殺人の六日前  (九月九日)


🔵🔵 九 早朝の電話    (軽井澤新太)


 一の橋が麻布十番から始まり、二の橋が仙台坂下、三の橋、古川橋で右に大きく曲がって四の橋になります、と説明してピンとくる人は東京の地図マニアの方かもしれません。四ノ橋のつぎが天現寺橋で慶應幼稚舎や広尾の高級住宅地に連なり、川の名前は古川から渋谷川へと地域ごとに名前を変えていきます。

 会社を辞めて家族と別居を始めた時に、わたくし軽井澤はこの四ノ橋に住み始めました。偶然空室だったマンションに住んだにすぎません。あまり馴染みのない場所が良かったのと、不動産屋から、地元の四ノ橋の商店街が便利だと教えられたからでした。事務所まで歩くにもちょうど良い距離なのです。

 四ノ橋の商店街は、川から白金台に向けてまっすぐ走る細い路地です。その中程に八百屋があり、その隣のマンションの三階でわたくしは暮らすことにいたしました。白金といっても白金台とは違います。この辺りは、六本木から広尾恵比寿と高級住宅街に囲まれる狭間になっていて、何故か下町風情が残るのです。商店街は昔ながらの老夫婦がやっていることが多く、墨田区だ葛飾区だの下町よりも下町らしい香りを嗅げるかもしれません。

 庶民的な商店街を見下ろす三階の小さなベランダでタバコを吸うのがわたくしの、小さな喜びでした。そんなどこにでもある、中年男の独り暮らしの一室でございまして、そんな一室に、朝から携帯電話がこれでもか、というくらいに鳴ったのでございます。

「さっき行ったよ。あんたの事務所とやらに。いい場所にあるのだな。」

「ど、どちらさまですか?」

「風間だよ。もう忘れたのか?登録しろよ」

「えっ?事務所に行った?青山墓地のですか?」

「ああ。青山墓地の裏手の、軽井澤探偵通信社だ」

ホームページに住所を載せているのですから、やむを得ませんが、風間のような人間に約束なしで来られたのは想定外でした。

「それは、本当ですか。わざわざありがとうございます。ちなみに、どうされました?」

「もう十時だ。ずいぶんゆっくりだな。」

「昨夜遅くまで、調べ物でしたので。それより突然どうなさりましたか。」

風間は電話の向こうで深呼吸のような間合いをさせて、

「また来たんだよ。」

「またともうしますと?」

「猫だよ」

あえて、死体と言いませんでした。しかし、生きている猫ならば、歩いて去るでしょうし、わざわざ電話をかけては来ないはずです。

「また、ですか。」

「あそこ(西馬込)にはもう住めない。とりあえず引越し先を探している。」

「そうですね。引越しをお勧めいたします。」

「葉書の残りをポストに入れた。あれが全部だ。とにかく、葉書を俺に、送った奴が誰かをまず知りたい。どうか前向きに考えてもらえないだろうか?」

少し言葉に詰まる間合いがありましたが、わたくしは、それよりも、昨日、間合いを見て言えずにいたことを言い出しました。

「二十万円の先払いはいかがですか?」

「ああ、それだな。」

「はい。恐れながら、我々もボランティアではないのでして。」

「わかっている。金はある。ただ、まだあんたらから何も、もらっていない。勿論、方針など貰え次第、金は振り込むさ。なので葉書の残りを一度見てくれるか?」

「葉書ですか?昨日お借りしたものと何が違いますか?」

「なにがちがう?と言われても難しいが。」

「同じものが他にあるのですか?」

「まあとにかく見てみてくれ。あの葉書は一枚じゃないんだ。何枚もある。その全部をポストに入れたんだよ。それを見れば色んなことが、すぐ、わかるはずだ。」




🔴🔴 十 好青年   (赤い髪の女)


 朝になって西馬込の風間は猫の死体に気がついたらしい。風間がGPSの上で動きを見せたのを、赤髪女はしっかりととらえた。

 まず都心に向かった。西馬込から逃げるようにして、風間は都営浅草線を五反田まで出て、そこからは歩いている。五反田から都心部を北上している。途中、幾度か止まってしばらくして動く、というのを繰り返していた。

 地図を注意深く見ると、止まった場所は全て、地元の不動産物件を掲示している場所のようだ。GoogleのMapを照らして赤髪女は気がついた。まだ早朝で不動産会社はやっていないだろうけども、都心では大抵物件のマイソク図面を窓ガラスに貼っている。マイソクというのは、部屋の坪や間取りや値段条件が一枚に書かれている紙のことである。

 赤髪女は急いで自宅の祖師谷を出る準備をした。

 西馬込のアパートに暮らしているなら、毎日そこに帰ってくるのだから安心だけども、引っ越しをされると、どうなるかわからない。その手順の中で何かの事故でGPSを胸に投げ入れた風間のジャケットが万が一捨てられては目も当てられなくなる。この風間を見失えば、自分の今後の報酬に影響するのは確実だろう。

 薬物の禁断症状のせいで落ち着かず、赤髪女は小田急線を都心に向かった。早朝六時頃からの風間の都内行脚が五反田、目黒、広尾、と抜け、西麻布を超えるのを赤髪女は目視している。何度も停止するのだが停止する場所を地図で検索すると、やはり必ず、不動産屋があった。

(まあ、引越ししたくなるか)

赤髪女は小田急線から直通の千代田線に入った。できれば、風間の引越し先が落ち着くまで、遠巻きに尾行をせねばならない。

 すると、西麻布を過ぎた青山墓地沿いのとある場所で風間は止まった。

 この場所に限ってしばらくしても、場所を変えなかった。他の場所と違い長めに止まっているのだ。そして気になって赤髪女が調べてみると、それまでと違いそこには不動産屋がない。あたりは住宅ばかりで店舗もないのだ。ひとつだけGoogleが指し示す施設として探偵事務所があるだけだった。風間は探偵事務所の目の前で随分の間、止まっている。

 赤髪女は千代田線から入って、地図を確認し、表参道で降りた。そこから小走りに走った。表参道から青山墓地のその辺りまでは十五分はかかったけども、その間も風間の位置は変わらなかった。しばらく歩き目と鼻の先という所まで来てから、さすがに細い路地で鉢合わせるわけにもいかず、身を隠せる場所を探した。すると、墓地の崖の上にうってつけの小屋があった。その影に小さく佇んで崖の下を見下ろすと、風間が事務所の前の狭い路地でタバコを吸っているのが見えた。

 誰かを待っているようにも思えた。

 赤髪女はGPSの位置を確認しながらもう一度GoogleMapで詳しく見てみた。風間の立っている場所は


軽井澤探偵通信社


の目の前である。やはり、不動産屋ではない。少なくとも不動産屋に貼り出してある図面を物色してるのではなく、人を待っている。つまり、探偵を待っているのだ。

(風間は探偵を雇ったーー。)

このことは、次の報告に入れねばならないだろう、と赤髪女は思った。「指示者」には一応、報告をしておく必要があるし、自分にもリスクが増えたと考えたほうがいい。

 そうしてまた十分ほど経ったが、誰も現れないのに痺れを切らした風間は西麻布の方に戻って行った。風間がだいぶ離れたのを見てから、赤髪女は崖の湿地を降りて、事務所の前の通りに出た。もちろんGPSを片手に風間の動きは常に視界に入れているが、どうやら西麻布交差点近くの不動産屋をまた物色しているらしい。

 それにしても、都会の一等地にこんな陽当たりの悪い湿った場所があるのを知らなかった。曲がりくねった窪地の端にある、古いアパートの一階である。元々店舗か何かだったのか、中が丸見えの窓ガラスが無駄に大きい。探偵事務所などの商売に合わない、と赤髪女は思った。もしくはずいぶん間抜けな探偵なのではないか。

 風間が探偵を雇う気持ちは赤髪女には理解できた。おそらく何らかの問題を抱えていて警察には向き合えないのだろう。家に幾度も猫の死体が届くのは並みの精神では耐えられない。少なくとも自分には無理だと赤髪女は思う。

 目立たないようにカメラを腰あたりに置いて、赤髪女は探偵通信社の写真を撮り続けた。「指示者」にはこういう写真をできるだけ送る方がいいはずだ。今度の「指示者」は、なぜかそういう頼まれていない作業も喜んでくれるのだ。

 ふと、事務所の前にある、古めかしい車が気になった。いかにも地味な探偵が使いそうな車だった。

 探偵にGPSをつけるのは難しい、と赤髪女は思い、少しだけものを落としたふりをして、車の下にしゃがみ込んだ。そうして自動車裏面に、秋葉原電気街仕込みのGPSをシールで貼り付けた。安定して剥がれない場所が大事だ。親指の爪程の高性能シールで、気付かれる事はまずないはずだ。

 古い車だった。貼り付けられる場所はいくらでもあり、風間の胸ポケットに入れた時よりよほど簡単だった。

 その時だった。

「どちらさまでしょうか?」

突然声をかけられた。

「あ、すいません、携帯を落としちゃって」

赤髪女は、昔アイドルだった時の笑顔を思い出そうとしながら、振り返りの笑顔を投げた。突発的な対応だった。

「携帯ですか?見つかりましたか?」

スーツ姿の青年が一人で立っていた。

「あ、は、はい。」

見惚れるくらいの美男子だ、と赤髪女は思った。こんなうらぶれた墓地裏の坂の下に不似合いな、美男だった。大手町や、高層ビルのオフィス街に似合う、ネイビーのスーツが、眩しかった。

「あのう、あすなろ不動産ってこちらですか?」

赤髪女はさらりと嘘をついた。もうすでに車の裏にはシールはしっかり貼ってある。

「いえ。ここはそういう不動産会社ではないですね。」

「あれおかしいですね?ちなみにこの辺りで不動産って」

「いいえ。不動産会社はこの路地には、ないと思います。外苑西通りに出たらあるかもですが。」

「ああ。ちなみに、こちらは、、ええと」

「ああ、ここはうちの事務所で、これはうちの車ですね。軽井澤探偵通信社のです。」

赤髪女は驚いた。この人が、探偵?商社マンかエリート弁護士の風情ではないか。

「軽井沢?あの、長野の?」

「いえ、避暑地の軽井沢町ではなく、社長の名前が」

「ああ、失礼しました。」

赤髪女は、自然体に、すこし取り乱した小芝居も忘れずその場を去った。好青年に向けて幾度となく礼節の範囲で振り返りながら、ただ頭の中では、

(いったい、あの貧乏くさいアパート住まいの風間にが、なぜこんな好青年のいる探偵事務所と繋がるというのか。)

