橋の下をくぐった。崖の下に神田川なのか濠なのかわからない水が流れていた。

 わたしは一旦話し尽くした。そうして、もう一度、最初に話した六本木事件や、その周辺で金石とわたしが怪しいと思った懸案のことを時系列で説明し直した。石原は飲み込みよく、うなずきながら、ところどころ質問をしながら聞いていた。御茶ノ水の駅を越えて、神保町の下まで降りて、再び聖橋の方から坂を上がり、我々はまた同じ道を本郷三丁目に戻っていた。つまり、だいぶ長い時間を説明に費やした。わたしのなかで、かなりの部分を話せたというところで、石原がふと、

「ありがとうございます。」

といった。言わずもがな、わたしにはその言葉は救いだった。

「もっと早く話そうと思っていたのだが。」

わたしはタバコを指に挟んだまま、火もつけられずにいると、石原はわたしに向かって正視して、

「銭谷警部補にひとつだけお聞きしても良いですか?」

と言った。

「……ああ。」

「小職を、信用はしていただけたのでしょうか?」

掛け値を少しも感じない純粋で直線の眼差しだった。わたしは声を詰まらせ、ただ大きく頷くのが精一杯だった。おそらく唇はなんどもありがとう、と発していたは、声はやはり喉の奥で外に出るのが臆病なままだった。



百十八 潮の香り (レイナ)


 手のひらを見つめていた。

 この手のひらで、触れた人間は何人いるだろう。

 パソコンの指先で、さまざまに広がる体感とは全く別の、感覚。それは、レイナには忘れがたい、節子さんの言葉と重なる。

「みんな手のひらから先には、自分を出していけないんだよ。そこで血は折り返して、自分の心臓に戻ってくの。みんな人間は独り。そういう孤独があるのよ。」

だからこそ逆に、手を握るっていうのは大切なんだ、と教えてくれたのは節子さんだった。手を握ると、あらためて人間がわかるのだという。

 レイナはトレーラーの後部座席で全裸でうつ伏せていた。 

 耳元に当たっている衣装箱が硬かった。佐島である時間は終わったらしい。衣装は散らばったままだった。手のひらにだけ、軽井澤さんのあたたかい温度が残っている。レイナは軽井澤さんとの会話を思い返した。

(待っていてほしいーー。)

 何か明確な理由があるようで、その理由を説明できない苦しみをともなうような言葉だった。レイナはその言葉を言った軽井澤さんの表情を思い出していた。

 その時、音がした。

 メールだった。

 ふと、前方に置いた、Macの画面が明るくなった。

 

(御園生です。)


同じく軽井澤探偵通信社の御園生くんからのメールだった。軽井澤さんと同じく、レイナにとっては大切なビジネスパーソンである。おそらく、葉書の件だろう。

 潮の香りが車内(トレーラー)を通り抜けるのを感じた。軽井澤さんと会った河川敷はもうすこし草の香りが強かったが、いまレイナが車を停めている場所は河川敷からずっと海へと向かったところで、東京湾が見える場所だった。湾岸工業地帯にありがちな幾つものクレーンが、動物園のきりんの群れのように首を並べてるのが見えた。赤と白のしましまのきりんのようなクレーンの群れが夜の照明に光っていた。

 御園生君からのメールには、少し相談が書いてあった。



百二十 新木場  (赤髪女)



 ヘリウムの声の指示者に指定された場所は埋立地だった。

 渋谷から東京湾の海の下を潜るりんかい線を直通し、新木場まできた。

 指示者は妙に乗り物に詳しい、と思う。

 駅の単位で細かい指示がある。

 路線名と駅名、時には降りる階段まで細かく指示がある。

 駅から南に出ると、駅前に商店街もなく、都会とは思えない静けさだった。なにより生活の気配がない。生活そのものがある祖師谷大蔵とは大違いだと赤髪女は思った。

 夕暮れが始まっていた。空が広かった。 

 埋立地を沖合の方へ向かう幹線道路から、右折して百メートルほど歩いた。人の気配が何もない埋立地だった。住居はなく、工場と広大な車両置き場が広がるばかりだ。車両も、ミキサー車や工場関係の車ばかりで乗用車は稀だった。タクシーも走っていなかった。指示者から言われなければ永遠に赤髪女が訪れることのない場所だった。 

 その場所についた−−−。 

 細かい指示のとおりに、その一角に立つ電信柱を探して、金を入れた封筒をガムテープで貼り付けた。封筒に三万円だけ入れている。通行人は誰もいない。ここにきた人間が拾うのだろうか。指示者は「必ず夜になる前に帰れ」と言っていた。誰が拾うかなど興味もなかった。封筒が貼り付いたのを確認するとそのまま赤髪女はいま来た道に戻った。

(金を置いたら、その場所から電話番号の男に電話をしろ。)

(金をおいた場所を説明しろ。)

誰に電話するのか、は、説明はなかった。おそらく綾瀬の例の人間だろうけども、質問をすれば叱責されるだろうから赤髪女はその事は訊かずに言う通りの作業を行なった。

「はい、もしもし。」

男が電話に出た。

「オザキさま、ですか?」

赤髪女は、指示者にいわれたままの名前を確認した。

「そうですが。」

「今から申し上げる住所に、ご依頼のお届け物を置かせていただきました。必ず日没後に、お引き取りください。」

「……。」

「電信柱を探して、金を入れた封筒をガムテープで貼りつけてあります。住所は江東区の…。」

「なるほど、お届け物っていうのはなんだ。」

「お金です。」

「金か。」

「住所はメモできましたでしょうか。もう一度念のため、申し上げますか?」

「大丈夫だが、念のためもう一度聞こう。」




百二十一 検索相談(御園生)


