32話  五之宮詣り〈海の路〉

 シェマは波打ち際を駆けて行った。

 その先に、ふいにかすみのように御簾みすが現れると、ざぶりと白波に足元をすくわれた。白波には意思があるようにシェマの腰と頭の辺りを支え、御簾みすの内へ打ち寄せた。


『おや、その気になったか』

 しどけない恰好の佐比持神さひもちのかみ帳台ちょうだいしとねに片ひじをついて、銀の髪を流し、浅黒い御身を横たえていた。シェマからは、よく見えなかったが、その側にティフィンもいるのか。


『その気もどの気も、ない』

 浜に打ち上げられた貝殻のような状態で、シェマの中のユーフレシア皇子が毒づいた。


『少年。何もかもに反抗したい年頃だな。許す』


「わっ、わたしはそんなこと思っていません」

 あわてて、シェマは我が身を守った。ユーフレシア皇子が言ったことでも、見た目ではシェマが言ったことになる。

「いえ。でも、皇子はわたしの甥御であるから、皇子が、わたしの中にいる以上は連帯責任ですねっ。すいません!」

 勢いをつけて、シェマは板敷の床に頭をすりつけて謝った。


 くくっ。

 佐比持神さひもちのかみは笑ったようだ。


 シェマの中のユーフレシア皇子が、『謝りに来たのではない』、シェマの顔をあげさせた。『ティフィンを返してもらいに来た』


 佐比持神さひもちのかみの神は、『余韻に浸る時間もくれぬとは』と、起き上がってきた。『ティフィンは休んでおる。海のみちが開くまでには覚めようか』

 それから、するりとシェマのそばに来た。

十三詣じゅうさんまいり、おまえは、すべて参るつもりなのか』


「はい。皇子の供をして参ります」


『難儀なことよのぉ。いまだ五之宮いつつのみやではないか。これでは、いつ都に帰れるか』


「わたしは都に待っている人もおりませぬし、このようなことでもない限り、都の外へ出ることはなかったでしょうから、案外、楽しめております」


『己の中に他人がいる状態も楽しめておるか。意外と、丈夫な精神の持ち主じゃ。いや、それでなくては身代わりの術など叶うはずもない。そんなおぬしに、われの加護ひとつなど必要ないのではないか』

「え」


 佐比持神さひもちのかみの神は、シャマが思ってもいなかったことを言いはじめた。

『やろうか、やるまいか』

「わわっ。くださいです」

『やろうか、やるまいか』

「いただきたいです。お願いします」


 シェマは必死になった。加護をもらえなかったら、こののち大きく影響が出ると、世間知らずのシェマでもわかる。


『この神、わたしたちを揶揄からかってるんだぞ!』シェマの中のユーフレシア皇子が、ブチ切れた。


 佐比持神さひもちのかみの神は笑いを耐えて、その様子を楽しんでいた。

『かわいくないのと、かわいいのが混在しているなぁ、おまえ。とりあえず、かわいいほうにだけ加護をやろうか』

 佐比持神さひもちのかみの神はシェマの腕を、ぐいと引いた。


 それから、深く口づけをした。


 その間、シェマは息をするのを忘れていた。

「ふ、あ!」

 離された途端、真っ赤に上気した。


 佐比持神さひもちのかみの神にとっては満足のいく反応だったようで、『いつでも嫁に来い。かわいいほう』と、にんまりとした。

 シェマは何か途方もない光の中にいるような、浮遊するような心地であったが、「おたわむれを」という凛とした声に我に返った。

 探していた声だ。

「ティフィン!」


 帳台ちょうだいから出て来たのか。ティフィンが佐比持神さひもちのかみの神に敬意を払いながらも、非難がましい目線で座していた。

「海のみちが開くとのこと。われらはいとまを願い出まする」


『行くか。せわしないの。はかなき者どもは』

 佐比持神さひもちのかみの神は一線を引こうとするティフィンに、あえて、からんでいるようであった。

『わが紐を結びせむ』

 ティフィンが目線をそらすのを、あきらかに楽しんでいる。


『さて、浜までは送ってやる』

 佐比持神さひもちのかみの神が、そう言ったか言わぬかのうちに、シェマとティフィンは砂浜にいた。


佐比持神さひもちのかみの神こそ、せわしなくないですか」

 シェマは日光を反射する白砂に、目をしばたいた。

「あれは」

 それから、彼方の水平線から、白い帯が伸びて来ているのに気がついた。波が引いて、海の中に白砂のみちが現れているのだ。


佐比持神さひもちのかみの神がおっしゃられていた海のみちというものであろう」

 ティフィンも目を細めて、水平線を見た。何やら近づいてくる者たちがいる。それが手に手に白木の高台を押し頂いた人であることが、しばらくして見てとれた。

 その中から、ものすごい勢いで白い塊が飛び出してきた。


「あれは」

 シェマは口元がほころんだ。

保知ぽちだ!」


 シェマは待てずに海のみちへと走り出た。

 どわっと、白い塊はシェマへ飛びつき、その勢いに押されたシェマを、うしろからティフィンが支えた。

 すっかりシェマは保知ぽちの白い毛の胸倉に埋まった。白い犬はティフィンの肩辺りに前脚をかけ、ちぎれんばかりに尾を振って、べろべろとティフィンの頬をなめまわした。

「うっ、う。すっかり犬らしくなって」

 ティフィンは勘弁してくれとばかりに、保知ぽちの前脚をはずしにかかった。しばらく見ぬうちに、ひとまわり大きくなっていた。


 シェマは身体をずらして、保知ぽちとティフィンの抱擁の間から逃れた。

 ティフィンは保知ぽちの前脚を肩から降ろしたら、今度は腰に前脚を巻きつけられて、もうなすがままになった。

 飾磨郡しかまのこおりの遊び宿に保知ぽちを置いて行った負い目がある。邪険にできなかった。

 それはシェマも同じで、「保知ぽち、ごめんよ」と、白い犬の腰の辺りをなぜた。


 保知ぽちのしっぽの振りが、いくらか落ち着いて、そのころには海のみちを通ってきた者どもが浜にたどり着いていた。

「お犬さまのあるじですけ?」

 先頭にいた白装束の男が、シェマたちに声をかけてきた。

「わしは、阿加保あかほ里長さとおさにございます」

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