殺人の五日前 (九月十日) 



二十九 地下鉄  (太刀川龍一)


 朝陽が六本木の夜を乾かしていた。

 太刀川は、ヒルズ・メトロハットの横を抜けて、六本木通りからそのまま日比谷線へと降りた。六本木には地下鉄が二つ、日比谷線と大江戸線が乗り入れている。

 一度図面を見ると何でも記憶してしまうのである。太刀川の脳裏には。東京の地図に合わせて、高速道路の地図、水路の地図が重なり、歴史的な笄、角筈など江戸の切絵図から、明治大正昭和と移ろう街並から、路面電車と呼ばれた都電の路線図までもが詳細に重なっている。

 地下鉄路線図は特に頭に入りやすく、赤坂見附と永田町のように、別の駅だけども実質は地下で連結している駅だとか、地上からの階段が、JRとどう連結するかの類いまで、脳が面白がって記憶をしてしまう。その時代ごとの人流の円滑性や滞留を、予算の範囲で苦心した公共設計者らの、奥深い工夫を見るのも、太刀川には楽しみなのである。

 毎朝六時には六本木の自宅を出る。

 朝を歩く。

 テレビもスマホも見る事はなく始まる一日である。

 それは、人類がだいぶ前に忘れた喜びに満ちてもいる、と太刀川はおもう。小鳥のさえずりを聴きながら足を進める間に朝の陽射しが角度を変え、街の匂いが変わっていく。微妙な変化を感じられるようになったのは、インターネットを離れたーーあの五年前の頃からである。

 六本木の駅のホームに降り立つ。

 早朝の地下鉄は通勤客がすくないのが良いと、太刀川は思う。車内一両あたりせいぜい三、四人しかいない。日中はこうはならない。

 日比谷線を霞ヶ関方面に乗った太刀川は、あたりを眺めながら、様々な思索を続けた。

 ポケットに文庫本を一冊。あとは何も持たない。約束は全て頭の中だけにする。すべては心の中に描く。描ききれなければ、それで良い。忘れたら、忘れてしまうような内容なのだ。

 さて。

 太刀川は、今日の予定を思い返した。

 夜は銀座の会食まで未だ時間が余っている。

 それまでは、またゆっくりと東京を散策するだろう。

 太刀川は、他人事のように、そう思うと再び文庫本を開いて没頭した。



三十  四ノ橋   (軽井澤)


 多摩川の河川敷から真っ直ぐに帰宅したのち、わたくしは四ノ橋の自宅で一人唸っておりました。お酒の力で無理やり眠りについても、小一時間もせずに目が開きます。起きるたびにスマートホンで新宿や歌舞伎町などの言葉でニュース検索を続けましたが、河川敷での断末魔のような電話に紐つく報道は未だございません。

 普段しない事ですが、念のためテレビをつけ朝四時台から始まる各局のニュースも眺めましたが、どこにもわたくしが想像したような報道はございません。その間もただただ昨日の河川敷で手に取った電話向こうの恐るべき想像がわたくしの脳裏に繰り返されます。

 音とは恐ろしいものです。

 例えば、人間を殺す音と、食肉を骨ごと切断する音と区別はつきますまい。

 殺人音はすなわち、日常の生活音の中にあるのでございます。

 文字の物語と言うのも人類に多大なる想像力をもたらしてきたものと思いますが、今一度、音だけの物語と言うものも試してみると、その凄まじさに驚きます。思えば庶民が文字を知らぬ時代から、祇園精舎の鐘の音と、平家物語が口頭伝承の物語として十二分にあの時代の合戦を描ききったように、音は実のところ文字のない音だけでも十分なのです。音だけで人間の脳内で縦横無尽に贅沢過ぎるくらいに暴れうるのです。

 自己の精神の全量が掻き立てられ、自由か不自由かも分からぬ冥路へと向かって全神経が疾走をする。音が勝手に妄想させる。昨日の什器のようなもので肉を打ち裂く音が、殺人の光景となってわたくしの脳裏を席巻します。叫びを抑えた嗚咽はわたくしの網膜に具体的な人間の血の場面を妄想させ、映画のような画面となって脳髄を赤赤と染めます。

 ややもすれば失われつつある、四ノ橋の自宅のちっぽけな現実に戻ろうとわたくしは、必死に自意識に訴えます。しかし自意識に戻ろうとすればするほど今度はまたもう一つの恐怖がわたくしを包みます。

 たとえば、軽井澤探偵通信社のホームページには、私の電話番号の記載をさせていただいております。住所も記載されております。Googleの検索でもすれば、辿り着きやすい場所になります。そのために晒しているのですからその通りなのですが、じつは、ネットの世界というのは追いかける時は便利で気がつかないものですが、追われだすと逃げられる場所などございません。ホームページ、などと気軽に設置しますがもし悪魔がそれを見つけ、いざ追いかけてくることになればこれほど対処の手段のないものはございません。住所も電話番号も晒されているのですから。

 わたくしは、布団を被りながら、自らの置かれた環境を幾度も分析を繰り返しました。

 昨日の河川敷の電話は、そこから聞こえた音を総合すると、室内からのものだと思われました。逆に言えば、室内つまり事務所のような場所で電話をしていたような人間が、突然、電話を奪われリンチのようなことにあったように思われるのです。そんなことは素人では難しいことです。素人だと想定することには無理がございます。何者かが暮らす部屋に、部屋の構造も分からずに人数で押し掛け、電話中にその人間を取り抑えると言う事ですから。結論として、素人ではなく組織の仕事なのだと思われます。

 そんな組織犯罪者が襲撃の後、電話がかかりっぱなしだったことを知ったかもしれないのです。どういう行動に出るのか。単純な恐怖です。被害妄想も甚だしい、と言うご指摘は甘んじて受けましょう。わたくしとしましては、この一連の想像が当たってしまわないことを祈るばかりなのでございます。


 始まってほしくなくとも、一日は始まります。

 本日、火曜日は毎週、墓地裏の探偵事務所オフィスでの定例ミーティングがあるのですが、わたくしは四ノ橋の自宅を出てからも当然このことが頭から離れませんでした。いつもなら少し優雅な気分になる広尾の垢抜けた界隈から西麻布の交差点に向け段々と色彩が変遷する街並みも、全く脳に呼び込まれずにいました。それどころか、いつもは気にならぬ笄公園の前にある燻んだ水色の犯人護送車の列が妙に気になりました。それらは執拗にわたくしの心理そのもののように冷たく暗鬱に沈んで見えました。




図X 地図図面


 四ノ橋→広尾→西麻布→青山墓地




 ほとんど役にたつ答えも見つけ出すこともできぬまま西麻布交差点を越え、青山墓地の崖の裏にある我が事務所まで辿りついておりました。

「おはようございます。」

事務所の扉を開けると御園生くんの大きくて元気な声がありました。

「おはようございます。」

と声を返すのがやっとの有様でございました。

「あれ、軽井澤さん、どうしましたか」

「あ、はい」

「なんだか軽井澤さん、いつもと違うかなと思いまして。寝不足ですか」

好青年でありながら、細かい点にも意外と気が利く御園生くんは、朝の挨拶から私の一連の状況を察したのかもしれません。

 事務所に入って定例ミーティングの準備をする間も幾度となく、御園生君とわたくしはお互いの違和感の中にありました。二人しかいない事務所ですから日常との差異はなかなかごまかせるものではございません。ごまかしながら過ごす時間というのも苦しいものでしょう。

 やむなく、わたくしは昨日からの一部始終を簡単に説明をしました。

 突然の電話。軽井澤と私の実名を名指してきた男。それから始まった、河川敷でなければ耐えうることのなかった阿鼻叫喚の「まだ見ぬ音の物語」を、わたくしは淡々となるべく概略から、語りました。

「なるほど。」

「まぁ少し、考えすぎなのかもしれませんが。」

「ううん。そうですかね。」

「まあ、どうでしょう。」

「そうですね。」

それからは、定例会議らしく、昨日の風間の話や、仕掛かっているいくつかの仕事の確認を行いました。手際良く、てきぱきと、いくつかの支払いの事や、今後の予算の事なども話しました。多くの意味でこの御園生と言う青年に私は助けられておりまして、この火曜日定例会はとても大事になっております。

 あらかた、仕事の確認が終わったところで、秘書のいない事務所らしく缶コーヒーを冷蔵庫から取って並べました。煙草に火をつけて一服といったところで、御園生くんは言葉を選ぶようにしながら、

「やっぱり、軽井澤さん。」

「はい」

「軽井澤さん、新宿歌舞伎町に行きませんか?」

実は私は心のどこかで歌舞伎町には行かなければいけないと思っていました。ただ、それと同時に筋の悪いであろう仕事に御園生君まで巻き込みたくないと言う気持ちもありました。

「もしかしたら、その男の、ただの持病か何かの発作とかかもしれないですしね。だとしたら、今からでも行ってあげたほうが、後々、嫌な思いもしないで済みますからね。」

御園生くんは、もっともなことを言いました。どこかで彼の優しさもあるのを、言葉選びに感じながらわたくしは頷きました。

「なるほど。」

「いずれにせよ、こんなことで、軽井澤さんが心配事を抱えるのは損ですよね。僕もいつもの元気な軽井澤さんと仕事したいですから。」

そう言って、御園生君は快活に笑いました。屈託のない好青年の笑顔で、ああなるほど、彼は女性に人気者なのも理解ができる、と普通に思いました。

 あえて付け加えれば、人の手助けをしたい、という熱気がそこには横溢してありました。わたくしは彼の父親である御園生先輩のことをふと思いました。人助け、と言うその言葉の崇高なる意味合いを、私は過去の自分の人生も含めて複雑な気持ちで思い返しておりました。日常は、そういう過去へ遡ることは考えないように仕事をしていますが、こうやって非日常的な切り口がやってくると、どうしても人間とは不思議と多くのことを思い出すようでもあります。わたくしの目の前の快活な笑顔は、父親の御園生先輩にはさほど似てはおりませんでしたが、笑顔の雰囲気そのものになにか親子の感覚が二つ重なってその場に凛としたように思われました。

「ありがとう。」

「いえいえ。それでは、さっと新宿まで参りましょう。」

事務所を出ると、離れの角に半分公道にタイヤをはみ出した小さな車があります。軽井澤探偵社の社用車のマツダのキャロルです。普段は思い出すことはしないのですが、御園生君が運転席に座った時に、父親である御園生先輩が同じようにそこにいた記憶を思い出しました。

 この古い黄緑色の中古の軽(キャロル)には、御園生先輩と一緒に取材で動いた時の記憶がいくつも残っています。気持ちが叙情的になるのを誤魔化しながら、わたくしは小さく深呼吸をしました。



三十一 布団   (銭谷)


 昨夜の上野は、明らかに飲み過ぎだった。

 わたしは自宅の布団の中で二日酔いをなだめていた。

 酒が美味くなるのは、後ろ向きではなく前を向いた時なのだと思う。壁に突き当たっていても前を向いていれば美味い。何かを追い求めていることを前向きといい、追い求めることを諦めた状態を後ろ向きと言うならば、わたしは、太刀川に向けて少し後ろ向きになっていたのかもしれない。

 布団の中で酔いを冷ましながら昨日の石原との泥酔の中の会話をなぞっていた。もっとも泥酔が確かだったのはわたしの方で、若い石原はどれだけ酔っていたのかはわからない。

 何杯目のホッピーだっただろうか。

「たとえば、太刀川が、インターネットを離れてたと主張していることについて?どうお考えですか?」

「主張している?」

「ええ。昨日の小板橋巡査長との取り調べの際にそういう会話があったと思います。」

「太刀川が主張していたように聞こえたか。」

「はい。インターネットなんかはもう関わってもいないし、アカウントもないとわざわざ繰り返していたように思えました。」

石原はタバコを左手で吸いながら、右手に座るわたしの方角を漠然と眺める。目は見てはいない。目を見るのは、話がひととおり回ったあとだ。結果、わたしは安らかに酒を煽りながら話すことになる。間合いや空気が良かった。いつもより饒舌になったのはそのせいだろう。

「どうだろうか。わたしは少なくとも、太刀川がインターネットを離れたという言葉は疑って聞いている。」

「なるほど。」

「ただ、そのことは過去にも随分調査をした。結論、全てアカウントを落としているのは確かだ。少なくとも電話番号さえ持っていない。なので奴から個人情報をサイバー空間で得れることはなかった。いや正確には五年前からなくなっている。」

「五年もの間ネットに触れない、となると、相当不便ですよね。」

「まあ、そうかもしれない。」

「太刀川くらいになると、幾らでも抜け道を作ろうと思えば作れるのかもしれませんが。」

その時、石原は小さく私を傷つけないように話した気がした。わたしはネットを捨てた男として太刀川のことを奇妙に思ってもいる。事実としてあの男は、携帯電話を持ち歩いてはいないし、自宅にインターネット回線もない。そのことを石原は偽証(フェイク)ではないかと感じているらしいが、わたしはといえば、少し、太刀川の気持ちもわかると思っていた。色々なものを追跡され、ネットの側から警察に丸裸にされた。いつまで監視されているのかもわからない。管理・監視される気分は嫌なものだろう。実際に、捜査や世間からの攻撃で太刀川は疲れ果てていた時期があった。

「そもそも、その事自体が、嘘にも思うのです。」

石原は主張するように言葉を置いた。タバコを持つ左手が立ち飲みの壁の方に少し高くなる。

「うそ?」

「ええ。SNSなどあらゆる場所から退出した事で、ほとんど世の中は彼のこと、太刀川のことを忘れていきました。太刀川はもはや過去の人です。」

「……。」

「金を稼いだ太刀川が、もう引退の気分ならそれでいいと思います。でも銭谷警部補、太刀川龍一のあの眼差しはわたしにはそういう状態にはどうしても思えません。むしろ、世の中に対する強い何かの気持ちを隠している気さえします。」

「なるほど。」

「どうおもいますか?」

「正しいかもな。」

「ほんとうですか?」

石原は少し艶のある顔をした。

「あるといえば、あるかもしれない。と言うのも奴は、なぜか毎日誰かしらと会い続けていた。」

金石と飲んでいたころ、会話の中で自分の脳の奥の方に消えていた記憶が再生される感覚があった。饒舌になっていくスイッチを押すやつだ。つまりは、酒がうまかった。

「ひととですか。」

「連絡の手段も想像できないが、夕方になると、銀座だ、赤坂だで何故か飲んでいた。」

「どうやって。」

「大企業の幹部や議員などだ。事件が終わってから定期的に尾行をつけていたから間違いない。」

「なるほど。」

「やつは行動に幾つかの特徴があったんだ。」

「特徴?」

「うむ。例えば、毎朝地下鉄に乗る。」

「地下鉄?」

「六本木ヒルズの別の部屋に引っ越したんだが、流石に事件後は流石に夜な夜なの動きは無くなった。ただ朝が早くなった。朝から地下鉄に乗る。」

「朝からですか。」

「ああ。でも地下鉄に乗る割には、大抵日中、どこかにアポがあるわけではないのだ。アポは、夕方までない。」

「アポもなく朝に?」

「ああ。きまって朝六時半ころだ」

「六時半ですか。夜遊びをしていた人間とは思えないですね。」

「そのことについては、本人に一度聞いたこともある。そうしたらどう答えたと思う?」

「想像がつきません。」

わたしはそこでようやくタバコを口に持ってこれた。一呼吸してから、

「東京の街を散策してるらしい。」

「街を?東京の?」

「そうだ。この町の歴史や文化を、仕事から離れてみるとちゃんと学び直したくなったのだと。そうしてそんな話をするのに、人と食事に行ったりしてるらしい。」


二日酔いの布団の中でわたしは必死に昨夜の記憶を正確に再現しようと必死だった。ホッピーの何杯目なのかは、もう数えられなくなっていた。アルコールで意識が後半から遠ざかり始めていく。そうして前後の脈絡の全く思い出せない時間帯で、とある石原の言葉が残っている。その時石原は、タバコを一旦消して直角にわたしの方を向き直した。言葉を明確にしますよという表情をしたせいで、泥酔の中で脳がそこだけ薄れる記憶の中で明確な現実を作っている。

「警部補。これから、よろしくお願い申し上げます。」

「よろしく?」

「はい。私で良ければ銭谷警部補の作業に、ぜひ参加させて頂きたいです。太刀川の尾行がたのしみです。無論、この件は隠密、銭谷警部補とわたくしだけのことにしてください。その方が作業の性質上よろしいかと考えます。」

石原がその言葉を言った前後の会話がわたしには思い出せないままだった。いくら脳の中を探しても、前後の会話が呼び戻されることはなかった。



三十二 分裂   (レイナ)


 人格の分裂はネット上では日常的なことだと、レイナは思っている。

 インターネットには最初からそういう魅惑がある。例えば別の人格になっても構わない。別の人格で誰かと言葉を交わすこともできる。そうやって人間関係を擬似的に構築して、誰かの生活を覗き見することさえできる。透明人間のようにして相手だけ調べていくネットの空間に、人間が中毒になることがあるのは、自然なことだとレイナは思う。そうしてそのさきに人格が二つ三つと割れていく場面がある。

 レイナは、初めて佐島恭平になった日を思い出していた。

 誰一人自分を知らない、そう確信して、街を歩くのはなかなかの気分だ。ほんとうの意味で、自由そのものなのかも知れない。二度と訪れはしない異国を旅をする自由はこんな感じだろう。自分の人格も、自己紹介も、すべてウソで良いのだ。過去にどんな失敗や恥ずかしいことをしたとしても、関係がない。全裸で歩いてもいい。なぜなら自分はその社会に本当はいないのだから。

 佐島恭平になって歩くとき、レイナは背が高いことを、少しだけ喜んだ。自分で言うのもなんだが男としての、スーツが似合ったし、中に入れた胸板や肩の襦袢も、いい形でおさまった。そこにいるのは自分ではなく、誰も知らない見たこともない人間なのだ。

 幸福感があった。

 自分がいないことの幸せは不思議だった。

 消えていくことの幸せ、は、自殺者の気分と近いのかも知れない。

 自分だけでなく、世界も同じような変化の中にある思う。生身の自分自身は一個しかないのに、複数のレプリカントが生まれては消え、人間が分離可能になっている。そうしてもしかすると、肝心の自分自身が消えてることもあったりする。むかしのSFで自分を殺して人造人間になる話があったが、もうすでに現実に近づいている。

 パソコンの中では新しい人格が公然と市民権を得た。twitterの中ではいくらでも自分を偽造し、増殖させることができた。Googleのメールは何個でもアカウントが作れる。

 自分が目撃されない。

 この幸せのことをレイナは「その人」に話したかった。

 レイナがどういうふうに悩んで、どういう風に解決されて今があるのかを、その人に話したかった。

 けれども、その人とはもう会えない。

 いや正確に言えば、その人に会えなくなって、レイナは必死に、この変装という作業を執拗に始めたのかも知れない。

 少なくとも今の自分があるのは「その人」のおかげだ。



「ピアスを開けたいの?」

「その人」はまん丸の目でレイナにきいた。最初のピアスを開けた時のことだ。

「うん。ピアスを開けてみたい」

「いいじゃない。自由にしましょう。」

そう言ってレイナに優しく微笑んだ。

 まだ、お互いを自己紹介もできていない時だった。

 その女性(ひと)はレイナを連れて、ピアスの開けられるお店まで、電車で連れてってくれるという。彼女は施設の大人たちと話をしてくれて、あり得ないことに外出を許してもらった。

 施設の外に出る大きな門の横で、その女性の手を強く握ったのをレイナは思い出せる。

 田舎の駅までバスに乗った。前の方におばあさんが一人だけ、他の客はいなかった。バスの座席は古くて赤いフェルトの角が剥げていた。山を降りていく感じがずっとあったけど、その時はバスがどういう高度で走ってるのかを考える余裕はなかった。山林を抜けて部落を通り、信号機のある街まで来て、ようやく、駅の前に辿り着いた。それまでずっと、レイナはその人の手を離さずにいた。

 ホームで待つと長い列車がきた。

「立川まで行けば、大丈夫ね。」

線路は次の駅が見えるくらい真っ直ぐで、山の方角に伸びていたのを覚えている。バスを降りてもずっと騒音は続いていて、ふと見上げると、空に黒い飛行機が飛んでいた。不思議だった。黒い飛行機が米軍のものだと知ったのはずっと後のことだ。

 電車はすごい速度で走った。

 揺れが怖かった。列車同士がすれ違うたびにすごく揺れた。

 その女性(ひと)は微笑みながらわたしを見て、揺れるたびに繋いだ手を強く握り直してくれた。

「大丈夫。事故なんて一度もないくらい、安全なのよ。」

「……。」

「あなたを、なんて呼べばいい?」

「なんて?」

「あなたのこと。なんて呼んだらいいの?」

「あたしは、レイナ」

「うん、じゃあ、レイナさん、でいいね。」

「うん。」

「あなたは、なんて呼んでくれるの?」

「……。」

その時、レイナが握っていた手が少し汗ばんだ気がした。自分の汗か。その人の汗か。わからなかった。

「なんて呼べばいいですか?」

レイナはそう聞いた。

「セツコがいいな。下の名前」

「……。」

「さん付けなくてもいいよ。」

そう言ってその人は笑った。笑うときにエクボが出来て、まん丸な目がくしゃってなる。

 その日が施設で初めてレイナが自分以外の誰かを名前で呼んだ日になった。



 レイナはあの日の列車のことを、昨日の軽井澤さん達とのテレビ会議の時に思い出した。理由はわからない。ピアスを開けたいと言ったレイナを慮って、節子さんが施設の人に無理を言って電車に乗せて遠出をしてくれたのは、相当な事だったはずだ。

 きっと決意のようなものがあったのだと思う。節子さんのそういう覚悟は、他の大人たちと全く違った。他の大人はそんなことをする訳がなかった。何もしてくれないと分かっていて、レイナはピアスを開けたいという突拍子もないことを言ってみたのだから。大人の人たちは、みんな曖昧な笑顔を道具にして、事勿れにレイナを見ていた。なるべく距離を置いていたのを知っている。

 子供だから未だわからないと思うのは間違いだ。むしろ子供は大人のそういう表情だけを見ているのだ。

 そういう子供の頃のレイナの予想をその人、節子さんは堂々と覆した。ピアスを開けるためにわざわざ施設を出て街に行こうと言ったのだ。

 あの時の節子さんと、全く関係のない軽井澤さんとが自分の中で繋がっているように思うのはなぜなのだろう。このことはずっと自分の中でも不思議だった。でもその謎が、軽井澤さんと仕事をする理由だと思っている。ハッカーなんてお金があれば誰でも雇えると思ってる人が多いけれども、軽井澤さんにはお金で雇われている気がしない。何故だか知らないが軽井澤さんには、そういう不思議さがある。なんだろう。何を求めているのかも、わからないような、もしかするともう求めている物自体がなくなっているような、そういう牧歌的ななにかが軽井澤さんにはあるのだ。



三十三 本郷文庫 (太刀川龍一)


 太刀川は、六本木から乗り込んだ日比谷線を霞ヶ関で丸の内線に乗り換えた。そのまま銀座や大手町の方面に向かった。

 今日の文庫本は「江戸と東京」××某、という聞いたことのない作家の新書で、戦後すぐに書かれたものらしい。

「…丸の内線は、地下鉄でありながらいくつかの場所で大胆に地上を走る。その理由は徳川時代まで遡ることを知る人は少ない。東京の地下鉄の歴史は古く、1916年の日露戦争の直後に計画され、昭和二年に東洋で最初に産声を上げた。ということはそれまで人類はさほど都市の地下に電車を走らせてはいないのである。

 パリやニューヨークに物真似して大都市の交通網を作り始めて少し勝手が違ったのは、旧東京市の地形である。江戸の街は、西洋の大都市のように平らな場所がさほど続かず、凹凸、起伏が激しい。あちこちに谷川や濠や暗渠がある。渋谷、青山、赤坂、溜池、新橋、ここまで谷や川や坂に纏わる地名が多い大都市は世界には珍しい。深い濠が江戸城の周りを切り刻んでいるこの東洋随一の大都市で、ニューヨークのように単純に縦横地下に通すことはできなかった。かと言って、濠の下にもう一つ潜った深度では、地上からの階段が深くなりすぎる。当然エスカレーターなどがまだない時代である。ひらべったいニューヨーク五番街の真下をただ通すのとは設計が全く違った。

 お茶の水濠や、四ツ谷濠などはそのため、地下鉄をあえて地上に出した。家康の濠が深過ぎるため、その底まで掘り下げるのではなく、あえて潜らず、上に出した、というわけで、水面の上を走らせたのである……。」


 太刀川は文庫の文字を追いながら、地下鉄に揺られた。街歩きをする場合、こういう本などを予め用意する。歩く場所に合わせて書籍を選ぶ。本は深く長い、人間が一定の時間を紙に費やした怨念ともいうべきものが匂うものがいい。WEBの文字とは違う時間が明らかに自分に流れる。

 太刀川は前の会社を辞めてから、本を読む時間だけが増えた。自分自身がここまで文字列というものを好んでいたことを如実に知った。

 趣味になっている街歩きをする際に書籍で下調べをしてから実際にその場所に行ってみると東京という街は、また数倍面白いということを知った。恐ろしいほどに歴史が論理的に組み込まれているのだ。例えば東京の堀が深いのも、大阪城の濠を攻めたことの因果があるだろう。放射同心円状に見えて微妙に渦巻貝のように広がる東京の幹線道路も城の縄張り防御が基礎にある、奥の深い設計である。そうやって眺めると長閑なお堀の軽鴨もまた深い意味合いで眺められるのである。歴史の街には人間の有り様が混み行った入れ墨のように刻み込まれている。

 地下鉄丸の内線は、お茶の水濠を過ぎた。「江戸と東京」にあったとおり、地下鉄なのに御茶ノ水では水の上を走っている。脳裏に韻を踏んだ言葉を味わいつつ、太刀川は次の、本郷三丁目駅で降りた。

 旧加賀藩、東大赤門の最寄りで知られる本郷の小さな駅には、その朝も乗降客は大学の関係者らしきがぽつりぽつりとある程度だった。

 駅の改札の外で太刀川は立ち止まった。ポケットから先程の文庫本を取り出して、壁の書架を見つめた。そこには、

「本郷文庫」

と書かれた、縦書きの題字が貼られていた。

 本郷三丁目駅の出口の壁に、掲示板がありその隣に、小さな棚がある。そこに新旧織り交ぜの古本の文庫本が所狭しと、いくつも並んでいて、

「本郷文庫」

と、右端に画鋲で打たれていた。

 それは、一部の地下鉄の駅に設置されている、古本の無料貸し出しだった。利用者は好きな時に好きな本をそこから取り出して記帳もせずに自由に持っていく。そのかわり通常の本屋と違い、カテゴリで並んでもなければ、お世辞にも美しく保管されてあるとは言い難く、古本には落書きやら誰かの読んだ跡のような線引きが多くあった。

 太刀川は学生時代から、本といえばもっぱら、古本であった。幾つかの駅にあった無料の貸し出しを使った。本郷文庫もそのひとつだった。時には地下鉄に乗りもしないのに、歩いて菊坂の下宿からこの本郷文庫にきて、好きな本を拾っては、読んだ本を戻すのを繰り返していた。

