第二話 猿夢
二匹の狂獣は猛り声を上げて、狭い電車内を縦横無尽にアスレチックのように飛び回る、威嚇と撹乱をしているのだ。
一匹の大猿が黒州に飛び掛る。あれだけの筋力と牙なら人間一人引き裂くなど容易い、捕まれば最後、パンのようにちぎり食われてしまうだろう。
大猿の腕は黒州を掴むことはなかった。シンプルなケンカキックで迎撃された大猿は、蹴り飛ばされ自動ドアに叩きつけられる、衝撃で車体が揺れドアがひしゃげる。ドアが外れないのが不思議なぐらいだ。
「電車内では、お静かにだろ?そこで大人しくしていたまえ」
もう一匹の大猿が黒州の背後に回り込む、鋭い爪が黒州の項に迫るが、それも黒州に届くことはなかった。
黒州は振り返りもせず大猿の頭を掴むと、食肉粉砕機に向けて大猿をボールのように放り投げる。食肉粉砕機の壁面が大きくへこむ。
「おおっと、それは壊れてもらっては困るんだ。一度使ってみたかったし、人の痛みを知ってもらうよい機会だ、機械だけにね、んふ。」
ゆっくり食肉粉砕機に歩く黒州の顔には笑顔が浮かんでいた、フラフラになりながらも、逃げ出そうとする大猿の後頭部を掴むと。
食肉粉砕機に躊躇なく突っ込んだ、硬いものが金属に激突し砕けたような音がする、大猿は手足をばたつかせるが、黒州は最後の一押しに頭を強く押し込みハンドルを回転させた。
金属の爪が引っ掻き、弾力のあるものを引き裂くような音、次に悲鳴、その後何かが外れるような音の後に悲鳴と手足の動きが止まる。
黒州はハンドルを回しながら鼻歌を奏でる、続くメロディは乾いた硬いものが粉砕される音、すり潰ぶすような水音、水気と粘性が有るものを混ぜ合わせる音が順番に響き。胃から込み上げてくる酸っぱいものが汚い水音と共に落ちた。
「機会の機械、レバーのレバーなんちゃって、んふふ。 あっでもこれレバーじゃなくてハンドルか。」
力無き残骸を機械に押し込み、楽しそうにハンドルを回す黒州は血と臓物の匂いに染まっていった。
「あれれ、もう一匹はどこに行った、ちょっと夢中になりすぎたかな?」
自動ドアに叩きつけられて、動かなくなっていた大猿はひしゃげたドアに伸びた血痕を残し消えていた、血痕は前方の車両に続いている。この惨劇を見せられたら逃げるのも無理はない、この悪夢はいつまでは続くのだろうか。
「ザザッザー、次は激突、激突です」
車内アナウンスがノイズ混じりに割れた音を流す。
「意趣返しのつもりなのかな」
唇の返り血を舐め取る黒州はなによりも怖ろしく、そして艶めいて見えた。
興奮し勝ち誇った猿の鳴き声がノイズ混じりにスピーカーから響く、窓から見える景色はどんどん加速していく。
「安心したまえ赤也くん、君は私が守るよ」
正面に立つ黒州は血と臓物に染まった優しい笑顔でこちらに笑いかける。腰が抜け脚に力が入らず、自分に流れる血液が冷水のように感じる。
張り付く喉から声を絞り出そうとするが、震える歯がカチカチと鳴るだけだった。
「そうか、すまない……少しやりすぎてしまったのだな…………。」
後ろを向き顔を伏せ黒州は落ち着いた声を紡ぐ、窓に映る顔には悲痛と寂寥が映り込み流れていった。
「君は必ず無事に帰すよ。だからこのことは……忘れるといい、全て悪い夢さ」
いままで一番の笑顔を作り、黒州は振り向いて答えると。手で印のようなもの組み小声で唱える。
「心解」
激突する列車を残し世界は反転した、湖に曇天が反射し水平線だけがどこまでも世界を分けている、ぽつりぽつりと涙のような雨が降る。
「ようこそ、我が心の中へ。最後くらい、澄み渡る綺麗な景色を見せてあげたかったんだけどね……。お恥ずかしき、かぎりだ、修行が足らないね」
自嘲気味に笑う、黒州の顔からは返り血が消え、雨が伝っていた。
少し離れた所に状況を飲み込めず、呆気に取られる獣がぽつりと一匹。
