31話  五之宮詣り〈波の逢瀬〉

 そこは、すでにかすみのような御簾みすで仕切られた部屋で、しとねが敷かれている。

 そのしとねにティフィンは横たわっていて天井を見上げていたが、そこには白い雲が紺色の夜空に浮かび、さしている明かりは月光のようだった。


『波は時折、去って行ったものを連れ帰ってくるものよ』

 さしておもしろくもなさそうに、佐比持神さひもちのかみは告げた。かるく金縛りにあったように動けないティフィンに添い寝しているのだ。


『人の暦では、むかしむかしというのか。その身体からだに加護と知恵を与えたのはオレだ』

 ティフィンの上衣ならずも下衣も、佐比持神さひもちのかみは、するりと解いてみせた。


『おまえはオレから、また嫁を奪う。つくづく憎らしいやつ』

 ぐいと佐比持神さひもちのかみにつかまれて、ティフィンは息が止まるかと思った。

 神相手では、なすすべがない。人にうちとけて、チャラい空気を身にまとっているとしても佐比持神さひもちのかみは神だった。


「わたしは……」と、ティフィンは佐比持神さひもちのかみの言っていることがわからないまま、反論しようとするも、身体からだだけでなく口も動かない。佐比持神さひもちのかみにふさがれた。



 さて、シェマはというとやしろの中で、とまどっていた。

 ふいに、佐比持神さひもちのかみとティフィンのいる空間が切り取られたように見えなくなってしまった。

 

「どうしよう。ティフィンさんが消えた」

 シェマは、おろおろと自分の中のユーフラテス皇子に相談する。


佐比持神さひもちのかみが連れて行った』

「大丈夫かな……」

『悪いようにはしないだろ。チャラいけど神さまだ』

「わたしが行かなくてよかったのかな……」

 最初に佐比持神さひもちのかみに呼ばれたのは、シェマだったのだ。


『——叔父上、知らないだろ。だからティフィンは叔父上を、チャラ神さまに連れて行かせなかったんだぞ。——行きたかったんならいいけど。そのときには、わたしも道連れだったわけだから、心の準備がないと言えばなかったな』


「心の準備?」


『神さまの嫁になる、さ』


「え! ティフィンさん、嫁に⁉」

 だとすると、もう戻ってこないのかと、シェマは目をむいた。


『あ。返してはもらえると思うけれど』

 ユーフレシア皇子がシェマの心配を読んだ。だが、皇子も不安になったようだ。

『返してもらえなかったらどうしよう』


「それは困ります」

『困るな』

 ふたりして、うろたえる。見た目はシェマひとりだが。

「——返してもらえるようにお願いに行きましょう!」

『——行く?』


「こうして時間がたって、もうちょっと早く来てくれたら返せたのにとか言われたら、どうします? ほら、黄泉よみの国に夫がツマを取り戻しに行く話のように」

『ツマが黄泉よみかまどで作った料理を食べてしまったから帰れないという昔がたりだな』

「そうならないように!」 


『したが、どうやって。佐比持神さひもちのかみとティフィンは消えたぞ』

「おそらくはえないけれど、いるんですよ」

えるけれども、いないというのもある』

「屁理屈、こねない。探しましょう」

 シェマはやしろの中を見渡した。

 

(この場所から、通じているとは思うんだけど)