 古本を汚いという人もいるが、濫読で一日何冊も読むものを毎日新品で買うことは、貧乏学生には辛い。学生時代の横溢する好奇心に対する対価を、適切に節約ができるのがこの本郷文庫の貸出である。

 加えて太刀川にはもうひとつ、本郷文庫を面白がる、少し別の「意外な」理由もあった。それは「本に落書きが多い」という理由だった。

 古本も、このように雑に扱われた青空文庫になると、色々な人間が回し読みしているせいで、落書きも一様ではない。古い本には半世紀前の学生運動の頃の書き込みさえあった。メモ書きがカタカナのものは大正生まれの人間かもしれない。関係ない恋の悩みを長々と欄外に綴るものもある。老若男女を問わず、ほぼ自由に、いやむしろ自分勝手に筆跡が横行する。謂わば古本自体が、匿名のネットワークであり、スレッド(掲示版)でもあった。

 新品の本には無い、その小説の中に書き込まれた赤い線や言葉が、誰か偉い人や、作家のような読書子が書きとめたことかも知れない、という好奇の気分もある。逆に無名の、名もない人の感想文が妙に心を打つということもある。武者小路実篤の小説の中の、愛、と言う言葉に丸だけ付けているような、こともある。なぜだか知らないが涙の場面に、赤いインクが涙に濡れたようににじんでいる場合もある。とある表現が上手いという文章に、自分勝手に太ぶととメモや赤線を入れている読者もあったし、扉や背表紙の欄外に、長々と感想を勝手に書いてあるものもあった。読者なのか批評家なのか。革命政権を云々と祈るような宣言もあれば、三島由紀夫の金閣寺の感想を作者本人宛に書いているものもあった。

 本という「個」の時間世界の中に、なぜか、他人や第三者が介入する。それは学生街の古本置き場に許された特殊な世界だったのかも知らない。印刷所から郵送された新品の本では味わうことはない、人間臭がそこにあった。

 太刀川は、しばらく、本郷文庫の前で佇み本を手に取ったりしていた。持ってきた二冊目の、梶井基次郎の「檸檬」という小説をそこにおくと、他のものを一冊だけ手に取った。この文庫のルールは一冊をおけば一冊持って帰ると決まってるわけではないが、なんとなく昔からそういう習癖が太刀川にはあった。

 ただし、人の見方によっては、檸檬をおく前後だけ、太刀川が辺りをじっと眺めた、ようにも思えたのだが。


三十四 尾行  (石原里見巡査)


 石原里美巡査は早朝から六本木に来ていた。昨夜、上野で銭谷警部補が

「太刀川は毎朝六時半に地下鉄に乗る」

と言ったのが気になった。自宅のある目黒区から六本木は地下鉄日比谷線の途中駅でもある。霞ヶ関に向かう前に自分の目で、太刀川の朝の日課を確かめてみたくなったのである。

 六本木駅の改札の近くに佇むと、いとも簡単に太刀川が歩いていくのを目撃した。地下鉄日比谷線に乗るのに辛うじて追いつくことができ、隣の車両に滑り込んだ。太刀川は日比谷線から銀座で丸の内線に乗りかえた。変装も何もしていない石原は、遠目に太刀川を追うのが精一杯だった。どの駅で降りるかだけ把握しようという程度で尾行を続けた。そうやって、丸の内線に乗った後も駅ごとに、乗り降りの様子だけ、別の車両の扉から半身を出し遠目に視界に入れた。大手町、淡路町、お茶の水、と乗降客に太刀川は見当たらなかった。百八十センチほどの長身なのもあり、見逃しはしないだろうと思った。次の本郷三丁目駅で降りたので、石原は恐る恐る後をつけた。乗降客は他の駅に比べ少なかった。

 改札を出てすぐのところで、太刀川が立ったままでいるのがすぐ見えた。

 石原は駅にある公衆トイレの女性入り口に無理やり身体を隠した。太刀川は何やら、改札を出た場所で壁の方を見ている。そうしてしばらくしてから、もう一度顔を出すと、もういなかった。急いで駅を出ると、商店街を歩く太刀川の背中が見えた。まだ朝も早い商店街は、喫茶店や古本屋などが空いてる程度だった。石原は無理せず遠巻きに尾行を試みた。太刀川は東大医学部の方に向かった。東大病院の南側に位置する春日通をゆっくりと上野の方に歩いて行ったが、あまり深追いは危険だと思っているうちに見失った。

 駅に戻って、太刀川が見つめていた場所を確認すると、そこは古本置場があった。

(古本を見ていたのだろうか)

時計を見やると、既に霞ヶ関に戻るべき時間だった。石原は尾行をそこまでにし、地下鉄丸の内線で霞ヶ関まで戻り、捜査一課のある六階に定刻前に登庁した。


三十四 雑居扉  (御園生)



 マツダのキャロル。

 それは昭和から走り続ける古びて色の抜けた薄緑の軽井澤探偵通信社社用車だった。鬱蒼と繁る青山墓地の南端の樹林の下で、大自然に負けまいと、人工塗装のトタンが力なく太陽の光を返している。 

 西麻布まで五分も歩かない割りに殆ど人気(ひとけ)のない一角に佇む、古く小さな三階建の、手前が少しだけ墓地との向き合いで無計画に空いている区画に小さく二割ほどタイヤが出る、若干の違法駐車をしているのがその年代物の車だった。

 六本木ヒルズやミッドタウンの新しい時代の建築群から取り残され、青山墓地の坂の下の崖沿いの一角で、周囲の古い昭和色の建物に染み付いたようにくすんだ薄緑色のマツダのキャロルは、なんでもタクシー嫌いの軽井澤さんが前職の頃から乗っていた車なのだとか。

 僕と軽井澤さんはキャロルの扉を開けると無言で乗り込んだ。掠れ果てた、いつものエンジン音をさせて、ゆっくりと動き始めるのを確認しながら、今一度、朝から元気がない軽井澤さんと話して、例の河川敷でかかってきたという、不気味な電話の話を聞いた。

 いろいろ可能性はあるのかもしれないけれども、僕は、不安を解消する一番は実際にそこに行ってみるべきではないかと意見した。軽井澤さんは少し渋々だったけれども、一緒に新宿歌舞伎町に向かうことにした。外苑西通りに出て、北上をする。クーラーがいまひとつなせいで、車窓を開けるのが好きになっている我々は、左右全開にしていた。早朝の風は既に秋の冷気を含んでいた。

 職安通り南のバッティングセンター近くの駐車場にマツダのキャロルを停め、車を降りた我々は、周辺のマンションを見上げた。電話の中で軽井澤さんは、モリヤと名乗る男の声と、ハチマルハチ、と言う部屋の番号についてだけは記憶出来ていたが、マンションの住所番地は「歌舞伎町メゾン云々」とだけしか聞いていなかった。さすがに、モリヤと名乗る男の電話番号にかける気にもならない。

 だが、便利なもので、歌舞伎町メゾン、を地図検索すると、すぐにその場所はわかった。その精度はいつも通り素晴らしかった。この便利さのせいで、待ち合わせの場所という考えも消え、道を覚えることもしない、と、軽井澤さんは以前言っていた。Googleを使わずに街に出ていた時代っていうのはどういう感覚だっただろう。僕には道を交番で尋ねたりするなんて想像ができない。

「恐ろしい便利さと正確さですね。」

見つかった建物の前で、我々はCaliforniaの巨大企業の賛辞を言っていた。もっとも、そのGoogleの導線が連れてきた客が風間かも知れないのであり、おそらく今回の男もそうなのだが。

 再開発の波に乗り遅れた古い雑居ビルが集まる一角に、そのマンションはあった。三十年以上前はもしかすると人気だった風情を少しだけ残す大きめの雑居ビルだった。808号室の郵便受けには、紙に手書きで平成企画株式会社と書いてあった。電話をかけてきた「モリヤ」という人間の自宅ではなく事務所なのだと思った。われわれは直接、部屋番号808に向かった。雑居ビルは入り口に警備も鍵も何もなかった

「誰でも、八階の玄関までは辿り着ける、ということですね。」

軽井澤さんは、古臭く加速の遅いエレベーターの中で、暗くそう言った。僕は学生時代の卒業旅行で行った南米ブエノスアイレスの、ものすごく古い、人力かと思われるようなエレベーターのことを思い出した。永遠に次の階に辿り着くことのできない寂寥とした間合いを持つ、独房的な箱。時空を変換するかのような、不思議なあの乗降機に歌舞伎町の雑居ビルのその箱は似ていた。

 速度の遅さを忘れた頃に、チャイムのような古い音がしてわれわれは八階にたどり着いた

「軽井澤さんの想像が確かなら、電話の主のモリヤという人間が、電話の最中に何者かに取り押さえられ、リンチをされた、かもしれない。」

「最悪の場合、という意味ですが、そうですね。」

「その上で、偶然、電話に出てしまった、我々軽井澤事務所に、一部始終を聞かれたと、その場の、加害者たちは思っている、と。」

「どうかその予想は当たらないで欲しいと思ってはおりますが。」

「いえ。ここに来たのは、気持ちをすっきりさせるのが目的ですよ、軽井澤さん。」

「そうですね。そう言っていただけるのはありがたいことですが。」

軽井澤さんは引き続き元気がなかった。僕には、軽井澤さんという愛すべき人間の一端が、他ならぬ軽井澤さん自身を苦しめているように思った。

 エレベーターを出て通路を右手に歩いて808号室の玄関前までくると、先ほどのバッティングセンターが死角気味に少しだけ見下ろせた。ビル同士が手を伸ばせば届くほどに隣接していて、そのせいで視界が狭い。壁と壁とが合わさる視界の端の方にだけ青空が小さく縦に切り取られていた。目の前には隣のビルの黒く煤けた外壁が差し迫り、トコブシのように壁に貼りついた空調がぶううんと、街の溜息のような音を奏でていた。

 軽井澤さんが、鞄の中から、防犯用の感電機(スタンガン)を取り出し構えるのを確認しながら、僕はゆっくりと呼び鈴を押した。

「……。」

誰も出ない。

 長い沈黙の間、軽井澤さんと僕は見つめ合った。気配がないとも言えない。日常の匂いというか、誰かがここに通ったり暮らしたりしていると言う空気は僕でも感じられた。人がいるとも思えた。

 もういちどまた、ゆっくりと呼び鈴を押してみる。

「……。」

しばらく、溜息のような空調音だけの沈黙は続いた。まんじりとした時間が流れた。僕は、軽井澤さんと静かに目を合わせ覚悟を決めた。深呼吸をして、クリーム色のドアの、ドアノブをつかんだ。そうして、ゆっくりと回した。

 808号室の、ドアは空いていた。



三十五 隅田川  (銭谷警部補)  



 

 布団からいつまでも出れなかったのは非番が言い訳だった。

 幾度頭の中を探しても、昨夜の石原が最後に話した言葉の前後が思い出せなかった。

 酒が切れてきたところで意を決して家を出ると、わたしは金町から京成柴又線を乗り継ぎ浅草に向かった。観光客のように切符を選びもせず浅草桟橋から船に乗り隅田川を下った。 

 非番の日の過ごし方は二十年近く変わらない。

 隅田川は変わらず悠然と流れていた。

 午前の陽光に、川面が釣魚の鱗のように輝いている。

 川から眺める東京の街はまるで別物だ。日常にない視界の広がりが、脳に新鮮な安らぎをくれる。日頃眺めている建物を、空からではなく、陸からでもなく、水の側から見つめ返す。わたしにはそれは自分の背中や普段見落とされる死角を眺める視座に似ていた。海風と一緒に自分の脳裏にまた別の物の見方が降りてくる時が、刑事の空想に最もありがたい種類の閃きをくれることがある。川風、いや東京湾から届く潮風を頬に受けながら遊覧船の上でひとりになった時に、わたしは幾度となく妙案を思いつきそれが結果として捜査を進展させたりもした。思えば休日も仕事のことしか頭にない。そういう姿勢は昨今の若い人には合わないのは確かだろう。

 独り身で暮らす金町寮から京成線を乗り継ぎ、下町経由で隅田川に出る。東京には珍しく長閑な三両編成で柴又青砥を回って押上、浅草へと出る路線は、平日に十車両編成の千代田線で霞ヶ関へ直接向かう電車とは風情が違っていて、浅草に着く頃には日常にない気持ちになるのが常だった。

 遊覧船に揺られながら、わたしは再び、昨夜の上野での若い石原との会話を思い浮かべていた。

 ほとんどのことを、わたしは気兼ねなく話した。自分でも驚くくらいに、何も包み隠さず、太刀川での捜査の失敗や、今に至る難しさ、自分の勝手な想像、思い込みも話をした。悩みのようなものまで酒の勢いで語ったかもしれない。石原には不思議な間合いがあった。わたしは言葉をつなげるだけでその間の論理の接着は石原がおこなってくれるようだった。酒の飲み方を知っていると言うことだろうか。わたしはふた周りも年齢差がある石原に操縦されるようになんでも喋っていた。その結果、

「これからよろしくお願いします」

という宣言を受けたことになる。繰り返しだが、その前後が思い出せないまま、わたしは石原と何らかのチームを組んだことになる。

 ただ、そうやって思い出せない記憶が昨夜の酒にあるにもかかわらず、わたしには一つの確信は揺るがずにいる。

 どんなに酔って自分を見失ってもわたしの口先からは「とある」人間の名前は出なかった。そのことにだけは確信があり、自信がある。そもそもわたしは最初から会話の中でその人間を避けていた。本来太刀川とのことを話すならば最も最初に話さねばならぬことだが口に出さないと決めていた。

 金石元警部補のことである。

 昨夜石原の前で、わたしは金石のことには、触れなかった。

 そのせいで、最後まで会話がどこかで間合いを悪くしていた。太刀川の捜査を一緒にしようという会話なのに、もともとの捜査本部の相棒の名前を伏せているのだ。石原の会話があそこまで上手でなかったら昨夜は破綻していたはずだった。

「質問していいですか?」

そのようなことを明確にいう石原巡査の真っ直ぐな眼差しは、自分を成長させたいと言う気持ちがはっきりとあった。むしろ自分の成長のために先輩が情報をくれないのはおかしいと言う程の熱さえこもっていた。

 その姿はわたしには懐かしい。石原の鋭い質問を受け止めながら、かつては同じように先輩刑事に楯突いていた自分の若い頃を思い出していた。

 そんな会話の中で、わたしは金石には触れなかったのだ。それは明らかに不誠実なことだった。この年齢になると、自分が昨夜不誠実な酒を飲んだかもしれないことが、まあまあ気持ちを憂鬱にする。わたしは二日酔いの脳に、休息のように缶ビールを煽らせ、空虚な心で川面を眺めていた。自分の迷惑メールを手持ち無沙汰で見てしまったのは、そんな時だった。



ToZ


本末転倒。

飲みすぎは、やめておけ。

若者に迷惑をかけないようにしろ。




 私と金石は、五年前、特別捜査本部の中で一つのチームを組んでいた。

 金石はとにかく体が大きかった。わたしも一応百七十八センチメートルはあるが、それを見下ろすような巨漢だった。二メートル弱だろうか。聞いても微笑んで誤魔化すばかりで、最後まで身長を教えることはなかった。太っているわけでもないが、体重も普通に百キロは超えていただろう。肥満の脂肪ではなく筋肉をつけていた。

 引き締めていたのは体だけではない、むしろ精神的なものがすばらしかった。彼の捜査に対する姿勢に触れると、わたしはしばしば迷いが消え去った。どんな優秀な人間も毎日ずっと一緒にいると嫌になるものだが、奴にはそれがなかった。ずっと一緒に仕事をしていたい。そういう気持ちにさせられる。捜査を一緒にする喜びを感じさせてくれる。そういう稀有な存在だった。

 前向きな気持ちが継続したのは、奴(金石)が見せる様々な人間的な魅力のせいでもあっただろう。体格の割に繊細で人に見えないところで人一倍悩み考え続ける。その悩みは、常に真実をどう把握するかと言う、まっすぐな前提を持ちながら、それでいて組織を超越した視座さえ感じさせる目標の設計がある。

 彼と一緒に捜査をしていると、常々警察官と言うものはどうあるべきかと言うことを考えさせられる。そしていつの間にかわたしは金石の理想に叶うように捜査を行おうとしている。彼の理想は大きく純粋だった。純粋に真実を追求する。当然、警察の組織の都合などは、後回しで、犯罪における真実の追求だけに真っ直ぐ集中していくことになる。


 女子大生が死亡し、合同捜査本部が立ち上がると我々はさらなる連携を深めた。

 殺人の捜査一課と、知能犯、経済専門の捜査二課とが良い形で連携を始め、金石とわたしとはその象徴とも言える組み合わせになった。

 金石は迅速だった。さっそく内偵していた沖縄の死亡事件を、六本木に紐付けた。パラダイム社関連会社の社長が、なぜか沖縄のホテルで自殺した。金石はこの人間をかなり以前から内偵していて、死の前日、沖縄に不自然に向かったのも知っていた。だから金石自身、不審死を聞いてすぐに沖縄に向かってもいた。しかし非公式の警視庁捜査員の沖縄入りは曖昧な対処を受けた。沖縄県警はすでに、自殺と確定させていたのである。自殺するには不自然なほどの全身の切り傷のあった遺体を検視することさえさせてもらえなかった。この頃から、不思議な何かの壁が発生していると、金石は思っていた。

「全部は、まだ銭谷にも言えない。勘弁してくれ。」

奴は最後の頃それが口癖だった。金石は情報を掴みはじめていた。毎晩我々は顔を合わせたがわたしは金石が事件の核心に近づいたのは明らかだった。情報への嫉妬と仲間としての喜びも混ざったが、それ以上に、わたしは何かの危険のようなものを感じ始めていた。もうすぐ我々は恐ろしい闇を暴くのだという予感が少しずつ恐怖を帯び始めた。もし全てを暴露するならばそれは、警察の側にも何らかの被害が及ぶのではないか。

「声に出して言えば、情報それ自身が、銭谷を殺すことになるかもしれないからな。」

「どういう意味だ。」

「情報を知っていることで、危険になる、という意味はわかるだろう。」

金石は最低限のことをだけしか共有をしなかった。当然だ。情報を途中で小出しする事は最も危険だからだ。わたしは金石と相談し、断片的なその情報を更に端折って、早乙女係長や捜査本部に報告をしていた。警察の上層部がなんらかの権力とつながっていれば、報告は馬鹿を見ることになる。もちろん連絡にはメールなどは使わなかった。

 事件の核心へと近づきつつある。

 期待が始まりつつあった。

 それは金石の表情でわかった。

 確実に捜査の最終章の高鳴りに金石本人も昂奮していた。

 そういう臨界点に近づいていたころだった。

 突然警察の中で方針の転換が発生したのだ。

 その転換の意味を誰より理解していたのは金石だったと思う。 

 金石は消息を絶った。

 突然だった。

 警察どころか、わたしにも何の説明もなく消えてしまった。別れの挨拶さえなかった。ただ職を辞したのではない。どこにもいなくなったのだ。それは一般的には失踪と呼ばれるべきものだった。

 挨拶も連絡先の交換もなく、もっと言えば、住所や連絡先さえも消し去るように金石は消えた。わたしは奴の住んでいたという五反田の独身寮や、捜査二課の人間にも消息を辿った。しかし、連絡手段どころか、金石の消息はどこにもなかった。住んでいたというひとり暮らしの部屋にはチリひとつ落ちていなかった。無人の部屋を見て、わたしは明らかに随分前から金石はこうなることを想定して準備をしていたのだと思った。


 わたしは、船の後ろのスクリューで波立たせられた川面を見ながら、自分でも理解のできないような言葉たちをブツブツとつぶやいていた。二メートル近いやつの無骨な胸板に話しかけている。

「金石。今、どこにいる?」

頭に来ている。正直いつも苛立ってしまうことが多い。わけのわからぬ一方通行のメールはもうこりごりだが、時折そんなメールでさえ待ってしまっている自分の気持ちがある。

 遊覧船は海に近づいた。

 佃大橋を越えると、そこから先は川という風情ではなくなる。

 石原に、金石のことを話せないでいた自分にわたしは恐怖した。説明せずに、どうやって一緒に捜査をするのだ、という言葉がきつく自分の胸ぐらを掴むのがわかった。それでいながら、金石が何一つ話さずに消えたときの暗い気持ちを誰にも話したくない自分がいるのも確かだと思った。

 わたしは、改めて迷惑メールを見た。


ToZ


本末転倒。

飲みすぎは、やめておけ。

若者に迷惑をかけないようにしろ。



ため息のような汽笛が遠くの船舶で聞こえた。






三十六 カレーライス  (レイナ)


 カレーライスが美味しいとレイナは思った。施設の食堂で、節子さんがカレーライスを作ってくれる日があった。理由はわからないけど節子さんが施設に来て、自分で作ってくれるのだ。

 その施設の広い食堂の窓の近くのテーブルが、節子さんとのお話の場所で、カレーライスの日は、いつもここで二人で大盛りを一緒にいただいた。

「難しいの?」

レイナは主語もなく聞いていた。それはずっと、節子さん宛に繰り返している質問だったからだ。

「うん。」

節子さんは同じことを何度聞いても嫌な顔もしなかった。

「どうして?」

「そうね。まずね、誰かに自分を見せて、理解してもらうってことは難しいのよ。世の中のほとんどの人がそれに悩んでいるのだから。」

初めてのピアスを触りながら、少しずつ複雑な質問を節子さんとできるようになっていることをレイナは感じていた。

「どうして?世の中の人はどうして、気持ちを理解し合うのが難しいの?」

「だって誰にだって、気持ちがたくさんあるでしょう?」

「たくさん?例えば?」

「そうね、色に例えたら、青色の時も、赤色の時も、黄色いときも、人それぞれに気持ちの色があるでしょう。色も無限にあって、それでいて同じ人間もひとつもないの。誰かの気持ちを理解するなんて、本当にとてつもないことか、理解の勘違いをしてるかどちらかなのよ。勘違いをして理解したと思い込んだりする、そのほうが危ないのよ。」

「節子さんは?」

「おばさんは、もう歳とった大人だからね。慣れてくるし、理解できないことを諦めることも増えてくるというか、自分の色が落ち着いてくるのかもしれないね。若い頃はどんどん考えて悩むことができるでしょう?」

「うん。」

「そう。でもどんな色の自分でも受け入れてくれると判っていないと、自分を見せたいと思わないよね。」

「……。」

「みんながみんな、バラバラのものを理解しあうのはすごい時間がかかるし、次の日にはその人の気持ちが変わってるかもしれないでしょう?」

その通りだ、とレイナは思った。節子さんだけがこういう話ができる。他の大人ではありえない。

「だから、誰かに理解してもらうことよりも、自分が何をするのかを考える方がいいのよ。レイナさんには色んな才能があると節子おばさんは思ってます。だから、周りがどう見てるのかを考えるよりも、自分が何を出来るかを先にしてみようね。」

「自分が何ができるか?」

「そう。あなたにはきっと才能があるから。自分の得意で楽しいと思うことを見つけるといいわ。」

カレーライスの日は、こういうお話をするのが恒例だった。ご飯の上にあの香りが漂うと、レイナは不思議と心の扉が少し開く気がした。




三十七 歌舞伎町の私刑  (御園生探偵) 


僕が目配せをすると軽井澤さんが

「ごめんください。」

と、小さめの声で室内に呼びかけた。

「モリヤさん、いらっしゃいますか。」

無音だが、人間の存在していた空気が、はっきり漂った気がしたのと、タバコや何かが少し焦げた匂いがした。誰かがいるに違いないと直感的に感じた。

 軽井澤さんが先に、僕が続く形で、恐る恐る、室内に入り始めた。すぐ走って動けるようにあえて靴を脱がなかったが、室内は土足も許されるような有様だった。灰色の絨毯は黒く汚れていた。

 三、四歩を踏み進めたところで視界に入ったものに僕は戦慄した。

 部屋の一番奥に死体のように転がった半裸の人間が落ちていた。置き去りにされた、というより落ちていたという方が適切なくらい、人間という印象とは遠い。生き物というより、物かゴミのようだった。

 軽井澤さんと僕は、他の人間の気配がないのを十二分確認してから、ゆっくりと近づいた。死体だと思っていた物体から、空調音に混じり、かすかな吐息が動いた気がした。

(死んではいない。呼吸がある…)

 軽井澤さんと僕は目を合わせた。

 軽井澤さんも同じことを感じたらしい。

「大丈夫ですか?」

「……。」

「すいません、大丈夫ですか?」

「……。」

虫が呼吸をする場面を見たことがないが、おそらくこれが、虫の息という喩えになるのだろう。

 身体中に傷を負っている。僕は、第六感から、これが軽井澤さんの説明したモリヤだと感じた。軽井澤さんに電話をかけてきて、その最中に、襲われた可能性のある男だ。

 普通ではないのは確かだった。髪の毛の至る所が燃えていて、茶色く縮れている。さらに身体の至る所に皮膚を焦がされた臭いがしている。体のいくつかの場所は切り裂かれたらしく、その切り傷にわざわざ、ホチキスで縫い合わせをされたりもしている。切り傷だけでなく、打撲の痕が、紫色の斑点になって持病のように転々と足先から、太腿、半裸の上半身から、腕にも広がっている。まだ出来たばかりの傷らしく所々はまだ流血している。ただ、それらを差し置いて衝撃的な一箇所があった。

 男の左腕が、腕の途中で切断されているのである。

 軽井澤さんは、喉で言葉を飲み込み直すように、言葉を絞り出した。

「あなたは、もしかしてわたくしに電話をいただいたモリヤさんでしょうか?電話を頂いた、探偵事務所の軽井澤です。声に覚えがありませんか?」

「……。」

「電話の途中で、繋がらなくなりました。電話のなかで、わたくしはいくつかの音が漏れ聞こえました。そこで嫌な想像をしたのです。だから、あなたのおっしゃった住所に参ったのでございます。」

軽井澤さんの想像はある意味当たっていた。むしろ現実はその想像を超えていた。

 被害者は、還暦近い男だ、と思われた。

 髪の毛は剃られたり、燃やされたりしている。よく見ると、切られた髪の毛や、燃えた残骸(カス)が、周辺に散っていた。体中に火傷をしている、根性焼き、というレベルのものではない。やけどで拷問をさせられたかのようだ。鉄の棒か何かで殴られているため、顔と体は複数箇所、築山か大福餅のように、局所的に腫れている。ズボンを脱がされていて、何人かの集団にやられたのか、肛門からは出血をしていた。いや、彼を殴っていたであろう鉄の棒が肛門に刺さっていた。

 死体寸前の男はようやく軽井澤さんと私がそこにいるのに気がついた。。しかし瞼が葡萄の房のように腫れていて思い通りに動かないらしい。部屋は薄汚く何もない事務所だった。還暦近い男の、まるで死体のような体と、彼のものとおもわれるボストンバックがひとつ、ごみのように落ちているばかりだった。

「大丈夫ですか?救急車を」

「やめ」

「?」

「や」

「警察を呼びますか。」

「いえ、やめて」

軽井澤さんは全てを理解して飲み込むような表情で、モリヤと思われる男との会話を急いだ。

「あなた、お名前はモリヤさんですよね?お電話いただきました。」

「…あなたは?」

「軽井澤探偵通信社です。」

軽井澤さんと僕はそのとき同じものを見つめていた。襲撃犯が持ち帰らなかったそのスマホである。それは、モリヤの倒れてる少し横に落ちている。僕はそれを拾った。

「これはあなたの?」

僕が尋ねるとモリヤは、本当に小さな幅で少し傾げた。その体のあちこちにタバコを原因として焦げた匂いを出す黒い煤や火傷の跡が見え、僕は現実に自分のいる状態を把握できないままだった。正直、今玄関の扉が開いて、加害者の集団が再び入って来ることだってあり得る。異常な世界が目の前にあった。僕は背筋から恐怖が繰り返し襲ってくるのを感じた。怨恨だとしても、気狂いじみている。