「赤也くん、気がついたとは思うが……。私はあの獣と同じだ、人ならざる者だ。 怖がらせて、すまないね……出口はそこにある、目が覚めたら事務所を出て真っ直ぐに家に帰るんだ。このビルを出るまでは振り返ってはいけないよ、そしたら全てを忘れているから」
何もない空間に事務所の扉が現れる。
「さぁ行きなさい、私はやることがある」
事務所の扉が開き吸い込まれる、最後に見えたのは怯える獣の手を取り祈りを捧げる、黒州の後ろ姿だった。
事務所のソファーで目が覚める、目の前では黒州
が寝息を立てていた。思わず後退りソファーがひっくり返りそうになる。
体には異変は無い、喉も胃液で荒れてはいない、本当に悪い夢だったのだろうか。ふと手に何か握り締めているのがわかる、手を見るとキャラ物の折りたたみ傘が固く握られていた。
上ソファーから立ち上がる、体は少しふらつくが動けないほどじゃない、ドアノブに手をかけ外に出る。後は振り向かずにビルを出て真っ直ぐに家に帰る、それで全てを忘れられる、難しいことではない。
大猿に掴まれた足の痛み、肉と脂の絡みつく金属板、今でもありありと思い出せる。夢の中とはいえ、もし死んでいたらどうなっていたのかなんて考えたくも無い。これを忘れてぐっすり寝られるなら、それは幸せなことだろう。
最後の階段を降りる、廊下から外を見るとビルの外は雨が降っていた、ここを出れば全てを忘れてしまうのだろう。
最後に訪れた黒州の心の中も雨が降っていたのを思い出す。
「雨が降っているのに傘が無いのは困る、か」
道路を叩く雨音が響く。
猿夢を祓った黒州はソファーで目を覚ました。
「少年は無事に帰ったみたいだね」
対面に座っていた赤也がいなくなっている、喪失感をはあるが彼が無事ならそれでいい。そもそも自分が招いた結果なのだ、そう自分に言い聞かせる。
「あーあ、寂しいなぁ。みんな、いなくなってしまう。自業自得というわけかぁ、泣いてしまいそうだよ。 はぁ、一人ぼっちか……仕方ないか……」
やりきれない気持ちのまま、ひとしきりバタバタと暴れると、黒州はソファーで不貞寝をしようとするが、食器が置かれるカチャンという音で目を覚ます。
「随分と大きい独り言ですね。コーヒーです、僕が飲みたかったんで」
「少年……!? 何故ここに?」
「そうだ、借りた傘を返します。雨が降っているのに傘が無いと困るでしょう?」
「ありがとう、でも、いや、それは答えになっていないのでは……ないか?」
「助けてもらったお礼も言わずに帰るなんてできませんよ。それに一人は寂しいんでしょう?」
「……聞いていたのかい?」
「ええ」
「どの辺りから?」
「無事帰ったの辺りからですね」
「全部じゃないか!? クールなお姉さんでやっていこうと思ってたのに!」
「それは最初から無理だと思いますよ」
「そんな……」
驚きと困惑に嬉しさ、それに罪悪感と羞恥心を一度に抱えた黒州はソファーの上で感情豊かに転げ回る。
「黒州さん、助けてくださってありがとうございます。そして助手として、これからよろしくお願いします」
「聞き間違いじゃないと仮定して話すんだけど、助手としてやってくれると……?」
「ええ、はい」
「それと私が………怖くは、無いのかい……?」
黒州の視線が床に落ちる。
「怖いですよ、でも僕を助けてくれましたから」
話し出しを聞いた時の黒州の表情は凍りついていたが、続く言葉で少し血の気が戻っていた。
「ありがとう、赤也くん」
「どういたしまして」
「よし、少年の入社祝いで何か食べに行こう!」
「バイトですけどね」
「まぁまぁそう言うなよー、焼き肉なんてどうだい?」
赤也の顔から血の気が引き、コーヒーはカップに戻っていった。戻ったのがコーヒーだけならばよく耐えた方だろう。
「黒州さんは少し、デリカシーや反省というものを学んだほうが良いと思いますよ」
「本当にすまない、少年……」
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