 僕の提案で、軽井澤さんとレイナさんと三人でのzoom会議を打診した。

 軽井澤さんは、明らかに行き詰まっている。僕は早くこの状況を抜け出したい一心だった。このままでは通常の業務にも影響が出てしまう。

 まず、彼らが何者なのかを早く見極めたかった。相手がわかれば対処の仕方もあるし、もしうまく風間や守谷の一連と関わりを正確に断てるのであればそれはそれで軽井澤さんも喜ぶと思う。そのためのアイデアを少し考えてみたのだ。

 軽井澤さんは会議には入らないままだった。直前になって

「いま、すいません、参加できなくてすいません。」

とだけメッセージが来たところで、レイナさんがZoomに参加した。

「軽井澤さんは参加できないみたいです。急にすいません。」

「いえいえ。どうされましたか?」

いつもどおり変わらない、レイナさんの竹を割るような鋭角な声が帰ってきた。

「ちょっと、いろいろ困っているのが続いてすいません、僕の方でひとつ考えてみたことがあって。」

 僕は用件を言う前に、現在の状況を、改めてレイナさんに繰り返し話した。

 いきなり電話がかかってきたこと。そもそも前金も含めてひどい話になったこと。新宿歌舞伎町でのこと。池尻病院であったこと。二人に共通して送付されてきた葉書。消印の日付の違い。それから、軽井澤さんが、眠れてもいなく、困っているということも話した。軽井澤さんが、僕から見て真面目すぎて、必要以上に風間や守谷の如き二人のことを無視できないと言うニュアンスを最後に足した。

「そうですね。御園生さんも大変だと思います。」

レイナさんは忙しい人なのにゆっくりと、僕の話を聞いてくれていた。

「はい。正直どこかで、早く撤収したいと思ったりもするのですが。」

「そうですね。」

「はい。」

「ただ、軽井澤さんのことだから何かあるのかも知れないですね。」

ふと、レイナさんは少し、歯切れの悪い声でそういった。そのときだけ、いつもの美しい声と少し声色が違う気がしたのは、気のせいかもしれない。

「僕は、なるべく早く、このことを解決してしまいたい一心です。ただ、風間と守谷の携帯電話の番号程度しか把握できてないのですが。何とかして、現状打開しなきゃいけないと思っていまして。うまいやり方が、あればと思っているんですが。」

僕は、声を少し低音に落とした。探偵業法的にここから先は灰色のことになるからだ。

 僕が進めたかったのは、レイナさんの技術を用いて、ある程度インターネットの裏側の非合法的な手段に入ってでも彼らを調べてほしい、と言うことだった。警察にも行けない彼らを、多少よからぬ方法で調べても問題にはならないだろうし、二人が何故同じ葉書から逃げているのか、については、彼らのネット上の行動を探って、何かの繋がりさえ掴めば、一気に解決するかもしれない。たとえば、彼らのネット上の行動の中に共通事項が見つかればいい。

 正直な話、多少は法を犯してでも、いまの危機的な環境を安心して排除したい。そのほうが絶対に軽井澤さんにも事務所のためにもなるはずだ。そういう考えのもと一度だけ深く深呼吸をすると、僕はある提案をそこで行った。

「レイナさん、僕は、彼らのGoogleの検索行動履歴を引っこ抜けないかと思ったんです。そこで重複被ることがあれば、風間と守谷のいまの葉書以外の関係が見えてくるのではないかと思ったんです。故郷、出身、なんでもいい。母校とか。」

「……。」

「どうですかね。」

「…これは御園生さんが自分で考えたのですか。」

「はい。」

「面白いアイデアですね。」

「ほんとうですか?」

「はい。その切り口は考えてきませんでしたから。」

「僕はなんだか、風間と守谷が過去になにか同じ場所にいた気がするのです。軽井澤さんに聞いた話や、実際に守谷と一緒にいた時間のなかで、そんな気がする。葉書の理由みたいなものも、その周辺から起因している気がして、何か繋がりを見つけたいなと思って。」

そこまで話してから僕は、法律の問題があるのを意図して、

「少しまずいですかね。」

と、問いかけた。

「いいえ、いいアイデアだと思います。調査はアイデアですから。」

レイナさんは微笑んだような声をした。

「でも、諸々大丈夫なのですかね?」

僕は法律的な意味合いで聞いた。細かい話だが、探偵というのは、警視庁や警察が発行する免許事業だったりする。違法な調査をしていると、まあまあ簡単に営業停止、となる。そしてGoogleはまあまあしっかりと、違法な行為を定義して、利用規約を書いているだろうし、当然様々な監視もしている。加えて、風間や守谷のGoogleのアカウントに入ること自体が、誰でもできる芸当ではない、と感じる。

 ただ、レイナさんの技術を持ってすれば何かやり方があるのかもしれない。やり方によっては、可能なのではないか?そういう理由で、僕はずいぶん勝手で曖昧な問い掛けをしていた。