「この電話から、わたくしにかけたのはあなたですね?」

軽井澤さんが問いかけると、モリヤは再び小さくうなずいた。

「あなたは守谷。守に谷で、モリヤ、ですね。」

微かに頷くのを続けた。

「電話が切れた後、この番号を彼らは、見ましたか?」

「あ、あなたは、」

「はい」

「か、軽井澤さん、ですよね?」

「はい」

「ここで話すの、は、まずいでしょう。」

「?」

「ぜひ、場所を」

守谷という男は、そう辛うじて言った。内容はさておき、その時なぜか僕は怪しさを感じた。嘘をついているというより、嘘が基本で、嘘をついて生きている人間特有の異臭を感じたのだ。関わるべき人間ではないという強い直感もやってきた。

「御園生くん、とりあえず、この人を連れて出ましょう。」

「しかし、この人は。」

「ええ。そうですよね。」

軽井澤さんはおそらく、僕と同じ理由で躊躇があった。守谷に対する、不信があるようだったが、しかし、冷静に考えれば、この状況をそのまま放置して帰るのも何も解決をさせない。今すぐそこから再び襲撃者が戻ってくるかもというのもあるし、犯罪者が軽井澤さんの携帯番号を確認したのなら、WEBサイトまでは辿り着けてしまう。襲撃犯たちの情報をなに一つもなくここを去ることのほうが確かに恐怖だ。少なくとも何らかの情報をこの男から得ておきたい。

「ここを出ましょう。出てから話します。」

「は、い。」

「守谷さん。何か持ち物は必要かですか?」

そういうと、守谷は壁の近くに落ちているボストンバックを明確に指差した。

「これだけで良いですか?」

それは、腕を持って行かないでいいのかという意味だった。切断された腕がどこにあるのか、わからないが、この部屋にあるのであれば、まだ接合は間に合うのかもしれない。

「腕は、多分もうないから。」

守谷は非常に小さい声で、絶望そのもののようにそういった。その声に僕は突然ほんの少しだけ同情したのを覚えている。人間が、自分の体の一部を切断して失う悲しみというのは共感しやすいのかもしれない。

 最終的に軽井澤さんが判断したのもあり、僕らは、この守谷と言う男の肩を担いでエレベーターへ連れて行き、職安通りまで隘路を歩き、タクシーを止めた。ここまでは、人助けが半分、組織的復讐が我々に及ぶことの恐怖が半分だったが、いずれにせよわれわれはさすがに彼をマツダのキャロルに乗せる気にはならず、職安通りでタクシーに乗り込んだ。少し移動してから、良き場所を探して話を聞こうと軽井澤さんは小声で言った。

 還暦近い守谷と言う男は抱きかかえるとすごい体細かった。片腕がない分、さらに体重を軽く感じさせられたかもしれない。彼の茶色の草臥れたジャケットで腕の切断面を隠しながらだった。

 タクシーは、職安通りを、皇居の方角に走り出した。



三十八 九十九里 (レイナ)


 九十九里の長い海岸線を眺めながら、節子さんとの会話をレイナは思い出していた。同じ会話を何十回とした。何十回も繰り返すうちに、安らぎのようなものが生じて、節子さんとの会話がよろこびになった。

「人間が理解し合うなんて、難しい。」

節子さんが幾度となく言ったその言葉の延長に変装という解決策が生まれていったのだと思う。

 変装。

 いろいろな人格を自分のなかで作る、心の中でできる遊び。思えばそんなことをずっと毎晩眠りにつく時に行っていた。今日は、誰になろう。明日は誰になろう。物語を作る。一人五役くらいの舞台だ。そこで自分が五人を演じ分ける。そうしてこんがらがるくらい考えているうちに眠りにつくことができる。

 その遊びには、眠ることの他に、もう一つ秘密の理由があった。

 自分のいろいろ嫌いな部分を、一時的に、消し去ったりできるのだ。

 欠点を消して別の人格の人間になっているーーそう確信できる時に、あきらかに明るい気持ちになる。不思議だとレイナは思った。自分という人格部分が消える時に、なぜ明るい気持ちになれるのだろう?

 自分は何を消そうとしてるのだろう。

 トレイラーを止めた九十九里の海岸の、目の前の砂浜を、海沿いの村の子供たちが、走っていった。五人ほどの子供のうちの一人が足が遅く、リーダーの少年から叱責を受けている。

 さっさとしろよ。

 レイナが思ったよりも強烈なパンチが飛び、また別の少年も足で蹴った。

 格闘技の映像番組のせいだろうか、そういう刺激を試しているのかもしれない。

 骨を打つような打撃音が遠くにも聞こえる。

 レイナは漠然と見ていた。

 一通りの動きを終えると少年たちはまた次の疾走を始めて砂浜の先に見えなくなった。大人の真似事をしながら、まだ何もわからない子供が走っていく。節子さんが言っていた。子供は大人の真似をしてるんだよ。子供が悪いのは大人が原因だよ。どんなに悪いことをしたって、それがまだわからないんだから。

 節子さんは、そう言っていた。

(何歳から罪になるのだろうか。)

レイナはトレーラーから南の海を見つめながら思った。自分のことではない。世の中で今起きている罪の定義のことだ。法律や懲役年数の話ではない。実際に法律がなかった場合の話しである。

 例えば、一歳の赤ん坊が間違って親を殺しても罪にはならない、と思う。それはある程度、そうなる気がする。でも二十歳の子供が親を殺したのは罪だろう。とするとゼロ歳から二十歳の間に、罪が始まる年齢が存在する。八歳は罪か?十五歳は?罪だろうか?でも親によってこの世に産み落とされ、生じた存在が、その生みの親を殺す場合の罪とは何なのか。

 心が落ち着かなくなった。

 十三個目のピアスを撫でる。

 海を眺めながら考える。

 人間は、何歳からそういう罪を背負うのか?

 法律のことじゃない。

 世の中に法律ができる前の大昔、子供が母親を殺したらどうしていたのだろう。

 例えば、その時残された父親は、殺人をした子供をどうしていたのだろう。

 想像ができない。

 子供が、親を殺す。

 殺人をしたその子供には罪が発生するのか。

 ある年齢から、人間を殺せば殺人という罪になる。

 殺人罪は懲役という罰がある。

 罪と罰は違う。

 罰ではなく、本当の生命としての罪を知りたい。

 罪は、「いつ」始まるんだろう。

 その定義を知りたい。

 レイナは思う。

 どんな罰を受けても、罪は消えないはずだ。

 本来、罪とはそう言うものだ。

 レイナは考え込んで、自分がいつも繰り返し思考の憂鬱の中に降りていくのを感じた。

 いつものように色々な考えが頭に散乱する。人を殺した瞬間に罪が始まるのだろうか。いやそうではなく、誰かを殺す前から、殺そうと思う時点で始まっているのではないか。結果として殺したのか殺さなかったのか。もっといえば、殺そうとしてなかったのに相手が死んでしまうことだってある。偶然の罪と、計画の罪は一緒にしていいのか。

 言葉が終わらずにいる。

 レイナは海を見つめた。

 節子さんを思い出すことと海を眺める時とは、気持ちが似ている。

 先ほどの子供たちが、九十九里浜のずっと先で見えなくなるあたりまで走っていった。

 



三十九 登庁 (石原巡査)  



 本郷三丁目の駅から丸の内線で石原は戻った。

 捜査一課のある六階の銭谷警部補の席には誰もいなかった。

 帰り際に明日は非番と言っていたのを思い出した。

 昨夜のお礼を朝、人の目のあるところでは出来ないと思っていたので、ちょうど良かった。 

 昨夜、上野の立ち飲みには、三時間もいただろうか。

 銭谷警部補は面白い人だ、と、石原里美は思った。

 パワハラのことは、本人が言うほど気にはしていないように思えた。殆どの大人の警察官が昇級や役職のことを話題にする中で、銭谷の表情には役職降格への恐れも特になく、また強がっている様子もなかった。そんなことより多くの事件について話すことが他にたくさんあるのだという感じで、酒を煽るたびに実務的な言葉が次々溢れた。

「石原は、ノートは使ってないのか?」

立ち飲みのカウンターに警察手帳を出したときに、銭谷はそんな小さな手帳で何ができるんだと言う顔をした。銭谷警部補は常に大学ノートに全ての取材ネタを書き込んでいるらしい。そして過去の事件を時系列でまとめるようにしている。突然、そんなことも文脈なく話すのである。

 仕事の話はとめどなく続いていった。内容は多くの学びがあり、どのアドバイスも一般的な警察官とは違っていた。たとえば、意外なことに最初はまず、インターネットで検索をするのが良いと言うのである。年配者にありがちな足で仕事をしなければいけないと言う空気を出していながら、使えるものは使う、らしい。

「真実に近づく速度が全てなんだ。新しいもので良いのがあれば、なんでも教わりたい。」

銭谷警部補はそういった。使えるものは全て使う。要するに真犯人を逮捕できさえすればなんでもいい、新しい知見が役立つなら全て使えばいい、という姿勢がそこにあった。インターネットを調べることで見えてくることは多いし、世の中の無名な落書きにも何かの理由があるんだと、語ったので、石原は驚いた。

「銭谷警部補がインターネットにお詳しいとは知りませんでした。」

「詳しくはない。パソコンで調べるまでで、最近のSNSやスマホはわかっていないんだ。」

「でもお使いになる言葉が、お若い気がします。」

「どうだろう。でもこれも太刀川のせいかもしれないな。」

会話の流れで煽った訳ではないが、隠密操作を円滑にするために官費支給ではない個人の携帯電話を持てないかと、提案したところ、意外なことに、その場で、承知すると銭谷警部補は言った。当然この「上層部」には開示しない捜査作業のやり取りを警視庁から支給されたスマートフォンでするわけにいかない。石原はそのことは最初に相談したかった。


 六階フロアは人がまばらだった。

 石原里美は、パソコンを開くとデスク作業を始めた。

 太刀川龍一と検索窓に名前を入れると、案の定ネット上には様々な文言が溢れた。いわゆる、株価操作のインサイダー疑惑や、六本木周辺での華やかな交遊から、殺人事件への疑惑などが終わりなく流れてきた。

 警視庁が修正した後の死亡事故という表現ではなく、殺人と書いてあるものが多いのは、その方がネット上でアクセスを拾いやすいからであろう。どの記事もしっかり広告が貼られている。過去の事件が広告収入の資産になっていた。すでに大手メディアから消えているとはいえ、過去の太刀川周辺のゴシップにはまだ価値があるらしい。

 記事によっては太刀川が首謀だとも書いてある。その他、陰謀説も含めて言葉は溢れた。女性死亡事故。連続殺人事件とも書いてある。パラダイム株式会社の周辺で、三〜五件の疑惑と事件が少なくともあったとされており、三人は実際に死んでいる、という。どの記事も写真や細かい説明を交えて、まるで報道記事のような体裁をとっているものもあった。

 石原里美はゆっくりとそれらを、まずは一旦、端から読み始めた。読みながら昨夜銭谷が言っていた

「火のないところに煙は立たないんだ。民衆の空想は馬鹿にならない。」

という言葉をそれらに重ねた。

 ただ、実際に細かく読み込むとどの「民衆」記事は雑だった。クリックを目的にした広告引っ掛けのようなページが多い。例えば過激な題名のものに限って、内容は希薄だった。実際に、大手のメディアはほとんど、警察の発表後の整理がされているせいか、記事は消していた。

 人のまばらな大部屋のデスクで、石原里美は、頬を叩いた。

 まず事件を調べる前に、太刀川の来歴からノートに書き出しておこう。

「東証一部、当時の最年少での上場。福島の県立高校から、現役で東大に入学。大学時代からの、スタートアップに取り組む。大学二年で起業、だから一九歳が創業になる。そして、二十三歳で上場。

 その延長線上で、あまりにも早く成功を手にしたために出てきたいくつかの問題が発生。斬新な経営手法は、今となればどこの企業も取り入れているものでもあるが、当時の多くの日本の利権企業らと<そり>が合わなかった。その後、メディア買収を企図した株売買などで不穏な空気を重ねていった。

 上場後五年。太刀川は二十八歳になった頃に、その風向きが怪しくなる。ネット関連企業で幾つかあった株価操作などの関係者ではないか、という疑惑が出る。実際に、ヒルズ族と呼ばれるような新興の上場企業経営者らの集うサロンと呼ばれる密会が複数あり、太刀川はそれらを多く主催していた中心人物だったという悪評もこの時期に増えた。この点は、最後まで本人は誘われたから行ったという言い方をしているが、参加者によっては太刀川に誘われたという人間も多く、実質上の主催者だった可能性は否めない。

 その密室だったかは定かではないが、地上波放送局を買収、および、サッカー球団を買収する話が、表面化し出したところで、パラダイム社に対する批判的な風当たりが極限に達した。太刀川らの若手経営者が取った手法は、ハゲタカと呼ばれがちな投資ファンドの常套手段ではあっても、日本のビジネス社会では不人気だった。買収の危険に晒された当事者のメディア各社は当然過剰な反応を始めた。民放各局による太刀川への否定的な喧伝が始まったのもこの時期である。」

ノートに整理しながら、一呼吸を置いた石原は、今一度太刀川のことを思い返した。自分は当時は高校時代だったと思う。テレビのニュースがそればかりになっていたのを思い出す。新しい時代がきたのか若者が潰されるだけなのか判らないけども、何かの二極が対立してせめぎ合う、そういう空気を眺めていた記憶がある。

「この特異な状態は半年から一年ほど続いた。しかし、その間、メディア各社の思惑とは裏腹に、パラダイム社の株価は高騰した。つまり、パラダイム社が万が一大手民放や球団のような資産を手中に収めることに成功すれば、その可能性はさらに飛躍することを、市場、特に当時加熱していた個人投資家の票を集めたのである。メディアでは冷たく報道されたが、市場は正直で貪欲だった。多くの投資家にとって上がり続ける株価は魅惑的だった。そうして天井知らずに上がり続けた株価の臨界点とも言える時期に、潮目が変わった。」

実は株価の頂点で、死亡事故が起きている。

「当初の一連の報道は、ヒルズ族の秘密のパーティがあり、その中で薬物で女子大生が殺された、という庶民が飛びつきやすいタイトルで始まった。警視庁も合同捜査本部を設置し一気に彼らの内部を調べ切る機運が高まった。メディアは突然の殺人という言葉の登場で急速に劇場化した。もともとあった経済的な日本の将来の議論という報道ではなく、殺人という犯罪の謎を追う論調に変わった。」

石原はノートに情報を整理し続けた。一回書き切るのがいいと思う。この辺りの時系列は混乱していた。

「結果、殺人という言葉の先行で、パラダイムの株価が暴落を始めた。時価総額一千億円の大企業となっていた会社がストップ安を連日続ける。実に毎日百億円単位の資産が消えていくことになる。株価が大幅に変わった時点でいくつかの問題が発生した可能性があるが、これは相当複雑な整理が必要である。もっともその暴落は六本木の女子大生の死亡が直接の原因ではなかった。その捜査線上に半年前のとある事件が浮かび上がったことも起因している。とある沖縄での不審死ーーなぜかこの事件が再度捜査の中で注目をされることになった。というのもパラダイム社は不正会計を指摘されており、その会計責任者で太刀川龍一の重宝していた証券部門のトップが沖縄で自殺したその本人だったからだ。自殺ではなく、殺人だったのではないか、という注目がメディアを中心に疑惑として始まり、ここでマネーロンダリングが殺人事件と共にあったのではないかという疑惑が再熱した。例えばネット上では口封じのため太刀川龍一が人を使って殺したのではないかという書き込みが溢れた。

 パラダイムに関連する企業の経営者がすでに死んでいたーー。自殺として沖縄県警は処理をしていたが、明らかに全身をナイフで切り裂くなど実際におかしな内容が多かったし、県警の判断に警視庁は疑問を呈する様子さえあった。」

真っ白いノートに指を動かしてみると、確かにパソコンやスマホとは違う脳の整理がある気がした。石原は珍しくタバコも吸わずに集中できた。

 関連が噂された殺人事件は三つ以上あったが、警視庁としては、表向きは六本木女子大生殺人事件に対して特別捜査本部を置いた。捜査を牽引しその全貌を明らかにするために、殺人を主管とする一課と経済事件を主管とする二課を合わせた捜査本部を形成した。

 この事件の捜査の現場陣頭指揮を取ったのが、いまの早乙女捜査一課長(当時二係長)である。また、現場の中心的な役割として、銭谷警部補。それと、銭谷警部補は言わなかったが、もう一人。捜査二課の金石警部補がいた。銭谷警部補はなぜか昨日この人物の話をしなかった。この捜査の前後で、金石警部補が一身上の都合で退官したことにも一切触れなかった。

 捜査本部は少なくとも、六本木での女子大生の死亡、そしてパラダイムの投資関係の責任者だった子会社社長が沖縄のホテルで死んだ二つの事件を主に内偵を進めていたらしい。一説には金石警部補はすでに確固たる証拠を掴んだのではないかという噂も、捜査一課のなかで語られているのも事実である。一昨日の小板橋巡査部長などは、このあたりを知っているのか、もしかしたら知っていて、それゆえに、太刀川が警視庁に来ると聞いて手を上げたのもあるかもしれない。つまり、五年もたった今でも、誰もそこに何もなかった、とは本当は思ってはいないのである。

 ここで昨夜の、銭谷警部補の説明になる。

 あるところで、潮目が変わった、と少し酩酊しながら銭谷警部補は繰り返した。

 確かに、六本木事件の報道では不思議な変化があったーー。学生当時の報道を思い出しても石原は思うのである。

 石原は自分の記憶も回想しながら、ノートに整理を続けた。

「もともとはパラダイム社の太刀川社長の周辺に対しては、否定的な報道が基本であった。最年少上場から、太刀川の経営手法だとかメディア買収、サッカー球団買収などの話が繰り返されるたびに、世の中の常識として太刀川ら若い経営者は生意気で、常識知らずのレッテルを貼られて報道された。良い意味では、世の中の空気というか、常識というものに対して、恐れを知らない、古い常識を変えていく存在とでも言おうか。悪く言えば、社会的に未成熟だとか、マナーを知らないというような言葉である。後者のような否定的な切り口での説明や取り上げが、印象として強く続いていたはずだ。

 ただ、それらの報道が、いつの間にか消えていった。全ての報道はいつの間にか消える、けれども、この六本木事件については、突然消えていったように見える。」

実際に今石原がネットで調べてもある時期から報道が少ない。大手メディアの正規記事が既に削除済みなのもあるが、石原は、確かに銭谷警部補のいう点は、自分の記憶と近い印象があると感じた。テレビを賑わせていたものがふとある時から、熱が覚めたように消えるともいおうか。その変化はあらためて言われないとわからないし、誰もこの潮目の変化には気がついていないのではないか。

 思い返してもパラダイム社関連の報道の結末を思い出せない。どういう風にあの買収騒ぎが収束したのか。死亡事故は最初はどのチャンネルを見ても同じ報道合戦だったはずだ。東大出の若き経営者が殺人事件に絡んでいるというあの報道がどういう結論になったのか。太刀川は逮捕もされず、被害者のその後も報道もされていない。事件そのものが何だったのかの振り返りさえない。あの加熱した報道の着地点を誰も知らないのである。

 例えば、昨夜銭谷警部補が淡々と語ったことーーパラダイム社の社長である太刀川が株式まで全て売却して、経営の一線を去ったことなどは、石原は知らなかった。あれだけ世の中を騒がせていたのだから、報道があっても良いはずだ。最初殺人事件だと言われた六本木ヒルズの女性の死亡が、殺人事件ではなくなり、純粋な事故だった、と処理されたというのも、報道された記憶がない。たしかに、ただ、いつのまにか報道の表舞台から話題にもならない世界に消えていった。

 石原は昨夜の銭谷警部補の横顔を思い出した。タバコを左に右手にジョッキをずっと交互にしながら、彼が言った、何か力が動いたんだ、という言葉が脳裏に残った。

 石原は深呼吸をして目を閉じた。

 本当の未解決事件。警視庁の中では解決済みになってしまった、本当の未解決。

 銭谷警部補はこだわりを持って説明していた。

 太刀川龍一。

 彼の周辺で何があったのか。

 多くの論理が変わった、とするなら、一つの仮説が出てくる。


(権力との手打ちがあった、ということ?)


権力者との調整、つまり手打ちをできずに、潰されていく人間は多いのかもしれない。太刀川は潰されたように見えて、実は、自分の現金などは失わず株式を売却できている。そして、一昨日見せたあの表情。あの表情は、何かを捨てた人間のものではない、と石原は思う。むしろ、何かを「これから始めよう」としている人間の眼差しに思えるのだ。

 株価の暴落と、死亡事故で追い込まれていたときに、万が一「権力からの逮捕状」が発生していたなら?警察に届く前に、それを太刀川龍一が知っていたなら?命と引き換えに会社を放棄することで助かる道があったのなら、どうだろう。

 その際に、誰が動いたのか。動く可能性があったのか。太刀川の周辺で一緒に逃げる必要があった人間がいたのか?

 石原は警視庁六階の高い天井を見つめた。

 珍しくタバコを指が求めなかった。

 


四十  水道橋界隈(太刀川龍一)



 東京ドームは本郷三丁目から坂をひとつ降りた目の前にある。

 ドームの横を南北に走るのが白山通りで、南は水道橋神保町の書店街を抜けて皇居に向かう。ドームから東へ坂上がれば東大のある本郷台を抜け、上野の不忍池や湯島へと続く。上野の広小路を右折すると秋葉原の電気街が始まっていく。そこからは平べったい江戸以来の目抜き通りで、神田、大手町、日本橋を超え銀座へと続く。

 どの街に降りても東西南北を把握する習癖が太刀川にはあった。

 一度地図を見て仕舞えば頭から離れないけれども、そもそもどこの街にいても理科系の脳には不思議な病があって、どちらが北かを直感してしまうのだ。そうやって街歩きばかりしているせいで、太刀川には東京のあらゆる地理と、道と、企業の建物が頭に入ってしまっている。記憶したというのではなく、塗り絵のように自分の歩いた道が色づいてしまうからである。

 昼過ぎに秋葉原を通り、午後には、大手町に入り三時前に日本橋を通り過ぎる見込みだ。多くの人は地下鉄だ、タクシーだと乗り換えるが、実際に歩いてみてもそれほど時間はかからない。夜の銀座での経団連重鎮との会食に、合わせて二時間ほどの時間が余っている。少し、本でも読もうと、太刀川は思った。


 

四十一 出歌舞伎町(御園生探偵)  


 

 軽井澤さんと僕に両肩を担がれながら、守谷はタクシーの後部座席に乗った。両肩と言っても左の腕は切断されていてその断面をジャケットに隠しながらだった。

「か、カバンは…」

「ここにありますよ。」

「進めてください…。車を早く。」 

何かに怯えているが、僕にはむしろしっかり喋れることの方が意外だった。

 タクシーの運転手は、

「大丈夫ですか?病院ですよね。」

と、驚いた顔をさせたまま、そういった。

「まずは、前に進めて...、」

守谷は振り絞るように声を出した。かすれた声だった。

 車が走り出すと、僕は守谷を見つめた。

 紫に腐った果物のように腫れた瞼は視力を失って見えた。何を見て何を考えているのか想像しづらい。

「どこに向かいますか?」

「……。」

「とりあえずまっすぐですすめていいですか?」

会話が成立しないまま、タクシーは職安通りから皇居の方角へ向かい四ツ谷を越え、しばらく走った。

「大丈夫ですか。」

指示を明確に貰えぬまま、タクシーは半蔵門を右折して内堀通りに入った。車窓左に皇居の外濠が広がったところで守谷が突然声を発した。

「高速に乗ってくれ。」

「え?高速ですか?」

タクシーの運転手が苛立った声を出した。無理もない。てっきり重病人を抱えて乗り込んだわけで病院へでも行くのだとばかり思っていたのだ。それが行き先も告げないまま、高速道路に乗れとまで言うのだ。

 桜田門の手前を右折し、左手に官庁街を通り過ぎ坂を上がると、ゆっくりと首都高四号線、霞ヶ関入り口が見えた。

「高速に乗りますよ、いいんですね?」

守谷の言動は、その後も非常に不可解なものだった。がしかしそれは、或る何かから逃亡したいと言う観点だとすると合点が行った。明らかに守谷は終始怯えていて、それだけは芝居ではなかった。霞ヶ関の高速入り口の直前で、

「いまだ!」

と頓狂な指示をしたり、品川方面に向かうと見せかけて突然渋谷方面だ、と前言撤回するなどめちゃくちゃだった。首都高を六本木、渋谷と越えた後、池尻大橋の出口でこれもまた彼は突然

「そこだ!」

と小さく怒鳴った。

「えっ、ここ?」

たまらず運転手が、急ハンドルを切ったので、側石に車が当たる勢いだった。

「もっと前に言わないと危ないじゃないですか!」

僕はそう強く言ったが、守谷はまた再び目を半眼させ、我々の言葉に一切耳を傾けようとしないという態度をとった。池尻大橋の出口からタクシーは玉川通りに入った。よく見ると守谷は腫れた目でバックミラー越しに追跡がないことを指示のたびに確認もしているのだった。

 三宿の交差点の手前あたりで、

「そこを左」

と言ったのが最後の指示で、曲がって少し走ると恐らく中規模の病院の入り口が目の前に現れた。池尻病院という立派な掲示があった。我々はタクシーを降りた。

 病院に入ると、診察の受付もしないで守谷は入院病棟のほうに行くエレベーターに乗った。僕は車椅子を用意しようとしたが、守谷は

「自分の足で歩ける」

と主張した。クリーム色のリノリウムの古めかしい廊下を歩く。病院はどこか暗い雰囲気があったが、正しく病院であった。それよりもこの正規の病院に守谷のような男が受け付けもせず入っていくのが僕には奇妙だった。軽井澤さんは黙って歩いてきている。守谷は速度は遅かったが辛うじて自分一人で歩いていた。

 そのとき、守谷を知っている様子の看護師が近づいてきて、空いている部屋がここにあるみたいなことを小さい声で守谷に言った。守谷の様子を見てもさほど驚きもせず、看護師は部屋を案内した。一体どういう病院なんだろうと僕は思った。

 守谷の入った一室は複数共同の相部屋だったが、他の患者はいなかった。

 やっとようやく話ができるようになりましたねと言う前置きから、軽井澤さんは、一体なぜ我々に電話してきたのかとか、昨日の人たちがどういう人間達なのかどうかとか、あなたが今後襲撃される可能性があるのかとか、まずは基本的な質問を幾つか重ねた。しかし守谷はそれらの善意の質問に対してほとんど反応のない無視を続けた。その態度はタクシーで東京を半周させて、せっかく落ち着いた場所まで連れてきた我々に対して明らかに失礼で、非常識的だった。