赤髪女は、そんなことを思っていた。

 GPSをみると風間は次の不動産屋でまた物色を続けているようだった。



🔵 十一 十四枚    (軽井澤新太)



 風間からの電話を受けわたくしは事務所に急ぎました。既に朝の早い御園生くんは出所しておりました。

「御園生さん、風間からの郵便物はありましたか?」

「郵便、これですよね?」

「ありがとうございます。」

「今朝は早く出所してたので、郵便もチェックしました。そうしたら、昨日の話に上がっていた、葉書がこうたくさん届きまして。」

「たくさん、ですね……。」

「それにしても変な葉書ですね、これは。」

「変?」

「ええ。十四枚もあるのです。しかも、全部手書きです。」

「十四枚。全部手書き、ですか。」

そういって御園生くんはわたくしにその葉書を並べて見せながら

「おんなじ筆跡で、全部、書いていますね。十四枚。」

といいました。

 御園生くんはマグネットで一枚ずつ、事務所の白壁ーーホワイトボードがわりに使っている壁の方に貼り付けて行きました。

「ちょっと謎掛けみたいなのですが」

御園生君とわたくしは、事務所のお決まりの席に座って壁面をじっと見つめていました。

 

E N R 

T K U 

A A C 

S W C 

E O


 宛先を一つ一つ、手書きで書かれた葉書は14枚、裏面がアルファベットの文字のみで送付されておりました。昨日、風間から預かった一枚はEでしたが、

他の十三枚にもそれぞれ文字が書かれていました。つまり、十四枚の葉書の表が全て同じ風間宛で、裏に、一枚ずつ、


E N R 

T K U 

A A C 

S W C 

E O


の文字が、書かれていたのです。

「しかし、普通にこんなの送られてきたら怖いですね。」

御園生くんは当然首を傾げました。

「そうですね。朝起きたら、自分の名前宛ての葉書があって、それが、十四枚。怖いですね。全て手書きで差出人不明。それが風間曰く、命に関わるとわかっている内容だとすると、恐ろしいどころではないね。加えて、猫の死体がまた置かれたというのですから。」

「猫が、またですか。」

「今朝、風間から電話がありました。で、葉書を送ったと。」

「なるほど。そうなのですね。でも軽井澤さん、これは郵送でなくて、風間本人が、我々のポストに投函したんだと思いますよ。」

「え、本当ですか。」

「ええ。おそらく。ただ、僕が着いた時には風間らしき人間はいませんでしたが、ほら葉書を我々に送るなら宛先を書き直さねばならないですから。」

その通りだとわたくしは、相槌をして、

「しかし、わざわざこんな朝早くに西馬込から、西麻布まできたのですね。」

なんだか、不自然な風間の焦りを体に浴びながら、わたくしはまざまざと、壁に貼られた十四枚の葉書を見つめました。見れば見るほど、言葉を失う、ようなよくわからないハガキでした。


大田区西馬込XXXXXXXXXX 風間正男どの


E N R 

T K U 

A A C 

S W C 

E O


「しかしこれ全部手書きっていうのは、送った人間は筆跡を取られる恐怖もないということですかね。もう、半分狂っているとも言えるんですかね。」

「そうかもしれないですね。」

 



🟣 十二 とある暗室 (不明)    


 男は1日の仕事を終えると、一人になる時間をえた。

 都内の秘密の場所に設定してある「その一室」に入る。

 誰にも教えていない、誰もいないこの部屋は、室内の照明もつけていない。煌々と古い年代物のPCの電源だけが光っていた。

 暗がりに設置した古いPCを開くと、画面の光で室内が明るくなった。

 インターネットをIPアドレスから作り込み、設定する。

 いわゆる合法プロバイダーではない設計でネットに繋がったDW(ダークウェブ)である。アカウントは海外のどこかで作られた数億近いプロンプト計算が必要なもので、ランダムに定期的に乗換が行われる。そうやって、足が誰にもつかない形をとっている。

 男は仕事をする場所として、この一室を使っている。ここは、誰とも接続されない場所、だからだ。

 この一室の秘密には十分な自信が、男にはあった。この部屋の存在自体がもう、どこにも登記されていないのだ。更にそのIPアドレス自体が一定ではなく、繰り返し変更される。個人情報というものが存在しない部屋を男は作っていた。

 闇売買の市場は賑わうばかりだ。

 日本人だけが知らないだけで、世界中で進化を遂げている。そもそも国家ぐるみで犯罪を行っている国さえある、とも言える。警察も官公庁もこの領域を確保しようと必死だが、難しいだろう。多くの日本人は知らないし、信じたくもないだろうが、テクノロジーの領域では日本国は恐ろしい後進国なのだ。

 DWの世界にはさまざま商品が販売されている。

 反社会で生きる人間などは携帯電話も住所も持てないわけで、そうなればこういう見えない市場が育つのはある意味当然である。問題はそれが日本では管理できないくらい海外の技術で支えられているということだろう。

 社会的に抹殺されたもの、前科者、ある事情で参加ができなくなった人間たち。そういうインターネットに正面から参加できない人たちが、ここに集まる。集まるから市場が立ち、金が動き始める。人間の3%が犯罪者だとするとそれは、日本でユーザー300万人のマーケットなのだ。そしてその収益は全て海外に流れている。

 名前も全て偽名。新興の仮想通貨や、ワンタイムのデジタル通過が、送金手段になる。

 金融庁や警察がいくら取り締まっても、変わらない。最新の技術はハッカーたちが先に行くからだ。

 日本の警察が気がつく頃には、そのサイトは跡形もなく消えていく。便所の落書きが定期的に清掃されてきたように、消されては、また最新の技術で新しく重ねられていく。

 男はそれらの技術に精通していた。

 男はこの場所で、さまざまな取引も、時には人材のスカウトも行っていた。

 あの赤い髪の女も、元々はここで見つけたのである。





🟢 十三 捜査一課長室    (銭谷警部補)



 わたしはその朝、捜査一課長に呼び出されていた。

 久方ぶりに対面した早乙女課長は以前より重厚に見えた。組織は肩書きが上がると、人間の表情を変える。時に人の人格も変える。この特別化された課長室が変えているということかもしれないが。

 分厚く背の高い課長室のドアを開けると奥の席に、早乙女は座っていた。

「銭谷です。ご無沙汰しています。」

「おお。」

噂の通りの話、つまり降格人事の話を示達されるのだと思った。そもそも業務でもない世間話でこの部屋に呼ばれる事などはない。

 早乙女課長の前置きは長かった。乙女という言葉とは真逆で、首まで太っている。その肉が、捜査より官官接待の会食で磨いた身体なのは知っている。カラオケの趣味は悪かった。わたしの捜査の成功はいくつかの部分で彼の昇進を助けてきたのだが、出世してしまえば、そんなことは関係がない。

 人事のようなものは結論だけで良い。

 若手の多くはわたしより手柄を取ろうと頑張っている。ある意味わたしが降格すれば横並びとも言えるし、いなくなれば自由になる場所も広くなるだろう。

「自分の弁解は特にないです。どんな処分にも甘んじます。」

怒鳴ったり不快を与えた記憶はないが、人命にも関わるような捜査の仕事に、怒鳴らずにいることを優先するのはわたしには出来ない。時代が変わったという言葉だけで、処理できないものはある。そもそも、パワハラと言う処分には、有りがちな背景として私はどの場面がそれだったのかを聞かされてはいない。何度も怒鳴ってきた刑事人生である。そんなことを指摘されれば、簡単に誰でも終わらせることができるだろう。

 わたしは開き直っていた。要するに誰に対しても怒鳴る時は怒鳴るのは、今後も変わらない。なぜなら、刑事の目的は捜査で犯人を捕まえることだからだ。怒鳴って物事が進むなら、わたしは怒鳴るだろう。相手が課長だろうが一緒だ。

「まあ、銭谷、お前もなんとかしようと思ってのこととは思うが、ご時世というのがあってだな。」

課長は、淡々と世の中も変わりつつあるのだというようなことを繰り返している。組織人の四十代は、精神的に不幸に見舞われることが多いという、本を読んだのを思い出した。

「早乙女さん。いや、早乙女課長。結論だけでいいですよ、わたしには」

「わかってる。お前の性格は。」

「はい。」

「これは俺の整理で話してるだけだ。」

五乙女さん、あなたは、若い頃は俺なんかよりもっと新人に厳しいやり方をしていたし、仕事ができない割に威張ってた貴方には、それ以上の罪があるはずだ。加えて仕事が終わっても飲みだカラオケだに連れ回してもいた。そんな言葉が出そうだったが、自尊心の尻尾が邪魔をしてわたしは、唾液を飲んだ。

 すると、苦虫を潰すような声で課長が、

「一旦、処分保留だよ。」

とだけ言った。

「保留」

「ああ。ご時世だから、気をつけてくれ。メールだのは特に。モノが残ると守りづらい。」

「守りづらい。」

「守るというか、まあ、察してくれ」

「しかし、わたし宛に」

後で知ったのだが、だれがわたしを訴えているのかは、早乙女課長でさえ知らされていなかったらしい。

「処分保留だ。密告を全て処罰の対象にしていたらキリがない。しかしこのご時世、ハラスメントの密告を辞めろとも言えない。銭谷、わかってくれ。理解を願いたいところなんだ。」

ひさしぶりに、五乙女の顔をまじまじと見た。出世してからは殆ど話すこともなかったが、わたしより仕事ができないことは本人も認めていたはずだ。

「殿上人の課長、まで上り詰めても、大変そうですね。」

「セリーグ、パリーグ(ハラスメントのこと。パワハラがパリーグ、セクハラが)なんて、気楽に呼べんぞ。管理職は。」

みなまで言わせる前に、わたしは頭を軽く下げると、部屋を出始めていた。


🟠 十四 海岸線   (レイナ)


 レイナの目の前に海が広がっていた。海岸をカモメが幾度か舞っていた。トレーラーは少しずつ茨城の海から南へと進んでいた。

 十三個目のピアスは悪くない。指先で摘むと、肌ではない銀の冷たさが心地良かった。

 今度の軽井澤さんの仕事は、今までの単純な調査ではなかった。Googleから繋がった、新しい顧客は随分特殊に思われたが、まずはやれることを用意しようとレイナは思っている。

 Googleでやってくると言うことは、ネットのさまざまな場所を通っている。道を順々に歩いて行くようにネット上での行動には全ての「道のり」がある。適切な技術さえあれば、誰でもできる追跡手法が世界中に溢れている。

