30話  五之宮詣り〈月の舟〉

五之宮いつつのみややしろは内海の多島のひとつにあります」

 ティフィンはシェマに、そう教えた。


 月の舟は、するすると波のない海を進む。

 深夜に西の海に沈むとき、少し欠けたばかり上弦の月は舟となったのだ。


「ふしぎ。ふしぎ。これも佐比持神さひもちのかみさまの御ちからなのですか」

 シェマは月の舟の縁から、そうっと海面をながめた。


 月の舟は白い月のような、ひかりの塊と思える。

 ひとり乗れば、ひとり用に。ふたり乗れば、ふたり用になった。


 今は、シェマとティフィンとカグツチと、佐比持神さひもちのかみが乗って、ちょうどの大きさになっていた。


『もう少し、狭くてもよいなぁ。ほれ、密着できるだろ』

 佐比持神さひもちのかみは、あからさまに腰巻だけの身体でシェマに張り付いた。その間に、ティフィンが肩ひじを差し入れた。


それを見たカグツチが、『スモウ?』と、カンちがいして、がっと佐比持神さひもちのかみの背に張り付く。

いってぇんだよ。土の塊!』

 佐比持神さひもちのかみには、カグツチの出生がわかっているらしい。神さま同士の以心伝心でもあるのかもしれない。


「神さまも痛いとかあるんですか」シェマは、そっちが気になった。


『あるぞ。あるぞ』

 銀の髪、浅黒い肌、腰巻だけの男神は、シェマの質問がうれしそうだった。

『おいしいとか。うれしいとか。さびしいとか。むかつくとか。たいがい、詣でてきた人の置いて行った感情であるが。多いものに影響を受けがちだ』


五之宮いつつのみやは、不良の漁師ちゃらっぽい方が多く参ったということでありますか」

 ティフィンが、この神に対しては不敬だ。


『われはすべての産に通じる種の神であるから、発散せねば大変なのよ。またの名を宇左加良美うざがらみという』

 いつのまにか、佐比持神さひもちのかみはシェマの左手に自分の右手をあわせて、そのうえ、指まで一本一本からめた。

『どうだ。わが神気が流れ込むであろう』


「う……、なんだか変な気分です」

 シェマの右手のひらから、何かしびれるようなものが身体からだに流れ込んでくる。


佐比持神さひもちのかみさま。まだ五之宮いつつのみやもうでてもいないのに、加護を与えるのはやめていただけませんか」

 ティフィンが物申す。


『海の上は、すでに、わが神域よ。忘れたのか。鳥取部とりとべのティフィン』

 佐比持神さひもちのかみの神の問いに、ティフィンは怪訝けげんな顔をした。それを見た佐比持神さひもちのかみは、うすく笑った。

『やはり、おまえは』


 そのとき、男神の銀の髪が、ひときわ、ひかりを放った。

 東から空の色が明けの色に染まっていた。日の光が行くべき島を指している。舟はその島の入江に入っていった。


 舟の底に浜の白砂がざらつく感覚があると、もう月の舟は影も形もなく、いつのまにか、シェマたちは浜に降り立っていた。


やしろで待つ』佐比持神さひもちのかみの声だけがした。



 それから、五之宮いつつのみややしろのあるという、島のいちばん高い場所までは四半刻ほどかかった。

 シェマは、ふしぎと息切れもせず大岩の間の山路を、ひょいひょいと歩いた。

(これが佐比持神さひもちのかみさまからいただいた神気というものなのか)


 そして、たどりついた大岩の上には、人ひとりがかがんで入れるかというおおきさのやしろが建っていた。


『入れ』と、佐比持神さひもちのかみの声がする。

 シェマはおっかなびっくり、身をかがめて中へと足を踏み入れた。すると中は、千畳はありそうな板敷の間であった。


『見た目に惑わされるなよ』

 もう聞きなれた声がして、佐比持神さひもちのかみが上座に胡坐座あぐらをかいていた。

『潮が引くまでとどまれ』

 そして、シェマたちに着座をうながした。

『潮が引いたときにみちが現れるのよ。帰りは、そのみちをたどれ』


 いつのまにか、板敷の間には高台やら椀やらに盛られた、さまざまな馳走が並んでいた。召使いのたぐいえない。

 具だくさんの菜茹さいじょ(野菜の汁)は人数分、すでに木の椀に盛られ、湯気があがっていた。

 海神わだつみの宴らしく、焼いたタコ、ゆでたエビ、アワビのウニあえまであった。内陸の都育ちのシェマにとっては、はじめて見る料理も多い。シェマの中のユーフレシア皇子も食に関しては乏しい経験しかない。目を見張っているのが、シェマには、わかった。

 こと、まっとうな食事がとれることを、普段はひんやりと大人びた口調であるユーフレシア皇子は、幼子のようによろこぶ。

 そんなとき、シェマは皇子に寄り添う気持ちになった。


 どん。いっとう先にカグツチが、瓶子へいしの前に胡坐あぐらをかいた。

 佐比持神さひもちのかみは、からからと笑った。

『カグツチは酒のりかを、よう知っておる。好きなだけ飲め』 


『だが、腹いっぱいにしか飲めなイ』

 いかにも、くやしそうにカグツチが言ったから、いよいよ佐比持神さひもちのかみは、そっくり返って笑うのだった。


『おまえは、こっちに来い』

 佐比持神さひもちのかみは、シェマを手招きした。お呼びに腰を浮かしかけたシェマの左腕を、ティフィンがつかんだ。

 そこにシェマを座り直させて、ティフィンは、ずいと、ひざをすべらせて、「お相手なら、わたしが」と、佐比持神さひもちのかみの御前に進み出た。


『ほぅ。どういう趣向じゃ』

 佐比持神さひもちのかみは、沈んだ笑いを浮かべている。

『お相手とは。どこからどこまで』


 シェマはティフィンの意図がわからず、いつでも、佐比持神さひもちのかみの御前に進めるように身がまえた。それを止めたのはシェマの中のユーフレシア皇子だ。

『ティフィンにまかせよう』


 佐比持神さひもちのかみとティフィンが座する場所は、今や、シェマのいる場所とは別の空間のようであった。声は遮断され、姿はゆらいで見える。


佐比持神さひもちのかみの御心のままに」

 さきほどの問いに、ティフィンは答えた。


『そんなにオレに、あの子供を嫁にとられたくないのか。惚れこんでおるということか』

 佐比持神さひもちのかみは、からかうような物言いをした。


「いえ、そのような意味合いではございません」

『あの子供は、おまえのことをつまと呼んだぞ』

「それは——、慕っているという気持ちの現れ。幼いものにございます」


 佐比持神さひもちのかみの顔に、あきれたような色が浮かんだ。

『また、おまえは罪な者よ。さても明星水みょうじょうすい不消火きえずのひ。この片恋。どうすべきか——』


 そして、ティフィンが、ひとつまばたきする間に、息がかかるほどの近さに佐比持神さひもちのかみは近づいた。

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