 その後も間合いを見て我々は繰り返し守谷に声をかけた。しばらくの間は守谷の無視を我々は我慢していた。どこかで片腕を失っている人間へ、生命ある動物なら誰しもが持つ、本能的な同情だったかも知れない。そうやって質問をしては沈黙されるのを繰り返して時間が過ぎ、ふと時計を見ると三時を回ろうとしていた。事務所を出て、既に五時間は過ぎていた。流石に痺れを切らしたのか、

「これでは、そろそろ我々は帰るしかないですかね。」

軽井澤さんはそう静かに言った。

「そうですね。」

何を聞いても無視をするし、不気味な人間の内情まで興味があるわけでもない。店じまいせざるを得ない諦めを覚悟した、実際の言葉だった。

 そのときだった。

 守谷は突然、奇妙な声を出して笑い始めた。躁鬱病で言う、躁の状態が始まったのかもしれない。瀕死の人間が病的に出す声なき声とも言える。吃音の中でもはっきりとした口調で、

「あんたらも狙われたかもな。」

といった。

「なに?」

「知らんよ。恐ろしい奴らだ」

「どういうことだ」

「逃げてもいいが軽井澤さん、あんたにも家族があれば、奴らがどこまでを狙うかは俺は知らないぜ。」

「今何といいましたか?」

家族と言う言葉を聞いたあたりで、軽井澤さんの温度が変わった。眼が怒気を帯びているのがわかった。一人娘の紗千さんを思ったのかも知らない。

「俺を見ればわかるだろう。普通の奴らじゃない」

「では、そろそろ聞かせてもらえますか?」

軽井澤さんは強く冷たい言葉を返した。 

「何のことだ?」

「とぼけないで貰えますか?」

「とぼけない」

「何故あなたがこうなったのか?そして、何故あなたは昨日わたくしに電話をかけたのか?です。」

「……。」

「あなたを襲ったのはどこの誰ですか?」

「誰だかはわからん。」

「本当ですか?心当たりもない?」

「ない」

「心当たりもなく、こんなことをされて、なぜ警察に行かない?」

「あんたの知ったことじゃ無い。まあ、俺にはもう失うものが何もないってことだ。」

「……。」

「ただ、あんたらが放置して帰れば、このまま俺は、引き続き手足をひとつひとつ、斬られるかもしれない。その時、今際の間際にあんたらを売るかも知らんな。いろんな秘密を話してしまった相手として。はは。」

守谷の笑い声が沈むように響いた。それはまるで死体から出た腐った異臭のようだった。文字通り最低極まりない人間のもたらす、重苦しい間合いと沈黙の後に、

「何を所望だ?」

軽井澤さんは、恐ろしく冷たい声でそういった。

「……。」

「もう一度聞く。何が所望だ?」

軽井澤の声とは思えない冷たい声だった。

「誰かを、知りたい」

「誰か?襲撃した奴らを?本当に知らないのか?」

「ああ。この襲撃をした人間が誰かは、具体的に知らない。襲撃の理由には心当たりはあるがな。」

「どう言う意味だ」

「俺は本当に知らないのさ。だから知りたい。」

「もう一度聞きたい。一体何人の人間が昨夜あの場所にきた?」

「覚えてないね。三人はいた。」

「顔は見たのか?」

「馬鹿な。全員、目出し帽だ。」

「予告なしに、部屋に?」

「鍵は閉めてあった。それを開けて入ってきた。」

「鍵を?」

「まあ、オンボロマンションだからな。」

「質問を変えよう。」

「……。」

「何故、名もない探偵事務所を陥れようとする?恨みでもあるのか」

軽井澤さんがそう聞くと、守谷はふと、何かを逡巡したように僕は感じた。意外だ、という表情にも見えたかもしれない。

「何の恨みもないさ。むしろ申し訳ないとは思っているが。この通り自分には誰も味方もない。使えるものは使う、それだけだ。」




四十二 青山の崖 (赤髪女)


 赤髪女が再び、表参道駅をおりたのは十五時を過ぎた頃だった。

 表参道交差点から青山墓地の方角へ歩き、パンダのような模様をしたプラダビルの筋を過ぎると、少し落ち着いた住宅街になる。そのまま、墓地の脇の坂を降りた。昨日の探偵事務所の前を通り、そのまま、赤髪女は墓地の茂みに隠れた。崖の上にうってつけの清掃員向けの作業小屋がありそこから事務所のあたりを見下ろせた。

 午前に指示者からは二つの追加があった。

 一つ目は、GPSの追加だ。風間ではなく、守谷、という人間らしい。守谷という男のGPSは新宿歌舞伎町で点灯を始めたのだが、先程から動きが増えた。落ち着かなかったが、最終的に今池尻大橋のあたりに移動し、少し落ち着いた様子がある。

 二つ目はこの探偵事務所を更に調べろということだった。後者はある意味、赤髪女の予想し期待した方向に誘導されたとも言える。結果、GPSを探偵の車に設置したことが生きている。その車は今新宿の歌舞伎町にある。奇しくも守谷という男のGPSの青い点滅がはじまった場所でもある。

 風間が探偵事務所に接触したことを報告してから、指示者の様子が変化した。指示者は赤髪女に、この探偵事務所の人間を調べろと言い出した。猫の死体に困った風間がこの事務所に頼ったというだけで、なぜ、探偵の尾行までするのかが赤髪女は腑に落ちなかった。

 窓を見下ろして中を覗く。

 事務所には人がいなかった。

 無駄に大きな窓から中が丸見えの事務所だ。カーテンもしていないのは、北向きで日当たりも悪いからだろうか。

 ただ、赤髪女は少し積極的だった。

 素敵な探偵さんのいる事務所なのだ。

 エリート商社マンのような溌剌とした美男子の探偵さん。

 赤髪女は少し自分が艶めくのを感じた。

 見込みで「シール」を貼らせてもらった事務所の薄緑の車は同じ場所にはなかった。履歴を見ると、車は朝にはもう移動していたらしい。今は新宿歌舞伎町にある。未だ出社していないのではなく、既に朝から社用車で仕事をしているらしい。赤髪女はあの美男子の探偵が早朝から働いている姿を想像した。

 赤髪女は、社用車の位置が新宿にあるままなのを見て少し大胆になった。窓越しに事務所の中の物色を始めた。鍵はこじ開けなくても、これだけ窓をブティックみたいにガラス張りにしていれば中は見放題だ。デザイナー事務所と勘違いしているのか、世の中に隠し事がないのかは知らないが、随分開け広げである。

 窓が大きい割には、事務所は狭かった。地震実験車が何かみたく、窓の外から室内の全てが確認できる間取りだ。真ん中に応接机と年代物の二人掛けのソファがあるばかりである。左奥の角に取調室の書記官の居場所のような小さな机がある。これが、あの美男子の机だろうかと、赤髪女は爪を噛んだ。右側は壁いっぱいが黒板の代わりの白い落書き壁になっていて、おそらく整理もされていない紙や写真が、マグネットで所狭しと貼られていた。

(男だけの事務所だな)

赤髪女はそう言う想像をしながら、室内の写真をできるだけ撮った。壁に貼ってあるものも全て、まずは写真にしておく。写真の枚数が指示者からの評価になるはずである。そうすれば収入をまた増やせる予感があった。



四十三 本郷界隈 (太刀川龍一)


 太刀川は竜岡門の前を通りすぎた。

 竜岡門と言うのは、赤門や安田講堂前にある正門と違い、さほど有名ではない東京大学の入り口の一つである。ここは学生というより東大病院の出入りが主となっている。

 周辺には、竜岡門の名をあやかった建物は多く、竜岡門ビルディングもその一つだった。

 太刀川は茶色いレンガに左の片面だけ蔦が密集した地上四階建てのマンションを見上げた。いつも上り下りをした蔦まみれで剥き出しの非常階段が懐かしい。この四階がパラダイム社の創業の地だ。オフィスは残っていない。パラダイム社が、六本木に移ってから閉鎖させていた。

 実はこの創業のオフィスの賃料はずいぶん長い先まで払われ済みであることを知る人間は少ない。そもそも、あれだけ騒いだ記者たちも、ここが創業の場所であることなどを知ってる人間はほとんどいなかった。

 ビジネスは人間同士の殺し合いで、利潤の奪い合いなのだということをまざまざと覚え始めたのはこの小さな一室だった。売り上げが上がり、社員が増えて手狭になり一度、二階が空いたので追加でそこを借り、六本木に移転させるまでの三年ほどしかいなかったが、ある意味で誰よりも、一番辛かったあの時期をこの部屋は知っている。

 この部屋の鍵をまだ自分が持っているということを知っている人間はもうだれもいないだろう。太刀川は竜岡門ビルディングを眺めながら、一昨日、霞ヶ関の地下ホームでぼうっとした時間を思い出した。かつて、猛毒のサリンをばらまいた人間たちには、東大の数学科にいたような人間が少なからず含まれていた。あの頃、きっとそれは何かに飲み込まれた人間たちだと考えていた。人間の社会はこころの飲み込み合いだと感じる。組織がそれぞれ様々なやり口で大勢の人を飲み込んでいく。装置のように、重力のように、組織は人間を飲み込んで大きくなっていく。人間を飲み込めない企業だけがつぶれていく。宗教も政党も全部同じ。そうやって利権と利潤をうばいあう。

 太刀川がそれらを学び始めた場所が、この竜岡門ビルディングだった。理想や夢と全く逆の現実と向き合った場所、とも言える。誰にも言えない事を整理しながら社長業を学んだ、あの孤独な時間はここにあった。

 太刀川は何か言葉を念じたような表情をすると、鞄の中にある部屋の鍵を手で確かめていた。



四十四 池尻病院 (御園生)


「あなたがわたくしどもに調べて欲しいのはこの襲撃を行った人間という意味ですか?」

僕は軽井澤さんが敬語に戻したのを聞いて少し気持ちが楽になった。

「あ、ああ。」

「心当たりは?ございませんか?」

「心当たり?」

「襲撃者です。三名位はいた。目出し帽をかぶっていた。おそらく体格もしっかりしていたのなら、若者だったのですかね。」

「……。」

「だとすれば、彼らは直接にあなた、守谷さんに恨みを持つことは珍しい。そういう若者から恨まれるような生活をされているのでしょうか?」

「……。」

「そうでないとすると、その若者たちは誰かに命令された、雇われて襲撃を行ったのかも知れませんね。襲撃者と命令者は別だと考えた方が自然ですね。恨みを持っているとすれば命令者になるでしょうから。」

「……。」

「その心当たりはございませんか?」

 守谷は返事をしなかった。

 目を閉じ、病院のベッドに横になっていた。


 どこかで僕は苛立つ自分をおさえていた。

 二人連続、である。

 Google広告を試してみようと軽井澤さんに話したのは自分だ。日頃の近所付き合いの顧客ではなく、もっと遠くの新規開拓を、というGoogleの広告文句にやられたのだ。結果として新規顧客は二名とも、ほぼ最悪の結果になっている。軽井澤さんに申し訳ないと、自己嫌悪をしていたそのときだった。

「おい。」

軽井澤さんらしからぬ言葉使いのせいで、一瞬それが軽井澤さんの声だと僕は気がつかなかった。

「いまだ。今すぐ、知ってることを誠実に話さないと許さないぞ!」

聞いたことのない軽井澤さんの底を割るような声が響いた。再び、敬語体が抜けている。僕はびっくりした。

「おい、聞いているのか?」

気がつくと軽井澤さんは、ベッドに馬乗りになるように守谷に飛びつき胸ぐらを掴むと怪我人なのも気にせずに壁に突き上げた。か細い、守谷の全身が宙に浮いている。

 僕は軽井澤さんがそんなに凄まじい形相で、掴みかかるなんて想像できなかった。これには守谷も驚いた。

「聞いていますか?」

敬語に戻ったけれども、その礼節が、逆に恐怖を煽るようだった。

「ぜ、全員覆面をしていたんだ、わからんよ。」

「では、姿形は見たのですか?身長や、そのほか何かしらの情報を」

「わからない」

「彼らの背後にいる人間を本当に想像できないのですか?あなたは我々が恐ろしい組織に睨まれたと言いました。」

「……。」

「あれは、うそですか?勝手な想像でカマしただけでしょう?どうなんですか?」

守谷は小さく、首を上下させながら

「そ、組織は、あるはずだ。」

とだけ言った。

「あなたと、そういう組織に仕事でのトラブルがあったのですよね?」

「いや、ちがう。」

「ちがう?」

「仕事の相手じゃない」

「どうしてそう言い切れますか?」

「ちがうんだよ」

「……。」

「仕事のトラブルじゃない、と言い切れるのはなぜですか」

「……。」

 その時である。

 軽井澤さんがその間隙に僕を見たのだ。その眼差しは、全く怒りに震えてはいなかった。むしろ目線で「何かの指示」を試みていた。それは一瞬だけだった。一瞬が過ぎるとそのまま軽井澤さんは、守谷を折檻を続けた。しかしそれは、怒りではない。つまり、軽井澤さんは、自分がそういう位置で守谷の胸ぐらを掴むときにできる、死角のことを意図しているのだ。そうして、その死角には、守谷がずっと抱えてきた汚く小さいボストンバックがあった。

(そうか、そういうことか。)

僕は軽井澤さんもさっさとこの場を去ろうとしているのだということに今気がついた。

「俺はわからん。」

「なぜこんなことをされたのですか?あなたの仕事が理由でしょう。」

「仕事は関係ない」

「なぜ?」

「関係ないんだ」

「そもそも仕事は何を?」 

「見れば分かるだろう。いろいろだよ……。ろくな商売じゃ無いさ」

「……。」

「とにかく、仕事は関係がない」

「何故そう明確に言い切れるのですか?」

胸ぐらを掴んだままだ。呼吸ができなくて苦しい守谷は、

「俺にはわかる。そういうことではないんだ。」

「では聞きます。あなたは、どこかでこのような事態が訪れることを知ってて、電話を私たちにかけませんでしたか?」

「……。」

「そして、その電話を隠し、修羅場が終わる頃に存在を見せた。つまり、探偵事務所のような存在をつなげることで、相手への、歯止めを探した。」

軽井澤さんは、どこかで想像していたことを言った。もし、守谷が天涯孤独で誰にも頼る先がなく、警察にも頼れないとするとあることかもしれない。

「お、俺は悪くない。」

「……。」

「怖かったんだ。」

守谷はそこまでいうと、おめおめと泣き出した。どうやら軽井澤さんの指摘も遠くない正解だった様子があった。精神的に参っていて、図星を言われた老人のみすぼらしい涙なのかもしれなかった。身体中怪我だらけの年寄りが、泣きじゃくる惨めさは酷かった。

 軽井澤さんは、チラリと僕をみた。

 どうや<僕の作業>が済んだことを理解して、

「また明日来ます。今日は大変だっただろうから、少しまずは休んでください。尾行はされていないはずですから、この病院なら安全でしょう。」

と言って手を解いた。その解き方はそれまで胸ぐらを掴んでいた手とは思えないくらい、優しい気遣いがあった気がした。

 ベッドに戻された守谷は、無言で天井を見ていた。皺の強い目尻に惨めにしか思えない涙の跡があった。



四十五 軽井澤紗千  

 


 どういう娘であるべきかは常々悩んできた。

 どういうふうなことを話せばいいか。父の言葉をどう感じればいいか。

 両親が別々に暮らすようになったのは、父、軽井澤新太が前の会社を辞めて独立した頃だった。前の会社と言うのは全国ニュースを作っている放送局、つまりテレビ局だ。もちろんニュース以外にも、ドラマや歌番組とか沢山あるけども、父は多分そのテレビ局のニュース報道に関わる仕事をしていた。

 たぶん、というのは、父は私には一度も仕事の話をしたことがないので、母になんとなく聞いた時にそういう概要だったからでしかない。そういう理解を自分はしている。

 テレビ局、ってそう簡単に入れないし、親類に有力者のコネもない我が家族だから、父は苦労して就職したはずで、何故それを、わざわざ放擲して、言っちゃ悪いが、探偵みたいなことを始めたのかは、さすがに「娘からも聞けない」でいる。せっかく終身雇用でまあまあの給料がもらえる放送局に入ったのに、どうして辞めたのか。理由はよくわからない。そう。そうだ。そういうことは、聞かない事にしている。

 昨日、多摩川沿いで久々に会ったその日、父は少し疲れていた。 

 それでもジムに入ってミット打ちを始めるといつものように表情は変わっていった。私は遠目でそれを確認しながら、父と同じ部活で競い合うようないつもの気分をさせて河川敷を走りに出た。多摩川の土手は見晴らしが良いのが好きだ。

 自分で言うのもなんだけど、父と母が離婚をしなかったのは、一人娘の私ためだと思う。実際、私立の中学に入れてもらってからも、父も母も仕事が本当に忙しくて、私への対応は代わりばんこだった。二人で一緒に、私に向き合う事は、正月や誕生日でも稀だった。送り迎えは交代制だった。でも今から思えば、交代が合理的だったのだ。

 大学に進学が決まった頃に、父が四ノ橋で一人暮らしを始めて、いくつかの事が、理解出来るようになった。大人になるという事はそういう冷たい現実を平凡に処理できる事なのかもしれない。

 父も母も一人娘である私をこよなく愛してくれている。このことはありがたい。別居が大学入学まで遅れたのもただただそのせいだったろう。ほんとうは、二人はもう、とっくの昔に、冷めてしまっていたのに、この自分のために別れないでいてくれた。それも、ひとつの愛情の形だとおもう。もしかしたら本当は離婚したいのに、私が結婚するまで待っているのかも知れない。

 ママは雑誌編集者でworkaholicで、大きな括りではマスコミという同業なのかも知れないけど、父と母が互いの仕事について私の前で語るのを見たことはない。母は、父が会社を辞める頃、どんな意見があったのだろうか、など込み入ったことは何も知らない。

 父が父の人生をどう歩んできたのか、私はほとんど知らない。娘に対する時の父は父親として力んでいて、多分、仕事の時とは違う気がする。父は、普段私を見つめる時はいつも柔和で優しい、包容力のある表情をしていて、愛情がそのまま溢れてるような存在だ。その父が、拳闘の拳を握り締めて殴っている時、まだ出会ったことのない父の姿が、そこに見え隠れする。私は、自分に見せない父の本当の表情を探しているのかもしれない。母が父に恋をした頃の、そういう場面を、といえば言い過ぎだろうか。

 とくにスパーリングなどをして、真剣の戦いになっている時の、表情をみるのが好きだ。あえて加えて言えばそれは、父の過去の暗い場所からやってくるように思えるのだ。この私には話したことも、母にも語らないでいることも、あるのかもしれない。

 私はそれに、触れたいがために、ボクシングを辞めないでいる。もちろん河川敷をこうやって走る時間は自分にとって貴重な時間なのは間違いないが、それは、半分くらいでしかない。こんな多摩川まで来なくてもスポーツジムは都心にも沢山あるのだから。



四十六 指示電話 (赤髪女) 


 赤髪女をフラッシュバックが断続的に襲っていた。

 胸が苦しかった。

 薬物の禁断症状である。

 ここ数日、高価な覚醒剤を使ったのが良くなかった。財布が心もとなくなっている。赤髪女は肩を揺する典型的な中毒者の症状を繰り返しながら、南青山の探偵事務所を少し離れた墓地の草むらにうずくまっていた。

 電話が鳴った。

「諸々は、順調か?」

指示者はヘリウムを飲んだ声で、ゆっくりと話した。

「はい。」

赤髪女は周辺を見回した。薬が欲しい。しかし金が足りないのだ。普段ない金額を得たせいで少し上級の代物を求めてしまった。上級の商品には通常ない別の依存性がある。

「ご、ご指示の探偵事務所を引き続き、少し調べています。」

「風間は?」

「風間はやはり、家を引き払ったのか、外泊をしています。錦糸町近くの安宿です。」

赤髪女は、GPSの位置を思い出しながら、家にいないことは確かだと告げた

「風間は探偵事務所と連絡をとっている。それは間違いないのだな?」

「完全に確定とまではいえません。しかし、昨日の朝、だいぶ長い時間をこの界隈で過ごしていました。不動産屋を回っているにも関わらず、この事務所だけは別だったと思いました。」

「いま、南青山か」

「はい。まだ風間に動きがないので。探偵の方の調査に力を入れろ、というご指示だったかと。」

ヘリウムを含んだ無言の呼吸音が、電話の沈黙を繋いだ。

「風間は、また、猫でしょうか?宿泊先には厳しいかと」

「いや。」

「……。」

「ちなみに、昨日からはじまった新しい緑のがその探偵のGPSか?」

赤髪女が昨日の朝、車に取り付けたシールのことだ。

「はい、いや、その探偵の身体には流石に取り付けられないと思われましたので、彼らの事務所にある車に取り付けました。」

「ほう。」

声が弾んだ後に押し殺す吐息があった。

「今朝方、新宿に向かい、そのまま放置されているようすです。」

「そのようだな。」

「何か気になることでもございますか?」

「新宿という、偶然についてか?」

「いえ。」

「偶然と必然とが混在する。」

「どういうことでしょうか。」

「まあいい。質問はするな。」

「はい」

「しかし、探偵を雇うとは。風間にそんな金があったのか」

「少なくとも、あのホテルに泊まる限り、金はあるとは思えません。」

赤髪女は風間のたどり着いた木賃宿を思い出した。Googleで見る限り、世の中にある宿泊施設の中で最下層にあるのは確かだった。

「実際に、どうやってるのかは知りません。探偵側が騙されているのかも。」

「騙されている?」

「見せ金というか、支払時期などに誤魔化しがあるのかもしれません。」

「知り合いでもいたのか?」

「そうは思いません。が、なんでも繋がる時代ですから。」

「なるほど。」

「ところで、すいません。」

「どうした。」

「その、わたしの、ここまでのお金についてですが」

赤髪女はその部分を明確にした。次の薬の購入のための、金が間に合わない。

「金に熱心だな。」

「そういう意味では。ただ、追加の作業もご指示いただき、ありがたくさせていただいております。」

赤髪女は、突然商売じみた言葉が出る自分に驚いた。これも薬物依存のたまものである。

「もうすぐ届く。次の動きは待て。それより」

「はい。」

「今日明日は、最優先で探偵事務所を詳しく調べてもらおうか。」

「かしこまりました。現状はホームページと、この事務所の目の前、と車の追跡程度しか情報ありませんが。」

「どういう探偵が働いているのか、を調べてもらおう。零細な事務所に見えるがな。」

指示者はすでに、ある程度用意していたのか、細かくその方法を述べた。赤髪女は、頭に覚えきれず、メモを取った。

「もうそろそろ金は、届いている。安心しろ。」

「ほんとうですか。」

「GPSには、風間と守谷、それと探偵の車があるということだな。それと話をしたもう一人はどうだ?」

「もう一人、綾瀬ですね。」

「ああ。」

「すいません。風間が落ち着いたところでと思いましたが、家を出たり探偵に向かったりと混乱があり。この後にどこかでと。ただ、綾瀬の方は取りつく島もなく困っておりまして。」

「まあそうだろうな。」

「申し訳ございません。」

「まあいい。まずは探偵を進めろ。」

「了解しました。」

赤髪女は、GPSの画面を見た。オレンジ色の風間が錦糸町にいて、新宿から始まった守谷という青い点が池尻大橋のあたりにある。緑色の、探偵の車が歌舞伎町のままだ。

 指示者の電話は切れた。また元の草むらにうずくまるだけの自分に赤髪女は戻った。想定の通り、電話が切れるとフラッシュバックが断続的に襲いなおした。

 苦しい。

 早くしたい。

 禁断症状が続いたままで、いろいろな頭の中の病理や妄念がゴム玉のようにあちこち溢れて暴れる。手と肩が他人のものみたいに痙攣したりする。少し危ないと感じた赤髪女は、一旦祖師ヶ谷大蔵まで帰宅をすることにした。表参道で千代田線で小田急線方面に乗り込んだ。

 電話からの指示にはやはり慣れない。

 赤髪女は、小田急線の座席に蹲りながら、そう思った。

 社長さんから紹介されたこれまでの仕事にストレスのようなものは一切なかった。全ては淡々と続いてきた。それが今回から、金額が上がった。電話での指示になった。指示者はヘリウムの声である。相手は番号も何もかも不明だが、何をどう考えているのかは、言葉で理解はできる。指示者がやろうとしていることは、朧げながら理解はできる。ということは、それに対応しなければいけない。すくなくとも会話であるかぎり、前の指示を覚えていなければならない。

 八年間、こんなことはなかったのだ。

 どこかの落とし物を届けるとか、物を拾ったりするとか、殆ど、人格と触れることがなかった。

 社長さんが言っていた、「少しずつ良くなる」と言う言葉を、赤髪女は思い出していた。実際に金額が増えたのは「少しずつよくなった」ことなのだろうか。でも、正直にいえば、金額が大きくなったのは結果として薬物の量を増やしただけだった。何も幸せを増やしたりはしなかった。これでは本当に少しずつ良くなってるのかわからない、と赤髪女は思った。

 




四十七 暗い部屋 (人物不祥)


 男は、電話を終えると、その暗い一室で、GPSの画面を見た。

 履歴をしっかりと見直す。

 GPSは目的の<三人の男のうち二人にまで>付けられた。二人とも狙った通りの恐怖を設定させながら、である。

 やはり、こうやって見ておくことは大切だと、男は思う。こいつらは、何をするかわからないし、そういう悪魔的な実績を持っている。元々その悪魔が互いに恐怖して傷つけ合う可能性を恐怖していたはずだ。

 誰の計画かは別として、十四枚の葉書はそういう設計だったはずだ。


E N R T K U A A C S W C E O


 しかし、GPSを見る限り、風間も守谷も逃げている。風間は探偵事務所を徘徊した後、埋立地まで周り、そのまま内陸に戻るようにして、錦糸町の周辺で宿泊した。

 守谷は新宿の歌舞伎町から車で首都高を移動した。今はおそらく病院に逃げた様子がある。どちらも恐怖から逃げようという動き方になっている。

 防御や、攻撃のにおいがしないままである。

 つまり、この三人が殺し合うという方向になっていない。

 計画が悪かったということなのか?逃げるだけでは、だめだ。

 それでは困る。

 それでは解決をしないからだ。

 過去から届く、あの葉書を解決させることにならない。

 男は暗い部屋でその画面を見た。自分が書き込んできたドキュメントに綿密に埋め尽くされた言葉を、改めて見つめ直した。


(このままで良いのか?)


二人ーーー風間と守谷は逃げ惑っている。もう一人綾瀬の男の動きは把握はできていない。

 葉書が来てからもう一ヶ月は過ぎている。これまで相応の金をかけ、いくつかの仕掛けをさせてきた。猫の前で風間は逃げるばかりだった。守谷はどうだろうか。歌舞伎町であそこまでされれば命の覚悟をしなおしても良いはずだが。

 男は自問自答した。

 赤髪の女によれば、さらに状況が追加された。

 風間は探偵に頼ったという。

 なぜ、探偵などと話が始まるのか?それが奇妙だった。これは全く想定外である。男は、GPSを眺める。

 ふと、守谷がいた歌舞伎町に、なぜか探偵の車が置かれたままになっている。探偵の車が何故か、守谷のいた歌舞伎町に朝から向かっている、とも言える。

 一体、この探偵はなんなんだ?