 レイナが少し調べただけで、風間正男は、典型的な不審者と言えた。

 職業もよくわからない。クレジットカードも持っていない。

 加えて不気味な依頼の内容である。

 葉書の差出人を調べたいという。

 葉書に関しては、今朝、御園生くんから追加分が届いた。Eだけの葉書でなく合計十四枚分のほかの葉書も含めたPDFが送られてきた。   


E N R T K U A A C S W C E O


手書きの筆跡で、アルファベットの文字違いがある以外は、宛先含め全てどれも同じ内容だった。ネズミ文字の手書きで繰り返し書かれている。レイナは気持ちが悪かった。自分で言うのもなんだが、これは普通の人間がすることではない。なにか、通常でない事情があるはずだ。

 ただ、そういう異常は、ネット上で何らかの足跡を作る可能性もある。まずは少しずつスクリプト組んで情報獲得を進めていく、のがいいかもしれない。

 軽井澤さんの仕事は丁寧に行いたいと思っている。


 

🟢 十五 日比谷松本楼 (銭谷警部補)


「銭谷警部補」

小さいがよく通る若い女性の声だった。わたしは、その声の方を振り返る気さえあまり起こらなかった。近頃、本庁舎に居心地の悪さを感じてるからか、昼飯だけでも独りで外で食べようと思い、まだ昼になる前からエレベーターを待っている時だった。石原巡査は、わたしを、ふと偶然という様子で、見つけたように話しかけた。

「銭谷警部補。お昼ですか?」

「ああ」

「どちらに?」

「決めてはいない。」

一瞬、間合いがあった。

「お付き合いさせていただいてもいいですか。」

そう言いながら、石原巡査は閉まりかけるエレベーターに乗りこんできた。早い昼のせいで、食事に出るのは、我々二人だけだった。日比谷濠側に我々は歩いて出た。

「質問をしてもよろしいでしょうか?」

「かまわんよ。」

「銭谷警部補は、なぜ、太刀川龍一を追ってるのですか。」

「興味でもあるのか?」

「お茶係、が出過ぎかも知れませんが」

「そういう係は、過去のものだ。男女は平等に仕事をする、という時代だ。」

わたしは平坦にそういった。言葉は嘘ではなかった。パワハラ警部補になったらもう言えなくなる言葉かも知れない。

「失礼しました。なるほど。」

わたしは、せっかちだから歩く足が早い。濠端を法務省の横を通り、日比谷公園にむかう信号で止まるまで一気に歩いていた。止まったところで、石原巡査はやっと続けた。

「なぜ、太刀川を追いかけているのでしょうか。」

「必要があるからだよ」

「必要。」

「そうだ。」

「既に彼に関連する死亡事故は、解決済みかと」

「誰が決めた?」

私が強めにそういうとさすがに若い女性巡査は表情を少し臆した。顎の線から口元にかけて美しい静寂、がある。天気の良い日で、皇居の緑が、雲ひとつない青空の下に輝いている。街路樹の作る影が色濃い。

「誰と言うか、その、すいません。」

何を答えてもこのわたしは論駁するつもりだったのだが、石原巡査は沈黙したままだった。

「カレーでいいか?」

「はい。なんでも。」

「歩かせて悪いが省庁の食堂が最近嫌いでな。」

警視庁からレンガ作りの法務省を越えたところに日比谷公園が広がる。東京市の長者番付の常連でありながら、退官後財産のほとんどを寄付したという明治の人間がここにある樹木の一つ一つを設計したことはあまり知られていない。わたしがこの公園を好きな理由のひとつだ。松本楼はその日比谷公園の真ん中にある。

 ここのカレーは、どんな二日酔いも解決してくれる、と個人的には思っている。ドラム缶で食べ続けたいくらいだ。



 初めて金石と会ったのも、この松本楼だった。

 あの日、刑事のランチには贅沢なカレーを前に、我々はお互いを探りあっていた

「あんたは」

一般的には巨大な警視庁の中で、捜査一課が二課の警察官を互いを知るような事はない。私たちは完全な初対面だった。

「ずっとこっちで?」

「ああ。捜査一課でほとんどだ。最近では珍しいかもしれない。」

「自分は最初、綾瀬で。」

「ああ、綾瀬。」

二人は同期だ、という早乙女係長の説明で、わたしは敬語を使わなかった。二人とも会話が噛み合わず、松本楼特有のbuffet形式をいいことに、三度くらいカレーを自分の皿に掬い直した。松本楼の昼は当時から洋風と和風と二つのカレーが並んでいた。ずいぶん満腹になってから、ようやくお互いに事件に対する考えを少しずつ、話し始めた。無論太刀川という男についてである。

 この時点では、六本木事件はおきていない。わたしは沖縄で怪死した太刀川の子会社の人間について疑惑を持っていた。そのことに紐づけて、太刀川に対する一つの疑惑を持っていた。この疑惑は沖縄県警との線引きもあり進められていなかった。不満を持っていたわたしにある意味、ガス抜きの意味を込めて捜査二課で太刀川を追っているという人間を繋いだのは当時係長だった早乙女である。

 捜査一課は殺人を中心に切り口を強く設計する。ある意味殺人事件が起きた瞬間からが沸騰した作業の始まりだ。捜査二課は逆に知能犯を前提に動く。金石は太刀川の周辺の華麗なる人脈の周辺をずいぶん長い間内偵していた。

 話を始めてみると、金石は話がうまく面白い人間だった。そのまま日比谷の喫茶店に移動し、そしてそのまま夕方を過ぎても話が止まらず飲みに行くことにした。赤のれんに入ってモツを突きながらも、全く話が終わらなかった。

 それが、金石とのはじまりだ。

 我々は互いの直感で、疑惑を感じる太刀川の周辺を独自に捜査をすすめた。

 その後に六本木の事件が起き、合同捜査本部が立ち上がった。ごく自然な流れで捜査一課と捜査二課の二人の人間は、一緒に捜査をすることになった。捜査本部の解散までほとんどの時間を共にしたと言っていい。

 恐らく、性格が合ったとかそういうことではない。互いの刑事根性のようなものは類似性があったかもしれないが、何よりお互いを近づけたのは、我々が双方、まるで違うアプローチを持っていたからだろう。殺人の観点から類推を重ねる捜査一課のやりかたと、陰謀的な経済事件の観点から人と人のつながりを追う二課とが、同じ六本木の事件を全く別の切り口で見ていたのだ。正直、わたしは奴のやり方を見て、新鮮な気持ちになった。おそらく、金石もそうだったはずだ。

 そういう時間が始まったのがまさに、この松本楼の二階の、白いテーブルクロスの上でのカレーライスだった。真っ白い什器に、真っ白い白飯と、二種類のカレーを重ねる。

 そう。

 この松本楼の二階で始まったのだ。わたしは珍しく過去について懐かしい気持ちになった。



「考え事ですか?」

目を開けるとそこは、現実の日比谷で、若い女性刑事が、わたしを見つめていた。金石ではなく、現実の今の松本楼で、石原巡査は少し寂しそうな表情でわたしを、見たように思った。人間二人でいるのに、他の人間のことを考えているなど、困ったモノだろう。

 カレーを食する段になると、石原巡査はまた質問を始めた。

「質問してもよろしいでしょうか?」

を忘れないのが、彼女の真面目さを物語っているかもしれない。我々の時代は、それでも答えてくれない鬼の先輩刑事ばかりだったが。

「小板橋さんも太刀川を調べたかったのですかね?」

「小板橋か。どうだろうな。」

「はい。」

「太刀川を取調できると言う話には、乗り気だった。万が一、太刀川が何かをゲロすれば、一旦店じまいした捜査本部を飛び越えて表彰ものだろう。」

「なるほど。」

「でも、そんな取調ひとつで、若者が評価を得ようなんてのは損だ。長い仕事の中では。」

「損ですか?」

「ああ。近道は、一度覚えると辞められない。」

言いながら、その近道をうまく使う人間もいるぞ、と思った。いや、もしかすると、近道が大事な時代になったのかもしれない。

 食べていると、沈黙の時間が増える。カチ、と食器の音が響く。松本楼の上品な什器と、純白なテーブルクロスをわたしは見つめた。美しいものは心を素直にすることがある。

「太刀川に興味はあるのか。」

「あります。」

「迷いなく言うのだな。」

「銭谷警部補は。」

「わたしか?」

「警部補は、ご自身の警察官の信条に近い何かで、過去の事件を追いかけているのでしょうか。」

少し緊張したような言い方で、石原巡査は弁じた。言葉を終えた後の、顎の線が美しいとわたしはおもった。少女と呼んでは怒られるだろう。石原は回りくどく話をしたが、意味は伝わった。ちゃんと質問をする人間なのだ、と思った。

 例の降格の噂が生じてからと言うものの、わたしの太刀川追跡に参加をする若者は皆無になっている。若い人間たちはわたしとの仕事に、距離を置き出している。

 若者が器用になったというけれども、わたしはそう思わない。若者に選択肢が増えた時代が来ただけだ。彼らはプロ野球と枝豆とビールしか選択肢のない時代に育ってはいない。

「警察の仕事を、信条なしで出来るのなら教えて欲しい。」

「はい。」

「わたしは誰がなんと言おうが、私の仕掛かりの捜査をやめることはない。」

「仕掛かり」

「真犯人を捕まえるかどうかは、警察官の人生の問題だ。階級や組織は関係ないと思っている。」やはり、松本楼のカレーは酒か何かの薬が入っていると思う。わたしは不気味に饒舌な自分を、恥ずかしいとも思わなかった。目の前の石原を見つめたまま、「ただひとつ。犯罪者に手錠をかけることだけに全力を費やす。犯罪者が捕まりもせず、街の中に残ることを許したくないんだよ。」

わたしは、似た内容を繰り返した。やはり、胸を打つような演説はわたしには不似合いだと思った。

 石原は下を向いたまま、何か難しい顔をしていた。


🔵🟤 十六 六百億  (御園生探偵)