 いたって、普通のうたげの席だ。カグツチだけが酒をあおっている。

「ねぇ、カグツチ。佐比持神さひもちのかみとティフィンはどこにいるのだろう」

 思わず、シェマはたずねてみた。

 カグツチは、ためらいもせず、手の杯を差し出した。


「え」

『杯の中に道がえるとでも?』

 ユーフレシア皇子は早くも、あきれている。


『カグツチ、酒スき。だから、酒の中に道がミえる』

 カグツチは真顔だ。いや、いつも固い表情なのだ。


『ただの酔っぱらいだぞ。叔父上』

「うん。だけどさ。好くものとえにしはつながるとか、そういうことを言いたいのかな? とか」

 シェマは深読みする。


『叔父上も、いくばくか佐比持神さひもちのかみから、加護をいただいただろう?』

 あの、ぴりぴりくる感覚のことを、ユーフレシア皇子は言っている。

『それでもって、佐比持神さひもちのかみとティフィンの居場所がわからないか』


「そうだね。できるかな」

『やってみてくれ』


「でも、どうやったらいいんだろう。わからないです」

 シェマは目を閉じたり、両手を組んだりした。

『とりあえず、ティフィンのことを思え』

「はい」

 シェマは目を閉じて、ティフィンのことを脳裏に思い浮かべるようにした。

 賢所かしこどころで会った、陽炎かげろうのようなティフィン。

 彼におぶさったとき、嗅いだティフィンのにおい。


『ばっ』

 なぜか、ユーフレシア皇子がうろたえた。

「皇子、心拍数、あげないでくださいよ。わたしまで」

『健康な男子なんだから、いいんだよ!』

「そもそも、皇子のほうがティフィンさんとは付き合いが長いでしょう。皇子のほうが思い浮かべてくださいよ」

『う……ん』


 もじもじしているユーフレシア皇子の思考が、シェマに流れ込んできた。

 椅子に座っているユーフレシア皇子の目線だ。

 足元近くに、ティフィンがひざまずいている。


 くるんと視点が変わった。

 青い空に羽を広げた大鳥が舞っている。それが、さぁっと降りてきて、逆光の男の腕にとまった。男は黒髪をなびかせて、黒の中にあおが沈んだ瞳でほほえんでいる。ティフィンだ。

 

 また視点が変わった。 

 寝台で半身を起こされているようだ。ティフィンの顔が近い。近い。

「わっ」

 今度、声をあげたのはシェマだ。

「せっぷ、接吻、して!」

『水を飲ませてもらっているだけだ! 興奮するな! 叔父上!』

 ユーフレシア皇子が訂正にかかる。

『それに、わたしの記憶だ!』


「そう、そうでした」

 だが、シェマは自分のくちびるにティフィンのくちびるが触れていたように感じていた。

 思い浮かべただけにしては生々しい。息づかいまで聞こえるようだった。

「わぁ、わぁ」

 しん臓腑ぞうふが、どくどく波打った。


『変な妄想で、ゆがめないでくれ。わたしは病人なんだ』

 ユーフレシア皇子が文句をたれる。

『叔父上たち健康な者が、ふつうにできることも、わたしにはできない。立ったり、歩いたり、少し重いものを持つことも、大変な労力をともなう——』


「すいません。そうですよね」

 今も、ユーフレシア皇子の実態は、皇子宮みこのみやの豪奢な寝台で起き上がることもできないのだろう。


『ティフィンは、皇子付きの武官だから。昼も夜も、そばにいてくれた。わたしは彼がいてくれると安らいだ』

 

 ユーフレシア皇子の思いが、シェマの奥深いところに伝わってくる。

 皇子の心細さ、渇き。起き上がることもままならぬ不調。時折の回復。肩を支えてくれる手のひらからから伝わるぬくもり。やさしく添えられるティフィンの指先。手入れなどしていないと言っているのに、きれいな爪。


 ティフィン。


 ユーフラテス皇子は、もしかしなくても泣いているようだった。

 シェマも呼応するように、瞳から涙があふれた。口の端に流れ落ちた涙は塩からい。まるで海の水のように。


 すると、シェマの足元に波が押し寄せてきた。

 ここはやしろの中。海岸からも離れた岩山の上。足元が、ぬれるはずもない。すると、波は幻影なのだろうか。


 波は、カグツチとシェマの間を隔てた。向こうで、カグツチの声が聞こえた。

『シラナミにたズねる。佐比持神さひもちのかみはどこゾ』

 

 すると、波が白く泡立ち、『ミスマルの玉が応えル』と返ってきた。波はシェマの足元をすくうでなく、こっちへ来いと誘うように引いて、また返してきた。


『聞いたか、叔父上。御須麻流ミスマルの玉の音だ』

 ユーフレシア皇子が耳を澄ませたようだ。シェマにも何か聞こえた気がする。

『こっちだ』

 シェマの身体からだは、勝手に動いた。ユーフレシア皇子の心のままに動いた。

 白く輝く波打ち際を踏むように、シェマは駆けて行った。

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