「大丈夫ですよ。信頼してるので。もしうまく行ったら、どこかで、気持ちを乗せた見積もりを作らせてもらいますから。」

「ほんとうですか。すいません。」

「いつも軽井澤さんと御園生さんにはお世話になっていますから。」

「いえ、そんな。」

「では少し、お待ちくださいませ」

竹を鳴らすような、空気をまっすぐに通す声をさせて、レイナさんは画面から退出した。

 電話を切る直前に潮騒のような響きが聞こえた。



百十九 本郷逍遥 (銭谷)


「そうして金石警部補は、突然刑事を辞めたのですね。」

わたしは過去をむさぼるようにして無心に喋っていたらしい。無心になれたのは、どこかでこの石原という警察官の仕事に敬意を持ち始めていたからだ。年齢は関係ない。一定の仕事を行う者同士に、最も重要な条件==仲間への上下などない敬意というものを、わたしは久々に思い出していた。

 目の前に石原の黒目がちな瞳があった。うつくしく墨を塗った宇宙のように黒く清凉としていた。

「その後、金石警部補、いや元警部補からは、なにも連絡がないのですか」

わたしはその質問に黙った。黙ったことが答えになる。

「無くは、無いのですね?」

「いや、正確にはわからない」

「金石さんに面と向かって会ったりしたのですか?」

「会ったことはない。」

「では、ネットか掲示板とか?」

「そういうものは使い方がわからない。」

「……。」

「メールが届く。」

「えっ。メールですか?本当に?」

石原は驚いた。わたしが私用のメールを昨日に至るまで持っていなかったことは、湯島の喫茶店で議論をしたばかりだ。ということはつまり、私用ではなく、警視庁のメールに行方不明の金石元警部補から届く意味になるのだ。行方不明で、情報を持ったまま消えたかも知れない人間が、どうやって堂々と本庁のサーバーにメールをしてくるのか?石原の小動物の目が野生のような鋭さを増した。

「いや、正確には本人ではない。いや、本人かも知れないが本人だとは確認ができたわけではない。」

「どういうことですか?」

「イニシャルだけKと名乗るメールが、毎回アドレスも違う形で届くんだ。アドレスは毎回異なる。」

「毎回?」

「一過性のアドレスなのだと思う。ワンタイムなんとかという。」

「ワンタイムパスですね。」

「ああそうだ。それは、迷惑メールに溜まっている。」

「どんなことを?」

「取り留めのない内容だ。はっきりいって。」

「とりとめのないのになぜ金石元警部補?と?」

わたしはそこで、息を整えた。

「内容が自分と金石しかわからない微妙な内容だからだ。ただ、当時の捜査の具体的な情報があるわけではなく、二人で飲んで話した考え方などが、やんわりと反映している、とでもいうべきかもしれない。本を読めとか、説教じみた内容が多い。」

「本を読め、ですか。よく、一緒にお酒を飲まれたのですか」

「数を重ねた意図はないが、仕事の終わりに酒場で落ち合うことが多かった。」

「なるほど。」

「メールには、捜査の内容などは記載されたりしない。まあ、そんなものが書いてあれば、ここで勿体ぶって話すようにはならないからな。」

わたしは警察の板電話を取り出し、そのメールの一部を見せた。言葉の内容で見せるものを最初選んでいたが、石原の真剣に画面に食い入る横顔を見ているうちにそう言う利己的な配慮は減っていった。どこかで彼女を世代を越えて大切な仲間に感じている自分がいた。


ToZ


本末の転倒。

飲みすぎは、やめておけ。

若者に迷惑をかけないようにしろ。


K 


ToZ


こどく。

被害者の孤独。

そのとなりに自分がいるのか?

ましてや、被害者と加害者の、その対立構造などを作っている奴らに加担していないか。

     

K 



ToZ


文学的に言えば、

百の事件には

百を被害者がある


一つとして同じ事件はない


また、

加害者にはまだ未来があるが

殺人被害者には、永遠に未来はない。


言ったはずだ。


K 


ToZ


段々とわかってきただろう。 

海の先に、人間は、ゴミを集めて大地を作る。

嘘の大地を作る。




石原は首を傾げた。

「不思議なメールたち、ですね。」

「……。」

「金石元警部補以外の人間がそんなことをすることは考えられますか。」

「考えられないーー。わたしにこういう文面を送ることに、意味を持つ人間が、他に見当たらない。」

そもそもこの文面は、金石と私が幾度も会話した会話の続きになっているようなことが多い、とは言わなかった。

「すいません。よければ、これ、なにかのヒントになると思えたので。写真を撮るのは申し訳ないので、ノートに書いていいでしょうか?」

といって石原は大学ノートを取り出した。最初の日に上野でわたしが説明した捜査ノートが既に慣れた手つきで構えられていた。

「もちろん、構わない。」

石原は黙って、私のメールを確認しながら、メモを取った。ずいぶん手が早いらしく、あっというまに書き取っていた。

「もう?」

「はい。速記が得意でして。」

石原は笑った。その笑顔は、からりとして、金石の送ったであろうメールの暗鬱な内容を素通りさせてくれる配慮のように思えた。  

 わたしは石原にメールを見せていたけども、それはあえていえば、自分の孤独を告白することに似ていた。金石と交わした会話は実に具体的で、刑事の自負の強い感傷的な言葉が多く、その内容をもってわたしは、それが金石に違いないと言っている。でもそれは、特定の二人の人間の密室的なやりとりの開示だった。不気味に例えれば、恋人しかわからぬ思い出を語る言葉を持って、送付元を恋人と特定しているようなことでもあった。石原はその周辺には触れないでいた。むしろ内容を飛ばして、金石の失踪や、送付元が毎回違うメールの奇妙さについて、話題を向けてくれた。