僕は、十四枚の葉書を、壁に貼り付け、並び替えるのを繰り返していた


E R T K U A A C S W C E O


アルファベットの順に並べ替えると


A A C C E E K N O R S T U W


見当も付かなかった。

「そもそもなぜ、風間は我々に頼むのですかね。」

「我々に?」

「はい。」

「うむ。そうですね。特に理由はなかったのかも知れません。」

「初回相談無料という広告の設定だけ、が理由だったんですかね。」

Google検索で、探偵、初回無料、という言葉を設定したのは僕だ。もちろんこれは、最初の面談までと言う意味なのだが。

「どうですかね。わたくしは、そこは詳しくはないのですが。まあ、警察に行かないいうのも、変ですよね。」

軽井澤さんは、Googleのことは分からないと言う表情のまま、壁のアルファベットを眺めた。

「警察にも行かないのは、なんとなく、彼がスネに傷がある、と言うことだとは思うのですが、我々にも、この葉書の14枚の説明ももらえないと言うのが、よくわからないですよね。」

「おかしな人ですよね。」

「後ろめたい過去があるのか。それとも、何らかの犯罪が絡んでいて、話せない事情があるのか。どうなんでしょうかね。」

そのとき僕の電話が鳴った。

「レイナさんです。」

僕と軽井澤さんが事務所にいるということで、スピーカー対応での会話になった。

「今大丈夫でしょうか?」

「御園生です。はい、もちろんです。」

僕は、少し今までの澱みを振り払うように声を立てた。

「昨日の新しい調査先の件を考えてみたのですが。資料のほう、御園生さん、ありがとうございました。」

「いえいえ」

「実は、私の専門はインターネットですから、物質的な葉書は簡単なのでは無いのですが、一応宛先が手書きだったと言うことでその本と手書きフォントについてはあらゆるメディアを探させていただきましたが、これが、出てきませんでした。」

一つ一つ調査が始まっていることを感じた。調査とはアイデアだともおもう。誰もみたことのない場所に向かっていく感じだからだ。

「まあ、手書きをさらすと言うのは多くのリスクもあるため、ほとんどの人が避けるのも事実です。ましてやこの風間の関係者である四十代五十代の人間となると確率はほぼゼロに近くなってくるかもしれませんね。」

レイナさんの美しい声が沈黙の中に響いた。

「ありがとうございます。ちなみにレイナさん、追加の葉書のほうはご覧になりましたか?今朝方送らせていただいた通り少し奇妙なもので。」

僕は、追加の葉書のこともレイナさんの意見が聞きたくて伝えた。

「はい。電話はその確認でして。この葉書は、十四枚も同じような葉書を送りその十四枚にアルファベットの文字を別々に書いて送ってきたということですね?そして、おそらく風間はその意味を知っているけども、意味の前に、この葉書を送ってきた人間を突き止めて欲しいというのが、今回のご依頼になる。」

「そうです。」

「なるほど。かなり奇妙で珍しい依頼者ですね、風間という人間は。あの十四枚の葉書が何を意味しているのか、御園生さんや、皆さんの方ではどんな議論になってますか?」

「はい。なかなか行き詰まっております。並べ替えによって無限に言葉が並ぶような気もしておりまして。」

僕がそういうとレイナさんは

「まぁそうですね。ざっと14文字だと、六百億通り位ですかね。現実的ではないかも知れない。」

「ちょっと待って下さい今なんて言いましたか?」

「現実的ではないと。」

「いやその前の」

「ああ、六百億通ですか?」

「なんでにそんなに数値に?」

「階乗の計算、だと思います。」

「ええと」

「まあ、調べればすぐわかります。また何か進捗があれば、私の方でももう少し調べてみますね。」

僕は笑ってしまった。

「六百億」

「すごい話ですね。」

「ちょっと、無理かな」

「そうですね。」

不気味さの上に面倒臭いと言う言葉がかぶさった。二十万円の前金をもらうために、このクイズに向き合うような気分は遠ざかった。少しずつ壁の葉書への興味は薄れた。

 レイナさんの確認が終わって電話を切ると、我々は、自然と、通常の不倫身辺調査や、ペットの追跡などの基本案件の整理に戻った。お昼を過ぎる頃、軽井澤さんは、

「今日はわたくしは早めに、失礼する予定です。」

といった。頭を切り替えたいのもあるのだろう。

 僕は引き続き事務所で事務を続けた。壁の葉書は不気味ではあったけれども、あくまで、この時の段階では、不気味な依頼人が金も払わずに、我々に頼ってきた迷惑な案件に過ぎなかった。金を払わない顧客を客とは言わない。無視しておけばよいはずだった。


🔵🔵 十七 別名の就職   (軽井澤新太)


 わたくしは、毎週2回ほどボクシングのジムに通っております。乃木坂から地下鉄千代田線にのり二十分もすると、多摩川まで参ります。ボクシングのジムのある河川敷まで歩くのです。

 好青年の御園生君に手を振るとわたくしは、風間の不気味な葉書などを一切雲散霧消すべく、サンドバックを叩ける場所に向かいました。

 わたくし軽井澤が、御園生くんを弊所に参加させるようになったのは、およそ三年ほど前のことで御座います。まず申し上げますと、彼はわたくしが以前所属していた企業で、大変お世話になった先輩の御子息なのです。

 しかし、そのようなお世話になった方のご子息を何も、探偵稼業などに巻き込まなくても良かろうという、世間様のご意見も当然あるかと思われます。かくいうわたくしも、そのようなものの見方をする人間の一種類でございます。大切に育てて立派な大学にまで行かせたものを、何故、大手の企業に就職させずに探偵にというのは親心からすると複雑で御座います。小説やドラマの世界ならまだしも、昭和の昔、甲乙丙丁の丙業種とも言われた探偵稼業でございますから。

 これにはわたくしも、一定の言い訳がございます。実は彼は、最初は御園生という名前ではなく、別の佐藤という名前で、弊所に就職希望をしたのです。ご承知の通り、わたくしどもの仕事は、大企業と違い、新人を研修させる余裕などございません。新卒のようなものは当然断らせていただきます。それが、どうしても、頼む、というのを幾度も繰り返したわけです。やむを得ず、採用させて頂いたのです。もちろん別の佐藤という名前ですから、御園生先輩の、ミ、の字も想像できませんでした。

 見習いという形で仕事を幾つか渡すようにしました。基本的にわたくしの雑務の手伝いと言ったところでございますが、これが何を任せてもしっかり対応し、みるみると成長をして参りました。安月給にも不満さえなく、朝から晩までよく働くのです。見習いどころか、わたくしにとってもなくてはならない存在にさえなり、これは随分有難い見つけ物をいただいた、と思っておりました。そうして、二年ばかり過ぎたとある日、突然、

「わたしは、子供の頃、あなたに抱っこされたことがあるんですよ」

と、その佐藤青年は立派に言ったのです。二年ものあいだ、そんなことも想像だにせずに過ごして参ったわたくしの脳がどのような反応をその場でしたのかはいつかまた後日何らかの形で申し上げるとだけ、させてくださいませ。もっとも、もし、御園生先輩がまだ存命であればこのようなこと自体が、最初から起きなかったかもしれない、もっと言えばわたくしも探偵をやってはいなかったかもしれないのでありますから、人生というのは不思議なものだと申し上げざるを得ぬのでございます。

 弊所の所属である、御園生くんの紹介として上記が適切かはさておき、まず当面は、若い割にはなぜか、当事務所のために必死に働こうとしてくれる不思議な若者とでも思っていただくのが適切かと思われます。補足として、御園生くんは、父親の面影はほとんどございません。(それが故に、佐藤と名乗った嘘を信じたのです。)恐らくお母さまに似たのでしょう、誰もが嫉妬するほどの美男子でもあります。ただ、今時というよりもむしろ、少し昭和の香りがするあたりは、御園生先輩の遺伝なのかと思っております。



🔴🔴 十八 GPS   (赤い髪の女)


 赤髪女は、その日一日中、GPSで風間を追った。

 探偵事務所を出ると、風間正男は麻布十番商店街から芝公園へと抜け、桟橋を晴海から有明へと抜けていった。埋立地の方へとむかっていく。

 しかしこの中年男はよく歩く、と赤髪女は思った。歩くのは嫌なので少しずつ地下鉄で間合いしながら追うのが面倒だ、とおもった。

 夕方近くまで歩みは止まらなかった。

 歩き続けて東京の東の端、江東区の新木場まできた。その先は舞浜、千葉である。

 新木場で右に折れると、風間は今度は海の方へ向かった。

 埋立地に入ってからは不動産屋も少ないのだろうか。ほとんど立ち止まることなく進んでいる。とにかく、よく歩く。いや、おそらく猫の死体からの恐怖で足が進むのかもしれない。もうすでに夕暮れは終わって夜になっていた。時計を見ると、もう夜の七時を過ぎていた。

 海沿いで何をしているのか判らなかったが、しばらくしてから、また新木場の駅の方に戻ってきた。そうしてまたきた道を歩き出した。電車に乗る金もないのかと、赤髪女は思った。そのまま今度は隅田川沿いを北上して歩いていく。それにしても随分体力がある。そうしてまた1時間ほど風間は北上を続けた。

 GPSを設置していなかったら間違いなくこの男の相手はできなかっただろう。 

 




🟠 十九 変装論議   (レイナ)   ()表記は、フリガナ


 最初に変装(disguise)をした日。

 レイナはその日をはっきり覚えている。

 誰かが、気がつくような、ちょっとした変装では意味がないと思っていた。安易なサングラスや、帽子や少し違う化粧をした程度では、自分は満たされない。変装して別の自分になりたいと言う、不気味な自意識を解決させるなんて、簡単じゃないと思う。

 準備には一ヶ月はかかったと思う。男物のスーツを選び、中年の少しくたびれたネクタイと、靴と靴下というイメージはしたけど、ありがちに集めたものではダメだと思った。まず、自分がなろうとしている男性像を幾度となく、レイナは言葉で整理をした。

「仕事には疲れているけど、男としては魅力的」

「どこにでもいそうだけど、意外といない。」

「そんなにお金があるわけではないけど最低限の服選びはしていて」

「スーツは結果として、不本意に似合っている。」

文字で整理してその人間をいろいろと作っていった。名前も考えた。佐島恭平。若い頃にみんなに、きょうへい、と呼ばれたスポーツマンだった感じ。会社勤めで、歳をとって行った独身。痩せていて、黒髪。クラスではさほど目立たないタイプ。よく見れば意外に整った顔をしている、など。