 男は暗い部屋で画面を睨んだ。

 GPSは、青色が池尻大橋。もうひとつ緑色は新宿歌舞伎町。そしてオレンジ色のものが錦糸町。


(やはり、綾瀬の男を動かさねばならないのだろうかーー。最も人間を殺すことが得意な男。実際に人間を率先して殺してきたとも言える、あの男をーー。)


男は悶々とした。第三の男を絡めた最後の計画はある程度ドキュメントに記載を始めてはいた。しかし、できれば彼を絡めることだけは避けたかった。


(あの男だけは何をするかわからん。)



四十八 病院の外へ(軽井澤新太)   


 わたくしは、守谷と言う男が「何か」を知っているようにしか思えず、激しく胸ぐらを掴み揺さぶりました。しかし、それは、半分はもうこれ以上この男との押し問答で今日を終わらせたくないという一心で、これでいちど事務所に帰ろうという判断でした。くわえてもう半分は、目で合図をした、御園生くんへのお願いもありました。守谷が大事そうに抱えていたボストンバックを、この隙に見て欲しかったのです。このまま手ぶらで帰っても辛い時間が続くのは判りきっています。せめて守谷の背景情報を巻き取りたかった。わたくしは守谷の胸ぐらを掴みながら、一瞬だけその視線を御園生くんにおくりました。

 守谷を吊し上げている間、背中にはその「作業」の気配がありました。しかし、か細い体と、片腕の切断含め、身体中の傷跡はやはり生々しくありました。人間の姿としてあまりに不幸だとも言えます。わたくしは人間というものがどういう仕組みで不幸になっていくのか、ということを何故か胸倉を掴みながら脳裏で思っておりました。

 頃合いを過ぎたところで、わたくしは振り向きました。ボストンバックは、元の位置に何もなかったように置いてありましたが、御園生くんの表情を見ると、何か仕事を行った後の表情をしていたものですから、わたくしは安心して、

「では、いきましょう。」

と穏やかに宣言し、守谷を置き去りに病室を出ました。リノリウムの廊下に出ても振り返ることはせず、御園生くんとわたくしは無言で淡々と階段室へと向かいました。

 病院を出たところでわたくしと御園生くんはタバコを一服したり、お互いの携帯電話などを確認いたしました。

 そこには、一人娘の紗千からの連絡メッセージもありました。

「昨日はボクシングのあとバタバタでごめんなさい。近々お食事でもいかが?」

父親にとって、いつどんな時でも嬉しいものは、娘からの食事の誘いの連絡かもしれません。そもそもこれまでも、これから先も、娘からのメッセージの全ては、喜びでしかありません。初めてスマートフォンと言うものを持たせてメッセージを自分に送ってもらったあの日から、すべてのメッセージをいとおしく思います。

 通常であればこのような娘のメッセージをわたくしは、何よりもありがたく受け止めます。昨夜から眠れなかったような今回の事件だったり、話すのも嫌な調査を押し付けてくる風間のような相手の仕事をしているとしても、青空のようにそれを吹き飛ばすのが娘からの連絡でございます。

 しかし今回は、少し違いました。

 いつもの通常のようにはいきませんでした。

 なぜなら、わたくしは今日の守谷のことがあって、少し明らかに心が乱れているのです。あの歌舞伎町のおぞましい場面が、なぜか自分の娘の記憶と混乱し、混じったような気がしたのです。守谷の犯されたような状況に、自分の娘の紗千が向かうかのようなありえない妄念が脳に生じたのです。

 想像というのは恐ろしいものです人間の脳細胞というのは想像したくないと思えば思うほど、精神が逆に働き、想像したくないものを想像してしまうものだと何かの物の本で読んだことがございます。一瞬の妄想が娘の具体的な不幸の場面を脳裏に強制したのです。それを、わたくしに仕向けるのです。

 連日、守谷や風間のような種類の人間と時間を過ごしたせいかもしれませんが、最も愛する娘と、あの二人が、単純に素材としてでも脳に混ざるのはとにかく、苦痛でした。自分の娘がもし、あのような不気味な男たちに監禁され、陵辱を繰り返し受けたなら?そういう、トラウマのような問いかけがわたくしの脳に生じたのです。それは表現をするのも苦しくなるような鬱然たる心情でございました。

「ありがとう。是非と言いたいところだけども、今日は先約があります。来週どこかでお願いします。」

わたくしは精一杯の指の力でそのメッセージを書くばかりでした。


四十九 地下鉄へ (御園生) 



 病院を出ても、しばらくは軽井澤さんと僕は話さなかった。

 すぐにタバコ場を見つけて、無言でお互いの電話を見たりしながらしばらくした。

 突然起きたいくつかのことにゾッとしていたことにくわえ、更に僕は軽井澤さんよりも先に、とある全く別の恐ろしいことを目の当たりにしていた。早くその事を軽井澤さんに話したいが、少し恐ろしくて、言い出せないままだった。深呼吸しながらタバコを肺の奥まで飲んだ。

 少し前、守谷のベットの前で、僕の目を見た時の軽井澤さんは、そのまま視線を守谷の鞄に流し向けた。その視線には明確な意図があった。つまり、奴のカバンから、何かを盗めという指示である。カバン全てがなくなれば騒ぐだろうが、開けて中身をいくつか、であれば気が付かない。明日にでも返せば良い。そうも言ったように聞こえた。

 僕は、のたうち回る守谷の胸ぐらを掴む軽井澤さんの背中側に、守谷の持ち物をずらすと、ちょうどその姿を隠すように合わせて、うまく彼のカバンの中で持って帰れそうなものを選ぼうとした。

 その時に「あるもの」が、目に飛び込んできたのだ。

 カバンにあったもの。

 それは、見覚えのあるものだった。見覚えはあるが遠い過去でもなく、懐かしくもなかった。ただただ見た瞬間ゾッとする種類のものだ。いや、一昨日からずっと軽井澤さんと僕が、悩ましく見つめ続けたものだ。

 病院のタバコ場を出てから軽井澤さんは、何かの考え事で青ざめた表情を続けていた。話しかけづらいことの少ない軽井澤さんだけに、余計に僕は逡巡し、言い出しを躊躇した。

 池尻大橋の駅に着いて田園都市線の地下鉄に乗ると、車両に殆ど人がいなく、長い椅子で二人だった。僕は、ようやく覚悟を決めた。

「軽井澤さん。」

「はい」

「目で合図をくれた、守谷の荷物です。」

「ああ、そうでしたね。」

「ちょっと、信じられないことが起きました。」

僕は、呼吸を深くしてから、黙ってそれを見せた。それは、守谷の麻袋のようなボストンバックを開けた時に発見したものだった。

 軽井澤さんは訝しげにそれを見た。わたしが持っている葉書、をじっと見つめている。そうだ。僕の右手には、束になって、アルファベットが記載された葉書が、おそらく数えていないのだが、十四枚あった。

「どうしたんですか?御園生くん。その、風間の葉書は、事務所に置いて来ましたよね。たしか、黒板に貼り付けていた。あれ。ええと。」

「最初はそんなふうに思いました。それだから、逆に驚いたのです。」

僕はそう言って軽井澤さんを見つめた。

「どういうことですか。意味がまるでわからないです。」

僕は手にした葉書を

「これは風間宛のものではないんです。」

軽井澤さんは、眉間にシワを寄せ僕を見つめた。そんなわけはないだろう、という表情で。

「いったいどういうことですか?」

「宛先が違う名前になっています。」

僕はそこで、葉書を裏替えして、宛先の方を見せた。あっ、と言う目眩が、軽井澤さんの表情に浮かんだ。そうして焦り始める呼吸が追いかけた。

「守谷保アテ??」

「僕もわからないです。守谷の鞄を開けたら、これがあったんです。」

しばらく呆然として、二人とも声を失った。渋谷、渋谷と電車のアナウンスがあった。そのまま、田園都市線は直通の半蔵門線になる旨が告げられる。

「鞄の中はくまなく見ました。あとは、競馬新聞くらいでした。財布の中は、ざっと見ましたが、千円札数枚の小銭と免許証。名前は、守谷匡。本籍は、大阪でした。さすがにそれを持ち帰るのもはばかれたのですが、この葉書だけは拝借しようとおもいました。」

複雑なことがいくつか想像できるけれども事実は至って単純明快だった。風間に送られていた葉書と似たものが、守谷保宛にも送られていたのだ。ざっと見た感じでは、アルファベットの筆跡も似ている。これは、同一の人物や、同じ組織が送ったものとしか思えない。

 地下鉄の中で枚数まで数えるのが憚れたりもしたが、ゆっくりと声も出さずに僕はそれをめくった。どの葉書も宛先は、守谷保で十枚を越えたところで嫌な予感はあったが、やはり同じように十四枚だった。僕がその事を理解したのを軽井澤さんは気がついたようだった。

「枚数も同じですか」

「そうですね。おそらくアルファベットも、同じように思えますが、事務所についてから確認します。」

目眩のまま、頭を押さえていると、あたりは白々と光り、電車の窓が明るくなり、地下鉄のどこかの駅のホームに滑り込んだ。表参道表参道、と駅員のアナウンスがあり、ようやく僕は自分たちの今いる場所を把握し直した。

 エスカレーターを二つ降りれば千代田線である。

 その時、軽井澤さんの電話が鳴った。

 軽井澤さんは、その画面を見ると、はっとした表情になった。

 そうして、僕を見つめ、スマホの画面を見せた。


 西馬込 風間正男


と表示がある。

「どうしますか?」

「出ない手はないでしょう。いろいろ聞かねばならないことがありますし。」

「……。」

「はい、軽井澤です。」

軽井澤さんが電話で話すと、風間の声が、スマホの中でしている。がなり散らすような雑な言葉遣いだけは感じられた。

「はい。そうですか。はい。風間さま、ちなみに、この後、会いませんか?事務所で良いので。ええ、こちらの都合ですのでチャージは大丈夫です。」

軽井澤さんがそう言うと、意外だなと言うような声が聴こえた気がした。僕と軽井澤さんは千代田線が滑ってくるホームで

「はい。場所は、南青山です。では、この後、お待ちしてます。」

という軽井澤さんの言葉で電話を切ったあと、少し沈黙した。おそらく二人とも考えていることは同じだった。

 なるほど、風間が来るのであれば、このもう一組の葉書のことは単刀直入に、聞けるだろう。そうすれば、一気に解決するかもしれない。

 もはや、前払金のことを僕と軽井澤さんは忘れていたかもしれない。とにかく風間に早く来させて、この不気味で気味の悪い状況をさっさと打破するか、もう金はいいから早く我々は不関与にさせれないかと、言うべきだと僕はおもった。実際に風間が事務所に来るのであればそうできるはずだ。



五十  祖師ヶ谷 (赤髪女)



 赤髪女は祖師谷大蔵の自宅に帰ると、郵便箱を見た。薄茶色い封筒が、無造作においてある。現金が入ってるとわかる厚みがある。

 金が届くとほっとする。

 と同時に、やはり少し怖いと思う。

 こう言うふうに、郵便受けに封筒が入るようになったのは今回が初めてなのだ。

 これまでは違った。

 振り込みでも郵送でもなかった。 

 例えば買物をして帰ってくるといつの間にか鞄の中に入っていたりする。路を歩いているとアスファルトの真ん中に茶色い紙袋が落ちている。目立つように。駅の文庫本のコーナーに、紙袋で置いてあることもある。それが何故か、自分の目に止まる。すべて、必要なときに絶妙のタイミングで赤髪女に渡された。

 しかし、今回は違う。

 こうやって郵便ポストに堂々と届く。

 違和感がある。封筒を取り出して中身を確かめながら、もし隠しカメラでもつけたら届けた人間の顔を知ることが出来るのだろうかと思った。すくなくともこの八年間のやり方では、そういう可能性さえ想像したことがない。

 仕事の信用が上がって、届ける手順が簡易化したのだろうか。社長さんの言う通りにもう八年もしてきた。社長さんはいつも言っていた。一生懸命にずっとやり続けるといつか何かが良いことが訪れるよ、と。

 今回のこのやり方になって、お金が増えたのは確かだ。サラリーマンみたいに昇格して給与が増えたという事なのだろうか。

 赤髪女は、万札を掴んで自分の財布に入れ直した。



五十一 思い出  (レイナ)

 

 トレーラーは、福島、茨城の太平洋沿岸を南へと進み、千葉の九十九里浜を過ぎた。少し先に街が見えた。海岸の街は勝浦という地名だった。

 昨夜から準備していた佐島恭平の服装に着替えると、レイナはトレーラーを降りた。街といっても、港町にJR 外房線の列車駅がある程度だろうか。駅前を歩いても人はまばらだったが、漁港の近くに飲食店が並ぶ小さな商店街があり魚市をやっていて少し賑わっていた。

 佐島恭平になったレイナはゆっくりとその往来を歩いた。

 元々、レイナと言う人間は街を歩くことが恐怖だった。

 佐島恭平ならば、少し楽になる。佐島恭平という人格は決して、街を怖がったりはしない。架空の設計と定義がそうなっている。レイナ自身を楽にしてくれるのである。

 勝浦漁港の商店街は短かった。

 少し歩ききったところで、店舗は途絶え、すぐに海が見えた。

 空が水平線に向けて薄白く雲をまぶし、視線の限界で海と重なっていた。

 ふと、今日の変装は不完全だと思った。佐島恭平であることを諦めてレイナは砂浜へ降りる階段に腰掛けた。雑念が脳に溢れている。

 人間関係。

 自分はどこかで人間を避けている。

 佐島になるのも、自分を誰にも見せたくないという恐怖心があるからだ。


(絶対に誰にも言えない過去があります。)

(今まで言わないできた秘密があるのです。)


 誰しもそんなことを言うような異常者を避けたい。

 異常な人間と関わって生きていくのは苦しいし、人間は不思議なもので、異常に触れると異常が芽生えておかしなことが始まってしまうかもしれないのだ。異常者は街の真ん中にいてはいけないのだ。人間はそれがわかっている。その結果、異常者は、周囲に自分の異常を隠し始める。過去の犯罪があればそれを隠して生きるし、常に演技をして正常な仮面の自分で生きることになる。

 節子さんと何度も話したことだと、レイナは思った。


(だめ。今日は、佐島恭平になれない。)


商店街のおしまいに、ちいさなレストランがあって、古い昭和の香りがしていた。飛び込みで入るとメニューにカレーライスがあった。

「カレーライスください」

注文すると、コーヒーを出すような手早さでカレーがやってきた。

 ゆっくりと、スプーンですくう。

 少し懐かしい味がした。


「単純で悩みのない人生なんてつまらないものよ」

カレーライスの味と一緒に、節子さんの言葉を思い出す。

「人間の一部分しか見ないようにしてると単純になれるのよ。思考をそっちに行かせないと決めちゃえば、楽ちんだから。」

「……思考停止?みんな、考えるのをやめてるの?」

「どうだろうね。でも、少なくはないかもね。」

「でも。」

レイナがいつもの話になろうとしたところに節子さんは先んじて、

「つまらない過去だったら一回忘れてみるのもいいわ。新しく別のことを始めてみるのも。」

「忘れるんですか?」

「うん。」

「無理してですか?」

「思い込めばいいのよ。演技みたいなもの。自分が生まれた場所とか、なんでもいい。自分の別の新しいものを描いてみるの。こんな素敵な性格で、こんなことに喜んで、こんなことを探しているって。思考停止しないで、新しいことを考えるの。」

節子さんは、何度となく、レイナにそう言った。激烈な過去について悩むレイナを見て、幾つかの配慮で生まれた会話だったのだと今は思う。当時のレイナは、

「新しく始めてみよう」

と、熱をもって繰り返す節子さんの言葉にはどこかで癒された。そうして、本当に、自分が始まるような気さえした。自分と言う人間に、全く違う眉毛と、髪の毛と、服を着せて違う人間の人格と気持ちになって生きる。買い替えたパソコンみたいに。


 いま、自分は男性の格好で、カレーライスを食べているーー。


「…自分がもう嫌なのなら、変えてしまうのもアリなのよ。」

「そうかな。」

「そんな気持ちで良いのよ。」

「……。」

「でもそれよりもっともっと大事なことがあるわ」

「だいじなこと?」

「ええ。」

「どんなこと?」

「そうね。あなたの能力の問題ね。」

「能力?」

「あなたには才能があるのよ。私にはわかるのね。」

「才能?」

「うん。その才能で何かをやってみてほしいわ。だって、あなたには才能があるから。」

「よくわからない。」

「まあ、焦ることはないわ。あなたは嫌かもしれないけれども、私はあなたの今が好きよ。」

「なんで?」

「過去に悩んでるのは悪いことじゃないから。過去を気軽に忘れてる人より、過去を悩みながら生きている人間の表情が私は好きよ。だって、その方がずっとおしゃれで今時らしくて、人間らしいんだもの。これは本当のことよ。それでも悩んだらまた変装すればいいのよ。悩んでる自分はそのままでいいの。変装してもう一つ楽しむのよ。」



五十二 秋葉原 (赤髪女) 



「一所懸命やっていれば大丈夫だよ。少しずつ良くなるから。」

社長さんはそう言って、赤髪女にこの仕事のことを教えた。もう八年も前から、変わらずに赤髪女は、この仕事を行ってきた。

「長く真面目にやっていれば、きっと人の評価が上がるよ。世の中はそういうものだよ。信頼されて、人の役に立てばいいんだ。」

「……。」

「あと、本を読むことだよ。」

「本?」

「読んだことあるかい?」

「興味がないです。」

「本は素晴らしいよ。」

「でも。」

「うん。社長さんも、若い頃は一冊も読んだことがなかった。ある時期から面白さを知るんだ」

「まだその時期じゃないのかな」

「無理する必要はないよ。でも、困ったら読むと良い。おすすめの本をプレゼントしておくよ。」

「なんて本?」

「たくさんある。ダンボールにいれて自宅に送ってあげる」

 社長さんは言っていた。


 たとえば、新聞紙が落ちていて、文字の何箇所かに赤く丸がある。

 その文字をつなげると、


 港区麻布十番X のY のZ


という住所になる。その場所に行くと、次の命令がある。電話はない。大抵、紙や封筒だった。文庫の古い本の時もある。古本を開くと何かが挟んであったりする。

 そういうことだから、赤髪女はこの仕事で人と会話をしたことがなかった。そこに人間が存在する感覚さえなく、仕事は常にゆっくりとしていた。金額も最低限だったから、覚醒剤を買うのは簡単ではなかったのだが。

 今回は違う。

 突然、電話がかかってくる。

 そこには細かい会話があり、ヘリウムの声だが人格めいたものが見える。そして何より金額が大きい。結果覚醒剤を購入する頻度だけが変化した。

 赤髪女は身震いを少しさせながら覚醒剤を得るために祖師ヶ谷の自宅から都心に向けて地下鉄を乗り継いだ。

 禁断症状のせいで、油汗が背中と腋の下に酷かった。

 駅の階段をあがると、青空が高くて遠い。秋葉原らしい赤と黄色の看板の色彩が青空の手前に見えた。

 嘔吐したくなるような感覚が自分を襲っている。

 それは、いつも突然だ。

 脳にぶつぶつと紫色の泡が始まりそこを毛虫のようなウジ虫のような生き物と、化学の強い石鹸が混じったような混濁が広がっていく。そこにはゴキブリの幼虫や、ウジもいる。

 そういう気持ち悪さが脳を覆っている。

 そこに、覚醒剤が入る。

 注射の後、一瞬にして全てが真っ白になり、まるで新しい太陽が輝き、遠く水平線まで真っ白に広がっていく。心が救われる。さらに、みんなが笑顔で赤髪女のことを話し始める。「ありがとう!」「ありがとう!」「あなたのおかげです!」そういう言葉が脳内に溢れる。

 覚醒剤は赤髪女の悩みを知っていて、知悉していて、それを解決するように脳を作り直してくれる。恐ろしいくらい完全な自分になっている。薬物が体に入っている間は、そう言う感覚があるーー。

 赤髪女は、後悔をしている。

 多分もう自分では、覚醒剤を止めることはできないだろう。


 大金を握りしめて、赤髪女は電気街の裏道へと歩いた。

 「取引所」がある、ラジオ関係の古いビルに入る。

 昭和の匂いが鼻に来た。

 五階の部品売り場に行く。売り場は、小さい蝶ボルトネジから、大きなユリヤ、部品も含めると、エンコーダー、IFT、真空管、それぞれが、屋台のスーパーボウルのように部品ごとの海になって陳列されている。

 お決まりの<ネジの海>の中に五万円を埋める。

 そのままその場を去る。

 エスカレーターを降りて一旦、下の一階までは行き、そのままもう一度同じ場所に戻る。金を入れた<ネジの海の底>に「取引」の品物が埋まっている。

 ネジの海に手を突っ込むと、金属の冷たさの中にぬめりとしたビニール袋の肌触りがあった。



五十三 続秋葉原 (太刀川龍一)


 学問の神様のいる湯島天神から、上野広小路を通って太刀川は秋葉原へと出た。すぐに電気街が見えてきた。


「…秋葉原の歴史は古い。

 江戸時代から火事の多かったこの地区に、秋葉神社(あきは)という鎮火の神様を静岡から呼んだのが始まりだった、という説もある。江戸庶民は、この秋葉神社のあった野原を、あきばっぱら、と呼んだ。つまり、今の東京駅や、神田や銀座界隈の当時からの繁華街とは違って、この辺りは野原が多かったのだろう。この秋バッパラ、がその後、明治になり、国鉄が通って、駅ができて正式名称は、あきはばら、となった。アキバハラでなくアキハバラと濁音を後ろに置いた。しかし百年程の時間を経て、多くの若者がこの街をアキバと呼びなおした。お上が、アキハと呼ばせたものを、庶民が幾度もアキバと濁し直すのが不思議である。アキバとは今時の若者の言葉なのではなく、昔の呼び方に戻ったようでもある。

 …戦前、ここにラジオブームが来た。想像できない人が多いけども、戦前はテレビがなかった。筆頭のメディアと言えば、ラジオと新聞だった。今、インターネットやテレビに人が集まる心理と全く同じように、ラジオや新聞という最先端メディアを人間は追い求めた。中には戦時中に連合国の短波放送を傍受して、日本の敗戦を個人的に予測したような人間もいた。そういうTechkyNerd はこの秋葉原で部品を集めたに違いない。部品から設計し、ゼロから作ってしまう。その心理こそ部品が溢れたアキバっぱらの真髄で、なぜか不思議と現代のスタートアップと酷似する。…新しい人間を集める香りのする秋葉原は、戦後の空前のラジオブームの担い手となり、GHQから睨まれることになる。マッカーサーが屋台禁止を決めて、大勢の露天商売が途方に暮れた時、とある人物が彼らの負債を一手に預かり、この秋葉原の国鉄ガード下を買い占め大量に移転させた。これが、秋葉原電気街の始まりと言われる…。」


 しばしば読み思い出せる一節だった。「闇市逍遥」という、戦後派の随筆だが、下北沢や、新宿東口、渋谷百軒店の文章も面白いのだが、この秋葉原に関して特に太刀川は好きだった。大学時代から、部品とか屋台とかの軒先を愛したし、仕事に行き詰まると、ラジオシティや、電気街の裏道を歩いて、二階三階を階段で上がって部品を見ては息抜きをしたものだった。そこには「はんだごて」の香りが時代を超えて漂っていて、いつ来ても「ただいま」と言いたくなるような懐かしさがある。太刀川は今でも日本の可能性は少しこういう指先に近い場所にあると思っている。欧米人の太く大きいガサツな指では作り切れない繊細な世界があるとも、思っている。

 竜岡門ビルディングの部屋にあった最初の頃のパソコンは、こういう部品を集めたものだ。独自の回線技術は通信を基礎から学ぶことや、サーバー構築の最先端をまさに手で学ぶことができた。単純な技術だが、触れておかなければその進化が何かもわからなくなる。たとえばムーアの法則で、処理の量が指数関数的に上がるということは有名なことだけども、ではそれがどういう部品によって実際増えていくのか、はこういう場所で組み立ててみないとわからない。ゼロからの組み立てが出来ない人間にものづくりは無理だ。スタートアップは人の作れない基盤をゼロから作った場合の利幅が最も大きい。

 太刀川は、竜岡門を訪れた後に良くある心地よい感傷のなか、電気街のビルに入り旧式のエスカレーターを乗り物にでも乗るように味わいながら、脳裏に自分の読書してきた言葉たちが溢れることに任せていた。



五十四 ラジオビル(赤髪女) 


 入手したての薬をトイレで直ぐに仕込むと赤髪女は気持ちが落ち着いた。

 背中や脳裏を歩く蛆虫たちは記憶の果てに消えている。

 さっきまでの苦しみなど嘘のようだ。

 五階からエスカレーターをゆっくり降りる。

 ラジオを作れるらしい、よくわからない部品たちが、金属の焼けたような工場くさい不思議な香りをさせて並んでいた。

 ふと、そのときだった。

 どこかで見たことのある人間がエスカレーターを下から上がってきてちょうど降りる赤髪女とすれ違った。明らかにテレビで見た既視感があった。

(最近はテレビでは見ないけども誰だったか。確か一時期テレビでよく見た男だが。)

その人物が醸し出す雰囲気は普通ではなかった。直感的になにか自分と同じ匂いを赤髪女は感じた。なんだろう。まさか、同じ五階のあの場所に取引に行くのだろうか。赤髪女はあの場所で同じように取引するかも知れない他の人間に初めてこのビルで出会ったような気がした。そういう確信があるような横顔がエスカレーターを上がって行った。

 それだけではない。

 何故か、その男と、どこかで会話をしたことがあるような気がしたのである。

 なぜだろう。テレビでしか見たことない人間なのに、何故か親近感と言うか、すでに<いつも>会話をしている相手のような邂逅があった。もしくは<幾度も>この男と自分が会話をして、気持ちが触れ合っているかのような感触があった。

 赤髪女には自分に生じる不思議な直感の出所がわからなかった。

 今し方の、覚醒剤が上質だったのだろうか。

 なぜだろう。



五十五 天現寺バー(銭谷) SSS1 →浅草からの文脈は?竹芝で降りたわたしは東京タワーの方角へ歩きながら仙台坂の方に折れていった。。。



「おひさしぶりですね。」

バー「Paradio」はまだ店を開けたばかりで客がいなかった。ニコルソンと、わたし達が呼んでいたバーテンはまだ健在だった。いやむしろあの頃の時間がそこに屹立(つった)ってるようにさえ思えた。やがて、名前も確認せずに何年も前のボトルを出してきた。まるで昨日のボトルのように。

 ジャックダニエルのボトルは埃被るどころか、綺麗な半円の艶を反射させていた

「清潔だな。」

「神経質なんですよ。」

まるで、長い時間不義理にしたことにも興味がない、というような風情で、最低限の言葉が使われた。ニコルソンは、頭頂部近くまで禿げ上げていて、それを隠さず逆に目立たせるようなオールバックをしてる。

「神経質か」

「ご存知かは知りませんが。」

「他人の性格には興味が元々ない。」

「ロックでしたね。」

客商売の愛想ではない。天性の非同調でもあり、どんな戦争が始まっても彼は思想で周りには飲まれないだろう。ジャックダニエルは少しだけ残っていた。わたしには酒を眺めながらまさにあの頃の空気がボトルの底に漂って映るように思えた。