「消去法で、金石元警部補しかいない、ということですね。」

「そうだと思う。」

「毎回アドレスを変える。」

「ああ。」

「迷惑メールに入るような、送信元である。」

「すべて自動的にそうなる。」

「これが、定期的にと言うよりは、ある時期に一定の量が送付されてくる。」

「うむ。」

「内容は、いつも、なんと言うか曖昧な、しかし銭谷警部補と金石元警部補の間でなければ成立しない言葉である。」

石原は、正しく把握して、わたしより明確に整理をしてくれた。我々は歩きながら、もう少しメールの周辺について会話した。殆ど、石原巡査のペースで質疑が行われた。わたしはただ彼女の質問に答えるのみだった。

 いつの間にか、再び本郷三丁目の駅まで戻ってきていた。我々には多くのことを喋った後の、奇妙な連帯意識があった。石原は一度本庁に戻るというので、改札まで見送った。駅の奥に消えていく石原には手を振らず、目だけ残して送別した。

 伝えたことが、どう変化していくのかは解らない。

 早乙女課長や、その他の人たちと石原に特殊なつながりがあるとは思いづらかったが、わたしは仮にそうだとしても良いと思った。彼女の仕事の姿勢や、能力のようなものに、わたしは懐かしい気分を持っていて、そのほうが大切なものに思えた。危ない橋だろうが、被害は自分に及ぶ程度で、何か重要な真実が遠くなっていくわけでもないはずだと、自分に言い聞かせた。早乙女に漏洩するのであれば、それを察知した金石がメールを送らなくなるだけだろう。

 わたしは本郷では電車に乗らず、湯島の千代田線まで再び歩いた。

 そのまま一人で、いつものように、幾つかのことを整理をしようと思った。突然わたしを尋ねてきた老刑事槇村又兵衛のこと。彼の横領のこと。金石のこと。自分の謹慎のこと。今日の太刀川のこと。石原の整理のこと。そうして朝から自分が最悪の気分にいたこと。どこかで今朝に戻っていくことへの恐怖を感じつつ、仕事が溢れ出すと、考えるべきことが増えて、精神状態が落ち着く気がした。その落ち着くきっかけになったのが石原だった。

 普段なら居酒屋でノートを出して脳の中のまとめを、と思うが、何故かそう言う気になれなかった。湯島で千代田線に乗ると、北千住を過ぎ金町で駅を降りた。コンビニでジャックダニエルの小ボトルを買った。柴又の方へと、ぼんやり歩きながら、ラッパで呷った。アルコールの熱が胸に回ると清々しくなった。この作業を正しくアルコール依存症という。酒が飲めない人間だったらわたしは薬物というものに染まっていたかもしれない。ラッパで生でバーボンをやると休日の浅草の遊覧船に近い気分が広がった。ふと、歩いて川を見たくなった。隅田川ではなく、別の川、千葉県と東京都の県境に「江戸川」が壮大な河川敷を携えて蛇行している。わたしは河川敷の土手に上がる階段を登った。建物の二階に上がるよりも高い階段だった。



百二十三 会議後 (レイナ)     いw


 男物のスーツや下着はトレーラーの床に投げ捨てられたままだった。

 レイナは全裸のまま、次の服を着るのも忘れてMacに向かっていた。

 風間と守谷二人の、検索語句の共有点が少しずつデータベースに現れていった。それらは三分か五分に一度くらい、Macに文字が落ちた。

 静かな夜だ、とレイナは思った。

 少し前のコールで御園生くんは、風間と守谷を独自に関連づける考えとして、検索語句の共通性を挙げた。アイデアとしてすばらしい、とレイナは素直に思った。

 検索する言葉は、人間の素性が出る。

 人に見せていない自分の秘密もそこには堂々と並ぶ。

 悩みも過去も物の考え方も、何かを真剣に調べれば調べるほど並ぶ。実際に、レイナも施設のパソコンで検索という言葉を知った時に、過去の自分についての質問と検索を繰り返した。それらは施設の大人には一度もしたことのないような誰にも見せたことのない生生とした本質的な質問ばかりだった。風間と守谷の検索語句に注目すべきという御園生君の指摘は、その点でも正しいアイデアだとレイナは思った。

 仕事のこういう場所が面白いと思う。

 アイデアを重ねながら、自分ではない誰かと問題を解決していく時間。自分では出てこないアイデアを取り込んで、技術(プログラミング)的な支援をレイナがする。その結果が、実際に役立ち、問題が解決するときの興奮は、仕事以外で味わうことは難しいとレイナは思う。

(検索履歴、か。)

 御園生くん本人は気づいていないかもしれないけども、レイナの設計したWEB全体のクロールと違い、探す場所の論理をずらしている。WEBの掲示板や記載されたテキストではなく、個人の検索入力行為に着眼をずらした。アイデア・ブレストにおける、入れ替えの技術だ。平成のWEB全てを遡ることに執われていたレイナの調査に全く別の切り口を御園生くんが作ったのだ。

 検索の窓。検索窓では物事を隠さないのが人間だ。検索という製品はよくできている。他人に言えない恥ずかしい履歴だったり、忘れたい過去も、検索をするときは、誰も何も隠そうとはしない。その向こうでGoogleが凄まじい量のサーバーでデータを吸い上げていると知っていてもだ。人間は機械への自己紹介は大胆になる。