 自分の中だけで、この世の中に戸籍もない佐島恭平が、どんどん育っていく。そうして一周回ると、自分がその佐島恭平の心をわかるようになっていく。空を見たら何を感じるのかとか、電車に乗ればどこを見るのかとか、なにを考えどう感じるかの、一つの人格が、レイナの脳内に育っていく。そうなってから、初めて、Sajimaの人格になりきってから、ネットでアカウントを作った。Twitterやinstagramに佐島恭平が始まっていく。それぞれに現金をチャージして、身につけるものを買い出しを始めた。佐島の「財布」で少しずつ買っていく。大道具小道具のようにいっぺんに頼まず、現実の間合いでひとつずつ注文し、佐島恭平の気持ちになって届いた段ボールを開く。そうして、試着して確かめてから、追加で買い足していく。買い足しながら、佐島という感覚が研ぎ澄まされていき、人格が安定を見せていく。まるで自分の家に、もうひとつ、同居人のように存在し始めるような。

 レイナは、最初に佐島恭平が、実際に街を歩く日を決めた。

 7月26日。

 幽霊の日。

 かつて、東京の町に幽霊がいた日だという。きっかけは何でも良い。嘘の記事だって自分が信じて動けばいい。真実がそこから始まる。

 スーツケースに佐島の荷物の全てを入れて、受付もない貸し会議室を選んでその駅、赤坂見附という駅に向かった。ビルの3階でQRコードで入ることができた。隠しカメラは設定されてない。

 全裸になって、男ものの下着からデオドラントから、付けていく。見えない部分こそ、心を研ぎ澄ます。きつく髪をまとめ上げた上に、ウィッグを重ねる。化粧ではなく、素顔にうっすらと髭を重ねる。特殊メイクを調べて、女性とは違う化粧を施して、男性の素肌に近い色彩を用意する。レイナはもともと筋肉の多い方だけど、肩には襦袢をつける。胸にはサラシを巻いて男の胸板にする。そうやって白いシャツを左右逆のボタンを確かめながらつなげていく。左右逆だということに驚かないくらい、気持ちが、男性のそれになってるのを感じていく時、爽やかな始まりの感動があった。朝の始まりとか春みたいな季節の持つ、純粋な感動。自分が産まれてきた気持ちをもう一度思い出すような。いままでの人生を全部消しゴムで消して、初めて真っ白なa3の紙に、思い通りに描き始めるような、そういう貴重な気持ちだった。


 

🔴

🔵🔵 二十 愛娘  (軽井澤新太)


 東京都の西の外れに近い小田急登戸の駅から河川敷を歩くこの道はわたくしの好きな空間のひとつです。東京の街で地平線を見ることなど難しいものです。ここまで地平線に近いものを見つけることができるのは、河川敷かせいぜい高層ビルからの眺めだと思われます。

 河川敷と言うのは人間にずいぶんな視界の広がりを与えてくれます。この眼差しの広がりに、わたくしは束の間に心を癒やされております。ジムは風薫る河川敷の土手から階段を降りたいわゆるゼロメートル地帯と呼ばれる川面よりも下手すれば低いくらいの一角にございました。

 その女性は、汗ばんだ表情でランニングを終えて、ジムに戻って来ました。

「おつかれさま」

「これからミット打ち?」

「うむ。少し今日はしっかり殴り込みたい。」

「あら。ストレスかな」

「大人の世界はいろいろあるからね。」

すこし軽装が気になります。わたくしからすると、これほど可愛らしい女性はそうそういないのではないかと思います。それでいて知的でもあるし、わたくしが言うのもなんだが同世代の男は放って置かないはずでしょう。申し遅れました。この女性こそが、わたくしの一人娘の、軽井澤紗千と申します。

「大学の宿題がたくさんだから、今日はパパとディナーは無理かな」

「やむをえないね。」

娘は、爽快にほほえみ、宝物のように思われている気持ちも知らずに、頓着なく手を振ると、土手に駆け上がり、帰っていきました。わたくしはいつものように、彼女が見えなくなるまで、こころのなかで、手を振り続けておりました。

 考えに行き詰まるときに、わたくしはボクシングを致します。人間の身体には、脳では把握不能の防衛本能のような設計がされております。長い進化の過程で脳が科学的に何かを覚える以前から、身体は脳を守って来ました。考えに行き詰まるとき、身体的な何物かが脳内の点と点をつなげることがあり、わたくしはそれを閃きと呼んでおります。

 ボクシングジムという場所は都内に少なくなったかもしれません。わたくし、軽井澤が好んでおりますのは、都心の富裕層が集う、邪まな筋肉美を互助的に、宗教的に製造させあうものではなく、ひと世代も昔のもの、郊外の河川敷あたり風が吹けば壁揺れるくらいの零細なジムでございます。そのような経営も稚拙な川沿いの体育的な運動用の薄手のバラックで、ミット打ちに来る大人たちのさなかに、ごくたまに、少し病んだように暗鬱とサンドバックを叩き続ける若者があります。若さという懊悩をそのまま闘争心に変えて、現行世界への不満を睨むかのように撃ち続ける存在があります。この手の零細なボクシングジムが時折チャンピオンを排出するのはそういう理由がございましょう。何者かへの不満を持つ青少年の横顔が、犯罪ではなく、このサンドバックに向かう姿にこそ、わたくしは、束の間の癒しを覚えるのかもしれません。この登戸ジムにもまさしくそのような感覚がございます。

 探偵風情がくだらぬ叙情を申し訳ございません。かくいうわたくしも、遠い昔にそのような気分で叩いたこともございましたのでしょう。無論、そのような暗い青春は遠く去り、いまは、ただ、この世の大人の事情やら暗鬱やらに染まった自分自身を、少しでも雲散させたい一心で仕事の合間にサンドバッグを叩きに参ります。

 幾つもの仕事を辛うじて前進させるのもこのような趣味あってのことかも知れません。ほとばしる汗が、わたくしの中の精神的な汚物を一掃します。そんなカタルシスのあとならば、嫌な仕事の電話でも、耐えうるものでございます。

 この日も、おそらく誰よりも暗鬱にサンドバックをいたぶり続け、筋肉が疲れ果てるまでそうしていました。そうして弛緩した体で、ジムを出て土手の階段を上がり、広大なる多摩川の河川敷を見下ろしました。

 人間は不思議なもので、身体の血流に合わせて精神というものが反応するようできております。更にはそういう気分が実際の運気を変えていきます。風香る草原や、長閑な界隈を拳闘に汗した体で歩くうちに、たとえば風間の鬱陶しい電話も、遠く去って行くのです。わたくし、という細胞の集まりがしっかりとした回復を身体に行い、そのまま精神の側まで癒されていくのをまさに味わっておりました。

 まさにそのときでした。

 まさにそのとき、世にも恐ろしい電話が鳴ったのでございます。


🟢 二十一 警視庁タバコ場  (銭谷警部補)



to Z


本を読め。

捜査は一人では出来ない。ただ影響力を失った人間はいつでも一人になる。一人でやるなら本を読め。


一人でできるのは、犯人になることくらいじゃないか?


K


 金石が辞めて、半年もしてから、わたしに差出人不明のメールが届くようになった。アドレスは毎回違う。問題のあるメールに見え、自動的に迷惑メールに振り分けられているのがほとんどだ。ふと気になって迷惑フォルダを開くと、何通も溜まっていることも多かった。一時季に数本のメールが来る。しかし、気がつくとほとんど来なくなったりもする。そもそも迷惑メールで削除されているのかもしれない。忘れた頃に数本がまた来る。

 挨拶も、宛名も、なにもない。ましてや金石だという証明はどこにもないし、金石であれば当然記すべき内容、例えば突然いなくなったことへの説明もない。

 ただ、本文から突然始まり、Kという文字で終わる。おおよそ他の人間では書けないはずのわたし宛の微妙な内容が記載されている。

 便利な時代になったのだろう。こういう風に、一方的に好き放題に言葉を送付して会うこともしないで済む。それでも、本質的に奴のことが好きだったわたしには、たまに来るその文面の内容が不快だとしてもなんとなく開封してしまう。やつからかもしれないメールが着信していることが何かの癒しになっているのだろう。でなければ忙しかったわたしが、迷惑フォルダを暇を見て探すようなことなどしないはずだ。もしくは最近見ることが増えたように感じるのは、おそらく、例の問題(ハラスメント)のせいかもしれない。

 今、わたしは二十年かけて積み上げた刑事の実績と、時間を失おうとしている。いや、もともと積み上げたものとか、成果実績そんなものは無く、ただのわたしの思い込みがあっただけなのかもしれない。若くして警部補だとか、捜査一課のエースだとか言う自尊心にもしてなかった言葉が、何故か今更、脳裏をよぎる。失ってから、初めて見えてくるものがあるのだろう。

「ここあいていますか?」

「ん?」

煙草場に自分がいたことも忘れていた。自席では仕事もなく、手持ち無沙汰で、このタバコ室にいることばかり増えている。机で昔吸えたタバコは、今は会議室でも吸えなくなった。

「お昼はご馳走さまでした。」

石原里美は、タバコの灰皿を見ながらそう言った。

「とんでもない。」

「女が吸うのはダメですか。」

「いや、気にならない。ただし」

「ただし?」

「妊婦には勧めないようにしている。」

「なら、大丈夫です。」

ライターを自分で取り出し、石原はタバコの火を灯した。

「自分一人で考えてみたんですが。」

そう前置きをすると、石原は、タバコの煙に載せるように、彼女自らの来歴を簡単に話し始めた。カレーでわたしが饒舌過ぎたせいで話しづらかったのかもしれない。もしくは彼女なりに午後の時間を使い、言葉を整理したのかもしれない。

 彼女自身の説明は短かった。短く終わったせいでその言葉は彼女が思う以上に、清々しく聞こえた。銭谷警部補のやろうとしてることに共感があると言ったところで、タバコを止めてわたしの方を見つめた。素直な眼差しだった。

「もう少し太刀川の件についてお話をお聞かせ願いたいのですが、だめでしょうか。」

石原の表情は真剣だった。

「事情があり、すまんが少し場所を変えても良いか。」

わたしの人事界隈の噂は聞いているだろう、と思いつつその説明はしなかった。場所を変えたいという話だけをしてわたしは石原の返事を待った。

 少しの間合いのあと、

「もちろん、どこでも構いません。渋谷でも新宿でも。タバコが吸えなくても良いです。」

と、快活な返事だった。

「ありがとう。」

「こちら、私の私用の番号です。チャットなどでご指示ください。」

「……チャット。」

「太刀川案件は、捜査一課の正規の作業対象としては時間を割きにくいと認識しています。」

「……。」

「ただもちろん、それをあえてどうするかという作業だと考えてます。なので私はこちらの個人携帯電話の方が助かります。」

石原はそれだけ言うとタバコ場を出て行った。



二十二 実験番号 04298


🟢 


 僕が彼女を初めて見たのは、小学校四年の春のことだ。

 一学年で十クラスもあった小学校で、教室が四年のクラス替えで隣になったのがきっかけだった。当時、多くの小学校にはそれくらいのクラスがあった。1組だと10組の人間の顔を知ることは難しかったとおもう。