 もう六年も前になるのか、と指を折って数えた。二課の金石と仕事終わりに飲んだのが始まりだ。安月給の刑事に優しい値段とまでは言わないが、捜査に行き詰まった脳味噌には贅沢な無駄が必要だった。渋谷とも上野とも違う、変化のある場所を求めた結果、また、わたしの足立区とは逆の品川方面に住む金石との仕事終わりは、このあたりがちょうどよいとなった。

 一課で殺人を担当するわたしと違い、金石は二課で知能犯を専門としていた。既に幾つかの巨大な経済事件で実績を重ねていた。六本木の連続死亡事件が起き、捜査一課早乙女主任の主導で、我々は捜査本部を組むことになった。今、早乙女がどう思ってるかは別としてそのキャスティングは絶妙だったと言えるだろう。

「ダニエル、ロックです。」

ニコルソンは、思惟の邪魔をしないくらいの声で、グラスを置いた。まんまるく削られた氷が夕焼けの太陽みたいに、ウヰスキーの琥珀の上に揺れた。

 

 六本木事件。

 わたしはバーの死角の闇を遠く眺めながら回想した。

 それは、世間的には二つの死亡事故だったはずだ。金石とわたしはそれに加えてもう一人の人間の死をあわせ、三つの死と向き合ったが一回その三つ目のことは枠外に置いておきたい。

 ひとつが、パラダイムの子会社社長の沖縄のホテルでの謎めいた変死とも取れる自殺であり、もうひとつは、若い女子大生の六本木の一室での変死だ。二つの死は、太刀川のパラダイムがまさに世の中を席巻していた頃に起きた。この若い東大出の鼻につく経営者は明らかに、時代の寵児だった。六本木ヒルズの別のフロアに彼は成功者の証のように豪邸を構えていたし、変死は強引な経営方針の反作用にしか思えなかった。事件が起きた時に多くの人間は、彼が何らかの犯罪に絡んでいる可能性が高いと感じた。沖縄で死んだ子会社の証券会社の社長に至っては、何かの隠蔽のために殺したのではないか、という疑惑もあった。たとえば反社会勢力との接点を消すなどの理由で。

 沖縄と六本木での死亡事故は、いかにもメディアが好みそうな事件だった。富裕層が集う高級な六本木ヒルズのマンションに出入り自由の女子大生やタレントと言うのも庶民感情からするとチャンネルを変え難い。防犯カメラはその階だけ壊れていたり、若い女子大生が死んだ部屋には、テレビに出る著名人や政治家、ベンチャー企業の経営者が何人も出入りしていた。その一人である証券会社の社長が、沖縄で滅多刺しで命を落とし、ところがこれは自殺であると、沖縄県警で処理される。

 そこまでは事件としては起こるべくして起こった、ある意味自然な事件だ。表現が正しいかはわからないが、不自然ではなかった。ただの事件だった。もしかすれば、政治家や上級官僚に関係する人間があの六本木の部屋や、証券会社の社長に接点があったかもしれない。しかし、そうだとしても自然な、わたしのなかでは想定内の事件ではあった。

 この自然な事件が、<或る時点>で潮目が変わる。

 沖縄、六本木と死者が出てから少しして、太刀川はパラダイム社を辞め、密かに株の売却を始めた。その売却が始まる頃から、何故か、報道全体が変化した。何故かそれまでの太刀川周辺の罪を暴くという熱気が消えていったのである。急激に静まった、というよりなぜか他の事件や、事故が相次いで気がつくと世の中が忘れていったと言った方がいい。有名なタレントの覚醒剤の逮捕が相次いだり、別の視聴率を取りそうな事件が気がつかないうちに報道を変化させていった。

 太刀川が会社の代表の座を失い、上場も廃止となる時も、メディア全てが取り上げるどころか、そんなニュースなど誰も知らなかっただろう。世の注目は別のことにあった。出る杭は打てるが、沈んだ杭を相手しても視聴率を取れないといえば、それまでだが本当に<それだけ>だったのだろうかーー。

「これこそが、やつの仕掛けた脱出作戦だよ。」

金石はそう言った。太刀川の助かるための仕掛けがこの変化の中にあるのだと、金石は確信めいた言葉で、このカウンターの席でそう話した。

 追い打ちをかけるように捜査本部解散の話が早乙女から降りてきたのはそのすぐ後だった。

 まさに、わたしと金石は、事件の裏採りを続けていたときだ。メディアが相手をしなくなっても、巨大な真実があれば再び振り向かせることができる。巨大な真実は小出しにはできない。全部を集めることが必要だ。

 あの時期、我々はほとんど毎晩このバーにいた。夜明け前の始発が走る前、世界が眠りに落ちるころ、誰にも邪魔されずに二人で話ができたからだ。

「銭谷、やはり世の中はクソだぞ。」

「くそ?」

「ああ。ひどいものだ。」

「警察ではなくて、世の中が、か?」

捜査本部の解散をするかも知れないという噂はあった。どこかで、予想の範囲でもあり警視庁の上層部の中に何かあるものを感じていた。しかし金石はもっと警察の外側まで含めて見ていたかもしれない。

「おろかな二世や金だけの人間がこの世の春を謳歌している。この不景気で未来も霞む日本で、だよ。税金も限界まで取ってだ。」

「金だけの人間は、いいじゃないか。自分で稼いだんだ。」

「本当に世の中に価値のある仕事で、稼いだ金ならな。」

「ちがうのか?」

「ちがう。」

「でもどうやって。」

「権力の側にいれば、なんだってできるんだよ。今日本の税率は50%だ。この国のお金の半分は税金がばら撒かれる。その金に群がるんだよ。なんでもできる。権力は情報の宝庫だからな。」

「被害者は納税者か。公金でこの世を謳歌する。」

「太刀川の周りはそんな人間ばっかりだ。みんな金だけなんだ。」

「金だけか。」

「むしろ太刀川のほうが、純粋かもしれないぞ。」

この世の中には庶民が見たくない闇がある。わたしもその庶民の一人だ。金石はその闇の中をしっかりと両眼で見ていた。暴露をする価値ある情報が集められていた。だから、本庁にすべてを報告できなくなっていった。

「すさまじいよ。全員が売国奴かもしれない。」

「全員ってことはないだろう。」

「いや、正義の味方は存在できない世界ってあるんだよ。」

金石は饒舌だった。わたしはあの頃、金石の語る闇を全て信じ切れていたわけではない。

「能天気すぎるよ、銭谷は。」

「そんなに世の中に闇があるのか?」

「闇の方は見えなくすることを何十年もやってる。戦前からやってるんだ。」

戦前から、という言葉が出る時はすでに酩酊している。金石は大きな体の割に酒が入ると、よく酔った。

「警察にも?」

「もちろんだ。でも警察に存在しない方が不自然だ。政治にもメディアにも財界にも、<歴史あるもの>には何にでもある。あえて言えば、ゼロから一代で成し遂げられたばかりの会社の方がまだ少ないかも知れない。」

「太刀川はそうじゃないか。」

「だから純粋かもしれないって言ってるんだ。」

「つまり、闇に飲まれる取引があったと?」

わたしが本質的な質問をすると金石は遠くを見た。そうだ。この席で。その表情だ。

「何らかの闇がある。その闇はずいぶん長く存在している。」

「陰謀論だな。」

「そうだ。でもメディアも権力の側にあれば、闇を隠す方針になるのが自然だろう?」

こういう会話は酒を煽り、お互い記憶に残らなくなるあたりで、最も饒舌になる。その証拠にわたしは金石のこのバーでの陰謀の言葉をさほど覚えていない、と思う。陰謀なんて、と頭から信じ込んで酒をかわしていたからだ。

今となってはそういう言葉でも良いから少しでも思い出したいとさえ思うことがある。

「信じられんな。」

「まあ信じなくても良い。闇を暴こうとするのはあまりにも危険なのはわかるはずだ。」

「ジャーナリズムというか立派な記者だっているだろう。」

「立派な人間は、出世しなくなってるのがわからないみたいだな。」

「信じ難いな。出世した立派な人もいる。」

「ちがう。本当に立派な人間は無理だ。」

「……。」

「いいか銭谷。逆なんだよ。」

「逆?」

「ああ。出世した人間こそが立派だというプロパガンダがあるだけだ。警視総監は自分たちより人間的に優れていると誰もが思い込んでいるだけなんだ。その尊敬心こそが、権力を安定させる。権力の正しさをみんなが信じる。本当に権力が正しいならいい。でも本当に正しい人だけが上に行っているのか判らないってことさ。<人事は隠れ蓑>にできる。」

 金石のいないバーのカウンターの木目をわたしはグラスで撫でた。ウイスキーの水滴が小さく楕円を描いていた。

 金石が刑事を辞める前日、いや当日の夜明け前ーー。

 我々は、このバーで、今私の座っている席の隣で、また明日、と言って別れた。

 何一つの説明もなく、一つの別れの言葉もないままだ。

 わたしは黙って何年も過ぎても味を変えずにいたバーボンを煽った。

 ニコルソンは銅像のような風情の男で、寂しく空虚を見ていた。愛想もなければ、会話も聞く耳もない。立ったまま眠ってさえいるようだったが、無駄な客の戯わ事よりも崇高で遠い地平を眺めるコンドルのような、禿げかたをしていた。

「つかぬことを訊くが、わたしと昔来ていた大男はどんなことを話してたか覚えているか?」

「覚えてませんね。下らない話でしょう。こんなバーですから。」

「くだらないか。」

「崇高な話をしたけりゃ、他に行ってもらった方が良い。」

「そうだな。」

わたしはその話題は追いかけず、ぼんやりと酒を飲んだ。そういう捨て鉢な独り言が似合うバーテンだった。





五十六 事務所にて(御園生)


 テレビ電話のレイナさんは自らの画面を出さずミュートしていた。

 軽井澤さんが、連絡をして、できる範囲で、つまり作業の片手間でも良いので、参加を頼みたい、と頼んだのである。それは調査が行き詰まった時にたまに使うやり方だった。

 我々は池尻大橋から戻り、風間の電話を待つべく事務所に向かった。マツダのキャロルを歌舞伎町に置いたまま事務所に戻るくらい急いだのだが、風間からの電話はいつになっても無かった。そのまま夜がやってきた。軽井澤さんと僕は少しずつ途方に暮れた。

 結果、レイナさんにも相談して対策をしようという話になった。レイナさんは快く引き受けてくれて、テレビ電話に参加をしてくれていたのである。

 軽井澤さんと僕は、一つ一つの葉書を並べ直し壁に貼り付けていた。


風間宛 A A C C E E K N O R S T U W

守谷宛 A A C C E E K N O R S T U W


風間の葉書と、守谷の葉書を、答えを合わせるようにアルファベットが同じものをAから順に、合わせる。

 宛先が風間正男宛のものが十四枚。守谷保宛のものが十四枚。そして、枚数が同じ時点で予想されたことでもあるが、一枚一枚並べていくと、宛先以外、全て同じだった。

 手書きのアルファベットの葉書を白板に貼り並べると、ますます不気味だった。今朝、歌舞伎町から始まった異常な時間が、軽井澤さんと僕との間に、暗く漂った。死体同然の男。不気味な病院。そうしてそれらが、猫の死体や風間という男の方角にもつれ絡まっていく。

「しかし、全く同じ、とは。」

「そうですね。」

「さすがに、この二人が何も関係がなく無関係と言う事はありえないですね。」

その通りである。むしろ関係がないと考える方が無理がある。

「しかしなぜ、我々になのですかね?」

僕は、風間と守谷は、何か我々の事務所に恨みでもあるのかと軽井澤さんに問うた。そうでなければ、こんな風に二人が同じ状況で一つの探偵事務所に関わる説明がつかないからだ。

「どうでしょうね。少なくとも守谷については、この葉書を我々に見せる意思はなかったですが。」

「そうですね。」

「ただ、表現は違えど、自分を攻撃する存在よりも先に、ある意味この葉書の出し主を調べろという主旨で我々に迫ったのは二人共通しているかも知れません。」

「……。」

「風間は明確にそうでした。守谷も、葉書ではないけれども、襲撃した人間を知りたいと言っていた。もしこの葉書を隠していたなら、風間と同じようにもう少し時間が経ってから見せるつもりだったのかもしれないですね。」

「なるほど、しかし。」

軽井澤さんのいう通り、この二人が繋がることは奇妙だった。安易に思いつくのは、この二人が元々何らかの利害関係者だ、と言うことだろうか。

 軽井澤さんはじっと僕の目を見たが、その後は何も思いつかない様子で空虚な室内を見まかせにしていた。パソコンの画面ではレイナさんが無言のままだった。ミュートで、顔も出していないが、こちらの声は聞こえているだろう。

「どうなんでしょうか。うむむ。」

「まったくの偶然、ということかもしれませんし」

「全くの偶然ですかね。偶然では起こりえない気がしますよね。」

「確かにそうですね。偶然に並ぶには文字列が多すぎますね。」

軽井澤さんは、そう言って頭を抱えた時、僕はハッとした。Googleが創業以来ずっと人間の行動を追っていて、利用者をある一定のカテゴリ分けをしてると聞いたことがある。例えば行動や過去が類似している人間を、一つのカテゴリーとして二人の人間を括ったりするようなことがあれば……。つまり、軽井澤探偵通信の広告がこの二人にだけ出続けたような。人間としてこの二人を「同じ穴の狢」と判断した結果などがあったりするのではないか。Googleの方針が稀に不気味になるという記事を昔読んだことがあるのを僕は思い出そうとした。

 その時、だった。

 軽井澤探偵通信社の入り口のドアが何も音を立てずに突然開いた。僕は、なぜか、昨日の朝に事務所の前にいた、赤い髪に帽子をした怪しい女性が飛び込んできたのではないかと一瞬思った。が、違った。女性ではなく太めの男性だった。坊主に近いパンチパーマ気味の髪型に古めかしい、今時どこで売ってるのかと思うような、銀縁のメガネをしている。フリーランス調査会社の米田さんだった。僕が入所する前から、軽井澤さんとの古い付き合いがある人で、レイナさんと同じようにフリーランスで業務委託契約がある。

「おや、これは。」

軽井澤さんと僕の表情が、だいぶ暗かったせいだろうか。米田さんは、我々の顔色と様子を改めて見つめ直した。

「ちょいと仕事帰りに、こちらのウイスキーでも舐めて帰ろうと思ったところだったんですが。お呼びでなかったからもしれませんね。」

身長百八十五センチ以上ある米田さんは、狭い事務所を更に狭くした。僕は行き詰まった思考が更に圧迫されるのを感じながら、

「僕らが困っていることをなぜわかったんですか?」

と、ちょっと若者らしく気を使った言葉を吐いた。軽井澤さんはそういう余裕のある表情はしていなかったが。

「あはは。そこまでの察知能力はありません。ただなんとなく虫の予感はしたかもしれませんがね。おお、これは、どうしましたか?」

米田さんは、改めて壁いっぱいに貼り付けられたアルファベットの葉書を見て驚いた。僕は、まさにこれで困ってるのですという顔をして無言で頷きながら、

「レイナさん、米田さんが今事務所に来られまして」

と、テレビ電話で参加しているレイナさんに伝えた。

「ああ、レイナさんですね。お疲れ様です。」

米田さんがそういうと、レイナさんは返事ではなく、チャットの上で、いいね!の、ボタンで反応した。

「ありがとうございます」

そうパソコンにお辞儀する冗談をさせながら、米田さんはじっと僕と軽井澤さんを交互に見つめた。その様子が普段とは違って随分おかしいのを感じ取っていたようだった。

「奇妙な葉書でも、集めてるんですね?クロスワードパズルか何かですか?」

「米田さん、僕らも結構困った状況なんですよ。」

「これはまた失礼いたしました。まあ、そうですよね。だいぶ行き詰まった様子はあります。なるほど私に今できることがあるか分かりませんが、脳みそをひとつ増やすまではできます。お呼びでなければいますぐ撤退しますが。」

米田さんは、元ラグビー選手だったらしい。その割に指先が器用な印象で細かい調査だとか我々が調べ切れない官公庁向けの様々な人脈を駆使して時として軽井澤さんを助けている。実は入所二年目の僕は米田さんが、彼の仕事をどのように作業しているのかは詳しくはわからない。なんでも、軽井澤さんが前の会社にいた時から、受発注の調査等をお願いしていた関係だと言う。時折高額の支払いがなされているのは以前から気になっている。少なくとも今回の案件はそんな予算がある仕事だとは思えない。守谷は一円も払わず詐欺にあったようなものでもあり、風間は前金を本当に軽井澤さんに渡したのか怪しい。

「うむ。ジャックダニエルの余裕はなさそうですね。」

米田さんは、いかつい顔をくしゃりとさせて笑った。巨体が揺れるようにして、狭い室内が軋むようだった。

 本当にただ酒が飲みたかっただけなのかも知れない。実際に事務所が空いているときに、たまにウイスキーが少し減っているのは米田さんのせいだろう。

 青山墓地のこの事務所は、鍵を玄関の外に並ぶ植木鉢の右から二つ目の下に置くルールになっている。軽井澤さん曰く、貴重品も何もないし、そもそも探偵事務所に盗みに入る人間はいないだろうとタカを括っている。

 事務所は窓だけが巨大だった。窓の横にそのまま薄っぺらい扉が付いていてそれが事務所の入り口である。本気になって泥棒が考えたらガラスをちょっと割れば全てのものが盗めると思う。もっと言えば外から見れば事務所の中身は丸見えだった。

 机を大きく取り、その周りにソファを二箇所置いていた。それと、北側の壁際に僕の作業机があった。東は大きく窓と入り口があり、南側の壁に白板がわりのシートを貼ってある。西側はほとんど使わないキッチンと、余った壁に、ゴッホの絵を飾ってある。もちろんレプリカの<夜のカフェ>の絵だ。


 僕は改めて、米田さんにこれまでの一部始終の奇妙な話を説明した。ところどころ、例えば河川敷で守谷の電話を受けた話などは、軽井澤さんにも手伝ってもらいつつ、正確に時系列に、歌舞伎町から、池尻大橋で何があったかを説明した。最初はおどけて聞いていた米田さんも、話があまりにも不気味なのを理解し、途中からは神妙な表情になった。ウイスキーも片手に持ったまま用意したコップには注ぐことはできないでいるようだった

「風間と、守谷。」

米田さんはつぶやいた。

「そしてこの葉書ね。」

「はい。合計二十八枚ですね。」

「これまでの印象としてこういうお客さんはあまりこの探偵事務所は集めていなかった印象でした。」

「はい。」

「こういうビジネスでしたっけ?」

そのコメントは少し鋭かった。軽井澤さんはその質問に答えるようにして

「いえ特に、具体的にそういう話と言うことではなかったのですが。今まではどちらかと言うとご近所の方々がネットで見て住所を頼りにいらっしゃることが多かったかもしれません。今回、わたくしのほうで事業拡大のためにGoogleの広告と言うのをトライしまして…。」

売り上げの為、Googleを使うという僕の主張を渋々受け入れたのが本当なのだが、軽井澤さんはそういう言い方をしなかった。

「なるほど。」

「まあ、Googleだけが理由ではないんだとは思いますが、立て続けに通常にない状況が続いています。」

「ちなみに、葉書は触ってみても良かったりしますか。」

「もちろん構いませんよ。僕らも触っているし。」

「いえいえその、警察だなんだで、指紋確認みたいなことになるのかなと思いまして。」

「われわれは探偵事務所ですからね。もし米田さんが指紋がまずいような過去を持ちでしたら私が机におきます。」

僕は冗談のようにそう言いながら葉書の一部を机の上に置いた。米田さんは自ら葉書に触ろうとせず、僕が逐一ひっくり返すそれを前のめりにじっと見つめて確かめていた。

「なるほど宛先は手書きなんですね。」

アルファベットの文字の方だけを見せるように壁に貼り付けていたから、その裏に記載された宛先の方を見ていなかった。米田さんは、風間正男宛てと守谷保宛のそれぞれの宛先がどちらも手書きであるのを見て驚いていた。

「なるほど。随分な鼠文字ですね。どちらも同じ筆跡なのは間違いなさそうですね。」

「そうですね。」

「確かにこれを見ると、この二十八枚に、全く同じ筆跡でこうやって宛先を書いているとすると、ちょっと尋常ならざる精神の持ち主に思えますね。今仰った歌舞伎町での襲撃も、強い怨念がこの葉書の印象線上にあるともいえます。なんとなく、これらが重なるのもわかります。」

米田さんが改めてこの手書きの宛先を見なおしたその時、

「あれれ。」

何か、少し違和感を感じた様子で、

「これってあれですか。葉書自体はいっぺんに届いたんじゃないんですね?」

「いっぺんに届いたんだと思います。それぞれの十四枚ずつ。」

「いえ違うと思いますよ。」

米田さんはそう言って葉書のうち二つを僕の手前で指さした。軽井澤さんはずっと元気がないのかタバコを吸って窓の方を見ている。

「みてくださいここ。ほら、日付が違いますね。」

「どういうことですか?」

「ここですよ。この日付」

ああ、と、思った。すっかり、抜けていた。葉書の、消印を見ていなかったのだ。消印には日付がある。僕は不気味な葉書のアルファベットばかりに目が行って、基本的なことが抜けていた。馬鹿だと自分の頭を殴りたくなった。

「軽井澤さん、すいません僕が抜けていました。すぐにここに貼り付けていたから。アルファベットの並びをどうするかにばかり注目してしまっていた。ああ、そうか。」

「御園生くん、米田さん。どういうことですか?」

話にやっと入ってくる様子で軽井澤さんは米田さんに問い掛けた。

「消印です。日付違いがあるんですよ。」

「日付違い?」

「ええ。日付が違うと言う事は順番を分けて、文字の順に送られたと言う可能性がありますね。」

 米田さんはそう返した。


A A C C E E K N O R S T U W  (アルファベット順)

? (送付日付順)


そうか。毎日一枚ずつ送られてくるのであれば、当然、その文字の順がわかる。僕は興奮した。軽井澤さんは、タバコを灰皿に擦り付けて消しながら、

「ごめんなさい、もう一度、説明頂けますか?消印とは、どういうことでしょうか?

「消印ですよ。例えばCの葉書は八月の六日の消印、ですね。でもこのW の葉書は八月九日になっています。えーっとこれはなんだろうこれはまた八月の六日、うむ六日ですね。あれ、六日と九日が多いなぁ。」

事務所の中では沈黙の中で葉書がカサコソカサコソと机の上で移動する音だけが鳴り続けていた。僕は米田さんが葉書の角に指紋だけをつけないように気を使いながら爪で動かすのを気にしながら、消印の日にちだけ見ていた。

 ふと窓の外を見るともうとっぷりと日が暮れて、青山墓地の崖の下には、真っ暗な闇が広がっていた。都会の真ん中とは思えない幽霊が出るほどの暗闇になるのが、この事務所の特徴である。



五十七 勝浦の海 (レイナ)


 軽井澤探偵通信社のリモート会議は行き詰まっていた。

 レイナは顔も声も出さずに耳参加にして、トレーラーの運転席から、目の前の夜の海を見ていた。

 南房総勝浦の海の闇が鳴っていた

 ミュートをしているから、こちらの潮鳴は届かない。

 軽井澤さんが幾つかの課題を整理して意見を語っている。

 彼との出会いがあって、もう六年にもなるのか、とレイナは思った。

 軽井澤さんとの仕事に感謝をしている。仕事を通して人と出会いがあり、たとえば米田さんや、御園生くんも含め、不思議な魅力のある人とも出会えた。人物調査やペットの捜索など、日々やってくる仕事はどれも味わいがあって面白いけども、実際に人間が人間と向かい合って、相手の魅力を肌で感じることが更に良いと、思う。

 だが、今回は少し、いつもの仕事とは違っている。いつもの探偵仕事は、このような暗さはないと思う。こんな不気味な葉書が出てきて、謎かけのようなことをやるなどはなかった。普通なら避けたい仕事に思えるにも関わらず、軽井澤さんを助けたいと言う仲間が集まり、知恵を使おうとなっている。かく言う自分もその一人だとレイナは思った。そうさせてしまうのが、軽井澤さんの不思議な魅力なのだと思う。

 夜の海は真っ黒だった。

 空に星が見える場所があり、見えない場所は雲が動いていた。月はどこだろう。波が強く打ち付ける音だけが、絶え間なく続いている。

 zoomの画面では引き続き、軽井澤さんらが深刻に語っている。不気味な、答えの出ないアルファベット。日常的ではない二人の男。猫の死体。左腕の切断。

 レイナの中で少しずつ懸念が増幅している。

 今回のこの仕事はあまりよくない方向に向かっている。

 狂気には、触れない方がいい。

 狂気は、狂気を呼ぶ。人間の中に眠る狂ったものを呼び起こす。

 本来狂ってもいない人間も狂わせてしまう。

 触れない方が良いのだ。

 レイナは軽井澤さんや御園生くんには従来の仕事に戻って欲しかった。もしくは、いち早く、この問題を自分が解決して二人を解放したいと思っていた。二人をなんとしても、狂気の周辺、風間や守谷のいる場所から遠いところに移動させたい。

 そういう否定的な気分の中で画面を見ていたとき、米田さんが消印の話をした。

 葉書は一度に送られたものではない、という。

 レイナは暗算を試みた。

 あっと、思った。

 八百億通りが二千万通りになる。

 加えてその文字数なら、スペルの問題を新しく設定できるかも知れない。

 MacBookで別の窓を開くと自ずと指がスクリプトを書き始めていた。

 


五十八 経団連重鎮(太刀川龍一)



その日の夕刻。

経団連副会長、江戸島X重工会長は太刀川龍一ととある銀座の寿司店にいた。

「その後、書けましたか?」

太刀川はそう言った。年長の男は少し照れて

「いきなりその話題ですか。」

「まあ我々は、そういう趣味人ですから。江戸島会長の方こそ、いかがですか。」

「まあ、なかなか。やはり仕事だなんだと、入ってしまうと、中々集中できないですね。」

「ですから、本当のことをやるためには、早く勇退されたほうが良い。いちおう、背任罪というのがありますよ。」

「背任か。ははは。利益相反はしていませんから。」

「それはどういう小説を書くかによりますよ。だって、青年時代に見た夢を物語にするとしたら、概念的には利益相反を起こしかねませんよ。だってね。この国、株式会社日本という国の筆頭株主は誰だかわかりますか。」

「またその話ですね。」

「はい。表向きは、江戸島さんらのような老人階層が筆頭株主なのです。表向きですよ。」

「はいはい。」

「若者は株主支配の構造も知らない。そう言う無知や知識差を株主支配層にうまく使われて、例えば戦時中には、鉄砲玉にされた。全体の効率を考えてね。」

「儒教の産物でしたっけ?徳川家康の功罪?以前も仰ってましたよね。」

「僕の会社『パラダイム』もそういう意味で、やられたようなものですから。この国の筆頭株主を知らずに何をやってるんだと。」

「チェンジオブコントロールが待ち遠しいと。若者が筆頭株主になるべきだというご意見ですよね、太刀川さん。」

「そこまではいいません。生意気な若者は排除されるのは時代の常だと思いますよ。でも、株主と経営者には適切に、国家の資産を使ってほしいものですね。この国には素晴らしい資産があります。土地も、海も、水も、自然も、人間も。どれも世界に誇れる。平成を停滞させた経済界の重鎮としてコメントをお願いします。」