 風間と守谷は、Googleアカウントも、スマホも、全て「健全」なものを使っていた。反社会の人間が使う、追跡不可能なワンタイムではなかったのだ。ここが盲点だった。レイナからすれば最初から二人は犯罪者や組織関係の人間だという前提で物事を進めすぎていたのだ。二人のアカウントを調べ直したところ、二人とも二段階認証さえ行っていない。完全な素人の、犯罪者の意識さえない典型的なアカウントだった。そして詳しくは割愛するが、二段階認証さえ入れていないアカウントなど、レイナにとっては、セキュリティ皆無のアカウントと言っていいのである。


百二十四 河川敷(軽井澤)  


 佐島さんと別れたあと、わたくしは夜の闇の河川敷を歩きました。

 かつて東京の東の果てのこの川沿いから、西の多摩川沿いのボクシングジムに通い先を替えた自分の理由をわたくしは思い出していました。過去、わたくしは逃げたのです。現実からも。当時の会社からも。無論なんとなくではなく、そこには理由があり、拒否があり、意思があり、はっきりと逃げたのです。

 佐島さんと話しているうちにわたくしは少し整理が進んだかもしれません。佐島さんに言われた言葉からということではなく、多くの会話がそうであるように、言葉と言葉が重なる中で、全く違う場所の電気が通ったのです。おそらくその場所に電気を通すまいとしてきたのは、このわたくし自身の無意識の中の意思だったのでしょう。

 わたくしは、歩いて北上をしながら、河川敷の上流を見つめました。

 歩きながら自分が恐怖に駆られている理由が少しずつわかってきました。

 何故ならその先には、かつての事件の現場があるからです。

 わたくしは前職のとある時期にこの一帯に関わりました。いまから十年ほど前です。その事件から二十年の懲役を終えて、とある人物が社会復帰したのです。わたくしはその人物の取材を試みたのです。そのせいで、わたくしはこの一帯には詳しいのです。

 なにか新しく事件があったわけではありません。わたくしは取材を試みただけです。しかしそこで事件とは全く別の経験をすることになりました。それは自分という人間に<最悪の結果>をもたらしました。何かの目に見える不幸ではありません。が、おそらく自分の人生で最も最悪で、後悔をしても何も取り戻せない種類の精神経歴が生じてしまいました。

 誰しもあるのかもしれません。自分だけが知っていて自分だけが後悔をしていて、誰にも話すことのできない<罪状>というものが。世の中の法律にも裁かれず、自分さえ黙っていれば一切問題が起きない種類の<罪>です。その<罪>は裁かれません。人を裏切った最低で最悪な<罪>であるにも関わらず、警察にも捕まらない。それどころか気持ちの持ち方や設計によっては、全く存在も忘れて暮らすことさえできる、そういう種類の<罪>です。(前向きに生きます、という言葉でよく隠されると言ってもいいかもしれません。)

 


百二十五 バーボンボトル (銭谷警部補)


 わたしと金石の目の前で、その母親は泣いていた。

 六本木ヒルズで死んだ女子大生の母だった。

 わたしは子育て、というものを知らない。子供というのは世の親にとってどのようににやって来て、どういう風に失われるのか。そんなことは子供のいないわたしには想像ができない。

 泣き崩れる母親を前にわたしは焦ったのを覚えている。

 隣にいた金石が目に涙を溜めていたのだ。

 娘を失った母は、殆ど意味の同じ言葉を繰り返した。子供の頃の話。お祭りで浴衣を着たという写真。風車を手に持ってピースサインをする少女の隣に、今目の前にいる母親と同一人物とは思えぬ、若く闊達な女性がいる。変化は年齢だけではない。愛する娘がこの世に無い事やその未来が存在しない事が母親を幾年も老化させていた。それでも運動会の写真、入学式、卒業式の写真、どこか温泉街での写真、海水浴の写真などを見せながら、母親はメディアで言われているような事実はひとつもなく、ただただ親孝行の娘だったと繰り返した。しかしながらそういう思い出が語られる度に、取り戻せぬ過去と、殺された現実が我々の目の前で存在を強めた。

「すいません。」

金石は、そう言うと幾度も言葉を出そうとしては噛み締めて呑み込み、失語者のように、身体を痙攣させていた。隣にわたしがいる事など忘れられていた。

 殺された女子大生の職歴の疑惑を暴露記事にしたのは大手の新聞社だった。正確には、風俗産業にいたわけではない。しかしなぜか疑惑的に、そういう情報があふれた。わたしは、これは意図的だと思った。メディアがやる手口としてである。

 女子大生は写真で見てもはっとするほど美しい人だった。そういう女性が富裕層の集まる場所で何かをしていたという疑惑、幾度となくその場所に繰り返し参加(アテンド)したという疑惑は、テレビを漠然と眺める視聴者を立ち止まらせやすいことはわたしが見てもわかる。真偽は別として、それらは良く回る記事だった。メディアは報道の顔をしたまま、ゴシップを売る時が一番稼ぐ。誰も憲法を読むことに興味はないし、判例や薬品の原材料までを調べた貴重な報道は視聴率などをとらない。下世話でも稼げるニュースは繰り返し使われる。太刀川の周辺で賑やかだった報道は、いつの間にか女子大生の性的な記事ばかりに収斂していった。当初は、古い日本の産業構造と、四つ相撲で対決する新しい時代の寵児として存在した太刀川龍一という人間がいた。その報道の当初では双方の言い分は比較的平等に議論された。八十歳を過ぎた経営陣にインターネット対策法案は解らないだろうとか、日本は若者にチャンスがなさすぎるというような、見方によっては有意義な議論もあった。しかしいつの間にか、それらがゴシップとどうやら性的な状況の中で亡くなった美しい女子大生の話題にすり替わって行った。議論は本質を失った。そういうメディアの恣意的かもしれない変化に世の中は全く気が付かないままーー。