 通常発見する美しいものの列とは全く違う、段違いの美しさだった。休み時間に廊下を歩くだけで、あたりの空気は一変した。自分はいち早くそのことに気がついて、それを誰にも言えなかった。多くの男子生徒は気がついていたと思う。どのクラスかわからないが廊下を歩くあの女は誰だ、と。少しずつ、周囲に知られていく。話題になっていく。僕は、密かに彼女の美しさがどこかで有名になって欲しくないとさえ思っていた。

 小学生時代は、休み時間を廊下でなるべく過ごすのが癖になった。

 稀に彼女が僕の目の前を通ることがあると、それだけで一日が清く晴れ晴れとした。

 毎年クラス替えがあるのは知っていたから僕は密かに期待していた。けれども十クラスもあるのでそれは叶わなかった。小学校時代に一度も、自分は彼女に話をしたことがない。


 運動会や、体育館で行う学校全体の行事だけは、例外的に堂々と彼女を視界に置くことができた。廊下での盗み見とは違い、適切な理由をつけて自分は彼女の姿を視界に入れた。髪型が変わっただけで、何か新しいものを得たかのような気分にもなった。

「川田木は好きな子はクラスにいるのか」

同級生の小林はそう言う会話が好きだった。

「そんなの、いないよ。」

「おれは秋葉がすきだけどな。」

「知らないな。何組だい?」」

「たぶん1組だな。ずっと端っこの方だ。」

「1組の人間まで調べてるの。」

「いやさ、通学路が近いんだ。」

「そうか。」

彼女の通う方角については、校門を出てどちらに曲がるかくらいしか知らない。さすがに後をつけることはできなかった。ただ自分の自宅の方角ではなく、少し裕福な一軒家の並びのある街区のほうに帰っていくので、通学路で重なることはなかった。

「8組の三田村純子もすごい人気だな」

「……。」

「知らないか?」

小林が下品な笑いの中で、気になる女生徒を並べた何番目かに、その名前が出た。三田村純子というのは彼女の名前だった。自分は聞かないふりをした。そうやって会話の材料になることで純子の存在が汚される気がした。

「知らない。自分はその子も、知らない。」

そういうのが精一杯の対応だった。



🔵🔵 二十三 河川敷の電話 (軽井澤新太)


 

 知りもしない番号からの着信画面をしばらく眺めた後に、わたくしは河川敷の土手の上で電話に出ました。今思うとどこかでボクシングの後の前向きな気持ちがそうさせた気がしました。

「モリヤともうします。探偵事務所さまでしょうか?」

「はい。」

「ええと、あれ、名前は軽井澤探偵さんでよかったですかね。」

そういう一見、紳士的な声が守谷と名乗る男との最初でした。

「はい。軽井澤ですが。」

「急ぎのご相談です。はい。特別料金をお願いします。ぜひ、一度お会いしてご相談をさせていただきたいのです。打ち合わせですが、新宿のわたしの事務所、でもよろしいでしょうか。はい。脅迫じみたことをされていまして。」

Googleは連続して客を連れてきたようでした。

「内容は嫌がらせの相手の調査と言うことでよろしいでしょうか。」

「そうです。」

「ではいつ頃にお伺いを」

「実はその、申し訳ないですが、今すぐお願いしてもよろしいでしょうか。」

「いまですか?」

「ええ。事態は大変に急を要しておりまして。住所を申し上げます。新宿区・・・の808号室です。」

電話の声は勝手に自分の都合で言葉を並べました。わたくしは、メモを取ることもしませんでした。

 本来であれば、多摩川の河川敷で受けた電話はわたくしは、断ることはない、と申し上げても良いくらいに、気分が良い時間なのです。万事ものごとには縁というものがあり、そして、このわたくしの最も優雅で爽快な時刻に電話を鳴らしていただけたということも、他ならぬひとつの御縁であるはずです。しかし、今は、風間の件で若干、顧客を選びたい気持ちが増しております。通常の仕事も残っております。急かされる仕事の連続は懲り懲りでございましたので、さすがに今すぐというのはお断りさせていただこうかと思い

「実は現在いくつかの業務が立て込んでおりまして、今すぐというのは」

とわたくしは、言葉を返しました。ただ、モリヤと名乗った男は、すぐさま切り返します。

「そこをなんとかお願いできませんか。お金はすぐにでも振り込みますから。」

「いえ、今月は我々は、なかなか課題山積でして…。」

とわたくしがそう話しかけたそのときでした。

「あっ、ちょっと、待てお前!うっ!」

という、モリヤの声と同時に、おそらく電話を落としたような衝撃音が受話器の向こうから致しました。そうしてすぐに、わたくしが声を出そうと躊躇するうちに、モリヤと名乗る男の声は、聞こえなくなり、しばらくガサゴソと雑音を小さくさせていました。

 問題はそのあとでした。

 なにやら、電話の向こうで、小さく

「やめろ、おい。」

「……。」

「やめろおい、なんだ……。」

という言葉が一瞬すこしだけ聞こえました。塞いだ口から漏れたような声色です。その小さな声はほんの束の間でありながら、恐ろしいほど震えや怯えがつたわる、小さな小さな声でありました。確かにそれは、元々の電話の主である、モリヤと名乗った男の声でした。

 ゾッとするくらいに押し殺した物音たちと、異様に力んだ怒気とでも申しましょうか、わたくしの想像では、布類などで口を塞がれたモリヤ氏がその奥底に激しい声を出している、喚き声とでも申しましょうか。そのような意味不明の断続音でございました。ぞっとする声と物音の連続はある種の冷たいものも感じさせました。歯医者で使うようなおかしな音もしました。切断音でしょうか?想像力過剰たるわたくしは、電話の向こうに何か血生臭い地獄があることを思わずにはいられませんでした。

 電話はそのまま切れませんでした。

 おそらく、ベッドの隙間なのか床の見えないところに落ちたものと思われます。もしくはモリヤ氏が意図的にそうやって、見つかりにくいところに投げたのかもしれません。

 そのあとは一定の時間、不気味ななにか、鋸のようなものを、動かしているような音と、そして気が狂ったようにバタバタとし続ける、あぅ、あぅ、という口を塞がれたおぞましい、声を止められた人間の呻(うめ)きのようなものが聞こえました。空想をしすぎとご指摘されるかもしれませんが、いや、音というものは言葉以上に実際を語るのです。そして、目を閉じた人間の想像には、際限がないのでございます。

 電話を切ることもできませんでした。電話を切れば、こちらから、また変な音でもしたら困るようにも思い、金縛りを打たれた石像のように携帯を耳に当て、わたくしは河川敷に立ち尽くしておりました。耳だけが壁のようになってその電話の音に張り付いていました。

 阿鼻叫喚の封じ込められた叫びが、全くの静寂に変わったのは、十分や十五分の時間ではなかったと思います。散歩の老夫婦が、わたくしの真横から多摩川の河川敷の果て見えなくなるまで歩いて行ったくらいで御座います。それでも不思議と電話の電源は切れずにいます。静寂が続きます。おそらく電話の主のモリヤと名乗る男は、何者かに襲われたのだと、わたくしは想像しました。そして、我々の事務所に救いを求めたのは、その襲撃が今にもくるのだと予感していたからなのではないかと。もしかすると、風間と似て、警察には言いづらい事情もあったのでしょうか。想像が行き過ぎかも知れませぬが、しかしながら、おおよそ全く筋違いとは思われません。

 そんなことをわたくしが妄想しているさなか、ようやく電話がぶつりと切れました。

 おそろしい音の世界との空想がやっと終わりました。ビッショリと胸板と背中と再び汗まみれになったわたくしは、受話器として持ち続ける左腕がここまで突っ張ることの異常を感じつつ、やっと終わりましたその電話に一瞬解放されまして、河川敷の草むらにしゃがみ込んでしまいました。

 が、しかし、心地を取り戻して河原を眺めた刹那に、実は時間差攻撃のような悪魔的な、二つの事実がわたくしの脳裏に落ちてまいりました。 

 一つ目は、そもそも何故、電話が切れたのだろうか?と言うことです。もしそれが本当に犯罪的な襲撃ならば、あの時電話を切ったのは、犯人に違いないのです。何故なら、モリヤが何らかの形で、助かっているなら、再び電話口でわたくしに助けを求めるはずですから。

 二つ目はもっともっと恐ろしいことです。じつは、襲撃者が電話を見つけ、通話の続く電話の画面を見た場合、逆算すれば、襲撃の一部始終が筒抜けだったことは即座に理解されるでしょう。また、番号を調べればすぐに軽井沢事務所は探知されます。

 もし殺人事件がそこに存在する場合、殺人犯は我々をその目撃者の一種類として、追いかける可能性がある。もしくは電話の持ち主を必死に探す可能性があるーー。殺人を隠すための殺人がしばしば存在すると言う恐怖がわたくしを襲いました。



🔴🔴 二十四 芸能社長  (赤い髪の女)


 薬が足りなくなると、いつも過去のフラッシュバックがくる。

 いろいろな過去が襲ってくる

 覚醒剤中毒者は、過去との戦いに生きている。未来など描くことができない。未来を描けるとすれば、キマった時だけだと、赤髪女は思う。

 自分で言うのもなんだけども子供の頃は可愛かった。事務所に入ってアイドルみたいな仕事が始まった時も、普通に誰よりも人気があった。事務所の社長が自ら声をかけてくれて可愛がってくれた。それが贔屓目だったとは思わない。自分はあの頃、とにかく人気があった。

 でも、人間には向き不向きがある。もともとアイドルが好きだったわけでもないし、芸を磨きたいと言う気持ちなどコレっぽっちもなかった。歌の練習も踊りの練習もおしゃべりの練習もSNSの練習もどれも興味がなかった。ファンの人とのコミュニケーションにも興味なんてなかった。

 その事は事務所の社長にはすぐ伝わっていた。

 それでも社長は優しかった。

 もうすでに何回か芸能界でミリオンセラーを当てていて、引退したおじいちゃんのような存在だった。実際にもう年齢も八十歳位だったと思う。環境に適応できない自分に優しくしてくれた、と赤髪女はおもう。