太刀川はビールを手につかんだ。

「文学的にですか。困ったな。」

「まあ困らせたいんでね。はは。そんな感じで、まずは乾杯しますかーー。」

太刀川の文学趣味は、昔からのもので、理系でありながらそういう読書が好きなのである。江戸島と太刀川は不思議な縁で一連の騒動の前からの付き合いである。多くの人間関係が清算された中でこの二人の関係が残っているのはこういう歯に絹を着せぬ太刀川の会話を江戸島が孫でも眺めるように受け止めるからであるが、加えて二人の文学趣味も奏功しているかも知れない。

「まあ私のは、純文学を言い訳にしてますから。売れるのを目的にしません。」

江戸島会長は乾杯のビールを口にしてからそう言った。

「西友の堤さんは、大学の先輩ですかね。江戸島会長は文学部ですよね。」

「そうですね。」

「あの人も、経営者でありながら別の名前を持っていた。ペンネームを持って、生きるというのは、ひとつの人生の味わいを増すのかもしれないです。江戸島さんのペンネームを教えてほしいのですが。」

「それはお許しください。」

「内容も秘密ですよね。」

「いやまあ、僕のはまあ…。どこかにそっと、純粋な気分を残すくらいのことです。そういう言い訳を楽しんでるのです。」

「……。」

「さんざん、物を売ってきましたからね。商売に人生を捧げてくると、逆に、誰も見向きもしないような売れない物を作りたくなるんです。」

「そうですか。」

「商売人には、そういう人間は多いと思いますよ。売れなくていい、って言われると何を作っていいかわからんのです。売れるものを作るのと全く構造が違うから。」

「なんとなくわかる気はします。」

「なんだろうなあ。人気を得ようとする気持ちって、どこかで自分に嘘もつきますよね。自己否定というか、付和雷同というかね。顧客主義は、それはそれで良いことだけど、本当の自分と違ってくるような。」

「……。」

「それだけ過ぎてしまう人生の対処療法として、私は多少の文弼を趣味にしていると言うことです。」

「はい。認識しています。」

「そうだな。あなたには何度か話したか。」

二人は声を出して笑った。

「あの江戸島、経団連の重鎮が、書いた、純文学といえば、ある程度は売れますけどね。」

「それは嫌だ。それじゃ本末転倒なんだ。わかるでしょう?だから、ペンネームは教えたくない。」

「いいですよ。死ぬ前には教えて下さいね。」

「どうだろう。」

「困りますよ。死んだら会話できないんですから。」

太刀川はちらと寿司屋の主人を見た。寿司屋の主人は、随分若いので太刀川のことを江戸島会長の息子かと思ったというような顔をしていた。だが当の寿司職人は太刀川をどこかで、テレビで見たことのある顔だと思ったばかりで、それからは視線を避けていただけだった。

「死んだら、何もできなくなりますからね。」

「若いあなたに言われると、ドキッとしますね。」

「いえ。」

「……。」

「なんだか思うんですよ。犯罪で人が死んだりする時に、刑罰が軽すぎるなって。」

「はい。」

「死んだ人、被害者の方は、もう何もできない。殺し合いだったのならまだわかるけども、現在の死亡事故は、江戸時代の侍の決闘みたいなことはほとんどないですから。基本的に異常な人間が、正常な人間の命を奪ったと言う構造がほとんどです。」

「まあ程度の差こそあれそうかも知れませんね。」

「それなのに、江戸島さん、思いませんか?被害者が損をしすぎている。殺されて、さらには遺族はみんなその死を後悔しながら暮らし続ける。殺人犯は飯も食えて生き続け、まあまあな場合、刑務所も出て暮らせたりする。」

「……。」

「僕はあまりに不平等だと思います。だから本当の天罰がないのなら、復讐が必要にも思うんですよね。」

「復讐ですか。」

「はい。江戸時代はそういう仇討ちの設計があったと思います。」

江戸島会長は急に力んで太刀川龍一が話し始めるのを珍しいものを眺めるようにしてから、

「そうですね…。」

と小さく相槌した。太刀川もその間合いで目の前に寿司屋の主人が差し出した手巻き寿司を手にとって口にしたせいで言葉が続かなかった。

「景気はいかがですか?太刀川くん。」

「……。」

「ゆっくり食べてくださいね。」

「…いえいえ。まあ、僕は景気なんて関係ない身ですからね。」

「そうなんですか?」

「ぼくはもう散歩が仕事ですから。」

「本当ですか。引退だって世間は騙せても、僕の目は騙せませんよ。ちなみに、今日もどうされていたんですか?」

「いや、本郷から湯島のほうを散策しました。」

「ほう湯島ですか」

創業の地に行って、感傷に耽ったとは太刀川は言わなかった。

「キヤノン機関を見てまいりました。」

「キヤノン機関?」

「ええ。」

「どういう意味ですか?GHQのあれはたしか諜報機関でしたよね。戦後の日本占領時代の。国鉄の下山総裁謀殺論などのミステリーは読んだことがあります。」

「おお、さすがお詳しい。いえいえ、冗談ですよ。軍人のキヤノンはとっくに帰国してもう生きてはいないでしょうしね。見てきたのは旧岩崎邸ですよ。三菱財閥の邸宅が本郷に残ってるんです。」

「ああ。岩崎邸。そうですね。戦後財閥接収であそこは米軍のオフィスが入ったりしていた時期がありましたね。ああ、キヤノン機関は旧岩崎邸にあったと聞いたな。」

「ほんとうに東京は歩いて見て回れるものが溢れきっています。特に歴史周りは今の日本に繋がってて、体がいくつあっても足りないですよ。」

「旧岩崎邸ですか。岩崎彌太郎、彌之助兄弟ですよね。戦時中は、三菱商事や重工を躍進させたのは小彌太かな。」

「まあ、僕みたいなベンチャー気質は、創業して百年後の今の三菱より、明治の頃の伸ばしている時代に感慨がありますがね。」

「ベンチャー気質ですね。」

「まあ、経団連の重鎮のあなたには、わかりませんよ。ベンチャーが出てきたらいやでしょうから。」

「これは随分なことを。そんなことは行って欲しくない。」

二人は笑った。太刀川は、普通の若者が重鎮には言わないことを言う。この手の発言には、少しの不快が重鎮にはあるが、重鎮は重鎮らしく、大きく構えたい。結果、不快ではないのだという態度をとる。老人のこういう見栄と我慢が面白く、太刀川はしばしば、多くの財界人にこの手の言葉を投げつけるのである。

 この東証一部上場のX重工江戸島昭二郎会長は妙に太刀川のことを可愛がってくれている。こうやって定期的に銀座の高級店で生意気な反論も聞くのである。

「ふうむ。その湯島のあとはどうされたんですか?」

「秋葉原ですね。」

「ほう。あれですか、アイドルというか。」

「ははは。会長からアイドルなんていう言葉が出るとは思いませんでしたが。お孫さんがお好きだったりするやつですか。」

「いえ、私は子供はいないので」

「ああ、失礼しました。そうでしたね。私はさほどアイドルには興味はないのですが、秋葉原の雑然とした街並みは好きです。今日はラジオの部品を眺めてきたばかりです。」

「​あいかわらず、手ぶらの散歩が楽しそうですね。」

「ははは。厳密には手ぶらではない。これを持っていますよ」

太刀川は文庫本を見せた。

「ずいぶん年季入りですね。文庫本ですか」

「いえ。年季というか、新品で買っていないんですよ。」

「古本がお好きでしたね。」

「ええ。電子書籍が出た時に、実は、紙の本は無くなると思っていましたよ。ビジネス的にもいろいろ狙いましたしね。それが今、こうやって手で文庫本を持ち歩く幸せってのを楽しんでいるんです。人生わからないもんですね。」

「ほう。面白い。」

「本はデータだけでなく、物として手触りがある。物であることが価値を逆説的に高め始めている気がします。集中力というんですかね。自分が真っ直ぐ考え事に向かえるというか。本の世界観に入っていくには、スマホでは難しいものもある、と思うんです。」

「わかる気がしますね。」

「まぁインターネットから排除された私としては僻みのようにも思われてしまうかもしれませんが。そもそも論なんですがネットに繋がらずに本を読むっていうのは結構いいもんですよ。」

「僻みだとは思いませんよ。文筆業を志す小生としてはむしろ勉強になります。」

そういうと江戸島会長は豪快に笑った。白髪をオールバックにした、横顔に大黒天のような耳たぶがあった。典型的な出世型の人物である。



五十九 池尻の夜 (守谷保) 


 二人の探偵が帰ってからかなり長い時間、男は殆ど微動だに動かなかった。守谷と名乗った男は、池尻大橋の病院で伏せていた。

 この病院の院長が、風俗関係の業者と蜜月なのは、知る人ぞ知ることもある。なんでも院長先生は、派手好きで、若い頃からそういう不祥事を繰り返した人物らしい。自ら脛に傷があるせいで、様々な古い組織との連絡があった。そのせいで、院長が殆ど診察もしない今になっても、過去のさまざまな、正体不明の組織がこの病院をさまざまな形で利用しているのは、風俗関係者の末端である守谷も知っていた。

 とにかく融通が効く。接客時のトラブル、裸体で失神したような薬のトラブルなど客は当然事件にしたくはない。経営する側も、事件を起こしたり処理を誤れば顧客回復には苦労する。これらの突発的で多様な問題を、警察にも届けずに難なく対応してくれる病院は有難い。要するに、意識が戻ればいい。事件が起きなければいい。いや正確には事件が起きても警察沙汰にならなければいい。

 池尻病院ではこの種の問題にいつでも的確に対処がされた。だから守谷は自分自身がこうなった時も、さも仕事上での問題だという風情でこの病院にきたのである。これまでの経験上、さまざまの無理は効く筈だ、と予想した通りだった。自分を知るあの女医は明らかに気を遣っていた。守谷にではない。風俗の背後にある組織と病院のつながりをである。身分の照会などもないまま、女医は、薬を用意し、痛み止めをくれた。せいぜい不遜な客とのトラブルとでも思ったのだろう。しかし、腕がなくなってるというのに冷静な表情も変えなかったのには驚かされたが。

 少しだけ、楽になった。

 少し体が楽になると、守谷は、昨日からの出来事を思い出した。

 十四枚の葉書が来てから予感はあった。

 しかし逃げる場所は直ぐには考えられなかった。たいして金があるわけでもない。いまの仕事を失えば生活もままならない。身一つで暮らすことくらいはできるが、定職は楽だ。何より安定がある。それは失いたくない。

 しかし、葉書だ。

 あの葉書が、以前の、二十年前のものと同じ趣旨なのであれば命に関わる事になりかねない。

 実際にそういうことになった、とも言える。

 それにしても、なぜ今さらまた…。

 何かの手違いでまた、葉書が発送されたに過ぎないと思いたい…。

 昨夜は最悪だった。

 あいつらは雇われただけだろう。明確に指示があり、この俺に「あの当時のこと」を繰り返していた。あの部屋で行われたことを、だ。

 あのやり方。

 同じだ。

 あえてそうしている。

 長い時間をかけて、記憶の中から消したものを、ひとつひとつこの俺になすりつけ直す。あの当時と、内容は恐ろしく酷似している。正確に同じようになぞってさえいる。被害者の味わったことを正確に再現していた。タバコを焼付け、棍棒でなぐり、集団でそれをする。

(ちがう。俺は違うんだ。)

守谷は自分に言い聞かせるように言葉を集めた。

(俺が殺したんじゃない。)

俺は、一緒にいただけだ。組織の末端として加わっていただけだ。自分は何も主導していない。ただ、一緒にいただけだ。

 守谷は繰り返し自分に説明してきた言葉の中を彷徨い直した。三十年前のあの事件で人生の大部分を失った。その意味では俺は被害者の方のはずだ、と、誰に説明しても聞く耳も持たぬであろう言葉をまた繰り返した。

 あの葉書のことを改めて思い出す。

 今更カバンの中で見つめ直す気にもならない。アルファベットで葉書に書いてある文字は脳裏に言葉として並んでいる。記憶から消したものをわざわざ、思い返させやがって。。

(一体、誰が設計しているのか。)

全ては過去の闇からやってくる。

(やはり、被害者の父親か。)

体の回復が少し進むと共に、頭の中にさまざまな過去がよみがえる。甦らせたくない記憶ばかりが。

(いや、違う。その線はないはずだ。)

幾度も脳裏に繰り返された言葉が守谷でしかわからない論理をまとめ帰着しなおしていた。

 ふと、ベッドの横の簡易テーブルにペンがあるのが見えた。ポケットまさぐるとそこにあった小さなレシートがあった。

(ではいったい、誰が設計してるのか?)

 思うことを書いていく。

 自分の周りに、ひとり、ふたり、と。

 四人。

 捕まったのは四人だ。

 でも四人以外にも関与者はたくさんいたはずだ。

 我々四人だけが罪を受け、他の人間は名前さえ出されなかった。むしろうまく、逃げた。四人は人生を失った。いやもっと言えば、四人の中にも判決の差があった。

 天井を見る。部屋を見る。入り口のドアを見る。

 ふと、また、わけのわからない奴らが今そのドアからまた入ってくる気がした。

(理由はなんだ?)

(二十年前を繰り返す理由は?) 

 葉書の言葉が脳裏に並ぶ。

 やはり、今回もあの場所に確認に行った方がいい。

 葉書は少なくともそれを指示しているのだ。

 あの場所にいくのだけは避けたかった。

 


六十  続銀座 (太刀川龍一)


「江戸島さん、先日、警視庁に呼ばれたんですよ」

「ほお。また何かしたんですか?」

「失敬な。ちがいます。」

「でもまた。」

「いやね。あの事件が終わった後も、ずっと私を追いかけている刑事がいるんです。」

「へえ。それも執拗ですね。もう随分と経つでしょう。結局事件にもならなかったものを今もまだですか。」

「まあ、そうですね。」

「……。」

うっすらと、言っていいことといけない事があるかもしれないと言うような間合いがあった。どちらかというと江戸島の側が気を遣ったかもしれない。

「…まあ、ある意味変な刑事なのですかね。」

江戸島がしばらく沈黙してそう言葉を返すと太刀川は

「でも、立派だと思ったんですよ。」

と唐突に言った。

「りっぱ?」

「だって。全体の命令が終わってからも五年以上経ってまだ、当時の自分の確信なのか仮説なのかを失わす、何かをしようとしているのですから。現場として立派だという意味ですが。」

太刀川は言葉を曖昧に省略した。江戸島会長ともなれば、事件全体がきな臭かったり、なにか不自然だった部分は感じているだろう。あえてその周辺まで会話をしたいとも思わない。

「その刑事はとにかく古臭いんですよ。なんていうんだろうなあ。嫌いではないというか。」

「古臭い刑事ですか。」

「懐かしい感じともいいますかね。古い日本ともいうかな。ああいう頑固一徹のような人間は。組織には迷惑かもしれない。今みたいに同調圧力の強い時代こそ、ああいう奇人にも活躍してほしいとは思います。」

「なるほど。奇人なのですね。」

「まあ、江戸島さんみたいな経営においては同調者がしっかり動いた方が良いんでしょうけどね。そんな変な奴ばかりじゃやりにくい。」

「嫌な言い方だな。」

「はい。結局僕みたいなベンチャーってのは、同調では何もできないんでね。新しい地平線は非同調からなんで。そういうヘンテコな人間なんですよ。」

「物はいいようだな。」

「何だか目の前の物事に不満ばかりなんです。自分で嫌だと思ったら、黙ってられないというか。世の中的には困った者だと思います。」

大将が珍味の貝を、何かの説明をしながら置いた。警察絡みの話題になったせいか、二人とも会話の合間に料理の説明も上品に聞いた。

「ところで、太刀川さん。インターネットのない生活というのは、なかなかでしょう。」

「そうでもないですよ。」

「携帯電話もないわけでしょう?」

「ええ。人間関係は、会うだけです。」

「うむ」

「例えば、今日江戸島さんと次の約束をしなければ、もしかしたら永遠に繋がらないかもしれないですね。ネットで呼び掛けたりなんて絶対できませんから。」

太刀川は、そう言って笑った。

「そんな中で、太刀川君はその才能は何に使ってるんですか?」

「才能があるとは思いませんが。」

「いやあ、十分才能があるでしょう」

「まあ、株を売った金は多少あるので、幾つかやっています。」

「事業か何か?」

「いえ、事業は懲り懲りですよ。」

「それは本音ではないと思っていますがね。ああ、以前も慈善事業も手がけてると仰ってましたね。」

「そうです。むしろそちらがメインで、少しずつ成果が出ようとしてます。今は、脳関係の案件を面白がってやっていて。そう、そういえばX 重工さんにも参加いただきたいものがあるんですよ。」

「医療関係に?お門違いではないですかね。」

「いえいえ。こういうのは、製薬関係みたいに関係する業者だと馴れ合いにしかならない。常識を飛び越えると面白いんです。利害関係なく人間の常識でやれば良いんです。」

「常識的に、ですか。まあ、世の中の常識を疑うようなことも多いですがね、昨今。」

「そうなんです。どの専門も、外部から見ると驚くようなことばかりなんです。先ほどの昭和の警察官の話と同じですよ。組織はたいてい、闇を持ってるんです。だから慈善が本当に困ってる人まで届かないことが多い。」

「なるほど。」

「ひとつ、ぜひ江戸島会長この件は早々に打ち合わせをさせていただきたいのです。」

「もちろん、いつでもどうぞ。」

「会社に伺いますよ、次は。」

「そうですね。秘書に電話でも、あ、電話もないのか」

「はい。」

「すごい徹底ですね。」

「いえいえ。番号さえ覚えればメモも要らないんです。気軽なものですよ。そう何人も相手したくないですし。意外とアポなしで怒られることも少ないですよ。」

江戸島と太刀川の会話は尽きなかった。寿司がひと通り終わったにもかかわらず、酒も飲まず緑茶(あがり)で二人は語り続けていた。

 太刀川の会食は、二軒目に行くことをしないのを江戸島は知っている。過去の六本木の遊びに懲りたのか、もしくはそういう年齢を過ぎてしまったのか、太刀川は銀座の夜の街に繰り出す気配もなかった。

「遊ばなくなりましたよね。」

江戸島はもう少し飲みたかったのか、そういう言葉を太刀川に投げた。

「そうですね。まあ、色々ありましたから。」

「このあとは?まっすぐ帰るのですか?」

「秘密です。まあ、銀座のホステスとか六本木でシャンパンを飲むような場所には行かないですよ。僕もまあまあ忙しいんです。」

「貴重な太刀川さんのお時間を頂いたってことですね。」

「そうですよ。」

「ぜひ、慈善事業の方もお願いしますね。会長にはきっと面白いと思います。ぜひ早々に、お話させてください。」

「ええ。ぜひ。」

まだ二十時を過ぎたばかりだった。おおくの銀座の客がこれから次の店に行こうとする時間だったが、二人は気持ちよく別れの言葉を交わし始めていた。






六十一 ウィスキー(米田智幸)


 米田智幸は、寝落ちした二人の探偵を見つめながら、コップだけ用意したウィスキーを飲むことができずにいた。この為に駅からも遠い陸の孤島のこの事務所まで歩いて来たが目的は叶わなかった。

 レイナさんはだいぶ早い時間帯で、すでに画面から降りていたが、米田は残りその後も、あれこれと軽井澤さんと御園生君は議論を続けていた。そうしていつの間にか二人とも無言になり、その場で眠り出した。 

 軽井澤くん、の寝顔を見るのは久しぶりだった。

 米田智幸は懐かしく眺めた。

 放送局に彼がまだいた頃、初めて出会った十五年以上も前には、この軽井澤くんに、仕事を届けるのはメールやチャットではなかった。資料は封筒に入れ、手で持参して届けていたから、あの当時テレビ日本の六階の報道局フロアに行くのが常だった。徹夜明けで机で寝てる彼を幾度か見たものだ。寝顔でも人の良さが分かる、不思議な人間だった。

 調査会社にいた米田に、天下の放送局正社員である軽井澤さまが、テレビ報道で記事にするものの裏取りを頼むようになったのがことの始まりだった。大手メディアはその多くが外注主義で、米田のような人間が幾人も下請けをしている。放送局も広告会社も、その業者がひと回り安い人件費で下請けする事で急拡大する業務を支えている。

 軽井澤くんは、大企業にいる割には、自分の地位を鼻にかけない好感の持てる人物だった。幾つかの特徴の中で、その事が彼を象徴していた。仕事が変わった後もこうやって少し違った形で付き合いが続いているのは、そのせいかも知らない。

 軽井澤くんはテレビ日本報道局が誇る敏腕記者の一人だった。いや報道局御園生班と言えば泣く子も黙るスクープ班であった。あの頃の主だった事件の最前線で、死体の血が乾かぬうちに現場に来るのは、常に御園生班だと言われた。業者(フリーランス)や若手ではなく、あの二人が最強なのだという話を何度も聞いたのを米田智幸は思い出す。めちゃくちゃな仕事や調査を振られるけれど、それは最強であり一流の仕事の因果なのだ。だから、楽しかった。世の中でこの人たちと仕事をできる人間は他にはいない、という気持ちで仕事が出来る時は人生にそうない。

 その出世コースの軽井澤くんが、ベンチャー精神で新しい企業を立ち上げると言って、虎の子のテレビ局を辞めると言ったのは驚きだった。さらになぜ探偵事務所だったのかは未だ謎だ。GAFAだ、ネットだという時代の逆、テクノロジーとも程遠い探偵という事業の選択と創業については今でも疑問で、もしかすると経営の才能みたいなものはさほどなのかもしれない。いや、もっと奥深く崇高な理由があるのか知らないが、自分は詳しくはない、なにかがあつたのかもしれない。まあ、昨今の拝金主義的なものだけが許された時代に乗らないのも軽井澤君らしくて米田は好きだと思った。

 報道記者が経営者になるっていうのはあまり聞かない。やはり、記者は、ものを知ってるようで、経済の実態の外側にあるのかも知れない。溢れるジャーナリストのロマンチズムと、経営の算術を兼ね備えるのは、容易ではないのだろうか。

 そして何よりも、この机にうつぶせで寝ているもうひとりの人間、これがあの御園生さんの、息子さんがこの探偵事務所に就職したと言うのも、よくわからない謎だ。米田智幸は、直感で、二人にその事を聞くのは禁忌タブーに思えている。そのことは、むしろ軽井澤探偵通信社の最大の謎で、そして、軽井澤くん本人がそもそも探偵になったこと以上に謎に思えた。ただ、自分が、このことを根掘り葉掘り聞くような人間であれば、この二人と今のように付き合いが続いてはいないだろう。性格もあるがプライバシーのことには一切関わらない。軽井澤くんの出身がどこでそもそも結婚しているのかも知らない。そういうことは、当事者が話したくなったら、聞くだけでいい。せっかく仕事とプライベートが割り切れる時代になっているのだから。

 米田はウイスキーを味わえないまま、もう一度、壁面に貼られた葉書を眺めた。消印で一瞬だけ盛り上がったが、十四枚の葉書は六日と九日の二種類しかなく、文字が意味を持って並んでくれるような事はなかった。


OCCEETRN  ・・・六日消印

AAUKSW    ・・・九日消印


発見に興奮したけども結局それが解決につながらないとわかると、二人は眠気に落ちたようだった。 

 何か暗い、病的なものを感じることと、軽井澤御園生の二人がそこに、巻き込まれることと、の不安が、アルファベットの並ぶ筆跡を見ながら予感された。ミミズのような文字は、内容の不健康さ以上に頑強な執念と病的な固執を感じる。強い怨念ともいうし、長い間をかけて蓄積された自意識が発露しているとも取れる。どの文字もゆっくりと時間をかけて書いた筆圧で、単純に作業をさせられたような下請け作業の印象ではない。

 二人はGoogleの広告を入れたからだと(厳密には軽井澤さんはわかってもないようだが)言うのだが、米田には、それとは別の理由というか、何か暗い繋がりの予感だけがあった。二人の寝顔を見ながら、いくつかのことを思い返すと、米田は静かにドアを閉めて出た。一応鍵を閉めてお決まりの植木鉢の土の中に小さなその鍵を埋めた。




六十二 文字列  (レイナ)

 

 レイナは、ビデオコールを降りた後にスクリプトを書き始めた。 

 Macの画面に流暢な文字列が並んでいく。レイナが書いた命令文でMacが動く。ネット上にある、さまざまな物事を読み込んだり分類したりしていく。

 消印の日にちの違いがあったと米田さんが言ったが、八月六日が八枚。八月九日が、六枚と分かれただけで、御園生くんが期待した文字の並びがそこで見えるわけではなかった。御園生くんは少し落胆した声になっていた。八枚と六枚に分かれたところで、


TEECCRON AKUAWS


これを今すぐに手作業で文字列にする難易度は、消印の違いがあってもさほどは変わらない。

 ビデオコールから降りて、トレーラーのテーブルで温かいコーヒーを入れた。複数の人間でブレストをするのも良いが、ある程度行き詰まったあとは、会議を離れ、ゆっくり一人で考える時間がレイナは好きだった。

 気になることを調べていく。

 レイナはいくつかのアルファベット関係の暗号について調べていた。英語の参照記事をかなりの速度で読み込んでいく。レイナが気になったのは、葉書のアルファベットにCと言う文字が入っている点だ。C は日本語にはない。稀に文脈で使うこともあるけども、基本は存在しない文字だ。

 レイナはスクリプトの構造を考えながら、英語の文字列についての論文などを読み漁った。例えば、


「長い暗号を読み解く時に、


 E


 に注目する。

 何故か。

 英語では、Eの出現率が一番高いのである。

 逆にQが一番低い。地球が滅びて、石碑だけの星になった時、宇宙からの来訪者は、この星で一番使われた文字列である英語の石碑を見て、おそらく最初に考えるのは出現率になる。順番が決まっている文字列暗号の解読の基本だ。Eの位置を研究しながら、おおよそ二十六文字程のアルファベットの法則を考えていく。」


WEB上のテキストを数秒ごとに拾い、頭に入れていく。これを繰り返しながらその領域の知識を一定のレベルまで上げる。その上で、どういうスクリプトを実行すれば効率的になるか、ということを頭の中で描くのである。

 少し読み進め調べてみるだけで、アルファベットの領域は、随分と奥深いことがわかった。

 例えばそういう文字列解析の技術はたくさんあり、ベゼネル暗号のように第二次世界大戦ころには莫大な軍事予算を使って様々な研究がされている。実はその延長が、このインターネットのセキュリティに使われているということを知る人は少ない。そしてその基本がエラトステネスという紀元前のアテネ人が見出した<素数>に絡んでいると言うことも…。

 レイナは自分が楽しい気分になっていくのがわかった。パソコンの中の参照を重ねているだけで時間が過ぎてしまう。暗号関係は軍事も諜報も全て絡むパソコンの本質でもあり参照(レファレンス)と空想(イマジネーション)を繰り返すと限界がないのだ。

 そういう楽しい気持ちを抑えてーーレイナは参照記事をMacの外枠に外した。

 軽井澤さんの憂鬱な表情が脳によぎる。

 一旦、軽井澤さんの仕事を進めなばならない。

 書き込んだスクリプトの実行を一旦開始しよう。


六十三 間諜   (人物不詳)