 ジャーナリズムとは呼べない恥ずべきものに限って、まるで自らが正当本家だと言う顔をする。さまざまな真実不明の修飾が記事に混ざる。彼女の美しさと卑猥な記述たちが、相乗するようにしてクリックの数だけを増やし資本を増強していく。そして、真実から遠ざかっていくとき、世の中はそれに気が付かない。

 結果として六本木事件はある世論へと変貌した。女子大生の死は自業自得だ、という世論だ。若い女子大生が、賑わう夜の街に憧れ、薬物のある一室に自ら赴き、事故死を起こした、という文脈が世の中の合議のようにされた。その部屋を主宰し、その部屋にいたかもしれない人間たちの問題は消え去ってしまった。いつの間にか報道機関やその周辺のメディアは、不思議とその足並みを揃えていった。

 そうして示し合わせたように、その熱の変化が捜査本部に落ちてきたのだ。わたしと金石のふたりを置き去りにしたまま、警察組織は多くの変更を始めた。

 早乙女が<立派な人間は自分だ>と言う顔をして、わたしを呼び止めたのを昨日のように思い出せる。クソのような早く忘れたいものに限って、いつになっても心から消えないことが多い。

 事件の当日の救急車のサイレンが脳に回ってくる。パトカーと救急車が一緒の時は、まだ死亡が確定していない時間だ。死んだと言われた直後のあの時間、六本木ヒルズのエレベーターのカメラは何故か止まっていた。彼女が生きていたかも知れない時間が残酷に過ぎた。その間にあの部屋に関連した多くの富裕層関係者は、彼女の人命よりも自らの社会的地位や風評を守るための手順をしていたのだ。

 本当は取り調べを受け真実を追求すべき大勢の人たちが煙のように消え、証拠も消えたのである。そうしてメディアはそれまでのことを忘れたように次の事件に向かった。早乙女は捜査本部の解散は当然のことだろうとわたしに告げ、事実上警察は捜査を打ち切った。

 金石が泣いていた理由は話したことがない。真実の目の前で何もできずに終わった不甲斐なさに対してだったのだろうか。いや、もしかすると本当はやり方によっては彼女を死なせずに済んだという事だったのか。内偵を続けた中で、一瞬の掛け違いで、全ての扉がしまったことを後悔しているのかもしれない。

 過去の映像と併せて、頭蓋骨を刺すような痛みが断続的に続いている。

 草の香りがふと耳元に過ぎった。

 星空の手前に顔面を覆う雑草がもたれかかっている。

 どうやら河川敷の草むらで眠っていたようだった。

 わたしは目の周りの湿り気を手の甲で拭った。

 最近人がいないときに一人で飲んでいると、どうしようもなくなってしまうことがある。人間として恥ずかしい、不気味な中年男の末路がここにある。感情を酒で混乱させつつ、高めながら、過去を後悔して、また酒を煽っている。ただその目の周りの湿り気は、わたしだけのものではない。金石のあの涙の続きが混ざっているーー。だから諦めがつかない。過去として切断ができない。結果、意識を失うまで飲みたいという願望が飲酒の後半にやってくる。


ToZ


二流の作業はだめだ

二流だけが組織にのさばる。


基本を思い出せ。

遺族の気持ちになるべきだ。



K 


 河川敷での眠りは深かったらしい。

 深夜何時か分からない。

 隅田川では見ることのできない星が、金町まで下った江戸川では少しだけ見えた。切れる寸前の街灯が、空の星と似た点滅をくりかえしていた。

 ウィスキーのボトル瓶だけが、私の<手のひら>で唯一明確に物質がそこに存在する感覚をさせていた。その硬い部分に縋るように、わたしは強くそれを握りしめていた。



百二十六 クロール (レイナ)



 

Wi-Fi、天気、引っ越し、探偵、探偵事務所、携帯電話、競馬、地下鉄、アプリ、借金、キャンペーン、LINE、銀行、ガス、振込、振り込み、地図、地図アプリ、コーヒー、喫茶店、新宿、東京、渋谷、スイカ、Suica、風俗、マッサージ、歌舞伎町、居酒屋、


 風間と守谷の検索していた言葉は平凡な言葉ばかりだった。

 検索の窓に打ち込む言葉は或る意味残酷なまでに人間というものを浮き彫りにしている。生活や日常のなかにある、退屈さ、虚しさ、欲望、憂鬱、不誠実、嘘、不貞のような人間が日常、外側に見せないようなものが、堂々と混ざってくる。検索語句を見るというのは、レイナにはほとんどその人物の秘密を見ているようにさえ思えた。

 風間と守谷の検索語句で重複するものがゆっくりと、並び始めている。セキュリティに対して慎重にしているせいで、一つ一つの言葉が落ちてくるのに時間がかかった。Googleのアクセスは一秒間にある一定数を超えると警告が入るのである。