 父と母が離婚したころ、厳密にいうと、アイドルを始めたあの頃は父がいなくなったころで、母親に新しい男の人ができたあとだったと思う。新しいお父さんだよと母親に言われた時、自分が消えていくような寂しさがあった。自分の芸能界はそうやって始まった訳で、アイドルになる夢なんてこれっぽっちもなかった。

 東京で一人暮らしを始めて、夜の街で遊びはじめて、いろいろな事を覚えていったけど、どこかで寂しさがあった。今でも何に自分が飢えていたり、なぜ寂しかったのか、はわからない。もしかすると今でも寂しいのかもしれない。

 社長はそういう私を見ては、声をかけてくれた。

 いろいろ気を付けるように、と言ってくれていた。

 周りのアイドルの子もみんな同じようにそういう場所で未成年なのにお酒を飲んで遊んでいた。でも、正直いうと、そういうのも含めて芸能界にあまり興味がなかった。だから遊んでいても楽しくなかったんだ。社長はそこまで見越していたように思った。なんでも週刊誌にたくさんお金を払って、記事を止めたりしていたらしい。まだそういう事務所の社長が強い時代だったのかもしれない。

「君に向いてる仕事あるかもしれないよ。」

社長がこの話を初めて私にした日のことを覚えている。アイドルの仕事とか歌とかそういうのが好きじゃない私に対して真摯に目を見て話していた。君は約束を守るからね。口も固い。そういう人にだけ向いてる仕事があるんだ。

 事務所のソファでタバコをしながら社長はゆっくりといったのを赤髪女は覚えている。

「約束を守る?」

「そうだ。」

「私が?約束を?そんなのなんでわかるの?」

「見てる人は、見てるよ。ちゃんと我慢ができるんだ。好きなことしかできない人間の逆なんだよ。」

「うん」

「我慢をしてるからね。この仕事は簡単な仕事だから。他の人に言っちゃっいけないよ。」

「うん」

「そうして、安定した時間を持てば、覚醒剤もやめられるかもしれないい。いいかい。覚醒剤は本当にやめられないんだ。」

社長は知っていた。遊び始めて、夜の街で私がどんなふうに遊んでいるかも。孤独に誤魔化して自暴自棄になっていたことも。そういうことも含めて心配していると、いった。

 恥ずかしい話、最初は、社長に呼ばれて仕事を紹介すると言われた時、てっきり売春か何かの仕事かなと思った。

 噂でそういう仕事があった。でも私はやっぱりいい社長と知り合ったのだと思う。社長はその頃もう病気が始まっていていろいろなものに、人生最後の優しさを与え出していたって、誰かが言っていた。人生の終わりにゆっくり、優しくなっていくんだと言う人がいた。

 社長は私にその仕事をくれた。

 その仕事は不思議だった。


 突然歩いている時に紙袋が落ちている。

 それを拾うと、紙にやることが書いてある。

 それをやると、紙をまた拾う。どこかに行けとか、書いてあったりする。

 またしばらくしてたとえばトイレに入ると、何か袋がある。

 お金が入っている。

 また、紙にやることが書いてある。。。


 繰り返すだけ。

 インターネットとか絶対に絡まない。電話もない。ただ、歩いていたり、コンビニに行く帰りとかに、いつも紙袋が多かったかな。

 そして、オーダーは一定期間続く。一度始まると、毎日忙しいくらい。でもそれは一年に何度もない。

 生活費とも丁度、リンクする。仕事も、仕事というより、封筒(おそらく、どう見てもお金が入っている)をどこどこの郵便受けに入れろとか、手紙を届けるとか、箱に入った何か(もしかしたら麻薬のようなものかも知れない)を、住所に届けるとかばかりだった。

 そうやって、ずっと仕事をもう8年もしている。それが少し変わったのが今回の仕事からだった。

 電話の指示になったのだ。

 それは大きな変化だった。

 今、赤髪女に電話をしてくる「指示者」はヘリウムガスの声で、決して名前は名乗らなかった。ただ、風間という人間のことを説明し、幾つかの電子器材を郵便ポストで渡してきた。当面この男を追いかけると言い、そして、猫の死体の嫌がらせを指示してきた。

 不思議な変化だった。 

 加えてもうひとつ変化があった。それは、これまで何となく一定に保たれていた自分の収入金額が変わったのだ。最初はさほど気にならなかったが、時間が過ぎるにつれて渡される金額ははっきりと意識するようになった。

 本当は、社長が生きていれば聞いてみたかった。社長はそういうことを、少しだけ、匂わせていたから。

「真面目に何年もやってると、少しずつ良くなる仕事だからね。どんな仕事も少しずつ、上に上がっていくんだ。真面目に続けることが大切なのだよ。」


 電話が鳴った。

 非通知の番号である。

 ヘリウム声の「指示者」からだ、と赤髪女は思った。


🟠 二十五 パソコンと変装    (レイナ)



 自分を救ったのはパソコンと変装だったとレイナは思う。この二つは似ていた。パソコンは名前を隠せる。それは変装の一種だ。進化の中で次々と手法を深めた。顔も肩書きも確認がどんどん難しくなっていく。

 一つの人格で生きることと違って何らかの解放がそこにあった。世の中が停滞していてもその解放だけは、世界中に広がっていくのがわかった。

「新しい自分でいいのよ。レイナさん、あなたには才能があるから。」

その言葉が今も響いている。鬱屈として壁の隅っこで一人で体育座りで朝から晩までを過ごしていた頃の自分とは違う。言葉を脳に通わせずに、怯えた動物のように震えたまま時間を過ごしていた頃とは。

 パソコンは不思議だった。

 学校みたいな先生がいない。

 どこまでも窓に文字を打ち込み続ければ、答えがどこまでも続いていく。でも打ち込まなければ、何も言ってこない。


 線路は続くよ

 どこまでも


現実では、線路はどこまでも続かない。それより先には行ってはダメだって大人がいう。永遠は嘘だし絵本の線路にも必ず、ページの終わりが来る。

 パソコンは違う。

 終わりがない。

 本当に終わりのない線路だって作れる。

 永遠だ。

 永遠に時の流れの中で、無限に、宇宙のはじから反対の宇宙の先まで、繋がっていくくらいに、限界がない。終わりがない。全てのWEBページを見終わっても、まだ今、新しいページが生まれ続けている。そして、どこまでも、いつまでも繋がっている。

「そういう風に考えるってことは、あなたには才能があるのよ。」

またその人の言葉が耳に届いている。

 パソコンにはもう一つ特徴があった。

 全てが解決されていた。

 自分で自分の名前をつけることが「基本」だった。そうしてその名前も、ある程度すると、変えることもできるし、更には複数持てるのだ。全て自由だ。最初から誰かに変装して生きることもできる。

 自由な名前で作った、自由自在のスクリプト構文が、動き出す。自分が作ったものが世界中で、テクノロジーの部品になって動き続ける。誰にも実際には会わず、スクリプトだけをパソコンに打ち込んでいるのが一番いい。そうしてそれらの言葉たちが、最大限に能力を発揮して、レイナのために動き出してくれる。寝ている時も他のことを考えている時も、スクリプトは自動で作業をしてくれる。

 レイナはその束にまた新しい技術を試し始める。テクノロジーの寿命はどんどん短くなっているから、その生まれては消えるサイクルは瞬間的になっている。

「あなたには才能があるのよ」

その言葉が音符のようにレイナの耳に流れていた。




🟢🟠 二十六 アメ横問答    (石原巡査)


「御徒町のパンダの前で」

というメッセージが銭谷警部補から入っていた。

 不思議な人だと思う。

 仕事の鬼と呼ばれ、捜査一課のエースで実績も誰よりもある。メディアでもかなり注目された大事件捜査の中心的役割をいくつもこなしてきている。そこには、ほとんどの若手がまだ学生の頃にテレビで見た事件も多い。それでいて、そう言う過去の実績を説明する言葉を器用に持っていないように感じる。多くの刑事は自分の過去の手柄を語るけれども、銭谷警部補にはまずそれがない、と石原は感じた。

 剛腕ゆえのパワハラ、というがそういう空気も少しも見えない。何かに威張り散らす種類の人間を石原里美は想像していたが、どう見ても相容れない気がする。とりわけ実際に銭谷本人と話してからの石原の印象はそうだった。

 今、待ち合わせを霞ヶ関から距離を置いてくれたのは石原としてもありがたかった。


 御徒町のパンダ


は、駅を降りてすぐに誰に聞いても簡単にたどり着くくらい明確な場所で、待ち合わせに適していた。上野という街が、パンダに強く連動した過去があるのはネットで少し後追いした。石原は御徒町のパンダに五分も前に着いた。銭谷警部補は既に到着していた。

 特に立ち話することもなく、銭谷警部補は小さく頷くと、無愛想に先に歩き始めた。横断歩道を渡る時にも、石原が後ろについてきてるのかも確認もせず、アメ横の混雑をまるで人がいないかのような速度で歩いていく警部補は、お世辞でも女性の誘導が得意とは言い難かった。ふと、仕事の鬼は独身、という言葉が石原には思い出された。

 二つくらい角を過ぎたところでガード下の道に入った。上を山手線や京浜東北線などが走るガードの下にレンガ作りの旧式の構造があった。その地下を勝手に掘ったような入口があり、奥に、赤提灯で「ホッピー」という文字が揺れていた。



🔴 二十七 指示者の電話 (赤い髪の女)


「指示者」はいつものヘリウムの声だった。

「西馬込はどうだ」

「はい。風間と名乗る男ですが、西馬込の自宅を出た様子があります。」

赤髪女は答えた。

「ふむ。」

「不動産屋を回っています。五反田から青山まで来て、それから芝から有明の方に降りていっています。」

「有明?」

「はい。埋立地の方まで回りました。」

「ふふ。なるほどな。まあ、想定の範囲ではある。」

「想定の範囲?そうですか。わたしもよくわかりませんが、風間は今日一日、住み替えのために不動産を転々と歩いた様子があります。」

「なるほど。猫の臭いに苦しんだようだな」

「はい。それは、もう。今日のところは、少し内陸に入った錦糸町の安宿を見つけて泊まったようです。」

「錦糸町…。GPSは便利だろう。」

「ありがとうございます。」

「綾瀬のもう一人のほうはどうだ」

「そちらも、コンタクトを始めていますが、時間がかかっております。」

「……。」

「GPSは彼にはうまく設定を出来ずにおります。」

「警戒心が強いはずだ。無理はしないでいい。」

「はい。」

「綾瀬は、少し別のやり方を考える。そのことは模索している。そのために金を用意するから、届けておく。」

「金ですか。」

赤髪女は「指示者」の言葉がわからない時がある。知的な人間にありがちな、説明を端折ることが多い。しかし、それを質問するとヘリウムの声でもわかるほどに不機嫌になるのがわかる。

