迫る暗闇が、建物の森に灯る明かりをかき消し、飲み干します。
庭の夕暮れ
胸の奥で時計の針がかちりと合わさり、綿雲ちゃんは目を覚ましました。
透明な硝子の寝台の上に起き上がると、白い裸足をつま先からそっと下ろします。
そこはまばゆにあふれた真昼の草野。
綿雲ちゃんが日々を送る美しい庭です。
庭はいつでも、晴れた昼下がりです。綿雲ちゃんは夜を知りませんでした。
光を映すやわらかな若葉、鮮やかなだいだいと濃い桃色の花々。飴細工のように薄く透き通った花弁は幾重にも重なり、触れるとはかなく砕け散ります。
はじける色彩の粒は決して綿雲ちゃんの足を傷つけません。
庭の野花はすべて幻でできていました。
綿雲ちゃんの庭で幻でないものは、ふわふわレースのドレスを身に付けた綿雲ちゃんと硝子の寝台、そして一羽の小鳥。
銀色の小さなともだちは、綿雲ちゃんが目を覚ますと空のかなたからやってきました。
おはよう綿雲ちゃん。肩にとまった銀の小鳥は、ぴゆぴゆとさえずります。
きょうはどんなお話しをしようか。
それとも歌をうたおうか。
はなかんむりをつくる?
遠い国の物語を、聞かせてあげようか?
「おはよう、ことりさん。今日もお庭は良いお天気ね」
小鳥があまりにおしゃべりなものですから、綿雲ちゃんはようやくおはようの挨拶をすることができました。
綿雲ちゃんの庭で幻でないものが、もうひとつだけあります。
正確にはひとつではありません。一日のうちでは、ひとつなのです。
綿雲ちゃんがかみさまの落し物と呼んでいるそれらは、庭の幻の陰にそっと隠れていました。散歩をしている最中などに、見つけるのです。
虹色の霧が閉じ込められた石の首飾り。
星くずのビーズを刺繍で縫い止めた、幅広のリボン。
深い艶のある皮表紙の本を開けば、細い細い線が描き出す、羽のある美しい人々の絵姿が楽しげに飛び交っていました。
綿雲ちゃんはかみさまの落し物を、それは大切に扱いました。
無くさないように、壊さないように、気持ちを込めて、大切に。
一日の終わりに胸に抱いて眠りにつくと、目覚めた頃には落し物はいずこかへと姿を消しています。
綿雲ちゃんはそれきり過ぎた日の落し物を探すことはありません。
落し物は綿雲ちゃんの記憶からもすっかり消えてしまうのです。思い出の欠片だけをわずかばかり残して。
一日にひとつ、綿雲ちゃんの頭の中にもひとつきり。
そういう仕組みにつくられていました。
今日も綿雲ちゃんはすてきな思い出を探して、庭をめぐります。
幻の花が崩れて散る飴硝子の光は、綿雲ちゃんの細い足とドレスのレースを華やかに飾り立てます。
幻の草野の海に裸足や指先をくぐらせれば、涼しげに透けた緑が心地よく肌を撫でます。
綿雲ちゃんは天からの光をいっぱいに浴びて、幻と幻のあいま、鏡の壁の淵を歩き回りました。
綿雲ちゃん、水の鏡はもう一つのお庭につながっている扉なんだって。
綿雲ちゃん、夜の空には、たくさんのきれいな宝石が落ちているんだって。
小鳥は絶え間なくおしゃべりを続けています。
そよ風が髪をくぐり、穏やかに通り過ぎて行きました。
それ以外には何もない日でした。
「ことりさん、かみさまは、今日は落し物をしなかったのかしら。それともお庭には来ていらっしゃらないのかしら……ねえことりさん、どう思う?」
綿雲ちゃん、ざざ。
小鳥が突然、言葉にならない雑音を口にしました。
綿雲ちゃんは驚いて小鳥を見つめます。
ざざざ、じじじ。綿雲ちゃん、きょうはどんなお話をしようか?
見つめているうちに、小鳥は言葉を忘れていたことなど忘れてしまったかのように、愛らしくさえずりました。
小鳥が元通りになると綿雲ちゃんも、驚いた、心配な気持ちをすぐに忘れてしまいました。
綿雲ちゃんは夜を知りませんでした。悲しい気持ちも、心細くさみしい気持ちも。そういうふうにつくられていたのです。
そのときです。天から降り注ぐ光が消えました。
綿雲ちゃんはまたも驚いて小さく縮こまりました。。
小鳥がちいちいと何事かをささやきました。
『動力系統に異常が発生しました。非常用副電源に切り替えます』
小鳥の鳴き声とともに、ささやかな明るさが戻ってきます。
辺りは、薄暗い橙色の灯りに包まれていました。綿雲ちゃんの知らない、夕暮れ時の姿によく似ています。幻の花々は濃い影の背中に姿を隠し、鮮やかな色彩は息を潜めていました。
綿雲ちゃんははじめて見る庭の夕暮れに、うっとりと見とれました。
もはや、身を縮めるような恐ろしさは綿雲ちゃんの胸の中には残っていません。
「ことりさん、これは一体どんなお天気? オレンジの空、影の色。きれい。きょうのかみさまの落し物は、このお天気なのかしら」
『通常モードでの稼働限界予想は、およそ二十時間です』
小鳥が再び何事かをささやきましたが、綿雲ちゃんの耳には聞こえていませんでした。
きれいなものや、愛らしいものしか綿雲ちゃんのひとみには映らず、思い出をしまう箱に入り込むことはありません。綿雲ちゃんはそのようにつくられた女の子なのです。
やがて綿雲ちゃんは天を見上げたまま動作を停止しました。
おしゃべり相手が眠ってしまった小鳥は、綿雲ちゃんの肩に羽を休めると、うとうとと居眠りを始めます。
綿雲ちゃんの知らない夜が訪れるのは、もう少し先のことのようでした。
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