 御園生君が期待していたような、小学校や地元の固有名詞はまだ現れなかった。 

 普通の重複は、買いたいもの、食べたいもの、移動したい場所、そういう日常の検索ばかりが出てくる。だからこそ不自然な固有名詞があれば重要な手がかりになるだろうという御園生君の期待は正しい。「ひばりが丘小学校」と一人が偶然検索することはあるかもしれない。しかし二人の中年男が検索したとなると、それは出身校か双方に深く関係のある過去の何かである可能性が高くなる。

 しかし、重複の個数はレイナが想像していたより少なかった。

 今のところ、重複として呈示される言葉もまだ一般的で典型的な検索語句がほとんどだった。

 レイナは海を眺めた。夜の海は、暗黒が唸るだけで、ドブ臭い潮騒を続けていた。東京湾は人間がいる場所の光に囲まれて、空の星は殆ど感じられなかった。

 今日、軽井澤さんと会った。

 そこで、佐島を借りて自分の意見を言った。

 軽井澤さん、あなたは手を引くべきだ、と。

 しかし軽井澤さんは何か、複雑な自分自身の過去のことを事由にしてもう少し待ってほしいと話した。その先で、少し不思議なことを言った。それは、

「最悪の状態に行きたくない」

という言葉だった。

 最悪の状態とはなんのことだろう。レイナには今一つ理解が及ばなかった。

 トレーラーの運転席で、火をつけたタバコも吸い込むのを忘れていた。燃えかすが指に落ちた。

 その時、Macが光ったーー。

 レイナは辛うじて仕事の脳細胞に戻り、断続的に続く自分の言葉や妄念を無理やり止めた。そうして、プログラムがGoogleの隙間を縫って調べている検索語句の重複の最新を見つめ直した。

 そこに、とある言葉が混ざっていた。

 その三文字は、すこし残酷に彼女の脳内に刺激を落とした。

 風間と守谷が共通に検索していた固有名詞のなかに、何故か関係のないはずの言葉があった。

 レイナはその見覚えのある三文字を確認した。

「江戸島ーー。」



百二十七 回想 (赤髪女)   



 あの時ーー。 

 元々の仕事に何か不満があったわけではない。強いて言うなら少しだけ暇だった。ちょうど恋もしていなかったから。だから、少しだけの気の迷いで、アイドルの頃やっていた覚醒剤が復活した。

 父親も母親もアイドルをやめてしまったわたしには興味を失った。新しい次の家族や子供ができてそっちに向かっていた。そもそも、自分ももう大人になって、親のいない寂しさは薄れていった。別にもう、親はどうでもいい、と思った。でも、覚醒剤を復活させてしまったのは、親からの連絡が途絶えた頃だったーー。

 酩酊の中でいろいろな裏の検索をしたと思う。

 赤髪女はVPNが流行り出す前、覚醒剤を手に入れるためにその界隈に詳しくなっていた。

 そこには様々な「仕事」が溢れていた。

 符丁のような言葉が並ぶ。ヤーバー、ホワイト、スノウ、チョコ、

 名前は毎年変わっていく。

 やり方も。

 あの時はそんな感じでまだ、ネットのほうに警察が手薄だったのかもしれない。比較的大胆に、値段と、連絡手段などを設定していた。VPNっていうサーバーは、自分の情報を抜かれないという話を聞いて、それが少し密室的な喜びになって、いろいろ酩酊の中でやったと思う。今はその頃のことは思い出せないし、そもそもそんなサイトは常に生まれては消えていく。正直幻だったのかもしれない、とさえ思う。

 ただ、その場所には覚醒剤以外のさまざまな違法仕事をする人間が沢山いたのだと思う。

 そうかーー。

 多分、そういう場所で、いまの指示者のような人間が自分を見つけたのかもしれない、と赤髪女は思った。



百二十八 間諜(人物不祥) 


「体調はどうだ、守谷さん。」

「……。誰だあんたは?」

「新宿は大変だったようだな。殺される恐怖は嫌だろう。腕は痛むか?」

「だ、だれだ?」

「……腕は痛むか。」

「…殺されるのはまっぴらだ。」

「殺されるくらいなら、殺した方がいいだろう。あなたは人殺しなのだから。」

(深い沈黙。)

「……。お前は誰だ?」

「まあいい。探偵を頼ろうともしたが上手くいかなかったようだな。」

「……。」

「後悔をするかもしれないな。昨日も例の埋立地に行ったようだが。あの時間なら、十分文字は読めただろう。」

「埋立地?文字を読めた?」

「ああ。文字があっただろう。」

「どうしてそれを知っている?」

「そう言う時代だよ。」

「うるさい。…殺しはもうまっぴらだ。」

「であれば殺される側になるしかないな。わかってるだろうに。」

「あんたが首謀者か?このおかしな作業の。」

「質問に答えろ。助かりたくはないのか」

(深い沈黙。)