「うむむ。さて、お前たちは、うまくいったのか?」

「ええ。流石に五人も使えば手も足も出ません。しかし」

「しかし?」

「奴は消えました。」

「消えただと」

「はい。新宿の部屋から」

「どういうことだ」

「どうも協力者がいたのかも知れません。」

「守谷に?」

「守谷というか、あの男にですね。はい」

「あんな人間に、協力者などいないだろう。」

「そうなんですが。」

「どんなのだ」

「いや、それがよくわかりませんが。その我々の顛末を抜かれてるかも知れず」

「抜かれてる?」

「録音、ですね。」

「どういうことだ。失策か。」

「電話がかかりっぱなしだったんです。」

「なんだそれは?」

「まあ、ご指示いただいたことは対応できております。ご安心を。

「……。」

「細かく再現させておりますよ。タバコの根性焼きから、なんでしたっけ、若い人間に細かく指示してますから…」

「で、その場面を抜かれたのか。」

「まだわかりません。しかし、相手も相手で」

「どんな相手だ?」

「番号で調べたんですが、探偵のようでして」

「探偵?」

「はい、調べたのですが、南青山にある探偵事務所です。」

「まさか。」

「はい。軽井澤探偵通信社というところに抜かれている可能性はあります。なにしろ守谷の電話が部屋の隅で繋がりっぱなしだったんですから。」



六十四 覚醒の最中 (赤髪女)


 優しげな言葉が聞こえる。

 目の前にいないのはわかっているのに、言葉だけがはっきりと優しく。

「ちゃんと仕事をしていれば、ゆっくりと、昇格をしていくんだよ。」

それは社長さんの懐かしい声だった。たしかに社長さんは最初そう言っていた。真面目にやっていけばいい。そうするといい話がくるのだよ。いつかそれがわかる日が来るよ、と。

「いい話?」

「そう。少しずつ、よくなっていく。真面目に一つ一つコツコツとやっていくのが大事なんだよ。そうすると、少しずつ上の位置にいけるんだよ。」

「社長さんみたいに?」

「私は違うけどね。」

「社長さんは違う?その仕事は、何のお仕事なんですか?」

「大切な仕事さ。芸能界の仕事ではないけどね。」

「私はそんなに芸能界好きじゃないんです。」

「そうみたいだね。聞いてるよ。アイドルは嫌なんだろう。」

「はい」

「握手が嫌かな?」

「いえ。そもそも、人前も嫌なんです。」

「ははは。だと思って、仕事をご用意させていただいたんだよ。」

「……。仕事、ですか。」

「若いうちはいろいろなことをやっておくといいんだ。」

「はい」

「生きていくには、ある程度のお金は必要だよ。」

「そうなんですね。」

「そうだ。でないと、女の子は、水商売だとか、自分を安売りすることになるからね。そうやって、自分の可能性を失っていくより、少しでも良いから、安定した仕事をしたほうがいいんだよ。」

社長は丁寧に丁寧にいつも教えてくれた。大好きな社長だった。八十歳を過ぎていて人生の最後の様な表情でいつも赤髪女を優しい眼差しで見つめてくれる。長く病気を抱えていて、いろいろなことを考えていたんだろうなと思う。もし社長が生きてさえいれば私はこんな風にならなかったのかもしれない。



六十五 最初の悪夢(軽井澤) 


 それはとある監禁の場面でした。わたくし軽井澤が、何故か監禁をされていて大勢の目出し帽の男に部屋から出れぬようにされています。今は全身を縛られていて身動きは取れません。

 一見、歌舞伎町のあのマンションを想像しましたが窓の隙間の外に辛うじて見えるのは民家です。そこはまだ昭和の香りのする一軒家の二階のような部屋でした。

 悪意を堂々と隠さぬ人間たちに囲まれる恐怖は酷いものでした。一人きりで大勢の罪人、犯罪者に向き合うことの尋常ない恐怖にただ焦りました。誰かが昔言った、人間は人間が一番怖いのだと言う話を、強く思い出してます。

 ただこれは、現実であるようにも、非現実的な夢でもあるようにも思われます。いや、わたくしは夢を見ているのではないか?事務所で寝落ちしたのではないか?まるで夢を夢として理解しながら、その夢から覚めずにそっと身を任せる感覚でわたくしは傍観しているのかもしれないと感じました。あまりに現実とは思えない状況だったからでしょう。

 目出し帽の男たちは、やがて、私刑をはじめます。

 わたくしは叫びます。

 辞めてくれ、辞めてくれ。

 凄まじい力で、わたくしの身体は押さえられ身動きは取れないばかりか、不都合に動いた場所には容赦のない鉄パイプなどでの殴打が入ります。骨を打つ音と、激烈な痛みが夢でありながら全身に伝わります。吐き気がきます。

 それらの悪魔の時間が続いていくうちにだんだんと最初は夢か何か冗談だと思っていた自分が、ほとんど現実にこれが行われているのだと言うふうに変換していくのか分かりました。殴られ犯されるひとつひとつそれぞれが、現実の信憑性を高めていくのでございます

 しかし、です。

 しかしながら、です。

 一つ不気味な気がするのです。

 おかしい、と思うのです。夢であるということ以上に、この場面を何故か、わたくしは何処かで見聞きして知っているのです。知っていてそれでいて何か蓋をした記憶のように脳のどこかの抽斗(ひきだし)に片付けてあるのを知っている。

 つまり、映像は、外部からではなく、どこかわたくしの内なる自意識からやって来ている。幾度となく脳が経験したものを、再生しているような感覚さえあるのです。

 類似したドラマや映画の回想なのか?もしくは誰かに聞かされた物語か何かなのか?わかりません。しかし、わたくしはこの自分がまさに今ここで侵される私刑を予測しているのでございます。この恐怖は、これから何をされどういうふうに扱われるのかを「既に事前」に教えられて、「その事を知っている」かのような恐怖なのです。そしてもっと恐ろしいのは、そういうことを知っていながら、自分がそれを忘れようとしたと言うことも知っているのです。恐怖で精神が辛いので、日常の生活に思い出せないようにしていたような、そういう脳裏の空白地帯からやって来るのです。

 身体中を縛られ、目隠しをされると大勢の不気味な男が代わる代わる、わたくしに、タバコを押し付け、棒で殴り、服を破り、言葉では書けぬようなことをして、わたくしを凌辱していきます。

 悪夢です。

 しかしそれは非現実の夢です。それもわかっている。あえて言えば、過去の何かがつながり合いながら、わたくしの脳の中で再放送されていく、という感覚でしょうか?

 再放送。

 放送?

 その時、一瞬、私の脳裏に深く深く刻まれていた全く別の領域の何かが産声をあげるのです。そこにある人物がいます。それは私より年長の、人物です。

「映像使用認めてないだろ!止めろ!きさま!家族を殺された、被害者の気持ちを、考えたことあんのか?」

重低音の如く、別場面の声が、伴奏をしているようです。その人物の声が響く中を、わたくしは繰り返し私刑を受け続けます。

 夜が訪れ、また朝がくる。日中がくる。そしてまた夜が来る。食う物を食えず衰弱します。夢の中で幾度も朝が繰り返されます。一週間、二週間と過ぎ、自分が殺されていくのだと、思っていく。

 そうして目が覚める程度ならばわたくしはこのことを申し上げませぬ。過去のわたくしのササクレを集めた夢の一つ一つ語るには及ばぬ。そんなことを申し上げたいのではございませぬ。

 問題はその後なのです。

 ふと自分のことを鏡で見ることができる事に気がつきます。

 自分が何かの力を工夫さえすれば、そちらに抜け、脱出できるような予感がします。窓の近くに鏡があり、うまく体を捻ればそこに、抜け出せるようなのです。まるで自分の体を置き去りにして、幽体離脱して部屋から抜け出るような感覚とも言いましょうか。これはシメたものだと思い、私はそこから、厳密には体をおいて、眼だけ抜け出していきます。

 そうして、うまく脱出し、元いた自分の姿が見えるように、振り返りますーー。そうしてわたくしは、その姿を見て唖然とするのです。

 リンチを受けている人間の姿は、恐ろしいことに私では無いのでございます!

「紗千!何でお前が??」

恐ろしいものをわたくしは見させられるので御座います。この陵辱され、私刑され続けるこの身体がよく見ると美しい少女であり、他ならぬわたくしの溺愛するたった一人の愛娘なのでございます。同時に、よく見るとなにか窓ガラスの外には誰かが、陵辱されているこの少女自身を愛して止まない誰かがいて、人間とは思えぬ形相・顔面で狂ったように暴れています。

 それは、分断した国境線の鉄柵の向こうで、自分の娘の処刑されるのを慟哭して鉄条網にしがみつく、人間の父親の有様でした。そしてそれが、なんとこのわたくしの顔面ではありませんか?凌辱されてたはずのわたくしの骸が外にいて、わたくしの娘の紗千が私刑を受けているのです。そしてその紗千の父親であるわたくしは何も出来ずに狂人のごとく叫んでいるのです。その阿鼻叫喚の苦悶の表情の、恐ろしさと言ったら……。

 わたくしは、あのように恐ろしい人間の顔面を見たことはございません。それが他ならぬこの自分自身の顔面と知りながら、恐ろしくて見ることもできないのです。

「殺すなら、この俺を殺せ!娘は解放しろ!早くしろ、殺すなら俺を殺せ!!」

その鬼の形相をした「わたくし」は怒鳴り続けます。夢の中のはずですが、自分でもわからない。わたくしは何もできません。ばかりか、逆に犯罪者たちは囁くのです。

「この手順にお前は覚えがあるだろう?」

目出し帽の男達は嗤いながらわたくしに語りかけるのです。

「覚えがあるだろう?」

「……。」

「いいか?お前は被害者になるのだ。知らぬ存ぜぬではなくなる。第三者ではない当事者になる。そのことで、本当の理解が叶うんだ。」

「……。」

「お前が求めたことが、こういうことだったはずだ。」



六十六 埋立地  (守谷と名乗った男) 




 守谷と呼ばれた男は塩臭い海風を吸った。

 その場所は最初、夢の島といわれていた。島はゴミを捨てる場所だった。東京湾でハエが大発生し、異臭騒ぎがあったがそれはゴミを無差別に捨ててきた結果だ。夢とは名ばかりの島だから誰も近づかなかった。

 そのゴミの印象こそがかつて<埋立地を目指した>理由だった。川だと近すぎる。不安が残る。しかし東京湾の沖で、ゴミを集めて土に埋めてる島はいかにも罪悪の痕跡を消し去る期待があった。

 守谷と呼ばれた男は夕暮れを待って池尻病院の部屋を出た。私刑で犯された全身が痛んだ。片足を引きずるようにしか歩けず、鉄の棒で穿たれた下半身がきつかった。駅までの道のりがこんなに遠いとは思わなかった。池尻大橋から田園都市線に乗り、案内や地図を色々と調べ、渋谷から新木場までりんかい線の直通があるのだと知った。新木場駅へ降り立った頃には夜は更けて、人もまばらであった。






 <東京湾から渋谷界隈までの簡単な地図(挿絵作成中)>







 埋立地と言っても広い。

 細かい場所は思い出せない。

 ただ、大まかな区画と道路の設定は変わらなかった。二十年前に、刑務所を出た後<再び>行った時の記憶とはほとんど変わらない。<最初>に行った時とはまた違う印象であったが、そもそも<最初>に行った時の記憶は暗闇の中で陰ってしまってよく見えない。

 新木場駅からその場所はさらに遠い。海へ向けて歩いたが、痛む全身が辛くなった。

 すでに夜だった。

 大都会の喧騒とはまた違う。埋立地の不気味な海潮音や工業用地をいく車の雑音が冷たかった。

 懲役に行く前、三十年前、<最初>この場所に立った時、守谷はまだ未成年の少年だった。このあたりで必死に地面を掘った。ゴミで埋立てられた土壌にホームセンターで買ったスコップで穴を掘った。やはり記憶は暗闇の中で、光がなく、その前後をおもいだせない。恐ろしいことをしている感覚は、既に麻痺していた。ただ人間関係の中で、自分が捕まらないためにはとにかく深く掘らねばという気持ちだけだった。深く掘れば捕まりにくいという感覚は残っている。

 あの時の記憶が蘇る苦しさと昨夜からの現実の激痛とに耐えながらしばらく歩いた。闇夜の中にゴミ処理場なのかコンクリート処理などの工場なのかわからない建物が立っている。その前の道が海に向けて行き止まりのT字路になっている。

(ここだ)

 男はゾッとした。

 覚えている。

 偶然と言うには恐らく嘘が混じる。守谷は忘れたつもりであっても、何一つ忘れられず覚えていたのだ。三十年前自分達が穴を掘った場所を。そして二十年前に今と似た心理で再び訪れた場所を。

 生唾を飲みながら、足を引き摺りながら、守谷は歩いた。

 漆黒の夜で、あたりには照明がなかった。人間のいない暗闇が広がっている。

 目の前のアスファルトの地面に光っているものがある。それは殴り書きに書かれたネズミ文字だった。



殺順

逃亡者殺ス

傍観者殺ス

仲間ヲ私刑許ス

仲間ヲ殺ス許ス



文字は二十年前と変わらなかった。心のどこかで守谷は予想をしていた。時間が解決できない同じ怨恨が二十年過ぎた今も変わらずに動いているのは確かだ。やはりそういうことだったのだ。

 周囲を見回すうちに守谷は呼吸が苦しくなるのがわかった。一度文字列を確認すると、急いでまずはその場を必死に去るしかできなかった。

 


六十七 間諜 (人物不明)


「だれだ、おまえは?」

「ようやく電源を入れたな。」

「なんだ、この変な声は?ガスでも吸っているのか??」

「まあ、関係者とだけ言っておこう。猫のにおいは取れたか?」

「まさか。おまえは?ちょっと待て。お前は一体誰だ」

「ははは。質問が先とは、いい身分だな。」

「なんだと?」

「いい身分だと言ってる。すばらしいよ、風間さん。」

「なにがだ。」

「とぼけるな。」

「とぼけてない」

「ずいぶん、余裕があったものだな。」

「知ったこっちゃない。余裕などないぜ」

「安くはないだろう。探偵を雇うのは。」

「なに?」

「探偵さんとは、どういうご関係だ」

「……。」

「探偵には、何を話した?金はどうした。」

「…しらん。」

「そんなことを、誤魔化せると思うのか?今夜の閨所はどうだ?探偵を雇うようには思えないぞ」

「……。俺のことを知ってるのか?この携帯を辿ってるということか?」

「寝屋だけじゃない。どこをどう動いているのかも知っている。そうだろうな。何度も確認したくなるくらい、怖いのだろう。考えたくないはずなのにな。昨日はわざわざ埋立地まで見に行った様子だからな。」

「……まさか。」

「まあ、逃げても何も解決はしない。そのことは知っているだろう。」

「……。一体、何が目的だ?」

「まずは、最初の質問に答えろ。探偵には何を話した。」

「な、何も話していない。大したことは話していない。」

「大したこと話していないなら、どんなことを話したのだ?」

「…葉書の主はあんたか?」

「質問に答えてから質問をしろ。」

「大したことは頼んでいない。」

「ふむ。まあいいだろう。質問を変えよう。逃げ続けるつもりなのか?」

「なに?」

「逃げることが危険だと、わかってるだろう。」

「……おまえは誰だ。」

「逃げ道などない。おまえが探偵を雇おうが、なにをしようがだ。むしろリスクだけが増えている」

「……。」

「胸に手を当てるがいい。」

「……。」

「何を迷う。簡単なことだろう。逃げずに先制攻撃をすればいい。あいつはまだ綾瀬にいる。」

「…誰のことだ?」

「とぼけるのが本当に好きなようだな。これ以上しらばっくれるならこちらも考えるぞ。」

「いや、違う。まさか、あんたは。」

「……。」

「お、尾嵜のことを言ってるのか?」

「そうだ。」

「あんたは誰だ?奴は…綾瀬に?」

「堂々たるものだよ。ずっと住所も変えていないのだ。同じ家に住んでいる。連絡先を調べる必要もないだろう。」

「そうか。あんたは随分詳しいな。」

「お前の手助けをしてるだけだ。あとは行動をすればいい。奴がどうなったって、誰も悲しむ人間などいないだろう。」

「しかし。」

「別に殺さなくてもいい。文言は読んだだろう。ただ危害を加えればいいじゃないか。」

「あんたは誰だ」

「質問に答えろ。誰かが死ぬか、瀕死にならねばならない。そうだよな?」

「……。」

「助かりたくないのか?」

「……。」

「あいつが、逃げようとして私刑にあったのは聞いたか?」

「……。あいつ?」

「とぼけなくていい。片腕を切断されたようだ。」

「腕を?」

「分かるだろう?逃げないほうが良いということが。逃げたやつにこそ、地獄がくる。そうだろう?前回、二十年前に何があったか思い出すが良い。」

「しかしそれは…。」

男の声は、反論をしようとしたが、遮るようにヘリウムの声は続けた。

「何、簡単なことさ。お前らのうちの誰かが、つまり。」

「誰かが、死ねばいいということか。」

「わかってるじゃないか。主犯格の尾嵜に死んでもらうのが、世の中の納得ともいうものだろう。それを誰が行うかだけの問題だ。」

ヘリウムの声がそう言ってから、電話は長い沈黙になった。しかし、風間と名乗る男は、その後もただ怯えた言葉だけを繰り返すばかりだった。ヘリウム声の男は苛立ちを隠せなくなって、あれこれと脅しの言葉を続けたが風間を名乗る男は、挙句には

「お、俺は、もうたくさんなんだ。もうこんなことに関わるのは。もう十分だろう。俺だけが悪いわけじゃない。」

という言葉になった。

「おまえのような人殺しが、今更何をいう。一人殺すのも二人殺すのも同じことだろうが。」

「……。」

「人を使ってもいいわけだ。探偵では逆だろうが。」

「…あんたは、だれだ」

「誰かは関係ない。とにかくだ。逃げるならば、後悔をすることになるとだけは言っておく。」

電話はそこで切れた。


六十八 スクリプト(レイナ)


 レイナは画面を見ながら首を捻った。

 風間と守谷に関する、令和三年から元年までの三年分のSNSや記事の収集は完了した。さらに平成の時代にも直近から遡り1000日ほど検索・収集をした。平成三十年、二十九年、二十八年の三年間である。しかし結果は、思うように進まない。問題の風間と守谷の二人は少なくともこの六年間のネット情報では犯罪者という可能性は限りなくゼロに近い。ネットの結論は明確だった。

 あくまで三年分を遡っただけの現状のデータとはいえ、風間と守谷には全く事件・犯罪性がない、というのはレイナの中では想定外だった。この点は軽井澤さんや御園生君とも同意見で、あの葉書には強く復讐の印象があるし、過去への強い怨念が顕在する。殺人や強姦の犯罪歴を、レイナは想像していた。しかし直近六年ほどのネット記事の収集では、それらは結果は出てこない。

 普通犯罪者は何かの書き込みを受けるものである。多くの受刑者は刑務所を出た後も掲示板を賑わす。インターネットは罪のあり方を変えた。犯罪者の掲示板はネットのコンテンツの一角を担っている。残忍な犯罪の手口や状況の再現、それを許さぬ小市民のコメント、が応酬するだけで十分に人が閲覧するコンテンツなのである。

 レイナのMacBookは最大速度で計算を続けている。少なくともあと1日もすれば平成の残りの時代まで、ほぼ読み込めるはずだ。現時点では、まずは計算を待って、それから考えを整理し直すしかない。

 だが、一点だけ、気になることがあった。

 機械学習がある全く別の事件について提示をしているのである。その事件の犯罪者が風間や守谷だ、という風にではない。関連性、という部分だけでとある事件をMacBookは提示している。何の材料がその古い事件を呼んでいるのかは不明である。計算の根拠も、アルゴリズムもわからない。

 レイナは首を傾げるしかなかった。

 というのも、その事件は既に犯罪者は確定していて、その受刑者たちと、風間も守谷には関連が一才ないのである。



六十九 バーにて (銭谷警部補)


 

 わたしの顔に書いてある何かを読み取ったのか、ニコルソンは厨房へ消えた。

 客のいないカウンターでわたしは一人になった。

 午後のうちに来ていた石原からのレポートを官製の携帯電話画面で読むことにした。読み始めるとわたしに朗らかな興奮がきた。お世辞ではなく、それはしっかりとしたものだった。まず作業量があった。様々なことを時系列で調べてあり自分なりの整理を順番に設定してあった。その上で自分の中で仮説を持っていた。仮説はひとつだけではなく二つ三つ四つとあり、そのどれもが具体的だった。ただ、隠密の捜査であることを意識してか、主語や固有名詞はことごとく省略をしているせいで用言が苦しそうだった。わたしはできるだけ早く、今日秋葉原で買った私用の方の携帯電話の番号とアドレスを教えなければならないと思った。

 ウィスキーを頬張るように味わいながら繰り返し読む。

 そこには今後、彼女自身がどう動くかがこれも具体的な主語を省きながら書かれていた。ただ省略していても、方針が具体的なのは明確だった。仕事を進める意思が明確なのである。レポートの後半はスケジュールや時間の配分の計画が書いてあった。霞ヶ関の本業との兼ね合いもうまく整理されており、早速明日から週に四回もの頻度で、早朝に動くと書いてある。主語はないが、太刀川を早朝から尾行したいという意味であろう。一人で幾度も尾行すれば顔バレするぞ、とわたしは素直に思いながら、最近わたしを襲いがちな絶望とは別の方角に明るく自意識が広がるのを感じた。

 返信で少しの御礼と、明日はよろしく頼む、と官製の電話でできる限りのメッセージをいれた。

 しばらくしてから、わたしは行けるようなら参加する、と追加で記載送付をした。実はどこかで今日、この天現寺のバーにきたのは、朝まで飲んだまま六本木に向かうつもりでもあった。

 憂鬱で途方もなく後ろ向きな場所へ向かいがちな脳をジャックダニエルと、石原の言葉が交互に堰き止めていた。

 丸氷が小さくなった頃にまた、ニコルソンが顔を出した。



七十  暗室(ヘリウム声の男)  

 

 男は電話を終えると呼吸を整えた。

 暗い部屋で、タバコに火を灯すと、まるで焚き火のように赤々と先端が燃えた。

 時々、ヘリウムで隠した自分自身が出てしまう気がしてならなかった。

 この部屋は、男の極秘作業を行う場所である。

 自分以外に誰一人としてその所在も存在も知らない。

 男はいつものようにそのくらい部屋に設置した旧式のパソコンを開いた。古い純国産のテキスト編集程度しか役に立たないーーその代わりどこのインターネットにもつながっていないそのパソコンの中から、とあるドキュメント文書を出した。

 罪ある人間が殺し合うだけである。いつも、常に、外部との会話や、動きがあった後にはこの部屋に来て、自分の作戦計画が予測とずれていないかをドキュメントで確認し、自分なりに修正を行うのである。男は当然犯罪を犯している認識はあり、既存のインターネットにそんなものを記述するわけにはいかないのだ。

 男はドキュメントを見つめ直した。

 作戦ーー。

 今回の計画を人生を賭して考えてきた。

 その骨格は簡単だ。

「大罪を犯したような、殺人者のような人間たちは、死んだ方がいい。」

 という骨格である。ましてや、そういう人間たちが十年二十年程度の時間で社会復帰などをできてしまっているようなことであればなおさらである。その骨格は厳密には男が考えたものではなかったが、結果としてそうなることを想定してドキュメントに計画を重ねている。

 世の中の誰も迷惑しないはずだ。

 過去の凄惨な事件の殺人犯に対して、世の中はいつだって復讐を望んでいる。

 刑務所で懲役を終えた程度で人間の罪が改められるなど誰も思っていない。言うなればさらに追加の罰を願っている。

 殺人犯が刑務所から出てくるなど本当は、誰も許せたりしていない。

 そんな人間は社会にいないでほしい。

 だから、殺し合えばいい。

 むしろ、そういうイベントが発生すれば、不満ばかりの世の中では清涼たる吐け口にさえなるだろう。

 大衆は事件が欲しいのだ。今の世に誰も満足して生きていない。ほとんどが不満の吐口を探しているのだ。だから何も関係のない人間にまで憎悪の対象を探したり遠い国に爆弾を落とすような正義にも酔いしれる。そこに深い洞察など一切ない。なぜなら深々と物事を調べたり正しさを裏採りするほどには貧しい群衆は時間を持っていないのだ毎日が多忙で明日の生活のカネに苦しんでいるのだ、テレビでうさを晴らすか、精神のどこかに事件でも起きてくれるのを待ち望んでいる、そんな人間たちにとっては、男は自分の計画がいかに支援されるか、必ずや歓迎をされることを信じて疑っていない。

 インターネットで検索でもすれば明らかなことだ。過去の事件や犯罪掲示板の言葉たちの悍ましいこと。罵詈雑言を言葉の限り浴びせあう、ニックネームの人間たち。

 掲示板の記載者は誰も本名など名乗らない。

 そこでは犯罪者だけが実名なのだ。


「おまえは人殺しだ」

「おまえは悪魔だ。」

「おまえを絶対に殺す。」

「おまえの懲役が短い。」

「おまえを死刑にしろ。」


そういう殺戮的な言葉がインターネットには溢れきっているではないか。

 だから自分のやっていることはある意味人助けであり正義なのである、と男は思っている。だから葉書を出した人間が何らかの復讐を計画するのなら、その願いを叶える道筋を作ってもいいと思っている。あのアスファルトに記載された言葉の通りに。


殺順

逃亡者殺ス

傍観者殺ス

仲間ヲ私刑許ス

仲間ヲ殺ス許ス


殺人を犯した人間たちにしかわからない、闇について、このアスファルトの文言は熟知している。男はこれまでも幾度となく葉書のことを考えながら文書(Document)に計画を書き込んできた。そしてその計画をもとにそれなりの予算をかけ、人を雇い、人間を動かしてきたのである。

 しかし、である。

 男は、脂汗を滲ませながらドキュメントを見つめ直した。

 少なくとも風間と名乗る男は動く様子がない。いや、先ほどの電話でもわかった通り、ただ怯え逃げることだけに向かっている。

 つまり、計画が「A」の方向に進んでいない。

 当初の想定からの変化を見直さざるを得ない、と男は思いはじめている。つまり「B」プランの方を意識せざるを得ないのである。

 GPSの画面をもう一度見る。

 もうひとり。守谷と名乗る男は今夜ずいぶん移動した。渋谷に向かい、そこからりんかい線に乗り換えた。なるほどと思う。おそらく怯えているのだろう。あの体でわざわざ<事件>の現場まで戻るのだ。いや、あのような私刑を受けたからこそ恐怖から逃れられないことを奴は知ったのだ。新宿での地獄が、効果があった。やはり、限界に近い恐怖は人間を支配する最善の手段だ。風間が逃げる傾向にあるのは猫が良くなかった。猫の死体ではダメだった。

 再び、風間の位置を見つめた。

 暗い部屋で男はゆっくりとタバコを吸った。真っ赤にタバコの先が燃え輝くのを見もせずに、数本を立て続けに吸い続けていた。

(「B」を始めるしかないのか。もしくは風間をもう少しーー。)

ヘリウムの男は綾瀬の周辺を地図で見つめた。

 そうしてしばらく考え事をしてから、ドキュメントの計画を細かく書き直し始めた。風間と守谷を中心として動かすだけの計画を見直し、三人目の人間を積極的に動かさなければならないと思ったのだがやはり「綾瀬」については男は正直自分で自ら関わりたくはないのである。



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