「GPSを付けられないのなら、別のやり方で位置を把握する、ということだ。そういうやり方を今考えている。金はそれに使うから、持っておけ。意味がわかるか?」

「は、はい。ありがとうございます。」

「以上だ。」

「ありがとうございます。」

「うむ。」

指示者は、納得したような間合いで頷いた。赤髪女は、金が届けられると聞いて引き続き仕事が続くことに安心した。実は金銭収入が増えたのを理由にまた覚醒剤に手を出していた。薬のためには今の良い条件での収入が必要なのだ。

「他に、何かあるか?」

「すいません。実は、一つ気になることが」

「なんだ」

「西馬込の風間についてなのですが。」

「なんだ?錦糸町にいるのだろう?」

「探偵に相談をしている様子があります。」

「探偵?」

「はい。」

「なんで探偵なんだ、突然。」

「指示者」の声が、なぜかそこで焦ったように赤髪女は感じた。

「わからないのです。それこそ彼に金があるとは思いませんが、風間は不動産業者を回る合間に、探偵事務所に寄りました。」

「うむ。」

「なんという事務所だ。」

「はい。軽井澤探偵通信社、という、西麻布交差点から青山墓地の方に入ったところにあります。」




🟢🟢 二十八 アメ横   (銭谷警部補)



 わたしは石原のメッセージにアメ横の御徒町駅側を指定した。上野駅より、こちら側の方がアメ横の中に入りやすい。待ち合わせの場所という言葉に、不慣れなせいで、指示には少し困った。自分にとっての誰かと落ち合うのは、通常は殺人現場になるからかもしれない。

 石原は日中と変わらぬ濃紺のスーツ姿だった。髪をかき上げながら歩いてきた。

「お時間、ありがとうございます。」

「……。」

私は特に説明もなく、ホッピーを飲ませる地下の串焼き屋に入った。その店は立ち飲みで、とても女性を招待するような店ではなかったが、そもそもわたしは適切な店を知らない。

 ゴツ、という音をさせてジョッキのセットが運ばれた。煮込みと、マヨキユウが続き、狭いカウンターが皿で溢れた。沈黙に苦しむ必要もない、いかにも落ち着きのない店の空気が良かった。

「そもそも、なぜ銭谷警部補は太刀川の事件を追うのでしょうか。」

石原は少しずつ酒が入った頃に、直球の質問を始めた。

「別に、過去を追ってるのは、太刀川の事件だけじゃないさ」

「え。」

「色々な過去のものが常に脳裏にある。」

半分嘘で半分本当だった。非番の日まで頭を使うほど、刑事の仕事ばかり考えている。

「どういうことですか。」

「うまくいえないが。刑事も二十年もやってるといろいろと過去の負債が育つんだ。」

「ふさい?二十年の負債ということですか。」

わたしは金石のことには触れずに、概論から話しをしようと思った。勤務時間外に酒を飲んでいるのだから結論を急ぐ必要はないだろう。

 六本木ヒルズの事件のことや、その周辺で自分が関連すると位置付けて内定捜査を続けていたもう二つの事件のことなどを外側から話した。また、彼らの背後で株の取引、つまりマネーロンダリングに近い形での資金の移動もあった可能性についても話した。ただ、その捜査の中にもう一人、捜査二課の刑事である金石がいたことは、言わなかった。最も重要な前提をいうことをわたしは躊躇した。

「失礼いたします。」

石原は、ようやくこの店で初めてのタバコに火をつけた。

 吸い方が美しかった。第一印象では強めに感じさせず、むしろ後から追いかけてくる種類の美しさが稀にある。石原の風情にはそういう種類の好ましさがあった。自分が酒に酔ったのか不安になりつつ、思わずタバコをつかんで、

「警視庁の未解決案件というのを、知ってるか?」

「聞いたことはあります。」

「どういうふうに?」

「未解決事件は、384件。班もある。」

石原は、正確にその数字を答えた。

 わたしは、あれ、と思った。このように数字を明確にいうのは、興味を持って調べたことがある証左でもある。

「それとは違いますか?」

「ああ。良い質問だ」

タバコの煙がふんわりと我々の間で雲か霞のように濃くなった。

「384件は、未解決とは言っても、警察が事件と認めていて、警察として悔しくも未解決だと、公表しているものだ。捜査は続いているし、時効に近づいているものもあるが、比較的堂々と仕事ができる。」

「なるほど。」

「まあ、ある意味、大手を振って捜査ができる。」

「はい。」

「わたしの未解決は違う。例えば太刀川はそのひとつだ。」

わたしはジョッキのホッピーを煽ってから呼吸を整えるようにして、

「奴の事件は、警察がもう解決したと宣言してしまっている。未解決ではなく、解決済みなんだ。もはや、事件でもない。警察組織として解決済みだ。」

「……。」

「つまり組織としてもう捜査が終わったので調べる必要はないとなっている事件だ。むしろ調べてはいけない。」

「なるほど。それはわかります。」

「そもそも、納得のいく犯人が出てきて過去を覆す自供したわけではない。いやもはやそういう人間が出てきたら、逆に困るくらいだ。三人も死んでるにもかかわらずだ。」

「三人は初耳です。」

「そうだろうな。世の中的には全く別の事件に思われている。」

そうだ。その三つをつなげて、世の中に出してしまおうと金石とわたしはやっていた。奴(金石)は確信していた。証拠、証言は集まりつつある、と繰り返していた。その内容を最後までこのわたしには告げないまま。

 わたしは、もう一度わかりやすく、六本木ヒルズでの事件と、沖縄での変死、もう一つの死亡事故を言葉を足しながら、なぞった。最初の二つは報道も良くされたから、石原も知っている。世の中でも、不審なことを言われた事件だった。

「警察組織として、ヒルズの事件は一貫して殺人としての捜査をしていた。殺される理由が、女性の被害者にはあったし、その仮説の方がよほど自然だった。」

「……。」

「それがある日、上層部から、これは事件ではなく事故だとかいうのが、降りてきて、手をひけとなった。突然だった。捜査本部の解散は。」

追加した二回目の煮込みや焼き物数本がゴツンとカウンターに置かれた。石原里美は美しい所作でそれらを並べ直した。こういう労働者向けの飲み屋は男性だけのものではない。むしろ女性の色彩が入ることで映画のような清冽を生じることがある。

「上層部の誰が決めてるのかはわからない。ただ太刀川のことを堂々とやれば上から待ったがかかる。」

「なるほど。」

「だが多くの人間は多少は疑問に思っていた。当初はわたしへの同情もあった。だから、ある程度の捜査をすることは暗黙の中で許されているつもりだった。」

 石原はタバコを消しながら、小さく頷いた。

 わたしは話をしながら少しずつ、石原の様子を探っていた。それは人間としては嫌な嗅覚を使う作業だった。直感で信用をしているからこういう場所で飲んでいるが、残念ながらパワハラの件もあり、最近の若者というのを無闇に信じきれなくなっていた。

 昔からある程度の若い刑事は、警視総監が解決済みにした事件を、裏返し、真実を暴くことに興味を持つ。誰もがたどり着けなかった真実にたどり着く事は、やはりいつの時代も警察官にとって究極の夢なのは変わらない。問題はその一箇所にこだわり続けられるかである。今の若者には選択肢が溢れている。最初はニコニコ頷きながら、参加する。しかし実際の捜査が難解で作業量が多く、簡単に進まないとわかると、少しずつ面倒になり、諦めてしまう。他にたくさん選択肢が存在するのだ。ある意味、小板橋もそういうことだ。ましてや太刀川の件は上層部が「閉じた」仕事なのだ。若い石原巡査もどこかでその波に攫われる時が来る。

 わたしはホッピーを煽った。

 わたしが黙っている間、石原も黙っていた。

 力みが伝わるのかも知れない。

 六本木ヒルズの女子大生の死亡は、事故ではなく、殺人だった。それを警察組織が何らかの力学で捜査を終わらせた。少なくとも当時の現場の認識はそれだったはずだ。圧倒的にそういう真実だった。

 殺人ではなく、事故になった。

 関連は知らないが、捜査本部解散を命じた早乙女が課長に出世をした。

 そして、金石は警察官を辞めた。

 ゆっくりと時間が経っていくうちに、まるで世の中が忘れるのと同じように、事件は過去になっていった。金石のことを思い出す人間は警視庁にどれだけいるだろうか。現場が殺人事件と疑わなかったものが、薬物の結果の死亡事故に処理され、やがては報道さえされなくなった。太刀川は会社を辞めて世の中から消えたようになった。早乙女は捜査一課長という肩書きに馴染んでいった。

「まあ、そういうことだ。」

話がまとまらなくなっていったのと、酒のせいで自分の頭の中の整理をどこまで話しているのかも不安になっていた。少し後悔しながら、わたしはキューリを齧ってごまかすようにそう言ったところ、

「おもしろいじゃないですか。」

石原はそう言った。

「そうかな。」

「はい。面白いと思います。太刀川のあの事件が実は真実が違っている。殺人事件が背後にある。つまり殺人犯がいるかもしれないが上層部の判断で、何か隠蔽があったかもしれない。」

「まあそうだ。」

「面白いと思いました。」

最初は誰しもそういう。わたしは、特に驚きもなく石原を見つめ返した。

「まあ、そうか。」

わたしがそう言ってタバコを繰り返すと、石原は少し考え事をしたようにしながら、美しい頬に、ホッピーを持っていった。少し多めの量を喉越しでやってから

「面白い話だという意見に加えて、一つ質問してもよろしいですか?」

と言って、こちらに少し向いた。

「もちろん質問はなんでも構わない。」

「銭谷警部補は、こういう話を、少し諦め気味に話してますか?」

「諦め気味?どういう意味だ」

「いいえ。ただなんとなく、そんな気がして」

「どういう、意味だ。」

「そんな気がしたのです。」

石原は、小動物のように輝く黒い瞳で、わたしを見つめていた。タバコの煙が、彼女の手前で揺れていた。

 わたしは、少し背筋を伸ばした。そんなことはない、という反論の言葉が喉から出ていかなかった。彼女のいう通りだと思いながら下を剥きそうになった時、

「失礼しました。諦めていらっしゃらないはずと思っているから、今日ここにきたのもあります。お許しいただけるのなら、もう少し詳しく太刀川の件も、他の作業についてもお聞きしたいです。」

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