「助かる方法があるのか」

「ああ。」

「ほんとうか?」

「ああ。そういう理由でわざわざ危険を冒してまで、こうやって電話をしているわけだ。理解が遅いな。守谷さん。」

「……。」

「安心しろ。もう刑務所に戻されたりしないことは約束しよう。単純で簡単な作業を少ししてくれればいいのだ。守谷さん。」

「なにをすればいい。」

「撒菱を知っているか?」

「まきびし?ああ、おそらく調べればわかる」

「お前が宿泊してるその宿を出ると小さな公園がある。その公園の出口近くの駐車場に小さな白の軽トラックが停めてある。先々まで駐車代金は支払い済みだ。」

「待て。俺のいるこの場所を把握してるのか?」

「ああ。山谷で宿泊費が三千円の木賃宿に身を寄せているのは知っている。新宿で襲撃され、その後池尻の方に向かったのも把握している。」

「なぜだ。」

「こちらの用件だけを言おう。その軽トラックの中に、荷物がある。撒菱が入った袋と、塗料が入っている。この塗料を今から撒菱に塗り続けるのだ。」

「よくわからんが」

「命を助けてほしくないのか?」

「……。」

「守谷さん。助かりたければ、もう二度と言わないからしっかり聞いておけ。その軽トラックをこの先使う。鍵は刺さったままだから、引き抜いて保管しろ。まずは撒菱に言われた通り塗料を塗り続けるんだ。次の指示は追って行う。こちらの指示の通りにするのがいいはずだ。そうすれば、今の環境から抜け出させてやる。無論、その前払いの報酬も車の中に置いてある。美味い酒でも飲むがいい。」

「……。」

「おかしな真似をすれば、また新宿のようなことが起きるだろう。もう片方の腕だけで済むと思わない方がいい。」

電話が切れた後、守谷と名前で呼ばれた男は、木賃宿を出て外を見回した。公園がある。そしてその入り口の横手の狭い駐車場に軽トラックがあった。闇に紛れるがおそらく色は白だ。あたりを見回しながらゆっくりと近づくき、ドアを開けた。鍵は空いていて、確かに運転席に刺さったままだった。助手席には袋があり、手で掴むとかなり重かった。鉄の釘を集めたようなジャリという音を立てた。




百二十九 早朝の連絡  (御園生)


 それは朝の四時だった。

 重要なメールを音が出るようにしている僕のパソコンに、微かなチャイム音が鳴った。僕はベッドから降りてMacBook Airの置いてある机に向かった。

 パソコンにレイナさんからのメールが新着している。今日の打ち合わせで頼んだことが早速まとまり、メールをくれたようだった。宛先は僕だけだった。軽井澤さんは入っていなかった。

 題名に「共通点のまとめ」とある。

 風間と守谷、二人の検索履歴に、重複パターンがあると僕は仮説した。例えば出身が奄美大島で同じなら、奄美、大島と、言う言葉が共通する。三年も遡れば確実に同じ文字を確実に使うのではないか?出身が北海道と九州では、雪や海の使い方も、当然その周辺の言葉の重なりも違うのではないか?その種の現象があの二人にはあると考えたのだ。その意見を、レイナさんは面白いと言ってくれた。むしろ、すこしアイデアを称賛してくれた気さえした。

 だが予想に反し、レイナさんの報告のメールは思ったよりそっけないものだった。タイトルにはご依頼の共通点の件とだけあり、そして本文にもただ、よろしくお願いしますとあるだけだった。同封されたのはファイルが一つだけ、それも簡単なテキストファイルだけだった。

 僕は、ファイルを開き、眺めた。

 風間と守谷の共通の検索語句だけが遡れる範囲で並んでいた。



Wi-Fi

天気

引っ越し

探偵

探偵事務所

携帯電話

競馬

地下鉄

アプリ

LINE

銀行

ガス

振込

振り込み

滞納

地図

地図アプリ

コーヒー

喫茶店

保護司

新宿

東大久保

東京

渋谷

スイカ

Suica

風俗

マッサージ

歌舞伎町

居酒屋

風俗比較

無料

プリペイド携帯

調査

現金

江戸島

ドトール

タバコ

喫煙所

コンビニ

パスワード

家賃

不動産

儲かる

時刻表

道のり

ニュース

探偵

今日の天気

軽井澤

御園生



想像し期待したものとはだいぶ違う、比較的特徴の少ない単語の列だった。特定の学校や、最寄駅、個人名などが重なるのを僕は想定していた。分倍河原とか、新百合ヶ丘のような土地の名前とか、桜ヶ丘小学校、多摩川中学のような学校名とかだ。少なくとも子供の頃から風間と守谷が何かの時間を共にしたと思える特殊な言葉がいくつか重なると思っていたのである。

 そこには、地元の地名もなければ、学校名もなかった。ただただ一般的な語句の重なりだけだった。風間や守谷の過去に関わる言葉、犯罪の内容や、個人名が出たりすることはなく、ほとんど一般名詞ばかりが並んだ。固有名詞として、探偵とか軽井澤、御園生の名前があるのは自分が予想した通り、Googleの検索を行なって軽井澤事務所のホームページにたどり着いて連絡をしてきたのだと思った。


 

Wi-Fi

天気

引っ越し

探偵

探偵事務所

携帯電話

競馬

地下鉄

アプリ

LINE

銀行

ガス

振込

振り込み

滞納

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地図アプリ

コーヒー

喫茶店

保護司

新宿

東大久保

東京

渋谷

スイカ

Suica

風俗

マッサージ

歌舞伎町

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調査

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江戸島

ドトール

タバコ

喫煙所

コンビニ

パスワード

家賃

不動産

儲かる

時刻表

道のり

ニュース

探偵

今日の天気

軽井澤

御園生



僕は、繰り返し単語を見つめ直した。これだけしかないのかと、レイナさんに恨めしく質問をしたい気持ちを抑えながら。しかし、幾度見ても期待していたようなものはなかった。見たことのある言葉ばかりだと思った。

 窓の外が薄らと夜明けを始めていた。

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