8話  分水嶺

 天之岩船あまのいわふねから、シェマたちは飛び降りた。 

 そして、次に気がついたときは、こんこんと水が湧く、ちいさな泉の前にシェマはへたり込んでいた。


 泉の水は水分みわかれし、ふたつの水流となっている。ここは分水嶺ぶんすいれいなのだ。


一之宮いちのみやといい二之宮にのみやといい)

 神の領域では、ふしぎなことが当たり前に起こる。


「二之宮の御神体は、この泉です」

 ティフィンがかしこまるのに、シェマもならった。


(それにしても神域とは)

 見ようと目を凝らしても、見えない場所がある。

 頭が認知しないというか、ぼぅっともやがかかる。


 そう言えば、一之宮の女神のかんばせも、さきほどまで間近におられた石筒之男神いしつつのおとこがみの御姿も、なぜかおぼろにしかシェマは思い出せなかった。

とお御祖みおやの神、御照覧ましませ——」

 両の手のひらを合わせ、祝詞のりとを捧げる。


 こぽこぽと泉の面が波立った。

 それは盛り上がって、人型となる。

 そのかんばせ石筒之男神いしつつのおとこがみに似ているだろうか。


天之水分男神あまのみくまりのおとこがみさま。十三詣じゅうさんりにもうでました」

 シェマは目を閉じ、泉の前で座礼をした。


『感心。感心。山のみちは、さぞきつかったろう』

 その言葉には含みがあったのか。


「いえ、石筒之男神いしつつのおとこがみさまが天之岩船あまのいわふねで、ここまで連れてきてくださいました」

 シェマは、そこまでは気がついていなかった。


『ほぉ。おまえは正直者なのだな』

 天之水分男神あまのみくまりのおとこがみは笑ったようだ。

『では、とびきりの加護と智慧を授けねばな。泉の水をすくい、おのまなこを洗うがよい』


 シェマは、その言葉に従い、泉のそばにひざまづいた。


『正しきものを、みつけるように、よこしまなものを、はねかえすように』


 泉の水を両手ですくう。

 水は指の間から落ちもせず、シェマの両の手の中にとどまっている。

 シェマは、そのまま両の手の中の水を顔に当てる、まばたきをくりかえした。

 つめたさとも、ひかりとも、清冽せいれつなものが目から流れ込むようだった。




 そうして、シェマとティフィンが二之宮から去ったあとのことだ。

 久方ぶりに二之宮まで足を運んできた弟神を、兄神はねぎらった。


石筒いしつつよ』

『はいよ、あにさま』


 ふたりの青年神はやしろ屋根やねに座って、続く山々を見ていた。山肌を雲の影が通り過ぎていくのを見ていた。


『おまえが天之岩船あまのいわふねを動かすとは、そんなに、あの少年が気に入ったか』

『気に入ったのは、にぎり飯だ』

『さもあらん』


  腹がふくれれば心も満たされるのは神も同じだ。

  だが弟神のかんばせには、少しばかりの憂いがあった。

『気に入ったか気に食わなかったで云うとなぁ。今年の参道整備の奴らが気に食わねぇ。わざわざ大石で道をふさいだり、倒木をひきずってきたり——』


『あぁ、わしも、それには気がついていた。いちばんけわしい参道へ誘導したがっているような様子であった。あの少年なら参道で足をすべらせ、岩場に落ちて、頭を割って死んでいたかもな』


『さもしい……。朝露あさつゆのごとき人が何をたくらむやら』

 弟神は長らく人に忘れられていたためであろうか、辛らつだ。


だからこそ、さもしいのだ』

 兄神が、とんと片足で地面をたたくと、その御身体おからだが空へと浮き上がった。

『あの少年も、そのような朝露の一滴』


『だが、参道の整備もしねぇほうの朝露の、いいようにはさせたくない』

 弟神も、とんと片足で地面を蹴って舞いあがった。


『おまえは、昔から弱いものに肩入れする』

 兄神は、たゆたう。


『いや、弱くはないぞ、あれはなかなかに——』

 さらに高く舞いあがっていった兄神に、弟神の声は聞こえたかどうか。





 さて、一之宮の女神は、おまいりをすませたとたん、次の宮への最短の行程を用意してくれたが、二之宮の神はそうではなかった。


 来た方向とは反対の山腹に下る参道を、シェマたちは示されただけだった。


「行きはよいよい、帰りはつらい」

 シェマの口から、つい弱音も出ようというものだ。

「にぎり飯を残しておいてよかったです」


 シェマは慎重に辺りを見渡し大岩には座らず、木陰にしゃがみ込んで、遅めの昼にしようと思った。

 だが、かがみ込んだとたん、何を思ったのか保知ぽちが体当たりしてきた。たぶん、優位性保持まうんとというものなのか。ころんと横倒しになったシェマの手から、にぎり飯がころがった。

「うわわぁん」

 べそをかきながらシェマは、ころがるにぎり飯を追った。


「シェマ殿!」

 ティフィンが青ざめる。

 そも、にぎり飯が、そんなに自然に、ころころ、みちをころがるはずがない。



「あっ」

 にぎり飯を追っていたシェマの足元から地面がなくなった。

 間一髪、ティフィンがシェマの衣の襟ぐりをひっつかもうとしたが、右手はむなしく虚空をかいた。



 

 きんのくしさしてあねさまはなよめごりょう。

 ぎんのくしさしれてあにさまたいしょう。

 どうのくしだれにさそ。


 奈落を落ちていくシェマの耳に唄が聞こえた。





 『へぇ、——さまの言う通り。意外と簡単に落ちて来たきゃ』

 気がつくと暗闇の中で茶色の毛皮をまとった少年がシェマを見下ろしていた。


「だ……れ?」

 シェマは起き上がった。ティフィンや保知ぽちはいない。ひとりで奈落に落ちたのだ。けれど、ここは地下ではなさそうだ。ぼんやりとだが、自然光が差している。


『って聞かれて言うわけないきゃ』シェマより年下に見える少年は、『ひぃ』と、かすかに引き笑いした。


「わたしはシェマといいます」

 先に名乗ったほうがよいと、シェマは判断した。


『ふんふんふーん』

 少年は鼻にしわを寄せて、あからさまに嫌悪感を見せた。

『ウサギをみくびってるきゃ。だけど、ここではオレがえらいんきゃ』


(なんだかわからないけど、つかまってしまったらしい。そして、ウサギというのが名前か仲間か)


 山賊だろうか。

 少年の衣は、茶色毛皮だ。

 はしばみ色の髪に、はしばみ色の瞳をしている。それと、人の耳より長いふさふさの毛が生えた耳をしていた。

 それから、『くっそ。あっちの男は落ちなかったきゃ』と、くやしそうにつぶやいているのだ。

 ティフィンのことだろうと推察できた。

『だが、おまえがいなきゃ、十三詣じゅうさんまいりは、ここで終わりだ』


「なぜですか」


『おまえは、ここで飢えて死ぬからきゃ!』

 言葉と裏腹に、ふといダイコンをシェマは投げつけられた。


『はぁ。おまえが死ぬのを見届けてやる。その間、おはなしを聞くか聞かないか!おまえに選ばせてやろう』


「聞かな」い。

 シェマが言いかけると、少年の鼻のしわが深くなった。「聞こうかな」言い直した。


『よーし』

 茶色毛皮の少年は話しはじめた。

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